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終わりの日のキリストの代表的な言葉

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X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

神を知ることは、何を意味するであろうか。それは、人間が神のあらゆる感情を知るということであり、それは神の実体を知ることである。あなたがたは、神を見たというが、神のあらゆる感情もご性情も義も知らない。あなたがたは神の慈悲深さも、神が忌み嫌われる物事も、全く知らない。それは神の知識とは言えない。したがって、神に付き従うことが出来る者も居るが、そうした者は必ずしも神を信じているというわけではない。これが相違点である。主を知っていれば、主を理解しており、神の御旨の一部を理解し、把握し、そして神の御心を知っているのであれば、真に神を信じ、神に服従し、神を愛し、神を崇拝することが出来る。

『キリストの言葉の記録』の「受肉に関する知識」より

神を信じることは神を知ることへの第一歩である。この初めの段階からもっとも深い信仰へと前進する過程は、神を知ることであり、神の働きを経験するという過程である。単に神を信じるという目的だけで信仰を持ち、神を知るために信じるのでないのであれば、あなたの信仰には現実性がなく、純粋な信仰とはなり得ない。これは、疑いのないことである。神を経験する過程の中で次第に神を知るようになると、人の性質は次第に変化していき、その信仰が次第に真実のものになっていく。こうして、神への信仰が持てるようになれば、完全に神を得ることになる。神はこのように長い時間をかけて再び肉となり、人が神を知り神を見ることができるように、人への働きを直接行なった。人が神を知ることができるのは、神の働きの最後の段階である。神を知ることは、神から人間への最終的な要求である。これは、神が自身の最終的な証として行なうもので、人が遂に完全に神に心を向けるために成されるものだ。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

キリストと神ご自身を知ることに関する真理は、最も深遠である。しかし、真理のこの側面を追求することに重点を置いた場合、人間は内面的に聡明かつ着実になり、また進むべき道を得るであろう。真理のこうした側面は人間の心と酷似している。ある者に真理のこうした側面が不在の場合、その者は強さが欠如するであろう。ある者が持つ真理のこうした側面の量が多ければ多いほど、その者の強さも増すであろう。

『キリストの言葉の記録』の「受肉に関する知識」より

実践的神を知ることには、神の言葉を知り、経験すること、聖霊の働きの規則と原則を理解すること、そして、神の霊が肉の内でどのように働くかを把握することが含まれる。その中には更に、肉となった神のすべての行為は聖霊によって支配されており、彼が語る言葉は聖霊が直接表現したものであるということを理解することも含まれている。したがって、あなたが実践的神を知りたいと願うならば、人間性においてまた神性において、神がどのように働くかをまず知らなければならない。そのことはすべての人々が関係している霊の表現というものにつながってゆく。

『言葉は肉において現れる』の「実践的な神は神自身であることを知るべきである」より

神は現実の世界で御業を行われ、ご自身の性質と、ご自身が何であるかを示される。神は人がなせない事柄のすべてを行うことがおできになる。これは神の全能性に関わるものである。神がこの御業をご自身でなされることは神の現実的側面であり、これら2つの側面は一体となって作用する。神が話される御言葉には全能的側面が含まれ、神はご自分の権威をお使いになって、成就すると言われることを成就される。その結果は言うまでもない。これらの御言葉を話されるとき、神の全能性が明らかにされるのである。このことを忘れないでいただきたい。神ご自身の本質は全能性と現実性の両方であり、これら2つの側面が互いを補うのである。神のなされる事柄のすべてが神の性質の現れであり、神が何であられるかの啓示である。神が何であられるかには、神の全能性、義、そして威厳が含まれる。例えば、律法の時代、神はヨナにニネベに行くように言われたが、これは神に現実的側面があることを証明している。しかしヨナはこれを聞き入れず、最後に彼が3日間大きな魚の腹の中で生き延びたことは、神の全能性による御業であった。神がヨナになされたことは、神が全能であられることを明らかにしている。初めから終わりにかけての神の御業は、神ご自身の本質の啓示であり、神が何であられるかの現れである。神の本質には2つの側面がある。ひとつは全能的側面、そしてもうひとつは現実的側面である。これら2つの側面は神の御業のあらゆる段階に見られ、神のなされること全てにこれら2つの側面があることがわかるだろう。これは、神を理解するためのひとつの方法である。

