言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

唯一の神自身 一
神の権威(一)

4.神のサタンに対する言いつけ

(ヨブ2:6)主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」

サタンは今まで敢えて造物主の権威を超えず、万物は法則の中で生きるようになった

これは「ヨブ記」の中から抜粋した言葉だ。この言葉の中の「彼」はヨブを指す。この言葉は簡単で短いが、多くの問題を説明した。その中に記されたのは、霊界での神とサタンとの具体的な対話であり、それは、神の話す対象――サタンを説明し、神の話の具体的な内容も述べたが、その内容は、神のサタンに対する言いつけであり、命令でもあるのだ。この命令の具体的な細部は、ヨブの命が残されるかどうかにかかわり、神がサタンに与えた、ヨブを扱う最低ライン――命だけは奪うな、にかかわる。この言葉の中から、私たちは先ずこの言葉は神がサタンに言った言葉だと知った。「ヨブ記」の原文と結び付ければ、神がどんな背景でこのような言葉を言ったかを知るようになる。サタンがヨブを訴えようとしたのだから、それは神の同意を得てこそ、ヨブを試みることができた。神がサタンの要求を許可してヨブを試みさせた状況の下で、サタンに対してこのような条件を持ち出して、「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」と言った。これはどんな性質の言葉なのか。明らかに、それは一つの言いつけであり、一つの命令なのだ。この言葉の性質を知った後、あなたは当然、この命令を下した者は神であり、命令を受け、命令に従う対象はサタンだと知るようになる。言うまでもなく、この両者の関係はこの命令によって、この言葉を読む一人一人に明らかに示された。もちろん、これは、聖書の中の、神とサタンとの対話の記録によって提供された霊界での神とサタンとの関係であり、神とサタンとの身分、地位の区別であり、また、今まで人類が具体的な事例、具体的な文字の記録を通して知った、神とサタンとの身分、地位の截然たる区別だ。ここで私は、この言葉の記録は人類が神の身分と地位を認識するのに重要な文献だと言わざるを得ない。それは人類が神を認識するのに必要となる重要な情報を提供した。それゆえ、人は霊界での造物主とサタンとの対話の一部を通して、造物主の権威のもう一つの具体的な内容を理解するようになった。この一つの対話の中で、造物主の唯一無二の権威はもう一度実証された。

