言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

神の性質及び神の働きがもたらす効果をどうやって認識すべきか

神を畏れず、悪から遠ざからなければ、神に敵対することになる

わたしたちは先ず「神を畏れ、悪から遠ざかる」という言葉がどこから来たのか見てみよう。(「ヨブ記」です。)ヨブに触れた以上、わたしたちはヨブのことについて話してみよう。ヨブのその時代に、神は人を征服し、人を救う仕事はしたかどうか。しなかっただろう。では、当時のヨブは神に対してどのくらいの認識をもったのか。(あまり持ちませんでした。)あなたたちの今の、神に対する認識と比べてどうか。なぜあなたたちは敢えて答えないか。あなたたちの今の認識より多いのか、少ないのか。(少ないです。)これは簡単に答えられる問題だ。少ないのは疑う余地のないことだ!今、あなたたちは神と面と向かっており、神の言葉と面と向かっていて、あなたたちの神に対する認識はヨブのよりずっと多い。わたしはなぜこのことに触れたのだろう。なぜこう言うのだろう。ここで、わたしは一つの事実を説明したい。この事実を説明する前に、わたしはあなたたちに一つ聞きたい。ヨブは神に対してあまり認識を持っていなかったが、神を畏れ、悪から遠ざかることができた。だが、今の人はできない。それはなぜだろう。(深く堕落したからです。)「とても深く堕落した」とは、問題の表面的な現象だ。わたしは永遠にそうは思わない。あなたたちは往々にして、「とても深く堕落した」、「神に逆らう」、「神に忠実でない」、「従順ではない」、「真理を喜ばない」などの普段よく言うこれらの教理、文字を、口癖のように言って、すべての問題の本質を解釈するが、これは間違った実行の仕方だ。同じ答えによって、性質の異なる問題を解釈するなら、これは真理や神に対する冒涜になる疑いがある。わたしはこのような答えが好きではない。あなたたちはよく考えてみなさい!このことについてあなたたちはだれ一人として考えたことがない。ところが、わたしは毎日それを見ることができ、感じることができる。そういうわけで、あなたたちはしており、わたしは見ている、と言うのだ。あなたたちがしている時は、このことの本質を感じることができないが、わたしが見る時は、このことの本質を見ることができ、感じることもできる。では、この本質は何だろう。なぜ今の人は神を畏れ、悪から遠ざかることができないのか。あなたたちの答えは遥かにこの問題の本質を解釈することができず、この問題の本質を解決することもできない。なぜなら、この中にはあなたたちが知らない一つの根源があるからだ。この根源は何だろう。わたしはあなたたちがとても聞きたがっていると知っている。では、この問題の根源をあなたたちに教えよう。

