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X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

神への従属と神の働きへの従順さは、一つであり同じものだ。神にのみ従属し、神の働きに対してそうしないのなら、従順であるとはいえない、また、真に従順でなく、外見的にこびへつらうのももちろん同様である。神に真に従うものは、神の働きから何かを得ることができ、神の性質と働きの理解を達成することができる。そのような人だけが、真に神に従順である。そのような人は、新しい働きから新しい認識を獲得でき、その同じ新しい働きから新しい変化を経験できる。そのような人だけが、神の承認が得られる。このような人だけが、完全にされた人であり、彼の性質の根本的な変革を経験してきた。

『言葉は肉において現れる』の「真に従順な者は必ず神のものとされる」より

もし人が宗教的な観念を手放すことができれば、その人は自分の考えを使って今日の神の言葉や働きを測ったりせず、直接従うだろう。今日の神の働きが過去のものと明らかに違っていても、あなたは過去の目から離れて今日の神の働きに直接従うことができる。神が過去にどのように働いたかということに関係なく、今日の神の働きに最も重きをおくべきだということを知っていれば、あなたは自分の観念を捨て、神に従い、そして神の働きと言葉に従い神の足跡についていくことのできる人である。これにより、あなたは真に神に従う人になれるのである。あなたは神の働きを分析したり、調査したりしない。それはあたかも、神が過去に行った働きを忘れ、同様にあなたも忘れたかのようである。今日は今日であり、過去は過去であり、神自身が過去に行ったことを忘れるのであるから、あなたがそれに浸っていてはならない。そうしてはじめて、あなたは神に完全に従う人になり、完全に宗教的な観念を手放したと言える。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる」より

神が肉にある期間において、神が人間に対して要求する従順さは、批判したり拒否したりしないなど、人間が想像するようなものではない。むしろ、人間が神の言葉を自らの人生の原則とし、生存の基礎とすること、神の言葉の本質を絶対的に実践し、絶対的に神の旨を満たすことを、神は要求している。人間に対して受肉した神への服従を要求することの一側面は神の言葉を実践することであり、もう一つの側面は神の平常性と実際性に従うことが出来ることである。これらは両方とも絶対的である必要がある。これらの側面を両方とも実現出来る者は皆、神への真の愛が心にある者である。そうした者は皆、神により得られた者であり、自分のいのちを愛するように神を愛する。

『言葉は肉において現れる』の「神の実際性に対して絶対的に服従できる者は、真に神を愛する者である」より

もしあなたが神の新しい光を受け入れることができず、今日神が行うすべてのことを理解できず、それを求めず、さもなければそれを疑ったり、批判したり、あるいはそれを研究したり分析したりするなら、あなたには神に従うこころはない。今ここに神の光が現れる時、もしあなたがまだ昨日の光の方が大切だと思い、神の新しい働きに反するなら、あなたはただの物笑いの種にすぎず、あなたは故意に神に反対する者たちの一人である。神に従う秘訣は新しい光を正しく認識し、光を受け入れて、それを実践できることである。このことだけが本当の従順である。

『言葉は肉において現れる』の「神を信じているなら神に従うべきだ」より

もしあなたが簡単な働きや言葉のみに従い、より深い言葉や働きの何も受け入れることができないなら、あなたは、古い方法から離れず、聖霊の働きにはついていけない人である。神が為す働きは、時代によって違っている。もしあなたが、ある段階において従順さを見せるが、次の段階では、従順さがより少ないか、全くないとしたら、神はあなたを見捨てるだろう。もしあなたが、神がこの段階に昇るとき、彼についていくことができるなら、あなたは次なる段階に昇る時にもついていくことを続けていかなければならない。そのような人のみが、聖霊に対して従順である。あなたは神を信じるのなら、その従順さを一定に保たなければならない。あなたが気に入っているときにだけ従順であり、そうでない時に従わないということはできない。そのような従順のあり方は、神によって認められない。