うわべから見れば、ヤーウェ神がサタンと対話するように見えるが、実際のところ、ヤーウェ神の話す時の態度と立っていた位置は、サタンのそれより高いのだ。つまり、ヤーウェ神は命令的な口調でサタンに言いつけて、それに何をすべきか、何をすべきでないかを教え、ヨブがもうそれの手に渡され、それが いいようにするがよいが、ヨブの命だけは奪うなと教えた。言外の意味は、ヨブがそれの手に渡されたが、ヨブの命までサタンに渡したわけではないということだ。神の許可がなければ、誰も神の手からヨブの命を奪うことはできない。神の態度は、神のサタンに対するこの命令の中から明らかに現された。それと同時に、ヤーウェ神がサタンと対話する時立った地位もこの命令の中から示され、流露された。ここで、ヤーウェ神が立った地位は光を造り、大空を造り、万物の生き物を造った神であるだけではなく、万物の生き物をつかさどる神であるだけでもなく、人類をつかさどり、陰府をつかさどる神であり、すべての生き物の生死存亡をつかさどる神だ。霊界で、神以外に、誰が敢えてサタンにこのような命令を下すのか。神はまたどうして自分の口でサタンに彼の命令を下したのか。ヨブの命を含めて、人の命はみな神の手中にあって、神はサタンがヨブの命を侵害することを許さず、サタンがヨブの命を奪うことも許さないからだ。サタンの試みがヨブに臨むことを許した時でも、神はやはりわざわざこのような命令を下すことを忘れず、もう一度サタンにヨブの命を奪うなと命令した。サタンは今まで敢えて神の権威を超えず、神の命令と具体的な言いつけに対しては、なおさら気をつけて従い、服従し、敢えて逆らわなかった。もちろん、それは神のいかなる命令も敢えて勝手に変えない。これは神がサタンに与えた範囲だ。だから、サタンは敢えてこの範囲を超えない。これは神の権威の威力ではないか。神の権威の実証ではないか。サタンがどのように神を扱うか、それの心の中でどのように神を評価するかについて、それは人類よりもっとはっきり知っている。だから、神の地位、神の権威のことを、サタンは霊界ではっきり見たし、神の権威の威力と神の権威の行使の原則について深く体験したので、それはいささかも敢えておろそかにせず、いささかも敢えて犯さない。それは敢えて神の権威を超えて何かをせず、また敢えて神の怒りにいかなる挑戦もしない。それの本性が邪悪で傲慢だが、それは敢えて神がそれのために定めた限界、範囲を超えない。千万年の間、それは厳格にこの限界を守り、神のそれに対する一つ一つの言いつけ、毎回の命令を守っていて、その限界を一歩も出ようとしない。サタンはあくどいだが、堕落した人類よりずっと「賢明」だ。それは造物主の身分を知っており、自分の境界線も知っている。サタンの「きちんと規則を守る」行いからも、神の権威と神の力は、サタンが超えられない天の規則であるということが分かる。神の唯一無二のゆえに、神の権威のゆえに、万物は法則の中で変化し、生息することができ、人類は神の定めた軌跡の中で繁殖し、生存することができるのだ。いかなる人、物もこの法則を打ち破ることはできず、いかなる人、物もこの法則を変えることはできない。なぜなら、それらはみな造物主の手によるものであり、造物主の定めによるものであり、造物主の権威によるものでもあるからだ。

