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X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

あなたがたは、継続的に自分自身と自分の中にある不浄な物事を検証する必要がある。人間の宗教的観念、意図、希望、独善、傲慢さは、すべて不浄な物事である。自分自身と神の啓示の御言葉を比較し、自分の中に宗教的観念が無いかを調べる必要がある。あなたがたがそうした物事を認識した時のみ、そうした物事を捨て去ることができる。……あなたがたが聖霊の実際の御言葉だけを求めるのであれば、神の御旨を満たすことが出来ない。あなたがたは、聖霊の現在における光を求めると同時に、自分の中に依然として存在する観念や意図、具体的にどのような人間的独善があるか、どのような態度が神に反抗する態度であるかを認識する必要がある。そして、あなたがたがそうした物事を認識した後、そうした物事を捨て去る必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「性情が変化した者は、真理の現実への真摯な取り組みを行う者である」より

あなたがたの性情の変化は、何から始めればよいか、あなたがたは、知っているであろうか。それは、あなたがた自身の本性を理解することから始める。このことは重要である。…それでは、どのように理解すればよいだろうか。理解するとは、実際には霊の深遠を分析することである。それは、自分のいのちの中にあるものである。元来あなたがたが生活上で従ってきたのは、サタンの論理であり、サタンの多数の見解であり、すなわち、あなたがたが生活上で従ってきたものは、サタンのいのちである。あなたがたは、自分の霊の深遠にある物事を明らかにして初めて、自分の本性を理解できるようになる。そうした物事は、どのようにして明らかにすればよいだろうか。そうした物事は、単に行動によるだけでは、多くの者がそうした物事を明らかにして分析できないであろう。何らかの行動の後、何らかの理解に達しないことが往々にしてある。3年後ないし5年後、あなたがたは目覚めを迎え、ある程度理解を得るであろう。さて、自分の本性を理解するために、あなたがたは数件の側面を含める必要がある。第1に、自分の心の中で、自分が好む物事が明らかである必要がある。それは好きな食べものや飲みものではなく、好きな物事、羨望する物事、崇拝する物事、追求する物事、自分が配慮する物事の種類である。…人間が本性で好む物事には、全般的な特徴がある。つまり、人間は、その物事の外観のために、他人が羨望する物事、外観が美しく豪華な物事、その物事の外観のために、他人に自分を崇拝させるような物事を好む。人間が好むのは、こうした物事である。人間が好む物事は、偉大であり、幻惑的であり、豪華であり、壮大である。人間は、皆こうした物事を崇拝し、人間には真理が皆無であり、真の人間像が無いと言える。こうした物事を崇拝することには全く重要性が無いが、人間はそうした物事を好む。

『キリストの言葉の記録』の「自分の性情を変化させることについて、あなたがたが知るべきこと」より

自分の本性を理解するとは、どのようなことであろうか。それは、どうすれば知る事が出来るであろうか。それは、どのような側面から理解されるであろうか。また、どうすれば、そうした様々な側面から現される物事を正しく見ることが出来るだろうか。誰かの本性は、その者の関心から確認する。それには、どうすればよいか。たとえば、一部の者は殊更踊ることを好む。歌手や人気のある映画俳優を特に好む者もいる。特定の人間を特に崇拝する者も居る。こうした関心を検討すると、こうした者の本性は何であろうか。もうひとつ簡単な例を挙げる。特定の歌手を真に偶像化する者も居るが、その偶像化は、どの程度に及ぶであろうか。それは、そうした者が、その歌手の仕草、微笑み、言葉、動作の全てに極めて関心を持つ程度に及ぶ。こうした者はその歌手に熱中して、その歌手の着衣を全て写真に撮り、それを真似る。この程度の偶像化は、その者の本性に関して何を示しているだろうか。それは、その者の心に、神ではなく、そうした物事しか無いことを示している。その者の心が考え、好み、求める物事は、全てサタンにより現された物事であり、その者の心を虜にし、その者の心はそうした物事に捧げられる。あなたがたは、ここでの問題が何であるか分かるだろうか。このように、何かが極端に好まれた場合、その何かは誰かのいのちとなり、心を虜にし、その誰かが、偶像を崇拝する者であり、自分の心で神を求めず、悪魔を求める者であることを完全に証明する。したがって、その者の本性は、悪魔を崇拝し、真理を愛さず、神を求めないものであるという結論に達する。これは、その者の本性の見方として正しいか、というと、完全に正しい。人間の本性は、このようにして分析される。たとえば、特にパウロを偶像化する人々も居る。そうした者は、講演をすることや外部で業を行うことを好む。そうした者は、集まって話し合う事を好み、人々が自分の話を聞き、崇拝し、自分達のところに集まってくるのを好む。そうした者は、他人の心に自分の信望を築くのを好み、他人が自分の像を尊ぶことに価値を見出す。このような行動から、人間の本性に関して分かることは、何であろうか。…この者がそのように行動する場合、その行動は、その者が傲慢であり自惚れていることを証明するに十分である。この者は全く神を崇拝しておらず、高い地位を求め、他人に対する権威を掌握すること、他人をわがものにすること、他人の心に自分の信望を築くことを望む。これは典型的なサタンの像である。この者の本性に顕在するのは、傲慢さと自惚れ、神への崇拝に対する消極性、他人から崇拝されることに対する切望である。それがこの者の本性ではなかろうか。こうした行動から、その者の本性を明瞭に見抜くことが出来る。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

