言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

唯一の神自身 一
神の権威(一)

あらゆる被造物と非被造物は造物主の身分に取って代わることができない

万物を造り始めた時から、神の力は発表され始め、流露され始めた。神は言葉によって万物を造ったのだから、彼がどの方式によって万物を造ったとしても、何のため万物を造ったとしても、とにかく、万物は神の言葉によって生じ、成り立ち、存在する。これが造物主の唯一無二の権威だ。人類がまだこの世界に現れていない時、造物主は彼の力、彼の権威によって人類のために万物を造り、彼特有の方式によって人類のために適当な生存の環境を用意した。彼がしたこのすべては、将来彼の息を得る人類のために用意された。つまり、人類がまだ造られていない時、神の権威は、人類と異なるあらゆる被造物の中で表現された。大は天体、光る物、海洋、陸地から、小は鳥獣類とさまざまな昆虫、微生物、および人の肉眼で見られないざまざまな菌類に至るまで、すべて造物主の言葉によって生存し、造物主の言葉によって繁殖し、造物主の言葉によって造物主の支配下に生きている。それらは造物主の息を得ていないけれども、やはり異なった形式、異なった構造によって造物主が彼らに与えた命の活力を表現している。それらは造物主が人類に与えた言葉の能力は得ていないが、それぞれ造物主がそれらめいめいに与えた、人類の言葉と異なる、命を言い表す方式を得た。造物主の権威は、外見から見れば動いていないように見える物質に命の活力を与えて、それらが永遠に消えないようにすることができるだけではなく、さらに、いろいろな生き物に繁殖し生息する本能を与えて、それらが永遠に姿を消さず、一代また一代と造物主がそれらに与えた法則、摂理を伝えるようにすることもできる。造物主の権威の行使方法はマクロの面とミクロの面にこだわらず、どんな形式の中にも限定されない。彼は宇宙の運行をつかさどることができ、万物の存亡を支配することもでき、さらに万物を動かして彼のために仕えさせることができる。彼は山河、湖の運行を管理することができ、その中の万物を支配することもでき、さらに万物に必要なものを供給することができる。これは人類以外の万物の中での、造物主の唯一無二の権威の表現だ。このような表現は一生だけのものではない。それは永遠に止まらず、休むことがなく、いかなる人、物もそれを変え、破壊することはできず、またいかなる人、物もそれに加えたり、減らしたりすることはできない。造物主の身分はだれも取って代わることができないから、造物主の権威はいかなる被造物も取って代わることができず、また、いかなる非被造物も到達できないのだ。例えば、神の使者や天使、彼らは神の力を具備せず、造物主の権威はなおさら具備しない。彼らが神の力を持たず、神の権威を持たないのは、彼らが造物主の本質を持たないからだ。非被造物の中で、例えば神の使者、天使たちは神の代わりにいくらかの事をすることはできるが、神を代表することはできない。彼らは人類が具備してない力は少し具備しているが、神の権威は具備しておらず、神と同じような、万物を創造し、万物をつかさどり、万物を支配する権威は具備していない。だから、神の唯一無二はいかなる非被造物も取って代われないものだ。神の権威と神の力も同様に、いかなる非被造物も取って代われないものだ。聖書の中で、あなたは神のどの使者が来て万物を造ることを見たのか。神はどうして彼の使者と天使を遣わして万物を造らせないのか。彼らは神の権威を持っていないからだ。だから、彼らは神の権威を行使する力を具備していない。あらゆる被造物と同じように、彼らも造物主の支配の下にあり、造物主の権威の下にあり、造物主は同様に彼らの神であり、また彼らの支配者だ。彼らのうちの一員は、身分や貴賤を問わず、能力の大小を問わずみな造物主の権威を超えることができない。だから、彼らのうちのだれも、造物主の身分に取って代わることができず、彼らは永遠に神と呼ばれることができず、永遠に造物主となることもできない。これは永遠に変わらない真理と事実だ!

