言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

言葉が肉体で現れる(続編)――神を認識する道(上)

神の性質及び神の働きがもたらす効果をどうやって認識すべきか

神が人の結末を定める基準について、人はいろいろな考えを持っている

わたしたちは本題に戻って、続けて人の結末に関する話題を話そう。

あらゆる人が関心を持っているのは自分の結末である以上、神がどのように人の結末を定めるのか、神がどのような方式で人の結末を定めるのか、また神がどのような基準によって人の結末を定めるのか、人の結末が定められる前に、神がどんな仕事をして人の結末を明らかにするのかを、あなたたちは知っているのか。これらを知っている人はいるか。さっき言ったが、一部の者は、神の言葉の中でずいぶん長い間研究していた。人の結末は一体どうなるのか、人の結末はどんな種類に分けられるのか、さまざまな人がそれぞれどんな結末を持つのか、また神の言葉の中で人の結末がどのように定められるのか、神がどのような基準、どのような方式によって人の結末を定めるのかを見てみようとするが、最後にはやはり結果が得られなかった。実は、それについて神の言葉の中で少し言及しただけで、そんなに多くない。それはなぜだろう。人の結末が明らかにされる前に、神は最後の結果を、いかなる人にも教えたくなく、人の落ち着き先がどうなのかを、前もって人に教えたくもない。なぜなら、そうするのは人にとって何の役にも立たないからだ。今、ここでわたしがあなたたちに教えたいことはただ一つだけだ。つまり、神がどのような方式で人の結末を定めるのか、どんな働きの原則で人の結末を定め、人の結末を明らかにするのか、どういう基準で人が生き残ることができるかどうかを定めるのかである。これもあなたたちが最も関心を持つことではないか。では、人の観念の中では、神がどのように人の結末を定めると思うのか。先ほどあなたたちはその一部分を話した。一部の者は忠実に本分を尽くし、費やすことだと言い、一部は神に従い、神を満足させることだと言い、一部は神が左右するに任せることだと言い、一部は低姿勢を保つことだと言った……あなたたちがこれらの真理を実行する時、自分が思う原則に従って実行する時、神がどう思うかを知っているのか。あなたたちがこのようにするのは、神の心を満足させているのか、神の基準を満たしているのか、神の要求を満たしているのか、と考えたことがあるか。わたしは多数の人が考えたことがないと思う。彼はただ、神の言葉の中の一部分、或いは説教の中の一部分、或いは自分が崇拝している一部の霊的な人が思う基準を持ってきて当てはめ、自分に強いてこのようにするか、あのようにするだけだ。彼はこのようにするのが正しいと思うので、最後の結果がどうなっても構わず、ずっとこのように守っており、ずっとこのようにしている。一部の人はこう思っている。「わたしは長年神様を信じながら、ずっとこのように実行してきた。わたしは自分が神様を満足させたところが多いと思い、自分が得たのも少なくないと思う。というのは、この間に、わたしはたくさんの真理が分かり、自分が以前分らなかったものもたくさん分かり、特に思想の観点もずいぶん変わり、人生の価値観もずいぶん変わり、この世に対してもたくさんの認識を持つようになったからだ。」彼はこれこそ収穫であり、これこそ神が人の身に働いて収めようとする最終的な効果だと思っている。あなたたちはどう思うのか。あなたたち一人一人が実行することを含めるこれらの基準は、神の心を満足させているのか。一部の人はきっぱりと言うだろう。「もちろんそうだ!わたしたちは神様の御言葉通りに実行し、兄弟の説教や交流に基づいて実行し、ずっと本分を尽くしており、ずっと神様につき従っていて、神様を離れたことがない。そういうわけで、わたしたちは自分が神様を満足させていると胸を張って言うことができる。わたしたちが神様の心をどれほど理解しても、神様の言葉をどれほど理解しても、とにかく、わたしたちはずっと神様に味方するのを追い求める道を歩んでいる。もしわたしたちが行なったこと、したことが正しいなら、その結果はきっと正しい。」このような観点はどうなのか。正しいのか。一部の人はこう言うだろう。「わたしはこれらについて考えたことがない。ただこのように本分を尽くし、ずっと神様の言葉の要求通りに実行すれば、生き残ることができると思う。わたしは神様の心を満足させることができるかどうかを考えたことがなく、神様の要求基準に到達したかどうかを考えたこともない。神様はわたしに教えたことも、明確に指し示したこともないから。わたしは、自分が絶えず何かをすれば、神様が満足し、もうほかの要求を出さないだろうと思う。」これらの考えは正しいのか。わたしから見れば、あなたたちのこのような実行、このような考え、観点は想像が混ざっており、少し曖昧である。わたしがこう言うと、一部の者はがっかりして、「曖昧って?曖昧ならば、わたしたちは救われる見込み、生き残る見込みが極めて薄くて、ほとんどないのでは?あなたがこう言うのは、わたしたちにひや水を浴びせるのでは?」と言うだろう。あなたたちがどう考えても、わたしが言いたいこと、したいことがあなたたちにもたらそうとする効果は、あなたたちにひや水を浴びせるような感じを与えることではなく、あなたたちがもっと神の心意を理解し、神が何を考えているのか、何を成就しようとするのか、どんな人を喜ぶのか、何を憎むのか、何を恨むのか、どんな人を得ようとするのか、どんな人が神に見捨てられる対象なのかをもっと知るようにすることであり、あなたたちが心の中で、自分のあらゆる行いや思いがいったい神の要求基準までどれくらいの距離があるかをはっきりと、明白に知るようにすることなのだ。これらの話題は言う必要があるのではないか。わたしは、あなたたちがこんなに長い間神を信じ、こんなに多くの真理を聞いたが、あなたたちに最も欠けているのはこれらのものだと知っているからだ。あなたたちはすべての真理をノートにメモしておき、また自分が一番重要だと思う一部のものを頭の中に、心の中に刻み込んで、実行すべき時に取り出してそれをもって神を満足させようと思い、またあなたたちの不時の必要に備え、或いはあなたたちが直面する一つ一つの難関を乗り越える助けとし、或いはあなたたちの生活の伴侶としようとする。しかし、わたしから見れば、あなたたちがどのようにしても、ただしているだけなら、それはあまり重要ではない。では、何が最も重要なのか。あなたがしている時、心の中で、あなたがしていること、行っていることが神の求めるものなのか、あなたがしていること、思っていること、心の中で収めようとする効果、達成しようとする目的が神の心を満足させ、神の要求を満たし、神に認められることができるかどうかを、はっきりと知るべきことである。これらこそ最も重要なのだ。

