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終わりの日のキリストの代表的な言葉

目次

X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

神を畏れるとは、どのようなことか。またいかにして悪を避けるか。

「神を畏れる」とは、得体の知れない恐れや恐怖でも、回避することでも距離をおくことでもなく、偶像化でも迷信でもない。「神を畏れる」とは、敬慕、尊敬、信頼、理解、思いやり、服従、奉献、愛情であり、無条件かつ不平を言わない礼拝、報い、帰服である。神に関する真の認識なくしては、人類に真の敬慕、真の信頼、真の理解、真の思いやりと服従は存在せず、単に不安や恐れ、疑い、誤解、回避、逃避があるのみである。神に関する真の認識なくしては、人類に真の奉献や報いはあり得ない。神に関する真の認識なくしては、人類に真の礼拝や帰服はあり得ず、盲目的な偶像化と迷信があるのみである。神に関する真の認識なくしては、人類は神の道に従って行動することも、神を畏れることも、悪を避けることもとうてい出来ない。反対に、人間のあらゆる活動や行為は神に対する不従順や反抗、中傷的なそしりや批判、そして真理や神の言葉の真の意味に反する悪行に満ちる。

人類は真に神を信じてはじめて、どのように神に従うか、どう委ねるかが真に理解できる。真に神に信頼し、委ねてはじめて、人類は真の理解と把握を得る。神に関する真の理解は、神に対する真の思いやりが伴う。神に対する真の思いやりがあってはじめて、人類は真に服従の念を持つことができる。神に対する真の服従があってはじめて、人類は真に奉献することができる。神に対する真の奉献があってはじめて、人類は真に無条件で不満の無い報いを行うことができる。真の信頼と依存、真の理解と思いやり、真の服従、真の奉献と報いがあってはじめて、人類は神の性質と本質を真に知り、創造主の身分を知ることができる。創造主を真に知ってはじめて、人類は真の礼拝と帰服に自ら目覚めることができる。創造主に対する真の礼拝と帰服があってはじめて、人類はその悪行を避けること、つまり悪を避けることが本当にできるようになる。

これらのことが「神を畏れ、悪を避ける」ことの全過程であり、またこれらが神を畏れ、悪を避けるということの内容の全体であり、神を畏れ、悪を避けるために避けて通れぬ道である。

『言葉は肉において現れる』(続編)「序文」より

何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する。人間がそうした言葉を守らず、実行せず、人生を神の言葉通りに生きなかった場合、その者は真理を実行していないことになる。そして、人間が真理を実行しなかった場合、人間は神を畏れず、悪を避けておらず、神に満足してもらうことは出来ない。ある者が神に満足してもらえない場合、その者は神の賞賛を得られないので、その者には良い結末が無い。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神の道を歩むことは、表面的な規則に従うことではない。それは、ある物事に直面した時、まず、それを神の采配によるもの、神から与えられた責任、あるいは神から委ねられた物事であることを認識し、また直面したその物事に対し、それを神の試練であるとすら捉える必要がある、ということである。この問題に直面する時、あなたには一定の基準がなくてはならず、それが神から与えられたものであると考える必要がある。自分の責任を果たし、神に忠誠を尽くすために、その問題をどう扱うかを考慮する必要がある。神の怒りを買ったり、神の性質を侵害したりせずにそれを実行する方法を考慮する必要がある。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

「神を畏れ、悪を避け」と神を知ることには、不可分の綿密な関連性があり、またその関連性は自明である。ある者が悪を避けたいならば、その者はまず神を真に畏れなければならない。神を真に畏れることを望む者は、まず神に関する真の認識を得なければならない。神に関する真の認識を得たいのであれば、まず神の言葉を体験し、神の言葉の現実に入り、神の懲らしめと鍛錬、刑罰と裁きを経験しなければならない。神の言葉を経験したいと望むのであれば、まず神の言葉と向き合い、神と向き合い、そして人、出来事、物事が係わるあらゆる環境で神の言葉を体験する機会を神に請い求めなければならない。神や神の言葉と向き合うことを望むのであれば、まず単純かつ誠実な心と、真理を受け入れる心の準備をし、苦しみを耐える意志、悪を避ける決意と勇気、本物の被造物になりたいという志を持つ必要がある…。このようにして、一歩ずつ前進すれば、神にますます近づき、心はますます純粋さを増し、自分の人生や生きる価値が、神に関わる知識とともに一層有意義で晴れやかなものとなってゆく。

『言葉は肉において現れる』(続編)「序文」より

…神の道を歩むためには、自分自身に関する事柄や、自分の周囲で起こる事柄は、小さいことでも、すべてないがしろには出来ない。自分がそれに注意すべきであるかどうかを問わず、問題に直面している限り、それを無視してはならない。そうした事柄は、全て神からの試験であるとみなす必要がある。こうした姿勢は、どのようなものであろうか。あなたが、こうした姿勢をとっている場合、それにより、ある事実が確認される。すなわち、あなたの心が神を畏れていること、そして悪を避けることを望んでいるということである。あなたに、神に満足してほしいという願望があるなら、あなたが実行する事柄は神を畏れ、悪を避ける基準とかけ離れていることは無い。

