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終わりの日のキリストの証人

目次

1.神を正確に知ることは何か。聖書の知識と神学理論の理解は神を知ることとみなせるか。

関連する神の言葉

神を知ることは、何を意味するであろうか。それは、人間が神のあらゆる感情を知るということであり、それは神の実体を知ることである。あなたがたは、神を見たというが、神のあらゆる感情もご性情も義も知らない。あなたがたは神の慈悲深さも、神が忌み嫌われる物事も、全く知らない。それは神の知識とは言えない。したがって、神に付き従うことが出来る者も居るが、そうした者は必ずしも神を信じているというわけではない。これが相違点である。主を知っていれば、主を理解しており、神の御旨の一部を理解し、把握し、そして神の御心を知っているのであれば、真に神を信じ、神に服従し、神を愛し、神を崇拝することが出来る。こうした物事を理解していないのであれば、周囲に流されているだけの者である。それは真の服従とも、真の崇拝とも言えない。真の崇拝は、どのようにして生まれるであろうか。神を見て真に知りつつ、神を崇拝せず、畏れずにいることの出来る者は居ない。人間は、真に神を知るとすぐに、畏れる。現在、人間は、受肉された神の御業の時代にある。受肉された神のご性情と真髄の全てに関する人間の知識が多ければ多いほど、人間はそれを一層大切にし、一層神を畏れる。知識が少ないために一層無謀となり、神が人間として扱われることが往々にしてある。人間が本当に神を知り、神を理解したならば、人間は畏れて震撼するであろう。ヨハネが「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と言ったのは、何故だろうか。ヨハネの心の中における知識はそれほど深くはなかったにもかかわらず、ヨハネは神が畏れるべき存在であられることを知っていた。神を畏れることのできる人間は、現在何人居るであろうか。どうして神のご性情を知らずに神を畏れることができようか。人間がキリストのご性情を知らず、神のご性情を理解していないならば、人間が真に神を崇拝する能力は低くなるであろう。人間がキリストの平凡で普通な外観のみを見て、主の真髄を知らないならば、人間がキリストを普通の人間として扱うのは容易であろう。こうした者は主に対して不敬な態度をとり、主を欺き、主を拒否し、主に反抗し、主を批判し、独断的になるであろう。こうした者は主の御言を軽視し、主の肉を思うように扱い、観念を抱いて冒涜する可能性がある。こうした問題を解決するため、人間はキリストの真髄と神性を知る必要がある。これが神を知ることの主要な側面であり、実践の神を信じる者全員が真摯に取り組み、実現すべきことである。

『キリストの言葉の記録』の「受肉に関する知識」より

実践的神を知ることには、神の言葉を知り、経験すること、聖霊の働きの規則と原則を理解すること、そして、神の霊が肉の内でどのように働くかを把握することが含まれる。その中には更に、肉となった神のすべての行為は聖霊によって支配されており、彼が語る言葉は聖霊が直接表現したものであるということを理解することも含まれている。したがって、あなたが実践的神を知りたいと願うならば、人間性においてまた神性において、神がどのように働くかをまず知らなければならない。そのことはすべての人々が関係している霊の表現というものにつながってゆく。

『言葉は肉において現れる』の「実践的な神は神自身であることを知るべきである」より

今すべての人に欠けているのは、神の働きに関する認識である。人は、創世以来、神が人間において行う業、神のすべての働きおよび神の意志を正確には把握しておらず、理解もしていない。この理解不足は宗教界全体にみられるだけでなく、さらに神の信者全員に見られる。あなたが本当に神をよく見て、神の知恵を悟る日が来る時、またあなたが神のすべての業を見て、神が何であり何を持っているかを認識する時、そしてあなたが神の豊かさ、知恵、驚異、人における神のすべての働きをその目にする時、その時こそあなたは神への信仰をみごとに達成したといえるだろう。神はすべてを包みこんでおり、非常に豊かであると言われるとき、すべてを包みこんでいるということは何を意味するのか。また、豊かさとは何を意味するのか。このことを理解しなければ、あなたは神の信者とはみなされない。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

多くの人は、聖書を理解することと解釈できることは、真の道を探すのと同じことだと信じている。しかし、実際、物事はそんなに単純だろうか。聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの狙いについては何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約は創造から律法の時代の終わりまでのイスラエルの歴史とヤーウェの働きを記録している。新約は、イエスの地上での働きを記録している。これは四福音書とパウロの働きに収められている。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より