神の道を歩む――神を畏れ、悪から遠ざかる

あなたたちが記しておくべき言葉が一つある。この言葉は最も重要だとわたしは思う。なぜなら、この言葉はわたしが毎日心の中で何度も繰り返し考えたからだ。なぜこう言うだろう。毎回ある人と向き合う時、毎回ある人の物語を聞く時、毎回ある人の神を信じる上での経験や証しを聞く時、わたしは心の中でこの言葉によって、この人は神が求めるその人かどうか、神が喜ぶその人かどうかを判断する。では、この言葉は一体何だろう。あなたたちはみな目をこすって待っているだろうが、その言葉が語り出される時、あなたたちはとても失望するかもしれない。なぜなら、これは一部の人がいつも口にしている言葉だからだ。しかし、わたしはその言葉を口で言うのではなく、心に留めておく。その言葉は何だろう。それはすなわち、「神の道を歩む――神を畏れ、悪から遠ざかる」である。これはとても簡単な言葉だろう。この言葉は簡単だが、本当にこの言葉に対して深い理解を持っている人たちは、この言葉にはなかなか重みがあり、この言葉はとても実行する価値があり、それは真理の実際がある命の言葉であり、神を満足させることを追い求める人の一生の追求目標であり、神の心を思いやる人が一生守るべき道でもあると思っている。では、この言葉はあなたたちにとっては真理なのか、このような意義があるのか。一部の人たちは考えており、かみしめているだろうが、一部はこの言葉を疑って、「この言葉はそんなに重要なのか、そんなに重要なのか。このように強調する必要があるのか」と言うだろう。また一部の人はこの言葉が好きではないかもしれない。なぜなら、彼は「神様の道を、ただ一つの言葉で言うなら、あまりにも簡単ではないか。神様の言ったすべての言葉を一つの言葉にまとめるなら、神様をあまりにも微々たるものと見なすのではないか」と思うからだ。そうではないか。あなたたちの大多数は、この言葉の深い意味があまり理解できないかもしれない。あなたたちはこの言葉をメモしておいたが、心に記すつもりはない。ただそれをノートに書いておいて、暇な時に見てみ、考えてみるだけだ。全くこの言葉を覚えようとせず、またそれを使おうとしない人さえもいる。しかし、なぜわたしがあなたたちにこの言葉を言うのか。あなたたちがどんな観点を持っても、どのように考えても、この言葉は神が人の結末を定めることと大きな関連があるので、わたしはこの言葉を言わなければならない。あなたたちがどのようにこの言葉を理解しても、どのようにこの言葉を扱っても、わたしはやはりこのことをあなたたちに教えたい。もし人がこの言葉をちゃんと実行し、「神を畏れ、悪から遠ざかる」という基準に達することができるなら、その人は必ず生き残る人であり、よい結末を持つ人なのだ。もしあなたがこの言葉の基準に達することができなければ、あなたの結末は未知数だ。そういうわけで、わたしはまずこの言葉をあなたたちに教える。その目的は、あなたたちがまず心の中で、神がどのような標準に基づいてあなたたちを評価するかをよく知るためだ。先ほどわたしは言ったが、この言葉は神が人を救い、人の結末を定めることと大きな関連がある。この関連はどこにあるのか。あなたたちも知りたいと思うだろう。では今日、これについて話してみよう。

