言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

神の性質及び神の働きがもたらす効果をどうやって認識すべきか

神に対する人の態度が人の運命を決める

神は生きている神だ。事に当たって、人の表現はさまざまであり、それに対して神はさまざまな態度を取る。なぜなら、彼は人形でも空気でもないからだ。神の態度は人が認識するに値する。人は神の態度を認識することによって、少しずつ神の性質を認識し、神の心を理解すべきだ。あなたが少しずつ神の心を理解する時、あなたは神を畏れ、悪から遠ざかることはそれほど難しくないと感じる。しかもあなたが神を理解した時、たやすく神を限定することがなくなる。あなたが神を限定しない時には、容易に神を犯すことがなくなり、知らず知らずのうちに神に導かれて神に対して認識を持つようになる。したがって、あなたは心の中で神を畏れ敬うようになり、あなたの把握した字句教理や理論をもって無理やり神に当てはめなくて、いつでもどんな事でも神の意志を求めるようになる。そうすれば、あなたは知らず知らずのうちに神の心にかなう人になる。

神のする仕事は人が見ることも触れることもできないが、あらゆる人のなすこと、あらゆる人の神に対する態度を、神は感じ取ることができるだけでなく、見ることもできる。これは、あらゆる人が心の中ではっきり知り、認識すべきことだ。もしあなたが、心の中でいつも「わたしがここでしていることを、神様は知っているだろうか。わたしが思っていることを、神様は知っているだろうか。知るかもしれないし、知らないかもしれない」と思っていて、このような観点をもって神を信じ、神につき従い、それと同時に、このように神の働きと神の存在を疑うなら、あなたは遅かれ早かれ神の怒りに触れるはずだ。なぜなら、あなたはもう危ない瀬戸際にあるからだ。わたしはこのような人を見た。彼らは長年神を信じてきたが、真理の実際を得ておらず、神の心意はなおさら分からず、命の身丈は全然伸びておらず、ただとても浅い道理を守っているだけだ。その原因を追究すれば、彼らは全然神の口の言葉を命として受け入れず、それに神の存在を正視せず、受け入れないからだ。あなたはどう思うか。神はこのような人を見て、享受があるのか、慰めを得るのか。だから、人の信じ方が人の運命を決めると言うのだ。人がどのように追い求めても、どのように神を扱っても、人の態度が何よりも重要なのだ。神の存在を無視して空気と見なしてはならない。どんな時でもあなたが信じている神は生きている、実際に存在する神であることを覚えておくべきだ。彼は第三の天にいてやるべきことがないのではなく、あらゆる人の心、あらゆる人の一挙一動、一言一行、その表現と神に対する態度を、常に監視している。あなたが自分を神に委ねたくても委ねたくなくても、あなたのすべての行為、思いや考えは神の前に置かれていて、神に監視されている。あなたの行い、あなたの挙動によって、あなたの態度によって、神はあなたに対する見方や態度を絶えず変える。でも、わたしはやはり一部の人たちに勧めたい。自分を神の手中の赤ちゃんと思ってはならない。まるで神があなたを非常に寵愛しており、神があなたを離れられないように、またあなたに対する神の態度がいつも変わらないように。夢を見るな!神はだれに対しても公平なのだ。彼は人々を慎重に扱って征服、救いの仕事をする。これは彼の経営だ。彼のあらゆる人に対する態度は真面目であって、人をペットとしてあやして弄ぶのではない。神の人に対する愛は寵愛ではなく、溺愛でもない。彼の人に対する憐れみ、寛容は、甘やかすことではなく、わがままにさせることでもない。逆に、神の人に対する愛は愛護であり、憐れみ惜しみであり、命に対する尊重だ。彼の人に対する憐れみ、寛容の中には、人への期待がある。彼の憐み、寛容は、人類が生きていくための資本だ。神は生きた神であり、実際に存在している神だ。彼の人に対する態度は、原則があるのであって、規定的なものではなく、変わるものだ。彼の人類に対する心意は、時間、環境、あらゆる人の態度の変化につれて、絶えず転換され、変わるのだ。だから、あなたは心の中で、神の本質は一定不変だが、神の性質は異なる時間に、異なる場合で発されることを、はっきりと、明白に知らなければならない。もしかすると、あなたはこのことがあまり重大ではないと思い、自分の観念をもって想像して、神がこのようにすべきだと思うかもしれない。しかし、その逆のこともある。あなたが自分の観念をもって神を評価する時、あなたはもう神の怒りに触れた。というのは、神はあなたの想像どおりにするはずがなく、あなたの言う通りにこのことを扱うはずがないからだ。だから、わたしはあなたに忠告する。あなたの身の回りに起こる事々を慎重に扱うべきであり、何事でも、神の道――神を畏れ、悪から遠ざかる――を歩むという原則によって実行することを学ぶべきだ。神の心意、神の態度に関わることで、はっきり見極めるべきであり、弁えている人を探して交わり、真剣に尋ね求めるべきであって、あなたの信じている神を人形と見なしてはならない。つまり勝手に裁き、勝手に結論を下し、いい加減に扱ってはならない。神があなたを救い、あなたの結末を定める過程の中で、あなたに憐れみ、寛容を施しても、あなたに裁き、刑罰を施しても、とにかく、彼のあなたに対する態度は一定不変ではない、それはあなたの神に対する態度と認識にかかっている。あなたは自分が神のある面について認識や理解を持っているからといって、一度で永遠に神を定義してはならない。死んだ神ではなく、生きた神を信じるべきだ。覚えたのか!わたしの一部の言葉は実情であり、あなたたちにとって必要なものでもあるが、あなたたちの今の状態、今の身丈のゆえ、わたしはもっと高い要求を出してあなたたちの積極性をくじきたくない。それは、あなたたちが物悲しさを感じず、神に大いに失望せず、神を愛する心をもって、神を尊重する態度をもって、これからの道を歩むことを希望するからだ。神を信じることをいいかげんに扱わないで、最も大きな事として扱うべきであり、それを心に留めて、実際と結び合わせ、現実生活と結び合わせるべきであり、ただ口先だけで言うべきではない。なぜなら、このことは致命的なこと、あなたの運命を決めることだからだ。このことを笑い話、児戯と見なしてはならない!今日、あなたたちに言ったこれらの言葉を通して、あなたたちは心の中で何か分かったのか、何か収穫を得たのか。わたしの言ったこれらの言葉について、あなたたちはまだ疑問があるのか。

