神の働き、神の性質、そして神自身 2

前回の集会で話したことは非常に重要なテーマだった。内容をみなさん覚えているだろか。もう一度繰り返させてもらう。前回の集会で扱ったテーマは、神の業、神の性質、そして神自身であった。それはあなた方にとって重要なテーマだろうか。どの部分が最も重要だろうか。神の業の部分だろうか、あるいは神の性質の部分だっただろうか。もしくは神自身だっただろうか。どれが一番興味深いと感じただろうか。どれについて最も聞きたいと思っているだろうか。もちろん、特にひとつを選ぶことは難しい。なぜなら、神の性質というのはあらゆる神の業の中に見出すことができるものであるし、神の性質はその働きの中に常にあらゆる場所で明らかにされており、それが神自身を現す効果がある。神の全体の経営計画の中で、神の業、神の性質、そして神自身はそれぞれを切り離すことはできないのである。

前回の講義は、聖書に記述されている遠い昔の出来事に関する内容だった。それらは神と人間の関係にまつわる物語であると同時に、人間に対して起こったことであり、神の介入と啓示を伴うものであったゆえ、私たちが神を知る上で特別な価値と意味を持つものであった。神は人を創造した後、すぐに人と関わって人に話しかけ、その神の性質は人間に現され始めた。つまり、神が最初に人と関わったときから、神は自身を人間に対し開かれた存在とし、自身の本質、自身の持っているものと自身が何であるかを絶えず示した。端的に言うと、当時の人々、あるいは今日の人々がそれを見たり理解したりできるかどうかに関わらず、神は人間に語りかけ、人間の間で働き、自身の性質を現し、自身の本質を表現した。これは事実であり、誰も否定できない。これは、神の性質や本質、そして神が持っているものと神が何であるかは常に神自身から発せられており、神が人間に対して働き、関わる時に発せられていることも意味する。神は人間に何も隠しておくようなことはせず、むしろ自身の性質を公に惜しみなく示している。つまり、神は人間が神を知ること、そして神の性質や本質を理解することを望んでいるのだ。神は、人間が神の性質と本質を永遠の謎のようにしておくことを望んではおらず、また絶対に完成することのないパズルのように考えることも望んではいない。人間は神を知る時のみ、自分の前にある道を知り、神の導きを受け入れることができる。そしてそうすることのできる人間だけが、本当の意味で神の支配の下で、光の中を、そして神の祝福の中を生きることができるのである。

神によって発せられ明らかにされた言葉と神の性質は神の心を現し、また神の本質を現している。神が人間とつながる時、神が何を言い、何をし、どのような性質が現されるかに関わらず、それら全ては人間に対する神の心を現わしており、また人間がどのように神の本質、神が持っているものと神であることを捉えるかに関わらず、それらは全て神の人間に対する心を現すものだ。人間がそれをどれだけ認識し、知り、理解できるかに関わらず、それらは全て神の心、神の人間に対する心を現しているのである。これは間違いない。神の人間に対する心というのは、神が人間にとってどのような存在であるかとういうことであり、神は人間が何を行い、どのように生きることを求めているかということであり、神の心を成就するためにどのように人間が能力を発揮することを求めているかということである。これらのことを神の本質から切り離せないものだろうか。つまり、神は人間に要求すると同時に、自身の性質と、自身の持っているものと自身が何であるかの全てを示し続けているのである。そこには偽証も、偽装も、隠匿も、粉飾もない。それでも人間がそれを知ることができず、はっきりと神の性質を認識することができないのはなぜだろうか。そしてなぜ、神の心を理解できないのだろうか。神により示され、発せられているものは神が持っているものや神が何であるかであり、それは神により示されており、神の本質であり、神の性質のあらゆる面であるのになぜ、人間には理解できないのだろうか。人はなぜ詳細に知ることができないのだろうか。それには重要な理由がある。その理由とは何か。創造の時から、人間は神を神としてこなかった。人類の歴史の最初期には、神が創造したばかりの人に対して何をしたかはさておき、人間は神を単に頼れる仲間のような存在としてしか扱わず、神であるという認識や理解はなかった。つまり人間は、この頼れる仲間のように見ていた存在から示されていたものが神の本質であったことを知らず、またこの存在が全てのものを治めていることを知らなかったのである。単純に言って、当時の人々は神の知識は全く持っていなかったのだ。天も地も全てのものはその神によって創造されたということを知らず、その神がどこから来たのかを知らず、そしてそれ以上に、その神が何者であったのかを全く知らなかった。もちろん当時は、神は人間に神を知り、理解し、神のしていることを理解し、神の心を知ることを求めてはいなかった。彼らが人類の創造から間もない時代だったからである。神が律法の時代に向けて準備を開始したとき、神は人間に対していくつかのことを行い、人間にいくつかの要求をし、どのように捧げ物を捧げ、神を礼拝するかを教えた。その時はじめて、人間は神に対して簡単な観念を少し持つようになり、神と人間は違うということ、そして神が人間を想像したということを知った。神は神であり、人間は人間であるということを人間が知った時、神と人間のあいだには一定の距離が生まれたわけだが、神は、神に対する多くの知識や深い理解を人間に求めることはしなかった。つまり神は、人間に対し、自身の働きの段階と状況に応じて要求をされるということである。このことから何が分かるだろうか。神の性質のどのような側面が理解できるだろうか。神は実在するのだろうか。神が人間に求めることは、人間の身の丈にあったものだろうか。神が人間を造って間もないころ、神がまだ人間を支配し完全な者とする業を行っておらず、人間に対し多くを語ってもいなかった。そのころ神は人間に対して求めることをほとんどしなかった。人間が何を行い、どのように振る舞っていたにしても、―たとえそれが神を怒らせるような振る舞いだったとしても―神は全てを大目にみて、赦していた。なぜなら神は自分が人間に与えたものを知っており、人間の中にあるものが何かを知っていたからである。それゆえ神は人間にどの程度要求すべきなのかという基準もわかっていた。神の人間に対する当時の要求の基準は非常に低いものだったが、それは神の性質が素晴らしくないとか、あるいは神の知恵や全能性が単なる空しい言葉であるということではない。人間にとって、神の性質、そして神自身を知る方法というのはひとつしかない。それは神の管理と人間の救いの段階に従い、神が人間に語りかける言葉を受け入れることである。神の持っているものと神が何であるか知り、神の性質を知っていたら、人間はそれでも神に自身を現してほしいと望むだろうか。いや、決して望まないはずだ。神の本質、神の持っているものと神が何であるかを理解していれば、人間はすでに本当の神自身を見ており、神に直接会っているということなのだから。必然的に望まなくなる。

神の業と計画は絶えることなく前進し続けている。神が二度と洪水で世界を滅ぼさないとした人間との虹の契約を打ち立ててからは、神は自分と思いが一致する人間を見つけたいとより強く願うようになった。そして、自分の心を地上で行うことのできる人々を一刻も早く得たいという願い、さらには、闇の力を打ち破ることができ、サタンに縛られず、地上で神の証しとなることができる人々を得たいという願いも強くなった。そのような人々を勝ち取ることは神の長きにわたる願いであり、創造の時から神が待ち望んでいたことでもある。したがって、神が洪水で世界を滅ぼすかどうか、また人間と契約を結んでいるかに関わらず、神の心、思い、計画、そして望みは全て変わらないのである。神が創造の前からずっと望んでいたこと、それは自身が獲得したい人間を獲得すること―神の性質を知り、心を理解し、神を礼拝することのできる人々を勝ち取ることである。そのような人々は神の証しとなることができ、そして神の親友になることができるといえるだろう。

今日、神の道を追い続け、神の業の段階に従っていこう。そうすることで、長い間「保管されていた」神の考えや思い、また神に関する全てのことが明らかにできるかもしれないから。これらの内容を聞くことで神の性質を知ることができ、そして神の本質を理解することができ、神を私たちの心に受け入れ、私たち一人ひとりが神と少しずつ親しくなり、神との距離を縮めていくことができるようになる。

前回話したことのひとつは、なぜ神は人間と契約を結んだのかということだった。今回は、以下の聖句について検討する。まず聖句を読む。

A. アブラハム

1. 神がアブラハムに息子を与える約束をする

(創世記17:15-17)神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。

(創世記17:21-22)「しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた。

2. アブラハムがイサクを捧げる

(創世記22:2-3)神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

(創世記22:9-10)彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした。

誰も神が行うと決めた業を止めることはできない

今アブラハムの物語を読んだ。世界が洪水で滅ぼされた後、神に選ばれたこの男はアブラハムという名で、彼が100歳でその妻サラが90歳の時、神は彼にある約束をした。その約束とは何だったか。神は聖書に書いてあるこのことを約束した。すなわち「わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう」という約束である。この息子を与えるという約束の背景には何があっただろうか。聖書ではこのような説明がなされている。「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。」つまり、この老夫婦は子供を持つには年をとりすぎていたということである。そしてアブラハムは神からこの約束を受けて何をしただろうか。ひれ伏し、しかし笑って、ひそかに「百歳の者にどうして子が生れよう」と言ったのである。アブラハムは不可能なことだと思ったのだ。彼にとって神の与えた約束は冗談でしかなかったということである。人間的な考えからすると、たしかにこのことは実現不可能に思える。そして同様に神にとってもあり得ない、不可能なことだと考えてしまう。おそらく、アブラハムにとっては笑ってこう思ったのだ。「神は人間を創造したのに、神は人間は老いると子どもができないことを知らないようだ。神は私に子どもを授けることが可能だと思っている。息子を与えるだなんて、できるわけがない。」それゆえに、アブラハムはひれ伏して笑い、こう思っていたのである。「不可能だ―神は冗談を言っているに違いない。本当なわけがない」。彼は神の言葉を真に受けなかった。つまり、神の目にはアブラハムはどのような人物だったか。<義なる人物> アブラハムが義なる人物であるとどこで学んだのか。あなたは神が召した全ての人物は義人で、完璧で、神と歩む人だと思っている。あなた教義に固執している。神が誰かを定義するときには、気ままに定義するのではないことをはっきりと知るべきである。ここでは、神はアブラハムを義人だとは言っていない。神は自身の中に、一人ひとりをはかる基準を持っている。神はここでアブラハムがどのような人物だったかを言ってはいないが、彼の行いという点から見ると、どのような類の信仰をアブラハムは神に対して持っていただろうかはっきりしない信仰だっただろうか。それとも、アブラハムは偉大な信仰を持っていたのだろうか。決して偉大な信仰ではなかった。彼の笑いと思いが、彼がどんな人物であったかを表している。したがってアブラハムは義人であったというあなたの考えは想像上の虚構であって、教義の乱用であり、無責任な評価である。神はアブラハムの笑いと態度を見ていただろうか。それを神は知っていただろうか。神は知っていた。しかし神はご自分がすると決めたことを変更しただろうか。いや、していない。神がこの男を用いると計画し、そう決めた時点で、もうそのことはすでに達成されたのである。人間の考えも行いも、神に影響を与えたり妨げとなったりすることは一切ないのである。人間の行動のゆえに神は気まぐれに計画を変更することもなければ、愚かになり得る人間の行動のゆえに計画を変更したりくるわせたりはしない。創世記17:21-22には、何と書いてあるか。「しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。神はこう語り終えると、アブラハムを離れて昇って行かれた。神はアブラハムの思いや言葉に少しも思いを留めることはなかったのである。神がそうした理由は何だろうか。その理由は、当時は、神は人間に大きな信仰を持つことも、神に対して深い知識を持つことも、神の言動を理解することも期待していなかったからである。このように神は、人が自分がしようと決断したことを完全に理解することを要求しておらず、神が選ぶと決めた人々や、神の行動の原理も完全に理解することは要求していない。それは単に人間の霊的背丈が不十分だからである。当時は、アブラハムが言ったこともしたことも全て普通のことだとみなされていた。神は彼を非難することも叱責することもなく、ただ「来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、」と言っただけである。神がこれらのことを宣言した後、宣言したことがひとつひとつ現実となっていった。神の目には、自身の計画により達成されるべきことは既に達成されていた。そしてそのための計画を成し遂げ、神は去って行った。人間がすることや考えること、人間が理解すること、人間の計画―どれも神には全く関連していない。全てのことは神の計画と、その計画のために神が定められた時と段階に従って進むのである。それが神の業の原則である。人間が何を考え何を知っているかに神は干渉せず、また自身の計画の実行を控えることも働きを放棄することもない。人間が信じもせず理解もしないからである。物事は神の計画と思いによって成し遂げられるのである。聖書から正確に分かることは次のようなことだ。その事実は人の振る舞いや行動が神の働きを妨げることの証明になるだろうか。神の働きを妨げてはいない。人間の神への僅かな信仰、神にたいする観念と想像が神の働きに影響しただろうか。いや、しなかった。全く影響しなかった。神の経営(救いの)計画はどのような人にも、事柄にも、環境にも影響されない。神が実行すると決めたことは、全て計画された時に完成され、成就し、神の働きは誰にも妨げられることはない。神は人間の愚かさや無知を気に留めず、人間の自分に対する拒絶や観念を無視することさえある。そして神は自分がすべき働きはためらわずに実行する。これが神の性質であり、神の全能性を反映するものである。

神の経営(救い)と人間の救いの業はアブラハムがイサクを捧げたことから始まる

アブラハムに息子が与えられ、神がアブラハムに与えた言葉は成就した。これはここで神の計画が停止したという意味ではない。むしろ神の壮大な人間の経営(救いの)計画はこの時点で始まったばかりであり、アブラハムが息子を授かった祝福は神の全経営(救いの)計画からするとまだ序章といったところである。アブラハムがイサクを捧げた時に神とサタンとの戦いが静かに始まっていたことをその時誰が知っていただろう。

神は、人間が愚かであるのは構わない―ただ誠実でありさえすれば

次に、神がアブラハムに何をしたのかを見ていく。創世記22:2で、神は次のような命令をアブラハムに与えた。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。神の言われたことは明確だ。愛するひとり息子であるイサクを全焼のいけにえとして捧げなさいと、神はアブラハムに言われたのだ。今日の基準からしても、神のこの命令は人間が持つ神のイメージにそぐわないものではないだろうか。その通りだ。当時神がしたことの全ては人間の神の観念とは正反対であり、人間に理解できるものではない。人間の観念に従えば、次のように考えるだろう。ひとりの人間が神を信じることをせず、神が言われることが不可能だと考えたとき、神は彼に息子を与えた。息子を与えた神は、後にその息子を捧げよと言う。驚きだ。神は何をしようとしていたのか。具体的な目的は何だったのだろうか。神は無条件にアブラハムに息子を与え、そして今度はアブラハムに無条件で献げ物をするように命じる…これは行き過ぎだろうか。第三者から見れば、単に行き過ぎているだけでなく、何もないところにあえて火種を作るようなものだろう。しかしアブラハムは神の命令が行き過ぎているとは考えなかった。アブラハムは懸念も感じ、多少神に対して疑いを持ったものの、捧げ物をする準備はできていた。ここで、何をもってアブラハムが息子を捧げる意思があったと証明できるだろうか。この箇所で言われているのは何だろうか。原文には次のように書かれている。「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。」(創世記22:3)「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした」(創世記22:9-10)。アブラハムが手を伸ばし、刃物を息子に振り下ろそうとしたとき、神はそれを見ていただろうか。もちろん見ていた。始めに神がアブラハムにイサクを捧げるように命じた時から、アブラハムが実際に息子を屠るために刃物を振り上げた瞬間までの全ての過程により、アブラハムの心が神に示された。そしてかつての神に対する愚かさ、無知、誤解とは無関係に、この時の神に対するアブラハムの心は誠実で正直であり、神から授かった息子イサクを本当に神にお返ししようとしていたのである。神はそこに自身が望んだアブラハムの真の従順を見た。

人間にとって、神のする多くのことは理解しがたいものであり、信じられないようなものですらある。神が誰かの指揮を取ろうとするとき、その指揮はしばしば人間の考えとかみ合わず、生まれた不協和音と理解不能なものごとが人間に対する神からの試練となる。アブラハムはその点、自身の神への従順を示すことができた。そしてそれこそが、神の要求を満たすための最も基本的な条件だったのである。アブラハムが神の命令に従いイサクを捧げることができた時になってはじめて、神はご自分が選ばれた人間であるアブラハムに対して真の確信を得た。この時はじめて、神は自身が選んだこの人が、自身の約束とその後の経営(救いの)計画になくてはならないリーダーとなることを確信するのである。試練と試みを通らせたが、神は喜ばれ、自身に対する人間の愛を感じ、人間からそれまでにない慰めを得た。アブラハムがイサクをほふろうと刃物を振り上げた瞬間、神はアブラハムを止めただろうか。神はアブラハムがイサクを捧げることを許さなかった。神はいイサクの命を奪うつもりは全くなかったのである。ゆえに、神はイサクがほふられる直前にアブラハムを止めた。神にとって、アブラハムの従順は神の試験に合格しており、アブラハムの行いは十分なものであり、神が知りたかった結果は出ていた。この結果に神は満足しただろうか。満足したとも言えるだろう。それが神の望んだ結果であり、求めていたことだ。本当にそうだろうか。状況によって、それぞれ違った方法で神は人を試されるが、アブラハムの中に神は期待したものを見、アブラハムの心が真実で、無条件に従順であることを知った。この「無条件」の従順さが、神の求めていたものだった。人々はしばしば、「私はあれを捧げたし、これも行った…なぜ神は私に満足しないのか。なぜ神は私を試練に遭わせ続けるのか。どうして私を試み続けるのか」と言う。これはひとつの事実を示している。それは、神が求めているものをあなたの心の中に見ることができず、あなたの心を神が自身のものとしていないからである。つまり、アブラハムが自らの手で息子をほふって神に捧げようとしたほどの誠意をあなたの中に見出すことができていないからである。あなたの無条件の従順さを見ることができず、あなたから慰めを得ていないからである。であれば、神があなたを試み続けられるのは当然のことだ。このテーマについてはここまでにしておく。次に、「神のアブラハムへの約束」を読む。

3. 神のアブラハムへの約束

(創世記:22:16-18)主は言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

これはアブラハムに対する神の祝福の全記録である。短い箇所だが、内容は濃い。神がアブラハムに、なぜ、そしてどのような背景で賜物を与えたか、そして何を与えたかが書かれている。神が発した言葉に込められた喜びと感激、そして自身の言葉に耳を傾けることのできる者を一刻も早く自分のものとしたいという思いがそこには込められている。神の言葉に従い、命令に従う人々に対する神の愛情と優しさを読み取ることができる。そして、神が人々を自身のものとするために払う代価と、注ぐ慈しみと思いを見ることもできる。さらには、この 「わたしは自らにかけて誓う、」という言葉を含むこの箇所は、自身の経営(救いの)計画の働きの背後にある、唯一神のみが背負う苦悩と痛みの強烈な感覚を私たちに与える。 この箇所を通して考えることは多く、後に続く者達に特別な意味を持ち、非常に大きな影響を与えるものだ。

人間はアブラハムの誠実さと従順さゆえに神の祝福を受け取る

ここから読み取れるアブラハムに対する神の祝福は非常に大きなものではないだろうか。どれほど大きいだろうか。その答えの鍵となるのが次の言葉だ。「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」。この言葉が示すものは、アブラハムは後にも先にも見たことのないような大きな祝福を受けたということである。神が命じたとおり、アブラハムは自分の愛するひとり息子を神に帰した。(注:この場合、「捧げた」と言わずに、神に「帰した」と言うべきである。)神はアブラハムがイサクを捧げることを許さなかっただけでなく、アブラハムを祝福した。どのような約束をもってアブラハムを祝福したのだろうか。彼の子孫を繁栄させるという約束をもってである。どれ位の数になると言っているだろうか。聖書に次のように書かれている。「…天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。」。神のこの言葉にはどのような背景があったのだろうか。つまり、アブラハムは神の祝福をどのように受け取ったのだろうか。それは聖書に書かれている通りだ。「あなたがわたしの言葉に従ったからである」。つまりアブラハムは神の命令に聞き従い、神の言ったこと、要求したことを一切不平を言わず全て行ったゆえに、神はそのような約束をした。この約束には当時の神の考えを示す重要な文章が含まれている。それに気づいただろうか。「わたしは自分をさして誓う」という神の言葉に、あなたはそれほど注意を払っていなかったかもしれない。だが、神はこの言葉を通して、自身を指して誓ったのだ。人が誓いを立てるときには、何を指して誓うだろうか。天を指して誓う、つまり、神に対して宣誓し、神に対して誓う。神が自身を指して誓うという状況を人々はあまり理解しないかもしれないが、私の適切な説明を聞けば理解できるようになる。神の声は聞けるがその心を理解することはできない人間と向き合う神の心はまたしても寂しく、神は戸惑った。必死に、そして無意識にと言ってもよいだろう、神は極めて自然なことをされた。自身の胸に手を置き、アブラハムへの賜物を自身を通して約束した。そして人は、“わたし自身により、わたしは誓う”という言葉を聞いたのである。この神の行動にあなた自身を照らしあわせてみるだろうか。あなたが自分の胸に手を当てて自身に語るとき、その言葉をはっきり理解できるだろうか。誠実な態度でそうできるだろうか。心から、率直に語るだろうか。そう考えると、神はここでアブラハムに対し、真心から、誠実に語ったことが分かる。アブラハムに語りかけ祝福したと同時に、神は自身にも語っていた。神は自身にこう語っていた。「私はアブラハムを祝福する。彼の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増し加える。彼は私の言葉に従った者であり、私が選んだ者だからだ。」神が「わたしは自分をさして誓う」と言った時、神はアブラハムを通して選ばれしイスラエルの民を生み出すことを決意し、その後自身の業により速やかに導いたのである。つまり、神はアブラハムの子孫が神の経営(救いの)担い手となり、神の働きと神により現わされたものがアブラハムから始まり、アブラハムの子孫に受け継がれ、そうすることで人の救いを実現するようにしたのである。これが祝福とは言わないだろうか。人間にとって、これ以上の祝福はありえない。これが最大の祝福と言える。アブラハムが受け取った祝福は子孫が増えることではなく、アブラハムの子孫における神の経営(救い)、神の任務、そして神の働きである。つまりアブラハムが受け取った祝福は一時的なものではなく、神の経営(救いの)計画と同時進行で継続されるものなのだ。神が語り、自身を通して誓った時、神はもう心を決めていた。この決断の過程は真実だろうか。本当にそのような決断があっただろうか。神はこの時、アブラハムとその子孫のために苦労し、代価を払い、自身と自身が持っているもの、自身全てを、生命までも差し出すと決めた。そしてまずこの人々に自身の業を現わし始め、人間が自身の知恵と権威、そして力を見るようにすると決めた。

