言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

神の性質及び神の働きがもたらす効果をどうやって認識すべきか

人の結末は誰が定めるのか

もう一つ最も重要な問題がある。それはあなたたちの神に対する態度だ。この態度はとても重要だ!この態度は、あなたたちが最後に滅亡に向かうのか、それとも神があなたたちのために用意した美しい落ち着き先の中に入るかを決める。王国時代に、神はもう二十数年働いた。この二十数年の間に、あなたたちはみな、心の中で自分の表現をよく知らないかもしれないが、神は心の中で、各々の人のために、はっきりとした偽りのない記録をしておいた。各々の人が、彼につき従いながら彼の語る真理を聞き始めた時から、ますます多くの真理が分かって、人々がみな自分の本分を尽くすようになった時まで、神はこの間の人のさまざまな表現を一々記録しておく。本分を尽くしている間に、いろいろな環境や試練が臨む時、人はどんな態度を取るのか、人の様々な表現はどうなのか、人は心の中で神のことをどう思っているのか……これらを神はみな記帳しており、記録している。これらのことは、あなたたちにあってはぼんやりしているかもしれないが、神にあってははっきりとしていて、いいかげんに扱うことはない。このことはあらゆる人の結末に関係しており、あらゆる人の運命、前途に関係しており、神の心血、代価はみなその中にあるのだから、神はいささかもおろそかにできず、いささかもゆるがせにできない。神は人のためにこのような帳簿をつけており、人が初めから終わりまで神につき従ってきた過程の帳簿をつけている。この間に、あなたが神に対してどんな態度を取るのか、これがあなたの運命を決める。これはとても真実ではないか。今まで、あなたたちは神がとても正しいと思わないのか、神がこのようにするのはとても適切だと思わないのか。あなたたちは神に対してまたほかの想像があるのか。(ありません。)では、あなたたちの結末は神が定めるのか、それとも人自身が定めるのか。あなたたちはどう思うのか。(神様が定めるのです。)誰が定める?(神様が。)まだ知らないだろう!香港の兄弟姉妹がまず言ってみなさい、誰が定める?(人自身が定めるのです。)人自身が定める?それだと、神と関係がないということ?韓国教会の誰かが話してみなさい。(神様は人のあらゆる行為、人の歩む道に基づいて人の結末を定めるのです。)この言葉はとても客観的だ。ここで、わたしがあなたたちに教えたい事実が一つある。神が救いの仕事をしている間に、人のために一つの基準を定めたが、この基準は即ち、人が神の言葉を聞いて、神の道を歩むことができることであり、神はこの基準に基づいて人の結末を判断する。もしあなたが神のこの基準によって実行すれば、よい結末を得ることができ、もしあなたがこの基準によって実行していないなら、よい結末を得ることができない。では、この結末はいったい誰が定めるのか。神が一方的に定めるのではなく、神と人が一緒に定めるのだ。そうではないか。(はい。)なぜこう言うだろう。神は進んで人を救う仕事をしようとし、人のためによい落ち着き先を用意しようとし、人は神の働く対象であり、この結末、落ち着き先は神が人のために用意するからだ。もし働く対象がなければ、神はこの仕事をする必要がない。もし神がこの仕事をしなければ、人は救われる機会がない。人は救われる対象だ。救われる対象は受動的な立場にあるが、この立場にある人の態度は、神が人類を救う仕事を成就することができるかどうかを決める。神があなたに指示しなければ、あなたは基準を知らず、目標がない。基準、目標があるとしても、あなたが協力せず、実行せず、代価を払わなければ、あなたは得られない。だから、この結末は神を離れることも人を離れることもできない。今、あなたたちはいったい誰が結末を定めるのかを知っただろう。

