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終わりの日のキリストの証人

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4.世の終わりの神の裁きの意義は世の終わりの神の裁きの働きによって達成された結果に見られ得る。

4.世の終わりの神の裁きの意義は世の終わりの神の裁きの働きによって達成された結果に見られ得る。

関連する神の言葉

終わりの日の働きとは、時が近づき神の日が来たので、神の経営(救いの)計画を完成させるべく、その者の性質に応じて全ての人を分けることである。神はその国に入った者、すなわち神に最後まで忠実であった全ての者たちを神自身の時代に連れて来る。しかし、神自身の時代が来る前に、神がしたい働きとは、人の行為を観察したり、人の生活について尋ねたりすることではなく、人の神に対する背きを裁くことである。なぜなら、神は自分の玉座の前に来る者全てを清めるからである。今日まで神に付き従ってきた全ての者は、神の玉座の前に来た者であるから、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神によって清められる者である。すなわち、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神の裁きを受けることになる者である。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

今日、神はあなたたちを裁き、あなたたちを罰し、あなたたちを糾弾するが、あなたたちを糾弾するのはあなたたちが自分を知るためであることを知りなさい。糾弾、嘲り、裁き、懲罰――これらはみなあなたたちが自分を知るため、あなたたちの性質が変わるため、さらにあなたたちが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、神の性質や働きの必要性に応じていること、神は人を救済する計画に応じて働くこと、彼は人を愛し、人を救い、人を裁き、罰する義の神であることを理解するためである。あなたたちが、自分たちは低い地位の者で、堕落して、反抗的であることは知っているが、神が今日あなたたちに行う裁きや罰を通して救済を明らかにしようと望んでおられることを知らないならば、あなたたちは経験するすべがないし、ましてや前進を続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、苦しめ、罰し、そして救うために来られた。神の6000年の管理計画が終了する前に――神が人の各カテゴリーの最後を明らかにする前に――地上における神の働きは救済のためであり、すべては神を愛する人々をすっかり完全にし、神の領土に戻すためである。……人の目から見れば、救済は神の愛であり、神の愛は罰、裁き、呪いのはずがない。救済は愛、慈悲心、さらには、癒しの言葉を含んでいなければならず、神によって与えられる無限の恩恵を含んでいなければならない。神が人を救う時、神は彼らに触れ、神の祝福と恩恵を通して彼らの心を神に委ねさせることによって救ってくださると人々は信じている。すなわち、人に触れる時、神は人を救う。このような救済は交換が行われている救済である。神が彼らに100倍与える時のみ、人は神の御名の下に来て、神のためによくやろうと努力し、神に栄光をもたらす。これは人類に対する神の御心ではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来られた――このことにうそはない。そうでなければ、神は直接その御働きを行うために来ることは絶対にないだろう。昔、神の救済手段は最大限の愛と慈悲を見せることだったので、神は人類全体と交換するためにサタンに持てるすべてを与えた。今日は昔とはまったく違っている。今日、あなたたちの救済は終わりの日に、種類によって各々を分類する間に生じる。あなたたちの救済手段は愛や慈悲ではなく、人がより完全に救われるための懲罰と裁きである。従って、あなたたちが受け取るすべては懲罰、裁き、無慈悲な打ちのめしであるが、この無情な打ちのめしの中に罰は少しもないこと、私の言葉がどんなに辛辣であっても、あなたたちに降りかかるものはあなたたちには完全に無情だと思われるほんの数語だけであり、私の怒りがどんなに大きくても、あなたたちに降りかかるものは教えの言葉であることを知りなさい。私はあなたに危害を加えるつもりはないし、あなたを殺すつもりもない。これはすべて事実なのだ。今日、義のための裁きであろうと、無情な改善や懲罰であろうと、すべては救済のためであることを知りなさい。今日種類に応じて各々の分類があろうと、人のカテゴリーのない層があろうと関係なく、神の御発言と御働きのすべては本当に神を愛する人々を救うためである。義のための裁きは人を浄化するためであり、無情な改善は人を清めるため、厳しい言葉、あるいは懲罰はすべて人を浄化するため、救済するためである。従って、今日の救済方法は、過去のものとは違う。今日、義のための裁きはあなたたちを救い、種類に応じてあなたたち各々を分類するためのよい道具であり、無情な懲罰はあなたたちに最高の救済をもたらす――この懲罰と裁きに直面してあなたは何を言わなければならないだろうか。あなたたちは初めから終わりまで救済を享受しなかっただろうか。あなたたちは神の受肉を見たし、神の全能性と英知もはっきり理解した。そのうえ、あなたたちは繰り返される強打や罰も経験した。しかし、あなたたちは最高の恵みを受けたではないか。祝福は他の誰のものより大きいではないか。あなたたちの恵みはソロモンが享受した栄光や富よりも豊富である。考えてもみなさい。神がやってきた意図があなたたちを非難し、罰するためであるなら、あなたたちの日々はこのように長く続くだろうか。この罪深い生身の存在であるあなたたちは今日まで生き残れただろうか。あなたたちを罰するためだけなら、なぜ神が人の姿になり、そのような大きな事業に乗り出したのだろう。ただの人間にすぎないあなたたちを罰するにはわずか1語で済むのではないか。神はあなたたちを非難した後でもまだあなたたちを滅ぼす気持ちなのだろうか。あなたたちは神のこうした言葉をまだ信じないのだろうか。神は愛と慈悲だけで人を救うことができるのだろうか。それとも神は人を救うために磔刑だけしか使えないのだろうか。神の義なるご性質は人を完全に従順にさせるために一層寄与するのではないだろうか。人を一層完全に救うことができるのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