神を知り、神の証しとなる者を自身のものとすることが神の変わることのない願いである

神は自分に対して語ったのと同時にアブラハムにも語ったが、果たしてアブラハムは、神の語った祝福以外に神の真の願いをその言葉から理解することができただろうか。できなかった。それゆえに、神が自身を通して誓ったその時、神の心は未だに孤独で、悲しんでいた。この時、神の意図や計画を知る人や理解できる人はひとりもいなかった。この時点では、アブラハムを含め、神と親密に話すことのできる者はおらず、まして神がしなくてはならない働きに協力できる者などいなかった。表面上は、神は自分の言葉に従うアブラハムを得たかのように見えるが、実際は、アブラハムの神への知識は無に等しいものだった。神はアブラハムを祝福したが、神はまだ満足してはいなかった。神はまだ満足してはいなかったとはどういうことだろうか。それは神の経営(救い)はまだ始まったばかりであり、神が自分のものとされたいと望んでいる人々、会いたいと思っている人々、愛した人々はまだ神から離れていたということである。さらに時間が必要で、待つ必要があり、忍耐する必要があった。と言うのは、神自身以外に神が必要としているものを知るものはおらず、神がなにを得たいか、何を望んでいるかを知るものもいなかったからである。それゆえ、神は非常に感激したのと同時に、心は重かったのである。それでも神は各段階の働きをやめることはなく、やらなければならない働きの次の段階を計画した。

あなたは神のアブラハムに対する約束に何を見るだろうか。神は、アブラハムが神の言葉に従った、ただそれゆえにアブラハムに大いなる祝福を授けた。表面的にはこれはごく普通のことに思え、また、この出来事の中に神の心を見ることができる。神は人の従順さを特に大切にし、自身に対する理解と誠実さを尊ぶ。神はどれくらいこの誠実さを尊ぶのだろうか。どれほど尊ぶか、あなたには理解できないかもしれないし、理解できる人はひとりもいない可能性も十分ある。神はアブラハムに息子を与えた。そしてその息子が成長した時、神はアブラハムにその息子を自分に捧げるように命じた。アブラハムは文字通り神の命令に従い、神の言葉に従った。その誠実さを神は非常に尊いものとした。どれくらい神はそれを尊んだだろうか。なぜ尊んだのだろうか。神の言葉や心を理解できるものが誰もいなかった当時、アブラハムのしたことは天を揺るがし地を震えさせた。それは神に、それまで感じたことのない満足感を与え、自分の言葉に従うことのできる人間を得たことの喜びをもたらした。 この満足感と喜びは、自身が手で創った被造物から生まれた。これが、人間が神に捧げた最初の「捧げもの」となり、人間が創造されて依頼最も神に尊ばれた。神はこの捧げ物を待ち焦がれており、この捧げ物を、自分が創造した人からの最も価値ある贈り物として大切に思った。それは神の努力と払った犠牲に対して初めて実りを示すものとなり、これによって神は人間に希望を見出した。その後神は、アブラハムのような人間の群れが自身に伴い、誠実に自身と向き合い、誠実に自身を慈しむことを更に強く望まれた。神はアブラハムが生き続けることすら望んだ。自身の経営(救い)を継続するのに、アブラハムのような心を持った人間を伴いたかったからである。だが神が何を望もうと、それは望みでしかなく、思いだけでしかなかった。アブラハムは神に従うことのできる人間であっただけで、神の理解や知識は全く持ち合わせていなかったからである。神を知り、神を満足させ、神と同じ思いになるという神の要求の基準に対し、アブラハムは遠く及ばない人間であった。それゆえに、彼は神と共に歩むことができなかった。イサクを捧げるアブラハムに、神は誠実さと従順さを見、神からの試練に耐えたことを知った。神はアブラハムの誠実さと従順さを受け入れたが、それでも神の親友となり、神を知り、理解し、神の性質を知らされるに相応しくはなかった。神と思いを同じくし、神の心をなす者にはほど遠かった。ゆえに、神はまだ寂しく不安であった。その寂しさと不安が増せば増すほど、極力自身の計画を迅速に進める必要があり、経営(救いの)計画を全うしてその心を一刻も早く全うするために人々を選び、自身のものとする必要があった。それは神の切実な願いであり、初めの時から今日まで変わらない。神が人を造った当初から、勝利を獲得できる人々、自身と歩み理解し、深く知り、その性質を理解できる人々を神は求めていた。この神の願いはずっと変わらない。どれほど待たなければならないとしても、どれほどその行く手が困難でも、目的とするものがどれほど遠くても、神は人間に対する期待を変えたり諦めたりしたことはない。ここまでの話を聞いて、神が望むことを何か理解できただろうか。おそらくまだそれほど深くは理解できていないだろうが、徐々に理解できるようになる。

アブラハムが生きたその時代、神はひとつの町を滅ぼしている。その町の名はソドム。間違いなく多くの人がソドムの町の物語を知っているが、ソドムを滅ぼしたことの背景にある神の思いを知る人はいない。

そこで今日は、以下の神とアブラハムのやり取りを通して、当時の神の考えを学ぶと同時に、その性質についても学んでいくことにする。では、次の聖書箇所を読んでいこう。

B. 神はソドムを滅ぼさなければならなかった

(創世記18:26)主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。

(創世記18:29)アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「これをしないであろう」。

(創世記18:30)アブラハムは言った、「もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「これをしないであろう」。

(創世記18:31)アブラハムは言った、「もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしは滅ぼさないであろう」。

(創世記18:32)アブラハムは言った、「もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしは滅ぼさないであろう」。

これらは聖書から抜粋したものである。抜粋であるため、原本とは異なる。もし原文を読みたければ、自分で聖書を読んでほしい。時間を節約するため、原文から数カ所省いた。いくつか鍵になる箇所と文に絞り、今日の話に関係のない部分を省いた。今日の話では、それぞれの物語の詳細や登場人物については省略し、当時の神の思いと考えに絞って話を進める。神の思いと考えの中に、私たちは神の性質を見ることができ、そして神が行った全てのことから真の神自身を見ることができる。そうすることで、私たちの目標を達成できる。

神は自身の言葉に従い、命令に従う者のみを慈しむ

上の箇所はいくつかのキーとなる数字を含んでいる。始めヤーウェは、もしその町に50人の正しい人を見つけたならば、その町全部を赦し、滅ぼさないと言った。結果はどうであったか。50人の正しい人がいたか。いなかった。アブラハムは速やかに神に何と言ったか。「もし四十人いたら」と言った。すると神は、「滅ぼすまい。」するとアブラハムは言った。「もし三十人いたら。」神は言った。「滅ぼすまい。」「もし二十人いたら。。」「滅ぼすまい。」「もし十人いたら。」「滅ぼすまい。」実際に10人の正しい人がその町にいたか。10人はいなかったーいたのはひとりだけだった。それは誰か。ロトだ。この時ソドムには正しい人がひとりしかいなかったが、神はそのことを厳しく、細かく追求しただろうか。しなかった。人間に「もし40人いたら」、「もし30人いたら」、そして最後に「もし10人いたら」、と聞かれても、「たとえ10人だとしても、その町を滅ぼすまい、その10人のために。滅ぼさず、その10人以外の全員を赦そう」と言った。10人しかいないことでも十分哀れだが、実際にはソドムに10人の正しい人はいなかった。そうであれば、この町の人々が神の目には滅ぼすしかないほど罪と悪に満ちていたことがわかるだろう。50人の正しい人がいたなら、町を滅ぼさないと神が言われたその意味は何だろうか。これら数字は神にとって重要ではなかった。重要なのは、神が望むような正しい人がその町にいたかどうか、であった。ひとりでも正しい人がその町にいたならば、町を滅ぼしてその正しい人に危害が及ぶことを神は許さなかった。つまり、この町を神が滅ぼすか否か、そこにいた正しい人が何人なのかに関係なく、この罪深い町を神は呪い、嫌っており、滅ぼされて神の目の前から消えるべきだったのである。そして正しい人は生かされるべきだったのである。時代や人間の進歩がどのような段階であれ、神の態度は変わらない。悪を憎み、神の目に正しい人を慈しむ。この明確な神の態度は、神の本質の真の現れでもある。ソドムの町に正しい人がひとりしか見つからなかった時、神は滅ぼすことを拒まなかったからだ。結果ソドムは滅ぼされた。これをあなたはどう見るだろうか。その時代、たとえその町の正しい人が50人でも10人でも、神は町を滅ぼすことはしなかった。つまり、神を敬い、崇拝する僅かな人間のために、神は全員を赦し忍耐したか、あるいは導きの働きをしたであろう。神は人の正しさを重要視される。自身を崇拝し、自身の前に良い行いのできる者を重要視する。

古い時代から今日に至るまで、神が真実を語り、神の道を誰かに語る記録が聖書に書かれているのを読んだ人はいるだろうか。ひとりもいない。私たちが読む神の言葉は、人々がすべきことを示しているだけだ。その通りに行った人もいれば、行わなかった人もいる。信じた人もいれば信じなかった人もいる。それだけのことである。しがたって、この時代の義人たち、つまり神の目にあって義と認められた人たちは、神の言葉を聞いて神の命令に従うことができるというだけだったのだ。彼らは人々の間で神の言葉を実行するしもべだった。そのような人々が、神を知っていたと言えるだろうか。神によって全き者とされた人たちと言えるだろうか。彼らを神によって完璧にされた者と呼べるだろうか。いや、呼べない。それならば神にとって、正しい人の数に関係なく、彼らを神の親友と呼ぶに相応しかったのだろうか。彼らを神の証人と呼ぶことができるだろうか。決して呼ぶことはできない。神の親友とか証人などと呼ばれる価値など勿論ない。では神はそのような人々を何と呼んだのか。聖書の中の今日読んだ聖句の中で、神は何度も彼らを「わたしのしもべ」と呼んでいる。つまり、当時このような義人たちは神のしもべであり、地上で自身に使える人々であった。神はしもべと呼ぶことをどう思っていたのだろうか。なぜしもべと呼んだのだろうか。人々の呼び方に対して神の心に基準があるのだろうか。もちろんある。義人、全き人、公正な人、しもべ―どう呼ぶにせよ、神には基準がある。神はある人を「神のしもべ」と呼ぶ時、神はその人が御使いを受け入れることができ、自身の命令に従い、御使いによって命ぜられたことを実行できるという確信がある。このしもべと呼ばれた人は何をするのか。神が人に命じ、地上で行うようにと言われたことをするのである。この時、神が人間に地上でせよと言われたことは神の道と言えるだろうか。いや、言えない。当時神はほんの僅かの事しかせよと言われていないからである。神は人に少しの単純なことを、これをせよ、あれをせよというように命じただけだった。神は自身の計画に従って働いた。それは当時、条件がまだ揃っておらず、機も熟しておらず、人間が神の道を背負うのは難しかったため、神の心から神の道が発せられていなかったからである。 ここに、30人であれ20人であれ、神が義人を語られる時には、神の目に彼らはみなしもべであったことを見ることができる。神の御使いが彼らに臨んだ時、彼らはそれを受け取ることができ、命令に従い、御使いの言葉通りに行動することができた。神の目には、これが正にしもべが行い、成し遂げるべきことだった。神は人々の呼び名に関して思慮深い。神が彼らをしもべと呼んだのは、彼らが今のあなたのような者だったからではない。つまり、彼らが説教を沢山聴き、神がなにをしたいかを知り、神の心の多くを理解し、神の経営(救いの)計画について深く知っていたからではない。ただ彼らの正直で、神の言葉に従うことができる人間性によるものである。神が彼らに命令すると、彼らは自分のしていることをやめて、神が命令したことを遂行することができたのである。それゆえ、神にとっては、しもべという彼らの呼び方に込められたもうひとつの意味は、神の地上での業に協力する者ということだった。彼らは神の御使いではないが、地上で神の言葉を遂行し実現する者達だったのである。このようなことから、これらのしもべ、あるいは義なる者たちは神にとって非常に重要な存在だったことが理解できる。神が地上で行おうとしていた業は神に協力する人間なしでは行うことができず、神のしもべによって引き受けられた役割は神の御使いには果たせないものだったのである。神がこれらのしもべに命令したことのひとつひとつは神にとって非常に重要なことであったため、神は彼らを失うわけにはいかなかった。これらのしもべの神への協力がなければ、神が人の間でされた業は行き詰まり、その結果神の経営(救いの)計画も神の希望も無になってしまうだろう。

神は自身が慈しむ人々に対しては溢れるほどの憐れみを与え、神が忌み嫌い拒絶する人々に対しては深く怒りを覚える

聖書の記録では、ソドムに10人の正しい者はいただろうか。いや、いなかった。この町は神に救われるに値したか。町の中で唯一ロトだけが、神の使いを受け入れた。これが意味するのは、町に神のしもべは1人しかいなかったこと、ゆえに神はロトを救い、ソドムの町を滅ぼすほかなかったということである。これらのアブラハムと神のやりとりはシンプルに見えるが、実はとても深いものを示している。神の行動には原則があり、決断を下す前に神は長い時間をかけて観察し、熟考する。決断を下すべき時がこなければ決断しないし、結論を急ぐこともない。アブラハムと神のやりとりは、神がソドムを滅ぼすという決断には少しの間違いもなかったことを示している。神は町に正しい者が40人、いや30人、いや20人もいないことを既に知っていたからである。正しい者は10人すらいなかった。町で正しい者はロトだけだった。ソドムで起こった全てのこと、そしてその状況を神は見ており、手に取るように分かっていたのである。したがって、神の決断が間違っていたはずはない。そして神の全能性とは対照的に、人間はとても鈍く愚かで無知であり、まったく近視眼的な視野しか持っていない。これがアブラハムと神とのやりとりから私たちが理解することである。神ははじめの時から今日まで、自身の性質を現し続けている。この箇所でも同様に、私たちが見るべき神の性質がある。数字はシンプルで、それ自体は何も示さないが、ここには神の性質を示す非常に重要なことが表現されている。神は50人の正しい者がいれば、その50人のために町を滅ぼさない。これは神の憐れみによるものだろうか。これは神の愛と寛容によるものだろうか。神の性質のこの側面をあなたは気づいただろうか。たとえ10人しか正しい者がいなかったとしても、その10人のゆえに神は町を滅ぼさないつもりでいた。これは神の寛大さと愛だろうか、あるいは違うだろうか。これらの正しい者たちに対する神の憐れみ、寛容、そして慈しみゆえに、神は町を滅ぼさなかった。これが神の寛容である。そして最後に、私たちはどのような結果を見ただろうか。アブラハムが「もしそこに十人いたら」と言った時、神は「わたしは滅ぼさないであろう」と言った。その後、アブラハムはそれ以上何も言わなかった。ソドムにはアブラハムが言ったような10人の正しい者はおらず、彼はそれ以上何も言えなかったので、彼はなぜ神がソドムを滅ぼすと決めたのかを理解したのだ。ここにあなたは神のどのような性質を見るだろうか。神はどのような決断をしたのだろうか。つまり、もし町に正しい者が10人いなかったら、町が存在することを許さず、当然滅ぼすという決断である。これは神の怒りではないだろうか。この怒りは神の性質を表すだろうか。この性質は神の聖い本質を示すものだろうか。これは人間が犯してはならない神の義なる本質の現れだろうか。ソドムに10人の義人がいないことを確認すると、神はソドムを滅ぼすことを決め、彼らが神に敵対し、非常に汚れて堕落していたために、町にいる人々を厳しく罰することを決めた。

なぜこのようにこの箇所を分析してきたのだろうか。それはこのわずかなシンプルな文章が神の惜しみなき哀れみと深い怒りという神の性質を最大限に表現しているからである。義人を尊び、憐れみ、寛容を示し、慈しむと同時に、神の心の中には堕落したソドムの民への深い嫌悪があった。これは、惜しみない哀れみと深い怒りだったのだろうか、そうでなかったのだろうか。どのような方法で神は町を滅ぼしたか。火によって、である。ではなぜ神は火を使って滅ぼしたのか。何かが燃えるのを見たり、自分が何かを燃やそうとしたりする時、その燃える対象に対してどう感じるだろうか。なぜあなたはそれを燃やしたいのだろうか。それがもう不要になったからか、あるいはもう見たくないからだろうか。それを処分したいのだろうか。神は火を使うのは、放棄、嫌悪を意味し、ソドムをもう見たくないということであった。それがソドムを焼き滅ぼした際の神の感情である。火を使うことは、神がどれだけ怒っていたかを表している。勿論、神には哀れみと寛容があるが、神が怒りを露にする時には、神の聖さと義に背くことを許さない神の側面を見せる。人間が神の命令に完全に従うことができ、神の要求に従って行動することができる時には、神は人に溢れるほどの憐れみをかける。しかし人間が堕落、そして神への憎悪と敵意で満ちている時、神は深い怒りを感じる。では神の怒りはどれほど深いのだろうか。神の怒りは、神が人間の抵抗と悪行を見なくなるまで、神の目の前から消えてなくなるまで続く。そうしてはじめて、神の怒りは消える。言い換えると、誰であれその心が神から離れ、神に背き、神に帰ることがないならば、たとえ外見上神を礼拝し、従い、そして思考の中で礼拝し従っても、その心が神に背いた途端、神の怒りが発せられ、止むことはない。人間に十分な機会を与えたうえで、いったん深い怒りが発せられるならば、それを撤回することはなく、神は二度とそのような人間に哀れみや寛容を示すことはない。これは、神に背くことに耐えることがないという神の性質のひとつである。そうであれば、神の目には罪に満ちた町が存続するのは不可能であり、滅ぼされるべきものなので、神がそのような待ちを滅ぼされるのは当然のように人間にも思われる。そのような町が神に滅ぼされるというのは理に叶っている。しかしながら神がソドムの町を滅ぼす前後に起こったことを見ると、神の性質の全体像が見える。優しく、美しく、善いものに対しては神は寛大で憐れみ深い。邪悪で罪深く、悪意に満ちたものに対しては、深く怒り、その怒りは止まることがないほどである。神の溢れんばかりの憐れみと深い怒り―これらは神の性質の2つの原則であり、最も重要な側面であり、初めから終わりまで示されているものである。あなた方の大半は神の憐れみを何かしら経験しているが、神の怒りを理解している人はごく僅かだ。神の憐れみや優しさは誰の中にも見ることができる。つまり、神は全ての人に対して憐れみ深い。しかし、神は誰に対しても、そしてここにいるどのグループに対しても、ほとんど深く怒ったことはなく、一度もそのように深く怒ったことはないかもしれない。落ち着いてほしい。早かれ遅かれ、誰もが神の怒りを見、経験する。今はまだその時ではないのだ。なぜだろうか。神が常に誰かに対して怒っている時、つまり神がその深い怒りを彼らの上に降り注ぐ時は、神が長い間その者を嫌い、拒絶し、その存在を忌み嫌い、耐えられなくなったということである。一旦神の怒りが下されると、その者達は消え去る。今は、神の業はまだそこまで進んでいない。そうであれば、神は今の時点ではあなた方に憐れみ深いだけで、神の深い怒りをまだ知らないということだ。まだ納得していない人がいたら、神が自分に怒りを注ぐように頼んでみると良い。そうすれば、神の怒りや背いてはならないその性質が本当に存在するのが分かるだろう。試してみたいだろうか。