造物主の身分を具備した神だけが唯一無二の権威を持っている

サタンの「特殊」な身分のゆえに、少なからずの人がそれの多くの面の表現にたいへん興味を持っている。一部の愚かな者は、神のほかに、サタンも権威を持っているとさえ思っている。それは、サタンが力ある業を行い、人類にできないすべてのことをすることができるからだ。だから、人類は神を敬慕すると同時に、心の中にサタンの位置を残し、さらにはサタンを神として礼拝している。これらの人はかわいそうだし、また恨めしい。彼らがかわいそうであるのは、彼らの無知のゆえだ。彼らが恨めしいのは、彼らの大逆無道のゆえであり、また、彼らの生まれつき邪悪な本質のゆえだ。ここで、あなたたちに権威とは何か、権威は何を象徴するのか、権威は何を代表するのかを分からせることが必要だ、と私は思う。大まかに言えば、神自身が権威であり、神の権威は神の最高至上と神の本質を象徴し、神自身の権威は神の地位と神の身分を代表する。では、サタンは敢えて自分が神だと言うのか、敢えてそれが万物を造り、またそれが万物を支配すると言うのか。もちろん、敢えて言わない!それは万物を造ることができず、今までに、神の造ったどんなものも造ったことがなく、どんな命あるものも造ったことがないからだ。サタンは神の権威を持っていないから、それは永遠に神の地位と神の身分を持つことができない。これは本質によって決まるものだ。それは神と同じような力を持っているのか。もちろん、持っていない!サタンのしたそれらのこと、サタンの行った力ある業は何なのか。力なのか。権威だと言えるのか。もちろん、そうではない!サタンは邪悪な潮流を引き起こして、至る所で神の仕事をかき乱し、破壊し、妨げる。ここ数千年来、サタンは人類を腐敗させ、害し、人を誘惑し、惑わして人が堕落し、神を見捨て、死の谷に向かうようにさせた以外に、少しでも人に記念され、褒められ、宝愛され、大切にされるに値することをしたのか。それが権威を持っており、力を持っているなら、人類はそれに堕落させられることがあろうか。それが権威を持っており、力を持っているなら、人類がそれに残害されることがあろうか。それが権威を持っており、力を持っているなら、人類が神を見捨てて死の道をたどることがあろうか。サタンが権威を持っておらず、力を持っていないなら、それのすることなすことの本質について、どのような結論を下すべきか。ある人はサタンのすることなすことを、取るに足りない技能だと定義した。だが、私は、サタンに対するこのような定義は適切ではないと思う。それが人類を堕落させた悪行は取るに足りない技能なのか。サタンがヨブを害した時の邪悪な気勢と、サタンがヨブを害し、ヨブを食い尽くそうとした強い欲望は、取るに足りない技能によっては絶対に実現できない。その時のことを回想すると、あっという間に、ヨブの満山の牛や羊がなくなり、あっという間に、ヨブの巨万の財産がなくなった。取るに足りない技能では、それを達成できるのか。サタンのすることなすことの性質から見れば、みな破壊、かき乱し、壊し、残害、邪悪、悪辣、暗黒などの否定的な言葉と似合い、一致するのだ。そういうわけで、すべての非正義と邪悪な物事の発生は、サタンの行いと切り離せない関係があり、また、サタンの醜悪な本質と密接な関係がある。サタンがいくら「腕前が見事」であっても、いくら横柄に振る舞っても、それの野心がどんなに大きくても、それの破壊力がどんなに強くても、それの人を堕落させ、人を誘惑する能力がどんなに広くても、それの人を脅かす手管と詭計がどんなに優れても、それの存在する形式がどんなに千変万化しても、それは全然命あるものを造ることができず、全然万物の生存の法則、摂理を定めることができず、全然命あるものと、命のないものをつかさどり、支配することができない。宇宙、大空の中に、サタンによって生じ、サタンによって存在する人、物は全然おらず、サタンに支配される人、物も全然おらず、サタンに掌られる人、物も全然ない。逆に、それは神の権威の下で存在しなければならないだけではなく、さらに、神のあらゆる言いつけ、命令に従わなければならない。神の許可がなければ、地上の一滴の水、一粒の砂にさえ、サタンは安易に触れることができず、神の許可がなければ、地上のアリにさえ、それは勝手に触れることができない。まして神に造られた人類にはなおさらのことだ。神から見れば、サタンは山の中のユリに及ばず、天の鳥に及ばず、海の魚に及ばず、地の蛆虫にも及ばない。万物の中でのそれの役割は、万物のために仕え、人類のために仕え、神の仕事、神の経営計画のために仕えることだ。それの本性がどんなにあくどくても、それの本質がどんなに邪悪であっても、それが唯一できることは、それの機能を守る――神のために仕える――ちゃんと引き立て役を演じることだ。これはサタンの本質と、それの本来の位置だ。それの本質は命と関係なく、力と関係なく、権威と関係なく、それはただ神の手の中の一つのおもちゃ、神のために仕える一部の機械に過ぎない!

サタンの本当の姿を知った後、多くの人は権威とは何かという問題についてやはり分からない。では、私があなたに教えよう!権威そのものについて言えば、それを神の力と解釈してもいい。まず、きっぱりと言えば、権威であれ力であれみな積極的なものだ。それらはいかなる否定的なものとも関係なく、いかなる被造物、非被造物とも関係ない。神の力は、いかなる形式の命あり活力あるものも造ることができる。これは神の命によって決まるのだ。神は命だから、彼はすべての生命体の源だ。それと同時に、神の権威はすべての生命体を、神のすべての言葉に従わせることができる。つまり、神の口の言葉によって生じ、神の言いつけに従って生存し、継続するようにする。それ以後、神はすべての生命体を支配し、つかさどり、それは誤差があり得ず、永遠に続く。これらはいかなる人や物も具備していないものであり、造物主だけがこのような力を持っており、具備している。だから、それを権威と呼ぶ。これは造物主の唯一無二だ。したがって、「権威」という言葉そのもの、或いは権威の本質は、ただ造物主と関係がある。というのは、それは造物主特有の身分と本質の特徴であり、それは造物主の身分と地位を代表するからだ。造物主以外に、「権威」という言葉と関係がある人や物は全然ない。これはすなわち、造物主の唯一無二の権威に対する解釈だ。

