「言葉が肉体で現れる」選篇

「言葉が肉体で現れる」選篇

どのように仕えれば神の心にかなうことができるか

今日、主に神を信じるのにどのように神に仕えるべきか、神に仕える人はどんな条件を備えるべきか、どんなことが分かるべきか、あなたたちの奉仕の中にどんなずれがあるかを交わる。これらはみなあなたたちが分かるべきことである。これらの問題は、あなたたちがどのように神を信じるべきか、どうすれば聖霊に導かれる道を歩み、すべてのことで神の按配に従うことができるかに触れているが、それはあなたたちに神があなたたちの身に行った毎段階の仕事を認識させるためである。この境地に達した時、あなたたちは神を信じるとはどういうことなのか、どうすれば神をよく信じることができるか、どうすれば神の心にかなうことができるかを知ることができる。あなたたちがみな、神のするすべてのことに絶対的に従順で、どんな恨み言も言わず、論断もせず、分析もせず、なおさら研究もせず、最後にはあなたたちがみな死に至るまで神に従順で、羊のように神の意のままに引かれ、殺されるようになり、そして、あなたたちがみな現代のペテロになって、十字架の上でも極みまで神を愛することができ、恨み言を少しも言わないようにする。それでこそ現代のペテロの風格を生かし出したのである。

志のある人はだれでも神に仕えることができる。しかし、神の心を思いやり、神の心意が分かる人こそが神に仕える資格と権利がある。あなたたちの経験から見れば、多くの人は、燃え立つ心を以て神のために伝道し、神のために走り、神のために費やし、神のために捨てることなどが神に仕えることだと思っている。もっと多くの宗教の人々は、聖書を持って至る所で天国の福音を宣べ伝えて、人に悔い改めさせ罪を告白させ、それによって人を救うことが神に仕えることだと思っている。また多くの宗教の役人たちは神学院で深く研究して育成訓練された後、それぞれの礼拝堂で説教したり、聖書の章節を読むことによって人に教えたりすることが、神に仕えることだと思っている。また多くの同行の兄弟姉妹たちは一生結婚せず、所帯を持たず、神のために自分をささげることが、神に仕えることだと思っている。さらに、一部の「貧しい地区」の人は、兄弟姉妹たちのために病気を治し、悪霊を追い出し、祈り、人に仕えることが、神に仕えることだと思っている。あなたたちの間の多くの人は、毎日神の言葉を食べ飲みし、神に祈り、諸教会を歩くことが、神に仕えることだと思っている。また、ある人は教会の生活を送ることが神に仕えることだと言っている。しかし神に仕えるとは一体どういうことか、分かっている人はとても少ない。神に仕える人は星のように多いけれども、直接神に仕えることができる人、神の心にかなう奉仕ができる人は寥寥として、ほんのわずかである。どうしてこのように言うだろう。あなたたちは「神に仕える」という言葉の本質が分からず、どのように仕えれば神の心にかなうことができるかについて、分かっているのがあまりにも少なすぎるからである。今日は主に、どのような奉仕が神の心にかなうか、どのように仕えれば神の心を満足させることができるかを交わる。

あなたたちは自分の奉仕が神の心にかないたいと思うなら、まず神がどのような人を喜ぶか、どのような人を憎むか、どのような人を完全にするか、どのような人が神に仕える資格があるかが分からなければならない。これはあなたたちが少なくとも具備すべきことである。あなたたちはさらに、神の働く目的は何であるか、神が今しようとしている仕事は何であるか分かるべきである。分かった後、神の言葉の導きの下であなたたちが先に進入し、先に神の委託を引き受けるべきである。あなたたちが神の言葉に対して実際の経験がある時、神の働きに対して真実な認識がある時、あなたたちは神に仕える資格を持つようになる。神はあなたたちが彼に仕える時、あなたたちの霊眼を開いて、あなたたちに神の働きに対してさらに理解させ、さらにはっきり分からせる。あなたがこの実際に入った時、あなたの経験はさらに深くなり、さらに実際的になる。このような経験がある人はみな、諸教会を歩いて兄弟姉妹たちに供給することができ、あなたたちは互いに他人の長所を学んで自分の短所を補い、霊の中でさらに豊かな認識を得ることができるようになる。この効果に達してはじめて、あなたたちの奉仕が神の心にかなうことができ、しかもあなたたちは仕える過程の中で神に完全にされることができる。

