全能神教会 アプリ

神の声を聞き主イエスの再臨を喜んで迎えなさい!

真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

全能神、終わりの日のキリストの代表的な言葉

ソリッドカラー

テーマ

字体设置

字体调整

ラインスペース

ページ幅

0 件見つかりました

一致する内容が見つかりませんでした!

VI 神の性質と神が何を持ち、神が何者であるかについての代表的な言葉

人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

 神が万物を造ったのだから、全ての被造物が神の支配の下に帰し、神の権威の下に従うようにする。また神は万物を采配し、万事が神の手の中にある。動物、植物、人類、山や川、湖を含む、あらゆる被造物が神の権威の下に帰さなくてはならない。天の万物と地上の万物が神の権威の下に帰さねばならない。他に選択肢はなく、皆が神の指揮に従わなければならない。これは神によって定められたことであり、神の権威でもある。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

 神はすべてをつかさどっていて、万物を整えて秩序立て、神の心に沿って、万物をその種類に従ってそれぞれの場所に配置した。どのような大きなものでも、神に勝るものは存在せず、万物は神の造った人類に仕え、あえて神に逆らったり神に何か要求したりするものは一つもない。よって人も、被造物としてその本分を尽くさなければならない。人が万物の主人であろうが支配者であろうが、また万物の中で人の地位がどれほど高かろうが、所詮は神の支配下における小さな一人の人間であり、小さな人間または被造物以上ではなく、決して神を超えることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

 神はこの世を創造し、神がいのちを授けた生ける存在である人を、この世にもたらした。次いで、人は両親や親族を持つようになり、もはやひとりぼっちではなくなった。最初にこの物質世界を目にして以来、人は神の定めの範囲内で存在するように運命づけられた。生けるものひとりひとりを成人になるまでの成長を通じて支えるのは、神からのいのちの息である。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

 この世に(生まれ)はみな、生と死を経験しなければならず、多くの者が死と再生の循環・輪廻を経験した。生ける者は間もなく死に、死せる者は間もなく返ってくるだろう。これはすべて、それぞれの生けるもののために神によって定められた人生の行路なのである。しかしながら、この行路とサイクルとは、神が人に見てほしいと願っている事実、また神によって人に授けられたいのちは無限であり、肉体、時間、空間の拘束を受けないという事実なのである。これは神によって人に授けられたいのちの奥義であり、いのちが神から来たことの証しなのである。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

 神の業を認識できるかどうか、神の存在を信じているかどうかにかかわらず、あなたの運命は神の定めるところであって、神が永遠にあらゆるものの支配権を持ち続けることに疑いはない。神の存在と権威とは、人間に認められ理解され得るかどうかによって左右されるものではない。神だけが人間の過去・現在・未来を知り、神だけが人類の運命を定めることができる。この事実を受け入れられるかどうかに関りなく、人類は近い将来、これらのことすべてをその目で見ることになる。そして、これは神が間もなく実現する事実である。人類は神の目の下で生き、死ぬ。人類は神の経営のために生きているのであり、その目が最期に閉じる時もまた、神の経営のためなのである。人間は何度も何度も来ては去り、行き来を繰り返す。例外なく、これはすべて神の支配し、定めていることである。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

 神はこの世界を創造し、この人類を創造した。また、それだけではなく、神は古代ギリシア文化ならびに人類文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の支配と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画と切っても切れない関係にある。

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

 神は永遠に至高かつ高潔な方であり、人は永遠に下劣で、価値もない。これは、神が永遠に犠牲を払い、人類のために自身を捧げているからである。しかし人は、自分の為にしか求めたり働いたりしない。神は人類の存在のために永遠に働いているが、人が光や義に寄与することは全くない。人が一時期働いたとしても、それは弱く、ささいな不幸にも耐えることができない。人の働きは常に自分のためであって他の人のためではないからである。人は常に利己的であるが、神は永遠に無私無欲である。神は公正なもの、良いもの、そして美しいもの全ての源であるが、人は醜いものと邪悪なもの全ての継承者であり、表現者である。神が自身の義と美しさの本質を変えることは決してないが、人はいつでも義を裏切り、神から遠く離れてしまうことができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より

 神には神であるすべてと自身が持っているものがある。神が表し、明らかにするものは、全て神の本質と神の身分の現れである。神であるすべてと自身が持っているものに加え、神の本質と身分は、人が取って代えることができるものではない。神の性質には、神の人類への愛、人類への慰め、人類への憎しみが包含され、そしてそれ以上に人類に対する完全な理解が包含されている。しかし、人の性格は楽観的、活気的、または無神経である。神の性質とは、万物と全ての生けるものの支配者、全ての創造物の主に属するものである。彼の性質は尊厳、権勢、崇高さ、偉大さ、そして何よりも至高性を表す。彼の性質は権威の象徴であり、全ての正義の象徴であり、また、全ての美と善の象徴である。さらに、それは暗闇やいかなる敵の勢力にも圧倒されず、侵害されることのない者の象徴であり、同時に、いかなる被造物も背くことができない(そして背くことが許されない)者の象徴である。彼の性質は最高権力の象徴なのである。一個人であれ複数であれ、いかなる人間も神の働きや性質を阻害できないし、阻害してはならない。しかし人間の性格は、動物よりもわずかに優位であることの象徴に過ぎない。人間は、自身の中にも自身においても、何の権威も自主性も、自分自身を超越する能力もないが、本質的に、様々な人々、出来事、または物に振り回されて怖じ気づく者である。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より

 神であるもの、神がもつものは永遠に無尽蔵であり、無限であるということである。神は生命と万物の源である。神は、創造物が想像し得ないものである。

『言葉は肉において現れる』の「あとがき」より

 人が存在するようになった日から、神は着実に自分の働きを行い、この宇宙を経営し、万物の変化と動きを指揮してきた。万物と同様に、人は神から甘い養分と雨と露を、そっと、知らないうちに、受け取っている。万物と同様に、人は知ることもなく神の手による采配の下で生きているのである。人の心と霊は神の手の中にあり、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、生けるものも死せるものも、ありとあらゆるものが、神の思いによって、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

 神は人間の政治に参加しないが、国または民族の運命は神によって支配されている。神はこの世界と全宇宙を支配している。人の運命と神の計画は密接に関連しており、誰もどの国も民族も神の支配から免れない。人間の運命を知りたいなら神の前に来なければならない。神は神に従い、神を崇拝する人々を繫栄させ、抵抗し、拒絶する人々に衰退と絶滅をもたらす。

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

 宇宙で起こるすべてのことの中で、わたしが最終的な決定権を持たないものはない。わたしの手の中にない存在などあるだろうか。わたしの言うことはすべてその通りに進み、人々の中にはわたしの心を変えられる者はない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第一章」より

 神の国は人間たちの間で拡大している。神の国は人間たちのただ中で形作られている。神の国は人間たちのただ中で建て上げられている。わたしの国を滅ぼすことのできる勢力はない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十九章」より

 わたしと共にあれば、全てが安定し、安全である。わたしと共にあれば、ほんの少しの努力を費やすこともなく、全てのことが適切かつ正しく行われるであろう。わたしが話せば、それは確立され、わたしが話せば、それは成し遂げられる。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第七十五章」より

 わたしは初めであり、終わりである。わたしは復活した完全なる唯一の真の神である。わたしはあなた方の前でわたしの言葉を語る。そしてあなた方はわたしが言うことを固く信じなければならない。天地は滅び行くが、わたしが言うことの一点、一画としてすたれることはない。これを憶えておきなさい!憶えておきなさい!

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第五十三章」より

 この世界にあるすべてが、全能者の考えと共に、全能者の目の下で、急激に変化している。人類が決して聞いたこともない事柄が、突然到来することがあり得る。なおかつ、人類が常に所有してきたものが、知らないうちに消え去ってしまう。誰も全能者の所在を推し量ることはできないし、さらに全能者の生命力の超越性や偉大さを感じることはできない。人には知覚できない事を知覚できるところに神の超越性を見ることができる。人類によって捨てられたにもかかわらず人類を救うところに、神の偉大さを見ることができる。神は、生と死の意味を知っている。それだけでなく、神は自身が創造した人類の生きる上での規則を知っている。神は人類の存在の基礎であり、人類が再び復活するための贖い主である。神は幸せな心に苦痛という重荷を加え、悲しみの心を幸福で引き上げる。これら全てが彼の働きのためであり、彼の計画のためである。

『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より

 あなたが産声を上げてこの世界に生まれて来たその瞬間から、あなたは自分の責任を果たし始める。あなたは、神の計画と神の定めにおいてあなたの役割を担う。あなたは人生の旅路を始めるのである。あなたのこれまでの背景がどうであろうと、あなたのこれからの旅路がどのようなものであろうと、天が備えた指揮と采配を逃れることができる者はひとりもおらず、自分の運命を支配できるものは一人もいない。それは、万物を支配する神のみが、そのような働きを行うことができるからである。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

 人の運命は神の手によって掌握されている。あなたは自分自身を掌握することはできない。いつも自分自身のことであくせく動き回っているのにもかかわらず、人は自分自身を掌握することができないままでいる。あなたがもし自分の前途を知ることができ、自分の運命を掌握できるなら、それでもあなたは被造物だろうか。端的に言うと、神がどのように働いたとしても、彼の働きはすべて人間のためである。たとえば、人に仕えるために神が造った天、地、そして万物──神が人のために造った月、太陽、星など、また動物や植物、春、夏、秋、冬など──はすべて人が生存するために造られたのである。したがって、神がどのように人を罰し、裁くにしても、それはすべて人の救いのためである。神が人から肉的な望みを剥奪したとしても、それは人を清めるためであり、人の清めは人の生存のためである。人の終着点は造り主の手の中にあるのだから、人はどうして自分自身を掌握できるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行くこと」より

 世界の創造以来、わたしはこの一群の民、すなわち今日のあなた方を予め定め、選び始めた。あなた方の気質、力量、外見、霊的背丈、あなたが生まれた家族、あなたの仕事と結婚、あなたの全て、あなたの髪や肌の色、またあなたが生まれた時間さえも、すべてはわたしの手によって定められたのである。あなたが為すことや、あなたが日々出会う人たちさえ、わたしの手によって定められており、今日あなたが私の前に来たのも、実際、わたしの采配であるという事実は、言うまでもない。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第七十四章」より

 わたしの口からのことばなしに、誰が生き延びることができるのか。誰が、わたしの憤りの目の下に倒れ伏さないでいるのか。わたしが全地の上に新たな働きを行うとき、誰がそれから逃れることができただろう。山々は高いからといって、それを避ける事ができるのだろうか。水は膨大な広がりがあるからといって、それを避けることができるだろうか。わたしの計画では、けっして被造物を軽々しく手放しはしない。だから、一人の人間も、一つの被造物も、わたしの手を逃れたものはない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十三章」より

 わたしは赤い大きな竜のすみかに新たな始まりをもたらしたばかりではなく、全宇宙で新たな働きを始めた。間もなく、地上の国々がわたしの国となる。間もなく地上の国々はわたしの国故に永遠に存在しなくなる。わたしがすでに勝利を得たのだから。わたしが勝利のうちに戻ったのだから。赤い大きな竜は、地上でのわたしの働きを打ち消そうと、わたしの計画を妨げるために考え得るあらゆる手段を用いたが、わたしが竜の欺きに満ちた策略のせいでくじけるだろうか。わたしが竜の脅しに怯え、自信を失うだろうか。天にも地にも、わたしのたなごころの内にないものは一つもない。赤い大きな竜、わたしの引き立て役となっているものは、なおさらではないか。これもまた、わたしの手で操れるものではないのか。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十二章」より