『キリストの言葉の記録』の「神の全能的側面と現実的側面をどのように理解するか」より

神を知ることは、神の御言葉を読んで理解することにより行う必要がある。「受肉された神を見たことがないので、どうして神を知ることができようか」と言う者も居る。実際には、神の御言葉は、神のご性情である。神の御言葉から神の人間への愛、神による人間救済、その救済方法などを知ることが出来る。なぜなら、神の御言葉は、神が人間に書かせたのではなく、神により明示されたものだからである。御言葉は神が自ら表されたものである。御言葉を表したのは神ご自身であられ、それは神の内なる声である。御言葉が心からの言葉と呼ばれるのは何故だろうか。なぜなら、御言葉は深遠なところから発せられたものであり、神のご性情、御旨、お考え、そして神の人間に対する愛、人間救済、期待だからである。…神は時折優しく柔和な側面から御言葉を述べられ、人間は神の人間に対する愛を知る。また神は時折厳格な側面から御言葉を述べられ、人間は神の侵害不可能なご性情を知る。人間はひどく汚れているので、神の顔を見るに値せず、したがって神の御前に来るに値しない。現在において、人間が神の御前に来る事は、完全に神の恵みの範囲外にある。神の知恵は神が御業を行われる方法と神の御業の意義から理解できる。人間は、神と接触せずとも、神の御言葉からそうした物事を依然として知ることが出来るであろう。

『キリストの言葉の記録』の「受肉に関する知識」より

神に関する知識のある者は、根拠と構想がある者である。こうした者は神の肉、言葉、そして業に関して確信している。神が業を行う方法や話をする方法、そして他人がどのようにして阻害要因を発生させるかを問わず、その者はその根拠に基づき、神の証しに立つことが出来る。ある者がそのような状態に近ければ近いほど、その者は自分が理解した真理を一層実行出来るようになる。その者は常に神の言葉を実践しているので、神に関する知識を一層多く得て、永遠に神の証しに立つ決意がある。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされることが出来るのは、実践に重点を置く者だけである」より

神の言葉を実行する前に、神の言葉を知らなければならない。つまり神の心を理解しなければならない。理解してはじめて、神の言葉を正確に実行でき、神の心にかなうことができるのだ。真理を求める者全てによって、このことを会得しなければならず、神を知ろうとする者全てによってこうした過程を経なければならない。神の言葉を知る過程は、神を知る過程にほかならず、神の働きを知る過程でもある。だから、ビジョンを知ることは、受肉した神の人性を知るだけではなく、神の言葉と神の働きを知ることでもある。神の言葉から人々は神の心を理解するようになり、神の働きから神の性質を知り、神であるものを知るようになる。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

人々が神の言葉を経験する過程は人々が肉における神の言葉の現れを知る過程と同じである。神の言葉を経験すればするほど、人々はますます神の霊を知るようになる。神の言葉を経験することによって、人々は霊の働きの原則を把握し、実践的神自身を知るようになる。実際、神が人々を完全にし、人々を自分のものにする時、神は人々に実践的な神の業を知らせているのである。神は実践的神の働きを通して人々に受肉の実際の意義を示し、神の霊が実際に人の前に現れたことを示す。

『言葉は肉において現れる』の「実践的な神は神自身であることを知るべきである」より

あなたがたが経験するのは神の言葉であり、自分の周囲の実際の出来事であり、人々であり、問題や物事であるが、最終的にあなたがたは神を知り、神により完全にされることができる。義なる者の道を歩むことや、神の言葉を実践することを望むのであれば、こうした物事が、その踏み台である。神を知り、神により完全にされることが終着点である。現在、あなたがたが求めているのが、神による完全化であるか、神のために証しに立つことであるかを問わず、それは最終的に神を知るため、あなたがたの中で神が行う業が無駄にならないようにするため、あなたがたが最終的に神の現実性、神の偉大さを知るため、そしてそれ以上に、神の慎ましさと隠逸性を知り、神があなたがたに対して行う数多くの業を知るためである。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされることが出来るのは、実践に重点を置く者だけである」より

