言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)
  • 神の働き、神の性質と神自身(一)

    次に、ノアの物語における神の働き、神の性質と神自身について話してみよう。

    これらの聖句の中で、あなたたちは神がノアの身にどんな事を行なったかを見たのか。聖句を読むことによって、この場にいる一人一人はある程度知ったかもしれない。神はノアに箱舟を造らせ、それから、洪水でこの世を滅ぼした。神がノアに箱舟を造らせたのは、ノア一家八人を救って、彼らが生き残り、次の時代の人類の祖先になるようにするためであった。今から聖書を読もう。

    二、ノア

    1.神は洪水で世界を滅ぼそうとして、ノアに箱舟を作るよう命じた

    (創6:9-14)これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時が私の前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、私は地もろとも彼らを滅ぼす。あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも作り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。」

    (創6:18-22)わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。

    この聖句を通して、あなたたちはノアという人について大体知っただろう。ノアはどんな人なのか。原文はこうなっている。「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。」今の人の理解では、その世代の中で「神に従う人」はどんな人なのか。「神に従う人」は無垢な人でなければならない。この「無垢な人」は、人の目の中の無垢な人か、それとも神の目の中の無垢な人か、あなたたちは知っているのか。言うまでもなく、ここの「無垢な人」は神の目の中の無垢な人で、人の目の中の無垢な人ではない。この点は確実である!なぜなら、人は盲目であって、それが見られず、神だけが全地を観察し、一人一人の人を観察し、神だけがノアは無垢な人だと知っていたからである。そういうわけで、神が洪水で世界を滅ぼすという計画はノアが召された瞬間から展開された。

    その時代が来た時、神はノアを召して一つのとても重要なことをしようとした。なぜそのことをしようとしたのか。その時、神の心の中には、一つの計画があったからである。その計画は洪水で世界を滅ぼすということであった。なぜ世界を滅ぼそうとしたのか。ここに書いてある。「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。」「この地は…不法に満ちていた」という言葉から、人は何が分かったのか。つまり、世界や人類が極めて堕落した時、地にはこういう現象が現れた。つまり、「この地は…不法に満ちていた」のである。「不法に満ちていた」とは、今の言い方では、混乱してしまったということである。人から見れば、各業界には秩序がなくなり、かなり混乱していて、管理しにくくなったのである。神の目には、この世界の人類がとても堕落しているのである。どの程度まで堕落したのか。神がこれ以上見ていられない程度、神がこれ以上我慢できない程度、神が滅ぼそうと思い定める程度まで堕落した。神が世界を滅ぼそうと思い定めた時、神は一人の人を探して箱舟を造らせることを計画した。その後、神はノアを選定してこのようなことをさせた。すなわちノアに箱舟を造らせたのである。なぜノアを選んだのか。ノアが神の目の中では義人であり、しかも、すべて神が命じられたとおりに果たし、つまり、すべて神の言いつけに従ったからである。神はこのような人を探して、彼の仕事に協力させ、彼の委託を遂行させ、彼が地上でしようとする仕事を完成させるつもりだったのである。では、その時代に、ノアを除いて、このような仕事を完成できる人はほかにいるのか。絶対ない!ノアが唯一の人選、神の委託を完遂できる唯一の人選であった。だから、神は彼を選んだ。だが、その時代に、神が人を救おうとする範囲、基準は今と同じであるか。答えは、必ず区別があるということである!なぜこう聞くのか。その時代に、神の目の中の義人はノア一人であった。言外の意味は、彼の子供と妻はみな義人ではなかった。しかし、神はノアのゆえに、彼らを生き残した。神は今の人に対する要求通りに彼らに要求せず、ノア一家八人を全部残した。彼らはノアの義のため、神の祝福を受けたのである。なぜなら、ノアがいなければ、彼らのうちのだれも神のその時の委託を遂行することができないからである。だから、世界が滅ぼされた時、ノアだけが唯一生き残るべき人選であった。ほかの人はただおかげをこうむっただけである。これから分かることは、神がまだ正式に彼の経営を展開していない時代に、神が人を扱い、人に要求する原則、基準は比較的「ゆるい」のである。今の人から見れば、神がこのようにノア一家八人を扱うのは「公平」を失うように見える。もし神が今の人の身にした仕事の量の大きさ、言った言葉の多さについて言えば、神がノア一家八人を「優遇」したのは、ただ神が当時の働きの背景の下で採用した働きの原則にすぎない。比べてみれば、今の人とノア一家八人はどちらが神から得たのが多いのか。