 神は時間に制約されることはない。神の働きと栄光が優先される。それ故、どれだけ時間がかかろうとも、神自身の働きに関しては、いかなる犠牲をもいとわない。これが神の性質である。その働きが成し遂げられるまで神は休むことがない。神が二つ目の栄光を獲得する時初めて、その働きは終わりを迎えることができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より

 神の性質は人の性格とは異なるため、これは極めて抽象的に思われ、簡単には受け入れられないテーマである。神もまた、喜び、怒り、悲しみおよび幸せといった感情を持つが、このような感情も人のそれとは異なる。……神の喜びとは、正義と光の存在と現れによるものであり、暗闇と邪悪の消滅の故である。彼は、人類に光と良い生活をもたらしたことを喜ぶ。彼の喜びは正義の喜びであり、あらゆる肯定的なものの存在の象徴、そして何よりも吉兆の象徴である。神の怒りは不義の存在と、それが引き起こす混乱が神のものである人類を害していることによるものである。それは邪悪と暗闇の存在、また、真理を駆逐するものの存在の故であり、そしてそれ以上に、良いものと美しいものに反する物の存在の故である。彼の怒りは、全ての否定的な物事がもはや存在しないことの象徴であり、さらには、彼の聖さの象徴である。彼の悲しみは、彼が望みを持っているにも関わらず暗闇に落ちた人類によるもので、彼が人のためにする働きは彼の期待にかなわず、彼が愛する人類がみな光りの中で生活できるようになっていないからである。彼は罪のない人類、正直だが無知な人、そして善良だが自分の見解を持っていない人に対して悲しみを感じている。彼の悲しみは彼の善良さと憐みの象徴であり、美しさと慈愛の象徴である。彼の幸せは、もちろん彼の敵を打ち負かすこと、そして人の真心を得ることからもたらされる。さらに、それは全ての敵の勢力の駆逐と消滅、そして人類が良き平和な生活を得ることから生じる。彼の幸せは人の喜びとは異なり、良い実を集めるときの気持ちであり、それは喜びにまさる気持ちである。彼の幸せとは、人類が今後苦しみから解き放たれ、光の世界に入ることの象徴である。その一方で、人類の感情は全て己の利益の目的のために存在し、義、光、または美しいもののために存在するのではなく、ましてや天の恵みのために存在するものではない。人類の感情は利己的で暗闇の世界に属している。これらは神の心のためのものではなく、ましてや神の計画のためのものではないため、人と神が同等に語ることは決してできない。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より

 創造主の心は、人間の行動ひとつひとつに対し、ときめいたり、傷んだりする。創造主は、人間の邪悪と腐敗に対して怒り、苦しみ、悲しむ。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、寛大であり、喜ぶ。創造主の心は、いずれも人間のために存在し、人間がその中心にある。創造主の存在とその中にある物事は、すべて人間のために表出される。創造主の心は、人間の存在と密接に結びついている。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを与え、一分一秒を捧げるのは、人間のためである。創造主は、自らの命を哀れむことを知らないにもかかわらず、自身が造った人間を常に哀れみ、慈しむ。創造主は、自らの全てを人類に捧げる。創造主は、無条件に、かつ見返りを期待することなく、憐れみと寛容さを与える。彼がこうした業を行う唯一の目的は、人間が引き続き彼の前で生きることができるようにし、いのちを受けることができるようにすることである。何時の日か、人間が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための必要を施し、全てのもののいのちを与える存在であると認識出来るようにすることである。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 2」より

 東から稲妻が走るとき──これはまた、わたしが話し始める、まさにその瞬間である──稲妻が光るその瞬間、天空全体が照らされ、すべての星々が変化し始める。……再び、わたしの日が人類の上に迫り、再び、人類を目覚めさせ、人間たちは新たな始まりを迎える。わたしの心臓が拍動し、その鼓動にしたがって、山々が喜びに飛び上がり、水が喜びに踊り、波が律動し、岩礁を叩く。わたしの心にあるものを言い表すのは困難だ。わたしは、わたしの視線ですべての穢れたものが燃えて灰となり、不従順の子らがみな、わたしの目の前から一掃され、もはや存在しなくなることを望む。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十二章」より

 わたしは世界中でわたしの働きに着手した。世界の人々は突然目を覚まし、わたしの働きである核心の回りを動き、わたしが彼らの中を「旅する」時、すべての人はサタンの束縛を逃れ、サタンの苦痛の中で苦しむことがなくなる。わたしの日が到来するので、すべての人々は幸福感に満たされ、心の中の悲哀は消え失せ、空の悲しみの雲は空中で酸素に変わり、そこに浮かんでいる。この時、わたしは人間と共にいることの幸せを享受する。人の行動は趣を感じさせるから、わたしはもはや悲嘆に暮れない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第三十三章」より

 わたしの話が深くなる中で、わたしはまた宇宙のありさまも見ている。わたしの言葉によって、無数の被造物がみな新たになる。天は変わり、地も変わる。人間は本来の形を現し、ゆっくりと、それぞれ同じ種類のものたちと共に、それと知らぬ間に家族のもとに戻っていく。そこで、わたしは大いに喜ぶだろう。わたしは妨げられることなく、だれもそれと知らないうちに、わたしの大いなる働きは完了し、だれもそれと知らないうちに、無数の被造物は変化する。……ああ、不浄な古き世界。必ずや、わたしの言葉に倒れる。必ずや、わたしの計画で無になる。ああ、無数の被造物たち。あなたがたは、みな、わたしの言葉の内で新たないのちを得る。今、あなたがたには主がいるのだ。ああ、純粋でしみ一つない新たな世界。必ずやわたしの栄光の中でよみがえる。ああ、シオンの山よ。もはや沈黙するな。わたしは勝利の内に帰ってきた。創造の中から、わたしは全地を調べる。地上で、人間たちは新たな生活を始め、新たな希望を得た。ああ、わが民よ。どうして、あなたがたがわたしの光の中で復活しないでいられようか。どうして、あなたがたがわたしの導きの下、喜びに跳ね上がらないことがあろうか。地は歓喜の声を上げ、水は楽しい笑い声を響かせる。ああ、よみがえったイスラエルよ。わたしの約束をどうして誇りに感じないことがあろう。誰が泣いたのか。誰がうめき声を上げたのか。かつてのイスラエルは、もうない。そして、今日のイスラエルは立ち上がった、塔のようにまっすぐに、この世に、すべての人間の心の中に立ち上がった。今日のイスラエルは必ずや、わが民を通じて存在の源を得る。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十六章」より

 じつに何度も、人類がわたしの敵により堕落させられるのを見てきたわたしは、人間に期待することを諦めた。じつに何度も、人間がわたしの前に涙ながらに赦しを乞い求めに来るのを見たが、人間の自尊心の欠如と度し難い頑固さに、たとえ本心からのもので心からそうしているとわかっていても、わたしは人間の行いに対する怒りのため、目を閉じてきたのだ。じつに何度も、わたしは人間がわたしに協力するだけの信仰をもち、わたしの前で、わたしに抱擁されて横たわり、わたしの抱擁のぬくもりを味わっているかのようであるのを見ている。じつに何度も、わたしの選んだ人々の無垢さ、活発さ、愛らしさを見て、そうした様子にいつも、心の中で喜んできた。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十五章」より

 主イエスが洗礼を受け、正式に業を開始した時、神は、長年にわたり準備をして待ち続けた末、遂に普通の人間の身体を身に付けて、人々が見て触ることの出来る血と肉を持つ人の姿で新たな業を行うことが出来るようになったので、神の心は幸福で満ち溢れた。神はついに、人間の身分で、人間と対面し、心と心で話をすることができるようになった。神はついに、人間の言葉で人間として、人間と対面することが出来るようになった。神は人間に施し、啓きを与え、人間の言葉で人間を助けることが出来るようになった。神は、人間と同じ食卓で食事をして、人間と同じ空間で生活することが出来るようになった。また神は人間がするように、さらに人間自身の目を通して、人間を見、物を見、全てのものを見ることが出来るようになった。神にとって、これは神が受肉して行った業の最初の成功であった。また、これは大いなる業の成功であったと言うことも出来るであろう。無論、神が最も喜んだのは、この成功であった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 神が業の新たな段階を行う時、神は新たな始まりを迎え、この新たな業と新たな始まりが人間に採り入れられた時とは、この業の段階の結果が既に決定し、達成され、神は最終的な効果と実りを知っている時である。またこの時は、こうした効果により神が満足し、無論神の心は幸福である。なぜなら、神の観点から見ると、神は探していた人々を既に見て、決めており、この人々の集団を既に獲得しているからである。この集団は神の業を成功させ、神に満足を与えることができるので、神は確信し、懸念を払拭でき、幸福を感じる。換言すれば、神の身体が人間の中で新たな業を開始することができ、神が行う必要のある業を障害なく開始し、神が全て達成したと感じる時、神は既に終わりの時を見ている。その終わりの時のため、神は満足し、幸福な心でいる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 押し寄せる悲しみの感情をともなって、怒りがわたしの心の中で膨らむ。わたしの目が人々の行いやすべての言葉と行動を汚いものとして見る時、怒りが沸き上がり、わたしの心の中には人の世が不正に満ちているという思いが大きくなり、そのためわたしはいっそう悲しくなる。わたしは人の肉の姿を直ちに終わらせたいと熱望する。わたしはなぜ人が肉の姿の身を清めることができないのか、なぜ人が肉の姿の自分を愛することができないのかわからない。肉の姿の「役割」はそんなに大きいということなのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第二十七章」より

 わたしは人間世界の不当な行為を正すだろう。わたしは世界中で自らの手で働きを行い、サタンが再びわたしの民に危害を与えるのを禁止し、敵が再び好き放題に行うのを禁止する。わたしは地上の王になり、玉座を地上に移し、わたしの敵をすべて地面に倒し、わたしの前でその罪を自白させるだろう。わたしの悲しみの中に怒りが混じり合い、わたしは全宇宙を踏みにじって平らにし、誰も見逃さず、わたしの敵に恐怖心を起こさせるだろう。わたしは全世界を廃墟とし、敵をその廃墟に落とし入れるので、これ以降敵が人類を堕落することはもうなくなるだろう。わたしの計画はすでに決定しており、誰も、何者であろうとも、それを変えることはできない。わたしが全宇宙の上方を堂々と荘厳に歩き回る時、全人類は新しくなり、すべては復活するだろう。人はもはや嘆くことはなく、わたしに助けを求めて叫ぶこともなくなる。そのようになった時、わたしの心は大いに喜び、人々はわたしを祝うために戻って来るだろう。全宇宙は上から下まで喜びに湧きかえるだろう。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十七章」より

 わたしの憐れみは、わたしを愛し、自分たちを否定する者たちに現わされている。そして、悪い者たちにもたらされる懲罰はわたしの義なる性質の証明そのものであり、それ以上にわたしの怒りの証である。災いがやって来ると、わたしに反抗する者たちすべてに飢饉や疫病が降りかかり、彼らは涙を流す。あらゆる種類の悪事を犯してきたが、長年わたしに従って来た者たちは罪を免れることはできない。彼らも時代を超えて、ほとんど目にしたことのない災いのただ中で、絶えず恐怖と不安を抱き生きるだろう。そして、わたしだけに忠誠を示して従って来た人たちは喜び、わたしの力に拍手喝采する。彼らは言葉に表せないほどの満足感を体験し、わたしが人類にいまだかつて与えたことのない喜びの中で生活する。わたしは人の善行を宝とし、悪行を忌み嫌うからだ。わたしが初めて人類を導き始めたときから、わたしと同じ心を持った人たちの集まりを獲得することを熱望してきた。そして、わたしはわたしと同じ心を持っていない人たちを決して忘れることはなく、彼らに相応しい報いを与えて楽しむ機会を待ち望みながら、彼らを憎しみと共に心の中に持ち続けてきた。