人間がそれほど気にかけない事柄、通常は話題とならない事柄は、取るに足らない些細な事柄であり、真理を実行することとは無関係であると考える人々が往々にしている。そうした人々がこのような物事に直面した場合、そうした人々は、それほど考慮することなく放置する。しかし、事実としては、こうした事柄は、あなたが学ぶべき教訓、どのように神を畏れ、悪を避けるかに関する教訓である。さらに、それ以上に配慮すべきことは、その問題が発生して自分が直面した時、神は何をしているかを知る事である。神は、あなたのすぐ側で共にいて、あなたの言うことなすことを観察し、あなたの行動を観察し、心の動きを観察している。これが神の業である。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神の道を歩むことが関与する問題は、大小の区別が無い…日常の問題に関しては、人間が重大な問題であると捉える問題と、些細であるとみなす問題がある。人間はこうした大きな問題を極めて重要な問題と考え、それが神により与えられたものと考える。しかし、こうした大問題が発生する過程においては、人間の未熟な背丈が原因となり、また人間の貧弱な力量が原因となって、神の趣意に従うことが出来ず、神の啓示や、価値のある実質的認識が全く得られないことが往々にしてある。些細な問題については、人間に軽視され、放置されて徐々に意識からなくなることが多い。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃している。このような、神があなたのために計画した人々、出来事、物事や状況を常に軽視したとしたら、どのような結果になるであろうか。その結果、あなたは、あなたを全き者とする日々のそして瞬間瞬間の神の業と神の指揮を、常に放棄することとなる。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

あなたは、自分自身の意見をまとめたり結論を出したりする前に、まず神のあなたに対する姿勢と神の考えを理解し、その後に自分自身の考えが正しいかを判断するする必要がある。…要するに、それが神自身の考え方による基準でない限り、それは人間の想像に由来し、またそれは全て人間の考えである。自分自身の考えや想像に、盲目的に固執すると、最終的にどのような結果となるであろうか。自明であるが、その結果は、あなたが神に拒まれること以外に有り得ない。その理由は、あなたが常に自分の能力を神に誇示し、神と競い、神と争うばかりで、神の考え方を真に理解しようとせず、神の趣意や人間に対する姿勢を真に理解しようとしないからである。このような事を続けるということは、神を尊重せず、自分を何よりも尊重するということである。あなたは自分自身を信じ、神を信じていない。神は、そうした人間を望まず、神がそのような人間を救うことも無い。もしあなたがこうした観点を捨てることができ、そうした過去の誤った観点を改めることができたならば、そして神の要求に従って行動できたならば、神を畏れ、悪を避ける道の実行を開始し、神をあらゆる物事の中で最も大いなるものとして崇め、自分自身や神を定義する際に、自分の個人的想像や観点、考えを用いないこと。その代わりに、あらゆる面において神の趣意を探求し、神の人間に対する姿勢を認識し、また理解し、神の基準を用いて神に満足してもらえるならば、それは素晴らしいことである。それは、あなたが神を畏れ悪を避ける道を歩み出したことを意味する。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

あなた方全員が自分の行動に注意し、用心することを勧める。自分の言葉に注意し、用心すること。あなた方が神をどのように取り扱うかについて、注意し、用心すればするほど良い。神の姿勢が分からない場合、不注意に発言したり、行動したり、レッテルを貼ったりしないこと。更に、みだりに結論を出さず、待つことと求めることが必要である。それもまた、神を畏れ、悪を避けることの現れである。あなたが、まずその点を実現し、そうした姿勢を取ることが出来れば、神はあなたの愚かさや無知さ、不合理さを咎めることは無いであろう。むしろ、神の怒りを買う事に対するあなたの畏れ、神の趣意に対するあなたの敬い、喜んで神に服従しようとするあなたの気持ちのおかげで、神はあなたに留意し、あなたを導き示し、あるいはあなたの未熟さと無知さに寛容になるであろう。それに対し、あなた方の神に対する姿勢が不適切である場合、すなわち勝手に神を裁いたり、神の意味を推測したり定義したりした場合、神はあなた方に有罪判決を下し、鍛錬、そして懲罰さえも与え、あるいは声明を与えるであろう。おそらく、この咎めには、あなたの結末が含まれているであろう。したがって、ここにいるあなた方全員に対して、この点をもう一度強調するが、神に由来する物事全てについて、注意し、用心するよう伝える。不注意な行動や言動は避けること。あなたは、発言する前に、この行動は神の怒りを買うであろうか、これは、神を畏れているであろうか、と考える必要がある。たとえ単純な事柄であっても、こうした疑問を検討し、考慮する必要がある。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