これらの話題は少し新しく、あなたたちの観点、あなたたちが普段追い求め、重んじるものとは少し隔たりがあるが、あなたたちが一定の期間交わったら、わたしのこれらの言葉に対して共通の認識を持つようになると、わたしは思う。これらの話題は新しくて、あなたたちが今まで考えたこともないものだから、これらの言葉があなたたちにいかなる重荷も負わせないように希望する。今日、わたしがこれらの言葉を言うのは、あなたたちを驚かすためではなく、こういうやり方であなたたちを対処するためでもなく、あなたたちに事実の真相を知らせるためだ。何と言っても、神と人との間には隔たりがあるのだから、人は神を信じているが、全然神を知らず、神の態度も知らず、しかも人はそれほど熱心に神の態度に関心を寄せておらず、ひたすらこのように信じ、このように歩んでいて、神を知り、神を認識することをいいかげんに扱っている。だから、あなたたちにいくらかのことをはっきり話す必要があると、わたしは思う。それは、あなたたちが信じている神はどんな神か、彼は心の中で何を考えているのか、彼はさまざまな人に対してどんな態度を取るのか、あなたたちが行うことは彼の要求に比してどのくらいの差があるのか、彼の要求する基準よりどのくらいの距離があるのかを、あなたたちに知らせるためだ。あなたたちにこれらを知らせるのは、あなたたちが心の中で判断する尺度を持ち、自分がこの道で何の収穫を得たのか、まだ得ていないものがどのくらいあるか、どんな領域には全然入っていないかを把握するためだ。普段あなたたちが交わる時は、ただ人々がよく言う話題を語るだけだ。それは範囲が狭く、内容が浅く、神の心意や神が人に要求する範囲、基準とは隔たりがあり、差がある。このままでいけば、あなたたちは神の道からますます遠く離れるに違いない。あなたたちはただ神の今のこれらの言葉を、崇拝の対象、儀式や規定と見なしているだけだ!実は、あなたたちの心の中には全然神の地位がなく、神もあなたたちの心を得ていない。ある人たちは、神を知ることはとても難しいと思っている。これも事実だ。確かに少し難しい!もし人に本分を尽くせる時、外側の仕事を任せ、力を出させるなら、人々は神を信じるのが容易なことだと感じる。これは人類の能力でできることだからだ。しかし、神の心意、神の人に対する態度という領域に触れると、人々にとって確かに難しいのだ。これは人が真理を理解し、実際の中に入ることに関わるので、もちろんある程度難しい。しかし、あなたが足を踏み出し、進入し始めたら、だんだん難しくなくなる。

