「御言葉は肉において現れる」選篇

受肉した神の職分と人の本分との違い

あなたたちは神の働きの異象を認識しなければならず、基本的な方向を把握しなければならない。これらはみな積極的な面の進入である。これらの異象の面の真理を正確に把握すれば、あなたは進入の面で安定するようになり、働きがどのように変わるとしても、あなたは心が落ち着き、はっきりした異象を持ち、進入、追求の上で目標がある。こうして、あなたの内側の経験と認識はみな深くなり、また細かくなる。基本的な方向を把握すれば、あなたは命の面で損失を被ることはなく、迷うこともない。もしあなたがこの一歩一歩の仕事を認識しなければ、どの段階の働きの中でも、あなたは損失を少し被るはずであり、三日、五日経っても正常な状態に戻れず、十日、半月経っても正しい軌道に乗れない。そうだったら、命の成長を遅らせることになるのではないか。多くの積極的な面の進入と実行を、あなたたちはみな把握しなければならない。働きの異象の面で、あなたは次のいくつかの点を把握しなければならない。すなわち、征服の仕事の意義、 今後完全にされる道、患難や試練を経験する上で到達すべきこと、および裁きと刑罰の意義、聖霊の働きの原則、完全にされ、征服される原則である。これらはみな異象の面の真理である。ほかは律法時代の仕事、恵みの時代の仕事、王国時代の仕事という三つの段階の仕事、および今後の証しである。これも異象の面の真理である。これはいちばん基本的かつ肝心なものである。今、あなたたちが進入すべきもの、実行すべきものはとても多く、しかもさらに順序正しく、さらに細かくなった。もしあなたがこれらの真理に対して認識がないなら、これはあなたが今まだ進入していないことを証明する。多くの場合、人の真理に対する認識が浅すぎて、一部の基本的な真理も実行することができず、些細なことさえ処理することができない。人が真理を実行することができない原因は、人の性質が不従順だからであり、また、今日の仕事に対する人の認識があまりにも浅すぎ、一方的すぎるからである。それゆえに、人が完全にされるのは難しいのである。あなたは不従順が大きすぎ、古き己のものが多すぎ、真理の側に立つことができず、いちばん明らかな真理さえ実行することができない。このような人は救えない人であり、征服されていない人である。もしあなたが進入の面で細部がなく、目標がなければ、あなたの成長は遅くなる。もしあなたが進入の面で何の実際もなければ、あなたの追求は徒労に終わる。もしあなたが真理の本質を認識しなければ、あなたは変化がない。人の命が成長し、性質が変化するのは、みな実際の中に入ることによって到達するのであり、さらに人が細部にわたって経験することによって到達するのである。あなたが進入している中で、細部にわたる経験がたくさんあり、現実の認識と進入がたくさんあるとしたら、あなたの性質の変化は速くなる。今、あなたが実行についてあまりよく知らないとしても、せいぜい働きの異象についてはっきり知らなければならない。もしはっきり知らなければ、あなたは進入しようがない。まず真理に対して認識を持つべきである。そうして初めて進入することができる。経験の中で聖霊の啓きを得てこそ、真理をさらに深く理解することができ、さらに深く進入することができる。あなたたちは神の働きに対して認識を持たなければならない。

最初、人類を造った後、イスラエル人を働きの根拠とし、イスラエル全地を、ヤーウェが地で働く根拠地としたのである。ヤーウェがした仕事は、律法を定めることによって直接人を導き、人を牧し、これによって、人が地上で正常に生活することができ、地上で正常にヤーウェを礼拝することができるようにすることであった。律法時代の神は人が触れることも見ることもできない神であった。彼はただ、最初にサタンに堕落させられた人を導き、これらの人を教え、牧したのだから、彼の言葉の内容はただ律法、おきてと、人としての常識であって、人に命を供給する真理ではなかった。