常に神は神を真に信じる者の心にあられ、そうした者の内部には、常に神を崇め愛する心がある。神を信じる者は、注意深く慎重な心持ちで行動し、自分の行動全てが神の必要条件に従い、神の御心を満たすことが出来るものである必要がある。そうした者は、強情であってはならず、自分が満足するままに行動してはならない。そうした事柄は聖なる礼節に不適である。人間は神の旗印を誇示し、随所で見境を失ったり、威勢を張ったり、詐欺を働いたりしてはならない。そうした行いは最も反逆的な行為である。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

まず、神の性質が威厳であり怒りであることは、わたし達全員が知っている。神は誰かに殺される羊ではなく、ましてや人間の思い通りになる操り人形などではない。神は人間の言いなりになる空気のような存在でもない。あなたが神の存在を本当に信じているならば、神を畏れる心を持ち、神の本質を怒らせてはならないことを知る必要がある。この怒りを引き起こすものは、言葉かもしれないし、考えやあるいは下劣な行動かもしれない。あるいは穏やかな行動、人間の目と倫理から見て容認できる行動、教義、理論などに起因する場合がある。しかし、あなたがひとたび神の怒りに触れると、あなたの機会は失われ、あなたは終わりの時を迎える。それは極めて悲惨なことである。神に反することが許されないということを理解していなければ、あなた方は神を畏れず、常に神に反している可能性がある。どのようにして神を畏れるかを知らなければ、神を畏れることは出来ず、どのように神の道を歩み、神を畏れ、悪を避ければよいか分からない。それを知った後は、神に反してはならないことを意識し、神を畏れ、悪を避けるとは何かを知ることが出来るであろう。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

あなたは、このことについて明確に理解し、また神の本質は変化し得ず、神の性質は様々な時期に様々な状況で表出することを理解すべきである。あなたはこれが深刻な問題であると考えず、自分自身の考え方を用いて、神がどのように業を行うべきかを想像するかも知れない。しかし、あなたの観点とは全く正反対の物事が真実である場合もあり、自分自身の考え方で神を試みて神を測ることにより、あなたは既に神の怒りを買っている。これは、神はあなたが考えるように物事を対処するのではなく、またこの問題に対する神の対処方法も、あなたが言うような方法では無いからである。ゆえに、身の回りの物事全てに対し、注意深く慎重に接し、全てのことにおいて、神を畏れ、悪を避けるという原則に従って神の道を歩むことを学ぶよう、あなたに伝えておく。あなたは、神の心と神の姿勢に関する諸問題を確実に理解する必要があるので、あなたに伝えることのできる目が開かれた人々を見つけて熱心に求めるように。自分が信じる神を、操り人形のようなものと捉えたり、任意に判断して勝手に結論を出したり、神に相応しい敬いの念をもって神を扱わないようなことの無いように。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神は、生きている神であり、人間が様々な状況に対して様々な方法で対応するように、そうした行動に対する神の姿勢も異なる。なぜなら、神は操り人形でも、空気のような存在でもないからである。神の姿勢について知ることは、人間にとって追究の意義があることである。人間は、神の姿勢を知ることにより、神の性質を知り、神の心を少しずつ理解できることを知る必要がある。神の心を少しずつ理解する時、神を畏れ、悪を避けることは、実行するのが困難だとは感じなくなるであろう。さらに、あなたが神を理解した時、神に関して結論を出すことは、それにも増して困難である。神に関する結論を出すことを止めた時、あなたが神を侵害する可能性が低下し、無意識のうちに神はあなたを導いて神に関する認識を与え、よってあなたは、心から神を畏れるようになるであろう。あなたは、自分が習得した教義や文書、理論などで神を定義するのを止めるであろう。そのかわりに、万事において神の趣意を常に求めることにより、あなたは無意識のうちに神の心を求める人間となる。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