『言葉は肉において現れる』の「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より

 神は赤い大きな竜の子孫をすべて憎み、赤い大きな竜をそれ以上に憎む。これが神の心の中にある激しい怒りの根源である。神は赤い大きな竜に属するすべてのものを炎の湖、地獄の業火に投げ込み、焼き尽くしてしまいたいように思われる。神が自ら手を伸ばして直接拭い取ってしまいたいように思われるときさえある──そうしなければ心の中の憎しみを消し去ることができないかのようである。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十三章」より

 神は久しくこの暗黒社会を骨の髄から忌み嫌っている。神は歯ぎしりし、この邪悪な老いたへびが再び立ち上がって人間を虐待する事の無いよう、そのへびを必死で踏みつけようとしている。神はそのへびの従前の行いを許さず、そのへびの人間に対する偽りを容赦せず、そのへびの遠い昔からの罪のひとつひとつに報復するであろう。神がその諸悪の首謀者に対して寛容となることは僅かばかりも無く、そのへびを完全に粉砕するであろう。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より

 わたし自身の経験から見ると、神に対して対抗的であればあるほど、神はその威厳ある性質をますます示し、神が「与える」罰も一層重くなる。神に従えば従うほど、神はあなたを一層愛し、守る。神の性質は拷問器具のようなものであり、従えば無事だが、従わず常に目立ちたがって悪さをするならば、神の性質は急変する。曇りの日の太陽のように、神は人から隠れて怒りを示すであろう。またそれは六月の天気のように、晴天が何里となく続き青い小波が水面に広がっているところへ突如として大きな威力で高波が立つ様子にも似ている。このような神の性質を知っていても、敢えて野放図に行動するのであろうか。聖霊が働くとき、兄弟姉妹は自信に満ちているが、神の霊は知らぬ間に兄弟姉妹を突然見捨て、不安で夜眠れずに神の霊が消えた方向を探し回るような状態へと陥れることは、殆どの兄弟姉妹が自らの経験で理解している。しかし、神の霊が何処へ行ったかはどうしても突き止められない。そして神の霊は知らぬ間に再び兄弟姉妹の前に現れるが、それはちょうどペテロが突然主イエスに再会した時に有頂天となって大いなる歓喜の叫び声を上げたときのようである。何度もそうした経験をした後も、忘れることが有り得るのだろうか。受肉して十字架に架けられた後に復活されて天に上った主イエス・キリストは、常にあなたから少しの間だけ隠れ、そしてまた少しの間だけ現れる。主はあなたの義ゆえにあなたの前に現れ、あなたの罪ゆえに怒り、あなたから去るのだから、主にもっと嘆願するべきである。

『言葉は肉において現れる』の「道……(7)」より

 わたしは燃えつくす火であり、侮辱に耐えることはしない。人間はすべてわたしから作られたのであるから、わたしのすべての言葉や行いに人々は従わなければならず、抵抗してはならない。人々はわたしの働きに干渉する権利はなく、特にわたしの働きや言葉の何が正しく何が間違っているかを分析する資格はない。わたしは創造の神であり、被造物はわたしに対し畏敬の念を持って、わたしが求めるすべての事を成し遂げるべきである。また、わたしに対し理を説くべきでもないし、抵抗はなおさらするべきではない。わたしは自らの権威をもって我が民を統べ、わたしの創造の一部を成す者はすべてわたしの権威に従うべきである。今日あなた方はわたしの前にあって大胆で厚かましく、わたしがあなた方を教えるのに用いる言葉に従わず、恐れを知らないが、わたしはただあなた方の反抗に耐えているだけである。取るに足らない蛆虫が糞の山で汚物を掘り返しているからといって、わたしは怒りを爆発させてわたしの働きに影響を及ぼすようなことはしない。わたしは父の旨のために、わたしが言葉を発し終えてわたしの最後が来るまで、忌み嫌うものすべてが存在し続けるのに耐える。

『言葉は肉において現れる』の「落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう」より

 あなたは既にわたしに仕える決意を固めているので、わたしはあなたを手放しはしない。わたしは悪を嫌う神であり、人間に嫉妬する神である。あなたは既に祭壇で誓っているのだから、わたしの目の前であなたが逃げ出すのを許さず、二人の主人に仕えることを許しはしない。わたしの祭壇で、わたしの目の前で誓った後に、別の者を愛せると思ったのか。そんな風にわたしを笑いものにするのを許すことなどあろうか。あなたは自分の舌でわたしの前に気軽に誓いを立てられるとでも思ったのか。最も高き座にいるわたしの前で、誓いを立てることなどどうして出来たのか。自分の誓ったことなどどこかへ消えていってしまったと思ったのか。言っておくが、たとえあなた方の肉体が消えようとも、あなた方の誓いは消えはしない。最後には、あなたの誓いによってあなたを罪に定めよう。それでもあなたは自分の言葉でわたしに対応できると考え、その心で穢れた霊と邪悪な霊に仕えることができると考える。わたしをそそのかす犬や豚同然の人間に対して、怒らずにいられるとでも言うのか。わたしは自らの行政命令を執行し、穢れた霊どもの手から、わたしを信じる、堅苦しく「敬虔な」者たちを奪い返さなければならない。彼らはわたしの役牛となり、馬となり、食肉処理してもらえるのを、整然と「待って」いる。あなたに以前の決意を思い出させ、もう一度わたしに仕えさせる。わたしはどんな創造物に対してもわたしをごまかすことを許さない。あなたはわたしに対して気まぐれに要求し、偽ることが出来ると思ったのか。あなたの言動を見聞きしていないとでも思ったのか。あなたの言動がわたしの目に触れないままであるはずなどない。そのようにわたしをごまかすままにさせることなどできようか。

『言葉は肉において現れる』の「あなた方の性格は卑しすぎる」より

 全能者であるわたしの目には、あなたがたの言葉と行いはけがれている。全能者であるわたしの目は、あなたがたの不義を無限の刑罰と見なす。どうしてわたしの義なる刑罰と裁きがあなたがたから離れるだろうか。あなたがたがわたしにこんなことをして、わたしを悲しませ怒らせるのに、どうしてあなたがたをわたしの手から逃れさせ、わたしヤーウェがあなたがたを罰して呪う日から離れさせることなどできようか。あなたがたのすべての悪しき言葉が、すでにわたしの耳に届いていることを知らないのか。あなたがたの不義がすでにわたしの聖なる義の衣を汚したことを知らないのか。あなたがたの不服従がすでにわたしの激しい怒りを呼び起こしたことを知らないのか。あなたがたがわたしを長い間怒りに煮えくり返るまま放置し、わたしの忍耐をずっと試してきたことを知らないのか。既にあなたがたがわたしの肉体をぼろぼろに傷つけたことを知らないのか。わたしはこれまで我慢してきたが、わたしはわたしの怒りを放ち、あなたがたをもう容赦しない。

『言葉は肉において現れる』の「肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない」より

 あなたがたは自分の舌でわたしの霊をだませると思うのか。あなたがたの舌がわたしの怒りを逃れられると思うのか。あなたがたは、あなたがたの舌が思いのままに、わたしヤーウェの業を裁いてもよいと思うのか。わたしは人によって裁きを下される神であろうか。小さな蛆虫がこのようにわたしを冒涜するのを、わたしがどうして許せようか。どうしてこのような不従順の子たちをわたしの永遠の祝福の中に置けるだろうか。あなたがたの言葉と行いは、ずっと前にあなたがたを暴露し、罪に定めた。わたしが天を拡げ、万物を創造したとき、わたしはどの被造物にも思いのままに介入することを許さず、ましてや、どんなに望もうと、何ものにもわたしの働きとわたしの経営を妨げさせたりなどしなかった。わたしは人間にも物にも容赦しなかった。わたしに対して残虐で非人道な者をどうして見逃せるだろうか。どうしてわたしの言葉に逆らう者を赦せるだろうか。どうしてわたしに対して不従順な者を見逃せるだろうか。人間の運命は全能者であるわたしの手の中にあるのではないか。わたしがどうしてあなたの不義と不服従を聖であると見なせるだろうか。どうしてあなたの罪がわたしの聖さをけがせるだろうか。わたしは不義の汚れによってけがされることはなく、不義の者の捧げものを喜ぶこともない。あなたがわたしヤーウェに忠実であるのなら、わたしの祭壇のいけにえを取って自分のものとすることなどできるだろうか。あなたは毒のある舌を使って、わたしの聖なる名を冒涜できるだろうか。このようにわたしの言葉に反逆できるだろうか。わたしの栄光と聖なる名を悪い者であるサタンに仕える道具として扱えるのだろうか。わたしのいのちは聖なる者たちの喜びのために与えられた。あなたの思いのままにわたしのいのちをもてあそび、それをあなたがた同士の争いの道具として使うのを、どうしてわたしが許せようか。どうして善を行うこととわたしに対する態度がそのように無慈悲で欠けが多いのか。わたしがすでにこれらのいのちの言葉にあなたがたの悪行を書き付けたことを知らないのか。あなたがたは、わたしがエジプトを罰する怒りの日から、どうして逃れることができようか。どうしてわたしは、このように何度もあなたがたに敵対され反逆されることができるのだろうか。はっきり言うが、その日が来ると、あなたがたへの刑罰は、エジプトのそれよりも耐えがたいものになるだろう。わたしの怒りの日をどうして逃れられようか。

『言葉は肉において現れる』の「肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない」より

 天使たちがわたしを褒めたたえて音楽を奏でる時、わたしは人に対する同情をかき立てられずにはいられない。直ちに、わたしの心は悲しみで満たされ、わたしからこのつらい感情を取り除くことはできない。人から引き離され、その後再び結び合わされる喜びと悲しみの中で、わたしたちは感情を交わすことができない。上にある天と、下にある地とに分けられ、人とわたしは定期的に会うことができない。誰が過去の感情への懐古の情から抜け出すことができるだろう。誰が過去の思い出にふけるのをやめることができるだろう。過去の感慨が続くことを望まない者などいないだろう。わたしが戻ってくることを切望しない者はないだろう。わたしと人の再会を待ち焦がれない者がいるだろうか。わたしの心は深く悩み、人のいのちには深い憂いがある。霊においては似ていても、わたしたちはあまり一緒にはいられない。わたしたちは頻繁には会えない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十七章」より

 わたしは、わたしたちの集団が一層大いなる恵みを神から得られるように、神に好まれ、神に得られるようにと頻繁に祈っているが、同時にわたしたちの集団のために悲しみの涙に暮れ、神がわたしたちを啓いて一層大いなる啓示を目の当たりにすることが出来るようにと願うことも無数にあった。人々が常に神を欺こうとし、決意せず、肉のことを考え、富や名声を得て注目の的となるために奮闘努力しているのを目の当たりにする時、どうしてわたしが心を深く痛めずにいられようか。人々はなぜこんなに愚かになれるのだろうか。わたしの働きは全く結実しないということなのだろうか。あなたの子が全員反抗的で不孝行で、良心のかけらもなく自分の事だけを考え、あなたの気持ちに全く共感せず、成長したあかつきにはあなたを家から追い出したとしたら、その時どう感じるであろうか。涙に暮れ、子育てのために払った大きな代償を惜しむのではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「道……(7)」より