仕事を始めた時から神は人を何ものと見なしたのか。神は人を救ってきて、彼の家族と見なし、彼の働く対象、彼が征服し、救い、完全にしようとする対象と見なした。これは、最初神が仕事をした時、人に取った態度だった。しかし当時、人は神に対してどんな態度を取ったのか。人は神のことをよく知らないと感じて、神を見知らぬ者と見なした。人は神をどう扱うべきか見当がつかなかった、と言ってもいい。人はまたどう神を扱うべきかはっきり知らなかった。とにかく、人は自分の好きなように神を扱い、自分の好きなようにするのであった。人は神に対して観点を持っていたのか。初めのころ、人は神に対してどんな観点も持たなかった。人のいわゆる観点とは、神に対する観念、想像なのだ。人は自分の観念に合うものは受け入れ、自分の観念に合わないものはうわべでは服従するように見せかけて、内心では極力反抗し、反対する。これは最初、人と神の関係だった。つまり、神は人を家族と見なしたが、人は神を見知らぬ者と見なした。しかし、神が一定の期間働いた後、人は神が何をしようとするかを知り、神が真の神だと知り、自分が神から何を得られるかも知った。この時点で、人は神を何ものと見なしたのか。おぼれる者がつかもうとするワラと見なした。そういうわけで、神から恵み、祝福、約束を得ることを望んでいた。この時点で、神は人を何ものと見なしたのか。神は人を、征服しようとする対象と見なした。そういうわけで、神は言葉で人を裁き、テストし、試そうとした。しかし、この時点では、神は人にとって、自分の目的を達成するために利用する対象だった。人は、神が発表した真理が人を征服し、救うことができること、そして、神から自分のほしいもの、自分の得たい落ち着き先を得る機会があることを見たから、少しの真心を持つようになり、この神につき従おうとした。後になって、人は神に対して表面的な教理上の認識を持つようになった。それゆえ、人がますます神と「親しくなり」、神の言った言葉、語った道、発表した真理、した仕事に「詳しくなった」と言ってもいい。だから、人は自分がもう神と親しくなり、自分がもう神に味方する道を歩んでいると間違って考えている。今までに、人はたくさんの真理の道を聞き、神のたくさんの働きを経験したが、たくさんの要素、たくさんの状況に邪魔され、阻まれたので、多数の人は真理を実行することができず、神を満足させることもできない。こうして、人はますます怠慢になり、ますます信仰を失い、ますます自分の結末が未知数だと思って、敢えて高望みせず、向上心もなくなり、ただ無理やり一歩一歩前に進んでいるだけだ。人の今の状態に対して、神はどんな態度を取るだろうか。神はただ、これらの真理、彼の道を人に注ぎ込んだ後、さまざまな環境を按配して人を試し、いろいろな方式で人を試そうとする。それは、これらの言葉、これらの真理と彼のする仕事によって、「人が神を畏れ、悪から遠ざかる」という結果を達成するためだ。わたしの目に見える多数の人は、ただ神の言葉を教理、文字、規定として守っているだけであり、ことを行い、言葉を言う時、或いは試練が臨んだ時、神の道を、自分の守るべき道として守らなかった。特に、重大な試練が人に臨んだ時、「神を畏れ、悪から遠ざかる」という方向に向かって実行する人は一人もいないことを見た。だから、人に対する神の態度は、極めて反感を持っており、極めて憎むのだ!神が何回ひいては何百回人を試した後でも、人はやはり、神を畏れ、悪から遠ざかるという決心を明確な態度で表明しない!人にこのような決心、このような表現がないので、今、人に対する神の態度はもう以前のように憐れみを施し、寛容を施し、包容や忍耐を施すのではなく、人に対して極度に失望するのだ。この「失望」は誰がもたらしたのか。神が人に対してどんな態度を取るかは、誰にかかっているのか。神につき従っている一人一人にかかっている。長年にわたる働きの中で、神が人に少なからずの要求を出し、人のためにたくさんの環境を按配したが、人はどのように実行しても、神に対してどんな態度を取っても、明確に「神を畏れ、悪から遠ざかる」という目標に向かって実行することはできなかった。だから、わたしはこの一言を総括し、この言葉で、わたしたちがさっき言った、人がどうして神の道――神を畏れ、悪から遠ざかる――を歩むことができないかという問題を解釈する。この言葉は何だろう。それはすなわち、神は人を、神が救おうとする対象、神の働く対象として扱うが、人は神を敵、対立面として扱っている。このことについてあなたは今、はっきり分かったのか。人の態度は何なのか、神の態度は何なのか、人と神の関係は何なのか、これらは極めて明白だ。あなたたちがどれほどの真理を聞いたとしても、あなたたちが自分で総括したもの、例えば、神に忠実であること、神に従順であること、神に味方する道を求めること、神のために一生を費やすこと、神のために生きることなどは、わたしから見れば、意識的に神の道――神を畏れ、悪から遠ざかる――を歩むのではなく、ただあなたたちのある目的を達成するための一部の方法なのだ。これらの目的のために、あなたたちは無理やりいくらかの規定を守っているが、これらの規定のゆえに、人は「神を畏れ、悪から遠ざかる」という道からさらに遠ざかり、もう一度神を人の対立面に置いてしまった。