神に仕える人は神の知己、神に喜ばれる者でなければならず、神に絶対的に忠実でなければならない。人の陰ですることであれ、人の前ですることであれ、神の前で神に喜ばれることができ、神の前に立つことができ、ほかの人がどのようにあなたを扱っても、あなたはいつも自分の歩むべき道を歩んで、神の負担を思いやる。これこそ神の知己である。神の知己が直接神に仕えることができるのは、彼の身に神の重大な委託、神の負担があり、彼が神の心を自分の心とし、神の負担を自分の負担とし、前途、得失を度外視することができ、たとえ将来何も持たず、何も得られなくても、いつも神を愛する「心」で神を信じるからである。だから、このような人が神の知己なのである。神の知己は即ち神の気心の知れた人である。神の気心の知れた人だけが神の急ぐことを急ぎ、神の考えるところを親身になって考えることができ、肉体は苦しくて弱いけれども、苦痛を忍んで割愛して神を満足させることができる。神はさらに多くの負担をこのような人に与え、自分がしようとすることをこのような人を通して発する。だから、このような人は神に喜ばれる人であり、神の心にかなっている、神に仕える人である。このような人こそ神と共に王となって権力を握ることができる。あなたが本当に神の知己になった時が、神と共に王となって権力を握る時である。

イエスが神の委託を遂行し、全人類を贖う仕事を完成することができたのは、彼が神の心を思いやることができ、自分の考えや計画はなかったからである。また、彼はあなたたちがいちばんよく知っている神の知己――神自身であり(実は、彼は神が証しした神自身である。ここで触れるのは彼についてのこの事実で一つの問題を説明するためである)、彼は神の経営計画を核心として、いつも父なる神に祈り、天の父のみこころを求めることができた。彼はこう祈った、「父なる神よ、もしあなたのみこころなら行なってください。しかしわたしの願いどおりではなく、あなたの計画どおりに行なってください。人には弱さがあるが、顧みる必要はないではありませんか。あなたの手にある、蟻のような人がどうしてあなたに顧みられる資格がありましょうか。わたしの心はただあなたのみこころが行われることを願っています。あなたのみこころのままにわたしの身にあなたのしようとすることを行ってください」。イエスはエルサレムに上がる道で、胸を刺される思いがしてひどくつらかったが、彼は決心を変える気が少しもなかったのであり、ずっと強大な力が彼を十字架につけられる所へ向かうように支えたのである。最後に彼は十字架につけられて、罪深い肉と同じ姿になって、全人類を贖うという仕事をやり遂げ、すべての死の陰の拘束を超脱し、死亡、地獄、陰府は彼の前で威力を失い、彼に打ち負かされた。彼は三十三年もの一生の間に、ずっと神の当時の働きに応じて全力を以て神の心を満足させ、個人の得失などは考慮せず、いつも父なる神のみこころのために考えていた。だから、彼が洗礼を受けた後、神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言った。神の前に彼の奉仕が神の心にかなったので、神は全人類を贖う重荷を彼に背負わせて完成させ、そのため、彼はこの大任を果たす資格と権利を持つようになった。彼は一生の間に、神のためにどれほどの苦しみを受けたか、どれほどのサタンの試みを経験したか分からない。それにしても彼は気落ちしたことがなかった。神は彼を信任し、彼を愛していたからこそ、そんなに大きな任務を彼に任せたのである。だから、神は自ら「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言った。当時、彼だけがこの委託を遂行することができた。それは、神が恵みの時代に全人類を贖う仕事をやり遂げた実情の一部分である。