 中国本土の人々に見受けられるのは、腐敗したサタンのような性質だけである。それゆえに、人々の中における神の働きでは、彼らに何か好ましい部分を見出すことがほぼ不可能である。それらは全て聖霊が働く部分であり、また聖霊は人々をさらに動かし、人々の中で働くのみである。こうした人々を活用することはほぼ不可能である。つまり、人々の協力と組み合わされた聖霊により動かされる働きを行うことは出来ないのである。聖霊は人々を動かそうとひたすら努力するが、それでも人々は愚鈍で無情であり、神が何をしているかを全く知らない。そうしたわけで、中国本土における神の働きは、天地創造の働きに匹敵する。神は人々を全て生まれ変わらせ、あらゆる部分を変える。なぜなら、人々には好ましい部分が皆無だからである。これは心が極めて痛むことである。私はこんな人々のために頻繁に「神よ、あなたの霊が人々を大いに動かし、麻痺した愚鈍で苦しんでいる者が眠りから覚めて、あなたの栄光の日を見ることができますように、あなたの大いなる力が彼らに現れますように」という悲しい祈りを捧げる。

『言葉は肉において現れる』の「道……(6)」より

 神が悲しむ時はいつでも、神は自身に全く気を留めない人間に向き合い、神に従い、自分は神を愛していると言いながら神の感情を完全に無視する人間に向き合う。これでどうして神の心が傷つかないことがあろうか。神の経営の働きの中で、神は誠実に働きを実行し、ひとりひとりに語り、そして自分自身を惜しみなく現わす。それとは逆に、全ての神に従う人間は神に対し閉鎖的であり、積極的に神に近づいていったり、神の心を理解しようとしたり、神の感情に気を留めようとする者はいない。神と親友になりたいと思っている人々でさえも、神に近づこうとせず、神の心に配慮しようとせず、神を理解しようとしない。神が喜ぶ時、誰もその喜びを分かち合える人間はいない。神が人々に誤解されている時、神の傷ついた心を慰める者はいない。神の心が痛んでいる時、神が打ち明けることに耳を傾けようとする者は一人もいない。何千年に亘る神の経営の働きを通して、神の気持ちを知る者も、深く理解する者も感じる者もおらず、ましてや神に寄り添って神の喜びや悲しみを分かちあう者などひとりもいない。神は孤独だ。神は孤独なのだ。神が孤独なのは単に堕落した人間が敵対するからだけではない。霊的であろうとし、神を知ることを追い求め、神を理解しようとし、さらに神に人生の全てを捧げたいと思っている人々ですら、神の考えを知らず、神の性質と感情を理解しないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 人間がわたしに従うとき、わたしの心は安らかで、ただちに、天と地のあらゆる物事に大きな変化を感じる。人間がわたしを賛美するとき、わたしはそれをよろこばずにはいられない。人間がわたしを証しし、わたしが得るとき、どうしてわたしが栄光を受けないことがあろう。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第九章」より

 人々はわたしに歓声を送り、わたしを讃える。全ての人は唯一の真の神の名を唱え、わたしの業を見ようと目を上げる。わたしの国はこの世界に降臨し、わたしの本質は富み、豊かである。これを祝福しない人などいようか。これに喜び踊らない人などあろうか。シオンよ。勝利の旗を掲げてわたしを祝福せよ。汝の意気揚々とした勝利の歌を歌い、わたしの聖なる名を広めよ。地の万物よ。今、わたしへのいけにえとして自らを清めよ。空の星よ。今汝らの場所に戻り、大空にわたしの偉大さを示せ。わたしは、わたしへの無限の愛と敬意を歌にて注ぐ、地の人々の声に耳を傾ける。この日、万物が活気を取り戻すと、わたしは地を歩きだす。この瞬間、花々は咲き、鳥たちは歌い、万物は歓喜に満ちる。神の国の礼砲の音にサタンの国は崩れ、神の​​国の讃歌のこだまする合唱にサタンの国は破壊される。そして、もはや蘇ることはないだろう。

 敢えて立ち上がり抵抗しようとするものなどいるだろうか。地に降りると、わたしは灼熱を、怒りを、あらゆる災いをもたらす。地上の諸国は今やわたしの国である。空高く雲は崩れ、渦巻く。空の下、湖と川は波立ち、心を打つメロディーを紡ぐ。憩う生き物は巣から現れ、眠る人々はみなわたしにより目覚める。すべての人々が待っていた日がついに来た。人々は最も美しい歌をわたしに捧げる。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「神の国の讃歌」より

 創造の時から今日まで、わたしは多くの戦いに勝利し、多くの嘆賞すべきことを行った。かつて多くの人がわたしを賛美し、わたしを讃え、わたしのために踊った。こうした光景は感動的で忘れられないものだったが、わたしは笑顔を見せなかった。まだ人を征服していなかったからであり、創造に似た働きの一部のみを行っていたからである。今日は過去とは異なる。わたしは玉座の上で笑み、わたしは人を征服し、人々はすべてわたしを崇拝し、わたしの前で頭を垂れる。今日の人々は過去の人々ではない。わたしの働きが現在のためではなかったのはいつだろうか。わたしの働きがわたしの栄光のためではなかったのはいつだろうか。より明るい明日のために、わたしは何度も人の中でわたしの働きのすべてを明らかにし、それだから、わたしの栄光のすべてが創造された人の中に「留まる」だろう。わたしはこれをわたしの働きの原則とみなす。わたしと協力しようとする人々は立ち上がり一生懸命に働きなさい。そうすることで、わたしの栄光がさらに大空を満たすだろう。今こそ自分の才能を最大限に生かす時である。わたしの愛の労りと守りの下にいる人々はすべて、ここ、わたしの場所で自らの力を使う機会を持ち、わたしはすべてのことがわたしの働きの方に向くようにするだろう。空を飛ぶ鳥は空のわたしの栄光であり、地球にある海は地上のわたしの行いであり、すべてのものの主はその中でのわたしの現れであり、わたしは地上にあるすべてをわたしの経営(救い)の資本として使い、すべてのものを増やし、繁栄させ、いのちで満たす。。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第四十二章」より

 わたしの義と威厳と裁きは永遠に続くであろう。最初、わたしは愛と憐みに満ちていたが、これはわたしの完全な神性の性質ではない。義、威厳と裁きこそが、わたし──完全な神自身──の性質である。恵みの時代の間は、わたしは愛と憐みに満ちていた。わたしが完了しなければならなかった働きのために、わたしは慈愛と憐みを持っていたが、その後では慈愛と憐みは必要なかったのだ(それ以来一切ない)。それはすべて義と威厳と裁きであり、これは、わたしの完全な神性と結びついたわたしの普通の人性の完全な性質である。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第七十九章」より

 わたしは今、わたしの国の行政命令を布告する。すべてのことがわたしの裁きの内にあり、すべてのことがわたしの義の中にあり、すべてのことがわたしの威厳の中にあり、義がすべての者に実施される。わたしを信じていると言いながら、心の中でわたしに反する者、あるいはその心がわたしを捨てた者は、追い出されるが、それは全てわたしの時に応じてである。人に知られないようにだが、わたしのことを皮肉を込めて話す者は、すぐに死ぬであろう(彼らは霊、魂、肉体において死ぬだろう)。わたしが愛する人たちを弾圧したり冷遇する者については、わたしの憤りが直ちに彼らを裁くだろう。つまり、わたしが愛する人たちに対して嫉妬心を抱き、わたしのことを義ではないと思う者は、わたしが愛する人たちに引き渡され裁かれるであろう。品行方正な者、質素な者、正直な者たち(知恵がない者も含む)、そして一心にわたしに誠実を尽くす者たちは、皆わたしの国に留まるだろう。訓練を受けていない人たち、つまり知恵と見識に欠けているが正直な人たちは、わたしの国で権力を持つであろう。しかし、彼らもまた、取り扱いと砕かれることを体験してきた。彼らが訓練を受けていないということは、絶対的なことではなく、むしろこれらのことを通して、わたしはわたしの全能性と知恵をすべての者に示すのである。わたしは今もなおわたしを疑っている者を追放する。わたしはその一人も要らない(このような時に、まだわたしを疑う者をわたしは忌み嫌う)。わたしが全宇宙に渡って行う業によって、わたしは、わたしの行為の素晴らしさを誠実な人たちに示し、そうして彼らの知恵、見識、識別力を高めるだろう。また、わたしの素晴らしい行為によって、偽り者たちが一瞬のうちに滅ぼされるようにする。最初にわたしの名を受け入れた長子たち(それらの聖なる傷のない者、誠実な人々を意味する)は皆、真っ先に神の国に入り、わたしと共に万国万民を支配し、神の国で王として治め、万国万民を一緒に裁くであろう(神の国のすべての長子たちを意味し、他の者ではない)。裁きを受けて悔い改めた、万国万民は、わたしの国に入り、わたしの民となる。また、頑なで悔い改められない者たちは、底なしの穴に投げ込まれる(永遠に滅びるように)。神の国での裁きが最後の時となり、それはわたしが世界を完全に清める時となる。その時は、もはやどんな不正も、悲しみも、涙も、嘆息もなくなり、それ以上に、世界は存在しなくなる。すべてはキリストの現れとなり、すべてがキリストの国となるだろう。何という栄光だ!何という栄光だろう!

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第七十九章」より

 義とは聖さであり、人間の侵害を容赦しない性質であり、したがってけがれたことや変化していないことはすべて、神の嫌悪の対象となる。神の義なる性質は、法ではなく、行政命令である。それは神の国の中の行政命令であり、その行政命令は、真理を持っておらず、変化していない全ての者への義なる罰であり、そこには救いの余地はない。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

 わたしは、わたしから生まれたが、まだわたしを知らないすべての者を罰し、わたしのすべての怒りと、わたしの大いなる力と、わたしの完全なる知恵を示そう。わたしの中では、すべてが義であり、不義、欺瞞、曲がったことは全くない。曲がった者、偽り者は誰でも地獄の子である──ハデスで生まれたにちがいない。わたしの中では、すべてが明白である。わたしが達成すると言うことは、すべて達成され、わたしが確立すると言うことは確立され、誰もこれらのことを変えたり真似たりすることはできない。わたしは唯一の神自身だからである。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第九十六章」より

 わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十六章」より

 わたしの義、威厳、裁きはサタンに何の憐みも示さない。しかし、あなた方にとって、それらはあなた方を救うためのものである。それなのに、あなた方はわたしの性質を理解することができず、またわたしの行動の背後にある原則も知らない。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第九十章」より

 わたしは聖なる国では姿を現し、汚れた地では姿を隠す。征服されわたしに従順となった者はみな、その目でわたしを見ることができ、その耳でわたしの声を聞くことができる。これが終わりの日に生まれた者の恵み、これがわたしの定めた恵みであり、これはどの人間にも変えることができないのだ。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十九章」より

 悪霊によって堕落させられた人は誰であれ、わたしによって用いられることはなく、追い出されると言うことである。わたしに感情がないと思ってはならない。このことを知りなさい。わたしは聖なる神であり、わたしは汚れた神殿には住まない。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第七十六章」より

 あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

 わたしの中には感情や憐みはなく、誰でもわたしの刑罰に反する者は、全員同じように扱い、容赦なく殺す。わたしは誰に対しても同じである──わたしには個人的感情がなく、いかなる場合も感情的に行動することはない。どうしてわたしは、わたしの義と威厳を人々に見せずにおられようか。これは誰にも変えることができず、誰にも完全には知ることのできない、わたしの知恵とわたしの性質である。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第九十六章」より