人間の本性を確認することに関しては、その者の世界観、人生観や価値観の点から、その者の本性を検討することが最も重要である。悪魔のような者はすべて、自分自身のために生きている。そうした者の生き方や方針となる格言は、「自分自身のことだけを考え、落伍者への懸念は不要」など、専らサタンに由来するものである。悪霊や地上の偉人、哲人の言葉が、そうした者のいのちとなっている。特に、中国人に「賢人」として崇められている孔子の言葉の大部分が、人間のいのちとなっている。また、仏教や道教の有名な格言、有名人が頻繁に口にする諺もある。こうした言葉は、全てサタンの哲学と本性の概要である。また、こうした言葉はサタンの本性を最適に説明し、解説するものである。人類の精神に浸透した、こうした毒素は、すべてサタンに由来し、神に由来するものは微塵も無い。こうした嘘や不合理は、神の御言葉と正反対でもある。良好な物事の真実は全て神に由来し、人間を毒する劣悪な物事は全てサタンに由来することは、完全に明白である。このように、ある者の本性や、その者が誰に帰属するかは、その者の人生観や価値観から判断できる。…数十年にわたり社会で活動してきた者に「あなたは、この世で長年にわたり生活し、多くの功績があるが、あなたの人生の座右の銘は何であろうか」「最も重要な格言は『官吏に賄賂を贈る者は官吏に打たれることがなく、官吏をおだてない者は何も成果が無い』である。」あなたがたは、こうした話がその者の本性を表していると思わないだろうか。その者の本性は、地位を得るためにあらゆる手段を講じ、その者にいのちを与えるのは、官吏となることである、というものである。たとえば、そうした者の人生哲学や成功の格言や物事の実行方法など、人間のいのちや行為、他人に対する行動や処遇には、それ以外にも数多くのサタンの毒が含まれて居る。そうした者には、真理がほぼ皆無である。あらゆる者が赤い大きな竜の毒で満たされており、そうした毒は全てサタンに由来する。したがって、人間の髄液や血に流れているのは、全てサタンの物事である。この世の成功を掴む者全員に、成功への道と成功の秘密があるが、それならば、その秘密はその者の本性をよく表しているのではなかろうか。そうした者達の本性は狡猾すぎることが分かる。そうした者は高位の官職に就く者であり、世界的な大事業を実施したが、そうした者は極めて狡猾である。そうした者の本性は陰湿で悪意に満ちており、そうした者は何でも実行可能である。人間はサタンにより過度に腐敗させられた。サタンの毒があらゆる者の血の中を流れ、人間の本性は明らかに腐敗し、邪悪であり、復古的であり、サタンの哲学に満たされ、浸けられている。それは神に対して完全に反逆的な本性である。人間の本性は、こうした方法で分析すれば、全ての者が知ることが出来るものである。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

あなたがたが好む物事、重点を置く物事、崇拝する物事、羨望する物事、心の中で毎日考える物事は、すべてあなたがたの本性を表している。あなたがたの本性が不正を好み、深刻な問題に苛まれ、邪悪で治る見込が無いことを証明するだけで十分である。あなたがたは自分の本性をこのように分析すべきである。つまり、自分が何を好み、人生において何を捨てたかを調べるべきである。おそらく、あなたがたは誰かに親切にしているが、それは必ずしもその者を好んでいることを示すものではない。あなたがたが本当に好む物事は、正確に言えば自分の本性の中にあるものである。たとえ自分が骨折したとしても、あなたがたはそれを好み、捨て去ることが出来ない。それを変えるのは簡単ではない。…人間が自分の本性で好む物事を明らかにすることに加えて、たとえば、人間のものの見方、方法論や人生の目的、人生の価値や人生観、真理に関連する物事の見方など、自分の本性に関連する他の側面もまた明らかにする必要がある。これらの物事は、すべて自分の霊の深遠にある物事であり、性情の変化と直接的な関連性のある物事である。

