言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

神の性質及び神の働きがもたらす効果をどうやって認識すべきか

一つの現実の問題によって現された人のさまざまな醜態

このほかに、わたしがあまり口にしたくない部類の人がいる。彼らの結末は最も悲惨なのだ。彼らが悲惨だというのは、彼らが神に懲罰されたか、或いは神の彼らに対する要求が厳しいため、悲惨な結末になったわけではなく、彼ら自身が招いたのだ。つまり、人がよく口にしている言葉のように、自分が長く歩きすぎたため、足にマメができたのだ。これはどの部類の人なのか。この部類の人は正しい道を歩まず、前もって自分の結末を現したのだ。このような人は神の目には、いちばん神に憎まれる対象だ。人の言葉で言えば、このような人はいちばん悲惨なのだ。この部類の人は神につき従ったばかりの時、とても熱心であって、たくさんの代価を払い、神の働きは明るい見通しがあると思い、自分の未来に対しても想像に満ち、神に対して確固とした信仰を持ち、神が人を完全にし、人によい落ち着き先をもたらすことができると信じていた。だが、ある原因のため、神が働いている間に、彼は逃げてしまった。ここの「逃げる」とは、どういうことなのか。すなわち、声もかけず、挨拶もしないで黙って離れるということだ。この部類の人は口先では神を信じると言うが、神を信じる道に根をおろしていないので、どんなに長い間、神を信じたとしても、神を離れられる。ある者は商売のために、ある者は自分の生活のために、ある者は金儲けのために、ある者は結婚して子を産むために……この部類の人のうち、一部の者は良心が目覚めて戻ろうとし、一部の者は今、とても悲惨な状態になり、長年この世をさまよいながら、たくさんの苦しみを受けたので、この世に生きていることが辛すぎ、神を離れられないと感じて、もう一度神の家に戻って慰め、平安、喜びを得ようとし、引き続き神を信じて、災難を逃れ、或いは救われてよい落ち着き先を得ようとする。なぜなら、彼は、神の大きな愛は限りがなく、神の恵みは尽きることがなくて、人が以前どうだったかに関わらず、神が彼を赦し、彼の過去を大目に見るだろうと思っているからだ。彼らはしきりに、戻ってきて本分を尽くしたいと言うのであり、さらには、教会にいくらかの財物を施すというやり方で、もう一度神の家に戻ろうとする人さえもいる。このような人に対して、神はどんな態度を取るだろうか。神はどのように彼らの結末を定めるべきか。みなさん、話してみなさい。(もともとは、神様がもう一度このような人を受け入れるだろうと思いましたが、さっきの話を聞いて、その可能性が低いと思います。)その理由は何か。(このような人は死なないという結末を得るために神様の前に来ようとするのであって、真心で神様を信じるためではありません。彼らは神様の仕事がもうすぐ終わると知って、戻ってきて祝福を得ようと妄想しています。)つまり、彼が真心で神を信じるのではないので、神が彼を受け入れることがないということだね。(はい。)(わたしの理解では、このような人は日和見主義者です。彼は真心で神様を信じようとするのではありません。)彼は神を信じるために来たのではなく、日和見主義者だ。この話もいい!「日和見主義者」のような人は誰にも恨まれる。彼は日和見をし、利己主義者だから、当然恨まれるべきだ!ほかの兄弟姉妹はどんな観点があるか。(神様はもう彼を受け入れません。今は神様の働きがもうすぐ終わり、人の結末を定める時だからです。この際、彼が戻ってこようとするのは、本当に真理を追い求めるためではなく、災難が下るのを見たか、或いは外界のある要素のゆえに、戻ってこようとするのです。もし彼が本当に真理を追い求める心を持っているなら、どんな場合でも途中で逃げることはありません。)違う意見を持つ人はいるか。(受け入れません。実は、神様は彼らに機会を与えられましたが、彼らがずっと神様を無視する態度を取ったのです。