 おお、全能神よ。アーメン。あなたにあって全ては解かれ、すべてが自由で、すべてが開かれ、すべてが明らかにされ、すべてが明るく、秘密や隠し事はひとつもありません。あなたは肉となった全能神です。あなたは王として君臨されてきました。あなたは公然と現されました。もはや謎ではなく、永遠に完全に現されました。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第五十一章」より

 すべてはわたしの言葉で成し遂げられる。誰一人手を出すことはできない。また、誰一人、わたしのしている働きをすることは、できない。わたしは全地の空気をきれいに拭い、地上にいる悪魔たちの痕跡を一掃しよう。わたしはすでに始めている。そして、わたしの刑罰の働きの第一段階を赤い大きな竜のすみかで始める。そうして、わたしの刑罰が全宇宙に及ぶと、赤い大きな竜とあらゆる不浄な霊が無力で、わたしの刑罰を免れないことがわかる。わたしは全地を調べるのだから。地上でのわたしの働きが完了すると、つまり、裁きの時代が終わると、わたしは正式に赤い大きな竜を刑罰する。わが民は、わたしが赤い大きな竜に与える義の刑罰を見る。人々は、わたしの義のゆえにたたえをささげ、わたしの義のゆえに、永遠にわたしの聖なる名を称える。そこで、あなたがたは、正式に本分を果たし、全地で正式にわたしをたたえる。永遠に絶えることなく。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十八章」より

 神の経営(救いの)計画はどのような人にも、事柄にも、環境にも影響されない。神が実行すると決めたことは、全て計画された時に完成され、成就し、神の働きは誰にも妨げられることはない。神は人間の愚かさや無知を気に留めず、人間の自分に対する拒絶や観念を無視することさえある。そして神は自分がすべき働きはためらわずに実行する。これが神の性質であり、神の全能性を反映するものである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

 神の業に制約的部分は一切なく、また業が人間や物事による阻害を受けることはなく、また神と敵対する勢力により混乱させられることもない。神の新たな業において、神は永遠に勝利を続ける王であり、敵対する勢力や、異端の者、人間による詭弁は、すべて神の足台の下で踏みにじられる。神が、業のどの段階を新たに行っているかを問わず、その段階は神の大いなる業が完了するまで、必ず人間界において展開され、拡張され、さらに全宇宙において妨害されることなく必ず実行されなければならない。これが神の全能と知恵、そして権威と力である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 私たちは、いかなる国家も勢力も神が果たそうと願うものの前に立ちはだかることはできないと信じている。神の働きを妨害し、神の言葉に抵抗し、神の計画をかき乱し、阻害する者たちは最終的には神に罰せられる。神の働きに逆らう者は地獄に送られる。神の働きに反抗する国家は滅ぼされる。神の働きに反対するために立ち上がる民族は地上から一掃され、消滅する。

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

 わたしの存在そのものは二つの側面から成り立っている。ひとつはわたしの人性であり、もう一つはわたしの完全なる神性である。これら二つの側面が組み合わさったものだけが、完全なる神自身を成すのだ。わたしの完全なる神性にもまた多くのものが含まれている。わたしは、どんな人間や物事の拘束も受けない。わたしはすべての環境を超越している。わたしは時間や空間、地理の制限を超えている。まことにわたしは、わたしの手の甲のように、すべての人々、事柄、物を知っている。しかし、それでもわたしは触れることのできる形を持った肉と骨である。人の目にはわたしはまだこの人間であるが、性質は変わっている──もう肉ではなく体である。これらのことはそのほんの一部である。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第九十五章」より

 わたしが持っているものとは、わたしの知恵、わたしの見識、わたしの深慮、そしてわたしが語る一つひとつの言葉を指している。わたしの人性とわたしの神性の両方がそれを所有している。つまり、わたしの人性によって為されたことと、わたしの神性によって為されたことのすべてが、わたしが持っているものなのである。誰ひとりこれらのものを取り上げることも、取り除くこともできない。それらは、わたしが所有するものであり、誰もそれらを変えることはできない。これがわたしの最も厳しい行政命令である(何故なら人間の観念の中では、わたしが為すことの多くは彼らの観念に合致せず、人間には理解できないものであるからだ。これは全ての人間が最も侵害し易い命令であり、それはまた最も厳しい命令なので、彼らのいのちはその点で損害をこうむるのである)。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第九十五章」より

暂时没有译文

 神は自らの手の甲のように人を知っている。人の欺瞞がどのように巧みであろうとも、人が手の内を明かさず、顔は赤くならず、心臓は高鳴らなくとも、神の目は明るく、人は常に神の視線を逃れるのに苦労してきた。あたかも神が透視能力を持っていて人のはらわたを見ることができるようなものである。あたかも検査をしないでも人々の血液型が何であるか見通すようなものである。このようなものが神の知恵であり、人が模倣することはできない。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第四十二章」より

 人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に従う限り、神は最も正しいから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に従ったならば、神は人間を見捨てられるであろうか。わたしは全ての人間に対して公平であり、全ての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な条件があるので、全ての人間は、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどれほど幅広いか、立派であるかということには気を留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。

 

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

 というのは、神は誰も特別扱いしないからである。神は人々を常に公平に扱うが、人々に供給する際は無造作ではなく、人々に無条件で与えることはない。これは、神の義なる性質の一面である。 

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係を確立することは極めて重要である」より

 サタンはこれまで継続的に策略を実行し続けている。人間はサタンにより堕落させられ続けており、ヤーウェ神も自身の英知の働きを継続的に実行している。神は一度も失敗したことがなく、世界の創造からこれまでにおいて、自身の働きを一度もやめたことがない。人間がサタンによって堕落させられた後、神は人間を堕落させる敵を打ち負かすために、人々の間で継続的に働きを行った。その戦いは始まりから世界の終わりまで続くだろう。この働きを行うに際して、神は、サタンによって堕落させられた人間が自身の素晴らしい救いを受けられるようにしただけでなく、自身の英知、全能性、および権威を人々が知るようにもした。そして最後に神は、人が自身の義の性質を見るようにする。つまり、邪悪な者を罰し、正しい者を報いる。神は今日まで戦ってきて、一度も負かされたことはない。それは神が知恵に満ちており、神の英知はサタンの策略に基づいて行使されるからだ。そのため、神は天のあらゆるものを自身の権威に従わせるだけなく、地上のすべてのものを自身の足台の下に置き、更には人間を侵害し悩ませる、悪事を働く者が必ず神の刑罰の中に落ちるようにする。その働きの結果のすべては、神の英知によりもたらされる。

 

『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より

 わたしが正式に働きを始めると、すべての人はわたしの動きにつれて動く。そのようにして、全宇宙の人々はわたしと共に働く。全宇宙に「歓呼の声」が響き、人間はわたしと共に勢いよく前進する。その結果、赤い大きな竜はうろたえ、狂乱し、わたしの働きに仕え、望まずとも、自分のしたいことができず、「わたしの支配に従う」しかなくなる。わたしの計画すべてにおいて、赤い大きな竜はわたしの引き立て役、わたしの敵、そしてまた、わたしの「しもべ」である。したがって、わたしはけっして竜の「要求」を緩めたことがない。だから、受肉におけるわたしの働きの最終段階は、その「家」の中で完了するのである。このようにすれば、赤い大きな竜はよりよくわたしに仕えることができ、それによって、わたしはこれに打ち勝ち、計画を完了するのである。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十九章」より

 世界のすべての国々は、権力と利益をめぐってお互いに争い、領土をめぐって戦うが、驚いてはならない。これらのことは、すべてわたしへの奉仕なのだから。それでは、わたしは何故それらがわたしへの奉仕であると言うのか。わたしは指一本上げることなく物事を行う。サタンを裁くために、わたしはまず彼らが自分たちの間で論争するように仕向け、最終的には彼らに滅びをもたらし、彼らを自らの狡猾な策略に陥らせる(彼らは権力をめぐってわたしと争おうとするが、終りにはわたしに奉仕することになる)。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第九十五章」より

 今日、あなた方は創造以来、人間が一度も見たこともない唯一の真の神と顔を合わせるようになった。そして、わたしには何も特別なことはない。わたしはあなた方と食べ、暮らし、話し、笑い、わたしはいつもあなた方の中に住み、また同時にあなた方のただ中で動いている。信じていない者や、自分自身の深刻な観念を持っている者にとって、これは躓きの石である。これがわたしの知恵である。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第七十五章」より

 わたしは以前言ったはずである。わたしは知恵ある神である。わたしはわたしの普通の人性を用いて、すべての人々とその悪魔のような振る舞いを露わにし、間違った意図を持つ者、他人の前では一様にふるまい、他人の背後では違うふるまいをする者、わたしに抵抗する者、わたしに不実である者、お金を渇望する者、わたしの重荷を考慮しない者、兄弟姉妹に対して欺瞞や不正を行う者、口達者で人々を喜ばせる者、そして兄弟姉妹たちと心と思いにおいて一致して協力することができない者たちを暴露する。わたしの普通の人性の故に、実に多くの人々が密かにわたしに抵抗し、欺瞞や不正を行い、わたしの普通の人性は知らないだろうと思い込んでいる。そして、実に多くの人々がわたしの普通の人性に特別注意を払い、わたしに良い食べものや飲みものを与え、召使のようにわたしに仕え、心の中にあることをわたしに話している一方、わたしの背後ではいつも全く違うふるまいをしている。盲目な人間たちよ。あなた方は全くわたしを分かっていない──人の心の奥底を見とおす神を。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第七十六章」より

 わたしは知恵によって行動する。ナイフも、銃も使わず、指一本上げることもなく、わたしは、わたしを否定し、わたしの名に恥をもたらす者たちを完全に打ち負かす。わたしは寛容であり、たとえサタンがこのような騒動を引き起こす時でも、安定した歩調でわたしの働きを続ける。わたしはサタンをまったく気にせず、わたしの経営計画の完成によってサタンを敗北させる。これがわたしの力とわたしの知恵であり、さらにそれは、わたしの終わることのない栄光のほんの一部である。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第九十一章」より

 神は悪霊の働きの一部を利用し、一部の人を完全にし、これらの人々が悪魔の行いをすっかり見通すことができるようにし、すべての人が自分たちの祖先を真に理解できるようにすることを意図している。そうなる時、ようやく人類は完全に解放され、悪魔の子孫を見捨てるだけでなく、悪魔の祖先をいっそうはっきりと見捨てる。これが、神が赤い大きな竜を徹底的に打ち砕くことの元々の意図であり、それは全ての人間が赤い大きな竜の真の姿を知り、仮面を完全に引き剥がし、その真の姿を知るようにすることである。これこそ神が成し遂げたいことであり、地上での多くの働きの最終目標であり、これを全ての人に成し遂げることが目標である。 これは、神の目的を達成するためのあらゆるものの操縦として知られている。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第四十一章」より