神は異なる試練で人が神を畏れ、悪から遠ざかるかどうかをテストする

時代ごとに神が人の間で働く時、神は人にいくらかの言葉を与え、いくらかの真理を教える。これらの真理は正に、人の守るべき道、人の行うべき道であり、人に神を畏れ、悪から遠ざかることができるようにする道であり、また人が生活の中で、人生の道程の中で実行し、守るべきものだ。これは神が人に向かって言葉を発表する目的だ。これらの言葉は神から発表されたのだから、人は必ず守るべきだ。人はそれを守れば、命が得られるが、それを守らず、実行せず、生活の中で神のこれらの言葉を生かし出すことができなければ、人は真理を実行しているのではない。真理を実行しているのではないなら、神を畏れ、悪から遠ざかるのではなく、神を満足させることができない。人が神を満足させることができなければ、神に良しとされることができない。そうすれば、人の結末がなくなる。では、神の働きの中で、神はどのように人の結末を定めるのか、どんな方式で人の結末を定めるのか。わたしがこれについて言わなければ、あなたたちははっきり知らないかもしれないが、わたしがその過程を語り出したら、あなたたちははっきり知るだろう。というのは、多くの人はもうそのことを経験したからだ。

神の働きの中で、初めから今まで、神は各々の人、つまり、彼につき従う各々の人に対して、大小さまざまな試練を与えた。ある者は家族から見捨てられるという試練を経験し、ある者は劣悪な環境による試練を経験し、ある者は逮捕され、酷刑で苦しめられるという試練を経験し、ある者は選択に迫られるという試練を経験し、ある者は地位やお金による試練を経験した。要するに、さまざまな試練が人に臨んだ。神はなぜそのように行うのか。なぜそのように各々の人を扱うのか。彼はどんな結果を見ようとするのか。神はこの人が神を畏れ、悪から遠ざかる人かどうかを見ようとする。これはわたしがあなたたちに教えようとする重要な点だ。言い換えれば、神があなたを試す時、ある環境に臨ませる時、あなたが神を畏れているかどうか、悪から遠ざかっているかどうかをテストしようとするのだ。たとえば、ある人に捧げものを保管するという本分が臨み、この本分のために、彼は神への捧げものに触れるようになる。では、これは神が按配したことだろうか。これは疑う余地がない!あなたに臨むことはみな神が按配したのだ。このことがあなたに臨んだ時、神はあなたがどのように選択し、実行するのか、あなたが心の中でどのように思うのかを見ようとして、ひそかに観察する。神がいちばん関心を持つのはこの結果なのだ。なぜなら、神はこの結果に基づいて、あなたが今度の試練の中で神の基準に達したかどうかを判断しようとするからだ。しかし、ことが臨む時、人は往々にして、どうしてこのようなことが自分に臨んだのか、神の要求基準は何なのか、神が人の身から何を見ようとし、何を得ようとするかを考えない。このことが彼に臨む時、彼はただ心の中でこう思っている。「このことがわたしに臨んだ以上、わたしは気をつけ油断してはならない!何と言っても、神様への捧げものに手を出してはならない。」ただこのような簡単な考えを持つことだけで、彼は自分がもう責任を果たしたと思っている。この試練の結果は神を満足させたのか、それとも満足させなかったのか。あなたたちが話してみなさい。(人に神様を畏れる心があるなら、捧げものに触れるようなことが臨む時、これは神様の性質を犯しやすいことだと思い、この面で慎重になるはずです。)あなたの言葉は少し的を射ているが、まだ急所を突いていない。神の道を歩むのは、外側で規定を守ることではない、このことがあなたに臨んだ時、あなたはまずそれを、神が按配した環境、神があなたに委ねた責任、或いは神があなたに任せた委託と見なすべきだ。さらには、このことがあなたに臨んだ時、あなたはそれを、神のあなたに対する試練と見なすべきだ。このことがあなたに臨んだ時、あなたの心の中には一つの基準がなければならず、あなたはこのことが神から来たのであって、どうすれば責任を果たし、神に忠誠を尽くすことができるか、どうすれば神の怒りに触れず、神の性質を犯さないかを考えるべきだ。さっきの話で、捧げものを保管することに触れたが、これは捧げものに関係しており、またあなたの本分、あなたの責任に関係しているのであり、この責任は当然引き受けるべきものだ。だが、このことがあなたに臨んだ時、あなたにとって誘惑があるかどうか。誘惑がある!この誘惑はどこから来るのか。この誘惑はサタンから来るのであり、また人の邪悪な堕落した性質から来るのだ。誘惑があるのだから、人の立つべき証しに関わる。証しに立つということもあなたの責任と本分なのだ。ある人はこう言うだろう。「こんなに小さなことを、わざわざ取り上げて大げさに言う必要があるのか。」必要がある!神の道を歩もうと思うなら、わたしたちの身の回りで、周囲で起こるすべてのことをおろそかにしてはならないからだ。枝葉末節の事柄であっても、わたしたちに臨んだ以上、わたしたちがそのことを重んじるべきだと思っても、重んじるべきではないと思っても、わたしたちはそれをおろそかにしてはならず、それをわたしたちに対する神の試練と見なすべきだ。このような態度はどうなのか。もしあなたがこのような態度を取るなら、あなたの心は神を畏れるのであり、あなたの心は悪から遠ざかろうとするという事実が証明される。あなたに神を満足させようという願いがあるなら、あなたの実行することは神を畏れ、悪から遠ざかるという基準から遠くない。