    ノアが召されたということは一つの簡単な事実である。しかし、私たちが語ろうとする重点、この記録の中の神の性質、神の心意と神の本質はそんなに簡単ではない。神のこのいくつかの面を理解しようとしたら、まず、神が召そうとする人はどんな人かを理解しなければならない。神がどんな人を召そうとするかを理解することによって、神の性質、神の心意、神の本質を理解する。これは極めて重要なことである。では、神が召す人は神の目には一体どんな人なのか。この人は彼の言葉を聞き、彼の言いつけどおりに行なう人でなければならず、それと同時に、責任感があり、神の言葉を自分の果たすべき責任、本分として完成することができる人でなければならない。では、この人は必ず神を知る人でなければならないのか。いいえ。当時の時代に、ノアは神の教えをあまり聞いたことがなく、神のどんな働きも経験したことがなかった。だから、ノアの神に対する認識はとても少なかった。ここにはノアが神と共に歩んだと記されているけど、彼は神の本体を見たことがあるのか。見たことがないと確実に言える!それは、その時代に人々に臨んだのはただ神の使いだったからである。彼らは神を代表して話し、働くことができたが、ただ神のみこころ、神の意志を伝えただけであり、神の本体は直接人に現れなかった。この聖句から見たことのほとんどは、ノアがすべき事と、神の彼に対する言いつけである。では、ここで神が発表した本質は何か。神のすることにはみな精密な計画がある。彼がある事、或いはある現象が起こるのを見たとき、彼の目には一つの評価基準がある。この基準は、彼がこのような事と現象を処理するのを計画するかどうか、或いはどのようにこのような事、現象を扱うかを決める。彼はどんな事に対しても全然無関心、無感覚であるのではなく、全くその逆である。ここに神がノアに対して言った一つの言葉がある。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、私は地もろとも彼らを滅ぼす。」神の言葉の中で、神は人だけを滅ぼすと言ったのか。いいえ!神はすべて肉なるものを滅ぼすと言った。なぜ神は滅ぼそうとしたのか。ここにも神の性質の流露がある。つまり、神の目には、神が人類の堕落に対して、すべて肉なる者の汚れ、不法、そして不従順に対して我慢するには限度がある。彼の限度は何か。つまり、神の言ったこと、「神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」である。「すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」という言葉はどういう意味か。つまり、神につき従う人、神の名を口に唱える者、神に燔祭をささげたことのある人、口先で神を認め神を賛美さえする人を含むすべての生き物、一旦彼らの行為が不法に満ちて、神の目の前に達したら、神は彼らを滅ぼすのである。これが神の限界である。つまり、神が人類に対して、すべて肉なる者の堕落に対してどの程度まで我慢するのか。神の追随者であれ、異邦人であれ、みな正しい道を歩まない程度に達し、この人類は道徳が廃れ、みな邪悪に満ちているだけではなく、神の存在を信じる人は一人もおらず、この世界は神に支配されており、神が人類に光、正しい道をもたらすことができると信じる人はなおさら一人もいない程度に達し、人類が神の存在を恨み、神の存在を許さない程度に達するまでである。一旦人類の堕落がこの程度に達したら、神はこれ以上我慢しない。それに取ってかわるのは何か。神の怒り、神の懲罰が間もなく臨むことである。これは神の性質の一部分の流露ではないか。今の時代に、神の目の中には義人がいるのか、無垢な人がいるのか。この時代は、神の目の中で、すべて肉なる者がこの地で堕落の道を歩んでいる時代ではないか。この時代で、神が完全にしようとする人以外に、神につき従い、神の救いを受け入れることのできる人類以外に、すべて肉なる者が神の我慢の限界に挑戦しているのではないか。この世界の中で、毎日あなたたちの身の回りで起こること、あなたたちが目で見、耳で聞き、身をもって経験することはみな不法に満ちているのではないか。神の目の中で、このような世界、このような時代は終わるべきではないか。今の時代の背景と当時のノアの時代の背景は完全に違うが、人類の堕落に対して、神の気持ち、神の激しい怒りは当時と全く同じである。神が我慢できるのは、彼の仕事のためである。しかし、さまざまな状況と条件から言えば、この世界は神の目の中でとっくに滅ぼされるべきである。世界が洪水によって滅ぼされた時の状況と比べ、いっそう甚だしいものがある。しかし、違うところはどこか。これは一番神の心を悲しませたところでもある。あなたたちだれも感じられなかったかもしれない。

