真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

終わりの日のキリストの代表的な言葉

目次

X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

神自身の働きは全人類に対する働きを含み、時代全体に対する働きも表す。すなわち、神自身の働きは聖霊の働きすべての活動と動向を表し、一方使徒の働きは神自身の働きに従うことであり、時代を導くことはないし、時代全体において聖霊が働く動向を表すこともない。彼らは人がなすべき働きをするだけで、経営の働きは全く含まれない。神自身の働きは、経営する働きの範囲内の計画である。人の働きは用いられる人々の本分だけであり、経営の働きとは何の関係もない。働きのアイデンティティや表すものが異なるため、どちらも聖霊の働きであるという事実にもかかわらず、神自身の働きと人の働きの間には明確で、実質的な違いがある。さらに、異なるアイデンティティをもつ対象に作用する聖霊の働きの程度もさまざまである。これらが聖霊の働きの原則と範囲である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。これらの言葉を読んだ後、あなたはこれらが神の言葉であることを受け入れず、ただ啓示を受けた人の言葉として受け入れるかもしれない。そうだとすれば、あなたは無知ゆえに目が見えなくなっているのだ。どうして神の言葉が啓示を受けた人間の言葉と同じでありえようか。人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、するべき働きを完了するべく来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

もし人がこの働きをしようとするなら、あまりにも多くの制約がある。人はある時点までは行くことができても、永遠の終着点までは行くことができない。人が人の運命を決めることはできないし、人の将来や未来の終着点を確かにすることなど、尚更できない。しかし神による働きは異なる。神は人を創ったので、人を導く。神は人を救うので、完全に人を救い、完璧に人を自らのものにする。神は人を導くので、人を適切な終着点に連れて行く。神は人を創造し、統治するので、人の運命と将来に責任を持たなければならない。これこそ造り主によってなされる働きである。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

人間のする働きは単に限られた範囲のものであるが、神がその働きを行うときは、特定の人にだけ語りかけるのではなく、全人類、神の言葉を受け入れる者すべてに語りかけるのである。神の告げる終わりはすべての人間の終わりであって、特定の人だけの終わりではない。神は誰かを特別扱いしないし、誰かを犠牲にすることもない。そして、神は人類全体のために働き、話しかける。だから、この受肉した神は、すでに全人類をその種類によって分け、すでにすべての人々を裁き、全人類に相応の終着点を定めている。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

「受肉した神によってなされる働きと、昔の預言者や使徒のそれとでは、何が違うのか。」ダビデは主と呼ばれていたし、イエスもそう呼ばれていた。二人の働きは違ったが、呼ばれ方は同じだった。それなのに、なぜふたりの身分は同じではなかったのか。ヨハネが見たものは一つのビジョンであり、聖霊から出たものでもあり、そしてヨハネは聖霊が伝えようとする言葉が話せたのに、なぜヨハネの身分はイエスのそれと違ったのか。イエスによって話された言葉は、完全に神を現すことができ、神の働きを全て現すことができた。ヨハネが見たものは一つのビジョンであって、神の働きを完全に現すことはできなかった。ヨハネ、ペテロ、そしてパウロは、イエスの様に多くを語ったが、彼らがイエスと同じ身分を持たないのはなぜか。彼らの働きが違ったからというのが主な理由である。イエスは神の霊を現し、神の霊が直接働いていたのである。イエスは、新しい時代の働き、それまで誰もしたことのない働きをしたのである。イエスは新しい道を切り開き、ヤーウェを現し、神自身を現したのである。一方で、ペテロやパウロやダビデは、彼らが何と呼ばれていたかに関係なく、被造物としての身分を現しただけか、イエスかヤーウェに遣わされただけであった。それだから、彼らがいかに多くの働きをしようとも、どれほど素晴らしい奇跡を行おうとも、やはり神の被造物にすぎず、神の霊を現すことはできなかったのである。彼らは神の名によって、または神に遣わされて働いたのである。更に、彼らはイエスあるいはヤーウェによって始められた時代の中で働いたのであり、彼らの働きはその時代と切り離されたものではなかった。結局のところ、彼らは単なる被造物にすぎなかった。

