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神の国の福音についての代表的な全能神の言葉 (選集)

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イエスの贖いの働きは真に時代を終わらせる働きか

1.三十三年半の間イエスは地上で苦しみ、あざけられ、中傷され、見捨てられ、まくらする場所や休む場所さえなく放置され、その後十字架につけられた。完全で罪のない体であるその存在全体が十字架で釘づけにされ、あらゆる類の苦しみの中を通った。支配と権威の者たちはイエスをあざ笑い、むち打ち、兵士たちはその顔に唾を吐くことさえした。それでもイエスは黙ったまま最後まで耐え忍び、死にまでも無条件に従い、そこですべての人間を贖い、それによって安息することができた。このイエスの働きは、恵みの時代のみを表すものであり、律法の時代を表すものではなく、終わりの時代の働きに代わるものでもない。これが人類にとって第二の時代である贖いの時代という、恵みの時代におけるイエスの働きの本質である。

(『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きについての真実」より)

2.人にとって、イエスの磔刑は神の受肉の御働きを終結させ、全人類を罪から救い、神が黄泉の国の鍵を握られるのを可能にした。誰もが神の御働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとって、御働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神は人類の罪を救われただけである。人類を征服しておられず、ましてや人の中のサタンの醜さを変えていない。そのため神は次のように言われる。「人となった私の肉体は死の苦しみを経験したが、それは受肉の目標のすべてではなかった。イエスは私の愛する子で、私のために十字架にくぎで打ちつけられたが、彼は私の働きを完全には終了しなかった。彼が行ったのはほんの一部であった。」したがって、神は受肉の働きを続行する計画の第2回目を開始された。神の最終的意図は、サタンの手から救われたすべての人を完全なものにし、味方にすることであり…

(『言葉は肉において現れる』の「業と成長(6)」より)

3.イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救いの)計画全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の計画を続行する。今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。…イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。

(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

4.人間は、神を信じているのであれば、神の足取りに緊密かつ段階的に追随する必要がある。人間は「子羊が行く場所であれば、どこへでもついて行く」必要がある。そうした人々のみが真の道を求める者であり、聖霊の業を知る者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の業により既に排除された者である。各期間において、神は新たな業を開始し、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」ないし「イエスはキリストである」といった、ある1つの時代のみに該当する真理のみに従うのであれば、人間は聖霊の業と足並みを揃えることは決して出来ず、聖霊の業を得ることは永遠に出来ないであろう。神がどのように業を行うかを問わず、人間は全く疑うこと無く、緊密に付き従う。このような場合、どうして人間が聖霊により排除されることがあろうか。神がどのような業を行うかを問わず、それが聖霊の業であることを人間が確信し、人間が何も疑わずに聖霊の業に協力し、神の要求を満たそうとする限りにおいて、どうして人間に罰が与えられることがあろうか。神の業は嘗て一度も停止したことが無く、神の足取りは立ち止まったことが無い。また神の経営の業の完了前、神は常に多忙にしており、休んだことが無い。しかし、人間はそれと異なる。人間は、わずかに聖霊の業を得て、それが決して変わらないかのように扱う。人間は、わずかに知識を得て、立ち上がってそれよりも新しい神の業の足取りに追随しない。人間は、わずかに神の業を見て、神を特定の木の人形として即座に決めつけ、神は常に人間の見る形であり、従前も今後も常にそのような形であると考える。人間は、表面的な知識だけを得て、有頂天になって自分自身を忘れ、全く存在しない神の性質や在り方をみだりに主張する。そして聖霊の業の1段階に固着して、神の新たな業を宣言するのがどのような人間であれ、人間はそれを受け容れない。そうした者は聖霊の新たな業を受け容れることが出来ない者である。そうした者は保守的すぎて、新しい物事を受け容れられない。そうした者は、神を信じているが、同時に神を拒否している者である。人間は、イスラエルの民が「ヤーウェのみを信じてイエスを信じなかった」のは誤っていると考えるが、殆どの者が「ヤーウェのみを信じてイエスを拒絶する」役そして「メシアの再来を待ち望み、しかしイエスというメシアに反対する」役を演じている。それならば、人間が聖霊の業のうちひとつの段階を受け容れた後も、依然としてサタンの領域で生活し、依然として神の祝福を受けていないことに、何の不思議も無い。これは、人間の反逆性の結果ではなかろうか。…最後まで子羊の足取りに追随する者のみが、最後の祝福を得ることが出来るが、そうした最後まで付き従えないにもかかわらず、自分が全てを得たと考えている巧妙な者は神の姿の証しに立つことが出来ない。そうした人々は全員、自分が地上で最も賢いと信じており、何ら理由なく神の業の継続的な展開を中断させ、そうした「神に対する至高の忠義があり、神に付き従い、神の言葉を遵守する」自分を、神は天に引き上げられると、完全な確信を持っているようである。そうした者は、神の言葉に対して「至高の忠義」があるにもかかわらず、言動が極めて忌まわしい。なぜなら、そうした者は聖霊の業に反対し、謀略や邪悪をはたらくからである。最後まで付き従わない者、聖霊の業から遅れる者、旧来の業に固執する者は、神への忠誠を満たせなかったどころか神に反抗する者となり、新たな時代に拒否され、罰を受ける者となっている。それ以上に哀れなことがあるだろうか。

(『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より)

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