 今日、わたしは人間と共に刑罰の時代に進み、人間と並んで進む。わたしは、わたしの働きをしている。つまり、わたしの杖を人間の中で振るい、それは人間の中の反抗的なものを打つのだ。人間の目には、わたしの杖に特別な力があるように見える。それは、わたしの敵である者たちすべてを打ち、容易に彼らを逃さない。わたしに敵対する者たちの中で、杖はその本来の目的どおりの役目を果たす。わたしの手の中にあるものは、どれもわたしの元々の目的にしたがってするべきことをし、けっしてわたしの意にそむいたり、その本質を変えたりしない。その結果、水は轟き、山々は倒れ、大河はばらばらになり、人間は気まぐれになり、太陽は薄暗くなり、月は暗くなり、人間はもはや心安らかに生きられない。もはや地に穏やかな時はない。天はけっして再び穏やかで静かではなく、二度と再び耐えることをしない。すべてのものは新たになり、本来の姿を取り戻す。地のすべての家は引き裂かれ、地のすべての国々は散り散りになる。夫と妻が再会する日は去り、母と息子は二度と会うことがない。父と娘が再会することも二度とない。かつて地にあったものは、みなわたしが砕く。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十八章」より

 サタンに対する神の勝利は、避けられない流れなのである。サタンは実際に昔、敗北した。福音が大きな赤い竜の土地を通して広がり始めたとき、つまり、受肉した神が働きを始め、その働きが引き起こされたとき、サタンは完全に倒されることとなった。その受肉はサタンを倒すためのものだったからである。サタンは、神がもう一度肉となり、また神の働きを遂行し始めたのを見た。そして、どんな力もその働きを止められないことを理解した。そのため、その働きを見たときにサタンは愕然とし、サタンの働きをあえてそれ以上続けなかった。最初にサタンは、自らが多くの英知も持つものと思っていて、神の働きを中断させてその阻害を行った。けれどもサタンが予想していなかったのは、神がもう一度肉となり、神自らの働きにおいて、サタンの反抗性を用いて、人間のための暴露と裁きを行い、それにより人間を征服してサタンを打ち負かすということだった。神はサタンより賢明で、神の働きはサタンをはるかに凌ぐ。だから、わたしは以下を前に述べた。「わたしが行う働きはサタンの策略に対応して実行される。最後にわたしは、自らの全能性とサタンの無力さを示す。」

『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より

 神の人間に対する愛は過保護や甘やかしではなく、人間に対する神の慈悲と寛容は、大目にみることでも無頓着でもない。むしろ、神の人間に対する愛は、大切にし、憐れみ、いのちを敬うことである。神の哀れみと寛容は、神の人間に対する期待を伝えるものであり、人類の存続に必要なものである。神は生きており、実在する。神の人間に対する姿勢には原則があり、一切独善的ではなく、また変化しうるものである。人類に対する神の心は、時間や状況、各人の姿勢に従って、徐々に変化している。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

 人間の働きのために神は多くの眠れぬ夜を過ごした。神は、遥かな高みから深淵へ、人間が生活する生き地獄まで降りて、人間と共に過ごし、決して人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりせず、自ら働きを行いながら最大の屈辱に耐えている。……天の神は、最も不浄な悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言わず、人間の略奪や抑圧を黙って受けた。神は、人間の不合理な要求に報復することも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をすることも無かった。神は単に、教えること、啓くこと、咎めること、言葉の精錬、注意を喚起すること、勧告すること、慰めること、裁くこと、現すことなど、人間により要求される働きを不平を言わずに行う。神の段階のうち、どれが人間のいのちのためでは無かったであろうか。神は人間の見通しや運命を取り去ったが、神が行った段階のうち、どれが人間の運命のためでは無かったであろうか。その段階のうち、どれが人間の生存のためでは無かったであろうか。どれが夜のように黒い闇の勢力がもたらす苦難や抑圧から人間を解放するためでは無かったであろうか。どれが人間のためでは無かったであろうか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の真剣な心を、誰が理解できるというのか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より

 創造主であり、全ての主、全ての支配者でありながら、彼は地上に降りて来て、どうしようもなく堕落した人類からの抑圧と残酷さに耐えなければならなかった。自身の働きを完成させ、人間を悲惨な状況から救い出すには、人間により激しく咎められ、全ての人類の罪を背負わなければならなかった。イエスが通った苦しみがどれほどであったかは、普通の人間が想像できたり、理解できたりするものではない。この苦しみは何を意味するのか。それは、神の人間への愛情を表す。これは人類の救いのために、罪を贖うために、そしてこの段階での神の業を完了するために、イエスが被むった苦痛と払った代価の象徴である。神の十字架によって、人類は贖われただろうということの象徴でもある。これは血潮、すなわち命によって払われた代価であり、被造物が払うことが決してできないものである。イエスは神の本質を持っており、神の持っているもの、神であるものを備えている。そしてこの種の苦しみと業に耐えることができた。被造物である神以外の存在が代わってできる働きはないのである。これが恵みの時代においての神の働きであり、神の性質の現れである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 神は全ての苦しみを静かに負いながらも、人間には自身の最善の側面を与え、最善のものを与えてくれる。神は決してこれらの苦しみを広く打ち明けることはない。むしろ、神はそれらに耐え、静かに待つ。神の忍耐は冷たくはなく、無感覚なものでもなく、無力なものでもなく、弱さの印でもない。それは神の愛と本質が無私であるという印である。これは神の本質と性質の自然な現れ、そして創造主なる神の身分を真に具現化したものである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 神が目覚めた時、神が最初に考えたことは、常に神とともに生きる人、すなわち命ある人間を創ることであった。この人間は神の言葉を聞き、神が信頼して話すことのできる者であった。次に、神はまずひと握りの土を取り上げ、神が考えていた最初の人間を創り、その人間をアダムと名付けた。命を持ち、息をする人間を創った後、神は何を感じたであろうか。神は、ともに過ごす愛すべき人間が居ることの喜びを、初めて感じたのである。また神は、父としての責任と、それに伴う憂いを初めて感じた。この生ける人間という存在は、神に幸福と喜びを与えたので、神は初めて慰めを感じた。これが、神が自身の考えや言葉だけでなく、自身のふたつの手によって実現した最初の業であった。こうした命を持ち、息をして、肉と血で創られた身体を持ち、神と話ができる人間の存在が神の前に現れた時、神は嘗てない喜びを感じた。神は責任を真剣に感じ、人間という生き物に心惹かれるだけでなく、人間の行動すべてが神を感動させ、神の心を和ませた。こうして、この人間という生き物が神の前に現れたときに初めて、神は、更なる人間を得たいという考えを持った。こうした一連の出来事は、こうした神の当初の考えから始まったことである。神にとって、こうした出来事は初めてのことであったが、その当初の出来事においては、神が感じたのが喜びであれ、責任であれ、憂いであれ、神が感じたことを分かち合う相手が、神には存在しなかったのである。この時以降、神は、それまで感じることのなかった、真の寂しさと悲しさを感じた。神は、人間が神の愛と憂いや、神の人間に対する意志を受け容れることも理解することも出来ないと感じたので、神は引き続き悲しみと心の痛みを感じていた。神は人間に対してこのようなことを行ったにもかかわらず、人間はそれに気付くことがなく、理解することもなかった。人間が神に与えた喜びと慰めは、幸福のほか、ほどなくして悲しみと寂しさも神に与えたのであった。以上が、この時点で神が考え、感じていたことである。そうした事を行っている間、神の心には憂いが入り交じり、それは喜びから悲しみへ、そして悲しみから痛みへと変化していった。神が望んだのは、人間に神の心にある事柄を早急に知らせて、神の旨を理解させることのみであった。そうすれば、人間が神に従うようになり、神と調和するようになる。人間は神の言葉を聞いてなお黙していることがなくなり、神の業をどのように支援するかを知らずにいることはなくなり、そしてなによりも、人間が神の要望に無関心でいることはなくなるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