終わりの日の人々は神の言葉の中にのみ神の怒りを見、神の怒りを真に体験することはない

これらの箇所に書かれた神の性質の2つの側面は、ここで説明するに値するものだっただろうか。物語を聞いて、神への理解は一新されただろうか。今はどのような理解を持っているだろうか。創造の時から今日まで、この最後の集団ほどに神の恵みと憐れみを享受した集団は他になかったと言えるだろう。最後の段階では、神は裁きと懲罰の業を行い、威厳と怒りによって業を行っているが、ほとんどの場合神は業を成し遂げるために言葉のみを用いる―言葉により教え、育て、施し、養うのである。その間神の怒りはずっと隠されており、神の言葉の中に神の怒りの性質を体験する場合を除いては、神の怒りを実際に体験したことのある人はほとんどいない。つまり、神の裁きと懲罰の業が行われている間、神の言葉の中に現されている神の怒りによって人々が神の威厳と人間の悪に対する不寛容さを経験することはできるが、神の怒りはその言葉以上のものにはならないのである。言い換えれば、神は言葉を用いて人を戒め、暴き、裁き、罰し、責めることすらするのである。しかし神はまだ人間に深い怒りを持っておらず、そして言葉意外に人間に対する怒りを発したことはほとんどないのである。したがって、この時代に人間が経験した神の憐れみと慈愛も、神の真の性質の現れである一方で、人間が経験した神の怒りは単に神の言ったことと口調の影響に過ぎないのである。多くの人がこの影響を神の怒りの真の経験と知識だと誤解している。その結果、ほとんどの人々が神の言葉の中に神の憐れみと慈愛、そして人間の罪に対する神の寛容を見たと信じており、ほとんどの人々が神の人間に対する憐れみと寛容を知ったとさえ思っている。しかし人間の行いがどれだけ悪かったとしても、どれだけ人間の性質が堕落していたとしても、神はいつでもそれに耐えてきた。神が忍耐する目的は、自身の語った言葉、神が注いだ労苦、神が払った代価が、神が勝ち取りたいと願っている人々の中に効果をもたらすことである。このような結果の達成には時間がかかる。また人間のために違う環境を用意する必要もある。人が生まれてすぐ大人になることがなく、成熟した本当の大人なるまでに18年から19年かかる人もいるのと同様に、である。神はこの過程の完了を待っており、そのような時が来るのを待っている。そしてその結果を見るのを待っているのである。そしてその待っている間、神はとても憐れみ深いのである。しかしながら神の業のこの期間に、極めて少ない人数の人々は滅ぼされ、また重大な反抗のゆえに罰を受けた人々もいる。そのような例は、神の悪に対する手厳しい性質のより確かな証明でもあり、そしてまた神が選んだ人々に対しての寛大さと忍耐強さの真性の証明である。もちろん、このような典型的な例では、神のこれらの人々に現す性質が、神の全体的な計画に影響することはない。事実、この神の業の最終段階では、神は待ち続けていたその間ずっと耐え続けてきたのであり、神に従う者の救いのため、その忍耐と命を引き換えにしたのである。このことが理解できるだろうか。神は理由なく計画を覆さないのだ。神は怒りを爆発させることもできるし、憐れみ深くいることもできるのである。これが神の性質の現れにおける2つの主要な部分である。はっきりわかるだろうか、あるいははっきりしていないだろうか。別の言葉で言えば、神に関して言えば、善悪、正と不正、肯定的なものと否定的なものの全ては人間に対してはっきり示されているのである。神が行い、好み、また嫌うもの―これらのことは全て神の性質の直接的な反映となりえる。このようなことは神の業にわかりやすく明確に見ることができ、そして不明瞭であったり概要的であったりすることはない。むしろ、これらのことは全ての人々が神の性質と本質を、揺らぎない、真実性のある、具体的な形でしっかり見ることを可能にする。これが本当の神自身なのである。

神の性質が人間に隠されたことはない―人間の心が神から離れたのである

もしわたしがこのような話をしなかったならば、あなた方はひとりとして聖書にかかれている物語を通して神の真の性質を知ることはできなかっただろう。これは事実である。というのは、これらの物語は神の業の一部を記録しているけれども、神はわずかしか語っておらず、自信の性質を直接現わしてもおらず、自身の心を公に現してもいないからである。後の時代の人々は、これらの話を単なる物語としてしか捉えておらず、それ故神は人には隠された存在であるかのように感じられ、神の人が人間に隠されているのではなく、神の性質と心が人間には隠されているように感じる。今日のフェローシップの話を聞いても、神が人から完全に隠されていると感じるだろうか。あなた方は今でも神の性質が人間から隠されていると思うか。

創造の時以来、神の性質は神の業の段階と調和している。人間に隠されていた事はなく、むしろ完全な形で公に現されており、また人間がわかるような平易な形で現されている。それでも、時が経つと共に、人間の心はこれまでにないほどに神から遠くなり、人間の腐敗が進につれ、人間は神からますます離れていった。ゆっくりと、しかし確実に、人間は神の視界から消えていった。人間は神を「見る」ことができなくなり、人間には神からの「知らせ」は何も届かなくなった。人間は神が存在するかどうかが分からなくなり、それだけでなく、神の存在を完全に否定するほど離れてしまったのである。結局、人間の神の性質と本質に対する無知は、神が人間から隠されていることが原因ではなく、人間の心が神に背いていることが原因なのである。人間が神を信じていても、その心には神がいないままであり、神をどう愛するかも分からず、神を愛したいとも思わない。人間の心は神に近付いたことがなく、常に神を避けているからである。その結果、人間の心は神から遠く離れてしまっている。では人間の心はどこにあるのか。実際には、人間の心はどこかに行ってしまったわけではない。人間は自分の心を神に明け渡したり、神に見て頂こうと神の前に明らかにする代わりに、自分の中に閉じ込めてしまった。「ああ神様、私の心を見てください。あなたは私の考えることを全てご存知です」などとしばしば祈る人もあり、中には自分の心を神の前に明らかにすると誓い、誓いを守らなければ罰を受けることすら厭わないとまで言うが、事実はその逆なのである。たとえ人間が、神に自分の心を見せたとしても、それは人間が神の導きと采配に従えるという意味でもなく、自分の運命や将来を手放し、全てを神の支配に委ねるという意味でもない。したがって、あなたが神に立てる誓いや、あなたの神への態度に関わらず、あなたの心は神の目には閉ざされたままなのである。神に自分の心を見せはしても、それを支配することは許可していないのだから。別の言い方をすれば、あなたは神に自分の心を捧げてなどおらず、神に対して聞こえのいい言葉を並べているに過ぎないのである。一方で、あなたはいくつもの悪賢い考えや企て、陰謀、計画を神には見られないようにし、自分の将来と運命を神に取り上げられるのではないかと深く恐れて手放そうとしない。 このように、人間の神に対する誠実さというものを、神は見ることがない。神は人間の心の奥深くを見ており、人間の考えや願い、人間が心にしまい込んであるものを見ることができるが、それでも人間の心は神に属しておらず、人間はその心を神に明け渡してもいない。つまり、神に人間の心を見る権利があっても、それを支配する権利はないのである。主観的な認識に囚われて、人間は自分を神の憐れみに委ねたいとも、委ねようとも思わない。神から自らを閉ざし、それだけでなく、どうしたら自分の心を覆い隠せるかを考えようとさえする。聞こえのよい言葉とお世辞を並べてその印象を偽り、そうすることで神の信頼を得、本当の姿を神の目から隠そうとするのである。人間が神にその心を見せたがらないのは、人間が自分の本当の姿を神に知られたくないからである。彼らは神に心を明け渡したいとは思わず、手放さずにいたいと思っている。人間は自分がすること、欲することは全て自分で計画済みで計算済みで、自分で決定済みだということなのである。神に自分の計画に参加してもらう必要も、仲介してもらう必要もなく、ましてや神の指揮や采配など無用なのである。したがって、神の命令、神が与える任務、あるいは神が人間に要求することに関わらず、人間は自分の考えや利益に基づいて判断し、その時の状態や状況に沿って判断するのである。人間は常に自分が馴染みのある知識と見識、そして自分の知性を使ってゆくべき道を判断し選択し、神が仲介し制御することを許さない。これが神から見た人間の心である。

創造のはじめから今日まで、人間だけが神と対話できる存在である。つまり、全ての生き物および被造物の中で、人間だけが神と対話できるということである。人間には聞くための耳があり、見るための目があり、言葉を持ち、自分の考え、そして自由意志を持っている。人間は神が語るのを聞き、神の心を理解し、神に与えられた任務を受け容れるために必要なもの全てを持ち合わせており、そのような人間に対して、神は自身のあらゆる望みを置き、自身と同じ心を持ち、語り合うことのできる友となりたいと考える。神が管理を始めて以来、神は人間にその心を捧げてほしい、そうすることで清められ、整えられ、神が満足できるものとなり愛されるものとなり、神を敬い悪を避けるものとなって欲しいと願っている。神は人間がそのようになる日を心待ちにしている。聖書にはそのような人物の記録があるだろうか。つまり、聖書に記録されている人物で、その心を神に明け渡すことのできた人物はいるだろうか。時代を遡ってこのような人物を見つけることはできるだろうか。ここでは、聖書に書かれている記録を引き続き読み、ヨブは神に満足してもらうことのできる人物であったか、そして神に愛されていたかどうかを検討する。

あなたのヨブに対する印象はどのようなものだろうか。聖句をそのまま引用し、「ヨブは神を畏れ、悪を避ける人だった」と言う人がいる。「神を畏れ、悪を避ける人」というのは聖書に書かれているヨブの評価そのままである。もしあなた自身の言葉を使うならば、あなたはヨブをどう形容するだろうか。ヨブは分別のある良い人物だったという人もいるだろう。また、神に対して真の信仰者であったとか、義なる情け深い人であったという人もいるだろう。あなたはヨブの信仰を知っている。つまり、あなたはヨブの信仰を非常に重要なものと評価しており、その信仰をうらやましく思っている。そこで今日は、神が喜んだヨブが持っていたものとはどのようなものであったかを検討する。それでは次の聖句を読む。

C. ヨブ

1. 神と聖書によるヨブの評価

(ヨブ記1:1) ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。

(ヨブ記1:5)そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。

(ヨブ記1:8)主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

これらの聖句から読み取れる重要な点はどのようなものだろうか。この短い聖句3つは全てヨブに関連している。聖句は短くても、ヨブがどのような人物であったかを明確に示している。聖句から理解できるヨブの普段の振る舞いや行動から、ヨブに対する神の評価は根拠のないものではなく、十分な根拠に基づいていたことが誰にも分かる。これらの箇所から、ヨブに対する人間の評価(ヨブ記1:1)も神の評価(ヨブ記1:8)も、神と人との前におけるヨブの行い(ヨブ記1:5)によるものであることが分かる。

ではまず、ひとつめの聖句を読もう。「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」。聖書における最初のヨブの評価は、ヨブ記の著者によるヨブへの賞賛である。当然、それは人のヨブに対する評価である。つまり、「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」という評価である。次に、神のヨブに対する評価を読もう。「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない」(ヨブ記1:8)この2つのうち、ひとつは人間によるもの、もうひとつは神によるもので、同じ内容に対するふたつの評価である。ここで分かることは、ヨブの振る舞いと行動は人間に知られており、神に賞賛されていたということである。つまり、ヨブの行いは、人の前でも神の前でも変わらなかったということである。ヨブは常にその振る舞いとその動機を神の前に明らかにして神が見ることができるようにしており、また神を畏れて悪を避けた。それゆえ、神の目には、ヨブは地上で唯一完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人間だった。

ヨブが日々、神を畏れ悪を避けていたことを示す描写

次に、ヨブが神を畏れ悪を避ける具体的な例を検討する。ヨブ記1:5をその前後の句を含めて読んでみよう。この聖句は、ヨブが神を畏れ悪を避けた様子を具体的に示している。そこから、ヨブが日々の生活の中でどのように神を畏れ悪を避けたかが分かる。特筆すべきは、ヨブは神を畏れ悪を避けるために自分がすべきことをしただけでなく、自分の息子たちのためにも定期的に全焼のいけにえをささげた。祭りを祝う間に「罪を犯し、その心に神をのろった」のではと心配したのである。この不安はヨブのどのような面に表われたであろうか。聖書には次のように書かれている。「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた」。ヨブの行動から、彼の神への畏れは表面的なものではなく心の内側から出ているものであり、彼の日々の生活のあらゆる側面に神に対する畏れが常にあったことを見ることができる。彼は悪を避けただけでなく、自分の息子達のためにしばしば全焼のいけにえを捧げていたことがそれを示している。言い換えれば、ヨブは神に対して罪を犯し心で神に背くことを深く恐れていただけでなく、息子達が神に対して罪を犯し、心で神に背くことを憂慮していたのである。このことから、ヨブの神への畏れは非の打ち所がない真実なもので、それは誰にも疑う余地がなかったことが分かる。ヨブは時折こうしていたのだろうか、それとも頻繁にだろうか。聖句の最後に、「ヨブはいつも、このように行った。」とある。これは、ヨブが時折息子達の様子を見に行ったり、気が向いた時にだけ様子を見に行ったりしていたのではなく、祈りの中で悔い改めていたのでもない。ヨブは定期的に息子達を送り出して聖別し、息子達のために全焼のいけにえを捧げた。ここで言う「いつも」は、ヨブが1日か2日、もしくはほんの一瞬そのようにしたということではない。ヨブの神に対する畏れは一時的なものでもなく、知識だけのものや口先だけのものでもなく、神を畏れ悪を避けることによってヨブの心は導かれ、ヨブの振る舞いを決定していた。そしてそれはヨブの心の中で、自身の存在の根源となっていた。ここから、神を畏れ悪を避けるということがヨブの心の中にどれだけ多くの比重を占めていたかが分かる。ヨブは恐怖と不安を感じていたので、いつもそのようにした。つまり、神に対して悪を行ない、罪を犯し、神の道から外れて神に満足していただけないことを恐れたために、いつもそのようにしたのである。同時に、ヨブは息子、娘達が神の怒りを招いたのではないかと心配した。ヨブの通常生活における行いはこのようであった。この通常の行いこそが、ヨブの「神を畏れて悪を避ける」という表現が無意味ではなく、実際にそのように生きたことを証明する。「ヨブはいつも、このように行った」。この言葉はヨブが日々神の前にどのような行いをしているかを示している。ヨブがいつもこのように行動していた時、ヨブの振る舞いと心は神に届いただろうか。そうであれば、どのような状況で、どのような背景で、ヨブはそのようなことを続けたのだろうか。一部の人たちは、神が頻繁にヨブに現れたからだと言う。た、悪を避けるためにそうしたのだと言う人たちもいる。さらには、ヨブの富は簡単に手に入ったものではなく、神に与えられたものだと知っていたので、神の怒りを買うことで富を失うのを恐れたのだと言う人たちもいる。この中に正解はあるだろうか。どれも明らかに違う。なぜなら、神がヨブに関して受け容れ、尊いと感じたのは、ヨブがいつもそのようにしていたということではなく、サタンの手に渡されて誘惑された際にヨブが神、人、そしてサタンに見せた振る舞いであったからだ。以下に示す箇所は最も説得力のある証拠である。ここに神のヨブに対する評価の真実が示されている。続けて、以下の聖句を読んでいこう。

2. サタンがヨブを初めて誘惑する(ヨブの家畜が盗まれ、ヨブの子供たちに災いが降りかかる)

a. 神が語られた言葉

(ヨブ記1:8)主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

(ヨブ記1:12)主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。b. サタンの返答

(ヨブ記1:9-11)サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

ヨブの信仰を完全なものとするため、神はサタンがヨブを誘惑することを許す

ヨブ記1:8は、聖書の中でのヤーウェ神とサタンのやりとりが記録されている最初の箇所である。そこで神は何と言っただろうか。聖書は次のように言っている。主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。これが、神がサタンに語ったヨブの評価である。ヨブは完全で正しい人、神を畏れ悪を避ける人だと神は言った。このやりとりの前、神は、ヨブを試みるためにサタンを用いることを決意し、ヨブをサタンの手に渡すことを決意した。ある意味では、神がヨブをサタンに渡したことで、神のヨブに対する見方と評価が正しく、何も間違えていなかったことが証明される。それにより、ヨブの証しを通してサタンが辱められる。そしてまたそれは、ヨブの神に対する信仰を完全なものとする。 それゆえ神は、サタンが神の前に現れた時、曖昧な表現は使わず、単刀直入にこう聞いた。「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。この神の質問には次のような意味がある。神はサタンがあらゆるところを巡っているのを知っており、神のしもべであるヨブをしばしば偵察していることも知っていた。サタンはしばしばヨブを誘惑し、攻撃し、何とかヨブを崩壊させようとした。ヨブの神に対する畏れは堅固なものではないと証明しようとしたのである。サタンはヨブの信仰を崩壊させる機会をうかがって、ヨブに神を捨てさせ、神の手からヨブを奪おうと考えた。しかし神はヨブの心を見られ、ヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避けることを知った。サタンに対する質問を通して、神はヨブが完全で正しい人であり、神を畏れ悪を避け、神を捨ててサタンに従うことは決してないことを伝えたのである。ヨブに対する神の賞賛の言葉を聞いたサタンは、屈辱から怒りを感じ、その怒りは大きくなり、何としてもヨブを奪いたいと思った。サタンは完全で正しく、神を畏れ悪を避けることのできる人間などいないと信じていたからである。そしてまたサタンは人間の完全さと正しさを嫌っていたので、神を畏れ悪を避ける人を憎んでもいた。ヨブ記1:9-11には以下のように書かれている。「サタンは主に答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』。」神はサタンの悪意に満ちた性質をよく知っており、ヨブの信仰を崩壊させようと企んでいたことも良く知っていた。そのため神は、サタンに改めてヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人間であることを伝えることで、サタンが神と調和してその真の姿をヨブの前に現し、ヨブを試すようにすることを望んだのである。つまり、神はあえてヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると強調し、そうすることで、ヨブの完全で正しく、神を畏れ悪を避ける生き方を憎み、深く怒るサタンを用いてヨブを試したのである。ヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける事実を通して、結果的にサタンが恥じ入り、完全に辱められ、打ち倒されるためである。そうすることで、サタンはヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であることを疑ったり非難したりすることはなくなるだろう。そのような訳で、神の試練とサタンの誘惑は避けることは困難だったのである。神の試練とサタンの誘惑に耐えることのできる者はヨブ以外にいなかった。このやりとりの後、サタンはヨブを誘惑する許可を得、サタンの最初の攻撃が始まった。この時はヨブの財産に対して攻撃が行なわれた。次の聖句に書かれたヨブの財産に関する非難の言葉からそのことが分かる。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。…あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです」。この言葉に対して、神はサタンがヨブの全財産を取り上げることを許している。これこそが神がサタンと語った目的であった。しかしその時、神はサタンにひとつのことを要求した。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない。」(ヨブ記1:12)これが、ヨブへの誘惑をサタンに許可し、ヨブをサタンの手に渡した際に神が出された条件だった。そしてこれが、神によって定められたサタンへの制限だった。つまり神は、ヨブに危害をくわえてはならないと命令されたのである。なぜなら、神はヨブが完全で正しいことを知っており、ヨブが神の前で完全で正しい人でいられることを疑っておらず、試練に耐えられると信じていたからである。それゆえ、神はサタンにヨブを誘惑することを許すと同時に、制限を与えたのである。サタンはヨブの全財産を取り上げることを許されたが、ヨブに指1本触れることはなかったのである。これは何を意味するだろうか。それは、神はその時ヨブを完全にサタンに渡したわけではないということである。サタンはヨブを試みるためにどのような手段も使うことができたが、ヨブ自身に危害を加えることはできず、髪の毛に触れることすらできなかった。それは、人間の全ては神によって制御されており、人間が生きるか死ぬかは神によって決められることで、サタンにそれを決める権利はなかったからである。神がサタンにヨブを試す許可を与えた後、サタンは即座にヨブへの誘惑を開始した。サタンはあらゆる方法でヨブを試み、間もなくヨブは神に与えられたたくさんの羊や牛などの財産を失った。このようにして、神の試練がヨブに注がれた。

聖書を読めば、どうしてヨブに試練が降りかかったかが理解できるが、試みに会っているヨブ自身は、はたして何が起こっていたか理解していただろうか。人間に過ぎないヨブが、自分に降りかかった試練の背景にあるものを知るはずもない。しかし、神を畏れ、完全で正しいヨブには、神からの試練だと認識することができた。霊的領域で起きていたことや、試みの背後にある神の意図はヨブには分からなかったが、何が起ころうとも、完全で正しくあり続け、神を畏れ悪を避けて生きるべきだということをヨブは知っていた。このような出来事の中でのヨブの態度と反応を、神ははっきりと見ていた。神は何を見ていたのだろうか。神は、神を畏れるヨブの心を見ていた。というのは、ヨブの心は初めの時から試練を受けた時までずっと、神に対して開かれており、神に委ねられており、自身の完全さと正しさを手放すことはなく、神を畏れ悪を避ける生き方を変えなかった。神にとってこれ以上嬉しいことはなかったのである。次に、ヨブの試練がどのようなものであったか、そしてそれらの試練にヨブがどう対処したのかを検討する。それでは聖句を読む。

c. ヨブの反応

(ヨブ記1:20-21)このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。

ヨブが全財産を返したのは神に対する畏れに起因するものである

「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない。」 という神の言葉の後、サタンはその場を去り、間もなく、ヨブは突然の激しい攻撃を受けた。まず、ヨブの牛とロバが略奪され、しもべ達が殺された。次に、ヨブの羊としもべ達が焼き殺された。そしてらくだとしもべ達が殺され、ついには彼の息子、娘たちの命も奪われた。この一連の攻撃が、最初の試練でヨブに降りかかった試練である。神の命令により、これらの攻撃の最中、サタンはヨブの財産と子ども達だけを攻撃し、ヨブ自身を傷つけることはなかった。だがヨブは、多くの富を持つ裕福な人間から、無一文の人間へと変わってしまったのである。このような突然の激しい試練と財産の喪失に耐えられるものはいないが、そのような中でヨブは並外れた側面を見せた。聖書は次のように言っている。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。ヨブが自分の子ども達と全財産を失ったと知った時にまず見せた態度はこのようなものであった。まず驚くこともうろたえることもなく、ましてや怒りや憎しみを現すことなどなかった。つまり、ヨブは自分に起こった試練が偶然でもなく、人間によるものでもなく、ましてや報いや罰などではないと初めから分かっていたのである。むしろ、試練はヤーウェからのものであり、ヤーウェが自分の財産と子ども達を取り上げることを望んだのだと知っていたのである。ヨブの心はいたって穏やかで、思考もはっきりしていた。ヨブの完全で正しい人間性ゆえに、降りかかった試練を理性的に、自然に判断し決断することができ、並外れた冷静さで対応することができたのである。「起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。「上着を裂き」というのはヨブが衣服を身につけておらず、何も持っていなかったことを意味する。「頭をそり」というのは、生まれたばかりの赤児として神のもとへ戻ったことを意味する。「地に伏して拝した」というのは、ヨブがこの世に裸でうまれ、今日も何も持たず、赤児のままで神のもとに戻ったことを意味する。降りかかった全ての出来事をヨブのように受け止めることができる被造物は存在しない。ヨブのヤーウェに対する信仰は、単に信じるという領域を越えていた。それは神への畏れであり、従順である。ヨブは神が与えることに感謝したのみならず、取られることにも感謝したのである。さらにヨブは、自分の命も含めて、全財産を自らすすんで神に返すことができたのである。

