言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

神の働き、神の性質と神自身(一)

神の経営があって以来、神はずっと全身全霊を尽くして自分の仕事をしている。彼は自分の本体を隠したが、ずっと人類のそばにいて、人類の身に働き、自分の性質を発表しており、自分の本質によって全人類を導いており、自分の大能、知恵、権威によって各々の人の身に働いている。そのため、律法時代、恵みの時代、今の王国時代ができた。神の本体は人に隠されているが、神の性質、神の所有、所是と神自身の人類に対する心意は、神が余すところなく人に現して、人に見せ、人に経験させている。つまり、人類は神を見ることも触れることもできないが、人類が接触する神の性質、神の本質は完全に神自身の発表である。これは事実ではないのか。神がどんな方式によって、どの立場に立って仕事をしても、彼は自分の本当の身分によって人を扱い、自分のすべき仕事をし、自分の言うべき言葉を言う。神が第三の天の高さに立って人に話しても、肉体の立場に立って人に話しても、さらには一人の普通の人の立場に立って人に話しても、どの立場に立って話しても、彼は誠心誠意を尽くし、いかなる欺きもなく、いささかも隠していない。彼は働いている間に、自分の言葉、自分自身の性質を余すところなく発表しており、また自分自身の所有、所是を余すところなく発表している!彼は自分の命、自分の所有、所是によって全人類を導いている。このように、人類は「見ることも触れることもできない」神の導きの下で律法時代――人類の揺籃時代を過ごした。

律法時代の後、神は初めて受肉したのであり、受肉した時間は、三十三年半であった。この三十三年半の時間は人にとっては長いのか。(長くありません。)人の寿命は普通は三十年余りだけではないから、三十三年半は、人から見れば長くない。しかし、受肉した神にとっては、この三十三年半は長いのである。彼は一人の人――一人の普通の人となって、神の仕事を担当し、神の委託を引き受けた。これは、彼が普通の人が担当できない仕事を担当すると同時に、普通の人が耐え忍ぶことのできない苦しみを耐え忍ばなければならないことを意味している。恵みの時代に、主イエスが働き始めてから十字架につけられるまでにどれほどの苦しみを受けたかは、今の人が自分の目で見られないが、聖書に記録されている物語から、あなたたちは少し感じられるだろう。記録されているこれらの事実の中にどれほどの細部があろうと、とにかく、この期間内に神がした仕事は、困難や危険、苦難に満ちていた。堕落した人にとって、三十三年半は長くなく、少し苦しみを受けることはたいしたことではないが、聖くて何の瑕もない神にとっては、すべての人の罪を耐え忍び、罪人と一緒に食べ、住み、生活すべき苦しみはとても大きかった。彼は造物主であり、彼は万物を支配し、すべてを支配している。しかし、彼はこの世に来た時、堕落した人類の圧迫や残害に耐えなければならず、彼の仕事を完成するため、人類を苦界から救い出すため、彼は人に罪定めされなければならず、しかもすべての人の罪を担わなければならなかった。彼の受けたこのすべての苦難は、普通の人が想像することも感じることもできないのである。彼の受けた苦しみは何を意味しているのか。それは、神の人類に対する貢献、彼が人類を救い、人の罪を贖い、その段階の仕事を完成するために受けた屈辱、払った代価を意味しており、また、人類がもうすぐ神によって十字架の上から贖われることを意味している。この代価は血の代価、命の代価であり、いかなる被造物も具備していないものである。彼は神の本質、神の所有、所是を具備しているからこそ、この苦しみを担当することができ、このような仕事を担当することができた。これはいかなる被造物も代替できないものである。これは神の恵みの時代における仕事と、神の流露した性質である。この中には神の所有、所是の流露があるのではないか。それは人類が認識するに値するのではないか。

その時代に、人は神の本体を見ていないが、神から罪祭を得た。しかも人は神によって十字架の上から贖われた。神が恵みの時代の間にした仕事に対して人は疎くないかもしれないが、神がこの間に発表した性質、神の心意に対しては誰も疎いのではないか。人はただ、いろいろなルートを通して神が異なる時期にした仕事の内容を知り、或いは神がこれらの仕事をする時に起こった、神に関する物語を知っただけである。これらの内容と物語は、せいぜい神に関する少しばかりの情報や伝説にすぎない。それは神の性質、神の本質とは何の関係もない。だから、人が神に関する物語をどのくらい知っていても、それは人が神の性質、本質に対して深い理解と認識を持ったことを証明できない。恵みの時代の人は受肉した神と一度の親密な、ゼロ距離の接触があったが、神の性質や本質に対する彼らの認識は律法時代の人と同じようにほとんどゼロに近い。