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

神性において働くのは神を表し、人間性において働くのは神に用いられる者である。つまり、肉となった神は、神によって用いられる人々とは実質的に異なる。肉となった神は神性の働きを行えるが、神によって用いられる人々にはそれができない。各時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語りかけ、新しい時代を始め、人を新しい始まりへ導く。神が自らの語りを完遂するとき、神性における神の働きが達成されたことを意味する。その後人々はみな、神によって用いられる者たちの導きに従っていのちの経験に入ることになる。

『言葉は肉において現れる』の「肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い」より

だから、多くの使徒が聖霊に用いられ、多くの預言者たちが聖霊に満たされたが、その働きと言葉は単に被造物としての本分を尽くすものであった。彼らの預言は受肉した神の語ったいのちの道よりも偉大であったかもしれないが、また、彼らの人間性は受肉した神よりも卓越したものであったが、彼らは本分を尽くしていたのであって、職分を成就したのではない。人間の本分とは、人間の役割のことをいい、人間が達成できるものである。しかしながら、受肉した神の行われた働きは、神の救いの業に関連しており、これは人間には達成できないことだ。語ることであれ、業を為すことであれ、奇跡を現すことであれ、それは受肉の神が救いの業の中で偉大な働きを行っているのであり、このような働きは、人間が受肉の神に代わってすることはできない。人間の働きは、神の救いの働きの段階に応じて被造物としてただその本分を尽くすことである。そうした経営なしに、つまり、受肉の神の職分がなければ、被造物の本分もまたなくなる。自分の職分を遂行する受肉の神の働きは人間を救うことであり、他方、本分を尽くしている人間は、創造主の要求に応えるために自分の義務を実行しているのであって、神のように職分を果たしているとはいわれないのだ。神の本質、つまり、神の霊にとって、神の働きとは、救いの計画のことであるが、創られたものと同じ外形を持った受肉の神にとって、その働きとは、職分を成就することである。どんな業であれ、(受肉の)神の業は自分の使命を実行することであり、人間は神の救いの計画の範囲内で神に導かれて最善を尽くすだけである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

人の働きはその人の経験と人間性を表す。人が提供するものと、人が行う働きがその人を表す。人の見識、人の推論、人の論理と豊かな想像力はすべてその人の働きの中に含まれている。特に、人の経験はいっそうその人の働きを表すことができ、人が経験してきたことはその働きの構成要素になるだろう。人の働きはその人の経験を表すことができる。……人が表すものは自分が見るもの、経験するもの、想像できるものである。教義、あるいは見解であっても、これらはすべて人が考えれば到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像、あるいは思いつけるものの範囲を越えることはできない。神が表すものは神自身であり、これは人の力が及ばないもの、つまり、人の考えの及ばないものである。神はすべての人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人は自分の経験を表し、神は自身の存在を表す―この存在は神に固有の性質であり、人の力の及ばないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。それらは人の本来備わっている性質、および人の実際の力量を基礎に表される。そこで、それらも人の存在と呼ばれる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