もしあなたたちもイエスのように神の負担を思いやり、自分の肉体を裏切ることができれば、神は彼の大任をあなたたちに任せて、あなたたちが神に仕える条件を備えるようにさせる。そのような状況の下でこそ、あなたたちは神のみこころを行う人、神の委託を遂行する人だと断言でき、本当に神に仕える人だと断言できる。イエスの例と照らし合わせてみたら、あなたは自分が神の知己だと断言できるか、自分が神のみこころを行う人だと断言できるか、自分が本当に神に仕える人だと断言できるか。あなたは今どのように神に仕えるべきかさえ分からないのに、自分が神の知己だと断言できるか。あなたは自分が神に仕える人だと言うが、これは神を冒涜しているのではないか。自分で考えてみなさい。あなたが仕えているのは神か、それともあなた自身かと。あなたが仕えているのはサタンなのに、あなたは神に仕えているのだと頑なに言い張る。これは神を冒涜しているのではないか。多くの人はわたしの陰で、地位による福を貪り、飲食を貪り、眠りを貪り、肉体のことばかり思い、いつも肉体の活路がなくなることを心配し、教会の中で正常に機能をしないで、無駄食いし、或いはわたしの言葉で兄弟姉妹たちを叱り、高い地位に立って人を拘束する。それなのに、自分は神のみこころを行う人だとしきりに言い、いつも自分は神の知己だと言っている。これは謬論ではないか。あなたの存心は正しいが、神の心にかなう奉仕ができないなら、これはあなたが愚昧であることを証明する。しかし、あなたの存心は正しくないのに、自分が神に仕える人だと言うなら、あなたは神に逆らう人であり、必ず神に罰される!わたしはこのような人に同情しない!神の家で無駄食いし、いつも肉体の安逸を貪り、神の利益を考慮せず、いつも自分のために福利を図り、神の心意をかまわず、あらゆる行ないは神の霊の監視を受けることができず、いつも曲がったこと、不実なことをして兄弟姉妹たちを騙し、人の前と陰とでやり方を変え、ぶどう園に入った狐のようにいつも葡萄を盗み食いし、ぶどう園を踏みにじる。このような人は神の知己だろうか。あなたは神の祝福を受け継ぐ資格があるのか。個人の命、教会に対して負担が少しもないのに、あなたは神の委託を受ける資格があるのか。このような人を、だれが信任するだろうか!あなたがこのように仕えるのに、神はさらに大きな任務をあなたに任せられようか。こうすれば、仕事を滞らせるのではないか。

わたしがこれらの言葉を言うのは、神の心にかなう奉仕をするには、どんな条件を備えるべきか分からせるためである。もしあなたたちが心を神に渡さず、イエスのように神の心を思いやらなければ、あなたたちは神の信任を勝ち取ることができず、最後にあなたに臨むのは神の裁きしかない。今あなたはいつも神を欺く心をもって神に仕えているかもしれないが、それでも神はあなたを相手にする。どうであろうと、あなたが神を欺けば、情け容赦のない裁きがあなたに臨むのである。今、あなたたちは神に仕える正しい軌道に乗ったばかりなので、まず心を神に渡すべきで、あれこれと気を散らしてはならない。神前であれ、人前であれ、いつも心を神に向け、イエスのように神を愛する志を持つことができれば、神はあなたを完全にして、あなたを神の心にかなう、神に仕える人にならせる。もしあなたが本当に神に完全にされて、神の心にかなう奉仕ができることを望むなら、あなたの以前の、神を信じる観点や神に仕えるそれらの古い方式を変えなければならない。それはあなたの内にさらに多くの、神に完全にされる部分が生じるためである。そうすれば、神はあなたを見捨てず、あなたもペテロのように神を愛する先鋒になる。もしあなたがやはり頑迷にして悟らなければ、あなたの結末はユダのと同じである。これは神を信じるあらゆる人が分かるべきことである。