ヨブの神への畏れと従順は人類の模範となるものであり、彼の完全さ正しさは人間が持つべき人間性の頂点である。彼は神を見ることはなかったが、神は存在すると認識しており、ゆえに神を畏れた。そして神への畏れのゆえに、彼は神に従うことができた。彼は神が自分の持てるものを自由に取り上げることを許し、そしてそのことを不満に思うこともなく、神の前にひれ伏し、たとえその瞬間に神が自分の肉体を取り上げることがあろうとも、不満など言わずに喜んで受け入れると言ったのである。彼の行動全てが彼の完全で正しい人間性によるものだった。つまり、彼の純粋さ、正直さ、優しさの結果、神の存在に対する経験と確信は揺らぐことがなかったのである。そしてこのようなものが基礎となって、自分にすべきことを課し、神に与えられた指針と彼が全ての事柄において目にしてきた神の行いに沿った考え方や振る舞い、行動を標準化し、神の前での行動の原則を標準化したのである。時間とともに、ヨブの経験は、神に対する現実的で実質的な畏れをヨブの中に生じさせ、悪を避けるようにさせた。このことに固守したことが、ヨブの誠実の根源であった。ヨブは正直で、汚れのない、優しい人間性を持っており、実際に神を畏れるという経験をしており、神に従っており、悪をさけ、それと同時に“主は与え、主は取りたもう”という認識を持っていた。これらの理由だけで、サタンのあれだけひどい攻撃を受けながらも固く立ち、神の証人となることができた。またこれらの理由だけで、神の試練を受けた時にも神を失望させず、神に満足する答えを返すことができたのである。ヨブの最初の試みに対しての行動は非常にまっすぐなものだったが、後の世代の人々は一生努力を重ねてもヨブのようなまっすぐさを会得したり、あるいは彼のような行動がとれるまでになれたりするかは定かではない。今日、ヨブのまっすぐな行動を見て、そのヨブの行動と神を信じ従っていると自称している人々の「死までの完全な従順と忠誠」の叫びと決意とを比べると、あなたは恥じ入るだろうか、あるいは恥じ入らないだろうか。

ヨブと彼の家族の苦しみを聖書で読んで、みなさんの反応はどのようなものだろうか。戸惑いを感じるだろうか。驚いているだろうか。ヨブが受けた試練は「恐ろしい」と言えるものだろうか。つまり、聖書に書かれているヨブの試練を読むだけでも恐ろしく、実際にそれがどのように恐ろしいものだったかを説明するまでもない。であれば、ヨブに起こったことは「演習」ではなく、「銃」と「銃弾」を伴う「実戦」であることがわかる。では誰の手によってこの試練は起こされたのだろうか。もちろんサタンによってである。サタンによって直接行なわれたのである。しかし、神がその権限を持っていた。神はサタンに、どのようにヨブを試みるかを指示しただろうか。神はそのようなことは伝えていない。神はサタンにひとつの条件を与えただけで、その後ヨブに試練が臨んだ。ヨブに試練が臨んだ時、サタンの邪悪さと醜さ、サタンの人間に対する悪意と嫌悪、神に対する敵意が人々に伝わった。それにより、ヨブの試練がどれほど壮絶なものであったかが言葉では表現できないことが分かる。この瞬間に、悪魔の人を虐げる悪意に満ちた性質と醜い顔とがはっきりと現れたと言える。サタンは神の許可により得た機会を用いて、残虐にも激しくヨブを痛めつけ、その程度は今日の人々には耐えられないほど想像を絶するものであった。ヨブはサタンの試みに遭ったけれども証しに堅く立ち続けたというより、むしろ、神がヨブに与えた試練の中で、ヨブ自身がサタンと戦うことで、自身の完全さと義を守り、神を畏れ悪を避ける道を守ったという方が良いだろう。この戦いで、ヨブは多くの羊と牛、全ての財産、息子・娘達も失った。しかし彼は完全さと義、神に対する畏れを捨てることはなかった。つまり、このサタンとの戦いで、ヨブは完全さ、正しさ、そして神への畏れを失うより、財産と子供を失う方を選んだのである。人間であるということはどういうことなのか、その根源を手放さないことを選んだ。聖句にはヨブが財産を失った全過程が簡潔に記されており、その事に対するヨブの対応や態度も記されている。記述が簡潔な故に、試練にあったヨブがあたかもゆったりと構えていたかのような印象を与えるが、もしその時に起こったことを再現し、悪意に満ちたサタンの性質も再現したならば、聖句に書かれているように簡単ではない。実際には書かれているよりはるかに過酷だったのだ。人間と神に認められているもの全てに対するサタンの扱いは、それほどまでに破壊的で憎しみに満ちているのである。もし神が、ヨブ自身に害を加えてはならないとサタンに伝えなかったならば、サタンは平気でヨブを殺していただろう。サタンは誰も神を崇拝することを望まず、神の目に義なる者や完全で正しい者が神を畏れ続け、悪を避け続けることを望まない。人々が神を畏れ悪を避けることは、サタンを避けて見捨てるということである。それであるから、サタンは神からの許可を利用して、怒りと憎しみを情け容赦なくヨブにぶつけたのである。ヨブの心と体が、内側も外側も、どれほど苦しんだかが分かるであろう。その時の様子がどんなであったかは今日のわたしたちが知ることはできず、聖句を通して、試練に遭ったヨブの当時の感情を僅かに知ることができるのみである。

ヨブの揺るぎない高潔さはサタンを恥じ入らせ、慌てて退散させた

ヨブが試練に遭っていた時、神は何をしていただろうか。神はその様子を観察し、試練の結果がどうなるかを待っていた。観察し、待っている間、神はどう感じただろうか。勿論、悲しみに打ちひしがれた。しかし、あまりの悲しみに、サタンがヨブを試みることを許可したことに対して、神は後悔しただろうか。神は後悔しなかった。ヨブが完全で義人であり、神を畏れ悪を避ける人であると神は堅く信じていた。神はサタンによってヨブが神の前に義なる人間であることを証明させる機会を与え、サタンの邪悪さと卑劣さを暴露させただけである。それはヨブにとって、義人であり、神を畏れ、悪を避ける自身を世界の人々とサタンさらには神に従う人々にまでも証しする機会となった。そしてこの試練の結果は、ヨブに対する神の評価が正しく、何も間違っていないことを証明しただろうか。ヨブは果たしてサタンに打ち勝っただろうか。ヨブがサタンに打ち勝ったことを証明する典型的な言葉が書かれている。ヨブは言った。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。」これがヨブの神に対する従順であった。そしてヨブはまた言った。 「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」ヨブのこれらの言葉は、神は人の心の奥深くを見ていること、人の考えを見ていることを証明するもので、ヨブに対する神の評価に誤りはなく、確かにヨブは正しいひとであったことを証明する。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。これらの言葉はヨブの神への証である。サタンを脅かしたのはヨブが普通に使っていたこのような言葉で、それがサタンを辱め、慌てて退散させることになった。さらにはサタンに足かせをつけ、骨抜きにした。それだけでなく、ヨブの言葉はヤーウェ神の偉大さと業の力を実感させ、その心が神に支配されている者がどれほど並外れた能力を持つことができるかをサタンに思い知らせた。そして更には、ヨブという取るに足りない普通の人間が、神を畏れ悪を避けることに対する驚くべき力をサタンに対して見せつけたのである。こうしてサタンは最初の戦いに敗れたのである。「痛い思いをして理解した」にも関わらず、サタンはヨブを諦めようとせず、その邪悪な性質も変わらなかった。ヨブを攻撃しようと、サタンは再び神の前に来た。

次に、ヨブが2度目の試みに遭った時の聖書の箇所を読んでいこう。

3. サタンがもう一度ヨブを攻撃する (ヨブが皮膚病にかかる)

a. 神が語った言葉

(ヨブ記2:3)主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

(ヨブ記2:6)主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

b. サタンの言葉

(ヨブ記2:4-5)サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

c. 試練に対するヨブの態度

(ヨブ記2:9-10)時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。

(ヨブ記3:3)わたしの生れた日は滅びうせよ。「男の子が、胎にやどった」と言った夜もそのようになれ。

神の道に対するヨブの愛は他の全てを越える

聖書には神とサタンの会話が次のように書かれている。(ヨブ記2:3)主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。この会話の中で、神はサタンに対して同じ質問を繰り返している。この質問から、ヨブが最初の試練で見せた信仰に対してヤーウェ神が良い評価を与えたことが分かると同時に、試練の前の評価と何ら変わらないことも分かる。つまり、試練に遭う前のヨブは神の目に完全であり、故に神はヨブとその家族を守り、祝福した。ヨブは神に祝福されるに相応しかったのである。試練の中で財産と子ども達を失っても、言葉によって罪を犯すこともなく、ヤーウェの名を讃え続けたのである。神はヨブの行いを讃え、満点の評価を与えた。ヨブにとって、子ども達も財産も、神を捨てるほどの価値あるものではなかったのである。言い換えれば、ヨブの心にある神を、彼の子ども達も彼のどれほど価値ある財産も引き換えにすることはできなかったのである。ヨブは最初の試みの中で、自らの神に対する愛、神を畏れ悪を避ける道に対する愛が他の全てを越えることを神に示した。この試みは、ヤーウェ神から報いを受け、財産と子ども達は神に取り上げられるという経験をしたに過ぎなかった。

ヨブにとってこの試みは、自らの心を洗い流す実体験となり、いのちのバプテスマで満たされる経験となった。更に、ヨブの神に対する従順と畏れを試すための壮麗な祝宴でもあったのである。この試みはヨブを富める者から無一文へと変え、サタンによる人間への虐げも経験させた。ヨブは追い詰められてもサタンを憎むことはなかった。むしろ、サタンの卑しい行いにサタンの醜さと卑劣さ、神に対する敵意と反抗を見たのである。それによりヨブは更に、神を畏れ悪を避ける道への決心を固くした。財産や子ども、家族といった外的な要因によって神を見捨てることも神に背を向けることもけっしてせず、サタン、財産やどのような人に対しても虜になるようなことは決してないことをヨブは誓った。ヤーウェ神が唯一の主であり神であると誓った。それがヨブの強い思いであった。この試練での別の側面は、その大きな試練の中で、ヨブが神からの豊かな富を得たということである。

それまでの数十年間の人生において、ヨブは神の業を目の当たりにし、ヤーウェからの祝福を受けてきた。神に対して特に何もしていないと感じていたヨブは、自分に与えられている祝福は身に余るものと恐縮していたが、それでも膨大な祝福と恵みを享受していた。そのためヨブは、しばしば祈り、神にお返しできることを願っていた。神のなされた業と偉大さを証しし、自分の従順さが試され、更には自分の信仰が純化されて自分の従順さと信仰が神に認められることを願っていた。試練がヨブに臨んだとき、ヨブは神に祈りが聞かれたと思った。長年の願いが叶うことを知ったヨブは何よりこの機会を喜び、決して軽んじることはなかった。この機会は神に対する自身の従順と畏れを試すものであり、純化される機会であったからだ。それだけでなく、神に認められ、近付く機会となるであろうからだった。そのようなヨブの信仰と求める思いにより、ヨブは試練を通して更に完全なものとなり、神の心に対する理解を大いに深めた。ヨブはますます神の祝福と恵みを感謝し、神の業を益々讃え、以前にも増して神を畏れ、崇め、神の愛と偉大さ、聖さを求めた。この時すでに神の目にはヨブが神を畏れ悪を避ける者として見られていたが、試練という経験を通してヨブの信仰と知識は急速に成長した。信仰が増し、その従順さは揺るがぬものとなり、神への畏れが深まった。ヨブの試練はヨブを霊的に成長させ、いのちの成長があったが、ヨブはそれだけで満足して前進するのをやめるようなことはなかった。試練を通して得たものは何かを考え、自身の弱さを考えながらヨブは静かにいのり、次の試練を待った。自らの信仰、従順、神への畏れが続く試練によってさらに成長することを願っていたからである。

神は人間の心の奥深くにある思い、人間の言動を全て見ている。ヨブの思いは神に届き、神はヨブの祈りを聞いた。そして予想通り、神の次の試練がヨブに臨んだのである。

耐え難い苦しみの中、ヨブは人類に対する神の労りを実感する

自分への神の質問を聞いたサタンは密かに喜んだ。神の目に完全である人間をもう一度攻撃できるだろうと思ったからだ。サタンにはまたとないチャンスだ。この機会を利用してヨブの確信を揺るがせ、ヨブが信仰を失って神を畏れることもヤーウェの名前を讃えることもなくなることを望んでいたのだ。サタンにとっては、いつでもどこでもヨブを思いのままもてあそぶことができるチャンスだった。サタンは悪意に満ちた企てを完全に隠すことはできても、その邪悪な性質を抑えることはできなかった。聖句に書かれているサタンのヤーウェ神への返答からそれが事実であることがうかがえる。「サタンは主に答えて言った、『皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』。」(ヨブ記2:4-5)。神とサタンのやりとりから、サタンの邪悪さをはっきりと理解し、感じることができるだろう。真理を愛し悪を憎む者であるなら誰でも、このサタンの惑わしを聞いて更にサタンの下劣さと無恥さを嫌悪し、ぞっとするであろう。同時に、ヨブに対して心からの祈りと願いを捧げ、ヨブという正しい人が完全にされ、サタンの誘惑に負けずにどこまでも神を畏れ悪を避けることができるように、そして光の中を歩み、神の導きと祝福の中を歩むことができるようにと願うであろう。そしてヨブの義なる行いが、神を畏れ悪を避ける道を追い求める人々の励みとなり続けることを願うであろう。サタンの邪悪な意図はこの言葉から明らかだが、神はサタンの「要求」を快諾した。ただ、ひとつだけ条件を提示した。それは、「彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」(ヨブ記2:6)ということである。サタンは次にはヨブの肉と骨に触れようとしていたので、神は「ただ彼の命を助けよ」と言ったのである。神はヨブをサタンに渡したが、命は守ったということである。サタンはヨブの命を奪うことはできなかったが、それ以外のことであれば、ヨブに対してどんな事もでき、それをどのようなやり方でもできたのである。

神の許可を得たサタンはヨブのもとへ急ぎ、ヨブの皮膚を傷めた。ヨブの身体中の皮膚が腫れ、痛みを伴った。だがヨブはヤーウェ神の素晴らしさと聖さを讃えたため、サタンは更に手荒になった。人を傷つけることを喜びとしたサタンは、ヨブの肉を痛めつけ、腫物が彼の身体を覆うようにした。ヨブはすぐに痛みを感じ始め、それは他に匹敵するものがないほどの痛みであり、ヨブは頭の先からつま先までをさすった。肉体の痛みが彼の魂までも打つことのないようにしていたかのようであった。ヨブは神が彼とともにいることを知ってたので、苦難に耐えられるように自分の感情を殺そうとした。ヨブは再び地に伏して言った。「あなたは人の心を見られ、苦悩を見られます。あなたはなぜ人の弱さを心配されるのでしょう。ヤーウェ神の御名はほむべきかな。」ヨブはサタンの目の前で耐え難い苦しみを経験したが、それでもヤーウェ神の名を捨てはしなかった。そこでサタンはいそいでその手を伸ばし、全ての骨を砕くばかりの勢いでヨブの骨を痛めつけた。ヨブは瞬く間に経験したことのない苦しみに陥った。ヨブは叫び声を上げ、少しでも傷みを和らげるために自分の皮膚をはぎ取りたい程であった。それでもヨブは叫ぶこともなくこらえ、自分の皮膚を引き裂くことをしなかった。自分の弱さをサタンに見せたくなかったからだ。そして再びひざまずくと、今度はヤーウェ神の存在は感じなかった。神はしばしばヨブの前に、もしくは後ろか左右どちらかにいることをヨブは知っていたが、今回はこの痛みの中で、神はヨブを見ていなかった。神はその顔を隠して隠れていた。神が人間を創造したのは、人間に苦しみをもたらすためではなかったからだ。この時ヨブは涙を流し、必死に痛みに耐えていたが、それ以上神に感謝せずにいることはできなかった。「人はひと吹きで倒れる。人は弱く、未熟で無知である。それでもなぜあなたは人を労り、心配されるのですか。あなたは私を打ちますが、あなたはそれに痛みを感じておられます。人のいったい何が、あなたの労りと思いやりにふさわしいのでしょう。」ヨブの祈りは神の耳に届いた。神は黙って見ていた。…あらゆる手を尽くしてヨブを試みたサタンは、効果がないことを知って静かに去った。だがヨブに対する神の試みはまだ終わっていなかった。ヨブに現された神の力はまだ公表されていなかったため、ヨブの話はサタンの退散では終わらなかった。別の登場人物によって、さらに壮大な場面が続くのである。

どのような中でも神を褒めたたえることにより、ヨブの神への畏れと悪を避ける姿勢が再び明示される

サタンによる破壊を経験したヨブは、それでもヤーウェ神の名を捨てなかった。サタンの代わりにヨブを最初に攻撃したのは彼の妻であった。聖句には次のようにある。「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』。」(ヨブ記2:9-10)これは人間の形を取ったサタンによる言葉である。そのような言葉はサタンの攻撃であり、非難であり、誘惑であり、中傷である。ヨブの肉への攻撃に失敗したサタンは、ヨブの神に対する忠誠心を直接攻撃し、神への忠誠心を手放し、神を捨て、生きることをやめるように仕向けたかった。それゆえサタンはそのような言葉を用いようとした。ヨブがヤーウェの名を捨てるならば、苦しみに耐える必要はなく、肉体の苦しみから解放される。妻からの忠告を聞いて、ヨブは妻を叱責して言った。 「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ2:10)これらの言葉をヨブは以前からずっと知っていたが、この時、これらの言葉に対するヨブの知識が証明された。

ヨブの妻はヨブに対して、神を呪って死ぬようにと言ったが、その意味はこうである。「あなたの神はあなたに対してそんな扱い方をしたのです。それならなぜ神を呪わないのです。それでもなお生きて何をしているのです。あなたの神はあなたに対してそれほどにも不公平な扱いをしたのです。それでもなお、ヤーウェの御名は褒めたたえるべきだと言うのですか。あなたがヤーウェを讃えているというのに、災難をもたらすというのはどういうことです。さっさと神の名を捨て、従うのをやめなさい。そうすれば災難は終わるのです。」この時、神の望んでいた証しがヨブの中に生まれた。そのような証しができる者は他に誰もいなかった。聖書の中にそのような証しができる人物の記録もない。だがヨブがこのような言葉を発するずっと前に、神はそれを知っていた。神はこの機会を用いてヨブが全ての人間に、神が正しいことを証明させただけのことである。妻の忠告を聞いたヨブは、神に対する忠誠心を失わず、神を捨てなかっただけでなく、妻にこう言った。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。これらの言葉には重大な意味があるだろうか。これらの言葉の重大さを証明できる事実はひとつだけここに含まれる。これらの言葉が重要なのは、神がそれらの言葉を認めており、神が望んでおり、神が聞きたい言葉であり、神が求めた結果であるということである。これらの言葉はヨブの証しの真髄でもある。これにより、ヨブの完全さ、正しさ、神を畏れ悪を避けることが証明された。ヨブが尊いのは、彼が誘惑に遭い、皮膚が腫物に覆われ、極度の苦しみの下で、妻や身内に叱責されても、ヨブがこのような言葉を発することができたところだ。言い換えれば、ヨブは自身に降りかかる誘惑がどれほど大きくても、どれほどの苦痛や困難の中にあっても、たとえ死に直面しても、神への信仰を捨てることはなく、神を畏れ悪を避ける生き方をやめることはないのである。そうであるならば、ヨブの心の中の最も大切な位置を占めていたのは神であり、ヨブの心の中にあったのは神のみであったということである。そのような理由で、聖句には次のようなヨブに関する言葉が書かれている。「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。ヨブはその唇で罪を犯すことはなかっただけでなく、神に対して心の中で不平を言うこともなかった。ヨブは神に対して酷い言葉を発することもなく、神に対して罪を犯すこともなかった。ヨブはその唇によって神の名前を褒めたたえただけでなく、その心の中でも神を褒めたたえた。ヨブの言葉と心の中は一致していた。これが神の見た真のヨブであり、神がヨブを大切に思ったのはこのためである。

人々のヨブに対する多くの誤解

ヨブの試練は神の使いによってもたらされたものでもなければ、神自身の手によるものでもなかった。それは、神の敵であるサタンが直接もたらしたものである。その結果として、ヨブは大きな苦しみを経験したのである。それでもヨブは神に対する日々の認識、行動の原則、そして神に対する姿勢を余すところなく表した。これは事実である。ヨブが誘惑に遭わなかったならば、神がヨブに試練を与えなかったならば、あなたがたは、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」と言ったヨブを偽善者と呼ぶだろう。神はヨブに多くの財産を与えたのだから、ヨブがヤーウェの名を讃えるのは当然だと。もしヨブが試みに遭う前に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言っていたなら、あなた方は、「ヨブは誇張しているだけだ。神の名を見捨てるはずがない、神の手により何度も祝福されてきたのだから。もし神がヨブに試練をもたらしたのであれば、ヨブは神の名を捨てた筈だ」と言うだろう。だがヨブは、誰も望まないような、誰も見たくないような、そして誰もが恐れ、神ですら見るに堪えない状況に置かれ、それでも神に忠実であり続け、こう言った。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。仰々しい話や教義を好む人々も、そのようなヨブを見て言葉を失った。口先だけで神を称え、神からの試練を受け入れようとしない人々は、ヨブが決して手放すことのなかった神への誠実さ故に咎められ、神の道からそれることなく堅く立つことができると信じたことのない人々は、ヨブの証しにより裁かれる。試練の中にあるヨブの態度とヨブが発した言葉を聞いた人々の中には、困惑する人もいれば、羨む人、疑念を抱く人もいる。中には無関心に鼻であしらう人もいるだろう。なぜなら、試練の中にあるヨブの苦しみとヨブの言葉だけでなく、試練の中のでヨブが見せた「弱さ」もまた垣間見ることができるからである。この「弱さ」は全き人であるはずのヨブに見られる不完全性であり、神の目に完全であるヨブに見られる欠点であると、そのような人達は考えるからである。つまり、完全な者は欠点も染みもなく、弱さもなく、痛みを知らず、悲しんだり落ち込んだりせず、外的ないかなるものにも憎しみなどの激しい感情や姿勢を持つことがないと彼らは信じているからである。それ故に、ほとんどの人々は、ヨブが真に完全な人とは信じないのである。ヨブが試練の中にあって取った態度を、人々はあまり認めない。例えば、財産と子ども達を失ったヨブは、人々が想像するように、泣き叫ぶようなことはしなかった。ヨブの見せた「非礼」が、人々にヨブは冷たい人間だと思わせた。彼は涙を流すこともなく、家族への愛もなかったと考えるのである。ヨブはまずこのようなマイナスの印象を人々に与えてしまう。 その後のヨブの態度は更に彼らを困惑させる。「上着を裂いた」のは、神に対する軽蔑と解釈され、「頭をそり」は神に対する冒瀆と反抗だと誤解された。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」というヨブの言葉を除いては、神に称えられたヨブの義は人々に理解されず、理解不能、誤解、疑い、叱責、そして理論上だけの承認というのが大半の人々の評価である。 ヨブは完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であるという神の言葉を真に理解し、認識できる人はひとりもいない。