今日の話題は少し重いが、どうであろうと、わたしはやはり、あなたたちが以後の経験の中で、以後の生活の中で、わたしがさっきあなたたちに言ったことを行うように希望する。神を空気として扱ってはならない。すなわち、必要とする時は、彼が存在するのだと思い、必要としない時は、彼が存在しないのだと思う。あなたが潜在意識の中でこのように認識する時、あなたはもう神の怒りに触れた。ある人たちは言うだろう。「わたしは神様を空気として扱ってはいない。わたしはいつでも神様に祈っており、いつでも神様を満足させている。どんなことをしても、わたしは神様の要求する範囲、原則や基準に準拠してしたのであり、自分の意志によってしたのではない。」そうだ、あなたの実行の仕方は正しいのだ!しかし、ことがあなたに臨んだ時、あなたはどのように思ったのか、どのように実行したのか。一部の人は、神に祈り、神に願いをする時は、神が存在するのだと思うが、事に当たって自分の意志が出てきて自分の意志に従って行動しようとする時は、神を空気として扱うのであり、その時、彼にとって神は存在しないものだ。人はこう思っている。「人が神様を必要とする時は神様は存在すべきであり、必要としない時は神様は存在すべきではない。人は自分の意志に従って実行すればいい、自分の好きなようにすればいい、神様の道を求める必要などない。」人が今、このような光景、このような状態にあるのは、危ない瀬戸際にあるのではないか。一部の人はこう言う。「わたしが危ない瀬戸際にあるかどうかに関わらず、とにかく、わたしは長年神様を信じてきたから、神様がわたしを見捨てるはずがない。神様はわたしを見捨てるに忍びないからだ。」また一部の人はこう言う。「わたしは母の腹の中にいた時から主を信じてきて、もう四、五十年になった。時間から言えば、わたしはいちばん神様に救われる資格があり、いちばん生き残る資格がある。この四、五十年の間に、わたしは家や生業を捨て、すべてを捨てた。たとえばお金、地位、享受および一家団欒の喜びを捨て、たくさんのおいしいものを食べられなかったし、多くの面白いものも遊べなかったし、多くのいい場所にも行ったことがない。さらには普通の人が耐え忍ぶことのできない苦しみさえ受けた。もし神様がこれらによってわたしを救わないなら、わたしはとても悔しい。このような神様は信じることができない。」このように思う人は多いではないか。(多いです。)では、今日あなたたちに一つの真相を知らせよう。このように思う人はみな、石を持ち上げて自分の足を打っているのだ。というのは、彼らは自分の想像で自分の目を覆ったからだ。彼らの想像、決定は、神の人に対する要求基準に取って代わり、彼らが神の本当の心意を受け入れるのを阻止した。そういうわけで、彼らは神が実際に存在することを感じられなくなり、神に完全にされる機会も失って、神の約束と何の関係もなくなった。

神がどのように人の結末を定めるか、および神が人の結末を定める基準

あなたは、自分の考えや決定などを持つ前に、まず神があなたに対してどんな態度を取るのか、神が心の中でどう思っているのかを知りなさい。それでこそ、あなたは自分の思うこと、考えることが正しいかどうかを判断することができる。神は時間を単位として、人の結末を定めたことがなく、人がどれほどの苦しみを受けたかによって、人の結末を定めたこともない。では、神は何を基準として人の結末を定めるのか。時間を単位として人の結末を定めるのは一番人の観念に合う。そして、あなたたちが常に目にしている、たくさん捧げ、たくさん費やし、たくさんの代価を払い、たくさんの苦しみを受けた人々は、みなあなたたちの観念の中の、神に救われることができる人なのだ。この人たちが現し出すこと、生かし出すことがまさに人の観念の中の、神が人の結末を定める基準なのだ。あなたたちがどう考えても、これらの例は一々挙げない。要するに、神の心の中の基準でない限り、それは人の想像によるもの、人の観念なのだ。もしあなたがひたすら自分の観念と想像に固執するなら、どんな結果になるだろうか。明らかに、神に見捨てられるという結果になるしかない。というのは、あなたはいつも神の前で古参風を吹かし、神と腕比べし、神と言い争おうとするが、本当に神の思いを理解しようとせず、神の心意と、神の人に対する態度を理解しようとしないからだ。あなたがこのようにするのは、自分を大いなるものとするのであって、神を大いなるものとするのではなく、自分を信じるのであって、神を信じるのではない。神はこのような人を必要とせず、このような人を救うことがない。もしあなたがこのような観点を捨てることができ、以前の間違った観点を正し、神の要求に従って行動し、今からスタートして神を畏れ、悪から遠ざかる道を実行し、あらゆる面で神を大いなるものとし、自分の想像、観点、思いによって自分を定義したり、神を定義したりせず、むしろあらゆる面で神の心意を求めることによって、神の人に対する態度を知り、理解し、神の基準によって神を満足させるなら、それはすばらしいことだ!これは、あなたがもうすぐ、神を畏れ、悪から遠ざかる道につくことを意味している。

神が人のいろいろな考えによる思想、観点を基準として人の結末を定めるのでないなら、神はどんな基準によって人の結末を定めるだろうか。神は試練によって人の結末を定める。試練によって人の結末を定めるのには、二つの基準がある。第一は、試練の回数で、第二は、試練の結果だ。つまり、神はこの二つを基準として人の結末を定めるのだ。今、この二つの基準について詳しく話してみよう。