明らかにヨブはその生活に自制心を持っており、貪欲でも快楽主義でもなく、神からの祝福による高い生活水準に固執することもなかった。むしろ、彼は神の前に謙虚で慎み深く、そして注意深く慎重であった。しばしば神の恵みと祝福に思いをめぐらせ、常に神を畏れた。ヨブは度々朝早く起きて、息子娘達のために全焼のいけにえを捧げた。言い換えれば、ヨブは自ら神を畏れただけでなく、子ども達も同様に神を畏れ、罪を犯さないことを願っていた。物質的な豊かさがヨブの心の一部分でも占めることはなく、物質的な豊かさがヨブの心にある神に取って代わることもなかった。自分自身のためであれ子ども達のためであれ、ヨブの習慣は全て神を畏れることに直結していた。ヨブの神への畏れは言葉によるものだけではなく、行動で現され、彼の日常生活のあらゆる場面に反映されていた。このようなヨブの振る舞いから、ヨブが正直で、その本質は義を愛し、善を愛するものであったことが分かる。ヨブはしばしば息子娘達を送って清めたということは、彼が自分の息子娘達の振る舞いを認めておらず、良しとしてはいなかったということである。むしろ、その心は子ども達の行いにうんざりしており、非難していた。ヨブは自分の子ども達の行いがヤーウェ神に喜ばれていないと結論付けた。それ故、彼は頻繁に彼らを呼び、ヤーウェ神の前に出て罪を告白させたのである。ヨブの行動から彼の人間性の別の面が見える。それは、ヨブは罪を犯す者達と決して歩まず、彼らから遠ざかり、避けたということである。たとえそれが自分の息子娘達であれ、ヨブは彼らのために自分の生き方の原則を曲げることはなく、感情に流されて罪を見逃したりはしなかった。むしろ子ども達に、快楽に対する貪欲さ故に神を捨ててはならないと警告した。ヨブの周囲の人々に対する接し方の原則は、神を畏れ悪を避けるという原則と切り離すことはできない。ヨブは神に受け入れられる物事を愛し、神が拒絶する物事を憎んだ。神を畏れる心を持つ人々を愛し、神に対して悪を行なったり罪を犯したりする人々を憎んだ。ヨブの日々の生活がその愛と憎しみを語っており、正にその愛と憎しみが、神の目に映ったヨブの正しさそのものであった。当然これが、周囲の人々との関わりの中におけるヨブの真の人間性の現れであり生き様であり、わたしたちは是非これについて学ぶべきである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

ヨブはその正直さ故に、全てのものはヤーウェによって支配されていることを信じることができた。ヨブはその信仰により、ヤーウェ神が全てを支配していることを信じることができた。ヨブはその知識故に、ヤーウェ神の主権と采配に喜んで従うことができた。ヨブはその従順さ故に、益々心からヤーウェ神を畏れるようになり、その畏れが益々悪を避けるようにさせ、結果としてヨブは全き人となった。ヨブの完全さが彼を賢くし、素晴らしい理性の持ち主にさせた。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

聖書を読めば、どうしてヨブに試練が降りかかったかが理解できるが、試みに会っているヨブ自身は、はたして何が起こっていたか理解していただろうか。人間に過ぎないヨブが、自分に降りかかった試練の背景にあるものを知るはずもない。しかし、神を畏れ、完全で正しいヨブには、神からの試練だと認識することができた。霊的領域で起きていたことや、試みの背後にある神の意図はヨブには分からなかったが、何が起ころうとも、完全で正しくあり続け、神を畏れ悪を避けて生きるべきだということをヨブは知っていた。このような出来事の中でのヨブの態度と反応を、神ははっきりと見ていた。神は何を見ていたのだろうか。神は、神を畏れるヨブの心を見ていた。というのは、ヨブの心は初めの時から試練を受けた時までずっと、神に対して開かれており、神に委ねられており、自身の完全さと正しさを手放すことはなく、神を畏れ悪を避ける生き方を変えなかった。神にとってこれ以上嬉しいことはなかったのである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

聖書は次のように言っている。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。ヨブが自分の子ども達と全財産を失ったと知った時にまず見せた態度はこのようなものであった。まず驚くこともうろたえることもなく、ましてや怒りや憎しみを現すことなどなかった。つまり、ヨブは自分に起こった試練が偶然でもなく、人間によるものでもなく、ましてや報いや罰などではないと初めから分かっていたのである。むしろ、試練はヤーウェからのものであり、ヤーウェが自分の財産と子ども達を取り上げることを望んだのだと知っていたのである。ヨブの心はいたって穏やかで、思考もはっきりしていた。ヨブの完全で正しい人間性ゆえに、降りかかった試練を理性的に、自然に判断し決断することができ、並外れた冷静さで対応することができたのである。「起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。「上着を裂き」というのはヨブが衣服を身につけておらず、何も持っていなかったことを意味する。「頭をそり」というのは、生まれたばかりの赤児として神のもとへ戻ったことを意味する。「地に伏して拝した」というのは、ヨブがこの世に裸でうまれ、今日も何も持たず、赤児のままで神のもとに戻ったことを意味する。降りかかった全ての出来事をヨブのように受け止めることができる被造物は存在しない。ヨブのヤーウェに対する信仰は、単に信じるという領域を越えていた。それは神への畏れであり、従順である。ヨブは神が与えることに感謝したのみならず、取られることにも感謝したのである。さらにヨブは、自分の命も含めて、全財産を自らすすんで神に返すことができたのである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

