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神への真の信仰とは何で、神の賞賛を得るためには神をどのように信じるべきか

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「神への信仰」とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

神への真の信仰は、救われるために神を信じることではないどころか、よい人であることでさえありません。また人間らしさを持つために神を信じることでもありません。実際、信仰というものを、単に神の存在を信じていることとして見るべきではありません。つまり、神は真理であり、道であり、いのちであり、それにつきると信じさえすればよい、ということではないのです。また、神を認め、神は万物の支配者にして全能であり、この世のすべてのものを創造し、唯一にして至高であると信じればよいということでもありません。信仰はあなたにこれらの事実を信じさせるだけのものではありません。あなたの存在全体と心が神に与えられ、神に服従するべきだというのが神の旨です。つまり、神に従い、神があなたを用いられるようにし、神のために力を尽くすことを喜び、神のために何でもするべきなのです。

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求だけが神への真の信仰である」より

今日、神に対する真の信仰とは何だろうか。それは、神の真の愛を達成するために、神の言葉をあなたのいのちの真実として受け入れることであり、神の言葉から神を知ることである。明確にするために言うと以下のように言える。すなわち神への信仰は、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神の被造物によって為されるべき本分を遂行することに資するものである。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、造ったものの中で、神がいかに救いの働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、あなたが神への信仰において所有しなければならない最低限である。神への信仰は主として、肉における生活から神を愛する生活への転換、自然のままの生活から神という存在の内部での生活への転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰は主として、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためである。その結果、あなたは、神の旨を行い、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンの前で神への証しとなることができるようになる。神への信仰は、しるしや不思議を見るためであってはいけないし、あなたの個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死を賭してまで神に従うことを追求する行為でなければならない。これが、信仰を達成するために必要な主なものである。神の言葉を食べて飲むことは、神を知るためであり、神を満足させるためである。神の言葉を食べて飲むことは、あなたに神についてのより大きな認識を与える。そして、そうなってはじめて、あなたは神に従うことができる。あなたは神を知ってはじめて、神を愛することができ、そしてこの目的の達成は、人が神への信仰において持つべき唯一の目的である。もし、あなたの神への信仰において、あなたがいつも、しるしや不思議を見ようとするなら、そのような神への信仰の考え方は間違っている。神への信仰とは、主に、いのちの真実として神の言葉を受け入れることである。神自身の口から出た言葉を実践し、あなた自身の内部でそれらの言葉を成し遂げることだけが、神の目的の達成である。神を信じることにおいて、人は神によって完全にされること、神に服従することができること、そして神への完全な従順を、追求すべきである。もしあなたが不平もなく神に従うことができ、神の希望を心に留め、ペテロの霊的背丈に達し、そして神が言うところのペテロの流儀を所有するなら、それはあなたが神への信仰に成功したときであり、そしてそれは、あなたが神のものとされたことを意味するだろう。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

神を信じているのだから、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を体験し、神の言葉を生き抜かなければならない。それだけが神を信じることであると言える。口では神を信じると言いながら、どの神の言葉を実践することも、どんな現実を引き出すこともできないなら、それは神を信じることであるとは言えない。そうではなく、それは「飢えを満たすためにパンを求めること」である。取るに足らない証しや役に立たない事柄、表面的な物事について話すだけで、現実をほんの少しも得ていないのは神への信仰ではなく、神を信じる正しい道も全然把握していないことになる。なぜ可能な限りに多くの神の言葉を飲み食いしなければならないのか。もし神の言葉を飲み食いしないが、天に昇ることだけを求めるならば、それは神を信じることであろうか。神を信じる人が進むべき最初の一歩は何か。神はどのような道により人間を完全にするのか。神の言葉を飲み食いすることなく人は完全にされることができるのか。神の言葉を現実としてもたずに、神の国に属する民とみなされることができるだろうか。神への信仰とは正確には何なのか。神を信じる人々は、少なくとも外見上はよい振る舞いをしなければならない。何よりも重要なことは、神の言葉をもっていることである。どうなろうとも、神の言葉から決して離れることはできない。神を知ること、神の心を満たすことはすべて神の言葉をとおして達成される。将来において、すべての国、教派、宗教、領域は言葉をとおして征服される。神は直接話し、すべての人々は神の言葉をその手に抱く。これにより、人類は完全にされる。内にも外にも、神の言葉はあらゆるところに行き渡る。人類は自らの口で神の言葉を語り、神の言葉にそって実践し、神の言葉を内に留め、内も外も神の言葉に満たされる。このようにして人は完全にされる。神の心を満たし、神の証しを立てることができる人々は、神の言葉を現実として自分のものにする人々である。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より