このようなヨブに対する印象は、人々をヨブに対して彼の義も疑わせる。聖書に書かれているヨブの行動は、人々が想像するような、感動を伴うようなものではないからだ。特別な技能を使ったりしなかっただけでなく、ヨブは焼き物の破片を取って灰の中で自らの皮膚をかきむしったのである。ヨブのこの行動に人々は驚くだけでなく、懐疑的になり、ヨブの義を疑いさえした。自らの皮膚をかきむしりながら、ヨブは神に祈ることも誓こともせず、痛みから涙を流すこともなかった。この時に人々が見たものは、ヨブの弱さでしかなく、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」とヨブが言うのを聞いても、まったく感動することはなく、ヨブへの考えは揺れ動いており、ヨブの言葉から彼の義を見抜くことはできなかった。試練の中にあるヨブが与える印象は、彼が卑屈にもならず、傲慢にもならなかったということである。ヨブが見せた態度の背景にある彼の心の奥深くにある姿勢を人々は見ることがなく、神に対する畏れや悪を避けるという原則に堅く立っているヨブの心の中を見ることもない。ヨブが冷静なのをみて、彼の完全さと義は口先だけで、神への恐れも単なるうわさだと考える。つまり、外見上のヨブの「弱さ」が人々に強い印象をあたえる一方で、神が完全で義であるとしたこのヨブという人間に対して「新しい見識」や、更には「新しい理解」すら持つのである。そのような「新しい見識」や「新しい理解」は、ヨブが口を開いて自らの生まれた日を呪うことで証明されることになる。

ヨブの受けた苦しみは想像を絶する、人間の理解を超えるものであったが、それでもヨブは信仰から外れるような発言をせず、自分のできる手段でその痛みを和らげようとした。ヨブの言った言葉が次のように聖書に書かれている。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。」(ヨブ記3:3)。おそらく誰もこの言葉を重視しなかっただろうが、この言葉が気にかかった者はいるだろう。あなた方の考えでは、ヨブは神に背いているだろうか。ヨブの言葉は神にたいする不平だろうか。あなた方の中で、ヨブの言葉に対して特定の考えを持っている者は多いと思う。その者達は、ヨブが完全で義なる人であれば、弱さや嘆き悲しみを表現するのではなく、サタンのどのような攻撃に対しても立ち向かい、サタンの誘惑に対して笑みすら浮かべるべきだと、恐らく思っているだろう。サタンによって肉体にもたらされた苦しみに何の反応も示すべきではなく、感情も表すべきではなかったと。それどころが、更に厳しい試練を神に求めることすらできた筈だと。揺るぎない信仰に立って神を畏れ悪を避ける人はそのようでなければならないと考える。 この極度の苦しみの中、ヨブはただ自分が生まれたことを呪った。神に不平を言うようなことはせず、神に背こうなどとは尚更考えていない。これを実行するのは言葉で言うほど簡単ではない。遙か昔から今日に至るまで、ヨブほどの誘惑と苦しみを経験した者はいない。ヨブほどの誘惑を経験した者がいないのは何故か。それは、神の目には、ヨブほど自分に託されたことを忠実にこなし、尽くし、さらには自らの誕生を呪っただけでなく、神の名に背くのではなく、ヤーウェ神の名を讃えつづけられる人間は、ヨブの他にはいないからである。そのような事ができる者がいるだろうか。わたしたちは今の話の中でヨブを称賛しているのだろうか。ヨブは正しい人であり、神への証しとなり、サタンにしっぽを巻いて退散させ、二度とヨブを責めようと神の前に現れることはなかった。それならヨブを称賛しても良いのではないか。あなた方の基準は神の基準より高いとでも言うのか。同じ試練があなた方に臨んだならば、ヨブ以上に立派に対処できるとでも言うのか。ヨブは神に称賛された。それに対して何か意義を唱えることができるか。

ヨブが自分の生まれた日を呪ったのは神に心を痛めてほしくなかったからである

わたしはしばしば、神は人の内側を見るが、人間は人の外側を見ると言う。神は人の内側を見るので、人の本質を理解するが、人間は人の外側からその人の内側を判断する。ヨブが口を開いて自分の生まれた日を呪った時、ヨブの3人の友人を含めて多くの霊的な人達は非常に驚いた。人は神からでたのだから、自らの命と肉に感謝し、生まれた日を感謝し、人は神から来たのだから、神から授かったその命と肉体、そして生まれた日を感謝すべきであり、呪うべきではない。これはほとんど誰にでも理解できることである。誰であれ神に従うならばこれは犯すことのできない神聖な事実であり、変わることのない事実である。だがヨブはこの規則を破った。彼は自分の生まれた日を呪った。大半の人はこのヨブの行いが、一線を越えたと見なした。人々の理解と慈悲を得る資格がないだけでなく、神の赦しを得る資格もないのだ。同時に、さらに多くの人々がヨブの義に懐疑的になった。なぜなら、神に気に入られたヨブは自分に寛大になり、与えられた祝福と彼の人生でずっと与えられてきた神の慈しみに感謝しないばかりか、自分の生まれた日を呪うほど大胆で無謀になったと考えるからだ。これが神への反抗でないとすれば何だろうか。このような表面的な見方は人々がヨブの罪を証明する原因となるが、しかし当時ヨブが考えていたことは本当は何かということが一体だれに理解できるだろうか。そしてだれがヨブの当時の行動の理由を知り得るだろうか。この出来事の真相とヨブにこのような行動を起こさせた理由を知っているのは神とヨブのみである。

サタンがヨブの骨を痛めつけようとその手を伸ばした時、ヨブは逃げる手段も拒む力もないまま、サタンの手中に落ちた。ヨブの身体と魂は激痛に襲われ、それによりヨブは肉に生きることの無意味さ、もろさ、無力さに気づいた。同時に、神がなぜ人間を憐れみ、見守るのかに関する深い理解を得た。サタンの手中に落ちたヨブは、肉と血による人間が実に無力で弱いことを知った。サタンの手の中で、ヨブは肉と血による人間が、実に無力で弱いことを悟った。ヨブが跪いて祈ると、あたかも神がその顔も姿も隠してしまったかのように感じられた。神がヨブを完全にサタンの手中へ預けてしまったからである。同時に神もヨブのために涙を流し、苦しんだ。ヨブの痛みで神も痛みを感じ、ヨブが傷ついたことで神も傷ついた。ヨブは神の痛みを感じ、神にはそれが耐え難い痛みであったこともヨブは感じた。それ以上神を悲しませることをヨブは望んでいなかった。それ以上神が涙を流すことも、ましてや自分のために痛みを感じることも、ヨブは望まなかった。この時、ヨブは自分の肉を取り除きたいとひたすら思った。そうすれば肉の傷みから解放され、自分の痛み故に神にそれ以上痛みを加えずにすむからだ。だがそうすることが叶わないヨブは、肉の痛みに耐えなくてはならないばかりか、神に心配をかけたくないという辛い思いにも耐えなくてはならなかった。このふたつの痛み、つまり肉の傷みと霊の痛みは、ヨブに胸が張り裂けるような、はらわたがちぎれるような痛みをもたらし、肉と血による人間の限界がもたらす失望感と無力さを痛感させた。そのような状況の中で、ヨブの神を求める思いは更に強くなり、サタンに対する嫌悪感はさらに増した。ヨブはこの時、人間の世界に生まれて来なければよかったと思った。神が涙を流し、自分のために神が痛みを感じなければならないくらいならば、自分が存在しない方が良いと思った。ヨブは自分の肉を深く忌み嫌い、自分自身がつくづく嫌になった。自分の生まれた日、自分に関係のあるもの全てを忌み嫌った。自分の生まれた日やそれに関連するものを全て忘れたいと思い、それだからヨブは、口を開いて自分の生まれた日を呪ったのだ。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。」(ヨブ記3:3-4)。ヨブの言葉には 「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」という自分への憎しみと、「その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。」という自分に対する叱責と神に痛みをもたらしたことに対する自責の念が込められている。このふたつの聖句は当時のヨブの感情を表しており、彼の完全さと義を全ての人に示すものである。それと同時に、ヨブが望んだ通り、彼の信仰と神への従順、そして神に対する畏れは、間違いなく高まったのである。これは勿論、神が予想した通りの効果であった。

ヨブはサタンを退け、神の目にあって真の人となる

最初に試練にあったヨブは彼の財産と子ども達を失ったが、ヨブはそれによって躓くことも神に対して言葉で罪を犯すこともなかった。ヨブはサタンの誘惑に勝利し、物質的財産と子孫に勝利し、世的な財産を失うという試練に勝利した。それはつまり、ヨブは神が彼から取ることに従い、そのことに感謝し、神を讃美することができたということである。それがサタンの最初の誘惑に対するヨブの振る舞いであり、それはまた、神の最初の試練におけるヨブの証しでもある。2度目の試練では、サタンはその手を伸ばしてヨブを苦しめた。ヨブは経験したことのない痛みに苦しむが、それでもヨブの証しは人々を驚かせるほどのものだった。ヨブはその不屈の精神、強い信念、神への従順、そして神への畏れにより、再びサタンに勝利した。ヨブの態度と明かしはまたしても神に認められ、喜ばれた。この試練の間、ヨブはサタンに対し、肉の痛みが神への信仰と従順を揺るがすことはなく、神に対する献身と畏れを奪うことはできないということをその態度により表明している。彼は死に直面したからといって、神を放棄したり、自身の完全さと正しさを捨てたりはしない。ヨブの決意はサタンを弱腰にし、ヨブの信仰はサタンを怯えさせ震えさせた。サタンとの生死をかけた戦いにより、サタンの中の強い憎しみと恨みが膨らみ、ヨブの完全さと義の前にサタンは為す術もなく、ヨブへの攻撃を止め、ヤーウェ神の前でヨブを告発することを諦めたのである。 これが意味するところは、ヨブが世に打ち勝ち、肉に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、そして死に勝ったということである。ヨブは正に、完全に神に属する人であった。この2度の試みの間、ヨブは自らの証に固く立ち、その完全さと正しさを生き通し、神を畏れ悪を避けるという生きる上での原則の適用範囲を広げた。ふたつの試練を通ったヨブは更に経験豊かになり、成熟し、鍛えられた。ヨブはそれまで以上に強くなり、更に強い確認に立ち、自身が手放さずに来た義と誠実さは更に確固たるものとなった。ヤーウェ神によるヨブへの試練はヨブに深い理解と神の人間に対する労りの理解を与え、神の愛の尊さを理解させた。その結果ヨブは、神に対する畏れに加えて、思いやりと愛を持つようになったのである。ヤーウェ神による試みは、ヨブをヤーウェ神から遠ざけなかったばかりか、ヨブの心を神に近づけた。ヨブの肉の痛みが頂点に達した時、ヤーウェ神のヨブに対する労りを感じたヨブは、自分の生まれた日を呪うしかなかった。ヨブのこのような振る舞いは長期計画によるものではなく、神への配慮と愛の自然な表現であり、神への配慮と愛によるものである。この時ヨブの長年の神への愛と神を切望する思い、そして献身の思いは、配慮と愛というレベルへ引き上げられたのである。同時に、ヨブの信仰と従順、そして神への畏れも、配慮と愛というレベルへ引き上げられた。ヨブは神にとって痛みの原因になり得ることは一切せず、神を傷つけることは一切せず、神にとって悲しみ、嘆き、さらには不幸の原因とはなるまいとした。神の目には以前と同じヨブであったが、ヨブの信仰、従順、神への畏れは神にとって満足するもので、喜びとなった。この時、神がヨブに対して期待した完全性をヨブは獲得し、神の目から見て、「完全であり義である」と呼ばれるに相応しい者となった。ヨブの義なる行いによりサタンに勝利し、神の証しに堅く立つものとなった。そうしてヨブの義の行いは彼を完全にし、完璧にし、いのちの価値を引き上げさせ、これまでにはなかった高みに登らせ、二度とサタンが最初の攻撃対象にすることはなくなった。ヨブはその義の故にサタンに責められ、誘惑された。義の故に、サタンに渡された。そして義の故に、サタンに勝利し、サタンを打ち倒し、堅く証しに立った。そのようにして、ヨブは二度とサタンの手に渡されることのない最初の人となり、神の座の前に出た。そして神の祝福の中で、サタンの監視も破滅もなく、真に神に見守られて生きるものとなった―自由になったのだ。

ヨブについて

ヨブの経験した試練を学んできたわけだが、あなた方の大半はヨブ自身についてもっと知りたくなっただろう。特に、神から称賛される秘訣は何であるかを知りたいだろう。ではこれからヨブについての講義をしよう。

ヨブの日々の生活に完全さ、正しさ、神への畏れ、悪を避ける生き方を見ることができる

ヨブについて語ろうとするならば、神自身の言葉でヨブがどう評価されたかを知らなくてはならない。「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない…」

まずヨブの完全さと義について学ぶとしよう。

あなたは「完全」そして「正しい」という言葉をどのように理解しているだろうか。あなた方はヨブが責められるところのない人で、高潔であったと思うだろうか。勿論これは「完全」そして「正しい」の文字通りの解釈である。ヨブの実生活を真に理解するために欠かせない言葉、書籍、理論だけでは、答えを見つけることはできない。まずヨブの家庭生活、日々の生活はどのようなものだったかを検討しよう。そうすることで彼の人生における主義や方針、そして彼の人間性や追い求めていたものが見えてくるからだ。それではヨブ記1:3の最後の部分を読む。「この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった」。この言葉が意味するところは、ヨブの地位と立場は非常に高く、彼が多くの財産を所有しているからと言って、または彼が完全であり正しく、神を畏れ悪を避ける人間であるからと言って東方で最も偉大な人間であったかどうかは分からないにしても、とにかくヨブの地位と立場が非常に尊ばれていたということである。聖書に書かれているように、ヨブに対する人々の第一印象は、神を畏れ悪を避ける完全な人で、非常に多くの財産と尊敬される地位にいたということである。そのような環境と条件の下で生きている普通の人間であるヨブの食生活、生活水準等の日常生活はいったいどのようなものであったのか、それが大方の人間の注目するところである。続けて聖句を読む。「そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った」(ヨブ記1:4-5)。この聖句から2つのことが分かる。ヨブの息子娘達は定期的に宴会を催し、飲み食いをしていたということ。2つ目は、ヨブが度々息子娘達のために全焼のいけにえを捧げていたということである。ヨブは自分の息子娘達が罪を犯したり、心の中で神を呪ったりしてはいないかと心配していたのである。この聖句の中に、2種類の全く異なる種類の人間が描かれている。まず、ヨブの息子娘達は裕福であり、贅沢に暮らしていた。心ゆくまで豪華な食事を楽しみ、物質的な豊かさがもたらす高水準の暮らしを享受していた。そのような生活をしていれば、しばしば罪を犯し、神の怒りを招くことは避けられなかったが、それでも彼らは自らを清めたり、全焼のいけにえを捧げたりすることはなかった。そこから分かるのは、神は彼らの心の中に居場所はなく、彼らが神の恵み、神の怒りを招くことに対する畏れなどを思うこともなく、ましてや神を放棄することを恐れてなどいなかったことが分かる。もちろん、わたしたちがいま問題としているのはヨブの子ども達ではなく、そのような子ども達を目の当たりにしたヨブがどうしたかである。これが、この聖句に書かれているもうひとつの問題であり、ヨブの日常生活と彼の人間性の本質と関わりがある。ヨブの息子娘達の宴会について書かれている聖句では、ヨブには言及していない。ヨブの息子娘達がしばしば宴会を催し、飲み食いしていたとだけ書いてある。言い換えれば、ヨブが宴会を催した訳ではなく、ヨブはそこで一緒に贅沢に飲み食いもしていないのである。彼は富んでおり、多くの資産と奴隷とを所有していたが、ヨブは贅沢な暮らしはしていなかった。ヨブは贅沢な生活環境を楽しむことなく、肉の楽しみを貪ることもなく、富むが故に全焼のいけにえを捧げ忘れるということもなく、ましてや徐々に神を自分の心から遠ざけるというようなことはしなかった。明らかにヨブはその生活に自制心を持っており、貪欲でも快楽主義でもなく、神からの祝福による高い生活水準に固執することもなかった。むしろ、彼は神の前に謙虚で慎み深く、そして注意深く慎重であった。しばしば神の恵みと祝福に思いをめぐらせ、常に神を畏れた。ヨブは度々朝早く起きて、息子娘達のために全焼のいけにえを捧げた。言い換えれば、ヨブは自ら神を畏れただけでなく、子ども達も同様に神を畏れ、罪を犯さないことを願っていた。物質的な豊かさがヨブの心の一部分でも占めることはなく、物質的な豊かさがヨブの心にある神に取って代わることもなかった。自分自身のためであれ子ども達のためであれ、ヨブの習慣は全て神を畏れることに直結していた。ヨブの神への畏れは言葉によるものだけではなく、行動で現され、彼の日常生活のあらゆる場面に反映されていた。このようなヨブの振る舞いから、ヨブが正直で、その本質は義を愛し、善を愛するものであったことが分かる。ヨブはしばしば息子娘達を送って清めたということは、彼が自分の息子娘達の振る舞いを認めておらず、良しとしてはいなかったということである。むしろ、その心は子ども達の行いにうんざりしており、非難していた。ヨブは自分の子ども達の行いがヤーウェ神に喜ばれていないと結論付けた。それ故、彼は頻繁に彼らを呼び、ヤーウェ神の前に出て罪を告白させたのである。ヨブの行動から彼の人間性の別の面が見える。それは、ヨブは罪を犯す者達と決して歩まず、彼らから遠ざかり、避けたということである。たとえそれが自分の息子娘達であれ、ヨブは彼らのために自分の生き方の原則を曲げることはなく、感情に流されて罪を見逃したりはしなかった。むしろ子ども達に、快楽に対する貪欲さ故に神を捨ててはならないと警告した。ヨブの周囲の人々に対する接し方の原則は、神を畏れ悪を避けるという原則と切り離すことはできない。ヨブは神に受け入れられる物事を愛し、神が拒絶する物事を憎んだ。神を畏れる心を持つ人々を愛し、神に対して悪を行なったり罪を犯したりする人々を憎んだ。ヨブの日々の生活がその愛と憎しみを語っており、正にその愛と憎しみが、神の目に映ったヨブの正しさそのものであった。当然これが、周囲の人々との関わりの中におけるヨブの真の人間性の現れであり生き様であり、わたしたちは是非これについて学ぶべきである。

試みの中でのヨブの人間性の現れ(試練の中でのヨブの完全さ、正しさ、神への畏れ、そして悪を避ける生き方を理解する)

ここまで、ヨブが試みに遭う前に彼の日常生活に見られた人間性の側面について話してきた。これらを理解することにより、ヨブが正しく、神を畏れ悪を避けることの初歩的知識と理解を得るこができ、確認することができたことは間違いないだろう。「初歩的」と言ったのは、大半の人がまだヨブの人間性を真に理解しておらず、彼がどれほど神に従い神を畏れる道を求めたかを真に理解していないからである。つまり、大半の人のヨブに対する理解は、 「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」、そして「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」という聖句が与える幾分ヨブに好意的な印象の域を出ることがないのである。したがって、ヨブが神から試練を受けた後に見せた彼の人間性を理解する必要が大いにある。そうすることで、ヨブの真の人間性が全て明らかになるのである。

ヨブが、財産を奪われ、息子と娘達が命を失い、しもべ達が殺されたと聞いた時のヨブの反応は、「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、…」(ヨブ記1:20)という聖句に示されている。この言葉はひとつの事実をわたしたちに示している。知らせを聞いたヨブは動揺することもなく、泣くこともなく、知らせを持ってきた使いの者を責めることもせず、ましてや現場を検証してなぜどのようにしてそのようなことが起きたのか、詳細を確認しようなどとは考えなかった。彼は所有物を失ったことに対して一切の痛みや後悔を見せることもなく、愛する子供たちを失ったことで泣き崩れることもなかった。それどころか、ヨブは自分の衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して神を礼拝した。ヨブの行動は普通の人間の行動とは全く異なっていた。ヨブの行動に多くの人は混乱し、ヨブの「冷血さ」を心の中で叱責した。所有物を突然失えば、普通の人間であれば悲しくなり、落胆する。人によっては深い絶望感を感じるだろう。人にとって財産は人生の長い苦労の結晶であり、生きる支えであり、生きる望みであるからである。財産を失うということはそれまでの努力が無駄になり、望みも失い、未来さえなくなったということである。これが普通の人の財産に対する考え方であり、普通の人はそれほど深く財産と関わっているのである。人の目には、財産とはそれほど重要なのである。そのような訳で、財産を失っても冷静でいられるヨブに大半の人々は困惑するのである。[c] ここではヨブの心の中を理解することにより、そのような人々の困惑を払拭する。。

