言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

唯一の神自身 一
神の権威(一)

第五の日に、形のそれぞれ異なる個々の命が異なる方式で造物主の権威を示した

聖書にはこう書いてある。(創1:20-21)「神は言われた。『生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。』神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。」聖書ははっきりと言っている。その日、神は水の中のさまざまな生き物を造り、地の上にさまざまな鳥を造った。つまり、さまざまな魚、さまざまな鳥類を造り、しかも、それらを各々その種類に従わせた。こうして、地の上、天の大空の面、水の中は神の創造のゆえ豊かになった……

神の言葉が発せられるにつれて、またたく間に、形のそれぞれ異なる、生々しい命が、造物主の言葉の中で生き生きとしていた。それらは、先を争って、ぴょんぴょん跳ねながら、とても楽しくこの世界に来た……水の中にはさまざまな魚が泳いでおり、さまざまな甲殻類が水の中の砂地で産み出され、さまざまな、うろこや殻を持つ動物、軟体動物が、水の中でいろいろな形式でわれ先に成長する。それらは、柄が大きいのもあれば、柄が小さいのもあり、長いのもあれば、短いのもある。それと同時に、さまざまな海藻もわれ先に生え、水の中の各種類の生き物が泳ぐにつれて揺れ動いており、体を振りながら、この静まり返っている水域に催促して、「湧き立てよ!あなたの仲間を連れて。あなたはもう寂しくないから!」と告げているようだ。神の造った、水の中の各種類の生き物が、水の中に現れたその瞬間、この一つ一つの生々しい命は、長い間静まり返っていたこの水に活気をもたらし、また新しい紀元をもたらした……その時から、それらは互いに寄り添い、お供をし、一心同体となった。水はその中の生き物のために存在し、自分の懐の中で生きているすべての命を滋養している。すべての命もそれに滋養されて、それのために生きる。それらは互いに自分の命を捧げており、それと同時に、同じ方式で造物主の創造の奇しさと偉大さを証ししており、造物主の権威の超越できない力を証ししている……

海の水がもう静まり返らないと同時に、大空の中も活気にあふれるようになった。大小さまざまな鳥が地から飛び立った。それらが水の中のさまざまな生き物と違うのは、それらは羽がいっぱいついており、二つの翼があり、姿態が豊満で、身のこなしがしなやかだ。それらは二つの翼をばたつかせ、傲慢に、誇らしげに造物主から与えられた華やかで美しい衣と特殊な機能、腕前を見せている。それらは自由に飛んでおり、上手に天地の間を旋回し、草原の上、森の中を旋回している……それらは空の寵児、万物の寵児だ。それらは間もなく天と地の掛け橋となり、万物のためにメッセージを伝えるようになる……それらは歌を歌い、喜んで踊りながらあちこちを飛び回って、空っぽだったこの世界のために楽しげな声を添え、笑い声をもたらし、また活気と活力をもたらした……それらは冴え渡り、快い歌声をもって、心の声をもって造物主がそれらに与えた命を賛美し、軽快な舞姿をもって造物主の創造の完璧さ、奇しさを見せている。それらは造物主がそれらに与えた特別な命をもって、造物主の権威を証しするためにそれらの一生をささげている……

水の中のいろいろな生き物であれ、空を飛んでいるいろいろな生き物であれ、それらはみな造物主の言いつけに従って、 構造の異なる生命体の中で生きており、しかも造物主の言いつけに従って、群れをなし隊を組んで、それぞれの種類の中で生きている。この規則、この法則はいかなる被造物も変えることはできない。それらは敢えて造物主がそれらのために定めた範囲を越えず、その範囲を超えることもできない。造物主の定めの下で、それらは繁殖ㆍ生息しており、それらは造物主がそれらのために定めた命の軌跡と命の法則を厳格に守っており、造物主のそれらに対する無言の言いつけと、造物主がそれらに与えた天の法則、戒律を、今までずっと自覚的に守っている。それらは特別な方式で造物主と対話し、造物主の意思を汲み取り、造物主の言いつけに従う。造物主の権威を超えたことのある物は一つもない。造物主のそれらに対する支配、掌りはみな、考えの中で行われており、言葉は発せられていないけれども、造物主だけが持っている権威は、静かな中で、言語の機能を持っていない、人類と異なるこのすべての万物を掌っている。この特別な方式による権威の行使のゆえに、人は造物主の唯一無二の権威に対して新しい認識を持ち、新しい解読を行わずにいられなかった。ここで私は、新しい日に造物主の権威の行使は、もう一度造物主の唯一無二を表したと言わざるを得ない。