神の御言葉は厳しいかもしれないが、すべて人を救済するための語られているのであり、神は言葉を語っているだけで、人の肉体を罰しているのではない。これらの言葉は、人を光のなかで暮らさせ、光があることをわからせ、光は貴重であることをわからせ、さらにはこれらの言葉が人にとっていかに役に立つかわからせ、神は救いであることをわからせる。神は懲罰や裁きの言葉を数多く語られたが、それらのことは実際あなたたちに対して行われていない。神は神の働きを行うために、神の言葉を話すために来た。神の言葉は厳しいかもしれないが、あなたたちの堕落と反抗心を裁く時に語られる。神がこれを行う目的は依然として人をサタンの領地から救うこと、人を救うために神の言葉を使うことにとどまっている。神の目的は神の言葉で人を傷つけないことである。神の御言葉が厳しいのは、神の御働きから結果が達成されるためである。このように働くことによってのみ、人は自分自身を知ることができ、反抗的性質から離脱できる。言葉の働きで最も需要なのは、人々が真実を理解した後、真実を実践し、自分自身および神の御働きについての知識を獲得するようにさせることである。話すことを通して働く手段のみが神と人の関係を明らかにすることができ、言葉のみが真実を説明することができる。このような方法で働くことは、人を征服する最善の手段である。言葉を発することは別として、その他の手段では真実や神の御働きをより明確に人に理解させることはできない。そこで神は御働きの最終段階で人に話しかけ、人が理解しないすべての真実や神秘を人に隠さず話して、彼らが神から本当の方法と人生を得て、神の御心を満足させることができるようにする。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