彼が導いたイスラエルの民はサタンにきわめて深く堕落させられた人ではなく、彼のした律法の仕事はただ救いの仕事の最初の段階であり、最初の救いの仕事であって、ほとんど人の命の性質の変化と関係がなかった。だから、いちばん始めの救いの仕事が始まった時、彼は肉体を着て彼のイスラエルでの仕事をする必要は全然なかった。それゆえに、彼が人と接触するには媒介物、すなわち手段が必要となった。そこで、ヤーウェは被造物の中で彼の代わりに働き、話す人たちを興し、こうして、人の間で働く人の子と預言者ができた。「人の子」はヤーウェを代表して人の間で働く人で、このような人はヤーウェに「人の子」と呼ばれた。その意味は、ヤーウェを代表して律法を発布する人であり、またイスラエルのすべての民の祭司であり、ヤーウェの顧み、守りがあり、ヤーウェの霊の働きがある祭司であり、直接ヤーウェに仕えるすべての民の頭である。預言者はヤーウェに代わって諸方、諸族に向かって話す人であり、ヤーウェの仕事を預言する人でもあった。彼らは、人の子であれ預言者であれ、ヤーウェの霊が自ら興したのであり、ヤーウェの働きのある人であり、すべての民の中で、彼らはまた直接ヤーウェを代表する人であった。彼らが働いたのは、ただ彼らがヤーウェに興されたからであり、聖霊が自ら受肉することによって働いたのではない。それゆえに、彼らも神を代表して働き、話したが、律法時代の預言者、人の子である彼らは、神の言がなった肉体ではなかった。しかし、恵みの時代の働きと最後の段階の働きは全くその逆で、人を救い、人を裁く仕事はみな神が受肉して自らするのだから、再び預言者と人の子を興して彼の代わりに働かせる必要は全然ない。彼らの働きの本質と方式は、人から見れば、全然本質的な違いがないように見えるのだからこそ、人はいつも受肉した神の仕事と預言者、人の子の仕事を混同して区別できないのである。受肉した神と預言者、人の子は外見から見ればほぼ同じであり、さらには受肉した神は預言者よりも正常で、実際的であるから、人はこの両者を全然区別できない。人は外見だけを見ていて、彼らが同様に働き、話すが、その中には本質的な違いがあることを全然知らない。人の弁別力がとても劣っているから、簡単な問題もはっきり見分けることができず、このような複雑な問題はなおさら見分けることができない。これらの預言者と聖霊に使われる人が話し、働くのは、人の本分を尽くすのであり、一人の被造物として自分の機能をするのであり、それは人のすべきことである。しかし、神の言がなった肉体が話し、働くのは、職分を尽くすのであり、彼の殻も被造物の殻であるけれども、彼が働くのは機能をするのではなく、職分を尽くすのである。本分は被造物に対して言うのであるが、職分は神の言がなった肉体に対して言うのであり、この両者は本質的な違いがあり、互いに取って代わることができない。人が働くのはただ本分を尽くしているのであるが、神が働くのは経営しているのであり、職分を尽くしているのである。だから、多くの使徒は聖霊に使われ、また多くの預言者は聖霊に満たされたが、彼らが働き、話すのはただ被造物の本分を尽くしているのであった。また、彼らの預言は受肉した神の言った命の道よりも高く、さらには彼らの人間性は受肉した神のそれよりずっと非凡であるが、彼らはやはり本分を尽くしていたのであり、職分を尽くしていたのではない。人の本分は人の機能のことを指すのであり、それは人ができることである。しかし、受肉した神の尽くす職分は経営にかかわり、それは人ができないことである。受肉した神が話しても、働いても、或いはしるしを行なっても、要するに、彼がするのはみな経営の仕事の中の大きな仕事であり、この仕事は人が代わりにすることができない。しかし、人が仕事をするのはただ、神のある段階の経営の仕事の中で被造物の本分を尽くすのであり、もし神の経営がなければ、つまり、受肉した神の職分がなければ、人は被造物の本分を失ってしまう。神が働いて職分を尽くすのは人を経営するのであるが、人が本分を尽くすのは自分の職責を履行するのであり、それは造物主の要求を満足させるためであって、職分を尽くしているとは全然言えない。神の本来の本質、すなわち霊から言うと、神が仕事をするのは経営しているのであるが、受肉して被造物の殻を持った神から言うと、それは職分を尽くしているのである。彼がどんな仕事をしても職分を尽くしているのであり、人は彼の経営の範囲内で、彼の導きの下で自分の力の及ぶ限りを尽くすしかない。