続いて、この節の最後の言葉を見よう。「神はこれを見て、良しとされた。」この言葉について、あなたたちはどのように理解しているのか。その言葉の中には神の気持ちが含まれている。神が彼の造った万物が、すでに彼の言葉によって存在し、成り立ち、すべてが次第に変わっていくのを見た時、神は彼が言葉で造ったいろいろな物、成就したさまざまな事に満足したのか。その答えは、「神はこれを見て、良しとされた」なのだ。ここで、あなたたちは何を見たのか。「神はこれを見て、良しとされた」ということは何を意味するのか、何を象徴するのか。つまり、神には、彼が計画していた事、定めておいた事を成就し、彼の達成したい目的を成就する力、知恵があるということだ。神がある事を行った後、神は後悔したのか。その答えは依然として、「神はこれを見て、良しとされた」なのだ。つまり、神は後悔するどころか、かえって非常に満足していた。後悔しなかったことは何を説明するのか。神の計画が完璧で、神の力と知恵が完璧であること、彼の権威は彼が完璧を成就できる唯一の源であることを説明する。人はある事をした後、神と同じように、それを見て、良しとすることができるのか。人のした事々は完璧になることができるのか。人は一度で永遠にある事を成就することができるのか。「より良いのはあるが、最も良いのはない」という人の言葉のように、人のする事は永遠に完璧になることはできない。神が自分自身が行い、成就した事々を見て、良しとした時、神の造った各物は神の言葉のゆえに定格化される。つまり、「神はこれを見て、良しとされた」時、神の創造したものは一度で永遠に定型化され、類別され、その方位、用途と機能が固定される。それと同時に、それの万物の中での役目と、神が万物を経営している間、それが歩むべき歴程も神に定められて、永遠に変わることがない。これは造物主が万物のために定めた「天の規則」だ。

「神はこれを見て、良しとされた」という簡潔素朴で、容易に人の関心を呼び起こせない言葉、人の十分な重視を呼び起こせない言葉は、かえって神があらゆる被造物に天の規定、天の規則を下達する言葉だ。この言葉の中で、造物主の権威はもう一度さらに実際的に、さらに深く体現された。造物主は言葉によって彼の得たいすべてを得、言葉によって彼の成就したいすべてを成就することができるだけではなく、言葉によって彼の造ったすべてを彼の手の中におさめ、彼の造った万物を彼の権威の下に支配し、しかもすべてが整然と秩序立つようにすることもできる。それと同時に、万物は彼の言葉によって生じ、また滅び、さらに、彼の権威によって彼が定めた法則の中に生きていて、いかなる物もそれを超えることはできない!その法則は「神はこれを見て、良しとされた」時から始まったのであり、それは神の経営計画のために存在し、持続し、運行し、造物主がそれを廃止する日までずっと続くであろう!造物主の唯一無二の権威は、彼が万物を創造することができ、彼が命じるとそのようになることで体現されるだけではなく、彼が万物を管理し、支配し、万物に生気、活力を与えることができることでも体現され、さらに、造物主が一度で永遠に、彼の計画の中で創造しようとする万物に、完璧な形式、完璧な命の構造、完璧な役目として彼の世界に現れさせ、生きさせることができることで体現され、造物主の思いや考えがいかなる条件の制約も受けず、時間、空間、地理の制限を受けないことで体現される。造物主の唯一無二の身分は彼の権威と同じように、とこしえの昔から永遠まで変わることがない。彼の権威は永遠に彼の唯一無二の身分の代言と象徴であり、彼の権威は永遠に彼の身分と共に存在する!