今、全ての人々は、神に仕える者は神のためにどのように苦しむかを知ることだけでなく、更に、神を信じるということは、神を愛することを求めるためであることを理解すべきである、ということを知っている。神があなたを用いるのは、単にあなたを精錬したり、苦しませたりするためではなく、あなたが神の行為を知るようになるためであり、人生の真の意義、とりわけ、神に仕えることは容易な業ではないことをあなたが知るようになるためである。神の業を体験することは、恵みを楽しむというよりも、むしろあなたの神への愛のために苦しむことである。あなたは神の恵みを享受しているのであるから、神の刑罰も享受すべきである――あなたは、これらのこと全てを体験しなければならない。あなたは神があなたの内に与える啓示を体験できることもあれば、あなたへの神の取り扱いと裁きを体験できることもある。そのようにして、あなたは全ての側面を体験する。神は、あなたに裁きの業を行い、また刑罰の業も行った。神の言葉は、あなたを取り扱ったが、それはまた、あなたに啓示と明察も与えた。あなたが逃げたいと思う時、神の手は依然としてあなたを捉えている。こうした業は、全部人間に関する全てのことが神の意のままであることをあなたが知るようになるためである。あなたは神を信じることとは、苦難を受けること、または神のために多くの事を行うこと、あるいは自分の肉の平穏のため、自分にとって全てのことがうまくいき、全てが快適であることのためだと思うかも知れない――しかし、神を信じるためには、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。あなたがそのように信じているのであれば、それは誤った見方であり、あなたは決して完全にされることはない。神の行い、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の驚異とはかり知れない性質は、全て人々が理解すべきことである。そうした理解により、個人的な要望、及び自分個人の希望、心中の観念を取り除きなさい。これらのことを排除してはじめて、あなたは神の要求する条件を満たすことができる。このことを通してのみ、あなたはいのちを得、神を満足させることができるのである。神を信じることとは、この値なき人々の群れを通して神の行いと栄光が表出されるために、神を満足させ、神が求める性質を実際に生き抜くためのものである。これが、神を信じるための正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは、神を信じるための正しい観点を持ち、神の言葉を得ることを求めなければならない。あなたは、神の言葉を食べ飲みし、真理を実際に生き抜き、とりわけ神の実際の行い、遍く全宇宙において為される神の素晴らしい業、また、神が肉の内に為す実際の業を見る必要がある。実際の体験を通して、人々は神がどのように自分の業を彼らの上に行うのか、また、彼らに対する神の意志は何であるかを理解することができる。これらの全てはあなたの堕落したサタンによる性質を排除するためである。あなたの中にある汚れと不義を払拭し、誤った意図を取り除けば、あなたは神への真の信仰を育むことができる。真の信仰を持つことによってのみ、あなたは神を真に愛することができる。あなたは、神への信仰を基礎としてのみ、ほんとうに神を愛することができる。神を信じずに神を愛することができるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについては考えが混乱することはないはずである。ある人々は、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを見るとすぐに活力に満ちる。しかし、精錬で苦しまなければならないと知るとすぐに全ての精力を失う。これが神を信じることだろうか。最終的に、あなたは信仰において神の前での完全無欠の服従を成し遂げなければならない。あなたは神を信じているが、まだ神に要求している。また、捨てきれない多くの宗教的観念がある。諦めきれない個人的な利益がある。そして、依然として肉の祝福を求め、神があなたの肉を助け出し、あなたの魂を救うことをねがう――これらは全て誤った観点を持つ人々が表すことである。宗教的信念を持つ人々は、神を信仰してはいるものの、性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者は、宗教的信念の域に属する信仰を持っている。それは神への真の信仰ではない。神を信じるためには、人々は、神のために苦しむ心と、自分自身を捧げる意志を持っていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、それは神への信仰とはみなされず、彼らは性質における変化を達成することはできないであろう。心から真理を追い求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人々だけが、神を真に信仰している者である。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より