  神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を持っていたということである。その責任とはどのようなものだろうか。それは人間を守り、顧みるという責任である。人間が神を信頼し従うことを神は望んだ。そしてそれは神が人間に抱いた最初の期待でもある。神はその期待とともに、次のように言った。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。このシンプルな命令に神の意志が現れている。そして神の人間に対する心配をすでに表していたこともわかる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 この「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」という部分では、アダムとエバと共にいた神は彼らにとってどのような役割をしたのだろうか。人間が2人しかいないこの世界で、神は自身をどのような役割を持つ者として現しただろうか。神としての役割であっただろうか。……あなたがたの中には、神はアダムとエバの家族の一員として現れると言う人もいれば、神は家族の長として現れると言う人もあり、また、親として現れると言う人もいる。これらの答えは全て適切だ。だが、わたしが言おうとしていることは何か。神はこの2人の人間を創り、2人を自身の友として扱った。2人の唯一の家族として、神は彼らの生活を見守り、基本的な必要において面倒を見たのである。ここでは、神はアダムとエバの親として現れている。その間、人は神がどれだけ高尚であるか見ることをせず、神の至高、その奥義、そして特に怒りや威厳を見ることをしなかった。人が見るのは神の謙遜、慈愛、人間への思い、神の責任及び配慮である。神の態度やアダムとエバの扱い方は、人間の親が自分の子どもに対して心配するものと同種である。人間の親が自分の息子や娘を愛し、世話をし、面倒を見るのに似ている──現実的で、見ることができ、触れて感知することができる。自身を高く、威厳のある者として位置付けるのではなく、神は人間のために動物の皮で衣服を作ったのである。その毛皮のコートが、裸の身体を覆うためだったか、寒さから守るためだったかは問題ではない。要するに、人間の体を覆うための衣服は神が自分の手で作ったということだ。人間が想像するような、神の考えだけで衣服を作ったり、奇跡的な方法で作ったりしたのではなく、むしろ神にはできない、神がするべきないと人が考えるような方法で作ったのである。そのような簡単なことを敢えて言うまでもないと思う人もいるかもしれない。しかし神に従ってはいたが、神についてぼんやりとしたイメージしか持っていなかった人たちにとっては、この箇所を見ることで神の真実さ、魅力、忠実さ、謙遜をはっきり見ることができるようになる。そして自分が位の高い、力ある存在と考えるどうしようもなく高慢な人たちに、神の真実さや謙遜の前に自分を恥じ入らせ、自惚れていたその頭を下げさせる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 神が人間を創造した。彼らが堕落していようと神に付き従っていようと、神は人間を自分の愛する者として、あるいは人間的な言い方をすれば「最愛の存在」として接し、オモチャのようには扱わなかった。神は自分が創造主であり、人間は神が創造したものだと言っている。ということは、そこには少しの格の違いがあるように思われるが、実際には神が人間に対し行ってきたことというのは、この関係の性質をはるかに越えるものである。神は人間を愛し、思い、そして配慮してくれる。そして常に絶えることなく人間に与え続けてくれる。神はそれを心の中で余計な仕事とも、多くの賛辞に値することとも感じていない。また神は人間を救い、彼らに与え、全てを与えることを人間への大きな貢献とも思っていない。神はただ静かに、神自身のやり方で、神自身の本質を通して、自身の持っているものとその存在そのものを与えてくれるのである。どれだけ人間に与えてくれていても、どれだけ助けても、神はそれを手柄と考えたり、それによって手柄をたてようと考えたりしない。これは神の本質によるものであり、そしてまさしく神の性質の真なる表現なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 最も見落としやすい神の本質と性質の中に、神だけが持つことができるものがある。それは偉大だと思われている人々や良い人と思われている人々、また彼らの想像上の神も持つことができないものである。それは何か。それは、神が無私であることだ。……この世の全ての人々、出来事、そして物の中にあって、神の無私だけが真実で揺るぎないものであると。なぜなら神のあなたに対する愛だけが無条件で汚れのないものだからである。神以外の全ての者のいわゆる無私は全て偽もので、表面的、そして魂胆があるものである。そこには目的、特定の意図、取引があり、試みに耐えることができない。それは汚れた卑しむべきものだとさえ言える。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 それは神の本質は偽物ではなく、神の魅力が偽物ではないからである。神の本質は真に存在しており、他者によって付け加えられるものではなく、また時間、場所、時代によって変わるものでも決してないからである。神の真実さや魅力は、人間が注目に値するとも重要とも思わないことをする中に、そして神がするとは思えないようなとても小さなことのなかに真に現されるのである。神は偉ぶってはいない。神の性質や本質のなかには、誇張、偽装、高ぶり、あるいは高慢さは存在しない。神は決して誇らず、かえって人間を愛し、配慮し、世話をしてくれ、忠実さと誠実さをもって自身が創造した人間を導く。人々がこのことをどれだけ感謝し、感じ、また理解できるかにかかわらず、神は間違いなくそうしている。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 「計り知れない」という言葉で神の愛を説明すると、神の愛を定量的に計測しているような感覚になるが、それと同時に神の愛は、定量的には把握不可能であるという感覚を与える。神の愛は定量的に計測可能であると言うのは、それが実体の無いものでも、伝説の中で生み出されたものでもないからである。神の愛は、むしろ神の支配下にある万物により共有されているものであり、様々な規模において、様々な側面から、全ての被造物が享受しているものである。人々は神の愛を見ることも触ることもできないが、万物の生の中で神の愛が少しずつ明らかにされるにつれ、その愛は万物が必要とする物事といのちをもたらすようになり、万物は自分達が常に享受している神の愛を数え上げてそれを証しするようになる。神の愛は定量化不能であると言うのは、神が万物に施し、万物を育む奥義は、万物に対する神の思い、特に人間に対する思い同様、人間が計り知り難いものであるからである。すなわち、創造主が人間に注いできた血と涙を知る者は居ない、ということである。創造主が自らの手で創った人間に対する愛の深さや重さを理解できる者は居ない。神の愛を「計り知れない」と説明したのは、その愛の広さと、その愛が存在するという真実を人々が理解することに資するためである。またそれは、「創造主」という言葉の実際の意味を人々がより深く理解し、「被造物」という言葉の真の意味を一層深く理解することができるようにするためである。「広大」とは、通常どのような意味であろうか。この語は、海や宇宙など、一般に広大なものについて用いられる。宇宙の広さや静かな深さは、人間の理解を超えるものであり、人間の想像力を刺激し、驚きをもたらすものである。その神秘と深遠さは、目に見えても手の届くものではない。海は果てしないもののように思われ、その神秘と包容力を感じるなど、海はその広さを連想させるものである。ここで「広大」という言葉を用いて神の愛を説明したのは、この理由による。この語を用いたのは、神の愛がいかに尊いかを理解し、神の愛の深遠な美しさと、無限の広がりを持つ神の愛の力を実感する上で役立てるためである。この語を用いたのは、人間が神の愛の神聖さ、神の愛により示される神の威厳と、侵害不可能な存在を感じ取る上で役立てるためである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 人間が神に敵対したため、神は人間を忌み嫌った。しかし神の人間に対する思い、配慮、憐れみは変わることがなかった。人間を滅ぼした時でさえ、神の心は変わってはいなかった。人間が堕落と神への不従順に満ち、それが一定の程度に達したとき、神は自身の性質と本質、そして神の原則のゆえにこのような人間を滅ぼさなければならなかった。しかし、神の本質のゆえに、神はそれでも人間を憐れみ、様々な方法で人間を贖い、彼らを生かし続けたいとすら願った。しかしながら人間は神に反逆し、神への不従順を続け、神の救いを受け入れることを拒絶した──つまり神のよい意図を受け入れることを拒んだ。神がどのように人間に呼びかけ、思い出させ、与え、助け、寛容に接しても、人間はそのことを理解または感謝せず、あるいは注意を払うこともしなかった。痛みの中にあっても、神は人間が心を改めるのを待ち、最大限の寛容を人間に与えることを忘れなかった。そして神が自身の限界に達した後、神は自身が行わなければならなかったことを迷いなく行った。別の言い方をすれば、神が人間を滅ぼすことを計画し始めた時から、実際に人間を滅ぼす働きを正式に始めるまでの間には、一定の期間と過程があったということだ。この過程は人間が心を改める機会を与えるために存在した。そしてそれは神が人間に与えた最後のチャンスだった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 では神が実際に人間を滅ぼすまでの期間、神は何をしていたのだろうか。神は人間に思い起こさせ、忠告するために多くの働きをしていたのである。神の心がどれほどの痛みと悲しみにあったかに関わらず、神は人間を配慮し、心配し、溢れるほどの憐れみを人間に注ぎ続けたのである。このことからわたしたちは何を見るだろうか。神の人間に対する愛が真実であって、お世辞のようなものだけでないことがはっきり見て取れる。その愛は実際に存在し、感じ知ることができ、偽物ではなく、汚れたり、欺いたり、あるいは偽装したりしていないものである。神は自分が愛すべき者であることを人々に見させるために、騙したり、イメージを繕ったりすることは決してしない。偽証によって自分の魅力を人々に見せようとすることも、自分の魅力や聖さを誇示することもない。このような神の性質は人間の愛を受けるに値するものではないか。礼拝されるに値するのではないだろうか。大切にされるに値するのではないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 ニネベの町は、ソドムの人々と同様に腐敗し、邪悪で凶暴な人々で満ちていたのに対し、ニネベの人々の悔い改めにより、神の心が変わり、ニネベの人々を滅ぼさないことに決めた。神の言葉と命令に対するニネベの人々の反応は、ソドムの民の姿勢と比べると極めて対照的な姿勢であり、ニネベの人々の誠心誠意による神への服従と、罪の悔い改め、そしてあらゆる面における心からの行動のため、神は再び、心からの哀れみを示し、その哀れみをニネベの人々に与えた。神の人間に対する報いと哀れみは、誰も真似をすることが出来ない。神の憐れみと寛容さや、神の人間に対する真摯な思い入れを持つことが出来る者は、存在しない。あなたが偉大な人物あるいは超人であるとみなす男性や女性のうち、そうした偉大な人物あるいは超人としての高い立場、崇高な立場から、人類や創造物に対してこのような発言をする人が存在するであろうか。人間のうち、誰が人間の生活状況を自分の手のひらのように熟知できようか。誰が人類の存在に伴う負担と責任を負うことが出来ようか。誰がひとつの町の破壊を宣言できようか。そして、誰がひとつの町を赦すことが出来ようか。誰が、自分の創造物に愛着があるなどと言えようか。それが出来るのは、創造主だけである。人類に対する慈愛を感じるのは、創造主だけである。人類に対する優しさと愛慕を示すことができるのは、創造主だけである。人類に対する変えることのできない真の愛情があるのは、創造主だけである。同様に、人類に憐れみを与え、神の創造物の全てを愛慕することが出来るのは、創造主のみである。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 2」より

 創造の時から今日まで、この最後の集団ほどに神の恵みと憐れみを享受した集団は他になかったと言えるだろう。最後の段階では、神は裁きと刑罰の業を行い、威厳と怒りによって業を行っているが、ほとんどの場合神は業を成し遂げるために言葉のみを用いる。言葉により教え、育て、施し、養うのである。その間神の怒りはずっと隠されており、神の言葉の中に神の怒りの性質を体験する場合を除いては、神の怒りを実際に体験したことのある人はほとんどいない。つまり、神の裁きと刑罰の業が行われている間、神の言葉の中に現されている神の怒りによって人々が神の威厳と人間の悪に対する不寛容さを経験することはできるが、神の怒りはその言葉以上のものにはならないのである。言い換えれば、神は言葉を用いて人を戒め、暴き、裁き、罰し、責めることすらするのである。しかし神はまだ人間に深い怒りを持っておらず、そして言葉以外に人間に対する怒りを発したことはほとんどないのである。したがって、この時代に人間が経験した神の憐れみと慈愛も、神の真の性質の現れである一方で、人間が経験した神の怒りは単に神の言ったことと口調の影響に過ぎないのである。多くの人がこの影響を神の怒りの真の経験と認識だと誤解している。その結果、ほとんどの人々が神の言葉の中に神の憐れみと慈愛、そして人間の罪に対する神の不寛容を見たと信じており、ほとんどの人々が神の人間に対する憐れみと寛容を知ったとさえ思っている。しかし人間の行いがどれだけ悪かったとしても、どれだけ人間の性質が堕落していたとしても、神はいつでもそれに耐えてきた。神が忍耐する目的は、自身の語った言葉、神が注いだ労苦、神が払った代価が、神が勝ち取りたいと願っている人々の中に効果をもたらすことである。このような結果の達成には時間がかかる。また人間のために違う環境を用意する必要もある。人が生まれてすぐ大人になることがなく、成熟した本当の大人なるまでに18年から19年かかり、20年から30年かかる人もいるのと同様に、である。神はこの過程の完了を待っており、そのような時が来るのを待っている。そしてその結果を見るのを待っているのである。そしてその待っている間、神はとても憐れみ深いのである。しかしながら神の業のこの期間に、極めて少ない人数の人々は滅ぼされ、また重大な反抗のゆえに罰を受けた人々もいる。そのような例は、神の悪に対する手厳しい性質のより確かな証明でもあり、そしてまた神が選んだ人々に対しての寛大さと忍耐強さの真性の証明である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

 事実、この神の業の最終段階では、神は待ち続けていたその間ずっと耐え続けてきたのであり、神に従う者の救いのため、その忍耐と命を引き換えにしたのである。このことが理解できるだろうか。神は理由なく計画を覆さないのだ。神は怒りを爆発させることもできるし、憐れみ深くいることもできるのである。これが神の性質の現れにおける2つの主要な部分である。はっきりわかるだろうか、あるいははっきりしていないだろうか。別の言葉で言えば、神に関して言えば、善悪、正と不正、肯定的なものと否定的なものの全ては人間に対してはっきり示されているのである。神が行い、好み、また嫌うもの──これらのことは全て神の性質の直接的な反映となりえる。このようなことは神の業にわかりやすく明確に見ることができ、そして不明瞭であったり概要的であったりすることはない。むしろ、これらのことは全ての人々が神の性質と神であることを、揺らぎない、真実性のある、具体的な形でしっかり見ることを可能にする。これが本当の神自身なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

 この時代に、神が自身の計画を全うし、救おうとしている人々を救うことが待ちきれないということではないのか。このような状況で神が最も問題とすることは何か。それは、神に全く付き従わない者たちやどちらにしても神に反対する者たちがどのように自身を扱い、拒否するかでも、人間がどのように神を中傷するかでもない。自身に従う者たち、すなわち神の経営計画において救いの対象となる人々が、神によって全き者となったかどうか、彼らが神自身が満足する者になったかどうかが、神にとっては問題なのである。神に付き従う者以外の人間に対しては、神は時々多少の罰をもってその怒りを示すだけである。例えば、津波、地震、火山噴火などである。それと同時に、神は神に従う者とまもなく救われる者を強固に保護し世話をする。神の性質とは次のようなものだ。神は自分が完全にしようとする人々には桁違いの忍耐と寛容さを示し、待てる限り待ち続ける一方で、神に付き従わずに敵対するサタンの輩を激しく忌み嫌う。神はこのサタンの輩が自分に従い礼拝するかは気にかけてはいないが、彼らに対する忍耐を持ちながらも彼らを忌み、神がこのサタンの輩の最後を決めると同時に、自身の経営計画が段階的に進んでいくのを待っている。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 神からすれば、その人が偉大な者であってもなくても、神を聞くことができ、神の命令と神の任務に従い、神の業、神の意志、神の計画に協力することで神の意志と計画が円滑に達成されるようにするならば、その行いは神に覚えてもらうに値し、また神の祝福を受けるに値するのである。神はそのような人々を大切にし、そして神は彼らの行動、そして神への愛と思いを尊いものとするのだ。それが神の姿勢である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 神が人を造った当初から、勝利を獲得できる人々、自身と歩み理解し、深く知り、その性質を理解できる人々を神は求めていた。この神の願いはずっと変わらない。どれほど待たなければならないとしても、どれほどその行く手が困難でも、目的とするものがどれほど遠くても、神は人間に対する期待を変えたり諦めたりしたことはない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