人はよく経験によって神を限定する

神を認識することについての話題を交わる時、あなたたちはある事実を発見していないのか。今、神の態度が少し変わったことを発見していないのか。神の人類に対する態度は一定不変なのか。神がずっとこのように我慢し、ずっと彼のすべての愛と憐みを無期限に人に施すだろうか。このことはまた神の本質に触れる。またさっきの、放蕩息子が改心するという話題に戻ろう。その問題を聞いた後、あなたたちの答えはそんなに明確でなかった。つまり、あなたたちは神の心意をあまり理解していない。人はいったん神が人を愛すると知ったら、神を愛のしるしと定義する。つまり、人が何をしても、どんな表現があっても、どのように神を扱っても、どのように不従順であってもかまわない。なぜなら、神には愛があり、神の愛は無限だからであり、神には愛があるから、人を容赦することができ、神には愛があるから、人を憐れみ、人の幼さを憐れみ、人の無知を憐れみ、人の不従順を憐れむことができる。本当にそうだろうか。ある人はいったん一度または何度か、神の忍耐を体験したら、これを、神を認識する資本と見なし、神が永遠に彼に我慢し、彼を憐れむと思っており、しかも彼の一生の中で、神の彼に対する忍耐を、神の彼を扱う基準とする。またある人は、一度神の彼に対する寛容を得たら、永遠に神を寛容だと定義し、しかも、この寛容は期限がなく、条件がなく、さらには何の原則もないとさえ思っている。これらの認識の仕方は正しいのか。神の本質、神の性質に言及するたびに、あなたたちはわけが分からなくなる。あなたたちの状態を見て、わたしは本当にのぼせる。神の本質に関わる真理はあなたたちが少なからず聞き、神の性質に関する話題もあなたたちは少なからず聞いた。しかし、あなたたちの頭の中には、これらのこと、これらの面の真理に対する理論や文字的な記憶があるだけで、現実生活の中で、神の性質がどのようであるかを体験し、或いは神の性質がどのようであるかを見ることができる人は一人もいない。だから、あなたたちがみな、わけも分からずに、盲目的に神を信じ、さらには、神に対して傲慢で無視する態度さえ取るのだ。あなたたちの神に対するこのような態度は、何をもたらしたのか。あなたたちがいつも神を限定するようになった。いったん少し分かったら、とても満足して、神のすべてを得たと思い、そして神を限定し、神が動くことを許さない。神が新しい事をすると、彼が神であることを認めない。いつか神が、「わたしはもう人を愛さず、もう人に憐れみを施さず、もう人にいかなる寛容、忍耐も施さない。わたしは人を極度に憎んで反感を持っている」と言ったら、人は心の中でこのような言い方に反感を持ち、こう言う人さえいるだろう。「あなたはもうわたしの神様ではなく、もうわたしがつき従おうとする神様ではない。もしあなたがこのような言葉を言うなら、わたしの神様になる資格がなく、わたしもあなたにつき従う必要がない。もしあなたがわたしに憐れみ、愛、寛容を与えなければ、わたしはあなたにつき従っていかない。あなたが無期限にわたしを容赦し、ずっとわたしに我慢して、あなたが愛であり、忍耐であり、寛容であることをわたしに見せてこそ、わたしはあなたにつき従うことができ、最後までつき従う信仰を持つことができる。なぜなら、あなたが忍耐し、憐れんでこそ、わたしの不従順、わたしの過ちが無期限に容赦され、赦されることができ、しかもわたしはいつでもどこでも罪を犯すことができ、いつでもどこでも罪を告白して赦しを得ることができ、いつでもどこでもあなたの怒りに触れることができるからだ。だから、あなたはわたしに対してどんな意見や判断も持つべきではない。」あらゆる人が心の中で、このように主観的に、意識的にこのような問題を考えたことがないかもしれないが、あらゆる人が神を、罪の赦しを得るための道具、よい落ち着き先を得るための利用対象と見なす時、もう潜在意識の中で、生きている神を自分の対立面に置き、自分の敵と見なした。これはわたしの目で見たことだ。「わたしは神様を信じる」、「わたしは真理を追い求める」、「わたしは性質が変化したい」、「わたしは暗やみの支配から逃れたい」、「わたしは神様を満足させたい」、「わたしは神様に従いたい」、「わたしは神様に忠誠を尽くし、自分の本分をちゃんと尽くしたい」……と、あなたがしきりに言い、その言葉がいくら滑らかに聞こえても、あなたの理論がいくら多く、いかにもっともらしく、立派であっても、事実上、今まで歩んできた多くの人は、もう自分の把握した規定、教理、学説によって神を限定することを学び、自然に神を自分の対立面に置いた。あなたは文字、教理は把握したが、本当に真理の実際の中に入ってはいない。だから、あなたは神に近づき、神を認識し、神を知ることが容易にできない。これはとても悲しいことだ!