あなたがたは神の働きを知らなければならない。ペテロは、イエスに従ってはじめて、霊がイエスの中でなされたことを知るようになった。ペテロはこう言っている。「神の全き知識に到達するには、人の経験に頼るだけでは不十分である。神の働きにより多くの新しいものを受け、私たちが神を知るような助けが必要だ。ペテロは初め、イエスが使徒達同様、神から遣わされたと信じており、イエスをキリストとして見てはいなかった。……一定の経験を積んだのちに、ペテロはイエスの中に神の業を見、神の愛すべきことと神であるものを見た。そしてイエスの言葉は人が話すことのできないものだと知り、イエスの働きは人にはできないものだと知った。さらに、イエスの言葉と働きの中に、神の知恵と神性の働きが多く含まれていることもペテロは知った。ペテロはこの自身の経験の中で、自らを知るに至っただけでなく、イエスの行うことを見ることに焦点を当て、新しい事柄を数多く学んだ。つまり、イエスを通して神が行った働きの中に、実際の神が多く表現されており、イエスの言葉や行い、教会の牧養の仕方やその働き方が、普通の人とは異なっているということを学んだ。こうして、ペテロはイエスから学ぶべきことを数多く学び、イエスが十字架に架かる時までに、イエスに関してある程度の知識を得ていた。こうした知識によって、ペテロは生涯イエスに忠実に仕え、イエスのために逆十字の刑を受けたのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

それはつまり、第一に、彼は天と地はみな全能者の手の内にあり、すべてのよいものは神に発し、サタンの手を経ることなく、神から直接来ていると信じたからである。両親の悪い手本のおかげで、ペテロはかえって、わたしの愛と憐れみとをみてとることができ、そうして、わたしを求める欲求がより強く燃え上がることになった。彼はわたしの言葉を飲み食べるだけではなく、わたしの意図するところを把握しようと注意を払った。そして、常に思慮深く、慎重に考えた。だから、彼はいつでも霊が敏感で、その行いのすべてにおいて、わたしの心に適うようにすることができたのだ。ふだんの生活では、失敗の網にかかるようなことを深く恐れ、過去に失敗した人々の教訓を元に、より大きな働きができるよう、自らを励ました。ペテロはまた、遠い昔から神を愛した人々すべての信仰と愛から学んだ。このようにして、ペテロはどのような状況からも学び、急速に成長し、わたしの前で最もよくわたしを知る者となったのだ。

『言葉は肉において現れる』の「六番目の言葉」より

人々は、神を知ることは簡単ではない、と言うことが多々ある。しかし、わたしは、神を知ることが困難なことは全く無い、と述べている。なぜなら、神は人間が業を目にすることを頻繁に許しているからである。現在に至るまで、神が人間との対話を辞めたことは無い。神が人間から隠れ去ったことも無く、自らが隠れたことも無い。神の心、神の言葉、神の業は、全て人間に対して明示されている。したがって、人間が神を知ることを望む限り、様々な方法で人間は神を知ることが出来る。神は人間をことさらに避けている、神は故意に人間から隠れている、神には人間が神を理解することを許可するつもりが全く無い、などと人間が盲目に考える理由は、人間が神の存在を知らず、神を知ることを望まず、そして何よりも人間が創造主の心、言葉、業などに無関心だからである。事実を述べると、もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。……人間に対する神の心からの労りと並々ならぬ思い入れ、真の思いやりと愛は、神がニネベの町を救った時にも少しずつ示されていた。特に、ヤーウェとヨナの会話では、創造主が創造した人類に対する、創造主自身の同情が露見される。これらの言葉からは、人間に対する神の真摯な思い入れを知ることができる。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身2」より

神を知るという訓練の成果は、一日や二日で達成できるものではない。人は経験を重ね、困難に耐え、そして真の服従心を持たなければならない。まず、神の働きと神の言葉から始めることだ。神を知るとはどのようなことを含むのか、神の知識にどのようにして到達できるのか、自分の経験において神をどのように見るかを知らねばならない。神を知ろうとする者は、これらのことが必ず必要になる。神の働きと言葉とをただちに把握できる人はいない。短い期間に完全なる神の知識に到達することは誰にもできない。必要な経験を積み重ねることが求められ、それがなければ誰も、神を知ることも神に心から従うこともできない。神が多くの働きをすればするほど、人は神についてより多くを知ることになる。神の働きが人の考えと異なれば異なるほど、人は神について新しく知り、深く知るようになる。神の働きがいつまでも変わらなければ、人は神について少ししか知ることができないだろう。天地創造の時から今日に至るまで、神が律法の時代に何を行ったのか、恵みの時代に何を行ったのか、神の国の時代に何を行うのかをはっきりと知らなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

