キリストの言葉の記録

目次

神の義なる性質を理解するには

人は、その霊により、いくつかの種類に分類することができる。ある人々は人間の霊を持っており、その人々はあらかじめ決まった方法で選ばれている。人間の霊には、あらかじめ定められた部分がある。ある人々はそもそも霊を持たない。この人々はこっそりと紛れ込んでいる悪魔である。彼らは神により運命づけられておらず、選ばれていない。彼らは入って来たが、救われることはできず、ついには悪魔によって引き離される。人が神の働きを受け入れるかどうか、彼がどのような道を選ぶのか、または人がそれを受け入れた後に変わることができるかどうかは、その人の内なる本性により決定される。どうしても道を踏み外してしまう人もいる。彼らの霊が、彼らがその種類であることを決定する。彼らは変わることができない。ある人々は、正しい進路をとらなかったために、聖霊は彼らのうちに働くことをやめてしまう。その人たちが立ち戻れば、聖霊は神の業を続けることができるが、立ち戻ろうとしないなら、彼らは完全に滅びることになる。さまざまな状況がある。どうすれば、人が神の義なる性質を理解できるだろうか。人はどうやってこの義を知るに至ることができるだろうか。義人は神の恵みを受け、悪人は神の呪いに直面する。これこそ神の義ではないか。本当にそうだろうか。あなたがたに聞いてみたい。もし義人が神の恵みを受けておらず、得ることもできず、神が彼に恵みを与えず、反対に悪人が家産に富み、多くの子どもに恵まれ、すべてが順調にうまく行くとしたら、これは神の義なのだろうか。 その通りである。このことをどのように説明できるだろうか。神は善に報い悪を罰し、各人は自分の行為に従って報いを受けると言われるが、これは正しいのだろうか。次のようなことがあったとする。神を敬う人が殺される、または神から呪われる、あるいは神が彼を祝福せず、または彼に関心を払わず、さらなる礼拝も無視される。一方に悪人がいる。神は彼を祝福せず、罰することもないが、彼の家産は豊かで、大勢の子どもがおり、すべてが順調でうまく行く。ある人々は言う。「神は義ではない。我々は神を敬っているのに、神の恵みを受けていない。それなのに、神を礼拝せず、神に逆らう悪人が、すべてにおいて我々より恵まれており、我々より高みにいる。神は義ではない」このことから、何が分かるだろうか。今あげた二つの例のうち、どちらが神の義を表しているだろうか。ある人々は言う。「これらはどちらも神の義である」と。なぜそう言うのだろうか。人々の、神の性質についての理解は間違っている。人間のすべての認識は、その人の考えやものの見方、損得の観点、善悪または正邪の観点、または論理的観点の内部にとどまる。これらの観点を持ちながら神を知ろうとするなら、神と一致する方法はなく、尚も神に抵抗し、不平を言い続けることになる。ある乞食がいて、彼は愚か者であるように見えた。彼は神を敬うことのみを知っていたが、神は彼を無視するのみで、彼に恵みを与えなかった。あなたがたはこのように思うかもしれない。「来たるべき世で神が彼に恵みを与えなかったとしても、神は必ず彼を永遠に祝福し、一万倍にもして彼に報いるだろう。それにより神が義とならないだろうか。あの金持ちは、百倍の祝福を享受しているが、永遠に滅ぼされる。これもまた神の義ではないだろうか。」人はどうすれば、義を理解できるのだろうか。たとえば、神の働きを知ることを考えてみよう。神が恵みの時代までしか働かず、その働きのこの最終段階を完成させず、すべての人々が滅びたとして、そこに神の愛があるだろうか。神を敬う人が火と硫黄の池に投げ込まれ、神を敬わない、あるいは神を知らない人をそのままにしておくことを神が許すとしたら、これをどう説明できるだろうか。ここに義はあるだろうか。人々は教義の理解についてばかり語る。しかし現実を見ると、そこには混乱がある。なぜ神は人を愛していると言い、また神は義であると言うのか。このことについて完全に理解する必要がある。