第六の日に、造物主の言葉が発せられると、彼の考えの中の各種類の生き物が次々と登場した

知らず知らずのうちに、造物主の万物を造る仕事は五日続いた。そして、造物主は彼の万物を造る第六の日を迎えた。この日はもう一つの新しい始まりであり、もう一つの素晴らしい日だった。新しい日が到来した時、造物主はまたどんな計画があったのか。またどんな新しい被造物が生まれ、造られたのか。聞いてみよう。それは造物主の声だ……

(創1:24-25)「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。』そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。」それらの生き物には何が含まれているのか。聖書にこう記されている。それぞれの家畜、それぞれの土を這うもの、それぞれの地の獣を造られた。つまり、その日に、地上にいろいろな生き物ができただけではなく、それらはみな類別された。同じく、「神はこれを見て、良しとされた」。

前の五つの日と同じように、第六の日に、造物主は同じ口ぶりで、彼の願う生き物が産み出され、地上に現れ、各々その種類に従うよう命じた。造物主の権威が行使される時、彼の言葉は地に落ちることはなかった。だから、第六の日に、造物主が造ろうと計画していたすべての生き物は期日どおり現れた。造物主が「地は、それぞれの生き物を産み出せ」と言った後、陸地は活気が満ちあふれ始め、地上には直ちにいろいろな生き物のにおいが漂った……青々とした緑の草原には、一匹一匹の肥えてたくましい牛がしっぽを振りながら次々と現れ、メエメエと鳴いている羊たちが群れをなし、嘶いている馬たちが勢いよく疾走してきた……瞬く間に、静まり返った広い草原は一面に沸き立った……いろいろな家畜の現れは、しんと静まり返っていた草原に一つ一つの美しい風物詩を添え、無限の生気をもたらした……それらは草原とお供し、草原の主人として草原と互いに依存し合い、また、それらは草原の見張り者、見守り者となり、草原もそれらの永久の生息地としてそれらのためにすべてを捧げ、それらの生存のために永久に滋養を与える者となる……

各種類の家畜と同じ日に誕生した各種類の這うものも、造物主の言葉が発せられた時、次々と現れた。それらは被造物の中で最も小さな一類の生命体だが、それらの生命力は依然として造物主の奇しい創造によるものだ。それらは決して遅れなかった……それらのあるものは、小さな羽をばたつかせ、あるものはゆるゆると這い、あるものはぴょんぴょんと跳ね、あるものは足取りがよろよろしており、あるものは力強く前へ進み、あるものはすばやく後退し、あるものは横這い、あるものは飛び跳ねる……それらはそれぞれ急いで自分の家を探している。あるものは草むらに入り、あるものは急いで土に穴を掘り、あるものは大きな木に飛び上がり、森に潜み……それらは体が極めて小さいけれども、空腹の苦しみに耐えようとせず、それぞれ家を探した後、待ち切れずに腹を満たすものを探した。それらのあるものは若草の上に這い上がって食べ始め、あるものは泥をつかんでひと口ずつ呑み込み、おいしそうに食べていて、とても楽しんでいる(この泥はかえってそれらの美食になった)。あるものは森に潜んでいるが、休んではいなかった。木の一枚一枚の濃緑の葉の汁は、それらのおいしい食べ物、佳肴になった……おなかをいっぱいにした後も、それらは活動を止めなかった。それらは小さいけれども、エネルギーが巨大であり、活力が限りない。だから、それらは万物の中で、活動が一番頻繁で、一番勤勉な一類の被造物だ。それらは怠けたことがなく、安逸を貪ったこともない。それらはお腹がいっぱいになった後、依然として自分たちの将来のために勤勉に努力しており、自分たちの明日、自分たちの生存のために忙しく働いており、走っている……それらは小さな声でいろいろなメロディーの、異なるリズムの歌を歌って、自分を力づけ、励ましており、また草むら、森、一面に広がっている土地のために喜びを添え、特別な毎日、毎年をもたらしている……それらは各自の言葉、各自の方式によって地上のいろいろな生き物のためにメッセージを伝え、また各自の特別な生存の軌跡によって万物のためにしるしをつけ、痕跡を残す……それらは土壌、緑草、森と親密で少しの隔たりもない。それらは土壌のため、緑草のため、森のために活力、生気をもたらし、また、いろいろな生き物に対する造物主の言いつけとあいさつをもたらす……