サタンが虎視眈々とヨブを狙っていたが、神の許可がなければ、それはヨブのうぶ毛一本さえ触れることができない。サタンはもともと性質が邪悪で残忍だが、神がそれに命令を下した後、それは神の言いつけを守らざるを得なかった。だから、サタンがヨブに臨んだ時、凶悪な狼が羊の群れに入ったようにのさばったけれども、それは敢えて神がそれに決めた範囲を忘れず、それは敢えて神の命令を超えなかった。それはどのようにしても、敢えて神の言葉の原則と範囲を離れなかった。これは事実ではないか。この点から見れば、ヤーウェ神のどの言葉もサタンが敢えて超えなかった。サタンから見れば、神の口の言葉はすべて命令であり、天の規則であり、神の権威の発表だ。なぜなら、神のどの言葉の背後にも、神の命令を犯し、天の規則に背き、抵抗する者に対する神の処罰が含まれているからだ。サタンは、自分が神の命令を超えたら、神の権威を超え、天の規則に抵抗した結果について責任を負うべきだ、とよく知っていた。この結果は一体何だろう。言うまでもなく、それはサタンに対する神の懲罰だ。サタンがヨブ一人に対してしたことは、ただサタンが人類を堕落させたことの縮図に過ぎない。サタンがこのことをする時、神がそれに与えた範囲と命令は、ただそれが事々を行う原則の縮図に過ぎない。しかも、サタンがこのことで演じる役割とそれの位置は、ただサタンが神の経営計画の中で演じる役割とそれの位置の縮図に過ぎない。サタンがヨブを試みることで、絶対的に神に従ったことは、ただサタンが神の経営の仕事の中でいささかも敢えて神に抵抗しないことの縮図に過ぎない。これらの縮図はあなたたちにどんな警告を与えたのか。万物の中で、サタンを含めて、造物主の定めた天の規則、天の規定を越えられる人や物はおらず、敢えてこれらの天の規則、天の規定に背く人や物もない。というのは、反逆者に対する造物主の処罰を変え、それから逃れることができる人や物はないからだ。造物主だけが天の規則、天の規定を定めることができ、造物主だけがこれらの天の規則、天の規定を行使する力がある。造物主だけの力はいかなる人、いかなる物も超えられない。これは造物主だけが持っている権威だ。この権威は万物の中で至高なものだ。だから、「神が最大で、神に次ぐものはサタンだ」という言い方は絶対にない。唯一無二の権威を持っている造物主のほかに神はいない!

今、あなたたちは神の権威に対してどんな新たな認識を持ったのか。まず、ここで言っている神の権威は人の権力と区別があるのか、どんな区別があるのか。ある人は同列に論じることができないと言う。この言葉はとてもいい!人は、同列に論じることができないと言いながら、人の思想、観念の中では、常に人の権力を権威と言いなし、また常にそれらをいっしょくたにして比較する。これはどういうことか。これは、概念をすり替える間違いを犯したのではないか。結びつけてはならず、比較してもならないが、人は依然として自分をコントロールできない。このことはどうやって解決するか。もしあなたが本当に解決したいなら、その唯一の方法は神の唯一無二の権威を理解し、認識することだ。造物主の権威を理解し、認識したら、あなたは人の権力と神の権威を同列に論じることがなくなる。

人の権力とは何か。かいつまんで言えば、人の堕落した性質、人の欲望、或いは人の野心が最大限に膨らみ、実現することができるための一つの腕前または能力だ。これは権威だと言えるのか。ある人の野心や欲望がどれほど膨らみ、実現することができるとしても、彼に権威があるとは言えない。彼の野心や欲望が膨らみ、実現することは、サタンの人の間での一区切りのピエロ演技にほかならず、サタンが自分を自分の祖先にして、神になりたいという野心を満たす一区切りの茶番にほかならない。