王国時代になって、神はもう一度受肉した。この方式は、初めて受肉した時と同じである。この働いている間に、神はやはり余すところなく自分の言葉を発表し、自分のすべき仕事をし、自分の所有、所是を発表しており、それと同時に、絶えず人の不従順と人の無知を耐え忍び、容赦している。今度働いている間にも、神は絶えず自分の性質を現し、自分自身の心意を現しているのではないか。だから、人類ができてから今まで、神の性質、神の所有、所是と神の心意はいかなる人に対しても公にされているのであり、神はわざわざ自分の本質、自分の性質、自分の心意を隠したことがない。ただ人々が、神は何をしているのか、神の心意は何であるかに対して関心を持たないだけである。だから、人の神に対する認識はほんのわずかである。つまり、神は自分の本体を隠すと同時に、いつでも人のそばにいて、いつでも人に対して自分の心意、自分の性質と本質を公に現している。ある意味では、神の本体は人に対して公にされている。ただ人の盲目、不従順のため、人はどうしても神の出現を見られないだけである。だから、今の状況から見れば、神の性質を理解し、神自身を理解するのは、人々にとってとても容易なことであるかどうか。この問題は答えにくい。そうだろう。容易だと言えば、一部の人は神を認識することを追い求めているが、どうしても認識することができず、どうしてもはっきりとした認識を持つことができない。つまり、はっきりせず、ぼんやりしている。容易ではないと言えば、そうでもない!こんなに長い間神の働きを経験していて、各々の人は経験する中で、神と本当の交わりを持ったことがあり、何と言っても、心の中で神とある程度感応があり、神と心のぶつかり合いを持ったことがあって、神の性質に対していくらかの感性的認識を持つようになり、神に対する理解でも少しばかりの収穫を得たはずである。今まで神に従ってきて、人はたくさんのものを得た。ただいろいろな原因のために、すなわち人の劣っている素質、人の愚昧さ、人の不従順、人のいろいろな存心のために、流したものが多すぎるだけである。実は、神が人に与えたのが少ないのか。神は自分の本体は隠したが、自分の所有、所是、自分の命はみな人に供給した。人の神に対する認識は実に今の状態にあるべきではない。だから私は、さらに一歩進めてあなたたちと「神の働き、神の性質と神自身」という話題を交流することが必要だと思う。その目的は、この何千年間の、人に対する神の並々ならぬ苦心を無にしないためであり、同時にまた、人類に対する神の心意を人に理解させ、感じさせるためである。そうすれば、人に神を認識するという領域で新しい段階に入らせることができるだけではなく、人の心における神の地位を回復し、つまり、神を「公平に扱う」ことができる。

神の性質を理解し、神自身を理解しようと思うなら、細部から理解していかなければならない。どんなことの細部から理解していくべきだろうか。私はまず聖書の中からいくつかの章節を選び出した。以下の資料は聖書から抜粋した章節である。これらの章節はみな「神の働き、神の性質と神自身」という主題に関係している。これはあなたたちが神の働き、神の性質と神自身を認識するための参考資料になるように、私がわざわざ探し出したのである。ここで、私たちはこれらの章節を持ち出して分かち合い、神が以前した仕事の中でどのような性質を流露したのか、神のどのような本質が人の知らないものなのかを見てみよう。これらの章節は古いけれども、私たちが交流しようとする話題は新しい内容であり、それは人が持たず、人が聞いたことのないものである。一部の人は不思議に思うかもしれない。アダム、エバを持ち出し、ノアも持ち出した。これは逆戻りしたのではないかと。あなたたちがどう考えても、これらの章節は今日交わる話題に大いに役立つ。これは今日交わる話題の教材または基礎資料とすることができる。私が交わりを終えたら、あなたたちは私がこれらの章節を選んだ目的を知ることができる。以前聖書を読んだことのある人はみな、このいくつかの言葉を見たことがあるが、本当に分かるとは限らない。私たちはまず大ざっぱに見た後、具体的に一つずつ交わろう。