『キリストの言葉の記録』の「自分の性情を変化させることについて、あなたがたが知るべきこと」より

ある者の本質に含まれる部分は、いつでも一定して現れる。ある者の行動それぞれには、それが何であっても、その者の本性を現す能力がある。人間は、自分のあらゆる行動について、それが歓待することであれ、福音を説教することであれ、その他の業であれ、独自の目的を持っており、また人間は、それに全く気付かずに自分の本性に含まれる部分を示してしまうことがある。なぜなら、ある者の本性はその者のいのちであり、人間は生きている限り自分の本性に駆られているからである。ある者の本性は、時折ないし偶発的にだけ現れるのではなく、その者の本質を完全に示すことが可能であり、その者の骨や血から流れ出る物事は、全てその者の本性といのちを表すものである。美人を好む人々も居る。金銭を好む人々も居る。地位を殊更好む人々も居る。名声や人間像を特に貴ぶ者も居る。偶像的存在を好み、崇拝する者も居る。傲慢さと自惚れが特に強く、心の中で誰にも譲ることが無く、地位を求めて奮闘し、他人の上に立って他人に対する権威を得ることを望む者もいる。本性には様々なものがあり、本性は人によって異なるが、神に対する反抗と裏切りが、人間の本性の共通要素である。その意味では、全ての本性は同一のものである。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

本性に関する問題は、弱くなった時にのみ行われる物事ではなく、生活全体において持続する。ある者の行動には、その者の体臭があり、その者の本性が付随している。そうした要素が一時的に明瞭でなかったとしても、それはその者の中に存在する。たとえば、不正直な者が、ある時正直に話をした場合、その者の話の中に別の話があり、不正直さが混入されている。不正直な者は、その者の親戚や子どもも含めて、あらゆる者に対して自分の手口を仕掛ける。あなたがたがその者に対して如何に正直であったとしても、その者はあなたがたに罠を仕掛けるであろう。それがその者の本性の真の姿であり、その者は、それを本性とする。変化することは困難であり、その者は常にそのような行動を取る。たとえば、正直な人々は、時々悪賢い事や不正直な事を述べるが、そうした者は普段は正直であり、自分と係わる他人を不当に利用することなく、正直に行動する。その者が他人と話す時は、意図的に他人を試すような事は言わず、依然として極めて正直であり、自分の心を開いて他人と交流する。他の者は皆その者が正直であると言うが、それでも時折不正直な事を言う事がある。これは単なる腐敗した性情の表出であり、その者の本性を示すものではない。なぜなら、その者はそうした性格の者ではないからである。人間の本性に関しては、何がその本性の要素であり、何が腐敗した性情であるかを理解し、明確に区別出来るようにする必要がある。それでは、自分の本性を分析してみて欲しい。「時々辛辣な口調になる」と言う者や、「教養が無い」と言う者も居るであろう。そうした者が、自分の本分を尽くす時に規則に違反したり、動機が不純な事があるなどと述べるだけで、自分の本性や自分の人間性が良好であるかどうかについて述べないのであれば、その者は自分の本性を知ることが出来ない。あなたがたは常に隠れていたり、恥ずかしがったりすることは出来ない。あなたがたは、自分を深く掘り下げる必要がある。あなたがたは、自分を深く掘り下げられないのであれば、自分の本性を知ることが出来ず、変化することは出来ないであろう。あなたがたは、自己を知るにあたり、自分に対して特に厳密である必要があり、自分に嘘をついたり、いい加減であったり、自分を騙したりしてはならない。…人間には、それぞれ致命的な欠点があり、その欠点は、その者の生活に対して、常に影響を及ぼし、その者に関連するあらゆる物事に潜み、その者のあらゆる行動の目的となる。そうした物事は、その者の本性を示している。したがって、ある者の本性は、その者の最も大きな弱点であると言える。その者の致命的欠点は、その者の本性である。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

人間として自分が理解する自分自身の本性と、神が示される人間の本性は、常に大きく乖離している。それは神が示された物事の誤りではなく、人間としての自分の本性に関する知識の大幅な欠乏である。人間には、自分自身に関する基本的あるいは実質的な知識が無く、むしろ自分の行動と外面的な表現に重点を置いて注力する。ある者が、自分を理解することについて時折何か述べたとしても、それはそれほど深遠にわたるものではないだろう。その者が、そのような物事を行ったり、ある側面について何かを示したりするような人間である、あるいはそのような本性の者であると考えたことのある者は居ない。神は人間の本性と実体を示されているが、人間の言動の方法には不備や欠点があることを、人間は心得ている。したがって、真理の実践は、人間にとって困難である。人間は、自分の過失が、自分の本性の表れではなく、自分が不注意な時に見られる一時的な徴候に過ぎないと考えている。自分自身をこのように理解している者は、真理を実践出来ない。なぜなら、その者は真理を真理として受け容れられず、真理を渇望せず、したがって真理を実践する際には規則に機械的に従うからである。人間は自分の本性が腐敗しすぎているとは考えず、また滅ぼされたり罰せられたりする程度には及んでいないと考えている。人間は、時折嘘をついても大きな問題では無く、従前よりは遙かに良いと考えている。しかし、実際には、基準に基づくと大きな差がある。なぜなら、人間は外見上は真理に反していない物事のみを実践するが、実のところ、真理を実践していないからである。

『キリストの言葉の記録』の「本性の理解と真理の実践」より

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