以上の交わりを通して、私たちは、唯一無二の権威を具備し、唯一無二の力を具備した、万物の創造者、支配者だけが唯一の神自身と呼ばれることができる、と定義してもいいだろう。ここであなたたちは、わたしの問題があまりにも奥深くて、あなたたちが暫く理解することができず、その中の本質を見極めることもできないと感じるかもしれない。だから、あなたたちはこの問題がとても答えにくいと思っている。では、わたしは続けて交わる。続いて、わたしはあなたたちに神自身だけが持っている権威と力の多くの面の実際の業を見せる。そうすることによって、あなたたちは、何が神の唯一無二なのか、何が神の唯一無二の権威なのかを本当に知り、理解し、認識するようになる。

2.神は言葉によって人と約束を立てた

(創9:11-13)「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」

万物が造られた後、造物主の権威は「虹の契約」の中でもう一度実証され、表現された

造物主の権威はどんな時でもあらゆる被造物の中で表現され、行使される。彼は万物の運命を支配しているだけではなく、同時にまた、彼が自分の手で造った人類――異なる命の構造を持っていて、異なる命の形式によって生きているこの特別な被造物を支配している。万物を造った後、造物主は彼の権威と力を発表することを止めなかった。彼から見れば、万物を支配し、全人類の運命を支配する彼の権威は、人類が本当に彼の手の中で誕生したその瞬間から正式に始まったのだ。彼は人類を経営し、人類を支配し、人類を救おうとし、本当に人類を得ようとし、万物を管理できる人類を得ようとし、彼はこのような人類が彼の権威の下に生きていて、彼の権威を認識し、彼の権威に従うようにしようとする。それゆえ、神は正式に、人の間で彼の言葉によって彼の権威を発表し、彼の権威によって彼の言葉を実現し始めた。もちろん、この過程の中で、神の権威の表現はどこでも見ることができる。しかし、私はただ人が聞き慣れているいくらかの特別な事例を取り出して、あなたたちがその中から神の唯一無二、神の唯一無二の権威を理解し、認識するようにする。

「創世記」第9章11節から13節の言葉は、神の創世について記録した、上の言葉と似ているところがあるが、異なるところもある。似ているところは何か。神が同じく言葉によって彼のしようとする事をしたということだ。異なるところは、この箇所の言葉が神と人との対話であり、この箇所の言葉の内容は人と約束を立て、約束についての内容を人に告げた、ということだ。神の今回の権威の行使は、人との対話の中で成就された。つまり、人類が造られる前に、神の言葉は一種の言いつけ、一種の命令であり、彼が造ろうとする被造物に対して発布するものだった。その時、神の言葉を拝聴する対象ができた。だから、彼の言葉は人との対話であるだけではなく、彼の人類に対する言いつけ、戒告であり、さらに彼が万物に下達した、権威を持つ命令だ。

