言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

唯一の神自身 一
神の権威(一)

造物主の権威は時間、空間、地理に制限されず、造物主の権威は計り知れない

私たちは「創世記」第22章16-18節を見よう。これはヤーウェ神が言ったもう一箇所の言葉だ。彼はアブラハムにこう言った。「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」ヤーウェ神は何度もアブラハムを祝福し、その子孫を増やそうとした。どの程度まで増やすのだろうか。聖書の言うどおり、「天の星のように、海辺の砂のように」増やす。それはつまり、神がアブラハムに与えようとする子孫は天の星のように、海辺の砂のように多いということだ。こういう言い方はただ具象的な言い方であり、神の具象的な表現によって容易に知ることができるのは、神がアブラハムに与える子孫は一人や二人ではなく、何千何万もの人でもなく、数え切れないほど多く、諸々の国になれるほど多いということだ。それは、神がアブラハムを多くの国民の父とすると約束したからだ。これほど多くなるのは、人にかかっているのか、それとも神にかかっているのか。人にどのくらいの子孫があるかは、人がコントロールできることか、人が決められることか。「天の星のように、海辺の砂のように」多いことはさておき、何人だと言っても人が決められないことだ。だれが自分の子孫が星のように多いことを望まないのか。惜しいことに、事は希望どおりにいかない。人がどんなに高い能力を持っていても、どんなに優れた腕前を持っていても決められず、誰も神の定めを超えられない。あなたが何人の子孫を持つかは、神にかかっている。神があなたの子孫を少なくすれば、あなたはそんなに多くの子孫を得られない。神があなたの子孫を多くすれば、あなたが多すぎると感じても無駄だ。そうではないか。これらはみな神に決められることであり、人自身が決められることではない!人はみな神の支配下にあり、誰も例外ではない!

神は「あなたの子孫を……増やそう」と言った。これは神がアブラハムと立てた契約であり、この契約は「虹の契約」と同じように永久に成就されるはずであり、それと同時に、神がアブラハムに与えた約束でもある。このような約束は神だけが実現する資格、力を持っている。人が信じても信じなくても、受け入れても受け入れなくても、人が神の与えた約束をどのように評価し、扱っても、このすべては神の言うどおりに、少しも外れることなく実現する。神の言葉は人の意志や人の観念が変わるがゆえに変わることはない。いかなる人、事、物の変化のゆえにも、変わることはない。万物が滅びても、神の言葉は滅びることがない。逆に、万物が滅びるその日はまさに、神の言葉が完全に実現するその日だ。彼は造物主であって、造物主の権威、造物主の力を持っており、彼は万物をつかさどり、すべての生命力をつかさどり、彼は無から有を生み出し、有を無にすることができ、彼はすべての生と死の転換を掌っている。だから、人の子孫を増やすことは、神から見ればこの上なく簡単なことだ。このことは、人には「アラビアンナイト」のように聞こえ、童話の物語のように聞こえるが、神から見れば、神が思い定めたこと、神が人に約束したことは「アラビアンナイト」ではなく、童話の物語でもなく、神がすでに見た事実であり、それは必ず成就される。これについてあなたたちは体験したのか。事実によって証明されたが、アブラハムの子孫は多いかどうか。どれほど多いのか。神の言ったとおり、「天の星のように、海辺の砂のように」多いのではないか。諸国、諸方、世界の各地に及んでいるのではないか。この事実は何によって成就されたのか。神の言葉の権威によって成就されたのではないか。神が言葉を言ってから数百年、或いは数千年の間に、神の言葉は実現し続け、絶えず事実になっている。これは神の言葉の威力であり、神の権威の実証だ。神が万物を創造した時、神が光あれと言ったら、光があった。それはすぐ起きたことであり、短時間に実現したことだ。これらのことが成就し、実現するには時間差がなかったし、それはすぐに効果が現れたことだ。同じく神の権威の表現だが、神がアブラハムを祝福することで、人は神の権威のもう一つの面を見、造物主の権威の計り知れなさも見、さらに造物主の権威のもっと実際的で、もっと卓越した面を見た。