造物主の目は彼の造った万物に配っている。その時、彼の視線は森の中に止まり、大きな山の間にとまり、彼の考えは回っている。彼の言葉が発せられるにつれて、うっそうとした森の中、大きな山の間に、以前のあらゆる被造物と異なる種類の被造物が現れた。それらは神が言っている「地の獣」だ。それらはのんびり遅れてやって来た。それらは頭を揺り動かし、それぞれ特異な顔つきをしていた。見よ、それらのあるものは毛で覆われており、あるものは甲羅を持っており、あるものは牙をむき出し、あるものは口を開け、あるものは頸が長く、あるものはしっぽが短く、あるものは両目に殺気を帯びており、あるものは怯懦の目つきをしており、あるものは身をかがめて草を食べ、あるものは口が血の匂いに満ちており、あるものは両足で跳躍しながら歩き、あるものは四つの足で歩き、あるものは木に登って遠くを眺め、あるものは森に潜んで待ち、あるものは穴を探して休み、あるものは平原を走りながら遊んでおり、あるものは森の中を通り抜ける……それらのあるものは吼え、あるものは咆哮し、あるものは狂ったように吠え、あるものは遠吠えする……それらの声は、あるものは高くてよく響き、あるものは低くて重く、あるものは高らかに響き渡り、あるものは澄んでいて快い……それらのあるものは顔つきが凶悪であり、あるものは顔がきれいであり、あるものは人にいやな感じを与え、あるものは楚々として美しく、あるものは人に恐れを感じさせ、あるものは無邪気そのものだ……それらは一匹一匹次々と出てきた。見てみよ。それらはどれも鼻息が荒く、行儀が悪く、互いに相手にしたがらず、相手を一目見るのも嫌がる……それらは各々、造物主がそれらに与えた特別な命を持って、野性、横暴さを持って森の中に現れ、大きな山の間に現れた。それらはそんなに「おごり高ぶっており」、覇気に満ちている。それらは山、森の本当の主人だから、しょうがない。造物主がそれらに現れるよう命じたその瞬間から、それらは森を「占領」し、大山を「占領」した。なぜなら、造物主はすでにそれらのために境界線を定め、生存の範囲を定めたので、それらこそが大山、森の本当の覇者だからだ。だからこそ、それらはそんなに野性を持っており、そんなに「うぬぼれる」のだ。それらが「地の獣」と呼ばれるのは、万物の中でそれらだけが本当に野性を持ち、横暴で、手懐けがたい被造物だからだ。それらは手懐けられることができないから、飼われることができず、人類と仲よく暮らすこともできず、人類のために働くこともできない。それらは飼われることができず、人類のために働くこともできないからこそ、それらは人類から遠く離れなければならず、人類もそれらに近づくことができない。それらが人類から遠く離れていて、人類がそれらに近づくことができないからこそ、それらは造物主がそれらに与えた責任――山を守り、森を守る――を果たすことができる。それらの野性は、山を保護し、森を守るためのものであり、それらが繁殖ㆍ生息するための最もよい保護と保障だ。それと同時に、それらの野性は万物のバランスを守り、保障する。それらの到来のために、大山、森はよりどころ、頼りになるものを得た。それらの到来は、寂しくてがらんとした山、森に無限の活力を注ぎ込んだ。その時から、大山、森はそれらの永久の生息地となった。それらは永遠にそれらの家を失うことはない。なぜなら、大山、森はそれらのために産まれ、存在するからだ。それらは大山、森を守るために職責を果たし、力の及ぶかぎり努力する。それらはまた、造物主のそれらに対する言いつけ――それらの領地を守り、それらの地の獣の本性を保ち続けることによって、造物主の定めておいた万物のバランスを守り、造物主の権威と力を表現する――に厳格に従う!