これらの人の意図が何であろうと、たとえ本当に悔いるとしても、神様はもう一度彼らを受け入れません。神様はもう彼にたくさんの機会を与えられましたが、彼がもう、神様を離れようという態度を表明したからです。そういうわけで、今、戻ろうとしても、神様は受け入れません。)(わたしも神様がこのような人を受け入れないという観点に賛成します。なぜなら、もしある人が真理の道を見、こんなに長い間、神様の働きを経験したにもかかわらず、やはり世界に戻り、サタンの懐に戻るということは、神様に対する最大の裏切りだと思うからです。神様の本質は憐み、愛ですが、どんな人に対してもそうではありません。もし人が慰めを得、寄り所を得るために神様の前に来るなら、このような人は全然真心で神様を信じる人ではありません。神様はもうこのような人に対して憐れみを施すことがありません。)神の本質は憐れみなのに、どうしてこの部類の人に少しも憐れみを与えないだろう。少しでも憐れみを与えると、彼は機会を得られるのではないか。以前、人は常にこう言っていた。神は、一人も滅ぼされることなく、すべての人が救われることを望んでいる。もし百匹の羊を持っていて、その一匹が迷い出たなら、神は九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行く。今、このような人に対して、彼が本当に神を信じるなら、神は彼を受け入れて、もう一回チャンスを与えるべきではないか。実は、この問題はとても簡単で、答えにくいのではない。もしあなたたちが本当に神のことをよく知っており、神に対して本当の認識を持っているなら、あまり解釈する必要がなく、あまり推測をする必要もない。そうではないか!あなたたちの言葉は少し的を射ているが、神の態度とはやはり隔たりがある。

さっき一部の人が述べた観点ははっきりとしていて、神がこのような人を受け入れるはずがないと思っている。一部の人の観点はあまり明確ではなくて、神が彼らを受け入れる可能性もあれば、彼らを受け入れない可能性もあると思っているが、この態度は比較的中庸だ。もう一部の人の観点は、神が彼らを受け入れることを希望するのであるが、この態度は曖昧だ。はっきりとした態度を取る者たちは、今、神の仕事がもう終わったから、神がこのような人を寛容する必要がなく、もう一度彼らを受け入れるはずがないと思っている。中庸の態度を取る者たちは、状況によって扱い方が違うべきだと思っている。つまり、彼が心の中で神を離れられず、やはり本当に神を信じる人であり、真理を追い求める人であれば、神は彼の以前の弱さ、過失を覚えるべきではなく、彼を赦し、もう一度彼に機会を与えて、神の家に戻らせ、神の救いを受けさせるべきであり、もし彼がもう一度逃げるなら、その時、神が彼を受け入れなくても悔しいことはない。もう一部の者は神が彼を受け入れることを希望する。これらの人は、神が彼を受け入れるかどうかをはっきり知らなくて、こう思っている。「もしわたしが、神様が彼を受け入れるべきだと思うが、神様が彼を受け入れなければ、自分の観点は神様の観点に合わないようだ。もしわたしが神様が彼を受け入れるべきではないと思うが、万が一、神様は自分が人に対して無限の愛があり、もう一度彼に機会を与えたいと言うなら、これは自分の無知を暴露することになるのではないか。」どうであろうと、あなたたちはみな自分の観点を持っている。あなたたちの観点は、あなたたちの思想による認識であり、あなたたちが真理、神の心意をどれほど理解したかの体現でもある、と言ってもいい。そうだろう。このことについて、あなたたちは自分の観点を持っている、これはいいことだ!しかし、あなたたちの観点が正しいかどうかはまだ疑問だ。あなたたちは少し心配しているだろう。「どれが正しいのか、わたしもはっきり知らない。神様がどう思っているのかも知らない。神様がわたしに教えていないのだから、わたしがどうして神様がどう思うかを知ることができようか。神様の人に対する態度は愛だ!神様の以前の態度によれば、神様は受け入れるはずだ。でも、今、神様がどんな態度を取るかはわたしもはっきり知らなくて、受け入れる可能性もあれば、受け入れない可能性もあるとしか言えない。」これはおかしな話ではないか。これは本当にあなたたちを困らせた。このことについてあなたたちが正確な観点を持たないなら、本当にこのような人があなたたちの教会に来た時、あなたたちはどのように処理するか。適切に処理しなければ、神を犯すかもしれない。これはとても危険なことではないか。