聖書は聖なる書物で、読まなければいけないという人々がいる。また別の人々は、神の働きは永遠に守らなければいけない、旧約は神とイスラエルの民との契約で、破棄することはできない、また、安息日は常に守らなければいけないと言う。こういうことは愚かなことではないか。なぜイエスは安息日を守らなかったのか。イエスは罪を犯していたのか。誰がそうしたことを見通せるのか。どのように聖書を読んでも、人間の理解力で神の働きを知ることは不可能であろう。神について純粋な認識を得ることができないばかりか、人のもつ観念が、ますますとんでもないものになり、神に敵対するようになる。もし今日の神の受肉がなければ、人々は自分たちの観念のせいで捨てられ、神の罰を受けて死ぬだろう。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より

わたしと融和すると言う者もいるが、みな漠然とした偶像を拝んでいる。彼らはわたしの名を聖いものとしているが、わたしに反する道を歩んでいる。そして、彼らの言葉は傲慢とうぬぼれに満ちている。心の底では、みなわたしに敵対しており、わたしと融和していないからである。毎日、彼らは聖書にわたしの痕跡を探し、適当に「都合の良い」句をみつけては、いつまでも読み続け、それを聖句として唱える。彼らはわたしと融和する方法を知らず、わたしに敵対するということが何を意味するかを知らず、単に闇雲に聖句を読んでいるだけである。彼らは見たことがなく、見ることもできない漠然とした神を聖書の中に閉じ込めて、暇な時に取り出して眺めている。彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で予言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、聖書の言葉に厳密に従った人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。聖書の影響力を擁護するため、聖書の権威を維持するため、聖書の評判を守るため、彼らは慈悲深いイエスを十字架につけることまでした。彼らは、ただ単に聖書を守るため、人々の心の中にある聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのである。だから、彼らは未来と罪のための捧げ物を見捨て、聖書の教義に従わなかったイエスを罪に定めて殺したのである。彼らは聖書の一字一句に隷属していたのではないか。

では、今日の人々はどうだろう。キリストは真理を解き放つために来た。しかし、人々は天に入って恵みを受けるために、キリストを人間の間から追い出したいくらいなのである。彼らは聖書の権益を守るために真理の訪れを完全に否定し、聖書の永続を確実にするため、再び肉となったキリストをもう一度十字架に釘付けにしたいくらいなのである。あれほど悪意に満ちた心をもち、わたしに対してあれほど敵意のある本性をもつ人間が、どうしてわたしの救済を受けられるのか。わたしは人間の間に生きているが、人間はわたしの存在を知らない。わたしが人間に光を照らしても、人間はわたしの存在を知らずにいる。わたしが怒りを人間の上に放つと、人間はますます強くわたしの存在を否定する。人間は言葉、聖書との融和は求めるが、真理と融和しようとわたしの前に来る者はただの一人もいない。人間は天のわたしを見上げ、天にいるわたしについて、とりわけの関心を向けるが、肉におけるわたしを心にかける者は誰一人いない。人間の間で生きるわたしがあまりに平凡だからである。聖書の言葉に合致するものだけを求める人々、漠然とした神に合致することだけを求める人々は、わたしには哀れに見える。それは、その人たちが崇めているのは死んだ言葉と、計り知れない宝を与えられる神だからである。その人々が崇めているのは、人間の思いのままになる神なのだが、それは存在しない。では、そうした人々はわたしから何を得られるのか。人間はただ言いようもなく低劣である。わたしに敵対する人々、わたしに限りない要求をする人々、真理を愛さない人々、わたしに反抗心をもつ人々──どうしてそんな人々がわたしと融和できるのか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より

聖書の言葉だけを大事にする人々、真理やわたしの足跡を求めることに関心のない人々、そうした人々はわたしに敵対する。なぜなら、聖書に従ってわたしを限定し、聖書の中にわたしを閉じ込め、わたしに対して、この上ない冒瀆行為をするからである。そうした人々がどうしてわたしの前に来ることができるであろうか。その人たちはわたしの行い、わたしの心、真理に耳を傾けず、言葉、殺す言葉に執着している。どうして、そうした人たちがわたしと融和できるであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より