神を神として扱うことこそが、人が神を畏れる始まりだ

さっき誰かが、「なぜわたしたちの神様に対する認識はヨブのより多いが、神様を畏れないのか」という質問をした。これについて先ほど少し話した。そうだろう。実は、この問題の本質についてわたしたちはもう話した。その時、ヨブは神を知らなかったが、彼は神を神として扱い、神を天地万物の支配者と見なした。彼は神を敵と見なさず、神を造物主として礼拝していた。しかし、今の人はどうしてこのように神に逆らうのか。どうして神を畏れることができないのか。その原因の一つは、今の人がサタンに極めて深く堕落させられ、サタン的な本性が深く根を下ろしていて、人が神の敵となったからだ。だから、人が神を信じ、神を認めても、やはり神に逆らい、神に敵対することができる。これは人の本性によって決められている。もう一つの原因は、人が神を信じているが、全然神を神として扱わず、神を人の対立面、人の敵と見なして、神と共存できないほど神に敵対しているからだ。原因はこんなに簡単だ。これはさっきの交わりの中で少し言及しただろう。これが原因であるかどうか、あなたたちは考えてみなさい。あなたは神に対して少しの認識を持っているが、あなたの認識は何であるか。みんなが議論しているものではないか。神があなたに教えたものではないか。あなたはただこの面についての理論、教理を知っただけだ。ところが、神の真実な面に対して、あなたは体得があるのか、主観的な認識があるのか、実際の認識と体験があるのか。もし神があなたに教えなければ、あなたは知ることができるのか。あなたが理論を知ることは、あなたが本当の認識を持つことを意味しているのではない。とにかく、あなたがどのようにして知ったとしても、どのくらい知ったとしても、あなたが神に対して本当の認識を持つ前に、神はあなたの敵であり、あなたが神を神として扱うことができる前に、神はやはりあなたの対立面に立っている。なぜなら、あなたはサタンの化身だからだ。