今、あなたは一体どのように神の権威を評価するのか。以上のこれらの言葉を交わった後、あなたは神の権威に対して新たな認識を持つべきだ。では、私はあなたたちに聞く。神の権威は何を象徴するのか。神自身の身分を象徴するのではないか。神自身の力を象徴するのではないか。神自身だけが持っている地位を象徴するのではないか。万物の中で、あなたはどんなことで神の権威を見たのか。どうやって見たのか。人の経験する四季から見れば、春、夏、秋、冬の交替の法則を変えられる人がいるのか。春に木が芽生え、開花し、夏に木の葉がいっぱいに茂り、秋に実を結び、冬に葉が落ちる、この法則は誰が変えられるのか。これは神の権威の一面の体現ではないか。神が「光あれ」と言ったら、光があった。この光は今、存在するのか。それが存在するのは何のゆえであるか。もちろん、神の言葉のゆえであり、また神の権威のゆえだ。神の造った空気は今、存在するのか。人類が呼吸している空気は神から来たのではないか。神から来たものを、誰が奪い去ることができるだろうか。誰がそれの本質と機能を変えることができるだろうか。神が分けた昼と夜、定めた昼と夜の法則を、誰が打ち破ることができるのか。サタンは打ち破ることができるのか。夜になって、あなたが寝ないで、夜を昼になすとしても、それはやはり夜だ。あなたはあなたの生活規律を変えることはできるが、昼と夜の交替の法則を変えることはできない。この事実はいかなる人も変えられないのだ。そうではないか。誰が獅子を、牛のように田畑を耕させることができるのか。誰が象をロバにならせることができるのか。誰が鶏を、鷹と同じように空を飛ばせることができるのか。誰が狼を、羊と同じように草を食べさせることができるのか。誰が水の中の魚を陸地で生活させることができるのか。それはどうしてだろう。それが水の中で生活するよう、神が定めたからだ。だから、それは水の中で生きなければならず、陸地では生きられず死んでしまう。それは神の定めた範囲を超えられない。万物はそれぞれ自分の生存の法則と範囲があり、また各自の本能がある。これらはみな造物主が定めておいたのであり、誰も変えられず、超えられない。例えば、獅子は永遠に人の群れから遠く離れた野生の世界で生きなければならず、それは永遠に、牛のように忠実で、おとなしく、人とお供し、人のために働くことができない。象とロバはみな動物で、みな四つの足を持っており、みな呼吸する被造物だが、それらは同類ではない。それらがぞれぞれ神に類別され、それぞれ自分の本能を持っているから、永遠に互換できない。鶏も二つの足を持っており、鷹のように翼を持っているが、それは永遠に空を飛ぶことができず、せいぜい木に飛ぶことしかできない。これはそれの本能によって決まることだ。言うまでもなく、これらはみな神の権威の定めのゆえにあるのだ。

人類が今日まで発展してきて、人類の科学は「 日一日と発展する」と言え、科学的探索によって得た成績は「刮目させる」と言え、人の腕前がだんだん優れていくと言わざるを得ない。けれども、人の科学が唯一突破できないものが一つある。人類は飛行機を造り、空母を造り、原子爆弾を造り、宇宙へ飛び、月に足を踏み入れ、インターネットを発明し、ハイテクな暮らしをしているが、呼吸できる生き物は一つも造ることができない。あらゆる生き物の本能と生存の法則、および各種類の生き物の生死輪廻に対して、人類の科学はどうすることもできず、コントロールすることもできない。それで、人類の科学がいくら最高の域に達しても、造物主の一つの考えにも及ばず、造物主の創造の奇しさと、造物主の権威の威力を計り知ることができないと言わざるを得ない。地球の海水はそんなに多いが、それは勝手に自分の範囲を越えて陸へ上がってくることはない。神がそれらのためにそれぞれの境界線を定めたからだ。それは神の定めた場所にあるべきであり、神の許可がなければ、勝手に動くことができず、神の許可がなければ、それらは互いに侵犯せず、神が動いていいと言った時こそ動くことができ、それの行方、それの存留は、神の権威によって決まるのだ。