常識的に考えるならば、神から与えられた膨大な財産を失ったのだから、ヨブは恥じるべきだと言われるだろう。財産をきちんと管理できず、神に与えられた財産を手放さずに持っていることができなかった訳であるから。財産が奪われたと知った時、ヨブは現場に赴いて失った財産を記録し、それを神に報告し、もう一度神の祝福が得られるようにすべきであったと。だがヨブはそのようなことはしなかった。ヨブにはそうしない理由が当然あった。ヨブは、自分の所有物は全て神から与えられており、自分の労働から生まれたものではないと深く理解していた。故に神からの祝福を資本とするものとは考えず、自分の生きるべき道からどんなことがあっても離れない様、その原則に全力で留まったのである。ヨブは神に与えられた祝福を大切にし、感謝した。だがその祝福に心を奪われることはなく、更に祝福を求めることもしなかった。それがヨブの財産に対する彼の姿勢である。ヨブは祝福を得るために何かをするということもなく、また、神からの祝福が欠けるとか失うということを心配したり悩んだりすることもなかった。神から祝福を受けることで荒っぽくなったり、有頂天になることもなく、繰り返し享受する祝福に神の道を無視するようになったり、神の恵みを忘れたりすることもなかった。財産に対するヨブの姿勢は、人々に彼の真の人間性を示すものとなった。その理由の1つ目は、まず、ヨブは欲深い人間ではなく、その生活において物質的に多くを求めることはしなかった。そして2つ目は、神が全てを取り上げることをヨブは心配したことが一度もなかった。これはヨブの神への従順を現している。つまりヨブは、神が彼の財産を取り上げるかどうか、そして取り上げるのであればいつならば良いかというような注文をつけたり不服を言ったりすることは一切なく、何故取り上げたかその理由を聞くこともなく、ひたすら神の計画に従うことだけを求めたのである。3つ目の理由は、ヨブは自分の財産が自分の労によるものだとは決して思わず、神に与えられたものだと信じていた。これがヨブの信仰であり、彼が確信するものの現れである。ヨブの人間性と日々追い求めていたものが今述べた3つのポイントで理解できただろうか。ヨブが財産を失っても冷静に振る舞うためには、彼の人間性と彼が追い求めてきたことが不可欠だった。神からの試練の中にあっても、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言うことのできる背丈を持ち、確信に立っていることができたのは、ヨブが日々追い求めていたものがそのようなものであったからである。ヨブのこの言葉はひと晩のうちに言えるようになるものでもなく、ヨブの思いつきで言った言葉でもない。ヨブの長い人生経験から生まれたものである。神の祝福ばかり求め、取り上げられることを恐れ、取り上げられることを嫌い、取り上げられれば不平を言う人達と比較すると、ヨブの従順さは実に本物ではないだろうか。神の存在は信じるが神が全てを支配するとは決して信じない人達と比較すると、ヨブは非常に正直で正しかったと言えるだろう。

ヨブの理性

ヨブが積んできた経験と彼の正しさ、正直さは、彼が財産と子ども達を失った時にもっとも理性的な判断を下し、最も理性的な選択をしたことを意味する。ヨブのそのような理性的な選択ができたことは、彼が日々追い求めていたものと、神が日々自分にどのような業をなしたかを知ったことと切り離すことができない。ヨブはその正直さ故に、全てのものはヤーウェによって支配されていることを信じることができた。ヨブはその信仰により、ヤーウェ神が全てを支配していることを信じることができた。ヨブはその知識故に、ヤーウェ神の主権と采配に喜んで従うことができた。ヨブはその従順さ故に、益々心からヤーウェ神を畏れるようになり、その畏れが益々悪を避けるようにさせ、結果としてヨブは全き人となった。ヨブの完全さが彼を賢くし、素晴らしい理性の持ち主にさせた。

この「理性的」という言葉を私たちはどのように理解すればよいのだろうか。文字通りの解釈は、理知があり、論理的で分別のある思考ができ、正しい言葉、行動、判断ができ、正しい道徳的な基準を日常的に持っているということである。だがヨブの理性はそれほど簡単には説明できない。ヨブが素晴らしい理性を持ち合わせていたとここで言ったのは、彼の人間性と神の前での振る舞いと繋がっている。ヨブは正直であった故に、神の主権を信じ従うことができた。そしてそれ故に彼は他の人々には獲得し得ない知識を獲得し、その知識により自身に降りかかった状況に関して他の人々以上に正しく物事を見極め、判断し、定義付けをすることができた。そしてそれ故に、他の人々以上に正確に、そしてより深い洞察力をもって自分のすべきことを選択することができ、しっかりと立つべきところに立っていることができた。つまりヨブの行動の背後にある彼の言葉、振る舞い、原則、そして彼の作法は日常的なものであり、明解であり、具体的で、盲目的でも衝動的でも感情的でもなかったということである。何が起ころうとも、ヨブは対処方法を知っており、複雑な出来事であっても何をどのように関連づけて対処すれば良いかを心得ていた。自分がしっかりと繋がっているべきことにどのように繋がっていられるか、更にはヤーウェ神が与えることと取り上げることに対してどう対処したらよいかを知っていた。正にこれがヨブの理性である。財産と息子娘達を失ったヨブが、 「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言うことができたのは、正にヨブのこのような理性があったからこそである。

激しい肉体の痛みを経験し、身内や友人に非難され、死に直面した時、ヨブは自らの行動によって再びその真の姿を皆に示すことになったのである。

真実で清く、偽りのないヨブの姿 

では次の聖句を読もう。「サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」(ヨブ記2:7-8)。この聖句はヨブの皮膚が腫物で覆われた時の振る舞いを説明している。当時ヨブは、灰の中に座り、痛みに耐えた。誰も彼の腫物の治療をせず、痛みを和らげようと助けの手を延べる者はいなかった。ヨブは土器のかけらで腫物に覆われた皮膚をかいた。一見これはヨブの苦しみの一段階にしかすぎず、彼の人間性や神に対する畏れとは無関係に見える。当時ヨブは何も語らず、その心情や見解を示さなかったからである。それでもヨブの行動と態度は彼の人間性をそのまま現している。この聖句の前の章では、ヨブが東の人々のうちで最も大いなる者であったと書いてある。2章に入ると、この偉大な人物が、陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。この2つの聖句は実に対照的ではないだろうか。そこにはヨブという人がよく表されている。つまり、それまでの誉れ高い地位と身分にも関わらず、ヨブはそれらのものには全く無関心なのである。地位を周囲がどう見るかなど気にしておらず、自分の行動や振る舞いが地位や立場に影響するかどうかなど心配することはなかった。ヨブの心にあったのは、ひたすらヤーウェ神の目に叶う生き方をすることであった。ヨブの真の姿は彼の本質そのものであった。つまり、ヨブは名声も富も愛さず、名声や富のために生きることもしなかった。ヨブは真実で、清く、偽りのない人間だったのである。

ヨブの愛と憎しみの分別

ヨブの人間性に関するもうひとつの側面が、彼と妻との会話に表現されている。「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』。しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。…」(ヨブ記2:9-10)。苦しむヨブを見た彼の妻は、ヨブが苦しみから解放されるようにと助言した。だがその「善良な意図」はヨブに受け入れられなかった。それどころか、ヨブの怒りを引き起こした。ヨブの妻はヨブの信仰とヤーウェ神への従順を否定し、ヤーウェ神の存在も否定したからである。ヨブにとってそれは耐え難いことであった。ヨブ自身、決して自分が神に反抗したり神を傷つけたりするようなことをせず、言うまでもなく他の人がそのようなことをすることも耐えられなかった。周りの誰かが神を冒瀆したり中傷したりするような言葉を発するのを見て無関心でいられる筈がなかった。だからヨブは彼の妻を「愚かな女」と呼んだのである。妻に対するヨブの態度は怒りと憎しみ、非難と叱責に満ちていた。これは愛と憎しみを区別するヨブの人間性が自然に表現されたものであり、ヨブの正しさの真の現れである。ヨブには正義感があった。その正義感故にヨブは悪が横行するのを憎み、ばかげた異端、愚かな論争、ばかげた主張を忌み嫌い、非難し、拒絶し、大衆に拒絶され、身内や親しい人達に見放された時でも自身の持つ正しい原理と立場を堅く守った。

ヨブの心の優しさと誠実さ

ヨブの振る舞いに彼の人間性を幾つか見ることができるのだが、ヨブが自分の生まれた日を呪ったことには彼のどのような人間性を見ることができるだろうか。そのことについて今から検討する。

ヨブが自分の生まれた日を呪った理由をたった今説明した。ここで何が分かるだろうか。もしもヨブの心が頑なで愛もなかったとしたら、もしヨブが冷たい人間で感情に乏しく、人間性に欠けていたならば、神が何を望むかと思いやることができただろうか。神の思いを配慮する結果自分の生まれた日を呪うことなどあるだろうか。つまり、ヨブの心が頑なで人間性に欠けていたなら、神が痛みを感じることで苦しんだりしただろうか。自分が神を悩ませたからといってヨブは自分の生まれた日を呪ったのだろうか。決してそのようなことはない。ヨブは心優しく、神の心を配慮した。神の心を配慮したので、ヨブは神の痛みを感じた。ヨブは心優しかった故、神の痛みを感じて更なる苦しみを経験した。ヨブは神の痛みを感じた故、自分の生まれた日を憎み始め、自分の生まれた日を呪った。第三者にとって、ヨブの振る舞いは模範的なものである。自分の生まれた日を呪うという行為だけが、完全で正しいヨブに対して疑問が残ったり、評価を変えたりするのである。実はこれがヨブの人間性そのものなのである。ヨブの人間性とは、誰かに封をされたものでも梱包されたものでもなく、修正されたものでもない。自分の生まれた日を呪うことで、ヨブはその心の奥深くにある優しさと誠実さを現したのである。ヨブの心は清い泉のようで、その水は水底が見えるほど透明なのである。

ヨブについて学んできた訳だが、大半の人々は間違いなくヨブの人間性を大方正しく、客観的な評価をすることができるだろう。だが神が語っているヨブの完全さと正しさに関するより深く、実践的でより高度な理解と認識も持つ必要がある。それらを理解し認識することにより、人々が神を畏れ悪を避けるようになってくれることを願う。

神がヨブをサタンに渡したことは神の業の目的とどう関連するか

大半の人々がヨブは完全で正しい人で、神を畏れ悪を避けたと知っているが、だからと言って神のより偉大な意図を理解できる訳ではない。人々はヨブの人間性とヨブが追い求めた姿勢を羨む一方で、次のような疑問を持つ。「ヨブは完全で正しく、人々にそれほど愛されたのなら、何故神はヨブをサタンの手に渡し、そのような苦しみを経験させたのだろうか」 そのような疑問を大勢の人達が感じるのも当然で、実際そのような疑問を持つ人は多い。この点に悩む人は多いので、このことを改めて取り上げてきちんと説明する必要がある。

神の成すことは全て必要なことであり、特別な意味を持っている。なぜならば、神が人に対してすることは全て神の経営と人の救いに関連するからである。当然、ヨブに対してしたことも同じである。ヨブが神の目に完全で正しい人であったとしても、である。言い換えれば、神がすることが何であれ、その手段がどのようなものであれ、代償がどれほどであれ、方針がどのようなものであれ、神がすることの目的は変わらないということである。神の目的は、神の言葉、神が要求するもの、そして神の心を人間に対して働くことである。つまりそれは、神が自身の段階に沿って善と思うもの全てを行ない、人間が神の心を理解できるようにし、神の本質を理解できるようにし、神の支配に従えるようにし、そうすることによって神を畏れ悪を避けるようにするためである。これが神のすること全てにおける神の目的のひとつの側面である。もうひとつの側面は、サタンが引き立て役で神の働きにおいては仕えるものであるため、しばしば人間はサタンの手に渡されるのである。これは人間がサタンの誘惑と攻撃のただ中にあって、サタンの邪悪さ、醜さ、そして卑劣さを理解するために神が用いる手段であり、そうすることで人々がサタンを憎み、善良でないものを知り、理解できるようにするためである。このような過程を通ることにより、人々はサタンの支配から徐々に解放され、サタンの叱責、妨害、攻撃から解放される。そして神の言葉により、彼らの知識と神への従順、神に対する信仰と畏れにより、サタンの攻撃に勝利し、サタンの叱責に勝利する。そうして初めて、人々はサタンの支配する領域から完全に解放される。サタンから解放されるということは、サタンが打ち負かされたということであり、彼らはサタンの獲物でなくなるということである。彼らを飲み込む代わりに、サタンは彼らを手放したのである。なぜなら、そのような人々は正しく、信仰を持っており、従順であり、神を畏れていたからであり、サタンと完全に決別したからである。彼らはサタンを辱め、怖じ気づかせ、完全に打ち負かした。神に付き従うという彼らの確信、神への従順と畏れがサタンを打ち負かし、完全降伏させたのである。このような人々だけが真に神のものとされ、そうなることが正に人間に対する神の救いの最終目標なのである。彼らが救われることを願うのであれば、そして完全に神の者とされることを願うのであれば、神に従う全ての人は誘惑とサタンからの大小の攻撃に直面しなければならない。このような誘惑や攻撃から抜け出た者が、サタンに完全勝利することができる。このような者が、神に救われた者である。つまり、神により救われている者は神からの試練を経験したものであり、サタンの誘惑と攻撃を何度も受けたことのある者である。神により救われている者は神の心と要求を理解でき、ひたすら神の支配と采配に従い、サタンの誘惑のただ中にあっても、神を畏れ悪を避ける道から逸れることがない。 神により救われている者は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、義と理性を知っており、神を配慮し神の全てを大切にする。そのような人々はサタンに束縛されておらず、監視されておらず、叱責されたり虐待されたりしていない。完全に解放されており、全く自由である。ヨブは正にそのような自由な人であり、神が彼をサタンの手に渡したのは、彼がこのように自由な人になるためだったのである。

ヨブはサタンに虐待されたが、永遠の自由を得ることができ、二度とサタンの堕落、虐待、そして中傷の対象とならないという特権を得ることができ、神を見上げて自由に、束縛されずに光りの中を歩み、神から与えられた祝福の中を生きる特権を得た。誰もこの特権を剥奪したり、廃止したり、自分のものとするために取り上げたりすることはできない。それはヨブの信仰、決心、神に対する畏れと従順に対して与えられたものである。ヨブは自らの人生という代価を払って、地上での喜びと幸せを勝ち取り、権利と資格を勝ち取り、地にある真の被造物として創造主を誰にも妨げられることなく礼拝する権利と資格を勝ち取り、誰にも妨げられることなく礼拝することを天に任命され、地に認められた。これもまた、ヨブが誘惑を耐えぬいたことによる素晴らしい結果のひとつである。

まだ救われていない人々の人生はしばしばサタンに介入され、支配されてさえいる。言い換えれば、救われていない人はサタンの虜であり、彼らには自由がない。そのような人はサタンに解放されておらず、神を礼拝する資質も資格もない。そのような人々はサタンが近くで狙っており、激しく攻撃される。彼らには語れるような幸せはなく、語れるような普通の存在でいる資格もなく、更には語れるような尊厳もない。もしあなたが立ち上がり、神への信仰と従順、神に対する畏れを武器として用い、命がけでサタンと戦うのであれば、そしてサタンを完全に打ち負かし、サタンがあなたを見たのならしっぽを巻いて逃げるようになり、そうしてサタンの攻撃とあなたに対する叱責から完全に離れることができるのであれば、その時あなたは救われて自由になれるのである。もしあなたがサタンとの関係を完全に断ち切ろうと決意していても、サタンを打ち負かす武器を身に付けていないのであれば、あなたにとってまだ危険な状態である。時が経ち、サタンにひどく苦しめられ、一握りの力もあなたの中に残されておらず、それでもまだ証しとなることができず、サタンの叱責と攻撃から完全に解放されていないのであれば、救われる望みはほとんどない。最後に神の業の完了が告げられる時、あなたはまだサタンの手の中におり、自らを解放することができず、従って救われる機会も望みもない。これが意味するのは、そのような人々は完全にサタンの虜となってしまうということである。

神の試みを受け入れ、サタンの誘惑に勝利し、あなたの存在全てを神のものとされる

人間に対する神の不変の施しと支えの働きの間、神は自身の心全体と要求を人間に示し、自身の業、性質、そして神であることの全てを示す。神に付き従う中で、人間に必要な身丈にまでさせ、神の幾つもの真理を得ることができるようにすることがその目的である。その真理とは、神により人間に与えられた武器であり、それによりサタンと戦うことができる。これらのものが備わったならば、人は神の試みに直面しなければならない。神は人間を試すための多くの手段や道を持っているが、どれも神の敵であるサタンの「協力」が必要となる。つまり、サタンと戦うための武器を人に与えた後、神は人をサタンの手に渡し、サタンが人の身丈を「試す」ことを許可する。人間がサタンの編隊から脱出できるならば、サタンの包囲網から抜け出して生きていられるならば、試験に合格したということである。だがもしサタンの編隊を離れることに失敗し、サタンに服従してしまうのであれば、試験に合格しなかったということである。神が人間を試される時、それがどのような側面をみるのであれ、神の基準はサタンの攻撃に対して人間がしっかりと証しに立っていられるかどうか、そして、サタンに誘惑されている間に神に背き、サタンに降伏して服従してしまうかどうかである。人間が救われるかどうかは、サタンに勝利してサタンを打ち倒せるかにかかっており、自由を獲得できるかどうかはその人間が神に与えられた武器を自ら取り上げてサタンの束縛から自らを解き放ち、サタンが完全に希望を失ってそれ以上攻撃しなくなるかどうかにかかっている。サタンが希望を失い、ある人を手放すのは、サタンは二度とその人を神から奪おうとはしない、二度と叱責したり、妨害したり、気まぐれに苦しめたり攻撃したりしないという意味である。サタンをそのような状況に追い込むことができる人だけが、真に神のものとされるのである。神が人を自身のものとする過程はこのようなものである。

ヨブの証によって、後の世代に警告と啓きが与えられる

神がある人を完全に自身のものとする過程を理解すると、神がヨブをサタンに渡したことの目的と意味も理解するようになる。ヨブの苦しみが理解できずに悩むことがなくなり、新たな意味を見出すのである。自分達も同じ誘惑に遭わなければならないのだろうかと心配することはなくなり、神からの試みを拒絶しなくなるのである。ヨブの信仰、従順、サタンに勝利したことの証しは、人々にとって大きな助けとなり、励ましとなる。ヨブを通して、自分自身の救いの望みを見出し、信仰と神への畏れによってサタンを打ち負かし勝利することが可能であることを見出すからである。神の主権と采配に従い、全てを失っても神には背かない決意と信仰があるならば、サタンを辱めてサタンに打ち勝つことができると知るのである。必要なのは、たとえ命を失っても、サタンを怯えさせて退散させるべく、神の証しになるよう決意し忍耐するだけであることを知るのである。ヨブの証しは後の世代への警告である。つまり、後の世代がもし、サタンを打ち負かすことができなければ、サタンの叱責と妨害から逃れることはできず、サタンの虐待と攻撃から抜け出すこともできないという警告である。ヨブの証しは後の世代に啓きを与えた。それにより、人々は、完全で正しくさえあれば、神を畏れ悪を避けることができることを教えている。つまり、神を畏れ悪を避けるならば、力強く生き生きとした神への証しを持つことができる。そして力強く生き生きとした神への証しを持つことができれば、サタンに支配されることはなく、神の導きと守りの中に生きることができる、そうして初めて真に救われるのだということを教えているのである。救いを求める者はだれでも、ヨブの人格とヨブの人生における追い求め方を見習うべきである。ヨブがその人生全てをどう生きたか、試練の中でどう振る舞ったか、神を畏れ悪を避ける道を追求する者たち全てにとって、それは大切な宝である。

ヨブの証が神に慰めをもたらす

もしわたしが今ヨブを愛すべき人間だと言ったなら、あなたはその意味を理解することはできず、わたしの言葉の背後にある感情も理解できないかもしれない。だがもしヨブと全く同じ試練かそれに似た試練をあなたが経験し、逆境に直面し、神があなたのためだけに用意した試練を通り、その試練のただ中にあってあなたのすべてを捧げ、屈辱と困難に耐え、サタンに勝利して神の証しとなることがあれば、その時にはわたしの言う意味がよく分かるはずである。あなたはヨブよりもはるかに劣っており、ヨブが愛すべき人物で、見習うべき人物だと感じるだろう。その時になれば、ヨブが語ったこの言葉が今の時代に生きる堕落した人間にとってどれほど重要であり、ヨブの成したことが今日の人間にとってどれほど達成が困難であるかが分かるだろう。ヨブと同じことを達成することの難しさを感じることが出来たならば、神がどれほど心配するか、そしてそのような人々を獲得するために神がどれほどの代価を払ったか、人間のために神がしたこと、費やしたものの尊さを理解するだろう。ここまでの話を聞いて、ヨブに対する正しい理解と評価が得られたであろうか。あなたにはヨブは真に完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると映るだろうか。ほとんどの人が、もちろんそのように映っていると言うことを信じている。ヨブの行動やヨブが示したことは、人間にとってもサタンにとっても否定できない事柄だからである。ヨブがサタンに勝利したことをそのような事柄は力強く証明しているのである。ヨブによるこの証しは、神に受け入れられた最初の証しである。それ故、ヨブがサタンの誘惑に勝利して神に証しを立てた時、神はヨブに希望を見出し、神の心はヨブによって慰められた。天地創造の時からこのヨブの時代までを通じて、神が慰めを真に感じ、人間によって慰められるとはどのようなことかを知ったのは、このヨブによる経験が初めてである。この時神は、自身に対して真の証しを立てるものを初めて見ると同時に、獲得したのである。

