言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

神の働き、神の性質と神自身(一)

私たちは今日一つの重要な話題を交流しよう。この話題は、神が働き始めてから今までずっと語ってきた話題であり、これは誰にとってもとても重要である。つまり、この話題は誰もが神を信じる過程の中で接するはずの話題、また必ず接する話題であり、とても大事で、避けられず、また人が離れられない問題である。重要と言えば、神を信じる一人一人にとって、一番重要なのは何か。一部の者は、神の心意を知るのが一番重要だと思い、一部の者は、神の言葉を多く食べ飲みするのが一番重要だと思い、一部の者は、自分を認識するのが一番重要だと思い、一部の者は、どうすれば神に救われることができるか、どのように神に従って行くか、どうすれば神を満足させることができるかを知るのが一番重要だと思っている。今日、私たちはひとまずこれらの話題を放っておいて語らない。では、何を語るのか。「神」に関する話題を語る。この話題は各々の人にとって一番重要だと思わないのか。「神」に関する話題には、どんな内容が含まれているのか。もちろん、この話題はきっと神の性質、神の本質と神の働きを離れられない。では、私たちは今日「神の働き、神の性質と神自身」について話そう。

人は神を信じ始めた時から、神の働き、神の性質と神自身に関する話題に接する。神の働きに触れると、一部の人はこう言うだろう。「神様の働きが私たちの身に行われていて、私たちは毎日経験している。私たちはそれに疎いと感じない。」神の性質に触れると、一部の人はこう言うだろう。「神様の性質は、私たちが一生研究し、検討し、重んじている話題で、それも私たちにとって疎いでない。」神自身に触れると、一部の人は「神様自身は私たちがつき従い、信じ、追随する対象だ。それも私たちにとって疎い話題ではない」と言うだろう。天地創造の時から、神は彼の仕事を止めたことがない。彼は働いている間に、ずっと彼自身の性質を発表し、いろいろな方式で彼の言葉を発表している。それと同時に、彼はまた絶えず人類に向かって彼自身を表しており、彼自身の本質を表しており、彼の人類に対する心意、要求を発表している。だから、字面から見れば、これらの話題はどの人にとっても疎いではない。事実上、今神につき従っている人にとっては、神の働き、神の性質、および神自身についてとても疎いである。なぜこう言うだろう。人は神の働きを経験すると同時に、神と付き合っており、自分がもう神の性質を知り、神の性質の一部分を知ったと思っているから、人はみな自分が神の働きと神の性質に疎いと思わない。人は自分が神のことをよく知っており、神のことについてたくさん理解したと思っている。しかし、これらの理解は今の状況から見れば、多くの人はただ本の中に限定され、また個人の経験の範囲内に限定され、人の想像の中に限定され、さらに人の目で見た事実の範囲内に限定されていて、それは本当の神自身とは大きく隔たっている。では、どれほど「隔た」っているだろうか。もしかすると人は心の中ではっきり知らないかもしれないし、もしかすると少しの意識、少しの感じがあるかもしれない。しかし、神自身から見れば、人の彼に対する認識は、本当の神自身の本質とはるかに隔たっている。だから、私たちは「神の働き、神の性質と神自身」というような話題を持ち出して系統的に、具体的に交流する必要がある。