神であるすべて、神が持っているすべて、神の本質、神の性質は、全て神の言葉の中で人間に知らしめられている。神の言葉を体験する時、人間が神の言葉を実行する過程において、神が述べている言葉の根底にある目的、神の言葉の根源と背景を理解し、意図されている効果を理解するようになる。こうした事柄は全て人類にとって、真理といのちを得て、神の心を認識し、性質が変えられ、神の支配と定めに従うようになるために、経験し、認識し、把握する必要があるものである。人間がこうしたことを経験し、認識し、把握すると、人間は同時に神を徐々に理解し、その時様々な程度で神に関する認識を獲得するようになる。この理解と認識は人間が想像したり構築したりした物事からではなく、むしろ人間が自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた物事から生まれる。人間がこうした物事を自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた後、初めて人間の神に関する認識が中身のあるものとなる。この時人間が得る認識が初めて現実的なものとなり、本物となり、正確なものとなる。そして神の言葉を体得し、経験し、感じ、確かめることにより神に関する真の理解と認識を得る過程が、まさしく人間と神との真の交わりとなるのである。こうした交わりのなかで、人間は神の心を真に理解し、深く知り、神であるすべてと神の持っているものすべてを理解し、知り、神の本質を真に理解し、知り、神の性質を徐々に理解し、知り、あらゆる創造物に対する神の支配という事実に対する真の確信と正しい定義に達し、神の身分と地位に対する本質的な理解と認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の神に関する考え方が徐々に変化し、何の根拠も無く神のことを想像しなくなり、すなわち神への疑念を勝手に膨らませたり、誤解したり、非難したりしなくなり、あるいは神を評価したり、疑ったりもしなくなる。結果として、人間の神との議論、神との抵触が減り、神に反抗することが減る。それとは逆に、人間が神を思い、神に従うことが大いに増え、神に対する畏敬は、より実際的で深遠なものとなる。こうした交わりのなかで、人間は真理の備えといのちのバプテスマを得るだけでなく、同時に神に関する真の認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の性質が変えられて救いを得るだけでなく、同時に被造物の神を畏敬し礼拝する念が強くなる。

『言葉は肉において現れる』(続編)「序文」より

神の本質を理解することと知る事により、人間の霊的成長にもたらされる助けは計り知れない。あなたがたがそのことを無視したり、余興であると考えたりしないことを願っている。なぜなら、神を知る事は人間の神に対する信仰や、真理と救いを追求することにとって必要不可欠な基礎であり、なくてはならないものだからである。人間が神を信仰しつつ神を知らず、文字や理論だけで生活しているのであれば、たとえ表面的な真理の言葉に従って生きていたとしても、決して救いを得ることは出来ない。つまり、あなたの神の信仰が、神を知る事に基づくものでなければ、その信仰は無意味である、ということである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身5」より

神を真に知り、理解することを望むのであれば、神の業の3段階や神が従前行った業の話だけにとらわれてはならない。そのようにして神を知ろうとした場合、あなたは神を一定の限界に制限していることになる。あなたの考えている神の重要性が低すぎる。そうした結果は、あなたにどのような影響を及ぼすであろうか。あなたは、神の驚異性や崇高性、神の力や全能性、そして神の権威の範囲を決して理解できないであろう。そうした認識は、神は万物の支配者であるという真理をあなたが受け容れる能力や、神の真の身分と地位に関するあなたの認識に影響を及ぼす。すなわち、神に関するあなたの認識の範囲が限られているとすれば、あなたが得られる物も限られている。あなたがその範囲を拡張して視野を広げる必要があるのは、そのためである。神の業、神の管理、神の支配の範囲であるか、神により支配され、管理されている万物であるかを問わず、あなたはそれら全てを知り、そこに含まれる神の業を知る必要がある。そのような理解方法により、あなたは無意識のうちに神が万物を支配し、管理し、万物に供給しているということを感じるであろう。それと同時に、あなたは自分が万物の一部であり、一員であることを実感するであろう。神は万物に供給しているので、あなたも神の支配と供給を受ける。これは事実であり、誰も否定出来ない。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身8」より