人が真理を経験する範囲はいつも個人の異なる条件に基づいているため、同じにはならない。こうして、同じ真理を表した認識でも人が異なれば同じにはならない。つまり、人の経験にはいつも限界があり、聖霊の意志を完全に表すことはできず、たとえ人の表すものが神の心にかなり一致していても、たとえ人の経験が聖霊の実行する人を完全にする働きに非常に近くても、人の働きを神の働きとして把握することはできない。人は神の僕にすぎず、神に任せられた働きしかできない。人は聖霊の啓発を受けた認識や自分の個人的経験から得た真理しか表すことはできない。人は無資格で、聖霊の流出口となる条件を持たない。人の働きは神の働きであると言う資格は与えられていない。人には人の働く原則があり、すべての人は異なる経験を持ち、さまざまな条件を所有している。人の働きには聖霊の啓発を受けたその人の経験のすべてが含まれる。これらの経験は人の存在を表すだけで神の存在、あるいは聖霊の意志は表さない。したがって、人が歩む道は聖霊が歩む道ということはできない。なぜなら人の働きは神の働きを表すことはできず、人の働きと人の経験は聖霊の完全な意志ではないからである。人の働きは規則に陥りがちであり、その方法はすぐに限られた範囲に限定されてしまい、人々を自由な道に導くことはできない。ほとんどの信奉者は限られた範囲内に住んでいて、彼らの経験する道もその範囲内に限られている。人の経験はいつも限られている。働く方法もいくつかに限られており、聖霊の働きや神自身の働きと比較することはできない―これは、人の経験が結局は限られているからである。神がどのように働きを行おうと、それには規則がない。どのようになされようと、神の働きは一方向に限られはしない。神の働きに規則はまったくなく、働きはすべて自由に解放される。どんなに多くの時間をかけて神に従おうとも、人々は神が働く方法のいかなる規範も総括することはできない。神の働きは原則に基づいているが、いつも新しい方法で行われ、いつも新しい進展があり、人の手の届く範囲のものではない。一期間の間に、神はいくつかの異なる種類の働き、異なる導き方を示すことがあり、人々がいつも新たな成長や新たな変化を持てるようにする。神の働きの規範を見つけ出すことができないのは、神がいつも新しい方法で働いているからである。このようにしてのみ、神の信奉者は規則に陥らないで済む。神自身の働きはいつも人々の見解を避け、彼らの見解に反論する。本当の心で神に従い、神を追い求める人々だけが自分の性質を変えることができ、いかなる規則にも支配されず、いかなる宗教的見解にも拘束されず、自由に生きることができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

あなた方は神の働きと人の働きの区別の仕方を知らなければならない。あなたは人の働きから何を見ることができるか。人の働きの中には人の経験による要素がたくさんある。人が表すものは現在のその人そのものである。神自身の働きも現在の神そのものを表すが、現在の神は現在の人とは異なる。現在の人は人の経験や人生を表し(人生やその人が持つ人生哲学において人が経験したり、遭遇したりするもの)、異なる環境に住む人々は異なる存在を表す。あなたに社会的経験があるか否か、あなたが家族の中で実際どのように生活し、経験しているかはあなたが表すものの中に見ることができるが、あなたは肉となった神の働きから神に社会的経験があるか否か見ることはできない。神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神の存在を表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

肉の形で表されようと、聖霊によって直接表されようと、神性が何であるかを表すのは神の本能であり、これが神の職務である。人は自分自身の経験、あるいは認識を神の働きの間に、またはその後に表す(すなわち、人は自分の人格を表現する)。これは人の本能と本分であり、人が達成すべきことである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

神の働きは、神の肉の経験を表すのではない。人が行う働きは人の経験を表す。誰もが自分の個人的経験について話す。神は直接真理を表し、一方人は真理を経験したあと、付随する経験を表せるだけである。神の働きに規則はなく、時間や地理的制約に支配されない。神はいつでも、どこでも自分が何かを表すことができる。神は好きなように働く。人の働きには条件と事情がある。そうでなければ、人は働くことはできず、神に関する認識や真理の経験を表すことができない。あなたは、神自身の働きか、人の働きか伝えるためには両方の違いを比較するしかない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

人間が業を行う時、人間は追求と予想を繰り返し、常に他人が築いた基礎に基づいて模倣と思考し、一層深い真摯な取り組みを実現する。神の御業は主の実体の定めであり、主は、ご自身がなすべき御業を行い、人間の業に由来する知識を用いて教会に恵みを与えず、人間の状態に基づいて現在の御業を行う。したがって、このようにして御業を行うことは、人間が業を行うよりも数千倍自由である。人間にとって、それは神がご自身の本分を遵守せずに望むままに御業を行っているように思われるほどである。しかし、主が行う御業は、全て新たな御業であり、受肉した神の御業が感情に基づいていることは決して無いということを、あなたがたは知るべきである。