あなたがキリストと一緒にいる時、彼の一日三食の面倒を見ることができるかもしれないし、彼にお茶や水を供し、彼の生活に仕えることができるかもしれなくて、まるでキリストを神として扱ったようだ。あることが起こる時、人の観点はいつも神の観点と食い違い、神の観点は人がいつも理解し、受け入れることができない。うわべでは、人は彼と仲よく付き合うことができるが、しかし、これは人が彼に味方することを意味しているのではない。いったんことが起ったら、人の不従順の本性が現れる。これは人と神が敵対していることを立証する。人と神が敵対しているのは、神が人と対立し、人を敵視し、人を自分の対立面に置いて扱うからではなく、人の主観的な意志の中に、人の潜在意識の中に、神と対立するこのような本質があるからだ。人は神から来たすべてを研究の対象と見なすので、神から来たもの、或いは神に関係するものを取り扱う時、最初の反応は、推測し、疑うのである。それから、人はすぐ反発する態度を取って神に敵対する。まもなく、彼は消極的な気持ちを抱いて、神と「言い争い」、或いは腕比べし、さらには、このような神は彼がつき従うに値するかどうかさえ疑う。彼の理性が彼に、こうすべきではないと教えるとしても、彼は依然として、思わずこのように選択し、さらには「少しも揺るがず」最後までやり通すはずだ。たとえば、ある人たちが神に関するデマや誹謗を聞いた時、人の第一反応は何であるか。第一反応は、「このデマが本当かどうか、存在するかどうか知らないから、様子を静観してみよう」ということだ。それから人は、「このことは確認しようがない。一体こんな事があるかどうか。このデマは本当かどうか」と考えてみる。うわべでは、彼は何も表していないが、心の中ではもう疑い始め、もう神を否み始めた。彼のこのような態度、観点の本質は何か。裏切ることではないか。事が臨まない時、あなたは彼の観点を見いだすことができず、まるで彼が神に抵触せず、神を敵と見なしていないようだ。しかし、事が臨むと、彼はすぐサタンの側に立って神と敵対する。この事実は何を証明するのか。これは、人が神と対立していることを証明する。神が人を敵と見なしたのではなく、人の本質そのものが神を敵視しているのだ。人がどんなに長い間神につき従ったとしても、どれほどの代価を払ったとしても、どのように神を賛美するとしても、どのように自分を抑えて神に逆らわないとしても、さらには、自分に神を愛することを要求するとしても、人はどうしても神を神として扱うことができない。これは人の本質によって決まるのではないか。もしあなたが彼を神として扱い、本当に彼が神だと思うなら、あなたは彼を疑うことがあろうか。心の中で彼に対して疑問を持つことがあろうか。そんなことはないだろう。この世界の潮流がこんなに邪悪で、この人類がこんなに邪悪なのに、あなたはどうして彼らに対して観念を持たないのか。あなたがそんなに悪いのに、あなたはどうして自分に対して観念を持たないのか。いくつかのデマ、誹謗が、あなたに神に対してそんなに大きな観念、そんなに多くの意見を持たせた。あなたの身丈がどんなに幼いかが分かる! 何匹かの蚊、臭い蠅が「ブンブン」としたら、あなたは惑わされたのか。これはどういう人なのか。神がこのような人をどう思うかをあなたは知っているのか。これらの人に対する神の態度は、実はとても明確だ。これらの人に対して、ただほったらかしておく態度、すなわち相手にしない態度を取るだけで、彼はこれらの無知な人に対して真剣でなかった。これはなぜだろう。神の心の中では、命をかけて最後まで彼に敵対し、全然彼に味方する道を求めようとしないこの一部の人を得るつもりは全くないからだ。わたしがこう言うと、また一部の人を傷つけたかもしれない。では、あなたたちはわたしがいつもこのようにあなたたちを傷つけることを望むのか。それを望んでも望まなくても、とにかくわたしの言うことは事実だ!わたしがいつもこのようにあなたたちを傷つけ、あなたたちの痛いところを突くと、あなたたちの心の中の高大な神の姿に影響を与えないのか。(与えません。)わたしもそう思う!それは、あなたたちの心の中には神が存在しないからだ。あなたたちの心の中で、極力守り、保護しているその高大な神は全然神ではなく、人の想像によるものであり、それは全く存在しない。だから、やはりわたしが真相を暴いたほうがいい。そうすれば、「真相がすっかり明らかになる」のではないか。真の神は人の想像によるものではない。あなたたちには現実に直面してほしい。そうしてこそ、あなたたちが神を認識するのに有利だ。