 サタンの思うように攻撃させないのは神の憐れみであった。神にとって、ヨブがサタンに誘惑されて好きなように虐げられたことでもうたくさんだったのだ。神は同じ事をサタンにはさせなかった。神に従う人々の人生とその人々の全ては神によって支配され作り上げられており、神の選民をサタンが操る権利はなかった。この点ははっきりと理解しなければいけない。神は人の弱さに心を砕き、人の愚かさや無知さを理解する。人が完全に救われるために、神は人をサタンの手に渡さなければならないが、人がサタンの手によって玩具のように扱われるのを神は喜んで見ることはない。神は人が常に苦しむのを見たいとは思わない。人間は神によって造られ、人間の全てが神によって支配され管理されることは全く義なることである。そうすることは神の責任であり、神が全てを支配する権威によるものである。神はサタンが意のままに人間を虐げ虐待することを許さず、様々な手段で人間を進むべき道から踏み外させることを許さず、更に、人間に対する神の主権を犯すことを許さず、神が全てを支配する法則を踏みつぶして壊すことも許さず、人間を管理して救う神の偉大な働きを踏みつぶして壊すことを許さないのは言うまでもない。神が救いたいと望む人々、神の証しとなる人々は神の6千年の経営(救いの)計画の中心であり結晶であると同時に、神の6千年の働きの代価である。簡単にサタンに渡せるはずがない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

 ヨブは試練の中にあって神に対して証しとなっていたため、神に受け入れられた。一方ヨブの友人達は、ヨブが試練を通る中で明らかにされていった。つまり、彼らの愚行故に神に責められ、神の怒りを引き起こした。そのため彼らはヨブの前で全焼のいけにえをささげることで神に罰せられなければならないのである。その後、ヨブは彼らに対する神の罰と怒りを静めるために祈った。この出来事における神の目的は、彼らを恥じ入らせることであった。彼らが神を畏れ悪を避けることをせず、ヨブの高潔を非難したためである。ここで示されることのひとつは、神は彼らの行いを受け入れていないと言っていると同時に、ヨブを喜んでいるということである。そしてもうひとつは、神に受け入れられることにより、人は神の前に引き上げられるということである。愚行により人は神に嫌われ、愚行は神の怒りを引き起こす。そのような者は神の目には低く卑しいものであるということである。これが神による2種類の人間の定義であり、この2種類の人間に対する神の姿勢であり、2種類の人々の地位や価値に対する神の明確な説明である。……神のはっきりと異なったふたつの態度は、2種類の人々に対する態度である。すなわち、神を畏れ悪を避ける者は神に受け入れられ、尊いが、神を畏れず悪を避けることのできない愚か者は神の好意を得ることはできず、しばしば神に嫌われ、責められる。彼らは神の目に卑しい者たちである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

 キリストの窮状に頻繁に共感する人々が居るが、それは「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない。」と述べる聖句があるからである。人々がこれを聞いた時、人々はそれに共感し、それは神が堪え忍んだ大いなる苦難であり、キリストが堪え忍んだ大いなる苦難であると考える。しかるに、それを事実という観点から見た場合、実際にそうした状況であろうか。神は、そうした問題が苦難であるとは考えない。神が肉の問題の不当なことに対して悲しんだことも、人間に対して神に対する何らかの代償を要求したこともない。しかし、腐敗した生活や腐敗した人間の邪悪、人間がサタンに支配されていること、サタンの捕らわれの身となり逃れることができないこと、罪の中で生きる人々が真理とは何かを知らないことなど、人間の全てを神が目の当たりにする時、神はこうした罪のすべてに耐えることが出来ない。人間に対する神の強い嫌悪感は日ごとに増していくが、神はそれに耐えねばならない。これが神の甚大な苦難である。神は自身に従う者に対して心の声や感情すらすべて表出することが出来ず、神に従う者のなかに、神の苦難を完全に理解できる者は居ない。誰ひとりとして、神の心を理解し、慰めようとすることさえしない。神の心は、毎日、毎年、そして幾度となく、この苦難に堪え忍ぶ。このことから何が分かるであろうか。神は、神が授けた物事に対する見返りを人間に要求してはいないが、神の本質が原因となり、神は人間の邪悪、腐敗、罪を見過ごすことが全く出来ず、強い嫌悪と憎しみを感じるので、神の心と身体は終わることのない苦難を受ける。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 人間の生活における様式や律法等は、すべてサタンの理論、知識、哲学に基づいている。この種の律法に基づいて生きる人間には人間性も真理もない。こうした人間は全員真理に逆らい、神を敵対視している。神の真髄について検討すると、神の真髄は、サタンの理論、知識、そして哲学とは正反対であることが分かる。神の真髄は正義、真理、聖さその他の肯定的な事柄の真実で満たされている。こうした真髄を持ちつつ、人間の中に生きていた神の心は何を感じたであろうか。それは苦痛ばかりではなかろうか。神の心は苦痛を感じ、その痛みに気付いて理解する人間は誰も居ない。神が直面し、見聞きし、経験する全ての物事が、人間の腐敗、邪悪、そして真理に対する反逆と反抗である。人間に由来する全ての物事が、神の苦難の原因である。つまり、神の真髄は腐敗した人間とは異なるため、人間の腐敗が神の最大の苦難の原因となる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 神が受肉して人間として人間の中で生活を経験し、人間の腐敗や人間生活の惨状を目の当たりにした後、受肉した神は、人間の絶望や悲しみ、哀れさを深く感じた。受肉して生活した際の人性と直感が原因となって、神は人間の惨状に対する憐れみを一層深めた。その結果として、神は、神に付き従う者に対する懸念を深めた。こうした事柄は理解できないかもしれないが、神に付き従う者全てに対する受肉した神の懸念と慈しみは、「極めて強い懸念」という表現で表わすことができるであろう。強い懸念という言葉は人間の言葉であり、極めて人間的な言葉ではあるが、神に付き従う者に対する神の気持ちを真に表現している。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 神が受肉して人間の中で長期にわたって生活したとき、人間の様々な生活様式を経験し、目の当たりにした後、……自ら経験したときに考えたのは、どうすれば良い生活を送れるか、どうすれば一層自由で快適な生活が送れるか、といったことではない。神が実際の人間生活を経験した時、主イエスは、サタンの腐敗に支配されサタンの領域で生活し、罪の中で生きる人々の困難、悲惨さ、そして悲しさを目の当たりにした。イエスが自ら人間生活を経験している時に、イエスは腐敗の中で生きる人々がいかに無力であるかを経験し、また罪の中で生き、サタンや悪による拷問のなかで迷う人々の悲劇を見て、経験した。……主イエスは、心のなかで、自らを人類に進んで捧げ、自らを進んで犠牲にした、と言えるであろう。またイエスは進んで罪のためのいけにえとなり、十字架にはり付けになり、この業を完遂することを望んでいた。イエスが人間生活の悲惨な状態を見た時、一分一秒も遅れることなく、早急に自身の使命を成し遂げることを、一層強く求めた。神がこうした喫緊の必要性を認識した時、神は自身の受ける痛みがどれほど酷いものか、どれほどの恥辱に耐えなければならないかなどとは考えていなかった。イエスの心にあったのは、自らを捧げ、罪のためのいけにえとして十字架にはり付けられる限りにおいて、神の旨が実行されて新たな業を始めることが出来る、罪の中にある人間生活、罪の中に存在する人間の状態が全く別のものに一変する、という確信のみであった。イエスの確信と、実行を決意した業は、人間の救いに関連するものであり、イエスの唯一の目的は、神の旨を遂行して業の次の段階を開始出来るようにすることであった。この時主イエスの心にあったのは、そのようなことであった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における生活では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の配慮があり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。人間から見ると、復活した後に主イエスが行った業は、極めて小さなことであるものの、わたしから見ると、それら全てが有意義であり、貴重であり、またそうした業はすべて極めて重要である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 神は、人々が自身を回避したり、自身の前から立ち去ったりするのを望まなかった。神は、人々が自身を理解し、自身に近づき、自身の家族となることを望んでいた。あなたの家族や子ども達が、あなたを見て、あなたであることを認識せず、あなたに敢えて近寄らず、常に回避していたとしたら、あなたが家族や子のために尽くしたことを、家族や子ども達に理解してもらえなかったとしたら、あなたはどのように感じるであろうか。それは辛いことではなかろうか。あなたの心が痛むのではなかろうか。人々が神を避けた時に神が感じるのは、まさにそうした感覚である。そこで、復活後、主イエスは肉と血のある姿で人々の前に現れ、人々と飲食を共にしたのである。神は人々を家族と考え、また人々にも神を家族と考えることを望む。なぜなら、神が真に人々を得て人々が真に神を愛し、礼拝することが出来るのは、この方法によるほかはないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 神は、神が造ったあらゆる物や人間、生き物について、その取り扱い、それに対する姿勢、経営、管理、支配について、誠実で、責任を持っており、決して不注意でいることはない。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない罰を与える。そして様々な生き物については、人間の世界における、その時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で、適切な采配を行うので、そうした様々な生き物は、それぞれが受け持つ役割に従い、秩序をもって生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊的世界の間を行き来する。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 10」より

 それが霊的世界であるか、物質世界であるかを問わず、神が業を行う原則は変わらない。あなたが神の業を理解できるかどうかを問わず、その業の原則は変わることが無い。神の万物に対する姿勢と処遇には、一貫して同じ原則がある。これは変わることが無い。神は、信仰の無い者のうち、比較的真面目に生活している者に対しては親切であり、また様々な宗教の信者のうち、行いが正しく、悪業を行わない者から機会を奪われることは無く、こうした者は神が経営している全ての物事において役割を担うこと、なすべき事を行うことを許されている。同様にして、神に付き従う者、神の選民についても、神は差別すること無く、神の原則に従う。神は、心から神に従うことの出来る者全てに対して親切であり、またその者を愛する。ただし、信仰の無い者、様々な宗教の信者、そして神の選民といった様々な種類の人々について、神が与える物事は異なる。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 10」より

 神の至高、偉大さ、聖さ、寛大さ、愛…これら全ての様々な神の性質と本質の側面は、神が業を行うたびに現れるものであり、神の人間に対する意志が具現化されたものであり、そして全ての人間に対し履行され、反映されるものである。あなたがこれまでにそう感じたことがあるかどうかに関わらず、神は全ての人をあらゆる方法の限りを尽くして思いをはせ、一人一人の心を温めるため、そして一人一人の霊を呼び覚ますため、誠実な心、知恵、そして様々な方法を用いている。これは議論の余地のない事実だ。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

 神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、「わたしは天の上にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と述べている。神の手は温かく力強い。神の足取りは軽やかである。神の声は温和で優しい。神の身体はすれ違いざまに振り向いて人類すべてを抱擁する。神の表情は優美である。神は、立ち去ることも、消え去ることも無かった。神は、夜明けから日没まで、常に人間と共にある。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 2」より

 神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。

『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より

 いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

 神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。神のいのちは、天や地が激変する間も永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より