先ず、ある人に神の試練が臨んだ時〔注:この試練はあなたから見れば、とても小さくて、語るに足らないかもしれない〕、神はあなたに、これは神の手があなたに臨み、神があなたのためにこのような環境を按配したことをはっきり意識させるはずである。あなたの身丈が小さい時、神はあなたの身丈にふさわしく、あなたが理解することも耐えることもできる試練によってあなたを試す。あなたのどんなところを試すだろうか。あなたの神に対する態度を試すのだ。この態度はとても重要なのか。もちろん重要だ!しかもとても重要だ!この態度が神の求める結果だからだ。そういうわけで、人の態度は神にとっていちばん重要だ。さもないと、神は精力を注いで人の身にこのような仕事をすることがない。なぜなら、神は試練を通して、あなたの神に対する態度を見ようとし、あなたが正しい道を歩んでいるかどうか、神を畏れ、悪から遠ざかっているかどうかを見ようとするからだ。だから、当時あなたが分かった真理が多くても少なくても、神の試練はやはりあなたに臨むのであり、あなたの分かった真理が多くなるにつれて、神は続けてふさわしい試練を按配していく。試練がもう一度あなたに臨む時、神はまた、あなたのこの間の観点、考え方、そしてあなたの神に対する態度が進歩したかどうかを見ようとする。ある人は、「なぜ神様はいつも人の態度を見ようとするのか。人がこのように真理を実行すれば、神様は見えるのではないか。人の態度を見る必要があるのか」と言うだろう。これは愚かな話だ!神がこのようにする以上、その中には必ず神の心意があるのだ。神はずっと人のそばにいて、人の一言一行、一挙一動、ひいては人の一つ一つの思い、考えまで見る。人の身に起こるすべてのこと、すなわち人の善行、人の過失、人の過ち、そして人の不従順、裏切りを、神は一々記しておいて、人の結末を定める証拠とする。神の働きが一歩一歩高まるにつれて、あなたの聞いた真理がますます多くなり、あなたの受け入れた積極的な物事、積極的な情報と真理の実際もますます多くなり、神のあなたに対する要求も高くなる。それと同時に、神はあなたのためにもっと重い試練を按配する。その目的は、この間、あなたの神に対する態度が進歩したかどうかを試すためだ。もちろん、この時、神があなたに要求する観点はあなたの分かった真理の実際と一致するのだ。

あなたの身丈が大きくなるにつれて、神のあなたに対する要求基準も次第に高くなる。あなたが幼い時、神はあなたにとても低い基準を与える。あなたの身丈が少し大きくなった時、神はあなたに少し高い基準を与える。しかし、あなたがすべての真理が分かった後、神はどのようにするだろうか。神はもっと大きな試練をあなたに臨ませる。もっと大きな試練の中で、神が得ようとするもの、見ようとするものは、あなたの神に対するもっと深い認識と、あなたの本当の畏れだ。その時、あなたに対する神の要求は、あなたの身丈が小さい時のよりもっと高く、もっと「厳しい」〔注:人にとっては厳しいが、神にとってはとても正当だ〕。神が人を試している間、神はどのような事実を成就しようとするのか。神は人が心を彼に与えることを絶えず要求する。ある人はこう言うだろう。「どのように与えるのか。わたしはもう本分を尽くし、家や生業を捨て、しかも費やしてきた。これらはみな、すでに心を神様に与えた表現ではないか。またどうやって心を神様に与えるのか。まさかこれらの方式は、心を神様に与えた表現ではないか。神様の具体的な要求は一体何なのか。」この要求はとても簡単だ。実は、一部の人は、異なる段階の試練の中で、程度は異なるが、すでに心を神に与えた。だが、絶対多数の人は心を神に与えたことがない。神があなたを試す時、神はあなたの心が神に向くのか、それとも肉体、サタンに向くのかを見る。神があなたを試す時、あなたが神の対立面に立つのか、それとも神に味方する立場に立つのか、あなたの心が神の側に立つかどうかを見る。あなたが幼い時、試練があなたに臨むとしても、あなたの信仰がとても小さく、あなたの分かった真理にも限りがあるので、あなたはどうすれば神の心を満足させることができるかを正確に知ることができない。しかし、あなたが真心をもって神に祈ることができ、心を神に渡し、神に支配されることを望み、自分がいちばん貴重だと思うものをすべて神にささげることを望むなら、もう心を神に与えたことになる。あなたの聞いた真理がますます多くなり、あなたの分かった真理がますます多くなる時、あなたの身丈も次第に大きくなる。その時、神のあなたに対する要求基準は、あなたが幼い時の基準ではなく、それよりもっと高い基準だ。人が心を次第に神に与えることができる時、人の心は次第に神に近づくようになり、人が本当に神に近づくことができる時、人はますます神を畏れる心を持つようになる。神が求めるのは、このような心なのだ。