この箇所の言葉には、神のしたどんな事が記されたのか。洪水によってこの世を滅ぼした後、神が人と立てた契約の内容が記されている。それは、神がもう洪水によってこの世を滅ぼさない、と人に告げている。しかも、神はこのために一つのしるしをつけようとする。このしるしは何だろう。原文にはこう書いてある。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」これは造物主が人類に対して言った元の言葉だ。彼が言葉を言うと同時に、その虹は人の視線に現れ、今日まで続いている。虹はみんなが見たことがある。しかし、虹を見る時、あなたはこの虹がどうやって現れるのかを知っているのか。科学はこのことを論証することができない。科学はそれの源を見つけることができず、それの行方も見つけることができない。なぜなら、これは造物主が人と立てた契約のしるしだからだ。それは科学の根拠を必要とせず、人為的なものではなく、人が変えられるものでもなく、それは造物主の言葉が発せられた後の権威の継続だ。造物主は彼特有の方式で、彼が人と立てた契約、彼の約束を固く守っている。だから、虹の現れを、神の立てた契約のしるしとすることは、造物主にとっても造られた人類にとっても永遠に変わることのない天の規則、法則だ。この永遠に変わらず続く法則は、造物主が万物を造った後の、権威のもう一度の本当の体現だと言わざるを得ず、造物主の権威と力は無限であり、「虹」をしるしとすることはまさに、造物主の権威の継続、延伸だと言わざるを得ない。この事は、神が言葉によってしたもう一つの事であり、神が言葉によって人と契約を立てた一つのしるしであり、彼は人に、彼が何を成し遂げようと思い定めたのか、どういう方式によってそれを実現させ、どういう方式によってそれを成就するかを告げた。事はこのように神の口の言葉によって実現した。神だけがこの力を持っている。彼がこのような言葉を言った数千年後の今日でも、人類は依然として神が言った虹を見ることができる。神のこの言葉のゆえに、この事は今までずっと変わっておらず、変化していない。この虹を取り除くことができる人はおらず、それの法則を変えることができる人もいない。それはただ神の言葉のために存在する。これは神の権威だ。「神は言ったからには必ず成し遂げ、成し遂げるからには必ず成就し、成就するからには必ず永遠に成就する」という言葉は、ここで明らかに体現されている。これは神の権威、神の力のとても明らかなしるしと特徴だ。このようなしるしと特徴は、いかなる被造物も具備しておらず、いかなる被造物の身からも見られず、いかなる非被造物の中でも見られない。このようなしるしと特徴は唯一の神特有のものだ。それは造物主だけが持っている身分や本質と被造物の身分や質とを区別した。同時に、それは神自身以外のすべての被造物と非被造物が永遠に超えられないしるし、特徴だ。

神の目には、人と契約を立てることはとても重要なことだ。彼はそれを通して人に、ある事実を告げようとし、また人に彼の心意を告げようとした。そのため、彼は一種の特別な方式、一つの特別なしるしによって人と契約を立て、このしるしによって彼が人と立てた契約を約束した。では、この「契約」を立てることはとても大きな事ではないか。この事はどれほど大きいのか。この「契約」の特別なところはこうだ。それは、ある人がほかの人と立てた契約ではなく、ある団体がほかの団体と立てた契約ではなく、ある国がほかの国と立てた契約でもなく、造物主が全人類と立てた契約だ。この契約の有効期限は、造物主が万物を滅ぼすその日までなのだ。この「契約」の実施者は造物主であり、それの守護者も造物主だ。要するに、人類と立てた「虹の契約」のすべては、造物主と人の対話にしたがって、今日まで実現し、成就している。被造物は造物主の権威に従順になり、聞き従い、それを信じ、理解し、実際に見、ほめたたえる以外に、何ができるのか。それは、唯一の神以外に、このような力があってこのような契約を立てることができる人はだれもいないからだ。一回また一回と虹が現れる中で、それは造物主が人類と立てた「契約」を人に告げ、気付かせる。造物主が人類と立てた契約が絶えず現れる中で、それが人類に示すのは「虹」そのものと「契約」そのものではなく、造物主のその永遠に変わらない権威だ。一回また一回の虹の出現が示すのは、秘められた所での造物主の驚天動地の奇しい業であり、同時にまた、永遠に消えず、永遠に変わらない造物主の権威の活力の体現だ。これらはもう一つの面の、造物主の唯一無二の権威の表現ではないか。

3.神の祝福

1)(創17:4-6)「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。」

2)(創18:18-19)「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」

3)(創22:16-18)御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

4)(ヨブ42:12)主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。

造物主だけが持っている話の仕方と特徴は、造物主の唯一無二の身分と権威の象徴だ

神の祝福は多くの人が追求し、得ようとするものだ。だが、だれでも神の祝福を得られるのではない。それは、神には神の原則があり、彼は彼の方式によって人に祝福を与えるからだ。神が人にどんな約束を与えるか、どのくらいの恵みを与えるかは、人の思いや考え、人のあらゆる行いによって分け与える。では、神の祝福は何を説明するのか。また人にその中から何を見せるのか。ここで、私たちはひとまず、神がどんな人に祝福を与えるかを論じず、神の人を祝福する原則も論じないで、やはり神の権威を認識することを目標として神の人に対する祝福を評価し、神の権威を認識するという角度から神の祝福を評価しよう。