神の言葉が発せられると、神の権威はこの仕事を司り始め、神の口によって約束されたこの事実も一歩一歩現実になり始め、万物の中で、すべてがこのゆえに異なる変化が起きる。例えば、春が来る時、草が緑になり、花が咲き、木が芽生え、小鳥が歌い始め、雁が帰り、野良や田畑では大勢の人でにぎわう……、万物はそれに伴ってよみがえる。これは造物主の奇しい業だ。神が彼の約束を成就する時、天の万物も地上の万物も一つも例外なく神の考えに伴って更新され、変化する。神の口の一つの誓約、一つの約束が実現するために、万物が仕え、動かれ、すべての被造物が造物主の権威の下で支配され、按配されて、各自の役割を演じており、各自の機能を謹んでささげている。これは造物主の権威の表現だ。ここで、あなたは何を見たのか。あなたはどのように神の権威を認識するのか。神の権威は範囲があるのか。時間の制限があるのか。高低、長短によって論じることができるのか。大小、強弱によって論じることができるのか。人の尺度によって評価することができるのか。神の権威は隠れたり現れたり、あったりなくなったりするのではなく、誰も彼の権威がどれほど大きいかを判断することができない。神がある人を祝福するのに、どのくらいの時間がかかるとしても、彼のこの祝福は継続しているのだ。この継続は神の権威の計り知れなさを証ししており、また人類に造物主の永久不滅の生命力が次々と再現することを見せる。彼の権威の毎回の表現は、彼の口の言葉を完璧に現すのであり、万物に現し、人類に現す。彼の権威が成就した事々はみなこの上なく精妙であり、天衣無縫だ。こう言ってもいいが、彼の考え、彼の言葉、彼の権威と彼の成就する事々はみな、比べるものがないほど精美な絵であり、被造物にとって、それの意義と価値は人類の言葉では言い表せないのだ。神が人に約束を与えた後、この人がどこで生まれても、何をしていても、彼が約束を得る前後の背景が何であっても、また彼の生存の環境にどんなに大きな変化が起きても、神には掌を指すようだ。神の言った言葉は、どのくらいの時間が経っても、神から見れば、みな起こったばかりのようだ。つまり、神には彼が人類に与えた一つ一つの約束を進め、つかさどり、実現させる力があり、権威がある。この約束が何であっても、この約束が完全に実現するのにどのくらいの時間がかかっても、さらに、この約束を成就するのに及ぼされる範囲がどんなに広くても(例えば、時間、土地の境界、人種など)、この約束は必ず成就され、実現し、しかも、それは神にとって朝飯前のことだ。これはどんなことを実証するのか。神の権威と神の力の範囲が掌るのは全宇宙、全人類だ。光は神によって造られたが、神が光だけを支配するとは言えない。神が水を造ったから、水だけを管理し、ほかのことは神と関係がない。これは誤解ではないか。神がアブラハムに祝福を与えたことは、数百年を経て、次第に人の記憶から消えているが、この約束は神から見れば、依然としてもとのままであり、それは依然として成就される過程にあり、今まで止まったことはない。その期間に、神がどのように彼の権威を行使したのか、万物がまたどのように神に支配され、按配されたのか、神の造った万物の中でどのくらいの素晴らしい物語が生まれたのか、これらを人類が全然知らず、聞いたこともないが、神の権威の表現、神のわざの流露の素晴らしい一こま一こまはみな、万物の中で伝えられ、褒め称えられている。万物がみな造物主の奇しい業を現し、告げている。造物主が万物を支配するという一つ一つの美談は永遠に万物によって伝えられるであろう。神の万物を支配する権威と神の力が万物に示したのは、神がどこにも、いつでも存在するということだ。あなたが神の権威と神の力がどこにもあるのを見た時、あなたは神がどこにもいつでも存在するのを見ることができる。神の権威、神の力は時間、地理、空間といかなる人、事、物の制限をも受けず、神の権威と彼の力の範囲は人の想像を超えるのであり、人には計り知れず、想像できないものであり、人が永遠に認識し切れないものだ。