わたしは、動画の中でこんな一幕を見た。何人かの姉妹が一冊の「言葉が肉体で現れる」という本を上に挙げ、しかもとても高く挙げていた。彼女らはこの本を真ん中に、そして自分たちの頭の上まで高く挙げた。それは一幅の絵であるけれども、わたしの目にはただの一幅の絵ではなく、あらゆる人が心の中で高く挙げるのは神の言葉ではなく、神の言葉の本だという事実を連想させる。これは悲しむべきことだ。このような行為は全然神を高く挙げるのではない。あなたたちが神を知らないので、一つのとても明らかな問題、とても小さな問題にも、心の中で観念を持っているのだ。わたしがあなたたちに聞く時、わたしがあなたたちに明確な答えを求める時、あなたたちの返事は想像や推測によるものだった。疑いを挟んで反問する人さえもいる。それで、わたしは心の中で、あなたたちが信じているのは本当の神ではないということを、もっと明確に知った。あなたたちがこんなに長い間、神の言葉を読んだ後、再び神の言葉、神の働き、もっと多くの教理によって神を限定するのであり、全然神を知ろうとせず、神の心意を探ろうとせず、神が人に対していったいどんな態度を取るのか、神が心の中でどう思うのか、神がなぜ憂え悲しみ、なぜ怒るのか、なぜ人を見捨てるのかなどなど、これらの問題を知ろうとしない。もっと多くの人は、神が黙っているのは、神が人のさまざまな表現を見ているだけで、それに対して態度や考えがないからだと思っている。「神様が黙っているのは、神様が黙認したからだ。神様が黙っているのは、神様が待っているからだ。神様が黙っているのは、神様が態度を持たないからであり、神様の態度がもう本の中で言い尽くされ、述べ尽くされ、繰り返して随時、それを人に教える必要がないからだ」と思っている人さえいる。神は黙っているけれども、やはり態度や観点を持っており、人に対する要求基準がある。たとえ人が彼を知ろうとせず、彼を求めようとしなくても、彼の態度はやはり明確なのだ。 昔、とても熱心に神につき従っていた人が、神を捨てて離れた後、今、戻ろうとするようなことで、あなたたちはなんと、神がどういう観点を持つか、神がどんな態度を取るかを知らないのだ。これは悲しいことではないか。実は、これはとても浅はかなことだ。もしあなたたちが本当に神の心を理解しているなら、あなたたちはこのような人に対して神がどんな態度を取るかを知るはずであり、どっちつかずの返事をすることがない。あなたたちが知らないから、わたしがあなたたちに教えよう。

神の働きの中で逃げた人に対する神の態度

どこにもこういう一部の人がいる。彼らは真の神の道を確信した後、いろいろな原因のゆえ、黙って離れた。彼らは挨拶もせずに去っていき、自分の好きなことを思いのままにやり放題にした。わたしたちは、しばらく彼らが離れた原因は何であるかを論じない。まず、このような人に対して神がどんな態度を取るかを見てみよう。それはとても明確だ!彼が離れた瞬間に、神から見れば、彼の神を信じる生涯はもう終わった。彼自身がピリオドを打ったのではなく、神が彼にピリオドを打ってあげた。彼が神を離れたことは、彼が神を見捨てて神を必要としないこと、彼がもう神の彼に対する救いを受け入れないことを意味している。彼が神を必要としないのに、神が彼を受け入れるだろうか。しかも、彼がこのような態度、このような考えを持っていて、神を離れることを決めた時、彼はもう神の性質の怒りに触れた。彼が怒り狂って神を罵ったことがないとしても、何か行き過ぎた行為や下劣な行為をしたことがないとしても、心の中で、「いつか、わたしが外で十分に遊んだ時、或いはわたしがまだ神様を必要とする時、或いは神様がわたしを召す時、わたしはまた戻ってくる」と思うか、或いは、「わたしが外で傷ついた時、外の世界があまりにも暗くて邪悪であることを見た時、時流に従いたくない時、わたしはまた戻ってきて神様を探す」と言うとしても、彼らが心の中でいつ戻るかを計画するとしても、彼らが自分のために退路を残しておいたとしても、しかし彼らは、自分がどのように思っていても、どのように計画していても、それはただひとりよがりな考えであることを知らない。彼らの最大の失策は、彼らが離れようとした時、神の心がどう感じたかを知っておかなかったことだ。彼が離れることを決めた瞬間に、神は彼を完全に放棄し、すでに心の中でこの人の結末を定めたのだ。この結末は何だろう。神はこの人を倉の鼠と同じ種類に分け、倉の鼠と一緒に滅ぼす。だから、人は常にこのようなことが見られる。神を見捨てた人がいるが、懲罰を受けてはいない。神が物事を行うのには、神の原則があり、あることは人が見ることができるが、あることは神がただ心の中で決めるのだから、人は物事の結果を見ることができない。人の目で見たことが真実な面だとは限らない。だが、あなたが見られなかったその面こそが、神の心の中での本当の考えと決定だ。