アダム、エバは人類の祖先である。聖書の中の人物に触れると、まずこの二人を言わなければならない。その次はノアであり、彼は人類の二番目の祖先である。見たのか。三番目の人物は誰か。(アブラハムです。)アブラハムの物語は皆が知っているのか。一部の人は知っているだろうが、一部の人ははっきり知らないかもしれない。四番目の人物は誰か。ソドムを滅ぼすという物語の中で誰が言及されたのか。「ロトです。」ここではロトが言及されていない。誰が言及されたのか。(アブラハムです。)アブラハムに関するこの物語の中で、ヤーウェ神がおもに何を語ったと言っているのか。これは見たのか。五番目の人物は誰か。(ヨブです。)神のこの段階の働きの中で、神がヨブの物語について語ったのが多いだろう。では、あなたたちはこの物語に関心を持っているのか。あなたたちが大きな関心を持っていたのなら、あなたたちは聖書の中のヨブの物語を仔細に読んだことがあるか。ヨブがどんな言葉を言い、どんなことをしたか知っているのか。一番多く読んだ者は何回読んだのか。しばしば読んでいるのか。香港の姉妹たち話してみなさい。(以前、恵みの時代に一度や二度は読んだことがあります。)その後は、読んだことがないのか。それは惜しいことだ!あなたたちに教える、この段階の働きの中で、神が何度もヨブに触れたが、そこには神の心意がある。しかし、「何度も触れた」ことにあなたたちが注意を払っていない。これは、あなたたちがよい人、神を畏れ、悪から遠ざかる人になるのに興味がないという事実を証明する。なぜなら、あなたたちは神が取り出したヨブの物語について大体知ること、物語そのものを知ることだけに満足して、ヨブという人についての細部と、神が何度もヨブに触れた思惑に関心を寄せず、また理解しようとしないからである。神に良しと認められるこういう人にも興味を持たないなら、あなたたちは何を重んじるのか。神が触れたこれほど重要な人物に対しても、あなたたちが関心を持たず、理解しようとしないなら、神の言葉に対してどんな態度をとるだろうか。これは悲しいことではないか。これは、あなたたちの大多数が実際的なものを重んじず、真理を追い求めないことを証明するのではないか。あなたが真理を追い求める人なら、神に良しと認められる人、神の触れた人物、物語を大いに重視するはずであり、それを達成できても達成できなくても、触れることができても触れることができなくても、あなたはすぐ読み、理解し、それからいろいろ工夫して模倣し、全力を尽くして自分にできることをするはずである。これこそ、真理を渇望する人にあるべき表現である。しかし、この場にいるあなたたちの大多数はなんとヨブの物語を読んだことがない。これは大きな問題点である。

さっきの話題に戻ろう。旧約の律法時代に関するこの聖句の中で、私はおもにいくつかの人物の物語を抜粋した。これらの物語は、聖書を読んだことのある大多数の人が聞き慣れているので詳しく説明することができる物語である。その中の人物はとても代表性があって、人は読んだ後、神が彼らの身にした仕事、彼らに言った言葉は今の人が触れることも理解することもできるものだと感じることができる。あなたがこれらの物語を読み、これらの聖書の記録を読む時、神が当時どのように働いたのか、どのように人を扱ったのかをもっと理解することができる。しかし、私が今日これらの章節を取り出した目的は、あなたにこれらの人物の物語と、その中の人物を理解させるためではない。それは、人が神を認識し、神を理解し、神の真実な面を見るように、人にこれらの人物の物語の中から神のわざ、神の性質を見せるためであり、あなたの想像、あなたの神に対する観念を止めさせ、漠然とした中での、あなたの神に対する信仰も止めさせるためである。あなたに何のよりどころもなく、神の性質を理解させ、神自身を理解させ、認識させるなら、あなたは常にとても無力でどうすることもできず、どこから手をつけて良いか分からないと感じる。だから、私はこの方法を考え出して、このような方式、ルートによって、人が神をもっと理解し、神の心意をもっと真実に理解し、神の性質、神自身をもっと真実に認識し、神の存在を真実に感じ、神の人類に対する心意を真実に理解することができるようにしようとする。これはあなたたちに役立つだろう。では、あなたたちが今またこれらの物語、これらの章節を読むと、心の中でどう思うのか。私が選んだこれらの章節が余計なものだと思われるのか。さっきあなたたちに教えたことをもう一度強調しなければならない。あなたたちにこれらの人物の物語を読ませる目的は、あなたたちに神が人の身にどのように働くかを理解させ、人類に対する神の態度はどうなのかを理解させるためである。何を通して理解させるのか。神が以前した仕事を通して、また神が今している仕事と結びつけて、神の細部を理解させるのであり、これらの細部は真実なもので、神を認識する人が必ず知り、理解すべきものである。
最初に「アダム、エバ」についてのことを話そう。まず聖書を読もう。