ペテロは、神を信じる中で、全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではないだろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練――これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、純粋な神への愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物として相応しいということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。神のために働くことができるのに、神に従わず、また神を真に愛することができないということを想像してみてほしい。このような場合、あなたは、真理を持たず、神に従うことができず、神に反抗しているがために、被造物の本分を尽くすことがないばかりか、神に非難されるのである。あなたは、神のために働くことしか考えず、真理を実践することあるいは自分自身を知ることに無関心である。あなたは、創造主を理解できず、また知ることもせず、創造主に対して従うことも愛することもしない。あなたは生まれつき神に背いている人間なのだから、そのような者は、創造主に愛されないのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

神を信じる中でペテロの道を歩むことを簡単に言うならば、それは真理を追い求める道を行くことであり、その道はまた真に自分自身を知って自らの性質を変える道でもあります。ペテロの道を歩むことでのみ、人は神によって完全にされる道を進むのです。ペテロの道を具体的にどのように歩むか、それをどのように実践に移すかをはっきり知らなければなりません。第一に、自分自身の意図や不適切な追求だけでなく、自分の家族や肉体にかかわるすべてのことさえも脇へのける必要があります。心から献身的であらねばならず、神の言葉に自分自身を完全に捧げ、神の言葉を飲み食いすること、真理を探求すること、そして神の言葉の中にある神の意図を探し求めることに集中し、すべてにおいて神の心を把握しようと努めなければなりません。それが最も根本的にして決定的な実践の方法です。ペテロが主イエスを見たあとに行なったのもそれであり、そのように実践することでのみ、人は最高の結果を得られます。神の言葉に対する真心からの献身が主に意味するのは、真理を探し求めること、神の言葉の中にある神の心を探し求めること、神の心を把握することに集中すること、神の言葉からさらなる真理を理解し獲得することです。神の言葉を読むとき、ペテロは教義を理解することはおろか、神学的な知識を得ることにさえ集中してはいませんでした。その代わりに真理を理解すること、神の心を把握すること、そして神の性質と素晴らしさの理解を得ることに心を砕いたのです。また、人間の様々な堕落した状態を神の言葉から理解し、その堕落した本性や真の欠点を認識しようと努め、神が人間に課す要求のすべての側面を満たし、神を満足させました。ペテロは神の言葉において数多くの正しい実践を自分のものとしていましたが、それは神の心にもっともかなっており、また神の働きを経験しつつ人が行なうもっとも優れた協力です。…

神が求める物事や言葉から、神の言葉の現実に入れるなら、その人は神により完全にされる人です。神の働きと言葉はその人にとって完全に効果的であり、神の言葉はその人のいのちとなり、その人は真理を得て神の言葉に従って生きることができる、と言えます。その後、その人の肉体の本性、つまり本来の生存の基礎は揺れ動き、崩れ落ちます。神の言葉をいのちとしてえたあと、人は新しい人間になります。神の言葉がいのちとなるのです。神の働きのビジョン、神の人間への要求と暴露、そして神が人間に成し遂げるよう求める真のいのちの基準、そうした言葉や真理に従ってその人は生き、神の言葉により完全にされるのです。その人は生まれ変わりを経験し、神の言葉を通じて新しい人間になります。これがペテロが真理を追い求めた道です。それは神の言葉により完全にされ、神の言葉からいのちを得る道でした。神により表された真理が彼のいのちとなり、その時はじめて、ペテロは真理を得た人となったのです。

『キリストの言葉の記録』より

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