人間の観念に基づいて言うなら、神は義なるゆえに、善は報いられ、悪は罰せられ、悪人は良い報いを受けることはなく、悪を行わないものはすべて良い報いを受け、祝福されるべきである。人は自分にふさわしいものを受けるべきであり、人が自分に原因が帰されるものを受け取るときにのみ神が義であると言われるように見える。人が自分の取り分を得ないとしたらどうだろう。そのとき神は義でないと言うべきだろうか。この時代の人々が、神が前の時代に人類を創造したと記した書物にその説明を見ようとしたとしよう。数千年後、神は人々が自覚することもなく堕落したのをご覧になり、彼らを救う気にならず、そのため彼らを滅ぼされる。このことをどう見るだろうか。神には愛がないと言うだろうか。前の時代に神が人々を滅ぼしたので、神には愛がないと人々は思う。神を知る認識は人間の物の見方にもとづいて神についてあれこれ言うことではない。人間が物を見る見方には真理はない。神の本質は何か、神の性質は何かを理解する必要がある。神が行ったこと、またはかかわったことの外的事象にもとづいて神の本質を見てはならない。人類はそれ自身、サタンによって堕落させられているのである。人間は基本的に、その本性が何であるか、または堕落した人類が神の前に何であるか、またはそれがどのように扱われるべきであるかが分からない。神に恵みを受けた義なる人であるヨブのことを考えてみよう。これが神の義である。ヨブは試みを受け、サタンはヤーウェと賭けをしてこう言う。「なぜヨブはあなたを敬うのでしょうか。それはあなたが彼にあのような報いを与えたからです。あなたが彼からそのすべてを取り上げたら、彼はそれでもあなたを敬うでしょうか。神ヤーウェは言った。「彼の命をとらない限り、お前の望む何をしてもよい」サタンはその後ヨブのところに行き、ヨブは試みにあった。彼の持っていたすべてははぎ取られ、彼の子どもたちは死んだ。ヨブの試みのうちに、神の義なる性質は含まれているだろうか。含まれている。どこに含まれているだろうか。あなたはそれを説明できない、そうではないか。あなたが義なる人であっても、神にはあなたを試み、あなたを神の証しとする権利がある。神の性質は義である。神は皆を平等に扱う。それは、義人は試みに耐えることができるから彼は試みを受ける必要がなく、守られる必要があることを意味するのではない。これはそういうことではない。神には人を試みる権利がある。これが神の義なる性質の説明である。結局、ヨブが試みを受け、ヤーウェを証ししたあと、神は彼を前にも増して祝福し、以前に倍するよりよい恵みをお与えになった。さらにヤーウェは、まるでヨブが神に直接会ったかのように、彼の前に現れ、風の中で彼に語った。これは彼に与えられた恵みではないか。これが神の義である。もしこれが逆であったらどうだろう。ヤーウェはヨブがそれらの試みを受け入れ、サタンの前で神を証しし、サタンを辱めるのを見た。しかしヤーウェは彼を無視し、背を向けて立ち去った。その後ヨブは恵みを得なかった。ここに神の義はあるだろうか。ヨブが試みの後で恵みを受けたかどうか、またヤーウェが彼の前に現れたかどうかにかかわらず、このすべてに神の善なる意志が含まれている。彼の前に現れるのも神の義なら、彼の前に現れないことも神の義なのである。創造の一部である人間が、何を根拠に神に要求するのか。人間には、神に要求する資格はない。神に要求するのはもっとも理不尽なことである。このように、神はご自身が望むことをし、またしない権利がある。神にはこれらのことをご自身のみで処理する権利がある。神ご自身の性質は義である。義は決して、一つのものを二つに切り分け、働きの量に応じて保障したり、働きの量の分支払ったりすることによって偏りがなかったり合理的だったりするのではない。それは神の義ではない。あなたは、各人が自分の役割を果たし、なされた働きに応じて分配され、各人の成果に応じた分を受け取ること以外に義はないと考える。神が、ヨブが神を証ししたあとに彼を滅ぼしたとしよう。この場合でも神は義である。