神が人間を精錬する業を行われる時、人間は苦しみ、人間の神に対する愛が深まり、人間に対して、神の御力の多くが明らかにされる。人間に対する精錬が少なければ少ないほど、人間の神に対する愛も少なくなり、人間に対して明らかにされる神の御力も少なくなる。人間に対する精錬と苦しみ、苦悶が多ければ多いほど、人間の神に対する真の愛が深まり、神への信仰も純粋なものとなり、神に関する人間の知識も深まる。あなたがたの経験から、精錬や苦痛、取り計らい、修練が多い者は、神を深く愛し、神に関して、深く豊富な知識があることが分かるであろう。何も取り計らいを経験していない者には、表面的な知識しか無く、単に「神は極めて親切で、人々に恵みをお与えになるので、人間は神を享受できる。」と述べることしか出来ない。取り計らいと修練を経験した場合、人間は神に関する真の知識を述べることができるようになるであろう。したがって、神の人間に対する御業が奇しければ奇しいほど、その御業は一層貴重であり、重要なものであり、その御業が自分にとって乗り越えるのが困難であり、自分の考えと相容れないものであればあるほど、神の御業が自分を征服する力、得る力、完全にする力が高くなる。神の御業の意義は、甚大であるのだ。神がこのような御業により人間を精錬しなかった場合、その神の御業は効果に乏しく、重要では無くなるであろう。これが、神が世の終わりに特定の人々を選ばれた特別な意義の背景となる理由である。従前、神は、そうした人々を選ばれ、得られるであろうと言われていた。神のあなたがたに対する御業が大きければ大きいほど、あなたがたの神に対する愛は一層深く純粋なものとなり、また神の御業が大きければ大きいほど、神の知恵に一層深く感謝することが出来るようになり、神に関する自分の知識も深くなる。終わりの日には、6千年におよぶ神による統御計画が終焉を迎える。神の計画は、それほど簡単に終わることが有り得るであろうか。神が人間を征服された時、神の御業は終わるのであろうか。神の計画は、それほど単純なものであろうか。人間は、神の計画をそうした単純なものであると考えているが、神が行われる物事は、それほど単純なものでは無い。神の御業は、そのうちどの部分であるかを問わず、いずれも人間にとって想像を絶するものである。仮に神の御業を推し量ることが出来るとしたら、神の御業には重要性も価値も無いであろう。神が行われる御業は想像を絶するものであり、あなたがたの考えとは異なるものである。そして御業があなたがたの考えと相容れないものであればあるほど、その御業は一層有意義なものであり、あなたがたの考えと一致すればするほど、その御業は無意味なものとなるであろう。現在、あなたがたは神の御業が奇しすぎると感じ、奇しければ奇しいほど、あなたがたは神が想像を絶するものであると一層強く感じ、神の御業が遠大であることを、一層深く理解する。仮に、人間の征服のために必要とされるのが、通り一遍の御業のみであり、それで御業が完了するとしたら、人間は神の御業の重要性を見ることが出来ないであろう。現在、あなたがたは既に多少の精錬を受けているが、あなたがたの人生における成長に対して、その精錬は極めて有益なので、そうした困難はあなたがたにとって最も必要とされるものである。今日、あなたがたは既に多少の精錬を受けているが、後に真に神の御業を見て、ついには「神の御業は実に奇しいものだ」と言うであろう。あなたがたは、心の中でそう呟くであろう。神の精錬 (奉仕者の試練[a]と何回かの刑罰) を暫く経験した後に、「神を信じることは、実に難しい」と言い出す者も居るであろう。この「難しさ」は、神の御業が想像を絶するものであること、大きな意義と価値を持っていること、人間にとって大切にする価値のあるものであることを示している。仮に私が多くの業を行った後で、あなたがたに少しも知識が無かったとしたら、それでも私の業には価値があるであろうか。私はあなたがたをして、神への奉仕は実に困難だ、神の御業は極めて奇しく、神は真に賢明であられる、神は実に愛に溢れておられる、と言わせしめるであろう。暫く経験した後に、あなたがたがこうした言葉を言うことが出来るのであれば、それはあなたがたが神の御業を得たことを証明するものである。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