一部の人は往々にして、人々があまり重んじないこと、人が普段全然触れないことを、小さなこと、真理と関係のないことと見なしていて、このようなことが臨むと、少し考えてから流してしまう。実は、このことがあなたに臨んだ時は、まさに、あなたがどのように神を畏れ、どのように悪から遠ざかるかという学課を学ぶべき時であり、しかもあなたはなおさら、このことがあなたに臨んだ時、神が何をしているのかを知るべきだ。神はあなたのそばで、あなたの一言一行、あなたの挙動、あなたの思いの変化を観察している。これは神の仕事なのだ。一部の人は「では、わたしはなぜそれを感じることができないのか」と言う。あなたが感じることができないのは、あなたが神を畏れ、悪から遠ざかる道を、最も重要な道として守らなかったからだ。そういうわけで、あなたは、神が人のさまざまな思い、さまざまな表現のゆえに、人の身にした微妙な仕事を感じることができないのだ。あなたはいいかげんな人だ!何が大きなことか、何が小さなことか。神の道を歩むことに関することなら、大小の区別がない!この言葉をあなたたちは受け入れられるか。(はい。)毎日人に臨むことの中で、人の目には大きなこともあれば小さなこともある。人は往々にして、大きなことを重要なことだと見なし、神から来たことだと思っている。しかし、大きなことで、人の身丈が小さいため、また人の素質が劣っているため、人は往々にして神の心意に届くことができず、どんな啓示も得られず、なんら価値のある実際の認識も得られない。小さなことで、人はそれをおろそかにして、少しずつ流してしまう。こうして、人は神の前で神にテストされ、神に試される多くの機会を失った。もしあなたがずっとこのように神があなたのために按配した人、事、物や環境をおろそかにすれば、これは何を意味しているのか。これは、あなたが毎日ひいては毎時、あなたに対する神の成就、神の導きを拒絶していることを意味している。神があなたのためにある環境を按配した時、神はひそかに観察し、あなたの心、あなたのあらゆる思いを監視しており、あなたがどのように思うのか、どのようにするのかを見る。もしあなたが粗忽な者であり、神の道、神の言葉、真理の上で真剣に求めたことのない人であるなら、あなたは神があなたのために按配した環境の中で、神は何を成し遂げようとするのか、あなたに対する神の要求は何であるかに心を留めず、また注意せず、しかもあなたに臨んだこれらの人、事、物は真理や神の心意とどんな関係があるかも知らない。このように、幾たびの環境、試練があなたに臨んだ後、神があなたの身でどんな成果も見ていないなら、神はどのようにするだろうか。幾たびの試練があなたに臨んだ後、あなたは心の中で神を大いなるものとせず、神があなたのために按配した環境を何とも思わず、それを神の試練やテストだと思わずに、神があなたに与えたチャンスを一回また一回と押しのけ、一回また一回と流してしまうなら、これは人の極めて大きな不従順ではないか。(はい、そうです。)神はこのことのために悲しむだろうか。(悲しみます。)神は悲しまない!わたしがこう言うと、あなたたちはまた大いに驚いてこう言うだろう。「以前は、神様が常に悲しむと言われていたのではないか。神様が悲しまないって?なら、いつ悲しむのだろう。」とにかく、このことで神は悲しまない。では、人の以上の表現に対して神はどういう態度を取るだろうか。人が神の人に対する試練、テストを押しのける時、人がこれらを避ける時、神が人に対して取る態度はただ一つだけだ。この態度は何だろう。つまり、神は心からこのような人をひどく嫌がって見捨てるのだ。ここの「ひどく嫌って見捨てる」とは二重の意味がある。わたしはどのように解釈するだろうか。その中の「ひどく嫌う」とは、かなり憎み、恨むという意味だ。その中の「見捨てる」とは、どういう意味なのか。わたしにあってそれは「放棄する」という意味だ。「放棄する」とは、どういう意味なのか、あなたたちはみな知っているだろう。要するに、「ひどく嫌って見捨てる」という意味は、人がこれらの事をしたことに対する神の最後の反応と態度であり、神が人を極度に憎んで反感を持つので、放棄することに決めたということだ。これは、神が全然神の道を歩まず、全然神を畏れ、悪から遠ざかることを行わない人に対する最後の決断だ。今、あなたたちは、先ほどわたしが言った言葉の重要性が分かったのか。