分かりやすく解釈すると、「神の権威」とは、神には決定権があり、どう行うかを決める権利があって、神は自分のしたいようにすることができる、という意味だ。万物の法則はみな神が決めるのであって、人が決められるのではなく、人が変えられるのでもない。それは人の意志によって変わるのではなく、神の考え、神の知恵と神の定めによって変わるのだ。これはいかなる人も否定できない事実だ。天地万物、宇宙、星空、一年四季、人が見られるもの、人が見られないものは、みな神の定め、神の言いつけ、神が当時創造した法則によって、少しもずれずに、神の権威の下で存在し、運行し、変化している。いかなる人、物もそれの法則、それの本来の運行軌跡を変えることはできない。それらは神の権威のゆえに生じ、また神の権威のゆえに滅びる。これは神の権威だ。ここまで言えば、あなたは今、神の権威が神の身分と地位の象徴だと感じるのか。神の権威はいかなる被造物や非被造物も具備できるものか。いかなる人、事、物もまね、偽り、取って代わることができるものか。

造物主の身分は唯一無二だから、「多神論」を堅く守ってはならない

サタンの法力と能力は人より大きく、サタンができることは何でも人にはできない。しかし、それのすることが、あなたが羨ましがることであっても、憧れることであっても、あなたが恨むことであっても、嫌うことであっても、あなたが見られることであっても、見られないことであっても、また、サタンがどのくらいのことをすることができるとしても、どのくらいの人を惑わしてそれを礼拝させ、祭らせることができるとしても、あなたがサタンについてどのように定義しても、あなたは絶対に、サタンが神の権威を具備し、神の力を具備したと言ってはならない。あなたは、神は神であり、神は一人しかいないということを知らなければならず、さらに、神だけが権威を具備しており、万物をつかさどり、万物を支配する力を具備していることを知らなければならない。あなたは、サタンが人を惑わす能力があり、サタンが神を偽り、神をまねてしるしや力ある業を行い、神がするのと同じようなことをすることができるからといって、神が唯一無二ではなく、多くの神があり、ただ彼らの法力に違いがあり、彼らの支配する範囲が違うだけだと誤って考えて、彼らの先着順によって、彼らの年齢の大小によって彼らの上下尊卑を定めてはならず、神以外にまたほかの神があり、神の力と神の権威が唯一無二ではないと誤って考えてはならない。もしあなたがこれらの考えを持っており、神の唯一無二を認めず、神だけが権威を持つことを信じず、ただ「多神論」を守るなら、私は、あなたが被造物の中のくずであり、正真正銘のサタンの化身であり、まったくの邪悪なる者だと言う!私がこれらの言葉を言うのは、一体あなたたちに何を分からせるためか、あなたたちは心の中で知っているのか。どんな時でも、どんな場所でも、どんな背景の下でも、あなたは神とほかの人、事、物をいっしょくたにしてはならない。あなたがいくら神の権威と神自身の本質が認識しがたく、近づきがたいと思っても、サタンのやり方や言い方がいくらあなたの観念、想像に合い、あなたの気に入っても、あなたは愚かなことをしてはならず、概念を混同してはならず、神の存在を拒んではならず、神の身分と地位を否んではならず、神をドアの外に押し出して、サタンを引いてきてあなたの心の中の「神」に取って代わらせ、あなたの神としてはならない。このようにすればどういう結果になるのか、あなたたちが予想できると私は信じる。