以上の四つの章節はみな、神が人に祝福を与えることに関する記録だ。その中には、アブラハム、ヨブなどの、神が祝福を与えようとする対象が詳しく記されており、神が人に祝福を与える原因も詳しく記されており、それと同時に、神が人に祝福を与える内容が詳しく記されている。神の話す口ぶり、方式と神の立つ角度、位置から、人は、祝福を与える者と祝福を受ける者の身分、地位と本質が全く異なることを感じられる。このような話す口ぶり、方式と彼の立つ位置は、造物主の身分を具備した神だけが持っているものだ。彼は権威、威力を持っており、また、造物主の尊さと、いかなる人も疑ってはならない威厳を持っている。

まず(創17:4-6)を見てみよう。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。」これらの言葉は神がアブラハムと立てた契約であり、アブラハムに対する神の約束でもある。つまり、神は彼を多くの国民の父とさせ、彼をますます繁栄させようとした。しかも、彼を諸国民の父とし、王となる者たちが彼から出ると言った。あなたはこれらの言葉の中から神の権威を見たのか。あなたはどうやって神の権威を見たのか。あなたは神の権威のどの面の本質を見たのか。これらの言葉を注意深く読むと容易に見い出すことができるが、神の権威と神の身分は神の言葉遣いから明らかに流露している。例えば、神は「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは……となる。……あなたを……とするからである。わたしは、あなたを……させ」と言ったが、その中の「あなたは……となる」、「わたしは、あなたを……させ」などの神の身分と権威を帯びる肯定的な言葉は、一方では造物主の信実であり、もう一方では、それらはみな造物主の身分を具備する神の専用の言葉、また慣用の言葉だ。もしある人が、自分の子孫がますます繁栄し、諸国民の父となり、王となる者たちが自分から出るように祝福するなら、それは疑いなくただ一つの願望であり、約束や祝福ではない。だから、人は敢えて「私はあなたを……させ、私はあなたを……とする」と言わない。なぜなら、人は自分がその権力を具備しておらず、人が決められることではなく、たとえそう言ったとしても、それは空談、無駄話であり、人の欲望と野心に駆けられたのだ、と知っているからだ。人は自分の願望が成就できないと感じる時、敢えてこのように大きな口をたたくのか。人はみなよい願望を持っていて、子孫がとんとん拍子に出世し、人に抜きんでることを希望する。皇帝になる子孫が一人いれば、それは本当にこの上もない幸いだ!省長になる者がいてもいいことだ。人の上に立つ人になるだけでいい!これらはみな人の願望だ。だが、人は自分の子孫のために願い事をし、幸福を祈ることができるだけで、いかなる人に対する約束や誓約も実現し、成就することはできない。人の心の中では、人がこれらを達成する権力を持っていないことをはっきり知っている。人は自分のすべてさえ思う通りにさせないから、どうして他人の運命を支配することができるだろうか。しかし、神がこのような言葉を言うことができるのは、神はこのような権威を持っていて、彼が人に与えたすべての約束を成就し、実現することができ、彼が人に与えたすべての祝福を実現することができるからだ。人類は神に造られたので、神がある人の子孫を繁栄させるのはとても容易なことであり、彼がある人の子孫を栄えさせるのも、一つの言葉だけで成就することができる。彼はこのために忙しく働いたことがなく、このために大いに頭を働かせ、或いは心を労し、無理をしたこともない。これは神の力、神の権威だ。