ヨブの神への畏れと従順は人類の模範となるものであり、彼の完全さ正しさは人間が持つべき人間性の頂点である。彼は神を見ることはなかったが、神は存在すると認識しており、ゆえに神を畏れた。そして神への畏れのゆえに、彼は神に従うことができた。彼は神が自分の持てるものを自由に取り上げることを許し、そしてそのことを不満に思うこともなく、神の前にひれ伏し、たとえその瞬間に神が自分の肉体を取り上げることがあろうとも、不満など言わずに喜んで受け入れると言ったのである。彼の行動全てが彼の完全で正しい人間性によるものだった。つまり、彼の純粋さ、正直さ、優しさの結果、神の存在に対する経験と確信は揺らぐことがなかったのである。そしてこのようなものが基礎となって、自分にすべきことを課し、神に与えられた指針と彼が全ての事柄において目にしてきた神の行いに沿った考え方や振る舞い、行動を標準化し、神の前での行動の原則を標準化したのである。時間とともに、ヨブの経験は、神に対する現実的で実質的な畏れをヨブの中に生じさせ、悪を避けるようにさせた。このことに固守したことが、ヨブの誠実の根源であった。ヨブは正直で、汚れのない、優しい人間性を持っており、実際に神を畏れるという経験をしており、神に従っており、悪をさけ、それと同時に“主は与え、主は取りたもう”という認識を持っていた。これらの理由だけで、サタンのあれだけひどい攻撃を受けながらも固く立ち、神の証人となることができた。またこれらの理由だけで、神の試練を受けた時にも神を失望させず、神に満足する答えを返すことができたのである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

ヨブがサタンに打ち勝ったことを証明する典型的な言葉が書かれている。ヨブは言った。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。」これがヨブの神に対する従順であった。そしてヨブはまた言った。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」ヨブのこれらの言葉は、神は人の心の奥深くを見ていること、人の考えを見ていることを証明するもので、ヨブに対する神の評価に誤りはなく、確かにヨブは正しいひとであったことを証明する。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。これらの言葉はヨブの神への証である。サタンを脅かしたのはヨブが普通に使っていたこのような言葉で、それがサタンを辱め、慌てて退散させることになった。さらにはサタンに足かせをつけ、骨抜きにした。それだけでなく、ヨブの言葉はヤーウェ神の偉大さと業の力を実感させ、その心が神に支配されている者がどれほど並外れた能力を持つことができるかをサタンに思い知らせた。そして更には、ヨブという取るに足りない普通の人間が、神を畏れ悪を避けることに対する驚くべき力をサタンに対して見せつけたのである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

それまでの数十年間の人生において、ヨブは神の業を目の当たりにし、ヤーウェからの祝福を受けてきた。神に対して特に何もしていないと感じていたヨブは、自分に与えられている祝福は身に余るものと恐縮していたが、それでも膨大な祝福と恵みを享受していた。そのためヨブは、しばしば祈り、神にお返しできることを願っていた。神のなされた業と偉大さを証しし、自分の従順さが試され、更には自分の信仰が純化されて自分の従順さと信仰が神に認められることを願っていた。試練がヨブに臨んだとき、ヨブは神に祈りが聞かれたと思った。長年の願いが叶うことを知ったヨブは何よりこの機会を喜び、決して軽んじることはなかった。この機会は神に対する自身の従順と畏れを試すものであり、純化される機会であったからだ。それだけでなく、神に認められ、近付く機会となるであろうからだった。そのようなヨブの信仰と求める思いにより、ヨブは試練を通して更に完全なものとなり、神の心に対する理解を大いに深めた。ヨブはますます神の祝福と恵みを感謝し、神の業を益々讃え、以前にも増して神を畏れ、崇め、神の愛と偉大さ、聖さを求めた。この時すでに神の目にはヨブが神を畏れ悪を避ける者として見られていたが、試練という経験を通してヨブの信仰と知識は急速に成長した。信仰が増し、その従順さは揺るがぬものとなり、神への畏れが深まった。ヨブの試練はヨブを霊的に成長させ、いのちの成長があったが、ヨブはそれだけで満足して前進するのをやめるようなことはなかった。試練を通して得たものは何かを考え、自身の弱さを考えながらヨブは静かにいのり、次の試練を待った。自らの信仰、従順、神への畏れが続く試練によってさらに成長することを願っていたからである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

ヨブの妻はヨブに対して、神を呪って死ぬようにと言ったが…妻の忠告を聞いたヨブは、神に対する忠誠心を失わず、神を捨てなかっただけでなく、妻にこう言った。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。…これにより、ヨブの完全さ、正しさ、神を畏れ悪を避けることが証明された。ヨブが尊いのは、彼が誘惑に遭い、皮膚が腫物に覆われ、極度の苦しみの下で、妻や身内に叱責されても、ヨブがこのような言葉を発することができたところだ。言い換えれば、ヨブは自身に降りかかる誘惑がどれほど大きくても、どれほどの苦痛や困難の中にあっても、たとえ死に直面しても、神への信仰を捨てることはなく、神を畏れ悪を避ける生き方をやめることはないのである。そうであるならば、ヨブの心の中の最も大切な位置を占めていたのは神であり、ヨブの心の中にあったのは神のみであったということである。そのような理由で、聖句には次のようなヨブに関する言葉が書かれている。「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。ヨブはその唇で罪を犯すことはなかっただけでなく、神に対して心の中で不平を言うこともなかった。ヨブは神に対して酷い言葉を発することもなく、神に対して罪を犯すこともなかった。ヨブはその唇によって神の名前を褒めたたえただけでなく、その心の中でも神を褒めたたえた。ヨブの言葉と心の中は一致していた。これが神の見た真のヨブであり、神がヨブを大切に思ったのはこのためである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