…人間の心中では、神はどのようにして万物を創造し、支配しているか、また神は万物をどのように管理し、万物に施しているかを理解できない、ということである。こうした大前提の制限のため、人間は神の万物創造や万物支配、そして神が与え主であることを信じず、信者でさえ、律法時代と恵みの時代、そして神の国の時代に制限され、つまり神の業や、神が人間に施していることは、どういうわけか神の選民に限定されている。…人間は、天地と万物は、それら自体の自然の規則や法則により支配されている、また天地と万物を管理し、施し、守るものは一切存在しないと信じるのみである。あなたが神を信じていたとしても、こうした事柄全てが神の業であると信じない可能性もある。これが神を信じ、神の言葉を受け容れる者と、神に付き従う者全員に見落とされがちな事のひとつである。…神の業を認識することに関しては、わたしたちが天文学や地理学、生物学を議論しなかったとしても、神の万物に対する支配や、神が万物に施していること、神が万物の源であることを知っている。これは重要な作業であり、研究する必要がある。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身7」より

ある者の心の中にある神に関する認識の程度により、神がその者の心をどの程度掴んでいるかが決まる。その者の心の中の神に関する認識の量は、神のその者の心の中における地位の高さである。あなたの知る神が空虚で曖昧な場合、あなたの心の中の神もまた空虚で曖昧である。あなたの知る神が、あなたの範囲に限定されている場合、あなたの神は極めて小さい神であり、その神と真の神との間には何の関連性も繋がりも無い。ゆえに、神の実際の業や神の実際、神の全能性、神自身の真の身分、神が持っているものや神が何であるか、神が万物において示した事柄を知ることは、神の認識を求める者それぞれにとって、極めて重要である。これらの事柄は、人間それぞれのいのち、すなわち真理を追求する実際のいのちと不可分である。神に関する認識を、言葉だけに限定した場合、あるいは自分自身の数少ない経験やあなた自身が数えるだけの神の恵み、神への証しだけに限定した場合、あなたの神は、間違い無く真の神では無いと言える。あなたの神は間違い無く真の神自身ではなく、またあなたがたが信じる神は、神では無いとも言えるであろう。それは、わたしが話をしている神は、万物を支配し、万物と共にあり、万物を管理する神であるからである。その神こそが、人類全体と万物の運命を握っている神である。わたしが話をしている神の業は、ごく一部の人々に限定されていない。つまり、そうした業は、現在神に付き従う者に限定されていない。神の業は、万物に、すなわち万物の生存、万物の変化の律法において表されている。あなたが神の万物における業を認識出来ないのであれば、あなたは神の業の証に立つことは出来ない。あなたが神の証に立つことが出来ない場合、自分が知っている小さな神、自分だけの考えに限定された、自分の狭い心の中に居る神とやらについて語り続ける場合、神があなたの信仰を讃えることは決して無いであろう。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身9」より

神を知ることは、ある物体について知ることではない。神を知ることは何かを分解することでも、人間を理解することでも無い。神を理解する上で、物体や人間を理解する方法を用いた場合、神に関する認識を得ることは不可能である。神を知ることは、経験や想像に依存することではなく、したがって神に関して自分が経験したことや想像したことを適用してはならない。どれほどの経験や想像力があったとしても、それには限界がある。さらに、自分の想像は事実に対応するものではなく、ましてや真理に対応するものでは無く、神の真の性質と本質とは相容れないものである。神の本質を理解する上で、想像に依存した場合、成功することは有り得ない。したがって、唯一の方法は、神から出た物すべてを受け容れ、徐々に経験し、理解に達する方法である。あなたが協力し、真理に対する飢えや渇きがあれば、何時の日か、神を真に理解し、知るよう、神が導き示すであろう。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身2」より