「創世記」第18章18-19節の中の「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」という言葉を見た後、あなたたちは神の権威を感じられるのか、造物主の非凡さを感じられるのか、造物主の至上最高を感じられるのか。神の言葉はとても確実だ。神がこう言ったのは、神が必ず勝つという信心を持っているからではなく、神が必ず勝つという信心を持っていることを表すのでもなく、それは神の言葉の権威の実証であり、彼の言葉が実現するための一種の命令だ。ここに、あなたたちが注意を払うべき二つの言葉がある。神の言った「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」という言葉の中には、あいまいな要素があるのか、心配な要素があるのか、恐れな要素があるのか。人の身に常に表現されるこれらの人特有の要素は、神の言葉の中の「は……になる」、「によって……になる」という言葉のゆえに、造物主と何の関係もなくなる。敢えてこのような言葉を、他人に対する祝福に用いる人は一人もおらず、敢えてきっぱりと、他人を大きな強い国民になるよう祝福するか、或いは世界のすべての国民は彼によって祝福に入ると約束する人も一人もいない。神がきっぱりと言えば言うほど、何を実証するのか。神がこのような権威を具備し、神の権威がこのことを成し遂げられることを実証し、神が必ずこのようなことを成就することを実証する。神がアブラハムにこのすべてを祝福するのは、神の心の中では、きっぱりとしており、少しもためらわなかった。しかも、彼は彼の言葉によってこのすべての事を成就するから、いかなる勢力もこの事の実現を変え、阻み、破壊し、かき乱すことができず、どんな事が起こっても、神の言葉の実現と成就を止め、それに影響することができない。これは造物主の口の言葉の威力であり、また人が否定できない造物主の権威だ!あなたがこの言葉を読み終えた時、心の中にまだ疑いがあるのか。これらの言葉は神の口から出たのであり、神の言葉は力を帯び、威厳を帯び、権威を帯びている。このような威力とこのような権威、そして事実が成就する必然性は、いかなる被造物と非被造物も達成できないのであり、いかなる被造物と非被造物も超えることができないのだ。造物主だけがこのような口ぶり、このような口調で人類と対話することができる。事実は、彼の約束が空談、大きな話ではなく、あらゆる人、事、物が超えられない唯一無二の権威の発表だということを証明する。