ヨブの証しとヨブのいくつかの側面に関する学びを通して、大半の人々が自身の進むべき道に対して計画が立てられると信じている。それと同時に、心にある不安や恐れが少しずつ消え、心身ともに穏やかになり、心安らかになっていくことと信じている。

次の箇所もまたヨブに関するものである。読み続けていこう。

4. ヨブは神のことを聞いて知っていた

(ヨブ記9:11)「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない。」

(ヨブ記23:8-9)「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。」

(ヨブ記42:2-6)「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。

神がヨブに自身を現さなくてもヨブは神の主権を信じた

この言葉が言わんとすることは何か。ここにはある事実が含まれることに気が付いた者はいるだろうか。まず、ヨブはどのようにして神がいることを知ったのか。そして彼はどのようにして天と地とあらゆるものは神によって支配されていると知ったのか。ふたつの聖句にその答えを見つけることができる。「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(ヨブ記42:5-6)。この言葉から、ヨブが直接神を見たというより、言い伝えから神を知っていたということが分かるが、そのヨブが神の道を歩み始める中で、神が自分の人生の中において実際に存在し、すべての中に存在することを確信するようになる。ここには否定できないひとつの事実があるが、それは何であろうか。神を畏れ悪を避ける道を進んでいたヨブだが、神を見たことは一度もなかった。この点で、ヨブも今日の人間も同じではないだろうか。ヨブは神を見たことがなかったということは、ヨブは神について聞いてはいたが、神がどこにいるのか、どのような存在か、何をしているのかといった主観的要因に関しては知らなかったのである。客観的には、ヨブは神に従い、神はヨブに現れたこともなく語ったこともない。これは事実ではないか。神がヨブに語ることも何らかの命令を下すこともなかったが、ヨブは神の存在を知っており、すべてのものとヨブが耳にした言い伝えに神の主権を認識しており、その後に神を畏れ悪を避けるようになった。そのようにしてヨブは神に従うようになったのである。ヨブがどれほど神を畏れ悪を避けても、どれほど高潔でも、神がヨブに現れることはなかった。次の箇所を読むと、ヨブは「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない。」(ヨブ記9:11)と言っている。つまり、ヨブは神が近くにいるのを感じたかもしれないし、そう感じなかったかもしれないが、とにかくヨブは神を見たことはないということである。神が自分の前を通り、或いは行動し、人を導くのを想像したことはあったが、実際にそれを見たことはない。神は人間が予想しない時に来る。神がいつ来るのか、どのに来るのか、人には分からない。人には神が見えないからである。そのような訳で、神は人からは隠されているのである。

神が隠されていてもヨブの信仰は揺るがない

次の聖句でヨブはこう言っている。「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない」(ヨブ記23:8-9)。ヨブの経験の中で神がずっと隠されていたことがこの記述から分かる。神は公然とヨブの前に現れることもなく、ヨブの言葉を語ることもなかったが、ヨブは神の存在を確信していた。目には見えなくても、神は自分の前を歩いていたり、傍らで行動していたりし、自分のすぐ側で支配していると信じていた。ヨブは神を見たことはなかったけれども心から信じ続けることができた。これは他の誰にもできなかったことである。なぜ他の人たちにはそれができなかったのだろうか。ここに書かれているヨブの言葉を読んでどう感じるだろうか。ヨブの神に対する完全さと正しさと義が真実で、神を過大評価しているからだとは思わないだろうか。神はヨブに対して他の人々と同じように扱い、ヨブに現れたり語ったりすることはなかったが、それでもヨブは神に高潔であり続け、神の主権を信じつづけ、更には神を怒らせたかもしれないという恐れから全焼のいけにえを頻繁に捧げて祈ったのである。神を見ないままに神を畏れたヨブに、ヨブがいかに善なるものを愛したか、いかにその信仰が堅く本物であったかが分かる。神が自分から隠されているからといってヨブは神の存在を否定することはなく、神を見たことがないからと言って神への信仰を失ったり神に背いたりすることはなかった。それどころか、すべてを支配するという神の隠れた働きに神の存在を認識し、神の主権と力を感じたのである。神が隠されているからと正しさを捨てることもなく、神が一度も現れたことがないからと神を畏れ悪を避ける道から外れることもなかった。ヨブは神が公然と現れてその存在を証明して欲しいと願ったことはなかった。すべてのものにおける神の主権を知っており、他の人々にはない祝福と恵みを自分が受け取っていると信じていたからである。神はヨブに隠されたままであったが、だからと言ってヨブの神への信仰が揺るいだことは一度もなかった。そのような訳で、ヨブは他の人々が得たことのない報い、つまり神からの承認と神からの祝福を得たのである。

ヨブは神の名を祝福し、祝福を受けるか災いに遭うかは考慮しない

聖書の中のヨブの物語では語られていない事実がひとつある。それが今日のテーマである。ヨブは神を見たこともなければ自分の耳で神の言葉を聞いたこともないが、ヨブの心には神の居場所があった。ヨブの神に対する態度はどのようなものであったのだろうか。先ほど読んだように、「主のみ名はほむべきかな」というものであった。ヨブは神の名を無条件に、無制限に、理屈抜きに称えた。ヨブは神にその心を捧げ、神に自身の心を支配してもらった。ヨブの考えたこと、決心したこと、心に計画したことは神の前に明らかにされ、隠されることはなかった。ヨブが神に敵対することはなかった。彼は神に対して何かしてほしいあるいは与えて欲しいと願ったことは一度もなく、神を崇拝しているからと言ってなにか途方もない報いを期待することもなかった。神に対して取り引きの話をしたり、神になにかを要求したり、命令したりするようなことはなかった。ヨブが神の名を称えたのは、すべてを支配するその偉大な力と権力故であり、祝福を受けたからとか、災いに遭ったからというものではない。ヨブは神が人々に祝福をもたらすか災いをもたらすかに関わらず、神の力と主権は不変であり、故にその人の状況に関係なく神の名は褒めたたえられるべきだと信じていた。神の主権故に人は祝福されるのであり、人に災いが降りかかるのもまた、神の主権故である。神の力と権力は人間のすべてを支配し計らう。様々な人間の富は神の力と権力の現れであり、人がどう見ようと、神の名は褒めたたえられるべきである。ヨブはそれを自らの人生で経験し、悟ったのである。ヨブの考えたことと行なったことのすべてが神の耳に届き、明らかにされ、それは神に重要なものと見なされた。ヨブの知識と、ヨブがそのような心の持ち主であることを神は大切に思った。ヨブの心は常に、どこにいても神の命令を待ち、自分にいつ何が起ころうとも、すべてを歓迎した。ヨブが神に何かを要求することはなく、彼はひたすら神の計らいを待ち、神の計らいを受け入れ、向き合い、従った。ヨブはそれを自身の本分とし、それこそヨブが神から受けることを望んでいたものである。ヨブは神を見たこともなく、神の言葉を直接聞いたことも、命令や教えや指導を受けたこともなかった。真理に関して神から何の啓きも導きも、施しも与えられていなかったヨブがそのような知識と姿勢を持つことができたのは、今日の言葉で表現するならば、神にとって尊いことであり、ヨブの表現したものは神にとって十分であり、称賛に値する証しであり、神はそれを大切に思った。ヨブは神を見たこともなければ直接神の教えを聞いた事もなかったが、ヨブとヨブの心は、神の前で難しい理論を説いたり豪語したりいけにえを捧げたりはするけれども神の真の知識を得たことはなく、心から神を畏れたことのない人々の心より遙かに尊かった。ヨブの心は純粋で神から隠れておらず、正直で優しい人格の持ち主であり、義と正しいものを愛した。そのような心と人格を持ち合わせた者だけが神の道に従うことができ、神を畏れ悪を避けることができる。そのような者が神の主権を知ることができ、神の権力と力を知ることができ、神の主権と采配に従うことができるようになる。そのような者だけが真に神の名を褒めたたえることができる。それはその者が、神が祝福を与えるか災いをもたらすかを見ておらず、すべては神に支配されていることを知っており、人間が思い煩うのは人の愚かさ、無知、理不尽さ、そして神がすべてのことにおいて主権を握っていることへの疑いと神への畏れのなさが原因であることを知っていたからである。ヨブの知識は正に神が求めていたものであった。それではヨブはあなたより素晴らしい理論的知識を持っていただろうか。当時の神の業と言葉は僅かで、神に関する知識を獲得するのは容易ではなかった。神の業を経験しておらず、神の声も聞いておらず、神の顔もいていないにも関わらず、ヨブがそれだけのものを達成したのは見事である。ヨブは神に対してそのような態度でいることができたのは、彼の人間性と彼が追い求めたもの故であり、それは今日の人々にはないものである。「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない…」と当時神が言ったのは、そのような理由からである。神はその当時すでにヨブをそのように評価しており、ヨブをそのような人と結論付けたのである。神の言われたことが今日でも真実であることは言うまでもない。

神は人から隠されてはいるが、全てのものにおける神の業により人は神を知ることができる

ヨブは神の顔を見たこともなければ神の声を聞いたこともなく、ましてや神の業を直接経験したこともなかった。それでもヨブの神に対して抱く畏れと、試練の中でも証しとなったことは人々が認めており、神に愛され、喜ばれ、称えられた。人々はヨブをうらやみ、高く評価し、さらに讃美を捧げた。ヨブの人生自体が偉大であったわけでも非凡であったわけでもない。他の人達と変わらない、普通の生活であった。日が昇れば仕事に出かけ、日が落ちると帰宅して休息した。他の人たちと違っていたのは、その数十年間に、ヨブが神の道を見分けることができるようになり、神の偉大な力と主権を知るようになり、それが他の人が誰も成し得ないほどであったということである。他の人たちよりヨブが賢かった訳でもなく、ヨブの生き方が執着心の強いものであったわけでもない。ましてや彼に何か隠れた能力があったなどということはない。だがヨブには正直で、心優しく、正しく、公正と義を愛し、善きものを愛するという性格があった。これらはいずれも普通の人間にはないものである。ヨブは愛と憎しみを区別し、義を見分けることができた。自分の信じるものを譲ることも変わることもなかった。自らの考えに喜びを感じていたため、地上での普通の生活を送る中で神の驚くべき業を見ることができ、神の偉大さ、聖さ、義を見ることができ、人間に対する神の労り、恵み深さ、守りを知り、至高の神が褒めたたえられるべきであり、主権を握っていることを知ることができた。他の誰も獲得できなかったこれらのことをヨブが獲得することができた第一の理由は、ヨブが純粋な心の持ち主であり、ヨブの心は神に属しており、創造主により導かれていたからである。第二の理由はヨブが追求したものである。ヨブは全き者となること、天の心と一致することを求め、神に愛されて悪を避けることを追い求めた。神を見ることも神の言葉を聞くこともできなかったヨブがこれらのものを獲得し、追い求めたのである。神を見たことはなかったが、神がどのように全てを支配するかをヨブは理解し、また、神が全てを支配するその知恵を理解するようになったのである。ヨブは神の語る言葉を聞いたことはなかったが、人に報いることも取り上げることも神によるものであると知っていた。ヨブの人生は普通の人のそれと何ら変わらなかったが、それだからと言って全てのものにおける神の主権に関する知識を妥協せず、神を畏れ悪を避ける道への服従を妥協することはなかった。ヨブの目には、全てのものにおける法則は神の業で満ちており、神の主権は人生のいたるところで確認できるものであった。ヨブは神を見たことがなかったが、神の業をいたるところで認識することができ、彼の地上の生活のあらゆるところで、神の驚くべき不思議な業を見ることができ、神の不思議な計画を知ることができた。神が隠されていたことと無言であったことはヨブが神を認識する上で障害とはならず、全てのものにおける神の主権を知る障害にもならなかった。ヨブの人生は、あらゆるものの中にあって隠されている神の主権と采配を認識する日々であった。それだけでなく、ヨブは日々の生活の中で、あらゆるものの中で無言である神が、全てのものに対する法則を支配する中で現した心の声と言葉を聞き、理解した。人々がヨブと同じ人間性と追求する姿勢を持っていたならば、彼らもヨブと同じ認識と知識を得ることができ、全てのものにおける神の主権に対する理解と知識をヨブ同様に獲得することができるであろうことがこれで理解できる。神はヨブに現れても語ってもいないが、ヨブは全き者となることができ、正しいものとなることができ、神を畏れ悪を避けることができた。つまり、神が現れることも直接語ることもなくても、全てのものにおける神の業と全てのものに対する神の主権により、人間は神の存在、力、そして権力を認識することができ、神の力と権力は人間に神を畏れさせ悪を避けさせるのに十分だということである。ヨブのような普通の人間が、神を畏れ悪を避けることができるのであれば、神に従う普通の人であればだれでも同じことが可能なはずである。これは論理的推論に聞こえるかもしれないが、物事の法則と矛盾しない。それでも事実は予想と一致していない。神を畏れ悪を避けることは、ヨブだけが到達できる領域のように感じられる。「神を畏れ悪を避ける」と聞けば、人々はヨブだけに可能なことであり、あたかも神を畏れ悪を避けることはヨブの名でブランド化されており、他の人には無関係であるかのようである。その理由ははっきりしている。正直で心優しく、正しく、公平と義、善なるものを愛する人格を持っていたのはヨブひとりだけであり、それ故ヨブだけが神を畏れ悪を避ける道を進むことができたのである。この意味をあなた方は全員理解できたはずだ。つまり、正直で心優しく、正しく、公平、義なるもの、善なるものを愛する者はなく、神を畏れ悪を避ける者はいないため、神の喜びとなることはできず、試練の中にあって堅く立っていることができないのである。これはまた、ヨブ以外の全ての人間がサタンに束縛されサタンの罠に陥ったままであり、サタンに叱責され、攻撃され、中傷されているということである。サタンはヨブ以外の全ての人間を呑み込もうと試みており自由がなく、サタンの虜となってしまっているということである。

もし人の心が神に敵対するのなら、どうして神を畏れ悪を避けることができようか

今日の人々がヨブと同じ人間性を持っていないのであれば、人々の人格の実体と神に対する姿勢はどのようなものだろうか。人々は神を畏れているだろうか。悪を避けているだろうか。神を畏れず悪を避けることもない人々は、次の文字語で表すことができる。それは、「神の敵」である。あなたは頻繁にこの表現を使うが、本当の意味を理解していない。「神の敵」という言葉には根拠がある。それは、神が人間を敵とみなすということではなく、人間が神を敵としているという意味である。第一に、人々が神を信じ始めるとき、目的も動機付けも大志もない人がいるだろうか。彼らの一部は神の存在を信じており、神が存在するのを見たかもしれないが、彼らの信仰には何らかの動機付けがあり、神を信じる究極の目的は祝福と自分の望むものを得るというものである。人々は人生を経験するにつれ、「自分は神のために家族も仕事も諦めた。神は私に何を与えてくれただろうか。神に与えられたものを全て計算して確かめてみなければ。最近何か祝福を与えられただろうか。私はずっと多くを捧げ、ずっと走り回り、多くの犠牲を払ってきた。神はその報いとして何か約束を下さっただろうか。神は私の良い行いを覚えているだろうか。私の最後はどうなるだろう。神から祝福を受けるだろうか。」誰もが常に、頻繁にそのようなことを心の中で計算し、彼らの動機付けであり、大志であり、取り引きがかかっている神に要求する。つまり、人間は心の中で常に神を試し、常に神の計画を考え出し、常に神に対して自分を弁護し、神からの言葉を絞り出し、自分の欲しいものを神が与えるかどうかを見ている。神を求める一方で、人は神を神として扱っていない。人間は常に神と取り引きし、絶えず神に要求し、1与えられればその次は10与えられるように神に強要する。神と取り引きすると同時に神に異議を唱え、試練が来ると自分達の身の危険を感じ、気弱になり、すべきことに対して受け身になって怠けるようになり、神に対して不満だらけになる。神を信じ始めた時から、人間は神を豊穣の角やスイス・アーミーナイフのように豊かで万能であり、自分は神にとって最も価値ある者と見なすのである。あたかも神に祝福させて言葉を与えされることが当然の権利であり義務であり、神には自分を守り、労り、施す責任があるかのように。信仰を持つ大半の人々にとって「神を信じる」とは基本的にそのような理解でしかなく、それが神を信じることに対する最も深い考えなのである。人間の主観的な追求の実体を考えたならば、そこには神に対する畏れなど全くない。人が神を信じる目的は神を崇拝することとは何ら関係ないのである。つまり、人は、神への信仰には神に対する畏れと神を崇拝することが必要だとは考えもしないし理解もしないのである。このような状況を考えれば、人間の実体がどのようなものかは明らかである。その本質とは何か。人間の心は邪悪で、不実でずる賢く、公正と義を愛するものでも善を愛するものでもなく、卑劣で貪欲なものである。人間は神に対して完全に心を閉ざしている。神に心を捧げてなどいない。神が人の心を本当に見たことなどなく、人間に崇拝されたことなどない。どれ程大きな犠牲を払っても、どれ程人間に対して働いても、どれ程人間に与えても、人間の目が開かれることはなく、全く無関心である。人間が神に心を明け渡したことなどなく、自分の心を考え、自分で決断するばかりである。これは、人間が神を畏れ悪を避ける道に従うことを望まず、神の主権と采配に従うことを望まず、神を神として崇拝することも望まないということの現れである。それが今日の人間の状態である。ここで再度ヨブを検討する。まず第一に、ヨブは神と何か取引をしただろうか。神を畏れ悪を避けるヨブの姿勢には下心があっただろうか。当時神は誰かに終わりの時について話しをしていただろうか。神が当時誰かに終わりの時を約束することがなかったという背景がある中で、ヨブは神を畏れ悪を避けたのである。このようなヨブの姿勢に対抗できるものが今日いるだろうか。あまりに違いすぎて、ヨブと同じ土俵に登れるものはいないだろう。神に対する知識が豊富であった訳でもないヨブが自分の心を神に明け渡し、その心は神のものとなっていた。ヨブは神と取り引きすることもなく、神に対して途方もない要望や要求をすることもなかった。むしろ彼は、「主は与え、主は取りたもう」と信じていた。ヨブがその長い人生で神を畏れ悪を避ける道に留まることで理解し獲得したものはそのようなものであった。同様に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」という言葉に留まったことで、ヨブは実りを得ることができた。このふたつの言葉はヨブがその人生経験において神に服従した結果ヨブが知るに至ったものを現しており、ヨブがサタンの誘惑に勝利する上で最も力強い武器でもあり、神への証しに堅く立つヨブの土台でもあった。ここまでの話を聞いて、あなた方はヨブを愛すべき人間と思うだろうか。そのような人に自分もなりたいと思うだろうか。サタンの誘惑を経験することに恐れを感じるだろうか。ヨブと同じ試練を通らせて下さいと神に祈る決意があるだろうか。間違いなく、大半の人はそのような祈りを敢えて捧げはしないだろう。であれば、あなた方の信仰がどうしようもなく僅かだということは明らかである。つまり、あなた方の信仰はヨブのそれと比べて取るに足りないものなのである。あなた方は神に敵対するもので、神を畏れず、神に対する証しに堅く立つこともできず、サタンの攻撃、叱責、そして誘惑に勝利することもできない。それで神の約束を受けるなどどうしてできるだろうか。ヨブの物語を聞いて、人間を救うという神の意図を理解し、人間の救いの意味を理解してきた訳だが、あなた方の信仰はヨブと同じ試練を受け入れられるものになっただろうか。神を畏れ悪を避ける道に従う決心を少しはすべきではないだろうか。

神の試みに疑念を抱いてはならない

試練を経験した後にヨブから証しを受けた神は、ヨブのような人々の集まりをひとつあるひは複数獲得しようと決心したが、ヨブに対してしたように、サタンが神に賭けをして誰かを誘惑し、攻撃し、虐げることは決して再びさせないと決心していた。神はサタンが弱く愚かで無知な人間にそのようなことを繰り返すことは決して許さなかった。ヨブに対するサタンの誘惑でもうたくさんだった。サタンの思うように攻撃させないのは神の憐れみであった。神にとって、ヨブがサタンに誘惑されて好きなように虐げられたことでもうたくさんだったのだ。神は同じ事をサタンにはさせなかった。神に従う人々の人生とその人々の全ては神によって支配され作り上げられており、神の選民をサタンが操る権利はなかった。この点ははっきりと理解しなければいけない。神は人の弱さに心を砕き、人の愚かさや無知さを理解する。人が完全に救われるために、神は人をサタンの手に渡さなければならないが、人がサタンの手によって玩具のように扱われるのを神は喜んで見ることはない。神は人が常に苦しむのを見たいとは思わない。人間は神によって造られ、人間の全てが神によって支配され管理されることは全く義なることである。そうすることは神の責任であり、神が全てを支配する権威によるものである。神はサタンが意のままに人間を虐げ虐待することを許さず、様々な手段で人間を進むべき道から踏み外させることを許さず、更に、人間に対する神の主権を犯すことを許さず、神が全てを支配する律法を踏みつぶして壊すことも許さず、人間を管理して救う神の偉大な働きを踏みつぶして壊すことを許さないのは言うまでもない。神が救いたいと望む人々、神の証しとなる人々は神の6千年の経営(救いの)計画の中心であり結晶であると同時に、神の6千年の働きの代価である。簡単にサタンに渡せるはずがない。