『言葉は肉において現れる』の「真に従順な者は必ず神のものとされる」より

自分の信仰において神への従順を求めない者は皆神に反抗する者なのだ。神は、人々が真理を求め、神の言葉を渇望し、神の言葉を飲食し、それを実行に移し、その結果神への従順に達することを求めている。これがあなたの本当の動機ならば、神は必ずあなたを高め、必ずあなたに対し恵み深くなる。このことに疑問の余地はないし、誰もこれを変えることはできない。あなたの動機が神への従順のためではなく、何か他の目的があるならば、あなたが言うこと、行うことのすべては――神の前での祈り、さらにはあなたの行動の一つひとつさえ――神に反するものである。あなたの話し方は穏やかで、温厚かもしれないし、あなたの一つひとつの行動や表現はすべて正しく思われ、あなたは神に従う者のように見えるかもしれない。しかし、あなたの動機と神への信仰におけるあなたの見解に関して言えば、あなたの為すことのすべては神に反しており悪である。

『言葉は肉において現れる』の「神を信じているなら神に従うべきだ」より

神の采配と統治の下にある全ての物事は自然の法則に従っているので、自らの全てを神の采配と支配に委ねるとあなたが決心したのであれば、あなたは待つこと、追究すること、そして従うことを覚える必要がある。それが神の権威に服従することを望む者全てが取るべき姿勢であり、神による采配と計画を受け入れることを望む者全てに備わっているべき基本的な資質である。そのような姿勢を取り、そのような資質を備えるには、一層の努力が必要である。そうした努力をして初めて、あなたがたは本当の現実に入ることが出来る。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身3」より

神を知ることを望む者は、自分の欲望を捨てることが可能であり、神による統治と計画に進んで服従し、神の権威に従う者、神の望まれる事柄を満たす者になろうとする。こうした者は光と神の祝福の中で生活し、確実に神の賞讃を享受する。いかなる場合であっても、人間が選ぶ物事は無益であり、神の業の所要期間について干渉出来ない。人間にとって、自らを神の采配に委ね、神による統治に服従する方が良い。あなたが自らを神の采配に委ねないとしたら、あなたに何が出来るであろうか。神に損害が及ぶであろうか。神の采配に自らを委ねずに、自らが担い手になろうとした場合、あなたの選択は愚かであり、最終的に損害が及ぶのは、あなたである。人間が出来る限り早く神に協力し、急いで神の采配を受け入れ、神の権威を知り、神の人間に対する業のすべてを理解した場合に限り、人間に希望があり、人間は人生を無駄に生きること無く、救いを得るであろう。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身3」より

ある者の自分の運命に対する姿勢が受動的である場合、それは、神がその者のために用意したあらゆる物事をその者が拒否し、従順な姿勢ではないということを意味する。神による人間の運命統治に対するその者の姿勢が能動的である場合、その者が自分の旅路を回顧し、神による統治を真に把握するようになった時、その者は神が用意した物事の全てに従うことを一層強く望むようになり、その者の運命において神が指揮すること、それ以上神に反抗しないことに、一層強い決断と確信を得るであろう。運命や神による統治を理解せず、霧の中を敢えて手探りでよろめきながらさまよった時、旅路は困難で悲痛すぎるものになることが分かる。したがって、人間の運命の神による統治を人間が認めた時、賢明な者は、それを知り、受け入れて、引き続き運命に逆らい、いわゆる人生の目標を自分のやり方で追究する代わりに、自らの手で良い人生を作り上げようとしていた悲痛な日々と訣別する。ある者にとって神が存在せず、神が見えず、神による統治を明確に認められない場合、毎日は無意味であり、無価値であり、悲惨である。その者がいる場所、その者の職業を問わず、その者の生業やその者の目標追求は、その者に終わりなき悲嘆と癒やされることのない苦痛をもたらすだけで、顧みるに耐えがたいものである。その者が創造主による統治を受け入れ、創造主の指揮と采配に従い、真の人間生活を求めた時のみ、その者はそうした悲嘆や苦痛から徐々に解放され、人生のあらゆる空虚感が払拭されるであろう。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身3」より

人間の悲しみは、人間が幸せな人生を望むことや、富や名声を望むこと、霧の中で自分の運命に立ち向かうことではなく、創造主の存在を知り、創造主が人間の運命を統治しているという事実を知ってなお、自分自身のあり方を正し、泥沼から抜けられずに、自分の過ちを頑固に押し通そうとすることである。人間は、全く悔い改めることなく、泥の中で戦い続け、頑固に創造主による統治に反抗し続け、悲惨な結末を見るまで拒否を続ける方が良いと考え、うちひしがれ、負傷して倒れた時、やっと諦めて戦いを止める。これが、人間の真の悲しみである。そうしたわけで、服従した者は賢者であり、逃れようとしたものは意固地になっていると言える。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身3」より