    洪水で世界を滅ぼした時、神はノアを召して箱舟を造らせ、洪水で世界を滅ぼす前の仕事を用意させることができ、神は一人の人――ノアを召して神のためにこの一連の事をさせることができた。しかし今の時代では、神が召すことのできる人はいない。なぜだろう。その原因は、この場にいる一人一人がみな知っており、明白だろう。私がはっきり言う必要があるのか。口に出せば、少しメンツをつぶして、みんなを悲しませるかもしれない。一部の人はこう言う。「私たちは義人ではなく、神様の目の中の無垢な人でもないが、神様が私たちにあることをさせたら、私たちはその任に堪えられる。この前、大災難が来ると聞いて、私たちは食糧や災難の中で必要な物を用意した。これはみな神様の要求通りにしたのではないか。これは神の仕事に極力協力したのではないか。では、私たちのしたこれらのことは、ノアのしたことと比べることができるのではないか。私たちがこのようにしたのは本当の従順ではないか。私たちがこのようにしたのは、神様の言いつけに従ってしたのではないというのか。私たちも神様の言葉を信じて神様の言葉通りにしたのではないか。それなのに、神様が悲しむのはなぜだろう。召すことのできる人を見つけないと言うのはなぜだろう。」この人たちとノアのあらゆる行いは違いがあるかどうか。どんな違いがあるのか。(今日、私たちがそれらの災害時に必要な食品を用意したのは自分の意志によるものです。)(私たちのあらゆる行いは義にかないません。ノアは神の目の中で義人です。)この言葉は少し的を射ている。ノアのしたことと今の人のしたことは、本質的な違いがある。ノアが神の言いつけに従ってことをした時は、神の心意は何かを知らず、神が何を成就しようとしたかも知らなかった。神はただ彼にひとつの言いつけを下し、彼のすべきことを言いつけただけで、あまり解釈をしなかった。彼は神の言いつけに従って行ない、陰で神の意志を推測しておらず、神に反抗しておらず、二心を抱いてもいなかった。彼はただ純真で簡単な心をもってその通りに行ない、神の言いつけにしたがって行なった。神の言葉に従い、神の言葉を聞くことは、彼の物事を行なう信念であった。神の委託に対して彼はこのように断固としており、このように簡単であった。彼の本質――彼の行為の本質は従順であること、猜疑せず、反抗せず、なおさら個人の利益や得失を考えないことであった。しかも、神が洪水で世界を滅ぼすと言った時、彼は時間を聞かず、内情も探らず、なおさら神がどのように世界を滅ぼすか聞かないで、ただ神の言いつけにしたがって行なった。神がどのように造り、何によって造るかを教えたら、彼は一つ一つ神の言いつけにしたがって行ない、しかも、神が語り終えたら、彼はすぐ行動に移した。彼は神を満足させるという態度をもって、神の言いつけにしたがって行なった。彼は自分が災難を逃れるためであったのか。そうではない。彼はあとどれくらいで世界を滅ぼすかと神に聞いたのか。聞かなかった。彼はこの箱舟を造るのにどれくらい時間がかかるか神に聞いたのか、或いは知っていたのか。彼は知らなかった。彼はただ単純に従い、言うことを聞き、そのどおりに行なっただけである。しかし、今の人はそうではない。神が少しでも口吻を洩らすと、ちょっとした異変が起こると、人は自分ですぐ行動し、何も顧みず、いかなる代価を払うこともいとわず、自分のために食べ物、飲み物、必要な物を用意し、災難が臨む時、どのように死を逃れるかの路線図まで用意しておいた。もっと面白いことがある。人のこの頭は肝心な時にはとても「役に立つ」のである。神が何も言いつけていない状況の下で、人は自分で自分の後事を適切に処理した。一つの言葉――「完璧」で言い表してもいい。神がどのように言ったか、神の心意は何か、神が求めるのは何かに対しては、関心を寄せる人がおらず、理解しようとする人もいない。これは、今の人とノアの最大の違いではないか。