人々は神からの試練をしばしば懸念し、恐れながらも常にサタンの罠の中に生き、サタンに攻撃されて虐待される危険な領域で生活している。それでも人々は恐れることもなく、落ち着いている。どういうことなのだろうか。人間は神の人間に対する愛や労り、優しさや配慮に対して全く感謝することがない。神の試練、裁き、懲罰、威厳、怒りに対する僅かな不安と恐れ故に、神の善なる意図を全く理解しないのである。試練と聞いただけで神にあたかも隠れた動機があり、神には悪い計画があるとさえ思い込む者もいる。そして神が本当に何をしようとしているかを理解することはない。それゆえ、神の主権と計画に従うと叫んでいながらも、人間に対する神の主権と計画に対してあらゆる手段で抵抗する。気をつけていなければ神に間違った方向へ連れていかれてしまう、自分の運命にしがみついていなければ持っているものを全て神に取り上げられてしまい、人生が終わってしまうかもしれないとすら思っているからである。人間はサタンの陣営にいながらサタンに虐待されることを恐れず、サタンに虐待されていながらサタンの虜になることを恐れない。人間は神の救いを受けると言いながら、神に信頼することはなく神がサタンの爪から真に救うとも信じない。人がヨブのように神の采配と計画に従うことができ、自分の全てを神の手に委ねることができれば、ヨブ同様、最後に神の祝福を受け取るのではないのだろうか。神の規則に従うことができたのならば、人が失うものなどあるだろうか。それだから、あなたがたは自分の行いに注意し、自分に降りかかること全てに注意するように。軽はずみに何かをしたり衝動的に何かをしたりすることのないように。神や人、物事そして神が用意した物事を急いで扱ったり、ありのままで対応したり、想像や概念に従って扱ってはならない。自分の行いに注意深くし、更に祈り、求め、神の怒りを招くことのないようにしなさい。これらのことを忘れてはならない。

次に、試練を経験した後のヨブを検討する。

5. 試練の後のヨブ

(ヨブ記42:7-9)主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。

(ヨブ記42:10)ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。

(ヨブ記42:12)主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

(ヨブ記42:17)ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

神は神を畏れ悪を避ける人々を大切にし、愚かな人々を卑しめる

ヨブ記42:7-9では、神はヨブを「わたしのしもべ」と呼んでいる。この「しもべ」という言葉に、神にとってヨブがどれ程大切であったかが表されている。神はヨブをさらに高尚な名前で呼ぶことはなかったが、ヨブを大切に思う神の心は呼び名と関係がなかった。「しもべ」はヨブに対する神のあだ名であり、「わたしのしもべヨブ」と繰り返し言っている神の言葉から、ヨブをどれだけ喜んでいたかが分かる。神が「しもべ」という言葉の持つ意味を語ったことはなかったが、次の聖句で神が語った言葉から神がどのように「しもべ」を定義していたかが分かる。神は最初にテマン人エリファズに言った。 「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。」この言葉を通して、ヨブが神からの試練を受けた後のヨブの言動を神が全て受け入れたことを初めて公に示し、ヨブの言動が正確で正しいことを公に確かなものとした。エリファズと他の人々のことを神は怒っていた。なぜなら、彼らの話は間違っていて、不条理であり、また、ヨブも彼らも同じように神の現れを見ることも神の語る言葉を聞くこともなかったが、ヨブは神に関する正しい知恵を持っていた反面、彼らは盲目的に神を想像し、神の心に背き、何をするにも神の忍耐を試したからである。結果として、神はヨブの言動の全てを受け入れたが、他の人々にたいしては怒りを感じた。彼らの中に、神を畏れることを現実的に見ることができないばかりか、彼らの言葉の中に神を畏れることを聞くことが全くなかったからである。そのようにして、神は彼らに次のような要求をした。「それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。」 ここでは、神はエリファズと他の人々に、罪の贖いとしてすべきことがあると述べた。彼らの愚行はヤーウェ神に対する罪であり、自身の犯した過ちの償いとして全焼のいけにえを捧げなければならないと述べた。全焼のいけにえを捧げることは頻繁にあったが、ここでの全焼のいけにえは、ヨブに対して捧げられたというところが他の全焼のいけにえと異なる。ヨブは試練の中にあって神に対して証しとなっていたため、神に受け入れられた。一方ヨブの友人達は、ヨブが試練を通る中で明らかにされていった。つまり、かれらの愚行故に神に責められ、神の怒りを引き起こした。そのため彼らはヨブの前で全焼のいけにえをささげることで神に罰せられなければならないのである。その後、ヨブは彼らに対する神の罰と怒りを静めるために祈った。この出来事における神の目的は、彼らを恥じ入らせることであった。彼らが神を畏れ悪を避けることをせず、ヨブの高潔を非難したためである。ここで示されることのひとつは、神は彼らの行いを受け入れていないと言っていると同時に、ヨブを喜んでいるということである。そしてもうひとつは、神に受け入れらえることにより、人は神の前に引き上げられるということである。愚行により人は神に嫌われ、愚行は神の怒りを引き起こす。そのような者は神の目には低く卑しいものであるということである。これが神による2種類の人間の定義であり、この2種類の人間に対する神の姿勢であり、2種類の人々に対する神の明確な説明と姿勢である。神はヨブをしもべと呼んだが、このしもべは神に愛されており、他の人々のために祈り、その人々の過ちを赦す権威を与えられていた。このしもべは神と直接話すことができ、神の前に出ることができ、その地位は他のだれよりも栄誉あるものであった。これが神の言う「しもべ」の意味である。これが神の言う「しもべ」という言葉の本当の意味である。ヨブは神を畏れ悪を避けたために特別な栄誉を与えられた。他の人々が神のしもべと呼ばれなかったのは、彼らが神を畏れ悪を避けることをしなかったからである。神のはっきりと異なったふたつの態度は、2種類の人々に対する態度である。すなわち、神を畏れ悪を避ける者は神に受け入れられ、尊いが、神を畏れず悪を避けることのできない愚か者は神の好意を得ることはできず、しばしば神に嫌われ、責められる。彼らは神の目に卑しい者たちである。

神はヨブに権威を授ける

ヨブは友人達のために祈るが、ヨブの祈り故に、神はヨブの友人達をその愚かさに従って扱うことをしなかった。つまり、神はかれらを罰することも報いることもしなかった。それは何故か。神のしもべであるヨブの祈りが神の耳に届いたからである。ここで何が分かるだろうか。神が誰かを祝福する時、神は多くを報い、それは物質的なものに限定されない。彼らに権威も与え、他の人のために祈る権利を与える。そしてその者の祈りを聞いた神は、彼らの罪を忘れ、赦す。これが正に神がヨブに与えた権威である。彼らに対する糾弾を抑える祈りを通して、ヤーウェ神は愚かな彼らを恥じ入らせた。これは勿論エリファズ達に対する神の特別な罰であった。

ヨブは再び神に祝福され、二度とサタンに責められることがなくなった

ヤーウェ神の言葉の中に、「あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかった」という一節がある。ヨブが語ったこととは何であったのか。これはここで既に議論した内容でもあり、ヨブ記の中でヨブが語ったとされる何ページにもわたる多くの言葉を指している。これらのページに記録されたヨブの言葉の中で、ヨブは神に対して一度も不平や疑念の言葉を発していない。彼はただ静かに結果を待った。ヨブのこの姿勢はヨブの神に対する従順であり、その姿勢とヨブの神に対する言葉により、ヨブは神に受け入れられた。ヨブが試練に遭い、苦難を経験する間、神はヨブの傍らにいて、たとえ苦しみが神の存在により軽減することはなくても、神は自身の望むものを見ることができ、聞きたいと望んだ言葉を聞くことができた。ヨブの言動のひとつひとつが神の目と神の耳に届いた。つまり、神はヨブの言葉を聞き、ヨブの態度を見た。これが事実である。当時、その時代にあっての神に対するヨブの知識と思いは今日の人々の持つそれらほど正確ではないというのが事実であるが、その時代にあって、神はヨブの言動の全てを認めた。なぜなら、ヨブの態度と考え、そしてヨブが現したものと明示したものは、神の要求を満たしていたからである。ヨブが試練に遭っている間、ヨブの心の思いと決心は神に結果を示すものとなり、それは神にとって満足できるものであった。その後神は試練を勝ち抜いたヨブの試練を取り除き、ヨブに再び試練がふりかかることはなかった。ヨブは既に試練に遭い、その中で揺らぐことなく立ち続け、サタンに完全に勝利した。神からの祝福はヨブが当然受けるべき報いであったのだ。ヨブ記42章の10、12節に書かれているように、ヨブは再び祝福を受け、それは最初の祝福を上回るものだった。この時サタンはヨブのもとを去り、再びヨブに話しかけたり働きかけたりすることはなかった。ヨブが再びサタンに妨害されたり攻撃されたりすることはなく、神がヨブを祝福することを叱責することもなかった。

ヨブは人生の後半を神の祝福の中で過ごす

当時の祝福というものは、羊、牛、らくだ、その他物質的なものに限られてはいたものの、神がヨブに与えたいと思ったものはそれを遙かに越えるものだった。神が当時ヨブに与えたいと思った永遠の約束がどのようなものであるかは記録されているだろうか。ヨブを祝福した神は、ヨブの最後に言及することはなく、神の心にヨブの存在は大きかったが、要するに神はヨブに対する祝福を見極めていた。神はヨブの最後を告げなかった。これはどういう意味か。当時、神の計画は人間の最後を公示するところまでに達しておらず、神の働きの最後の段階に入っておらず、よって神が人間の最後を語る事はなく、人間に対して物質的な祝福を与えるに留まったのである。つまり、ヨブの人生の後半は神の祝福の中にあり、周りの人達にとってヨブはそれまでと違う存在となったのである。それでもヨブも他の普通の人達のように年齢を重ね、皆と同じようにこの世に別れを告げる日が訪れた。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」(ヨブ記42:17)と書かれている通りである。この「日満ちて死んだ」とはどのような意味だろうか。神が終わりの時を宣言する以前の時代、神はヨブの寿命を決めた。ヨブがその年齢に達した時、神はヨブをこの世から自然に去らせた。ヨブの二度目の祝福から彼の死までの間、神はヨブに更なる試練を経験されることはなかった。ヨブの死は神にとって自然なものであり必要なものであり、極めて普通のことであった。それは裁きでも非難でもない。ヨブが生きている間、彼は神を崇拝し、畏れた。つまり、ヨブが死んだ後に彼がどのような最後を迎えたかに関して、神から何の発言も説明もなかった。神は自らの原稿に対して思慮深く、その言葉と働きの内容と原則は、自身の働きの段階に沿っており、自身が働く期間に沿っている。ヨブのような人間の最後は神にとってどのようなものなのだろうか。神は何らかの決意をしただろうか。勿論決意した。人間がそれを知ることがないだけである。神はそれを人間に知らせたいとも、知らせようとも思わなかったのである。このように、表面的には、ヨブは年老いて死んだ。ヨブの生涯はそのようなものであった。

ヨブがその生き方で生み出した価値

ヨブは価値ある人生を送っただろうか。ヨブの人生のどこに価値があっただろうか。ヨブが価値ある人生を送ったと言われるのは何故だろうか。人間にとってヨブの価値はどのような意味があるだろうか。人間的な観点から言うと、ヨブは神が救いたいと願う人間を現していた。サタンと世の人々の前で、神への証しに堅く立っていたからである。ヨブは神に造られたものとしての本分を尽くし、神が救いたいと願う全ての人々の模範となり、型となり、そうすることで、神に信頼していればサタンに勝利することが間違いなく可能であることを示したのである。では神にとってのヨブの価値は何だったのか。神にとってのヨブの人生の価値は、ヨブが神を畏れることができ、崇拝することができ、神の業を証しし、神のする事を讃え、神に慰めと喜びを与えることができたことにあった。そしてまた、ヨブは死を迎える前に試練を経験してサタンに勝利し、サタンと世界の人々の前で神への証しに堅く立ち、人々の中にあって神を褒めたたえ、神の心に慰めをもたらし、神が望む結果を見ることができようにし、希望を持つことができるようにしたことが、神にとってのヨブの人生の価値であった。ヨブの証しは、人が神の証しに堅く立つことができることの前例となり、神によって、神が人間を管理する働きのなかで、サタンを辱めることができることの前例となった。これがヨブの人生の価値ではないだろうか。ヨブは神の心に慰めをもたらし、それによって神は栄光を受ける喜びを味わうことができ、神の経営(救いの)計画にとって素晴らしいスタートとなった。この時以来、ヨブという名前は神を褒めたたえる象徴となり、サタンに対して勝利する人間の象徴となった。ヨブが生涯貫いたものとサタンに対する勝利は神に永遠に尊ばれ、ヨブの完全さと正しさ、神に対する畏れは後の時代に尊ばれ、模範となるだろう。傷のない、輝く真珠のようにヨブは神に尊ばれるだろう。そして人間にとっても、ヨブは尊ばれる価値ある人間なのである。

では次に、律法の時代における神の業を検討する。

D.律法の時代における規則

1. 十戒

2. 祭壇を建てる際の原則

3. しもべの扱いに関する規則

4. 盗みと償いに関する規則

5. 安息年と3つの祭りを守る

6. 安息日に関する規則

7. 捧げ物に関する規則

  a. 全焼のいけにえ

  b. 肉のいけにえ

  c. 和解のいけにえ

  d. 罪のいけにえ

  e. 背きのいけにえ

  f. 祭司のいけにえに関する規則(アロンと彼の息子たちが守るべきもの)

     1) 祭司による全焼のいけにえ

     2) 祭司による肉のいけにえ

     3) 祭司による罪のいけにえ

     4) 祭司による背きのいけにえ

     5) 祭司による和解のいけにえ

8. 祭司がいけにえを食べることに関する規則

9. 清い動物と不浄の動物(食べてよい動物とそうでない動物)

10. 産後の女性の清めに関する規則

11. ツァラト検査の基準

12. ツァラトから癒された人に関する規則

13. 感染病にかかった家の清めに関する規則

14. 異常月経の女性に関する規則

15. 年に一度もたれなければならない贖罪の日

16. 牛と羊をほふる際の規則

17. 近親相姦などの忌むべき異邦人の習慣の禁止

18. 神の人々が従うべき規則(「聖なる者となりなさい。あなたの神であるわたし、主が聖なる者だからである」)

19. モレクに子供を捧げた者の処刑

20. 姦淫の罪を犯した者への懲罰の規則

21. 祭司が守らなければいけない規則(日々の行い、聖なるものの消費、ささげものに関する規則など)

22.執り行うべき祭り(安息日、過越祭、聖霊降臨祭、贖罪の日など)

23. その他の規則(ともし火、ヨベルの年、土地の贖い、誓願、十分の一献金など)

律法の時代の規則は神が人間を導いている確かな証拠である

律法の時代における規則と原則を皆が読んだと思う。これらの規則の対象は広範囲に及ぶだろうか。まず十戒が言及され、続いて祭壇の建て方などが言及されている。その後安息日を守り3つの祭りを執り行うことが続き、そして捧げ物に関する規則と続く。何種類の捧げ物があるか分かっただろうか。全焼のいけにえ、肉の捧げ物、和解の捧げ物、罪のいけにえなどがあり、その後、祭司によるいけにえの規則が続き、その中には祭司による全焼のいけにえと肉の捧げ物などが含まれる。8つめの規則は祭司が捧げ物を食べることに関するもので、続いて人生において守るべき規則が示されている。人生の多方面における規定があるが、その中には食べてよい物と食べてはならない物、出産後の女性の清め、ツァラトが癒やされた者に関する規定などが含まれる。これらの規則の中で、神は病に関しても語っており、羊や牛の屠り方などにまで及ぶ。羊や牛は神の被造物であり、神の指示通りに屠らなければならない。神の言葉には間違いなく根拠があり、神の命じた通りに行なうことが正しいことは間違いなく、人間にとっても必ず益となるのである。安息日、過越の祭りなど、執り行うべき祝祭と規則に関しても、神は語られている。最後に書かれている規則、その他の規則を検討する。―ともし火、ヨベルの年、土地の贖い、誓願、十分の一献金などである。これらの規則は広い範囲に及んでいるだろうか。まずは人々の捧げ物に関して、それに続いて盗みと償い、そして安息日を守ることに関して、と続き、生活の細部にわたっている。つまり、神が自身の経営(救いの)計画を正式に始めた時、人間が従うべき多くの規則を神は設定した。それは、人間が神とそして神の導きと一体となって普通の生活を送ることができるように定められたのである。神は最初に、どのように祭壇を建てるか、それをどのように整えるかを指示した。その後神は、人間に捧げ物を捧げるように指示し、人間がどのように生きるべきかを明確にした。つまり、人間が生きる中で何に注意を払い、何に従い、何をすべきで何をすべきでないかを示したのである。神が人間のために定めたものは包括的で、それらの習慣、規則、原則により神は人間の振る舞い方に基準を設け、人間の生活を導き、どのように神の律法に従うかを示し、そして神の祭壇の前に人間が出ることを教え、人間のために神が造った、全ての秩序と節度あるものの中でどのように生きるべきかを示した。神はまずこれらの簡単な規則と原則を用いて人間に様々な制限を与え、そうすることで地上にあって人間が神を礼拝する正常な生活を送るようにし、正常な人間の生活を送るようにした。それが神の6千年に亘る経営(救いの)計画の始まりの具体的な内容である。それらの規則や決まりは多岐にわたり、律法の時代の人間に対する神からの具体的な導きであった。また、律法の時代までの人間が受け入れ、尊重すべきものであり、律法の時代に神が行なった業の記録であり、神の指導力と人間に対する導きの確かな証拠である。

人間は永遠に神の教えと施しから離れることはできない

これらの規則から、神の業、神の経営、そして人間に対して、神が真剣に向き合い、誠実に、厳格に、責任感を持って取り組んだことがわかる。神は自らの働きの段階に応じて人々の中にあってすべきことを全く矛盾なく実行し、自らの語るべきことを少しの誤りも抜けもなく人間に語り、人間が神の指導から離れることができないことを理解させ、神の業と言葉が人間にどれほど重要であるかを示す。つまり、次の時代で人間がどのようであるかを問わず、律法の時代の初めに、神はこれらのシンプルな働きをした。神にとって、人々の神に対する概念、世界、その時代における人間は抽象的で不明瞭であり、人々が意識的考えや意図をいくらか持ってはいたものの、全て不明瞭で間違っており、故に人間は神の教えと施しがなくてはならないのである。初期の人間は何も知らなかったため、言葉によるこのような規則や決まりにより、神はまず人間が生きるためのごく表面的で基本的な原則を教え、生きるために必要な規則を教え、それを人間の心に少しずつ沁み込ませ、徐々に神を理解させ、徐々に神の指導力を認識させ理解させ、神と人間の関係の基本的理念を理解させなければならなかった。これらの事が効果を発して初めて、神は徐々に自身がその後すべき業をなすことができる。従って、律法の時代のこれらの規則と神の業は、神が人間を救う働きのための基盤であり、神の経営(救いの)計画の働きの第一段階である。律法の時代の働きの前に、神はアダム、エバ、そして彼らの子孫に語ったが、語られた命令や教えは秩序立ってもおらず、人間ひとりひとりに対して発せられるような明確なものでもなく、記述されたものでもなく、規則になってもいなかった。なぜなら、当時神の計画がそこまで進んではいなかったからである。神が人間をこの段階へ導いて初めて、神は律法の時代の規則を語り始めることができ、人間にそれを実行させることができた。それは必要な過程であり、予想通りの結果であった。これらの簡潔な習慣と規則は、神の経営の働きと、神の経営(救いの)計画に現わされた神の知恵を人間に示している。神は、どのような内容と手段を用いて働きを始め、どのような手段を用いて継続し、どのような手段を用いて完了すれば自身の証しを立てる人々のグループを獲得することができ、自身と同じ心を持った人々のグループを獲得できるかを知っている。神は、人間の内側にあるものを知っており、人間に欠如するものを知っており、人間に何を与える必要があるか、どう導くべきかを知っており、人間がすべき事とすべきでないことも知っている。人間はあやつり人形のようなものだ。神の心を全く理解できていなくても、神の経営の働きに一歩一歩従うしかなかった。神は自身のしようとしていることを一点の曇りもなく理解していた。その心は明瞭でその計画は明確であった。自身が望む各段階の働きを計画通りに実行し、表面的な働きから深遠な働きへと進めていった。神はどのような働きが続くかを示すことはなかったが、自身の計画通りに働きを続け、それは神の持っているものと神自身を現すものであり、神の権威でもあった。どの段階の働きであるかを問わず、神の地位と実体は神自身を現している。それに誤りは全くない。時代、働きの段階、どのような人々を神が愛するか、憎むかを問わず、神の性質と神の持っているものと神自身は決して変わることはない。律法の時代に神が確立した規則と原則は今日の人々には簡素で表面的に思われるかもしれず、また理解しやすく簡単に達成できると思われるかもしれないが、そこには神の知恵があり、神の性質と神の持っているものと神自身が存在する。というのも、見るからに簡素なその規則の中に、人間に対する神の責任と配慮が表現されており、神の考えの素晴らしさが表現されており、それにより人は、神は万物を統治し、万物は神の手に支配されていることを真に理解することができる。人間がどれ程知識を得ても、どれ程の理論や奥義を理解しても、神の目から見れば、神の施しと人間に対する指導力に代われるものはひとつもない。人間が神の導きと神の直接の働きから離れることはできないのである。それが神と人間との切り離すことのできない関係である。神があなたに何らかの命令を与えるか、規則を与えるか、神の心を理解するための真理を与えるかを問わず、神のすること全てにおいて、その目的は人間を素晴らしい明日へと導くことである。神が発する言葉と働きは、神の本質の一側面を表現しており、神の経営(救いの)計画から切り離すことのできない一段階である。これを見逃してはならない。神の心は神のすること全てにある。神は誤解されることを恐れたり、神に対する人間の概念や考えがどのようなものかを恐れたりしない。ひたすら自身の働きをし、自身の経営(救いの)計画に沿って、いかなる人、物事に制約されることもなく管理を続ける。

それでは本日はここまで。ではまた次回会いましょう。

2014年6月13日