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神の全能的側面と現実的側面をどのように理解するか

人と呼ばれる者は神を裏切ることができるが、我々はこのことから何を知ることができるのだろうか。「神は人をお創りになったのだから、人が裏切るのをやめさせることがおできになるのではないですか。なぜ人は未だに神を裏切ることができるのでしょう。神は全能のお方ではないのですか。」と尋ねる人もいる。これは問題ではなかろうか。この論点にどのような問題を見いだすことができるだろうか。神は現実的側面を持っておられるが、同時に全能的側面もお持ちである。人は、サタンによって堕落していなくとも、神を裏切ることができた。人と呼ばれる者には、それぞれ自らの主観的意思はない。人が神を礼拝し、サタンを拒絶して、その邪悪さとの関連を持つべきでないこと、人が神に従うべきであること、神が真理、いのち、そして道をお持ちであり、神を侮辱することはできないこと…これらは人の心の中に存在するものではなく、ましてや人はサタンの性質を理解し得るものは持っていない。はじめに人は心の中には何も持っておらず、いつどこでも神を裏切ることができた。サタンによって堕落し、心の内に邪悪な物を持つようになった今日の人々は尚のこと、より簡単に神を裏切ることができる。これは問題である。この問題から何がわかるだろうか。神は全能的側面をもっておられ、現実的側面も持っておられる。神の現実的側面のみを見て、全能性を見ることができなければ、容易に神を裏切り、神を単なる人として見なすようになる。神の全能的側面を見ていても、現実的側面を見ることができなければ、容易に神に逆らうようになる。神のいずれの側面も見ることができないならば、神に逆らうことはより簡単になる。このため、「神を理解することはこの世で一番難しいことではないか」と言われているのである。人が神を理解すればするほど、神の御心と神がなされる事すべての重要性を理解するようになる。しかし、人に神を理解するよう求めても、現実はどうか。人は決して神を完全に理解することはできないというのが現実である。神が現実的側面をお持ちであるにも関わらず、人が神を完全に理解することは不可能である。神はあまりにも偉大で、素晴らしいお方であり、理解するのは極めて困難である一方、人の思考力には限りがある。これが、神の前において、人間はいつも子供であると言われている理由である。

神が御言葉を与えてくださったり、何かを成し遂げてくださったりしても、人は常にそれらを誤解し、「神はなぜそのようなことをなさるのか。神は全能でおられるのに。」と考える。人の心の中には常に葛藤がある。神がこの世の苦しみを体験されたことについて、こう思う人もいる。「神が全能ならば、なぜこの世の苦しみを経験する必要があるのだろうか。この世の苦しみがどのようなものであるかすでにご存知ではないのか。神は全能ではないのか。それでも苦しみを経験する必要があるのか。」これは神の御業の現実的側面に関わるものである。神は、人の贖いが可能になるように十字架へのはりつけを耐えられた。それなのに、人は神を理解せず、「全人類を贖うなら、サタンに『私は全能の神である。人類を私から引き離そうとするのか。彼らを私に渡しなさい』と言えばいいだけだ。これら2、3言ですべてを解決できたのに、神はそうする権威を持っておられなかったのか。神が、人類は贖われた、人類の罪は赦されたと言うだけで事足りたのだ。そうすれば人には罪がなくなる。これらのことは、神の御言葉に影響を受けないのか。天と地、そしてすべての事柄が神の御言葉によって生み出されたならば、なぜ神はこの問題を解決できなかったのか。神ご自身がはりつけに処されなければならなかったのはなぜなのか。」と言い、神について疑念を抱く。ここでは、神の全能的側面と現実的側面の両方が作用している。神の現実的側面に関し、肉となられた神は、地上での33年半の間多くの苦難を耐え忍び、最後には血が枯れるまで十字架の上にはりつけにされた。神は最も過酷な苦しみを耐えられた後、死からよみがえられた。神の復活は、全能的側面ゆえのものであった。神は、何もお示しにならず、血を流したり、血の雨を降らせたりして、これが罪のための贖いであると言われることもなかった。