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終わりの日のキリストの代表的な言葉

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X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

正直であるということは、神に心を捧げるということである──何事にも神を偽らないこと、あらゆることについて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わすことがないこと、そして、神に取り入る為だけに物事をするようなことが決してないこと。つまり、正直であるということは、言行において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

神は正直な人を喜ぶということを知っておきなさい。神は本質的に信実で、その言葉は常に信頼できる。さらに、神の業には誤りも疑問の余地もない。だから神は、自分に対して完全に正直な者を愛すのである。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

わたしは他人に対して疑いを持っていない人を高く評価し、真理を容易に受け入れる人を好んでいる。わたしはこれらの2つの種類の人間を大切にする。わたしの目には正直な者たちだからだ。

『言葉は肉において現れる』の「地上の神をどのように知るか」より

もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で奉仕する者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える心があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、正直で、神が喜ぶことだけを願い、自分のことは考えず、自分のためには何も求めようとしないなら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きるのである。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

私は媚びへつらわれたり、熱狂的に扱われるのを好まないと述べた。私は、私の真理や期待と向き合う正直な者を好む。それ以上に、私は私の心に出来るだけ配慮し、私のために全てを捨て去ることの出来る者を好む。私の心が満足できるのは、こうした場合のみである。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

あなたが何かをするときには、常に動機が正しいかどうかを吟味する必要がある。あなたが神の求めにしたがって行動できるなら、あなたと神との関係は正常である。これが最低限の基準である。自分の動機を吟味した結果、間違った動機が出てきた場合でも、そのような動機に背を向けて、神の言葉に従って行動できるなら、あなたは神の前で正しい者になるだろう。それは、あなたと神との関係が正常であることを示し、あなたのすることのすべてが、自己のためではなく神のためであることを示すだろう。何かをしたり言ったりするときには、常に心を正して義にかなうようにし、感情に流されたり、自分の意志で行動したりしないようにしなさい。これが神の信徒が自らを律する原則である。

『キリストの言葉の記録』の「あなたと神との関係はどのようなものか」より

自分の行動、意図、反応を全て神の前に示す必要がある。あなたがたの祈り、神と自分の緊密さ、神の言葉の食べ飲み、あなたがたと兄弟姉妹との交わり、教会での生活、あなたがたの共同礼拝など、あなたがたの日常における霊的生活でさえも、神の前に示し、神の監督を受ける必要がある。これが、あなたがたの人生における成熟に役立つ実践である。神の監督を受ける過程は、清めの過程である。あなたがたが神の監督を受け容れれば受け容れるほど、あなたがたは一層清められ、神の旨に一層準じるので、あなたがたは道楽や遊興の誘惑を聞かなくなり、自分の心が神の前で生活するようになるであろう。あなたがたが神の監督を受け容れれば受け容れるほど、サタンは一層辱められ、あなたがたは一層肉に背くことができる。したがって、神の監督を受け容れることは、人間が実践すべき道である。あなたがたの行動を問わず、自分の兄弟姉妹との交わりの最中でさえも、あなたがたが自分の行いを神の前に示して神による監督を求め、かつ自分の意図が神ご自身に従うことであるならば、あなたがたが実践する物事は一層正しいものとなるであろう。あなたがたが自分の行いの全てを神の前に示して神の監督を受け容れた場合に限り、あなたがたは神の存在の中で生きる者となることが出来る。

『言葉は肉において現れる』の「神は神の心に従う者を完全にされる」より

あなたがたは、祈る時か、兄弟姉妹と話をして交わる時か、自分の本分を尽くして用事に取り組む時かを問わず、自分の心を神の前に据える必要がある。あなたがたが自らの役割を果たす時、神はあなたがたと共にあり、あなたがたの意向が正しく、神の家の業のためになるのであれば、神はあなたがたの行動全てを受け容れるであろう。それゆえに、あなたがたは自分の役割を果たすよう熱心に努める必要がある。あなたがたが祈る時、心の中に神への愛があり、神の慈しみと守りを求めることがあなたがたの意向であれば、あなたがたの祈りには効果があるであろう。たとえば、あなたがたが集会で祈る時、あなたがたが自分の心を開いて神に祈り、偽りを述べることなく心の中の思いを全て神に述べたならば、あなたがたの祈りは有効なものとなるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神は神の心に従う者を完全にされる」より

真の信仰と真の忠実さとが内にあるかどうか、神のために苦難を受けたことがあるかどうか、神に心から従っているかどうか、自分の心に尋ねればわかるだろう。もし、そうしたものが欠けているのなら、あなたの心の内には、不服従、欺き、貪り、不満が残っている。心が正直でないから、神に認められたこともなく、光の中で生きたこともない。人間が最後にどうなるかは、その人が正直で神への強い想いがあるか、清い魂の持ち主かどうかにかかっている。極めて不正直で、悪意に満ち、汚れた魂をもっているなら、その人の終着点は人が罰せられる場所だ。もしあなたが、自分は極めて正直だと言いながら、真理に適う行いをすることも、真実を語ることもしないとしたら、それでも神があなたを報いてくれると期待するだろうか。それでも神が、あなたをこの上もなく慈しんでくれると期待するだろうか。そんな考えは非常識ではないだろうか。あらゆることで神を欺いていながら、どうしてあなたのように手の汚れた者を神の家が受け入れることができようか。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

あなたがたの運命のため、神に認められることを求めなさい。それはつまり、神の家の一員であることを自覚しているのなら、あらゆる物事において神の心に安らぎと満足とをもたらすようでなければならない。つまり、自らの行いを律し、真理に適うような者でなければいけないということである。もしそれが到底できないというのであれば、神に嫌われ、見捨てられ、みなから拒まれることになってしまう。そんな状態になったのでは、神の家の一員とはいえない。それは神の承認を受ける者ではないということである。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

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