事実上、神の性質はどの人に対しても公にされていて、隠されているのではない。なぜなら、神は、いかなる人をも意識的に避けたことがなく、また意識的に自分を秘めて、人に自分を認識させず、理解させないようにしたことがなく、神の性質は終始公にされており、終始率直に一人一人の人と向き合っているからである。神の経営の中で、神は彼の仕事をしており、一人一人の人と向き合っており、しかも彼の仕事は一人一人の人の身に行われている。彼はこれらの仕事をすると同時に、絶えず彼の性質を流露しており、また絶えず彼の本質、彼の所有、所是によって一人一人の人を導き、供給している。どの時代にも、どの段階でも、いい環境であれ劣悪な環境であれ、神の性質は一人一人の人に向かって公にされているのであり、彼の所有、所是も一人一人の人にとって公にされているのである。それは彼の命が絶えず人に供給しており、人を支えているのと同じである。しかし、一部の人にとっては、神の性質は隠されている。なぜこう言うだろう。この部類の人は神の働きの中で生きており、神につき従っているが、今まで神を知ろうとせず、神を認識しようともせず、なおさら神に近づこうともしないからである。彼にとっては、彼が一旦神の性質を知ったら、それは彼の結末が臨むこと、彼が神の性質によって裁かれ、罪定めされることを意味している。だから、この部類の人は全然神と神の性質を理解しようとせず、もっと深く神の心意を理解し、神の心意を悟ろうともしない。彼らは意識的に協力することによって神の心意を理解しようとせず、ただ疲れを感じずに自分のしたいことをし、自分の信じたい神を信じ、自分の心の中の想像による神、観念による神を信じ、日常生活の中で自分を「一刻も離れない」神を信じているだけである。本当の神自身に対して、彼らは取り合おうとせず、理解しようとせず、相手にしようともせず、なおさら彼に近づこうとせず、むしろ神の発表した言葉で自分を飾り立て、自分を装う。このように、彼らは自分が既に神を信じることに成功し、心の中で神に対する本当の信仰を持っていると思う。彼らの心の中では、彼らの想像、彼らの観念、および彼らの神に対する規定が彼らを導いている。しかし、本当の神自身は彼らと何の関係もない。なぜなら、一旦彼らが本当の神自身を理解し、神の本当の性質を理解し、神の所有、所是を理解したら、彼らの行為、彼らの信仰、彼らの追求が罪定めされることになるからである。だから、彼らは進んで神の本質を理解しようとせず、もっと神を理解し、もっと神の心意を知り、もっと神の性質を知るために、進んで求め、祈ろうともしない。彼らは、むしろ神が虚構した、非現実的な、漠然としたものであることを望んでおり、また、神が彼らの想像したのと同じような神であり、彼らにこき使われる無尽蔵な神であることを望んでいる。彼が神の恵みを享受したい時は、神が彼の恵みになってくれ、彼が祝福を必要とする時は、神が彼らの祝福になってくれ、彼が逆境にぶつかる時は、神が彼に勇気を与え、彼らの後ろ盾になってくれる。神に対するこれらの人の認識はただ恵み、祝福という範囲内にとどまっており、神の働き、神の性質、神に対する彼らの理解はただ想像、字句教理の言い方に限定されている。しかし、一部の人は神の性質を知ることを切実に望み、神自身をはっきり見ることを望み、本当に神の性質、神の所有、所是を知ることを望んでいる。この部類の人たちは、真理の実際を追い求め、神に救われることを追い求め、神に征服され、救われ、完全にされることを追い求める。この人たちは、注意深く神の言葉を読み、神が毎回按配する環境、神が彼のために按配する人、事、物を注意深く体験し、しかも真心をもって祈り、求める。彼らが最も知りたがっているのは、神の心意、神の本当の性質と本質である。それは彼らがこれ以上神を犯さず、経験の中で神の愛らしさ、神の真実の面をもっとはっきり見るためであり、彼らが心の中で真実の神を持つためであり、神が彼らの心の中で地位を持ち、彼らがこれ以上想像、観念の中、漠然とした中で生きないためである。この人たちにとって、彼らが神の性質、神の本質を切実に理解したがっているのは、神の性質、神の本質が人の経験の中の随時の必要、人の一生の命の供給だからである。彼らは一旦神の性質を理解したら、もっと神を畏れることができ、よりよく神の仕事に協力することができ、よりよく神の心を思いやり、ちゃんと自分の本分を尽くすことができる。これは神の性質に対する二つの部類の人の態度である。一部類の人は神の性質を理解しようとしない。彼らは口先では、神の性質を理解し、神自身を認識し、神の所有、所是を見、神の心意をはっきり理解しようとすると言っているが、心の中では、神が存在しないことを望んでいる。なぜなら、この人たちは、これまでずっと神に逆らい、背き、心の中で神と地位を奪い合い、心の中で常に神の存在を疑い、さらには神の存在を否定さえするからである。彼らは神の性質、本当の神自身が彼らの心を占有することを望まず、ただ自分の欲望を満足させ、自分の想像を満足させ、自分の野心を満足させようとする。だから、この一部の人は神を信じ、神につき従い、家や生業を捨てることができるが、しかし絶えず悪行を行なう。さらに一部の人はいけにえを盗み食いし、一部の人はいけにえを浪費し、一部の人は陰で神をののしりさえする。また一部の人は地位を利用して、絶えず自分を証しし、高め、神と人を奪い合い、神と地位を奪い合い、いろいろな方式、いろいろな手段によって人に自分を崇拝させ、いつも人心を籠絡して人をコントロールしようとする。もっとひどいことに、わざと他人に自分を神だと誤解させ、自分を神として扱わせる人さえもいる。彼は人に、「私は堕落した人で、私も堕落、傲慢を持っている。私を崇拝してはいけない。私がいくらよいことをしたとしても、それは神様に高められたからであり、私のすべきことだ」と言ったことがない。なぜ彼はこう言わないだろう。それは人の心の中の地位を失うことを深く恐れるからである。だから、このような人は全然神を高くあげず、また神を証ししない。彼が神を高くあげず、神を証ししない原因は、彼が全然神を理解しようとしないからである。彼が神を理解しないと、神を認識することができるだろうか。認識できない!だから、「神の働き、神の性質と神自身」という話題の中の、このいくつかの字は簡単だが、人によって意義が違う。常に神に逆らい、神に背き、神に敵対する人たちにとっては、それは罪定めであるが、真理の実際を追い求め、常に神の前に来て、神の心意を探し求める人たちにとっては、それは疑いなく、魚が水を得たのと同じである。だから、あなたたちのうち、一部の人は神の性質、神の働きを語ると聞いたら、頭が痛くなり、心の中に強い反発心を持ち、とてもつらくなる!しかし、一部の人は聞いた後、「この話題はまさに私に必要なものだ。この話題は私に非常に役立つのだ。それは私の命の経験の中で欠かせない一部分の内容であり、肝心の上に肝心なものであり、人が神様を信じる土台だ。人はそれを離れられない」と感じる。この話題は一人一人の人にとって近いでもあるし遠いでもあり、疎いでもあるし詳しいでもあるが、どうであろうと、この話題はやはりこの場にいる一人一人が耳を傾けて聞き、知り、理解すべきものである。あなたがこの話題をどのように対処しても、どのように扱っても、この話題をどのように理解しても、この話題の重要性は無視できない。