神の言う言葉と人の言う言葉はどんな区別があるのか。あなたが神の言ったこれらの言葉を見る時、あなたは神の言葉の威力と神の権威を感じられる。もし人がこのような言葉を言うのを聞いたなら、あなたはどんな感じなのか。あなたはこの人が傲慢すぎて、大きな口をたたき、自分をひけらかしているのだと感じないのか。彼はこのような力を持たず、このような権威を具備してないから、全然このような事を成就することはできない。彼がこのようにきっぱりと約束すると、彼が口から出任せを言うのだと言うしかない。もし人がこのような言葉を言うなら、それは疑いなく傲慢であり、自分の身のほどを知らないのであり、典型的な天使長の性質の流露だ。この言葉が神の口から出る時、あなたはその中に傲慢な要素があると感じることができるのか、神の言葉が冗談事だと感じることができるのか。神の言葉は権威であり、神の言葉は事実であり、彼の言葉が口から出る前、すなわち彼があることを成し遂げようと決めた時、この事はすでに成就した。こう言ってもいいが、神がアブラハムに言った言葉は、神がアブラハムと立てた契約であり、神がアブラハムに与えた約束でもあり、この約束は既定の事実であり、既成の事実でもあり、これらの事実は、神の考えの中で神の計画によって次第に実現していく。だから、神がこのような言葉を言うのは、神が傲慢な性質を持つことを意味しているのではない。というのは、神はこのような事を成し遂げることができ、彼はこのような力、このような権威を持っていて、完全にこのような事を成就することができ、これらの事を成就するのは、完全に彼の力の範囲内のことだからだ。同じ言葉でも神の口から出るのなら、それは神の真実な性質の流露と発表であり、神の本質、神の権威の完璧な流露、表現であり、また造物主の身分の最も適当な、最も適切な証明だ。このような話の仕方、口ぶり、言葉づかいは、まさに造物主の身分のしるしであり、完全に神自身の身分に合う流露であり、その中には見せかけ、混じり気がなく、完全に造物主の本質と権威の完璧な現れだ。被造物にはこのような権威がないだけではなく、このような本質もなく、なおさら神から与えられた力もない。人にこのような流露があるなら、それは疑いなく堕落した性質の爆発であり、人の傲慢、人の野心が災いしているのであり、人を惑わし、人を誘惑して神を裏切らせようとする正真正銘の悪魔、サタンのあくどい意図の暴露だ。神はこのような言葉の流露をどう評価するだろうか。神はあなたが、神と地位を奪い合い、神を偽り、神に取って代わろうとすると言う。あなたが神の話す口ぶりをまねる意図は、人の心の中での神の地位に取って代わり、もともと神に属すべき人類をわがものにするためだ。これは正真正銘のサタン、天使長の後裔のすることであり、天理上許されないことだ!あなたたちのうち、ある方式によって神をまねていくらかの言葉を言い、意図的に人を誤導し、人を惑わして、人に、自分が話し、事を行う時、神の権威と威力を帯びていると感じさせ、人に、自分の本質と身分がほかの人とは異なると感じさせ、さらには人に、自分の話す口ぶりが神のと似たところがあると感じさせた人はいないのか。あなたたちはこのような事をしたことがないのか。神の口ぶりをまねて、いわゆる神の性質を代表する手ぶりを添えて、いわゆる威力、いわゆる権威をもって話す。このような表現は、あなたたちのうちの大多数の人がいつもすること、或いはしようとすることではないのか。今、あなたたちが本当に造物主の権威を見、体験し、認識した時、再びあなたたちが以前したこと、流露したものを思い出せば、嫌らしいと感じないのか、あなたたちの下劣さ、無恥を認識したのか。このような人の性質とこのような人の本質を解剖した後、彼らが呪われるべき地獄の子だと言ってもいいのではないか。このようなことをする人がみな自ら恥をさらすと言ってもいいのではないか。あなたたちはこの性質の深刻さを認識したのか。どれほど深刻なのか。人がこうする存心は、神をまね、神になり、人に彼を神として礼拝させ、人の心の中での神の地位を取り除き、人の間で働く神を追い払って、人をコントロールし、食い尽し、占有するという彼の目的を達成することだ。人の潜在意識の中にはみなこのような欲望と野心がある。どの人もサタンに堕落させられたこの本質の中に生きており、神に敵対し、神を裏切り、神になろうとするサタンの本性の中に生きている。神の権威についての話題を交わった後、あなたたちはまだ、神を偽り、神をまねるという欲望、野心があるのか。まだ神の役を演じたいという欲望があるのか。まだ神になりたいという欲望があるのか。神の権威は人がまねることができるのではない。神の身分と地位は人が偽ることができるのではない。あなたは神の話す口ぶりをまねることはできるが、神の本質をまねることはできない。あなたは神の地位に立って神を偽ることはできるが、永遠に神のしようとする事をすることはできず、永遠に万物を支配し、万物をつかさどることはできない。神の目には、あなたは永遠にごく小さな被造物であり、あなたの腕前、能力がいくら優れていても、あなたがどのくらいの賜物を持っていても、あなたのすべては造物主の権威の下にある。あなたがいくらかの強硬な言葉を言うことができるとしても、あなたが造物主の本質を持っていることを証明することができず、あなたが造物主の権威を持っていることを表すこともできない。神の権威と力は神自身の本質であり、学んできたものではなく、外界から加えられたものでもなく、神自身のもとからある本質だ。だから、造物主と被造物の関係は永遠に変わることがない。被造物の一員として、人は自分の本来の位置を守り、正直な人になって、造物主があなたに与えた委託を忠実に守らなければならず、枠を超えること、自分の「能力の範囲」外のこと、神に嫌われる事をしてはならず、偉人、超人、非凡な人になることを追い求めてはならず、神になることを追い求めてもならない。これらはみな、人が持つべきでない「願望」だ。偉人、超人になることを追い求めるのは荒唐無稽なことであり、神になることを追い求めるのはさらに恥ずべきことであり、人に吐き気をもよおさせること、人に唾棄されることだ。本当の被造物になることこそが、殊勝なことであり、被造物が最も守るべきことであり、あらゆる人が追い求めるべき唯一の目標だ。