造物主の権威の下の万物は完璧だ

神の造った万物には、動くことのできるもの、動くことのできないものが含まれている。例えば、翼ある鳥、魚類、木、花草および第六の日に造られた家畜、這うもの、地の獣はみな神に良しとされた。しかも、神の目には、これらのことがみな神の計画によって完璧になり、神の要求する基準に達した。造物主は彼の計画によって、段取りを踏まえて彼のすべき仕事をしていた。彼が創造しようとするものは一つずつ現れた。どのものの出現も造物主の権威の体現であり、また彼の権威によってもたらされた結晶だ。これらの結晶のゆえに、あらゆる被造物は造物主の恩沢、造物主の供給に感謝せずにはいられない。神の奇しい業の表現のゆえに、この世界は神の造った万物によって少しずつ豊かにされて、それは、混沌で、暗い状態から澄み切り、明るい状態に変わり、静まり返った状態から生気に満ちあふれ、活力が無限な状態に変わった。大きなものから小さなものまで、小さなものから微小なものまで、いずれも造物主の権威と力によって造られた。どの被造物も自分特有の、固定した存在の必要性と価値がある。それの形式と構造にどんな違いがあるとしても、とにかく、造物主に造られたものである限り、それは造物主の権威の下で生存している。ある時、人はある昆虫を見て、その昆虫がとても醜くて、「この昆虫はなぜそんなに醜いの?こんな醜い昆虫は絶対に神様に造られたものではない。神様はこんな醜いものを造るはずがない」と言う。この観点は愚昧すぎる!「この昆虫はとても醜いが、それは神様に造られたのだから、きっとそれ独特の用途がある」と言うべきだ。神の考えの中では、彼の造ったいろいろな生き物が様々な姿を持ち、様々な機能と用途を持つようにしようとする。だから、神の造った万物は千篇一律ではなく、外側の形状においても内側の構造においても、生活習慣においてもそれぞれ占める位置においても違いがあるのだ。牛には牛の、ロバにはロバの、鹿には鹿の、象には象の姿がある。あなたはどう思うのか。どれが一番きれいで、どれが一番醜いのか。どれが一番役に立ち、どれが一番存在する必要がないのか。ある人は象の姿が好きだが、象を利用して耕作する人はいない。ある人は獅子、虎の姿が好きだ。なぜなら、それらの姿は万物の中でいちばん凛々しいからだ。けれども、あなたはそれらをペットとして飼うことができるのか。とにかく、万物を扱う上で、人は造物主の権威、すなわち造物主が万物のために定めた法則に従うという態度を取るべきだ。そうしてこそ賢明なのだ。造物主の初志を求め、それに従うという態度を取ってこそ、本当に造物主の権威を受け入れ、認めることだ。神が良しとしたので、人はあら捜しする理由があるのか。

この時になって、造物主の権威の下の万物は、造物主の支配のために新しい楽章を演奏し、造物主の新しい日の仕事のために輝かしい序幕を開き、造物主もこの時、彼自身の経営の仕事のために新しいページを開く!万物は造物主の定めた、春に芽生え、夏に栄え、秋に収穫し、冬に貯蔵するという法則に従って造物主の経営計画とはるかに呼応する。それらは各々各自の新しい日、新しい開始と新しい命の歴程を迎え、それらはまた、造物主の権威の支配下の毎日を迎えるために絶えず繁殖ㆍ生息する……