神は人類を創造した時から働き始めた。最初はとても簡単な仕事であった。この仕事は簡単であったが、神の本質、神の性質がその中で発表された。今になって、神の仕事が高まり、神が彼につき従う人々の身に大量の具体的な仕事をし、人に対して大量の言葉を発表したが、始めから終わりまで、神の本体は人に隠されている。彼が二回受肉したが、聖書が記録されてから今まで、誰が神の本体を見たことがあるか。あなたたちの知るところでは、神の本体を見た人はいるのか。いない。誰も神の本体を見たことがなく、つまり誰も神の本当の姿を見たことがない。これは誰もがみな認めることである。つまり、神の本体、或いは神の霊はすべての人に隠されている。神に造られたアダム、エバ、そして神に受け入れられたヨブを含めて、誰も神の本体を見たことがない。では、神が意識的に彼の本体を隠すのはなぜだろう。一部の人は「神様が人を驚かせることを心配されるからだ!」と言い、一部の人は「神様がこのように彼の本体を隠すのは、人があまりにも小さく、神様があまりにも大きいからであり、人が神様を見ることができず、見ると死んでしまうからだ」と言い、また一部の者は「神様が彼の仕事を経営することで毎日忙しいから、たぶん人に現れる時間がないかもしれない」と言う。あなたたちがどのように思っても、私は一つの結論を出す。この結論は何だろう。それはすなわち、神は全然人に彼の本体を見せようとしないということである。ここの「人に隠す」とは神がわざわざしたことで、つまり、神がわざわざ人に彼の本体を見せないということである。これはよく分かっただろう!神が人に自分の本体を現したことがないなら、神の本体は存在するかどうか、あなた達はどう思うのか(存在します。)これは言うまでもない!神の本体が存在するのは、疑う余地がない。神の本体がどれほど大きいか、どんなふうか、これは人類が討議すべき問題なのか。いいえ!答えは否定である。神の本体に関する話題は私たちが討議すべき問題ではない。では、私たちが討議すべき問題は何だろう。(神の性質です。)(神の働きです。)本題に入る前に、さっきの話題に戻ろう。なぜ神は人類に自分の本体を現したことがないのか。なぜ神はわざわざ人類に自分の本体を隠すのか。その原因はただ一つである。それは何かというと、造られた人類は神の何千年の働きを経験したが、神の働きを認識し、神の性質と神の本質を認識した人はいないのであり、このような人類は神から見れば、神に敵対する人類なのである。神は彼に敵対する人類に現れることがない。これは、神がなぜ今まで人類に彼の本体を現さなかったのか、なぜわざわざ人類に彼の本体を隠したのかの唯一の原因である。今、あなたたちは神の性質を認識することの重要性をはっきり知っただろう。