人が本分を尽くすのは、実は人がもともと持っているものを発揮し、すなわち人がもともとできることをすることである。そうすれば、人は自分の本分を果たしたことになる。奉仕の中の欠点は、一歩一歩と経験する中で、裁きを経験する過程の中でだんだん少なくなるのであり、それは人の本分を妨げず、また人の本分に影響しない。もし奉仕する中で欠点があることを心配して、奉仕をやめたり、或いは後ずさりしたりする人があれば、このような人はいちばん意気地がない人である。もし人が奉仕する中で人の表現すべきことを表現することができず、人がもともとできることをすることができず、むしろごまかし、おざなりにするなら、人は被造物として持つべき機能を失ったのであり、このような人がいわゆる「凡才」であり、無用なろくでなしである。このような人はどうして堂々たる被造物と呼ばれることができるだろうか。見掛け倒しの朽ちたものではないか。もし、だれかが自分は神自身であると言うが、神性の所是を発表することができず、神自身の仕事をすることができず、神を代表することができないなら、その人は疑いなく神ではない。なぜなら、彼には神の本質がなく、神がもともとできることは彼にはできないからである。もし人が自分のもともとできることをすることができなければ、「人」とは言えず、また被造物の位置に立つ資格がなく、神の前に来て神に仕える資格がなく、なおさら神の恵みを受け、神に顧みられ、守られ、完全にされる資格がない。多くの人は神の信任を失った後、神の恵みを得られなくなった。彼らは自分の悪行を憎まないだけではなく、神の道が正しくないと大っぴらに宣伝する。それにもまして、神の存在を否定する不従順な者さえもいる。このような人はこのように不従順であるのに、どうして神の恵みを享受する資格があるだろうか。人が自分の本分を尽くせないのはもうかなり神に背くことであり、かなり神に負い目があるのに、人はかえって神が正しくないとやかましく罵る。このような人はどうして完全にされる資格があるだろうか。これは淘汰され、懲罰される兆しではないか。人が神の前で自分の本分を尽くさないのは、もうこの上ない罪悪であり、死んでもなお罪を償うことができないのに、ずうずうしく神と事の是非を論じ、神と腕比べをする。このような人は完全にされる価値があるのか。人は自分の本分を果たすことができなければ、当然このためにやましさを感じ、負い目を感じるべきであり、自分の弱さと無能を憎み、自分の不従順と堕落を憎むべきであり、さらに神のために命を投げ出すべきである。これこそ本当に神を愛する被造物であり、このような人こそ神の祝福、約束を享受する資格があり、神に完全にされる資格がある。しかし、あなたたちのうちの大部分の人はどうだろう。あなたたちはまたどのようにあなたたちの間で生活している神を扱っているのか。あなたたちはまたどのように彼の前であなたの本分を尽くしたのか。義理人情を尽くし、命を投げ出したのか。あなたたちの奉献はどうだろう。あなたたちがわたしから得たのはまだ少ないのか。あなたたちは見分けることができるのか。あなたたちのわたしに対する忠心はどうであるか。わたしに対する奉仕はどうであるか。わたしがあなたたちに与えたもの、あなたたちのためにしたことはまたどうであるか。これらを、あなたたちはみな考えたことがあるか。あなたたちはみな自分のなけなしの良心をもって考量し、比較したことがあるか。あなたたちの言行では、だれに顔向けができるのか。あなたたちのこのわずかな奉献は、わたしがあなたたちに与えたすべてに報いることができるのか。あなたたちに対してわたしは誠心誠意で、何の選択もないが、あなたたちはわたしに対して下心を抱いていて、真心がない。