    ノアの物語についての記録の中でも、あなたたちは神の一部の性質を見ただろう。神にあって、人類の堕落、汚れと不法に対する神の我慢には限界がある。彼の限界に達した時、彼はこれ以上我慢せず、彼の新しい経営、新しい計画を始め、彼のしようとすることをし始め、彼のわざを現し、彼の性質の別の面を現す。彼が「する」というのは、人が彼を犯してはならないこと、彼が権威、激しい怒りに満ちていることを明らかにするためではなく、彼が人類を滅ぼすことができることを明らかにするためでもなく、彼の性質と彼の聖なる本質が、もうこのような人類が彼の前に生き、彼の権威の下に生きることを許さず、我慢しないということである。だから、全人類が彼に敵対する時、全地に彼に救われることができる対象が一人もいない時、彼はもうこれ以上このような人類に我慢せず、少しもためらわずに彼の計画――このような人類を滅ぼす――を立てる。神のこのような行動は、神の性質によって決まるのであり、これは必然的結果であり、神の権威の下に生きている一人一人の被造物が受け入れるべき結果である。これで分かるように、今この時代で、神は一刻も早く彼の計画を完成し、彼が救おうとする人類を救おうと思うのではないか。このような背景の下で、神がいちばん関心を持っているのは何か。全然彼につき従わない人や最初から彼と敵対していた人たちがどのように彼を扱うか、どのように彼に反抗するか、或いは人類がどのように彼を誹謗するかに関心を持つのではなく、ただ彼につき従う人、彼の経営計画の中で、彼の救う対象が彼に完全にされたかどうか、彼を満足させることができるかどうかに関心を持つのである。彼につき従う人以外の者に対しては、彼はただ時々、小さな「懲戒」を与えて、彼の激しい怒り、たとえば津波、地震、火山の爆発などを示すだけである。同時に、彼は彼につき従い、もうすぐ彼に救われる人を極力守り、顧みている。これは神の性質である。一方では、神は神が完全にしようとする人類に対して、極めて大きな忍耐、寛容を施し、最大限待つことができる。もう一方では、神は神につき従わず、神と敵対するサタンの子らをこの上なく恨み、嫌う。彼はこれらのサタンの子らが彼につき従うかどうか、彼を礼拝することができるかどうかを気にしないが、やはり心の中で忍耐すると同時に、これらのサタンの子らを恨んでおり、これらのサタンの子らの結末を定めると同時に、彼の経営計画の手順の到来を待っている。
    続けて次の聖句を見よう。

    2.洪水の後、ノアに対する神の祝福

    (創9:1-6)神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求る。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」
    この箇所の言葉から、あなたたちは何が分かったのか。なぜこの箇所の言葉を選んだだろう。なぜノアと彼の家族が箱舟の中で生活したその断片を抜粋しなかっただろう。それらの内容は、私たちが今日交流しようとするこの話題と大きな関係がないからである。私たちが関心を寄せるべきものは神の性質である。それらの内容について理解したいなら、あなたたちは自分で聖書を読みなさい。ここでは言及しない。今日、私たちはおもにどのように神のわざを認識するかについて語ろう。