…もしあなたが知識や学習した事柄を用いて神を研究した場合、神を知る事も理解することも決して出来ないのは、このためである。しかし、真理の道を用いてと神を求め、神を知るという観点から神を見た場合、やがて神の業と知恵が随所にあることを認め、また神が万物の主、そして万物の生命の源であると言われるのが何故かを知るであろう。そうした認識を多く得れば得るほど、神が万物の主であると呼ばれる理由を一層深く理解できるであろう。あなた自身を含めた万物は、神から安定した施しを間断なく受け取っている。また、あなたはこの世界で、人類の中において、こうした万物の存在を支配し、管理し、維持する力と真髄を持つことの出来る者は、神を除いて存在しないことを、強く感じることが出来るであろう。あなたがこうした理解に達した時、あなたは、神があなたの神であることを真に認めるであろう。あなたがそうした状態に達した時、あなたは神を真に受け容れ、神をあなたの神であり主である存在とするであろう。あなたがそうした認識を得、あなたのいのちがそのレベルに達した時、神はそれ以降あなたを試したり、あなたを裁いたりせず、またあなたに対して要求しなくなるであろう。なぜなら、あなたは神を理解し、神の心を知り、神をあなたの心の中で真に受け容れたからである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身8」より

やがて、創造主はあなたにとって不可解なものでなく、隠された存在でもないと感じることができ、かつて創造主があなたの前から隠れていたことは一切無く、決してあなたから遠く離れた存在でもないと感じることができ、また、あなたが長い間待ちわびて思いを馳せるだけで決してあなたの感情が届くことはないというような存在ではなく、実際にあなたの左右にあって、あなたを守り、いのちに備えを与え、あなたの運命を決める者であると感じることができるであろう。彼は遠く離れた地平線の彼方に存在するのではなく、また雲の上に隠れている存在でもない。彼は、あなたのすぐ側にあり、あなたのすべてを支配し、あなたにあるすべてであり、あなたにある唯一の存在である。こうした神は、あなたが彼を心から愛すること、すがりつくこと、寄り添うこと、敬うことを許し、彼を失うことを恐れることを許し、あなたが彼を放棄することを望まず、彼に従わないことを望まず、彼を避けること、彼から遠ざかることを望まないようになることを許す。もはやあなたの望みは、彼を思い、彼に従い、彼が与えるすべてに報い、彼の支配に帰服することのみである。そしてあなたは彼に道を示され、授かり、見守られ、顧みられることを拒まなくなり、彼が命じること、定めることを拒まなくなる。あなたは、彼の右か左にすぐそばで歩み、自分にとって唯一のいのち、唯一の主、唯一の神として彼を受け入れることを望むのみである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「序文」より

人は、神を知ることによって、はじめて神を愛することができる。神を愛するためには神を知らなければならない。どのように求めても、何を得ようと求めても、人は神の知識に到達しなければならない。こうして、はじめて人は神の心を満足させることができる。神を知ることによってはじめて本当に神を信じることができる。そして、神を知ることによってのみ、真に神を畏れ神に従うことができる。神を知らない人々は決して真に神に従い、神を畏れることはできない。神を知ることは神の性質を知り、神の心を理解し、神であるものを理解することを含む。とはいえ、神を知るためのどのような側面にしても、人が代価を払わなければならず、従う意思を持たねばならない。そうでなければ誰も最後まで付き従うことはできない。神の働きは、人の観念とはまったく異なったものであり、神の性質も、神であるものを知ることも、人には難し過ぎる。神が言うことも、行う事柄も、人の理解を超えるものである。神に付き従うことを望みながら神に従おうとしない者は、何も得ることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

もしあなた方が本当に最初に神を認識する者達の一人になることができるならば、被造物全ての中で、最も名誉なことではないだろうか。人類のなかで神によってこれ以上に称賛される人がいるだろうか。このような仕事は簡単に達成できるものではないが、それでも最終的には成果を収める。性別や国籍に関わらず、神を認識することのできる人々は皆、最後に神から最高の名誉を受けるだろうし、また神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の仕事であり、未来の仕事でもあるが、要はこれが最終の、また過去6000年の働きの中で達成される最高の仕事ということであり、それによって人間の各区分を明らかにする仕事の一手段である。人に神を認識させるための働きを通して、人の異なるランクが明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格があるが、一方で、神に対する認識を持たない者は神の祝福を受ける資格、神の約束を受け取る資格がないことになる。神を知る者は、神の知己であり、神に対して認識を持たない者は神の知己とは呼ばれない。すなわち、神の知己は、神のあらゆる祝福を受けることができるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。苦難であれ、精錬あるいは裁きであれ、全ては人が最終的に神に対する認識を得られるようにするためであり、人が神に服従するようになるためである。これが最終的に達成される唯一の成果である。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

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