ノアが神に指示されたことを実行したとき、ノアは神の意図を知らなかった。神が何を成し遂げたいのかをわかっていなかった。神はノアに命令を与え、すべきことを伝えただけで、あまり説明はされなかったが、ノアはとにかく実行した。ノアは神の意図を自分なりに理解しようとしたり、神を拒絶したり、疑いを抱いたりすることはなかった。彼は純粋でシンプルな心でただ従ったのである。神がノアにするよう導いたことをノアは全て行った。そして神の言葉に従順に聞き従うことはノアが事を行ううえでの信念だった。神に任されたことを、ノアはそのようにまっすぐに、シンプルに行った。彼の本質、すなわち彼の行動の本質は従順であり、先読みしたり、拒否したりせず、さらに自分の私的な利益や損得を考えなかったことだ。さらに言えば、神が洪水で世界を滅ぼすと言ったとき、ノアはそれがいつであるとか、その真意を問うといったことはせず、どのように世界を滅ぼすのかも聞かなかった。ノアはただ、神が命じたように行ったのである。箱舟を何でどのように造るのか、神が指示した通りにノアはそれを造り、しかも直ちにとりかかった。彼は神に満足してもらいたい一心でそうしたのだ。…彼はただ従い、聞き、言われた通りに行ったのである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

すなわちヨブは、神による統治に対する信念、認識、服従を主観的に求めて人生を過ごしたが、ヨブはこうした信念と認識、服従をもって人生の重要な節目を過ごし、晩年を過ごし、最期の節目を迎えた。ヨブが経験した事柄によらず、ヨブの人生における取り組みと目標は幸福であり、苦痛ではなかった。ヨブが幸福であったのには、創造主がヨブに与えた祝福や賞讃のみならず、より重要な理由があった。それは、ヨブの取り組みと人生の目標、神を畏れ、悪を避けることで得た、創造主による統治に関する漸進的な認識と真の理解、そして更には、創造主による統治対象として、ヨブが人生において個人的に体験した創造主の奇跡の業、そして人間と神の共存、面識、相互理解に関する、暖かく忘れがたい経験と記憶、創造主の旨を知ることに起因する慰めと幸福、神の偉大さ、驚異、愛すべき存在、忠義を理解した後に生まれる敬意である。ヨブが一切苦痛無しで死を迎えることが出来た理由は、ヨブは死ぬことで創造主の側に還ることを知っていたことである。そして、ヨブの人生における取り組みと進歩が、ヨブが安らかに死を迎えること、創造主がヨブのいのちを取り戻すことに冷静な気持ちで向き合うこと、さらには汚れのないまま、懸念すること無く神の前に立つことを実現させた。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身3」より

神に対して取り引きの話をしたり、神になにかを要求したり、命令したりするようなことはなかった。ヨブが神の名を称えたのは、すべてを支配するその偉大な力と権力故であり、祝福を受けたからとか、災いに遭ったからというものではない。ヨブは神が人々に祝福をもたらすか災いをもたらすかに関わらず、神の力と主権は不変であり、故にその人の状況に関係なく神の名は褒めたたえられるべきだと信じていた。神の主権故に人は祝福されるのであり、人に災いが降りかかるのもまた、神の主権故である。神の力と権力は人間のすべてを支配し計らう。様々な人間の富は神の力と権力の現れであり、人がどう見ようと、神の名は褒めたたえられるべきである。ヨブはそれを自らの人生で経験し、悟ったのである。ヨブの考えたことと行なったことのすべてが神の耳に届き、明らかにされ、それは神に重要なものと見なされた。ヨブの知識と、ヨブがそのような心の持ち主であることを神は大切に思った。ヨブの心は常に、どこにいても神の命令を待ち、自分にいつ何が起ころうとも、すべてを歓迎した。ヨブが神に何かを要求することはなく、彼はひたすら神の計らいを待ち、神の計らいを受け入れ、向き合い、従った。ヨブはそれを自身の本分とし、それこそヨブが神から受けることを望んでいたものである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