『言葉は肉において現れる』の「実践(5)」より

代々わたって、神が用いた人々は皆、普通の思考と理知を持っている。彼らは皆、振る舞い方を心得ており、生活上の問題に対処する。彼らは、普通の人間の観念を保持し、普通の人々が持つべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどは、特別な才能と生来の知性を持っている。神の霊は、それらの人々を通して働きを行うことで、神からの授かりものとなる彼らの才能を生かす。彼らの才能を生かし、彼らが自らの強みを通して神に仕えるようにするのは、神の霊である。けれども、神の本質は観念や思考を持たないものである。そこには人間の考えが組み込まれておらず、人間が普通に持つものを欠いていさえする。つまり神は、人間の行為の原則を理解することさえない。

『言葉は肉において現れる』の「肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い」より

人の分かち合うものはその人の個人的見識や経験を伝え、神の働きを基にして見るものや経験するものを表す。彼らの責任は、神の働きや話の後、自分たちが何を実行するべきか、または何において成長すべきかを見つけ、次にそれを信奉者に伝えることである。したがって、人の働きはその人の成長と実践を表す。もちろん、そのような働きには人の教訓と経験、あるいは人間的考えの一部が混入している。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

神自身のする働きはなく、あるのは人の働きのみであれば、あなたは人の教えは高度で、ほかの誰の能力も及ばないと知るだろう。彼らの話す調子、事を扱う際の原則、働く際の経験豊かで、落ち着いた態度は他の人々の力の及ぶところではないと知るだろう。あなた方はみな高い人間性を持つこれらの人々を称賛するが、神の働きと言葉から神の人間性がどれほど高いか知ることはできない。それどころか、神は普通であり、働くときは通常で現実的だが、人間には計り知れないものでもあり、そのため、人々は一種の畏敬の念を神に感じる。おそらく、働きにおける人の経験は特に高い、あるいは想像力や論理的思考は特に高く、人間性は特に良い。これらのことは人々の称賛は得られても、畏敬の念や畏れを喚起することはできない。働く能力を持ち、特に深い経験を持ち、真理を実践できる人々は誰もが称賛するが、彼らは畏敬の念を呼び起こすことは決してできず、称賛と羨望がせいぜいである。しかし神の働きを経験した人々は神を称賛するのではなく、その代わり、神の働きは人間の力の及ばないもので、人には計り知れず、新鮮で素晴らしいと感じる。人々が神の働きを経験する時、神に対して最初に持つ認識は、神は計り知れず、賢明で素晴らしいということであり、彼らは無意識のうちに神を敬い、神の働きの神秘性を感じ、人の考えの及ばないものだと思う。人々はひとえに神の要求に応じられること、神の希望を満たせることを望み、神を超えようとは思わない。なぜなら、神の働きは人の考えや想像のおよばないものであり、人が神に代わって行うことはできないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

人の経験、あるいは認識は生まれながらの才能、または本能から生じるものではなく、神の導きと神の直接的牧養により生じる。人はこの牧養を受け入れる器官を持っているだけで、神性が何であるかを直接表す器官は持っていない。人は源になることはできず、源から水を受ける器になれるだけである。これが人間の本能、人間として持つべき器官である。神の言葉を受ける器官を失い、人間の本能を失った人物はもっとも大切なものも失い、神に造られた人としての本分を失う。神の言葉、または神の働きについての認識、または経験を持たない人物は、その本分、つまり、神に造られた存在として行うべき本分を失い、神に造られた存在としての尊厳を失う。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

人の働きによって、人々は何において成長するべきか、何を理解するべきかについてもっと明確にすることができる。人の働きには、真理を理解し、経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道を開拓し、新しい時代を開拓し、人々に、死ぬ運命にある人間には知られていないことを明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは人類すべてを導くことである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より