そのようなことは何もなさらなかったが、その代わりに、人類がこの御業を知るように、自ら肉体を得、全人類と交わり、釘で十字架に打ち付けられた。この御業によって、人類は神が彼らを贖ってくださったこと、そして神がまさに人をお救いになったという証を知るところとなった。受肉によって成されるのか、霊ご自身が直接行われるのかどうかに関わらず、この御業は必要不可欠なものである。これは、この方法で物事を成すことにより、この御業が最も価値があり、重要なものとなったことを意味し、この方法で物事を成すことによってのみ、人はその恵みを享受することができることを意味する。これは、全人類が神の管理の対象だからである。人類はサタンに戦いを挑み、サタンを失墜させるために救われたと既に話した。実際に、これは人にとって最終的には良いことではないだろうか。人にとって、これは記念すべきことであり、最も価値があり、重要なことである。完全にされる者は、神に対する理解をもって苦難を切り抜いた者、神によって完全とされた者、そしてサタンの堕落に耐えた者であるから、この御業は間違いなくこの方法によって成されなければならない。神の御業のあらゆる段階においてどの方法を用いるかについての判断は、人類の必要に基づいている。神の御業は使い古された方法では成されないことは明らかである。しかし、人には選択肢があり、それぞれ独自の考えがある。例えば、十字架へのはりつけに関し、人々は「神が十字架にはりつけられたことが我々にどんな関係があるというのか。」と考える。人は自分に何ら関連がないと考えるが、神は人類を救うために十字架にはりつけられなければならなかった。これは当時最悪の苦難であったのではないだろうか。霊を十字架にはりつけることなどできたのか。霊が十字架にはりつけられたのならば、痛みを感じることはなく、神を象徴することができず、血を流すことも勿論できなかったはずである。霊は血を流すことができない。血を流すことができるのは肉体のみであり、神の尊い血は、罪に対する贖いの証であった。神の肉体は、罪深い肉体を模り、神は人類に代わって痛みに苦しまれた。霊を釘で十字架に打ち付けることはできなかったため、霊は人類に代わって痛みに苦しむことはできず、人の罪を贖うこともできない。これは人類のためになされたことで、神の現実的側面である。しかし、神にはこれを成すこと、そして人を愛することが可能であった。これは人が自ら達成することができないことであることから、神の全能性ゆえのものである。そのお方が神であり、神には全能的側面があると言われているのはなぜか。神の行われるすべての事柄には、神の全能性側面があり、現実的側面もある。神の全能性は神の本質であるが、現実的側面も神の本質のひとつであり、これら2つの側面を切り離すことはできない。神が現実の世界で行われた事柄は、神の現実的側面であり、この方法で物事を行うことが可能であったのは神の全能的側面によるものである。神の全能性という側面なくして、神が現実の世界で物事を行われ、神が現実的であり、それが神の現実的側面によるものであるとは言えない。あなたがたの解釈によると、これが規則となる。これは神の全能的側面と現実的側面の両方なのである。神のなされるすべての事柄には全能的側面と現実的側面の両方が含まれており、すべては神の本質に基づいて成される。これは神の性質の現れであり、神の本質と神が何であられるかの現れである。人々は、この恵みの時代、神が憐みと愛に満ちておられると考えているが、怒りもまだお持ちである。パリサイ人とユダヤ人全員に対する神の裁きとのろい…これは神の怒りと義ではなかったであろうか。恵みの時代において、神が憐みと愛に満ちておられ、基本的にお怒りにはならず、裁きものろいもないと言うことはできない。これは神の御業を理解しない人々が言うことである。その時代の神の御業は、すべて神の性質の現れである。神の行われるすべての事柄で、人が目にすることができるものは、ご自身こそが神であり全能であること、そしてご自身こそが神の本質をお持ちであることを証明するためのものである。この段階における神の裁きと罰は、神に憐みと愛がないことを意味するのであろうか。