これがあなたたちの本分であり、あなたたちのなけなしの機能である。そうではないか。あなたたちは、自分が一人の被造物としての本分を全然尽くしていないことを知らないのか。それでは、あなたたちはどうして被造物と呼ばれることができるだろうか。あなたたちは自分が何を発表し、何を生かし出したかを知らないのか。あなたたちは自分の本分を果たすことができないのに、神の寛容と神の豊かな恵みを得ようとする。それらの恵みはあなたたちのような一文の値打ちもない小人のために用意されているのではなく、要求がなく、甘んじて身をささげる人たちのために用意されているのである。あなたたちのような人、あなたたちのような凡才は全然天の恵みを享受する資格がなく、ただ苦難の月日と、限りのない懲罰だけがあなたたちに伴う!もしあなたたちがわたしのために忠誠を尽くすことができなければ、あなたたちの運命は苦しみを受けることであり、わたしの言葉とわたしの働きに対して責任を負うことができなければ、あなたたちの結末は懲罰を受けることであり、恵み、祝福、王国のよい生活などはあなたたちと何の関係もない。これはあなたたちの当然の結末であり、自業自得である!賢明でない傲慢な輩たちは、自分の全力を尽くさず、自分の本分を尽くさないばかりか、かえって手を伸ばして恵みを求めている。彼らはまるで自分の得るべきものを求めているようであり、もしそれを得られなかったら、なおいっそう信義に背く。このような人は理智があるのか。あなたたちは素質が劣っており、全然理智がなく、経営の仕事の中で全然自分の尽くすべき本分を尽くすことができない。それゆえ、あなたたちの地位はすでにがた落ちになった。こんなにあなたたちに情けをかけたのに、あなたたちが報いることができないのはもうこの上ない不従順であり、これらはあなたたちを罪に定めるのに十分であり、あなたたちの惰弱無能、卑怯下劣を明らかにするのに十分である。それなのに、あなたたちは再び手を伸ばして求める資格があるのか。あなたたちは全然わたしの仕事の助けにならず、忠誠を尽くすことができず、わたしのために証しにしっかり立つことができない、これらはすでにあなたたちの過ちであり、あなたたちの欠けたところであるのに、あなたたちはかえってわたしを攻撃し、わたしがよくないとでたらめを言い、わたしが不義であると恨み言を言う。これがあなたたちの忠心であるのか、あなたたちの愛であるのか。これ以外にあなたたちはまたどんな仕事をすることができるのか。あらゆる仕事の中で、あなたはどんな貢献をしたのか、どれほど費やしたのか。わたしがあなたたちを咎めないのはすでに極めて大きな寛容であるが、あなたたちは恥知らずにも、わたしに理由を述べ、陰でわたしに文句をつける。あなたたちは少しでも人間味があるのか!人の本分の中には、頭によるものと観念がたくさん混じっているが、それでも、あなたは本分を尽くさず、忠誠を尽くさないわけにはいかない。人の働きの中に混ざりけがあるのは素質の問題であるが、人が本分を尽くさないのは人の不従順である。人の本分は、人が祝福を受けるか、それとも災いを受けるかとは関係がなく、本分は人の尽くすべきことであり、人の天職であり、報酬を求め、条件を出すべきではなく、理由をつけるべきではない。これこそ本分を尽くすことである。祝福を受けることは、人が裁きを受けた後、完全にされて享受する祝福である。災いを受けることは、人が刑罰、裁きを受けた後、性質が変化しておらず、すなわち完全にされていないため受ける懲罰である。しかし、祝福を受けても災いを受けても、被造物として自分の本分を尽くすべきであり、自分のすべきことをし、自分ができることをすべきである。これは一人の人として、神を追い求める一人の人として、少なくとも具備すべきことである。あなたは祝福を受けるために本分を尽くすべきではなく、災いを受けることを恐れて、本分を尽くすことを拒絶すべきでもない。わたしはあなたたちにこう言う。