数十年の人生経験の後に創造主による統治に関する認識を得た者は、人生の意味と価値を正しく理解し、人生の目的に関する深い認識を持ち、創造主による統治の真の経験と理解があり、さらに創造主の権威に服従出来る者である。そうした者は、神による人類創造の意味や、人間は創造主を拝むべきであること、人間の持つものが全て創造主に由来し、近い将来に創造主へと還ることを理解し、また創造主が人間の出生を計画し、人間の死を支配し、生と死の両方が創造主の権威により予め定められていることを理解する。したがって、その者がそうした事柄を真に把握した時、その者は自然と安らかに死を迎えることができ、この世の所有物全てを穏やかに手放し、その後の物事を喜んで受け入れ、またそれに従い、創造主により計画された人生最後の節目を、盲目的に恐れ、避けようともがくのではなく、それを歓迎出来るようになるであろう。ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身3」より

あなたがたは、地上で天のそれのような、わたしの祝福を受けたいと思っているのだろうか。あなたがたは、わたしについての理解、わたしの言葉を享受し、わたしについての認識を人生で最も貴重で意味深いものとして扱うつもりがあるだろうか。あなたがたは、ほんとうに、自分の前途を考えることなく、わたしに従うことができるのか。あなたがたは、羊のように、わたしに殺されたり、わたしに導かれたりすることを、ほんとうに受け入れられるのか。あなたがたの中に、そうしたことをなし遂げ得る人はいるだろうか。わたしが受け入れ、わたしの約束を得た人はみな、わたしの祝福を受けた人だということだろうか。あなたがたは、こうした言葉から何かを理解しているのだろうか。もしあなたがたを試したら、あなたがたは、ほんとうにわたしにすべてを委ね、そうした試練の中でわたしの意図を探り、わたしの心を理解するだろうか。わたしは、あなたがたが多くの感動的な言葉を語り、興奮するような物語りをするのを望まない。そうではなくて、わたしに立派な証しをすること、事がらをすべて現実に深く入ることを求める。もしわたしが直接話さなければ、あなたは、周囲のすべてを捨て、わたしに用いられることを受け入れられるだろうか。これが、わたしが求める実際なのではないか。誰がわたしの言葉の意味を把握できるだろう。しかし、あなたがたは、もはや不安に悩むことをやめ、積極的にわたしの言葉の本質を把握しなさい。それが、わたしの言葉を誤解したり、わたしの意味するところを正確に理解できず、わたしの行政に触れたりすることを防ぐだろう。わたしの言葉の中から、わたしがあなたがたについて意図していることを理解してくれることを願っている。自分の前途については、もう考えず、わたしの前ですべてを神の意思に委ねると決心したそのとおりに行動しなさい。わたしの家の内に立つ者はみな、できる限りの努力をしなければならない。あなたがたは、わたしの地上での働きの最終段階のために最高の努力をしなさい。あなたは、ほんとうに、そうしたことを実践する気持ちがあるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「四番目の言葉」より

神の明白な証しに立つことは、あなたがたに実践の神に関する知識があるか如何、そしてその平凡であるだけでなく普通の人物の前に従い、今後も死ぬまで従い続けられるか如何に、専ら関連する。あなたがたがこの従順さによって真に神の証しに立つならば、それはあなたがたが神により得られたことを意味する。死ぬまで従い、神の前で不満が無い状態であり、批判したり中傷したりせず、観念を抱かず、その他いかなる意図が無い状態で居ることが出来るということにより、神は栄光を得るであろう。人々により蔑まれている普通の人物の前における従順さと、死ぬまで観念を抱かずに従うことが出来ることが、真の証しである。神が人間に対して真摯に取り組むよう要求する現実とは、あなたがたが神の言葉に従い、神の言葉を実践し、実践の神に服従し、自らの堕落を知り、神の前で自らの心を開き、最終的には神の言葉によって、神に得られることが出来ることである。神は、そうした言葉があなたがたを征服し、あなたがたを完全に神に対して従順にすることが出来る時、栄光を得る。それによって神はサタンを辱め、神の業を完了する。受肉した神の現実性に関して、あなたがたが何も観念を抱かないのであれば、すなわちあなたがたがこの試練で揺るぎなく立つならば、あなたがたは上手く証しに立っている。あなたがたが実践の神に関して完全に理解し、ペテロのように死ぬまで神に従うことが出来る日が来るならば、あなたがたは神により得られ、完全にされるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の実際性に対して絶対的に服従できる者は、真に神を愛する者である」より

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