今日私が話しているのは、人間の罪と不義を裁くことである。それは人間の反逆性を呪うことである。人間の不正さと虚偽、人間の言動など、神の御旨に則していない物事すべてが裁きを受け、人間の反逆性は罪であると判断される。神は裁きの原則に従って御言葉を述べ、人間の不義を裁き、反逆性を呪い、醜悪な顔を全て裁くことにより神の義なるご性情を現す。聖さは神の義なるご性情を現す。神の聖さは、実は神の義なるご性情である。本日の私の話の背景は、発言、裁き、そしてあなたがたの腐敗した性情に鑑みて御業と征服を実施することである。真の御業は、これだけであり、神の聖さを完全に際立たせるのは、これだけである。あなたがたに腐敗した性情が全く無かったとしたら、神はあなたがたを裁くことも、あなたがたが神の義なるご性情を見ることが出来るようになることも無いであろう。あなたがたには腐敗した性情があるため、神はあなたがたを許されない。そのことにより、神の聖さが明らかにされる。……神が義なる神であり、聖なる神であることを、あなたがたが今まで理解することが出来たのは、こうした裁きのおかげである。神があなたがたを裁き、あなたがたに怒りを下したのは、神の聖さと義に起因するものである。神が人間の反逆性を見た時、神は自分の義なるご性情を現すことが出来ること、そして神が人間の汚れを見た時に神の聖さを現すことが出来ることだけで、神が聖く汚れが無く、しかし同時に不浄の地で生活している神ご自身であることを示すに十分である。

『言葉は肉において現れる』の「征服の御業の第2段階は、どのように実りを迎えるか」より

神が裁きと刑罰の働きを行うのは、それによって人が神を知り、神を証すためである。人の堕落した性質を神が裁くことがなければ、人が犯すことのできない神の義なる性質を、人が知ることはできず、神に関する古い認識を捨てて新しい認識を得ることもない。神が証すため、そして自身の経営(救い)のために、神はそのすべてを明らかにし、そうすることで人は、神が公に顕われることにより、神の認識に到達することができ、その性質においても変えられ、人が力強い証し人となれるようにした。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

聖書の言葉

また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20:11-15)

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(ヨハネの黙示録 21:3-4)

この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。」(ヨハネの黙示録11:15)

関連する神の言葉

終わりの日の働きとは、時が近づき神の日が来たので、神の経営(救いの)計画を完成させるべく、その者の性質に応じて全ての人を分けることである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを不潔な霊の渦中に放り込む。その結果、彼らは二度と肉体をもつことはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

終わりの日の神の裁き、懲らしめの働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息の中に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られたに違いない。最終的に神によって得られたこのような人々が最後の安息へと入るのである。懲らしめや裁きという神の働きの本質は、人類を清めることであり、それは、最後の安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないあるいは安息の中に入ることもできない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの仕事こそが人類の不義を洗い清め、懲らしめ、裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが識別されるようになる。神の仕事が終わる時、生き残ることのできる人は、洗い清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が懲らしめや裁きを受けた後、彼らの正体が露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、悪者、不道徳者であって、義なる人ではないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

悪を罰し、善を賞するという彼の最後の仕事は、ひたすら全人類を完全に浄化するために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息の中に導き入れることができる。彼のこの段階の仕事は彼の最も重要な仕事であり、彼の管理の仕事全体の最後の段階である。もし神が不道徳者たちを全部滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域中に導き入れることができない。このような仕事では完全に終わりにすることはできない。彼が彼の仕事を終える時、全人類は完全に神聖である。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

彼が打ち立てようとする国は彼自身の国であり、彼が求める人類は彼を礼拝する人類であり、完全に彼に従う人類であり、彼の栄光のある人類である。もし堕落した人類を救い出さなければ、彼が人を造った意義は烏有に帰し、彼は人の間でもう権威を持たなくなり、地上に彼の国が現れることもない。もし彼に背く敵を全部滅ぼさなければ、彼は完全な栄光を得ることができず、地上で彼の国を打ち立てることもできない。人類の中の不従順な者たちを全部徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを全部安息の中に連れていく。これは彼の仕事が終わったことのしるしであり、彼の大事業が成功を収めたことのしるしである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

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