神に是認されない一部類の人

神の心の中で、一部の人の信仰は全く是認されていない。つまり、神はこの一部の人を神の追随者だと認めない。というのは、神は彼らの信仰を良しと認めないからだ。この一部の人は数年神につき従っていたが、彼らの思想観点は変わったことがなく、彼らは異邦人と同じように、異邦人の処世の原則、方式を守っており、異邦人と同じような生存法則、信念を守っている。彼らは神の言葉を命として受け入れたことがなく、神の言葉が真理だと信じたこともなく、神の救いを受け入れるつもりは全然なく、しかも、神を彼の神だと認めない。彼らは神を信じることを余暇の趣味とし、神を一種の心の支えとしているだけだ。だから、彼らは神の性質、神の本質は知るに値しないと考える。本当の神のすべては彼らと何の関係もない、と言ってもいい。彼らはそれに関心を寄せようとせず、それに取り合う気になれない。なぜなら、彼らの心の奥底には一つの極めて強い声があって、いつも彼らに「神は見ることも触れることもできない。神は存在しない」と教えるからだ。彼らはこう思っている。「このような神様を知ることは、無駄な骨折りをし、自分で自分を弄ぶことだ。口先だけで認めて何の態度も表明せず、何の実際の行動もしない。それでこそ本当に聡明だ。」この一部の人を神は何と見なすのか。神は彼らを異邦人と見なす。一部の人はこう言う。「異邦人は神様の言葉を読むことができるのか、本分を尽くすことができるのか、神のために生きるという言葉を言うことができるのか。」人が見るのは往々にして人の外側の表現であり、人の本質を見ることはできない。しかし、神は人の外側の表現を見ないで、人の心の中の本質だけを見る。そういうわけで、これらの人に対して、神はこのような態度を取り、このような定義を下すのだ。これらの人が言う「神様はなぜそのようにするのか、なぜこのようにするのか。このことはわたしが納得できない、あのことはわたしが納得できない。このことは人の観念に合わない。あのことについて解釈してください……」という言葉に対して、わたしはこう答える。「あなたに対して解釈する必要があるのか。この事はあなたと関係があるのか。あなたは誰なのか。あなたはどこから来たのか。あなたは神のことをとやかく言う資格があるのか。あなたは彼を信じるのか。彼はあなたの信仰を認めるのか。あなたの信仰が神と何の関係もないのに、彼のすることはあなたと何の関係があるのか。あなたは神の心の中での自分の位置も知らないのに、神と対話する資格があるのか。」

忠告の言葉

これらの言葉を聞いた後、あなたたちはつらいだろう。これらの言葉はあなたたちが聞きたくないか、或いは受け入れたくないけれども、それはみな事実だ。この段階の仕事は神がするのだから、あなたが神の心意、神の態度に関心を持たず、神の本質と性質を知らなければ、最後に損をするのはあなた自身だ。わたしが聞き苦しい話をしたことをとがめず、わたしの言葉があなたたちの心を凍らせたことをとがめないでほしい。わたしの言ったことはみな事実であり、あなたたちにショックを与えるためではない。あなたたちに何をさせても、どのようにさせても、わたしはあなたたちが正しい道を歩み、神の道を歩み、正しい道からそれないことを希望する。もしあなたが神の言葉通りに行わず、彼の道を歩まなければ、あなたは疑いなく神に背いて正しい道からそれている。だからわたしは、これらのことをあなたたちにはっきり話す必要があると思う。そうすれば、あなたたちはいい加減にではなく、明白に、はっきりと信じることができ、あなたたちは、神の態度、神の心意、神がどのように人を完全にするか、どのような方式によって人の結末を定めるかを明確に知ることができる。いつか、あなたがついて来られなくなるとしても、わたしはわたしに責任がないと言う。それは、多くの言葉はもうあなたにはっきりと言ったからだ。あなたがどのように自分の結末を扱うかは、完全にあなた次第だ。異なる人の結末を定める上で、神は異なる態度を取る。彼には彼の評価のし方、彼の要求基準がある。この評価基準は誰に対しても公平だ。これは疑う余地のないことだ!だから、一部の人の心配はいらないのだ。これで安心するだろう。じゃ、今日はここまで。さようなら!