さっきの問題について、わたしがあなたたちの考え方を聞いてみるのはなぜだろう。あなたたちの観点をテストし、あなたたちがいったい神に対してどれほどの認識があるか、神の心意をどれほど理解しているか、神の態度をどれほど知っているかをテストするためである。その答えは何か。それはあなたたちの言った観点だ。一部の者はとても保守的であり、一部の者が言ったのは推測、想像によるものだ。「推測」とはどういうことか。つまり、どう考えても、神が一体どう思うか分からないので、何の根拠もなしに、心の中で神がこう思うだろう、そう思うだろうと推し量ることである。実は自分さえ正しいかどうかを知らないので、こういう曖昧な観点を語り出すのだ。この事実の前で、あなたたちは何が分かったのか。神につき従うと同時に、神の心意を重んじ、神の思いおよび神の人類に対する態度に心を留める人はとても少ない。人は神の思いをよく知らないので、神の心意、神の性質に関する問題を聞かれると、きょとんとなり、胸がどきどきして、当てたり賭けたりするのだ。これはどんな態度なのか。これは、多数の人が神を信じながら、神をあるようなないような空気と見なすという事実を証明する。なぜこう言うだろう。ことが臨むごとに、あなたたちは神の心意を知らないからだ。なぜ知らないだろう。今、知らないのではなく、初めから終わりまでずっとこのことに対する神の態度を知らないのだ。あなたは神の態度を知らず、見極められない。では、あなたは考えたことがあるか、尋ね求めたことがあるか、交わったことがあるか。そうしなかった。これで一つの事実が実証された。あなたが信じている神は本当の神と関係がなく、あなたは神を信じながら、自分の意志を考え、指導者の意志を考え、神の言葉の表面的な教理上の意味を考えただけで、本当に神の心意を理解したり求めたりしなかった。そうではないか。このことの本質はとても恐ろしい!こんなに長い間、わたしはたくさんの人が神を信じるのを見たが、彼らは神を何ものとして信じているのか。一部の者は神を空気として信じている。この人たちは、神が存在するかどうかという問題に対する答えがない。なぜなら、彼は神が存在するかどうかを感じられず、それに気づいておらず、なおさら、はっきりとした悟りや認識がないのであり、彼は潜在意識の中で、神が存在しないのだと思っているからだ。一部の者は、神を人として信じている。つまり、自分ができないことは神もできず、神も自分と同じ考えだろうと思っている。彼の神に対する定義は、「見ることも触れることもできない人」なのだ。また一部の者は、神を人形として信じている。この人たちはこう思っている。神には喜怒哀楽がなく、神は泥で作られた像であって、どんなことが臨んでも、態度を示さず、観点を持たず、考えもないのであり、人の言いなりになり、人は自分の好きなように信じればよく、彼に高大になってほしい時は高大になり、彼にちっぽけになってほしい時はちっぽけになる。人が罪を犯して、神の憐れみ、神の寛容、神の愛を必要とする時、神は憐みを施すべきだ。この人たちは意識や頭で一人の神を想像しては、この神に彼の必要物を供給させ、彼のすべての欲望を満たさせるのであり、いつでもどこでも、彼が何をするにせよ、このような想像によって神を扱い、神を信じている。それにもまして、ある人は神の性質の怒りに触れた後でもやはり、神が彼を救うだろうと思っている。なぜなら、彼はこう思っているからだ。「神様の愛は無限であり、神様の性質は義なるものだから、人がどのように神様を犯しても、神様は覚えない。