サタンがヨブの骨を痛めつけようとその手を伸ばした時、ヨブは逃げる手段も拒む力もないまま、サタンの手中に落ちた。ヨブの身体と魂は激痛に襲われ、それによりヨブは肉に生きることの無意味さ、もろさ、無力さに気づいた。同時に、神がなぜ人間を憐れみ、見守るのかに関する深い理解を得た。サタンの手中に落ちたヨブは、肉と血による人間が実に無力で弱いことを知った。サタンの手の中で、ヨブは肉と血による人間が、実に無力で弱いことを悟った。ヨブが跪いて祈ると、あたかも神がその顔も姿も隠してしまったかのように感じられた。神がヨブを完全にサタンの手中へ預けてしまったからである。同時に神もヨブのために涙を流し、苦しんだ。ヨブの痛みで神も痛みを感じ、ヨブが傷ついたことで神も傷ついた。ヨブは神の痛みを感じ、神にはそれが耐え難い痛みであったこともヨブは感じた。それ以上神を悲しませることをヨブは望んでいなかった。それ以上神が涙を流すことも、ましてや自分のために痛みを感じることも、ヨブは望まなかった。この時、ヨブは自分の肉を取り除きたいとひたすら思った。そうすれば肉の傷みから解放され、自分の痛み故に神にそれ以上痛みを加えずにすむからだ。だがそうすることが叶わないヨブは、肉の痛みに耐えなくてはならないばかりか、神に心配をかけたくないという辛い思いにも耐えなくてはならなかった。このふたつの痛み、つまり肉の傷みと霊の痛みは、ヨブに胸が張り裂けるような、はらわたがちぎれるような痛みをもたらし、肉と血による人間の限界がもたらす失望感と無力さを痛感させた。そのような状況の中で、ヨブの神を求める思いは更に強くなり、サタンに対する嫌悪感はさらに増した。ヨブはこの時、人間の世界に生まれて来なければよかったと思った。神が涙を流し、自分のために神が痛みを感じなければならないくらいならば、自分が存在しない方が良いと思った。ヨブは自分の肉を深く忌み嫌い、自分自身がつくづく嫌になった。自分の生まれた日、自分に関係のあるもの全てを忌み嫌った。自分の生まれた日やそれに関連するものを全て忘れたいと思い、それだからヨブは、口を開いて自分の生まれた日を呪ったのだ。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。」(ヨブ記3:3-4)。ヨブの言葉には「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」という自分への憎しみと、「その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。」という自分に対する叱責と神に痛みをもたらしたことに対する自責の念が込められている。このふたつの聖句は当時のヨブの感情を表しており、彼の完全さと義を全ての人に示すものである。それと同時に、ヨブが望んだ通り、彼の信仰と神への従順、そして神に対する畏れは、間違いなく高まったのである。これは勿論、神が予想した通りの効果であった。

最初に試練にあったヨブは彼の財産と子ども達を失ったが、ヨブはそれによって躓くことも神に対して言葉で罪を犯すこともなかった。ヨブはサタンの誘惑に勝利し、物質的財産と子孫に勝利し、世的な財産を失うという試練に勝利した。それはつまり、ヨブは神が彼から取ることに従い、そのことに感謝し、神を讃美することができたということである。それがサタンの最初の誘惑に対するヨブの振る舞いであり、それはまた、神の最初の試練におけるヨブの証しでもある。2度目の試練では、サタンはその手を伸ばしてヨブを苦しめた。ヨブは経験したことのない痛みに苦しむが、それでもヨブの証しは人々を驚かせるほどのものだった。ヨブはその不屈の精神、強い信念、神への従順、そして神への畏れにより、再びサタンに勝利した。ヨブの態度と明かしはまたしても神に認められ、喜ばれた。この試練の間、ヨブはサタンに対し、肉の痛みが神への信仰と従順を揺るがすことはなく、神に対する献身と畏れを奪うことはできないということをその態度により表明している。彼は死に直面したからといって、神を放棄したり、自身の完全さと正しさを捨てたりはしない。ヨブの決意はサタンを弱腰にし、ヨブの信仰はサタンを怯えさせ震えさせた。サタンとの生死をかけた戦いにより、サタンの中の強い憎しみと恨みが膨らみ、ヨブの完全さと義の前にサタンは為す術もなく、ヨブへの攻撃を止め、ヤーウェ神の前でヨブを告発することを諦めたのである。 これが意味するところは、ヨブが世に打ち勝ち、肉に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、そして死に勝ったということである。ヨブは正に、完全に神に属する人であった。この2度の試みの間、ヨブは自らの証に固く立ち、その完全さと正しさを生き通し、神を畏れ悪を避けるという生きる上での原則の適用範囲を広げた。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