ある人は推理し、想像することが好きだが、人の想像の最大の範囲はどこまで至ることができるのか。この世界を超えることができるのか。人の推理、人の想像は、神の権威の真実性と正確性を造り出すことができるのか、人に神の権威に対して認識を持たせることができるのか、人に本当に神の権威を理解させ、それに従わせることができるのか。人の推理、人の想像はただ人の頭の産物であり、人が神の権威を認識するための助けや益になれないということが、事実によって証明された。ある人は一部のSFを読んだことがあって、月球がどんな形かを想像することができ、外惑星がどうなのかを知ることができるとしても、しかし、それは人が神の権威について少し知ったことを意味しているのではない。人の想像はただ想像にすぎないのであり、事実はどうなのか、つまり、これらのことは神の権威とどんな関係があるのか、人の心の中では全然分からない。あなたが月球に行ったことがあったとしても何になるのか。あなたが神の権威について全面的な理解を持ったことを証明できるのか、あなたが神の権威と力の範囲がどれほど大きいかを想像することができることを証明できるのか。人の推理も想像も人に神の権威を認識させることができないなら、人はどうすればいいのか。最も賢明な選択は、推理せず、想像しないことだ。つまり、神の権威を認識するということで、絶対に想像、推理に頼ってはならない。ここで、私があなたたちに言いたいことは何だろう。神の権威、神の力、神自身の身分、神の本質はあなたの想像によって認識できるものではないということだ。想像によって神の権威を認識することができないなら、どんな方式を用いれば、本当に神の権威を認識することができるのか。神の言葉を食べ飲みすることによって、交わることによって、そして神の言葉を経験することによって次第に体験し、次第に確信して次第に理解するようになり、少しずつ認識することができる。これは神の権威を認識する唯一の道であり、それ以外に手っ取り早い方法はない。あなたたちに想像させないのは、あなたたちに座して死を待たせるのではなく、あなたたちにどんな事もさせないのでもない。頭で考え、想像する必要がないのは、論理によって推理せず、知識によって分析せず、科学を根拠としないで、神の言葉を通して、真理を通して、生活の中で接触する事々を通して、あなたの信じる神が権威を持つことを知り、確かめ、実証し、彼があなたの運命を支配していることを実証することだ。彼の力はどんな時でも、彼が真の神自身であることを実証している。これはあらゆる人が神を認識するのに経験すべき道だ。ある人は、彼がもっと簡単な方式を見つけてこの目標を達成したいと言う。このもっと簡単な方式をあなたたちは考え出したのか。本当のことを言えば、あなたは全然考える必要がない。ほかの道はない!唯一の道は、神の発表した一つ一つの言葉、神のした一つ一つの事を通して誠実に、着実に神の所有、所是を認識し、確かめることだ。これは神を認識する唯一の道だ。それは、神の所有、所是、神のすべては空想的なものではなく、実際的なものだからだ。

造物主が万物の生き物をつかさどり、支配する事実は造物主の権威が本当に存在することを語っている

同様に、「ヨブ記」の中にも、ヤーウェのヨブに対する祝福が記されている。神はヨブに何を与えたのか。(ヨブ42:12)「主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。」人類にとって、神がヨブに与えたこれらのものは何なのか。人の財産ではないか。これらの財産を持ったヨブは、その時代でとても豊かだったのではないか。彼はどうやってこれらの財産を得たのか。彼が豊かになった原因は何なのか。言うまでもなく、神の祝福によって、ヨブはこれらの財産を持つようになった。ヨブがどのようにこれらの財産を扱ったのか、どのように神の祝福を扱ったのかは、私たちがここで言及したい話題ではない。神が人に祝福を与えることについて言えば、神の祝福は、あらゆる人が、夢の中でも追い求めるものだが、人が一生の中でどのくらいの財産を得られるか、人が神の祝福を得られるかどうかは、人がコントロールできるのではない。これは紛れもない事実だ!神は、人にいかなる財産も与え、いかなる祝福も得させる権威、力を持っているが、神が祝福を与えるのには原則がある。神はどんな人を祝福するのか。もちろん、神に喜ばれる人だ!同様に神の祝福を得たが、アブラハムとヨブが神から得た祝福は異なる。神はアブラハムを祝福して、彼の子孫を海辺の砂のように、天の星のように増やした。神がアブラハムを祝福したことから見れば、神はある人の子孫、ある種族を強くさせた。このことで、神の権威が支配したのは、万物の生き物のうちの、神の息を吹き入れられた人類なのだ。神の権威の支配下で、この人類は、神の定めた範囲、速度によって繁殖し、生存している。具体的に言えば、この種族の生存能力、拡大速度、命数はみな神に支配されている。神がこのすべてを行う原則は、完全に神がアブラハムに与えた約束に基づいている。つまり、どんな状況であっても、神の約束は神の権威の守りの下で障害なく実行され、また実現される。神がアブラハムに祝福を与えたことから言えば、天地がひっくり返っても、どんな時代になっても、人類がどんな災難を経験しても、アブラハムの子孫は壊滅的な災難に脅かされることはなく、この種族は滅びることはない。だが、ヨブに対する神の祝福は、彼を非常に豊かにさせたことだ。神が彼に与えたもっと多くのものは、さまざまな呼吸できる生き物であり、これらの生き物がどのくらいあるか、その繁殖速度、生存率がどうなのか、それらが肥えてたくましくなるかどうか、などの具体的な事項はすべて神に掌られている。これらの生き物は言葉の能力がないけれども、同じく造物主の支配下にあり、神がそれらを支配する原則は、神がヨブに約束した祝福に基づいていた。神がアブラハムとヨブに祝福を与えたことから見れば、約束の内容は多少異なるが、造物主が万物の生き物を支配する権威は同じなのだ。神の権威と力の細部はみな、アブラハムとヨブに対する神の異なる約束と祝福から発表され、もう一度人類に、神の権威が人の想像では遥かに届かないことを見せ、これらの細部はもう一度人類に、神の権威を認識しようと思うなら、神の言葉の中、神の働きに対する経験の中でこそ達成できることを告げている。