神は今も憐みと愛を持っておられる。ひとつの表現だけを使う、または1、2文だけを使って神の本質と性質をまとめようとするならば、それはいかにも無知な行為である。神を理解していないのだ。中には「神を理解することについての真理を話してください。分かりやすく説明してください」と言う人もいる。神を理解する人ならば、何と言うべきか。「神についての理解は、極めて深いものです。1、2文で表したり、1、2日話すことで理解できたりするものではありません。」これを知ることは、神についていくらか理解したことにはなるが、人が神を完全に理解することはできない。傲慢な人、神を理解しない人はこう言うであろう。「私はもちろん神がどのような神であられるか知っています。私は神を知っており、神を理解しています。」人にはまだ経験したことがない事柄があり、見たことのない事実がある。このため、それらについて真の理解を得ることはできず、真の経験を得ることもできない。つまり彼らは、これらの事柄が非常に抽象的なものであると感じるであろう。理解しない者に聞こえる唯一の事柄は一種の解釈であり、彼らは教義的な理解は得ても、真の理解は得ない。理解できないからといって、それが真実ではないわけではない。その経験をしたことがない者にとって、これらの事柄が実際には全く抽象的ではなくても、抽象的であり難解であるように見受けられる。真の経験を得れば、神の御言葉がどのような文脈によるものかを知り、神がお話しになるあらゆる事柄、見解、そして側面がどのような状態についてのものか、そして何を指しているのかを知り、その上で、内面的な印象に基づいて理解した事柄を述べることができるのである。言葉を聞くだけならば、実質的な理解が全くないならば、そして心に残るものが何もないならば、御言葉を受け入れにくいと感じ、受入れたとしても、まだ単なる一種の解釈だと感じるであろう。これは、もっぱら経験するものであり、習得できるスキルや知識によるものではない。人類すべてを贖うこと、人類の罪のすべてを贖うこと、これが神の全能的側面である。神は何もせず単に座っているだけで、ご自身を全能だと言われるのではない。神の全能性には、現実の世界で行われた事柄が含まれる。この御業を行うことによって神は人々を征服され、人々は神の御前にひざまずき、神に従うことができるようになる。神の全能性または現実性のどちらかが欠けた状態で、神のひとつの側面のみが語られる時、人は神を理解することはできないであろう。神はこの2つの側面から同時に理解されなくてはならない。神は現実の世界で御業を行われ、ご自身の性質と、ご自身が何であるかを示される。神は人がなせない事柄のすべてを行うことがおできになる。これは神の全能性に関わるものである。神がこの御業をご自身でなされることは神の現実的側面であり、これら2つの側面は一体となって作用する。神が話される御言葉には全能的側面が含まれ、神はご自分の権威をお使いになって、成就すると言われることを成就される。その結果は言うまでもない。これらの御言葉を話されるとき、神の全能性が明らかにされるのである。このことを忘れないでいただきたい。神ご自身の本質は全能性と現実性の両方であり、これら2つの側面が互いを補うのである。神のなされる事柄のすべてが神の性質の現れであり、神が何であられるかの啓示である。神が何であられるかには、神の全能性、義、そして威厳が含まれる。例えば、律法の時代、神はヨナにニネベに行くように言われたが、これは神に現実的側面があることを証明している。しかしヨナはこれを聞き入れず、最後に彼が3日間大きな魚の腹の中で生き延びたことは、神の全能性による御業であった。神がヨナになされたことは、神が全能であられることを明らかにしている。初めから終わりにかけての神の御業は、神ご自身の本質の啓示であり、神が何であられるかの現れである。神の本質には2つの側面がある。ひとつは全能的側面、そしてもうひとつは現実的側面である。これら2つの側面は神の御業のあらゆる段階に見られ、神のなされること全てにこれら2つの側面があることがわかるだろう。これは、神を理解するためのひとつの方法である。

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