ヨブの肉の痛みが頂点に達した時、ヤーウェ神のヨブに対する労りを感じたヨブは、自分の生まれた日を呪うしかなかった。ヨブのこのような振る舞いは長期計画によるものではなく、神への配慮と愛の自然な表現であり、神への配慮と愛によるものである。この時ヨブの長年の神への愛と神を切望する思い、そして献身の思いは、配慮と愛というレベルへ引き上げられたのである。同時に、ヨブの信仰と従順、そして神への畏れも、配慮と愛というレベルへ引き上げられた。ヨブは神にとって痛みの原因になり得ることは一切せず、神を傷つけることは一切せず、神にとって悲しみ、嘆き、さらには不幸の原因とはなるまいとした。神の目には以前と同じヨブであったが、ヨブの信仰、従順、神への畏れは神にとって満足するもので、喜びとなった。この時、神がヨブに対して期待した完全性をヨブは獲得し、神の目から見て、「完全であり義である」と呼ばれるに相応しい者となった。ヨブの義なる行いによりサタンに勝利し、神の証しに堅く立つものとなった。そうしてヨブの義の行いは彼を完全にし、完璧にし、いのちの価値を引き上げさせ、これまでにはなかった高みに登らせ、二度とサタンが最初の攻撃対象にすることはなくなった。ヨブはその義の故にサタンに責められ、誘惑された。義の故に、サタンに渡された。そして義の故に、サタンに勝利し、サタンを打ち倒し、堅く証しに立った。そのようにして、ヨブは二度とサタンの手に渡されることのない最初の人となり、神の座の前に出た。そして神の祝福の中で、サタンの監視も破滅もなく、真に神に見守られて生きるものとなった―自由になったのだ。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

ヨブの証しは後の世代への警告である。つまり、後の世代がもし、サタンを打ち負かすことができなければ、サタンの叱責と妨害から逃れることはできず、サタンの虐待と攻撃から抜け出すこともできないという警告である。ヨブの証しは後の世代に啓きを与えた。それにより、人々は、完全で正しくさえあれば、神を畏れ悪を避けることができることを教えている。つまり、神を畏れ悪を避けるならば、力強く生き生きとした神への証しを持つことができる。そして力強く生き生きとした神への証しを持つことができれば、サタンに支配されることはなく、神の導きと守りの中に生きることができる、そうして初めて真に救われるのだということを教えているのである。救いを求める者はだれでも、ヨブの人格とヨブの人生における追い求め方を見習うべきである。ヨブがその人生全てをどう生きたか、試練の中でどう振る舞ったか、神を畏れ悪を避ける道を追求する者たち全てにとって、それは大切な宝である。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

ヨブの心は純粋で神から隠れておらず、正直で優しい人格の持ち主であり、義と正しいものを愛した。そのような心と人格を持ち合わせた者だけが神の道に従うことができ、神を畏れ悪を避けることができる。そのような者が神の主権を知ることができ、神の権力と力を知ることができ、神の主権と采配に従うことができるようになる。そのような者だけが真に神の名を褒めたたえることができる。それはその者が、神が祝福を与えるか災いをもたらすかを見ておらず、すべては神に支配されていることを知っており、人間が思い煩うのは人の愚かさ、無知、理不尽さ、そして神がすべてのことにおいて主権を握っていることへの疑いと神への畏れのなさが原因であることを知っていたからである。ヨブの知識は正に神が求めていたものであった。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