神の万物を支配する権威の中から、人はこの事実を見た。神の権威はただ、神が「光あれ」と言ったら光があり、「大空あれ」と言ったら大空が現れ、「乾いた所が現れよ」と言ったら「乾いた所が現れた」ような言葉だけに体現されるのではなく、もっと多くは、神がどのように光を持続させ、大空がなくならないようにし、地が永遠に水と分けるようにするかに体現され、神がどのように光、大空、地などの被造物を支配し、管理するかという細部に体現されるのだ。神の人類に対する祝福の中から、あなたたちはまた何を見たのか。明らかに、アブラハムとヨブに祝福を与えた後、神は歩みを止めなかった。なぜなら、彼の権威は行使されたばかりであり、彼は彼の言った一つ一つの言葉を現実化し、彼は彼の言った一つ一つの細部を実現させようとしたからだ。だから、彼はこれから先の年月の中で、彼のしようとするすべての事を続けていた。もしかすると人から見れば、神には権威があるから、神がただ言葉を言い、何もしなくても万事万物が成就されるかもしれない。人のこの想像は少し荒唐無稽なのだ!もしあなたがただ一面的に、神が言葉によって人と契約を立て、言葉によってすべてを成就することを扱うだけで、神の権威によって支配される万物の生存のさまざまな形跡、事実を見られないなら、神の権威に対するあなたの理解はあまりにも非現実的であり、あまりにも荒唐無稽だ!人が神に対してこのような想像を持っているなら、人の神に対する認識はもう窮地に陥り、袋小路に入ったと言わざるを得ない。なぜなら、人が想像した神はただ命令を下す一台の機械であって、権威を持っている神ではないからだ。アブラハムとヨブの事例を通して、あなたは何を見たのか。神の権威と力の実際の面を見たのか。神はアブラハムとヨブを祝福した後、もとの場所にいて動かなかったのではなく、使者にことをさせた後、自分は結果だけを待っていたのでもない。逆に、神の言葉が出ると、万物は神の権威の導きの下で神のしようとする仕事に協力し、神が必要とする人、事、物を用意し始める。つまり、神の言葉が語り出されると、神の権威は全地で行使され始め、神がアブラハムとヨブに与えた約束を成就し、実現させるために道を開き、それと同時に、以後踏むべきすべての手順と、あらゆる肝心な段階に必要となるすべてを適切に計画し、準備しておく。この期間に、神が動かすのは神の使者だけではなく、神の造った万物も動かす。つまり、神の権威の行使の範囲は神の使者の間にではなく、もっと多くは、神は万物を動かして神の成し遂げようとする仕事に協力させる。これらは神の権威の具体的な行使の仕方だ。あなたたちの考えの中で、一部の人はこのように神の権威を理解するだろう。神には権威があり、力があるから、神は第三の天にいるか、或はある特定の場所にいるだけでよく、いかなる具体的な仕事もする必要がなく、神のすべての仕事は考えの中で完成される。人はまた、神がアブラハムに祝福を与えたが、決して何かをする必要がなく、一言言えば十分だと思うかもしれない。事実はそうなのか。明らかに、そうではない!神には権威があり、力があるが、彼の権威は真実で実際的なものであって、非現実的なものではない。神の権威と彼の力の真実性と実際的な面は、彼が万物を造り、万有をつかさどり、彼が人類を導き、人類を経営する過程の中で次第に流露され、体現されるのだ。神が人類を支配し、万物を支配する上での、一つ一つの方法、角度、細部と彼の成就したすべての仕事、そして彼の万物に対する理解は、神の権威、神の力が空論ではないことを確実に証明した。彼の権威と力はどんな時でも、どんな事においても、表現され、流露されている。これらの表現と流露はみな、神の権威が実際に存在することを語っている。というのは、彼はどんな時でも彼の権威と彼の力によって彼の仕事を続けており、万物をつかさどり、万物を支配しているのであり、彼の力と権威は、天使と神の使者でも取って代われないからだ。神がアブラハムを祝福して何を与えるか、ヨブを祝福して何を与えるかは、神によって決められるのであり、神の言葉によって成就されるのだ。たとえ神の使者がアブラハム、またはヨブに臨んだとしても、彼らの行うことはみな、神の言いつけによって、神の権威の下でしたのだ。彼らも同じく神の支配下にある。人は聖書の記録の中で、神の使者がアブラハムに臨んだのを見て、ヤーウェ神が自ら何かをしたのを見ていないが、事実上、力と権威の本当の実施者は神自身だけだ。これはだれも疑いをさしはさめないことだ!あなたが天使や使者が大いなる力があって、しるしや奇跡を行い、或いは彼らが神の委託を受けていくらかの事をしたのを見たとしても、彼らのすることなすことはただ神の委託を完遂するためであり、絶対に神の権威の表現ではない。いかなる人や物も造物主の万物を創造し、万物を支配する権威を持っていないので、いかなる人や物も造物主の権威を行使し、表現することはできない。