神の働きの中で逃げた人は真理の道から離れ去った人である

では、なぜ神はこのような人にこれほど重い懲罰を与えるのだろうか。なぜ神はこのような人に対して、これほど大きな怒りを発するのだろうか。わたしたちが先ず知っておくべきことは、神の性質は威厳、激しい怒りであり、彼は人の意のままに屠られる羊ではなく、人の意のままに弄ばれる人形でもなく、人にこき使われる空気でもない。もしあなたが本当に神の存在を信じるなら、あなたは神を畏れる心を持つべきであり、神の本質の怒りに触れることは許されないのを知らなければならない。この「怒りに触れる」ことは、ある言葉のゆえであるかもしれないし、ある考えのゆえであるかもしれないし、ある下劣な行為のゆえであるかもしれないし、ある穏やかな行為、人から見れば、倫理の上からも道徳の上からも問題にならないある行為のゆえであるかもしれないし、或いはある学説、ある理論のゆえであるかもしれない。しかし、あなたがいったん神の怒りに触れたら、あなたはもう機会がなくなり、従ってあなたが滅びる日も来るのだ。これは恐るべきことだ!もしあなたが神の犯してはならないことを知らないなら、あなたは神を恐れないかもしれず、常に神を犯すかもしれない。もしあなたがどのように神を畏れるかを知らないなら、あなたは神を畏れるはずがなく、どのように神の道――神を畏れ、悪から遠ざかる――に進入し始めるかを知らない。一旦あなたが心の中で意識して、神の犯してはならないことに気づくことができたら、あなたはどのようにすれば、神を畏れ、悪から遠ざかることかを知ることができる。

神を畏れ、悪から遠ざかる道に進入するには、必ずしも、たくさんの真理を理解し、たくさんの試練、或いはたくさんの懲らしめを経験してこそそれに到達できるのではない。それは、あなたの心が神に対してどういう本質なのか、どんな態度を取るのかにかかっている。人の本質と人の主観的な態度はとても重要で、とても肝心なのだ。神を見捨て、神から離れた一部の人が神の性質の怒りに触れたのは、彼らの神を軽視する態度と、彼らの真理を嫌う心のゆえだ。そういうわけで、神から見れば、彼らは永遠に赦されることはない。彼らは神の存在を知り、神がもう来たという知らせを得たし、神の新しい仕事さえ経験した。彼が離れたのは惑わされた状況の下ではなく、意識が朦朧としている状況の下でもなく、なおさら、脅迫された状況の下ではなくて、意識、頭がはっきりしている状況の下で自ら神を離れることを選んだのだ。彼らが離れたのは、彼らが方向を失ったからではなく、見失われたからでもない。だから、神から見れば、彼らは羊の群れの中の見失われた小羊ではなく、方向を見失った放蕩息子でもない。何はばかることなく離れるような、彼らの有様、彼らの状態が神の性質の怒りに触れたのだ。正にこの「怒りに触れる」ことが、彼らに収拾のつかない結末をもたらした。このような結末は恐るべきものではないか。だから、人が神を知らなければ、神を犯すことができる!これは小さなことではない!もし人が神の態度を何とも思わず、その上に、神が彼の帰りを待ち望んでおり、彼が神の見失われたその小羊なので、神がまだ彼の回心を待っている、と思っているなら、その人は懲罰を受ける日から遠くない。神は彼を受け入れないだけでなく、彼はもう一度神の性質の怒りに触れている。これはもっと恐るべきことだ!彼の神に対する侮る態度は、もう神の行政を犯したのに、神がまた彼を受け入れることがあろうか。このことで、神は心の中でこういう原則を持っている。つまり、人が真理の道を確信した後、意識、頭がはっきりしている状況の下で、やはり神を見捨て、神から離れることができるから、このような背景の下で、神は彼の救われる道を塞いでしまう。その時から、王国に入る大門は彼に閉ざされる。彼がもう一度門を叩く時、神はもう彼のために門を開くことはない、彼は永遠に門外に閉め出される。あなたたちのうち、聖書の中の、モーセについての物語を読んだことのある人がいるだろう。神がモーセに油を注いだ後、モーセのさまざまな表現といろいろな原因で、二百五十人の指導者が不服の気持ちを表した。彼らは誰に不服だったのか。彼らはモーセに対して不服だったのではなく、神の按配、神のしたこのことに対して不服だったのだ。彼らは「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに……」というような言葉を言った。この言葉は人から見ればとてもひどいのか。ひどいではない!少なくとも字句の表面上の意味から見ればひどいではなく、法律から見てもたいしたことはない。なぜなら、表面上では反発する言葉、語彙がなく、なおさら冒涜する意味もなく、それはただ一つの普通の言葉だからだ。しかし、そのような一つの言葉が、どうして神のそれほど大きな怒りを呼び起こしたのか。彼らの言葉は人に向かって言ったのではなく、神に向かって言ったのであり、彼らのこのいくつかの言葉によって表現された性質、態度が、神の性質の怒りに触れ、しかも神の犯してはならない性質に触れたのだ。彼らの最後の結末は、わたしたちが知っていることだ。神を見捨てたことのある人の態度、観点は何なのか。なぜ彼の観点、態度が、神のこのような取扱いを招いたのか。それは彼らが、神だと知りつつも、裏切ることを選んだからだ。そういうわけで、彼らの救われる機会が完全に剥奪された。ちょうど聖書に書いてあるように、「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」今、あなたたちはこのことについてよく分かっただろう。