人の過失、人の過ち、人の不従順は一時的な性質の流露だから、神様は人に機会を与え、しかも人を寛容し、人に我慢し、依然として人を愛してくださる。だから、人が救われる見込みはやはりとても大きい。」実は、人がどのような方式によって神を信じても、真理を追い求めない限り、神は否定的な態度を取る。なぜなら、あなたが神を信じている間、神の言葉の本を至宝と見なして、毎日読み、毎日見ているかもしれないが、でも本当の神をほったらかして、神を空気と見なし、神を一人の人と見なし、ある人は全く神を人形と見なしているからだ。なぜこう言うだろう。わたしの目の前のあなたたちは、どんな事に会っても、どんな環境に会っても、あなたの潜在意識の中にあるもの、内側から生まれるものは、全く神の言葉と関係がなく、真理を追い求めることと関係がないからだ。あなたはただ、自分が何を考えているのか、自分の観点は何であるかを知っているだけだ。それから自分の考え、自分の観点を無理やり神に押しつけて、神の観点と見なし、しかもこの観点を準則としてしっかり守る。このように、時間が経つにつれて、あなたは神からますます遠くなる。

神の態度を知り、神に対する様々な誤解を捨てる

あなたたちが今、信じているこの神は一体どんな神なのか、あなたたちは考えたことがあるか。悪人が悪を働くのを見たら彼は恨むのか。(恨みます。)愚昧な人が罪を犯すのを見たら、彼はどんな態度を取るのか。(悲しみ憂えます。)人が彼への捧げものを盗み食いするのを見たら、彼はどんな態度を取るのか。(恨みます。)これらについてはよく知っている。そうだろう!人がいい加減に神を信じ、全然真理を追い求めないのを見たら、神はどんな態度を取るのか。これはあなたたちがはっきり知らないだろう!「いい加減」という態度は、罪を犯しておらず、神を犯してもいないので、人の心の中では、これが大きな過ちだと思わない。では、あなたは神がどんな態度を取ると思うのか。(相手にしたくありません。)「相手にしたくない」のは、心の中でどんな態度だろうか。すなわち、神はこのような人を軽視し、このような人を蔑視する!このような人に対しては、神は冷淡にあしらう方式を取るのだ。この方式は、ほうっておくこと、すなわち、啓き、照らし、打ちたたき、懲らしめなどの仕事を一切しないことだ。このような人は神の働きの中で、数のうちに入らない。彼の性質の怒りに触れ、彼の行政を犯した人に対して、神はどんな態度を取るのか。極度に憎むのだ!彼の性質の怒りに触れたが、悔い改めようとしない人に対しては、神は極度に怒るのだ!「怒る」ことはただ一つの気分、一つの気持ちであり、一つの明確な態度は代表できない。しかし、このような気分、このような気持ちは人に一つの結末をもたらすのだ。それはすなわち、神に極度に憎まれることだ!では、「極度に憎まれる」ことによってもたらされる結果は何であるか。すなわち、神はこの人を放っておいて、ひとまず相手にせず、「秋の終わりに」一緒に片づける。この言外の意味は何だろう。このような人は結末があり得るのか。神はこのような人に結末を与えるつもりはない!だから、神が今、このような人を相手にしないのは正常ではないか。(はい、正常です。)このような人は今、何を準備すべきか。自分の働いた悪や自分の行為によってもたらされる悪果を引き受ける準備をしろ!これはこのような人に対する神の知らせだ。だから、わたしは今、明確にこのような人に知らせる。いかなる幻想も抱いてはならず、僥倖を望む心理を抱いてはならない。神は無期限に人を容赦し、無期限に人の過ち、人の不従順を我慢することはない。ある人は言うだろう。「わたしも何人かのこのような人に会ったことがあるが、彼らは祈る時、とりわけ神様に感動され、涙を流して激しく泣くのであり、普段でもとても喜んでいて、まるで彼らには神様の同在があり、神様の導きがあるようだ。」でたらめを言うな!涙を流して激しく泣くからと言って、神の感動や同在があるということではなく、なおさら、神の導きがあるということでもない。