造物主の権威は永遠に変わらず、犯してはならない

以上の三つの章節の中から、あなたたちは何を見たのか。神が彼の権威を行使する時、原則があることを見たのか。神が虹によって人と契約を立てて、虹を雲の中に置き、人にもう洪水によってこの世を滅ぼさないと教えたということを例に挙げよう。今、人が見ることのできる「虹」はやはり、神があの時言った「虹」なのか。それの性質と意義は変化していないのか。きっぱりと言えば、変化していないのだ。神は彼の権威によってこのことをした。彼が人と立てた契約は今まで続いている。この「契約」がいつ変わるかは、もちろん神が決定する。神は「雲の中にわたしの虹を置く」と言った後、今日までずっとこの「契約」を守っている。このことで、あなたはまた何を見たのか。神は権威を持っており、力を持っているが、ことを行う時、彼はとても謹厳であり、とても原則があり、約束をきちんと守る。彼の謹厳さと、彼のことを行う原則は、造物主を犯してはならないことと、造物主の権威は超えられないことを示している。彼は最高至上の権威を持っており、万物が彼の権威の下にあり、彼は万物を支配する力を持っているけれども、神は自分の計画を破壊したり、かき乱したりしない。彼は権威を行使するごとに、厳格に彼自身の原則を守り、正確に彼の口の言葉、彼の計画の中の手順と目標にしたがって行う。言うまでもなく、神の支配下にある万物も神の権威の行使の原則に従っている。いかなる人、物も彼の権威の支配から逃れることができず、また、いかなる人、物も彼の権威の行使の原則を変えることができない。彼の目には、祝福を蒙る人は彼の権威によって祝福を受け、呪われる人は彼の権威によって懲罰を受ける。神の権威の支配下で、いかなる人、物も神の権威の行使から逃れることができず、またいかなる人、物も神の権威の行使の原則を変えられない。造物主の権威はどんな要素が変わるからといって変わるのではなく、同様に、彼の権威の行使の原則も、どんな原因があるからといって変わるのではない。天地は大きな変化が起っても、造物主の権威は変わることがない。万物は滅びても、造物主の権威は永遠に滅びない。これは造物主の永遠に変わらない、犯してはならない権威の性質であり、これはまた造物主の唯一無二なのだ!

以下のこの言葉は神の権威を認識するのに言及しなければならない言葉だ。その含意は以下の交わりの内容にある。続けて聖書を読もう。