人が自分の本分を尽くすのは人がすべきことであるが、人が自分の本分を尽くさなければ、それは人の不従順である。人はみな本分を尽くす過程の中で、次第に変化を得るのであり、また、本分を尽くす過程の中で、忠心が表れるのである。だから、あなたが自分の本分を尽くせば尽くすほど、もっと多くの真理を得ることができ、しかもあなたが表現するのもますます実際的になる。しかし、おざなりに本分を尽くすだけで真理を求めない人たちは最後になって淘汰されるに決まっている。なぜなら、このような人は真理を実行する過程の中で本分を尽くすのではなく、本分を尽くす過程の中で真理を実行するのでもないからである。このような人が変化を得ていなくて災いを受ける対象である。彼らが表現するのは混ざりけがあるだけではなく、またすべてが悪である。

恵みの時代に、イエスもたくさんの言葉を言い、たくさんの仕事をしたが、彼はイザヤとどんな違いがあるのか、彼はダニエルとどんな違いがあるのか。彼は果たして預言者なのか。なぜ彼のことをキリストと言うのか。彼らの間にはどんな違いがあるのか。どちらも人であり、どちらも言葉を言い、しかも人の目には、彼らの言った言葉はほとんど同じであり、彼らはみな言葉を言い、仕事をしたのである。旧約の預言者は預言を語り、同様に、イエスも預言を語ることができたが、これは一体どういうことだろう。あなたは働きの性質によって区別すべきである。あなたがこの事を見分けようとするなら、肉体の性質によって見分けてはならず、また彼の言った言葉が深いか浅いかによって見分けてはならず、どうであろうと、あなたはまず彼のした仕事と、この仕事が人にもたらした効果によって見分けなければならない。当時イザヤが語った預言は人に命を供給するものではなかった。ダニエルのような人が得たそれらの黙示はただ預言であって、命の道ではなかった。当時、もしヤーウェが直接啓示しなかったら、だれもその仕事をすることができず、それは凡人にはできないことであった。イエスもたくさんの言葉を言ったが、それらの言葉は命の道であり、人はその中から実行の道を見つけることができた。つまり、第一に、彼は人に命を供給することができた、それはイエスが命だからである。第二に、彼は人の過ちを正すことができた。第三に、彼はヤーウェの仕事を引き継いで時代を継続することができた。第四に、彼は人の内側の必要を見い出し、人の欠けているものを知ることができた。第五に、彼は新しい時代を開き、古い時代を終わらせることができた。だから彼は神であり、キリストであり、イザヤと異なるだけではなく、いかなる預言者とも異なるのである。預言者であるイザヤの仕事をもって比較してみよう。第一に、彼は人に命を供給することができなかった。第二に、彼は時代を開くことができず、彼はヤーウェの導きの下で仕事をしたのであり、新しい時代を開くために仕事をしたのではない。第三に、彼の言った言葉は彼自身によっては言うことができず、神の霊が直接啓示したのであり、ほかの人は聞いても理解できなかった。これらによって次のことが証明された。彼の言った言葉はただ預言であり、それはただ彼がヤーウェに代わってした一部分の仕事である。しかし彼は完全にヤーウェを代表することはできなかった。彼はヤーウェの僕であり、ヤーウェの仕事の中の道具であり、彼はただ律法時代の中で仕事をし、ヤーウェの働きの範囲内で仕事をしただけで、律法時代という範囲を越えて働かなかった。しかし、イエスのした仕事はそうではなく、彼はヤーウェの働きの範囲を越えたし、彼は受肉した神の身分で現れて働いたのであり、彼は十字架につけられるという仕事をして全人類を贖った。つまり、彼はヤーウェの仕事の範囲外でまた新しい仕事をしたのであり、それは時代を開くことであった。もう一つは、彼は人には言えない言葉を言うことができ、彼のした仕事は神の経営の中の仕事であり、全人類にかかわる仕事であり、彼は何人かの人に対して仕事をしたのではなく、限られた数の人々を導くために働いたのでもなかった。