神がある人の心を得ようとする時、神は彼に幾たびの試練を与える。試練の間に、もし神が彼の心を得ておらず、また彼のどんな態度も見られず、すなわち彼の、神を畏れる実行、表現を見られず、彼の、悪から遠ざかろうとする態度、決心も見られないなら、幾たびの試練の後、神の彼に対する忍耐は取り戻され、神はもうこの人を容赦せず、試さず、しかもこの人の身に働かない。では、この人の結末は何を意味しているのか。彼の結末は、まさに結末がないことを意味している。もしかすると彼はどんな悪も行わなかったかもしれないし、もしかすると彼は邪魔し、かき乱すようなことをしなかったかもしれないし、もしかすると公然と神に逆らわなかったかもしれないが、彼の心は神に向かって隠れており、彼は神に対して、いつも明確な態度、観点を持たないので、神は彼が心を神に渡すことを明確に見ることができず、彼が神を畏れ、悪から遠ざかるのを追い求めることを明確に見ることもできない。このような人に対しては、神はもはや我慢せず、いかなる代価も払わず、憐れみを施さず、彼の身にいかなる仕事もしない。このような人の神を信じる生涯はもうこれで終わりだ。なぜなら、彼に対する神の幾たびの試練の中で、神の願う結果が得られなかったからだ。だから、一部の人の身では、わたしは彼に聖霊の啓き、照らしがあるのを見たことがない。どうやってそれが分かっただろうか。この人は長年神を信じながら、外側で元気いっぱいに走り、本も少なからず読み、ことも少なからず処理し、十数冊のノートを持っており、身につけた文字、教理はやまほどあるが、進歩が全然見られず、彼が神に対していかなる観点や明確な態度を持つのも全然見られない。つまり、あなたはこの人の身から彼の心を見られない。彼の心はいつも包まれており、彼の心は閉ざされている――神に対して閉ざされているのだ。だから、神は彼の真心を見たことがなく、彼の神に対する本当の畏れを見たこともなく、なおさらこの人がどのように神の道を歩んだかを見たことがない。今までに神がこのような人を得ていないのに、後になって得ることができるだろうか。得ることができない!神は得られないものを強要するのか。そんなはずがない!だから、今、このような人に対して神はどんな態度を取るだろうか。(見捨て、相手にしないのです。)相手にしない!このような人に対して神は相手にせず、見捨てる。この言葉はあなたたちがとても早くて正確に覚えた。見たところ、あなたたちはよく聞き取った!

一部の者は神につき従ったばかりの時、幼くて無知であって、神の心意が分からず、神を信じるとはどういうことかも分からず、人為的な間違った方式によって神を信じ、神につき従っていた。試練が彼に臨んだ時、彼はどんな意識も持たず、神の啓き、導きにとても鈍感であり、心を神に与えるとは一体どういうことか、試練の中で立っていられるとは一体どういうことかを知らなかった。このような人に対しては、神は一定の期限を与える。この間に、彼に神の試練とは何か、神の心意とは何かを分からせる。その後、彼に自分の観点を表明させる。この段階にある人に対しては、神はやはり待っている。観点は少し持っているが、まだ立場がしっかりしておらず、心を神に与えようと思うが甘んじてそうすることができず、基本的な真理をいくらか実行したが、大きな試練が臨むと逃避し、あきらめようとするような人に対しては、神はどんな態度を取るのか。このような人に対しては、神は少しの期待を抱いている。どんな結果になるかは、彼らの態度と表現にかかっている。もし人が積極的に追求しなければ、神はどのようにするだろうか。神は放棄する。なぜなら、神があなたを放棄する前に、あなたがもう自分自身を放棄したからだ。それなら、あなたは神があなたを放棄したことをとがめるわけにはいかない。そうではないか!これは公平だろう。(公平です。)