人類は堕落させられたが、依然として造物主の権威の支配下で生きている

サタンは何千年も人類を堕落させ、数えきれないほどの悪を働き、代々の人を惑わし、人類の間でこの上なく大きな罪を犯した。それは人を残害し、人を惑わし、誘惑して神に反抗させ、それが神の経営計画をかき乱し、破壊した悪行は山ほどある。しかし、神の権威の下にある万物の生き物は、今までどおり神の定めた法則と摂理に従っている。神の権威と比べたら、サタンの邪悪な本性とそれの猖獗はそれほど醜悪であり、それほど人に吐き気をもよおさせ、嫌悪感を覚えさせ、またそれほど取るに足らず、一撃に耐えられない。サタンは神の創造した万物の間を歩いているが、神の定めの下にあるすべての人、事、物を少しも変えることができない。数千年経ったが、人類は依然として神の与えた光、空気を享受しており、依然として神が自ら吐いた息を呼吸しており、依然として神の創造した花・鳥・魚・虫を享受しており、神の供給する万物を享受している。昼と夜は依然として絶えず交替しており、四季も今までどおりに交替している。空を飛んでいる雁は、今年の冬に離れ去って、来年の春にやはり戻ってくる。水の中の魚は河川、湖――それらの家から離れたことがない。地上のセミは夏のうちに思う存分自分たちの歌を歌う。草むらの中のコオロギは秋に、秋風と共に小さな声で歌う。雁は群れをなし隊を組むが、オオタカは単独で行動する。獅子の群れは猟をして生活し、シフゾウは花と草むらを離れられない……。万物の中の各種類の生き物は、去っては来、来ては去り、瞬時に千変万化する。だが、変わらないのは、それらの各自の本能と生存の法則だ。それらは神の供給、滋养の下で生きていて、いかなる人もそれらの本能を変えられず、また、いかなる人もそれらの生存の法則を変えられない。万物の中で生きている人類は、サタンに堕落させられ、惑わされたが、依然として神の造った水、神の造った空気と神の造った万物を離れられない。人類は依然として神の造った空間の中で繁殖し、生きている。人類の本能は変わっていない。人類が依然として両目で見、二つの耳で聞き、大脳で考え、心で悟り、両足で歩き、両手で働くような、神から賜った、神からの供給を受け入れることのできるこれらの本能は変わっていない。神に協力する人類の器官は変わっておらず、被造物の本分を尽くせる人類の器官は変わっておらず、人類の心の需要は変わっておらず、造物主に立ち返りたいという人類の願望は変わっておらず、造物主に救われたいという人類の願望は変わっていない。これは、神の権威の下で生きているが、サタンの血なまぐさい嵐の中で虐げられた人類の現状だ。人類はひどくサタンに蹂躙され、もはや造られたばかりのアダム、エバではなくなり、知識、想像、観念などの、神に敵対するものに満ちており、サタン的な堕落した性質に満ちている人類になった。ところが、神の目には、人類は依然として神の造った人類だ。人類は依然として神の主宰と支配の下にあり、依然として神の定めた軌跡の中で生きているから、神の目には、サタンに堕落させられた人類はただ、外側が汚れだらけになり、飢えに苦しんでおり、反応が少し鈍くなり、記憶力が少し衰え、少し年老いただけだ。でも、人のいろいろな機能、本能は完全で破損していない。これは神が救おうとする人類だ。この人類は造物主の召し、造物主の声を聞くと、立ち上がって、声の源を捜すために奔走することができる。この人類は造物主の姿を見さえすれば、何も顧みず、すべてを捨てて彼のために費やすことができ、さらには、彼のために命を捨てることができる。人類の心が造物主の心の声を感じて悟った時、人類はサタンを捨てて造物主のそばに来るようになる。人類が完全に体の汚れを洗い清めて、再び造物主の滋養、供給を得る時、人類の記憶は回復される。この時の人類は本当に造物主の権威の下に戻ることになる。
                          

2014年10月11日