なぜ彼が義であるというのだろうか。なぜ、神はこれをするから義である、などと言うのか。あることが人間の観念と一致した場合に神は義であると言うことは非常に簡単だが、人間の観念と一致せず、人間が理解できないことを義であると説明するには、多大な努力が必要になる。神がこのときヨブを滅ぼしたとしたら、人々は、神は義であるとは言わないだろう。言ったとしても、「神ヤーウェはまあダメではない」と。実際、人々が神によって滅ぼされるとして、その人々が堕落していたかどうかにかかわらず、神は人々に対して彼らを滅ぼす理由を説明する必要があるだろうか。神が人々を滅ぼす根拠を彼らに説明すべきだろうか。もちろん、そんな必要はない。そうではないか。滅ぼすにあたって、有益な人間を残し、役立たずの人間を滅ぼすといった原則に基づくべきだろうか。その必要はない。神の目から見れば、堕落した人間を神はどのようにでもすることができる。どのようになされたとしても適切であり、全ては神のご計画のうちにある。神の目にかなわなければ、あなたは証しした後でも役立たずであり、滅ぼされる―これは義であるのか。これは義である。実際には、このことを理解するのは簡単ではないが、原則として理解する必要がある。神がサタンを滅ぼすことは義だろうか。もし神がサタンをそのままにしておいたらどうだろうか。はっきり言えないかもしれない。どうしてそれが義でありうるのか。神の本質は義である。神のなさることを理解するのは簡単ではないが、神のなさることはすべて義なのである。単に人間には理解できないだけである。このことははっきりしている。神がペテロをサタンに与えたとき、ペテロがどう答えたかをあなたは知っている。「人はあなたがなさることを理解することはできませんが、あなたがなさるすべてのことに、あなたの善なる意志が含まれています。あなたのなさることすべては義です。あなたの賢明なわざをほめたたえずにいられるでしょうか」神がサタンをすぐには滅ぼさないことによって、サタンがどのように人々を堕落させ、どのように神が人間を救われたかを理解できることに注目する必要がある。サタンが人間をどこまで堕落させ、サタンの罪のリストがどう天に達するかを人間が理解した後で初めて、神は最終的にサタンを滅ぼされる。それにより人々は神の義と神の性質を理解できるからである。神のなさることはすべて義である。そのことに気づかないとしても、好きなように判断を下してはならない。それが理不尽に見えたり、それについて何らかの観念を持っていたりするからといって神が義でないというなら、それこそ最も理不尽なことである。今、負の例をいくつか上げたが、あなたがたはあえて語ろうとしない。ペテロは理解できないことに出会ったが、そこに神の知恵が存在すること、神の善なる意志がそのすべてにあると確信していた。人間はすべてを理解することはできない。あまりにも多くの理解できないことがある。神の性質を知ることは、まったく簡単なことではない。

ある人々は本を焼き、直接罰せられた。ある人々は神を有罪と宣言して罰せられた。この種の例は多々ある。信じたばかりの人がこれらのことを聴くと、観念があるために受け入れることができない。神はその人が無知な状態であることをご覧になり、何の注意も払われない。神がこれを解決できないと思うだろうか。長年の信者がこのようであったら、彼らがどんなに長い間神と繋がり、神に従って来たとしても、許容できることではない。新しく信じるようになった人は傲慢で横柄で、神は彼ら注意を留めない。そのことにいつの日か自分自身で気づく必要がある。長い年月をかけてなお観念を捨てず、冷笑し、嘲笑い、よそよそしい態度をとり、あちこちで観念をまき散らすなら、その報いを受けることになる。一部のことについては、愚かで無知でも許されるが、知っていながらわざとそのようにふるまい続け、何があっても聞き入れないなら、罰を受けることになる。あなたは人々に情け深い神の側面しか知らない。神は人々からの侮辱を許さない面もお持ちであることを忘れてはならない。