人が神の怒りに触れたのに、神がまだ彼を導くだろうか。要するに、神がある人を淘汰し、放棄することを決めた時、彼の結末はもうなくなった。彼が祈る時、自我感覚がいくら良くても、心の中で神に対してどれほど大きな信仰があっても、これらはもはや重要ではない。重要なのは、神がこのような信仰を必要とせず、神がもうこのような人を見捨てたことだ。しかも、以後、このような人をどのように処置するかも重要ではない。重要なのは、彼が神の怒りに触れたその時から、彼の結末がもう決まったということだ。もし神がこのような人を救わないと思い定めたのなら、神はこのような人を残して懲罰を受けさせる。これは神の態度だ。

神の本質の中には愛の要素があって、彼は誰に対しても憐れみ深いのだ。しかし、人は、彼の本質には尊厳があるという点をおろそかにし、忘れたのだ。彼に愛があるからといって、人が勝手に彼を犯しても、彼が無感覚、無反応だということではなく、彼に憐れみがあるからといって、彼が人を扱うのに原則がないということでもない。神は生き生きとしていて、実際に存在する神であり、人の想像によって作られた人形或いはある物体ではない。彼は存在しているのだから、わたしたちはどんな時でも彼の心の声に注意して耳を傾け、彼の態度を注意し、彼の気持ちを知るべきであり、人の想像によって神を定義してはならず、また人の思いによるもの、人の望みのものを無理やり神に押しつけて、神に人のやり方、人の想像によって人を扱わせてはならない。もしこのようにするなら、あなたは神の怒りに触れ、神の怒りを試み、神の尊厳に挑戦することになる!だから、あなたたちがこのことの深刻さを知った後、わたしがこの場にいるみなさんに勧めることは、慎重に事を行い、慎重に言葉を言い、神のことについて慎重の上にも慎重で、小心の上にも小心でありなさい、ということだ!神がどんな態度を取るかを知る前に、やたらと話し、やたらとことを行ってはならず、またやたらとレッテルを貼ってはならず、なおさら、勝手に結論を下してはならず、待ち、求めるべきだ。これも神を畏れ、悪から遠ざかる表現だ。もしあなたがこの点を達成することができ、まずこのような態度を持つなら、神は愚かで、無知で、事理をわきまえないあなたをとがめることはなく、むしろ、神に罪を犯すことを恐れ、神の心意を尊重し、進んで神に従おうというあなたの態度のゆえに、あなたを覚え、あなたに啓き、あなたを導き、或いはあなたの幼さ、無知を大目に見るはずだ。さもないと、神はあなたの神に対する傲慢な態度――勝手に神を裁き、勝手に神の意志を推測し、定義する――のゆえ、あなたを罪定めし、懲らしめ、さらには懲罰し、或いはあなたに一つの結論を与える。この結論はあなたの結末に関係するかもしれない。だから、わたしはもう一度強調して、この場にいるみなさんに教えたい。神から来たすべてを慎重に扱うべきで、やたらと話し、やたらと事を行ってはならない。あなたが何かを言おうとする前にまず、「わたしがこのようにすれば、神様の怒りに触れるのではないか。わたしがこのようにするのは、神様を畏れているのか」と考えるべきだ。一つの簡単な事であっても、心の中で多く嚙みしめ、多く考えるべきだ。もしあなたが本当に、どこでも、何事でも、どんな時でも、このような原則に基づいて実行することができ、特に、あなたが分らない事でも、このような態度を取るなら、神はいつでもあなたを導いて、あなたに歩むべき道があるようにする。人にどんな表現があっても、神ははっきりと、明らかに見ることができ、神はあなたのこれらの表現について、一つの正確で適切な評価を下すはずだ。あなたが最後の試練を経験する時、神はあなたのあらゆる行為を総括して、あなたの結末を定めるのだが、この結果はあらゆる人に口先だけではなく、心から承服させる。ここで、わたしがあなたたちに教えたいことは、あなたたちの行うこと、あなたたちのすること、あなたたちが心の中で考えることがあなたたちの運命を定めるのだ。