今、あなたたちは、神が一体どのような方式で人の結末を定めるかを知ったのか。(毎日異なる環境を配置します。)「異なる環境を配置する」、これは人が体験し、接触するものである。では、神がこのことをする目的は何だろう。その目的は、神が異なる方式によって、異なる時間、異なる場所で各々の人を試すことだ。人のどんなところを試すのか。人に臨んだ一つ一つの事で、或いはあなたが聞いたり、見たり、自ら体験した一つ一つの事で、あなたが神を畏れ、悪から遠ざかる人であるかどうかを試す。どの人にもこのような試練が臨む。神はどの人に対しても公平だからだ。一部の人はこう言う。「わたしも数年神様を信じてきたが、なぜわたしには臨んでいないのか。」あなたが自分には臨んでいないと感じるのは、あなたが、神があなたのために按配した環境を何とも思わなかったし、神の道を歩もうとも思わなかったからだ。そういうわけで、あなたは神の試練を全然感じられなかったのだ。ある人は、「わたしにも試練が何度も臨んだことがあるが、正確な実行の道が分からなかった。実行したとしても、試練の中で立っていられたかどうかを知らなかった」と言う。同じような状態にある人は少なくない。では、神が人を評価する基準は何なのか。さっきわたしが言った一言である。つまり、あなたのすること、思うこと、現し出すことが神を畏れ、悪から遠ざかるかどうかである。これによってあなたが一体神を畏れ、悪から遠ざかる人かどうかを確定する。これは簡単なことかどうか。口にするのは簡単だが、実行すると簡単なのか。(簡単ではありません。)なぜ簡単ではないのか。(人は神様の言葉を知らず、神様がどのように人を完全にするかも知らないから、事が臨んだ時、どのように真理を求めて問題を解決すべきかが分かりません。人は異なる試練、精錬、刑罰、裁きを経験してこそ、神様を畏れる実際を持つことができます。)あなたたちはこう言っているが、今、あなたたちから見れば「神を畏れ、悪から遠ざかる」ことは容易に達成できるように感じる。なぜこう言うだろう。あなたたちはたくさんの真理を聞き、真理の実際の注ぎをたくさん受けたので、現在は理論的にも思想的にもどうすれば神を畏れ、悪から遠ざかることができるかを知ったからだ。これはあなたたちが「神を畏れ、悪から遠ざかる」ことを実行するのにとても役立つのだ。そのため、あなたたちはそれは容易に達成できると感じるのだ。しかし、事実上、人々はなぜ達成できないのか。それは、人の本質は神を畏れず、悪を好むものだからだ。これが本当の原因なのだ。