ヨブは神の顔を見たこともなければ神の声を聞いたこともなく、ましてや神の業を直接経験したこともなかった。それでもヨブの神に対して抱く畏れと、試練の中でも証しとなったことは人々が認めており、神に愛され、喜ばれ、称えられた。人々はヨブをうらやみ、高く評価し、さらに讃美を捧げた。ヨブの人生自体が偉大であったわけでも非凡であったわけでもない。他の人達と変わらない、普通の生活であった。日が昇れば仕事に出かけ、日が落ちると帰宅して休息した。他の人たちと違っていたのは、その数十年間に、ヨブが神の道を見分けることができるようになり、神の偉大な力と主権を知るようになり、それが他の人が誰も成し得ないほどであったということである。他の人たちよりヨブが賢かった訳でもなく、ヨブの生き方が執着心の強いものであったわけでもない。ましてや彼に何か隠れた能力があったなどということはない。だがヨブには正直で、心優しく、正しく、公正と義を愛し、善きものを愛するという性格があった。これらはいずれも普通の人間にはないものである。ヨブは愛と憎しみを区別し、義を見分けることができた。自分の信じるものを譲ることも変わることもなかった。自らの考えに喜びを感じていたため、地上での普通の生活を送る中で神の驚くべき業を見ることができ、神の偉大さ、聖さ、義を見ることができ、人間に対する神の労り、恵み深さ、守りを知り、至高の神が褒めたたえられるべきであり、主権を握っていることを知ることができた。他の誰も獲得できなかったこれらのことをヨブが獲得することができた第一の理由は、ヨブが純粋な心の持ち主であり、ヨブの心は神に属しており、創造主により導かれていたからである。第二の理由はヨブが追求したものである。ヨブは全き者となること、天の心と一致することを求め、神に愛されて悪を避けることを追い求めた。神を見ることも神の言葉を聞くこともできなかったヨブがこれらのものを獲得し、追い求めたのである。神を見たことはなかったが、神がどのように全てを支配するかをヨブは理解し、また、神が全てを支配するその知恵を理解するようになったのである。ヨブは神の語る言葉を聞いたことはなかったが、人に報いることも取り上げることも神によるものであると知っていた。ヨブの人生は普通の人のそれと何ら変わらなかったが、それだからと言って全てのものにおける神の主権に関する知識を妥協せず、神を畏れ悪を避ける道への服従を妥協することはなかった。ヨブの目には、全てのものにおける法則は神の業で満ちており、神の主権は人生のいたるところで確認できるものであった。ヨブは神を見たことがなかったが、神の業をいたるところで認識することができ、彼の地上の生活のあらゆるところで、神の驚くべき不思議な業を見ることができ、神の不思議な計画を知ることができた。神が隠されていたことと無言であったことはヨブが神を認識する上で障害とはならず、全てのものにおける神の主権を知る障害にもならなかった。ヨブの人生は、あらゆるものの中にあって隠されている神の主権と采配を認識する日々であった。それだけでなく、ヨブは日々の生活の中で、あらゆるものの中で無言である神が、全てのものに対する法則を支配する中で現した心の声と言葉を聞き、理解した。人々がヨブと同じ人間性と追求する姿勢を持っていたならば、彼らもヨブと同じ認識と知識を得ることができ、全てのものにおける神の主権に対する理解と知識をヨブ同様に獲得することができるであろうことがこれで理解できる。神はヨブに現れても語ってもいないが、ヨブは全き者となることができ、正しいものとなることができ、神を畏れ悪を避けることができた。つまり、神が現れることも直接語ることもなくても、全てのものにおける神の業と全てのものに対する神の主権により、人間は神の存在、力、そして権力を認識することができ、神の力と権力は人間に神を畏れさせ悪を避けさせるのに十分だということである。ヨブのような普通の人間が、神を畏れ悪を避けることができるのであれば、神に従う普通の人であればだれでも同じことが可能なはずである。これは論理的推論に聞こえるかもしれないが、物事の法則と矛盾しない。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

ヨブは価値ある人生を送っただろうか。ヨブの人生のどこに価値があっただろうか。…人間的な観点から言うと、ヨブは神が救いたいと願う人間を現していた。サタンと世の人々の前で、神への証しに堅く立っていたからである。ヨブは神に造られたものとしての本分を尽くし、神が救いたいと願う全ての人々の模範となり、型となり、そうすることで、神に信頼していればサタンに勝利することが間違いなく可能であることを示したのである。では神にとってのヨブの価値は何だったのか。神にとってのヨブの人生の価値は、ヨブが神を畏れることができ、崇拝することができ、神の業を証しし、神のする事を讃え、神に慰めと喜びを与えることができたことにあった。そしてまた、ヨブは死を迎える前に試練を経験してサタンに勝利し、サタンと世界の人々の前で神への証しに堅く立ち、人々の中にあって神を褒めたたえ、神の心に慰めをもたらし、神が望む結果を見ることができようにし、希望を持つことができるようにしたことが、神にとってのヨブの人生の価値であった。ヨブの証しは、人が神の証しに堅く立つことができることの前例となり、神によって、神が人間を管理する働きのなかで、サタンを辱めることができることの前例となった。これがヨブの人生の価値ではないだろうか。ヨブは神の心に慰めをもたらし、それによって神は栄光を受ける喜びを味わうことができ、神の経営(救いの)計画にとって素晴らしいスタートとなった。この時以来、ヨブという名前は神を褒めたたえる象徴となり、サタンに対して勝利する人間の象徴となった。ヨブが生涯貫いたものとサタンに対する勝利は神に永遠に尊ばれ、ヨブの完全さと正しさ、神に対する畏れは後の時代に尊ばれ、模範となるだろう。傷のない、輝く真珠のようにヨブは神に尊ばれるだろう。そして人間にとっても、ヨブは尊ばれる価値ある人間なのである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より