過激さから生存の追求への移行

1.人間の過激化への動き

昨今、あなたがたは何を追求しているであろうか。それは、性情の変化と神の証しに立つことであろうか。それは違う。神のために死に、古老サタンを辱めることを求めている者が多数居るのが分かる。あなたがたは、真理を実践する計画や性情の変化を追求する計画を立てるのではなく、ただ神の愛を返上して懲罰を受けるのを待っているだけであろうか。人々は、「裏切り (1)」と「裏切り (2)」を読んだ後、死ぬ計画を立てている。こうした人々は全員、神の御業の最終目的が、サタンに屈辱を与えるため人間を死なせることだと考えている。したがって、人々は自分が何かを得ることを求めず、好ましい方法で追求せず、苦難を受ける意志も無い。こうした追求は、過激化への動きではなかろうか。神の御業と御言葉は、人間が真理と性情の変化への取り組みを、一層深く、また一層好適に行えるようにすることを目的とする。その御旨は、人間を死なせることでも、人間が素性を現した後に人間を罰することでもない。その御旨は、すべての人間が重要な問題について更に熟考し、自分が置かれた状況を一層明瞭に理解できるようにし、神の要求を理解して、より迅速に真摯な取り組みを行うようにする事のみである。仮に全ての人間が死んで罰を受けるとすれば、神の御業は何のために存在するのであろうか。また、人間救済の結果は、どうなるであろうか。仮に神の御業の目的が人間を死なせる事であるとすると、性情の変化を追求することに確信を持てる者が居るであろうか。その目的は、人間を行き詰まらせるのではないだろうか。人間は行き詰まった時に「いずれにせよ罰を受けるであろうから、何も気にせず、その場しのぎで何とかやって行こう。何をしても、自分は死ぬ。自分は罰を受けることになる。真理の追求に何の意味があろうか。」などと考えるであろう。人間はそれほど確信が持てないであろう。好ましい側面から導かれた場合でさえ、人間には多くの苦難がある。人間に性状の変化を追求させ、それでも死なせるのであれば、救われる者は一人として居ないであろう。なぜなら、そのこと自体に矛盾があるからである。否定的側面から神の証しをするのは不可能である。それは、肯定的側面から実施する必要がある。人間が真理を得るには、その方法によるほか無い。人間の器量は極めて小さいので、肯定的側面から真摯な取り組みを行う方法を明瞭に理解できない。人間は更に否定的側面を仮定し、肯定的側面について混乱し、断念する。誰かが「人間が後で罰せられるのであれば、人間は今どのように実践し、神を愛すべきであろうか」と述べた場合、人々はそれを理解できるであろうか。さらにその者が「神の善良な証人となりなさい」と述べた場合、皆沈んだ声で「あなたがそう言うのであれば、そうしよう」と言うであろう。人間は皆、こうした会話をしつつ、ただ罰を受けるのを待っている。神を愛することや真理を実践すること、神の証しに立つことを考える者は居ないであろう。このような状態の人類は、救われるであろうか。

2.人間が追求すべきことは、生存する者となることである

当初、王となって権力を掌握することを求める人々が居た。最終的に神が来られて御業を行われ、そうした人々が全て奉仕者であること伝えられると、そうした人々はそのことに没し、そこから抜け出さない。こうした人々は、祝福を与えられても、それを欲しない。こうした人々は、自分達が神の民とされたことを信じない。またこうした人々は、自分達が奉仕者ではないと伝えられても、それを信じない。これは両極端ではなかろうか。人間は常に極端に考えることを好む。過去の物事について検討するのは、避けるべきである。それは単に然るべき性情の変化の過程に過ぎず、それ以上追求する必要は無い。ここで熟考すべきことは、自分に必要とされる、最も基本的な計画は何か、神に対して報いる最適な方法は何か、である。私は、あなたがたが従うべき道を得ることのできる方法へと、あなたがたを導く。その方法とは、生存を追求することである。生存の追求においては、後の地位や身分を問わず、自分のすべき物事のみに配慮する必要がある。それが人間の追求すべき事であり、適切な事である。それは途方もない願望ではない。なぜなら、生存する人間は間違い無く善良な人間だからである。生存する者は間違い無く神の善良な証人であり、神の御旨を確実に満たすであろう。したがって、生存の追求は途方もない願望ではなく、むしろ人間が追求すべき事である。このことは、人間を救済する神の御業とも矛盾しない。ある者が罪を受ける準備をしているのであれば、その者は必然的に劣悪な人間である。どうして劣悪な者が神の証しに立つことが出来ようか。罪を受ける者は、すべて神を愛さない者である。どうして神を愛する者が陰府へと送られることがあろうか。陰府へと送られて罰せられた者が神の証しとなることについて話をしても、それは無駄話ではなかろうか。人間が全て陰府へと送られるのであれば、神の御業は無意味となるであろう。仮に全ての人間が死ぬとすれば、神の御業は益々無意味であろう。なぜなら、神の御業の「産物」全てが死ぬであろうからである。それは、何と滑稽な冗談となることであろうか。この仮説は成り立たない、というのが正しいのではなかろうか。またこれは大きな矛盾ではなかろうか。したがって、あなたがたは、奉仕者としてであれ、神の民の一員としてであれ、神の子としてであれ、地位の高い者としてであれ、後に生存するために最も基本的かつ可能な計画を立てる必要がある。考えるべきことは、神による承諾を得て生存するために自分がする必要のある物事のみである。なぜなら、神は多くの人々が生存することを望まれているからである。これで、あなたがたの追求は簡潔になったのではなかろうか。私があなたがたにこのような追求をさせれば、あなたがたが死後に神の証しに立つ方法を懸念することは、決して無いであろう。最後に、あなたがたが理解する必要があるのは、正常な追求は、途方も無い望みではない、ということである。人間は、自らの神の信仰において、途方も無い望みを抱いてはならない。人間が備える必要があるのは、正常な追求である。