    ノアは神の言いつけを受け入れて箱舟を造った後、神が洪水で世界を滅ぼす日を過ごし、一家八人がみな生き残るようになった。ノア一家八人以外の人類はみな滅ぼされ、地上の生き物もすべて滅ぼされた。ノアに対しては、神は彼に祝福を与え、彼と彼の息子に対していくらかの言葉を言った。これらの言葉は神が彼に与えたいものであり、神の彼に対する祝福でもあった。これは、神の言葉を聞き、神の言いつけを受け入れることができる人に対する神の祝福、約束であり、神が人に褒賞を与える方式でもある。つまり、ノアが神の目の中の無垢な人であっても、義人であっても、彼の神に対する認識がどのくらいあっても、とにかく、ノアと彼の三人の息子は神の言葉を聞き、神の働きに協力し、神の指示に従って彼らのすべきことをした。そういうわけで、神のために、世界が洪水で滅ぼされた後の人類とさまざまな生き物を生き残し、神の次の段階の経営計画のために極めて大きな貢献をした。彼のこのすべての行為のため、神は彼を祝福した。今の人から見れば、ノアがしたことはまったく取り上げるほどのことではない。こう思う人さえいるだろう。「ノアはたいしたことはしていない。神様が彼を生き残そうと決めたのだから、彼が生き残ることができたのだ。彼が生き残ったのは、彼の功績のためではなく、神様が成し遂げられたことだ。人は受動的だから。」しかし、神の心の中ではそう思わない。神から見れば、ある人が偉大な者であれ、卑小な者であれ、彼が神の言葉を聞き、神の言いつけと委託に従うことができ、神の働きに協力し、神のみこころ、神の計画に協力して、神のみこころ、神の計画が順調に進み、成就されるようにすることができるなら、このような行為は神に覚えられ、神に祝福される資格がある。神はこのような人を宝愛し、また人のこのような行為を大切にし、神に対する人のこのような感情、このような心を大切にする。これは神の態度である。神がノアを祝福したのはなぜだろう。それは神が人のこのような行為、従順をこのように扱うからである。

    神がノアを祝福したことについて、一部の人はこう言うだろう。「人が神様の言葉を聞いて、神様を満足させたら、神様は人を祝福すべきだ。これは当たり前のことではないか。」こう言っていいのか。ある人は「こう言ってはいけない」と言う。なぜこう言ってはいけないのか。ある人は「人は神様の祝福を享受する資格がない」と言う。この言葉も完全に正しくはない!なぜなら、ある人が神の委託を受けた後、どうやってこの人の行為がいいか悪いか、人が従順であるかどうかを判断するのか、どうやってこの人が神の心を満足させたかどうか、彼のあらゆる行いが合格したかどうかを判断するのか、これらについて神には基準があるからである。神が重んじるのは人の心であって、人の外面的な行為ではない。人がどうやっても、やっただけで、神は祝福すべきではない。これは神に対する人の誤解である。神はただ物事の結果を見るのではなく、物事が発展する過程の中で人の心がどうなのか、人の態度がどうなのかを重んじ、人の心の中に従順、思いやりがあるかどうか、神を満足させたいという願いがあるかどうかを見る。当時のノアは神に対してどのくらいの認識を持っていたのか。今あなたたちが分かっている教理ほど多いのか。神に関する概念、神に対する認識などについての真理の上で、彼が受けた注ぎ、牧養はあなたたちほど多いのか。多くない!しかし、否定できない一つの事実がある。今の人は意識の中で、思想の中で、ひいては心の奥底で、神に関する概念、神に対する態度はぼんやりして明瞭ではない。一部の人は神の存在に対して否定的な態度を取るのだとさえ言える。しかし、ノアは心の中で、意識の中で、神が確かに存在していると思って、いささかも疑わなかった。だから、彼の神に対する従順は混じり気がないのであり、試練に耐えられるのであった。彼の心は純潔であり、彼の心は神に向かって開かれたのである。彼は自分が神の委託を受け、すべて神の言う通りにすることができるように、もっと多くの教理上の認識により自分自身を説得して神の言葉を聞き、それに従う必要がなく、もっと多くの事実により神の存在を証明する必要もなかった。これはノアと今の人の本質的な違いである。これは神の目の中の無垢な人に対する本当の解釈でもある。神が求めるのはノアのような人であり、神が良しと認めるのはこのような人であり、このような人は正に神に祝福される対象である。ここで、あなたたちはどんな啓示を得たのか。人は人の外見を見るが、神が見るのは人の心と人の本質である。神は、人が神に対していささかもおろそかにすること、疑うことを許さず、人が神に対していかなる猜疑心や試みを持つことも許さない。だから、今の人は神の言葉と面と向かい、さらには神と面と向っていると言えるが、人の心の奥底にあるもののため、人の堕落した本質の存在のため、人の神に敵対する態度のため、人の神に対する本当の信仰が阻まれ、人の神に対する本当の従順も阻止された。こうして人は、ノアが得たような神の祝福を得られないのである。