神はどのように受肉して人となったか、或いは当時霊はどのように啓示したのか、霊はまたどのように人の上に下って働いたのか、これらは人が見ることも触れることもできず、全然これらの事実で彼が受肉した神であることを証明することができない。そこで、人が接触できる神の言葉、働きによって見分けるしかない。これこそ現実的である。霊に関することはあなたが見ることができず、神自身だけがよく知っており、言がなった肉体もそれを全部知っているのではない。だから、あなたは彼のした仕事によって確定するしかない。彼がした仕事から見れば、第一に、彼は時代を開くことができ、第二に、彼は人に命を供給することができ、人が歩むべき道を指し示すことができる。これらによって、彼が神自身であることを確定することができ、少なくとも、彼がした仕事は完全に神の霊を代表できることを確定することができる。彼のした仕事によって、彼の中に神の霊があるのを知ることができる。受肉した神がする仕事は主に、新しい時代を開き、新しい仕事を導き、新しい境地を開くことである。これらによって、彼が神自身であることを確定することができ、こうして、あなたは彼とイザヤ、ダニエルのような大預言者との区別を知ることができる。イザヤ、ダニエルのような人はみな知識が深く、教養が高い人であり、彼らはみなヤーウェの導きの下での非凡な人であった。神の言がなった肉体も見識があり、しかも理智に欠けていない。しかし、彼の人性はとても正常であり、彼はごく普通な人である。人の肉眼では、彼に何か特殊の人性があるのを全然見い出すことができず、彼に一般の人とは異なる人性があるのを見い出すこともできない。彼は少しも超然としておらず、少しも特殊ではなく、彼は高い教育レベル、深い知識、高い理論を持っていない。彼の語る命、彼の導く道は、理論によって得られたのではなく、知識によって得られたのではなく、処世の経験によって得られたのではなく、家庭教育によって得られたのでもなく、それはみな霊が直接する仕事であり、つまり言がなった肉体がする仕事である。人の神に対する観念は大きすぎ、特に人の観念の中には漠然とした要素が多すぎ、超然たるものが多すぎる。だから、人から見れば、しるしと奇跡を行うことができず、しかも正常で人性の弱さがある神はきっと神ではない。これはみな人の間違った観念ではないか。神の言がなった肉体が、もし一人の正常な人でないなら、言がなった肉体と言えるのだろうか。肉体である以上、一人の普通で正常な人である。もし彼が非凡な人であるなら、言がなった「肉体」ではない。彼が肉体であることを証明するためには、受肉した時、彼は必ず正常な肉体でなければならず、これはただ、受肉した意義を完全にするためである。しかし、それらの預言者と人の子はそうではない。彼らは賜物を持つ、聖霊に使われた人であり、彼らの人間性は人から見ればとても優れており、しかも彼らには正常な人間性を超える表現がたくさんあるから、人々は彼らを神と見なしたのである。今、あなたたちはこれらのことをはっきり認識しなければならない。なぜなら、これは世々からあらゆる人がいちばん区別できないことであり、しかも受肉することはいちばん奥義的なことであり、受肉した神は人にはいちばん受け入れがたいからである。わたしがこのように言うのは、あなたたちが機能を果たすのに有利であり、あなたたちが受肉の奥義を理解するのにも有利であり、これらはみな経営にかかわることであり、つまり異象にかかわることである。これらが分かったら、あなたたちが異象、すなわち経営の仕事を認識するのにさらに有利である。そうすれば、各種類の人がそれぞれ尽くすべき本分について、あなたたちはたくさん分かるようになる。これらの言葉は直接あなたたちに道を指し示すのではないけれども、あなたたちの進入にはやはり大いに役立つのである。あなたたちの今の生活の中には異象が乏しすぎるから、これはあなたたちの進入にとって極めて大きな障害となる。もしあなたたちがずっとこれらの問題が分からなければ、あなたたちの進入も原動力がなくなる。このような追求では、どうして本分をよく尽くすことができるだろうか。