真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

終わりの日のキリストの代表的な言葉

目次

XI 神の求め、奨励、警告、慰めについての代表的な言葉

神に付き従う者に対し、神は真の信仰、忠実な追随、完全な服従、真の認識、そして心からの崇敬という5つの事柄を要求する。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身10」より

本物の被造物は創造主が誰か、人間はなぜ創造されたか、被造物としてどう責任を果たすか、万物の創造主をどう礼拝するかを知り、創造主の心、望み、要求を理解し、把握し、知り、大切に扱わなければならない。そして創造主の道、つまり神を畏れ、悪を避ける道に従って行わなければならない。

『言葉は肉において現れる』(続編)「序文」より

人間は、被造物として、自身の立場を維持して誠実に行動し、創造主から託されたものを忠実に守る必要がある。そして人間はその道を外れた行動を行ったり、人間の能力を超えることや、神が不快と感じることを行ったりしてはならない。人間は、偉大になろうとしたり、特別になろうとしたり、他の者を超えようとしたり、神になろうとしたりしてはならない。人間はこうした存在になることを望んではならない。偉大になろうとしたり、特別になろうとしたりするのは、愚かである。ましてや神になろうとするのは、恥辱的であり、不快で卑劣である。称賛に値し、被造物が何よりも固守すべき事は、真の被造物となることである。それが全ての人々が追求すべき唯一の目標である。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身1」より

神の国の民に対する神の要求は次のとおりである。

1.神の委託を受け入れなければならない。つまり、終わりの日の神の働きで語られたすべての言葉を受け入れなければならない。

2.神の国の訓練に入らなければならない。

3.神に触れられる心を持つよう求めなければならない。あなたの心が完全に神に向いて、正常な霊的生活があれば、自由の領域に住む。つまり、神の労りと保護のもとで生きる。神の労りと保護のもとに生きるときにのみ、あなたは神に属する。

4.神によって得られなければならない。

5.地上での神の栄光のしるしとなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より

わたしの語る言葉は、特定の人や特定の種類の人に対するものではなく、すべての人に向かって示す真理である。だから、真理という観点からわたしの言葉を受け取ることにただ集中しなさい、そして集中心と誠意を常に持ち続けなさい。わたしの語る言葉、また語る真理のひとつでも無視したり、軽蔑したりしてはいけない。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

あなたがた全員が私の言葉を数千回繰り返して読み、心に刻み込むことが出来るよう、切に願う。あなたがたに対する私の期待を裏切らずに居るためには、そうすることによるほか無い。しかし、現在そのように生きている者は、皆無である。それとは反対に、あなたがたは欲しいだけ飲み食いする堕落した生活に浸り、私の言葉で心と霊を豊かにする者は居ない。そのことが、人間の素顔は常に私を裏切り、私の言葉に完全に忠誠となれる者は居ない、という結論に私が達した理由である。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(1)」より

あなたがたは、神の言葉を置き去りにすることも、神の言葉に聞く耳を持たずにいることも出来ない。あなたがたは、神の言葉を注意深く理解し、祈祷閲読を繰り返し、言葉の中のいのちを把握する必要がある。言葉を理解する時間を取らずに、むさぼるように読むような無益なことをしてはならない。あなたがたは、自分の行動全てにおいて、神の言葉をよりどころとしているであろうか。子供のように大袈裟な話をして、後で何かあった時に混乱するようなことがあってはならない。あなたがたは、毎日常に霊を働かせて一瞬たりとも気を緩めてはならない。あなたがたは、鋭敏な霊を備える必要がある。あなたがたは、どのような者や出来事に遭遇しても、神の御前に来た場合には従うべき道がある。あなたがたは、神の言葉を毎日食べ飲みし、注意力が散漫になることなく理解し、一層努力し、細部を全て確認し、完全な真理を身に付けて神の旨を誤解しないようにする必要がある。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私の民は常にサタンのずるい計画に注意を払い、私のために私の家の門を守り、お互いを支え合い、養い合わなければならない。そうすれば、あなたたちがサタンの罠に陥ることはなくなり、もう遅いと後悔することはないだろう。なぜ私はそんなに急いであなたたちを訓練しているのだろう。なぜ私はあなたたちに霊の世界の事実を語るのだろう。なぜ私はあなたたちに何度も思い出させ、強要するのだろう。あなたたちはかつてこのことについて考えたことがあるだろうか。あなたたちは理解したことがあるだろうか。このように、あなたたちは過去の基盤に基づいて慣れることが必要なだけでなく、さらには今日の私の言葉に従って自分自身の中の不純物を追い出し、私の言葉の一語一語を根付かせることが必要だ。そのうえ、あなたたちの精神に花を咲かせ、さらに重要なことには、実を結ばせることも必要である。私が求めるものは明るく、繁茂した花ではなく、豊富な果実――しかも、腐らない果実である。

『言葉は肉において現れる』の「三番目の言葉」より

あなたがたの目的の核心は、神の御業があなたがたの中で効力を発揮するようにすることである。つまり、それは神の御言葉を実践するなかで、御言葉を真に理解することを目的とする。おそらく、あなたがたが神の御言葉を授かる能力は乏しいであろうが、あなたがたが御言葉を実践する時、神は自分の乏しい能力の欠点を補うことが出来るので、あなたがたは数多くの真理を知るだけでなく、それらの真理を実践する必要もある。これが無視出来ない最大の重点である。

『言葉は肉において現れる』の「真理を理解した後は、それを実践せよ」より

わたしはあなたがたが日々の生活の中で、真理と無関係なことを数多く行っていることを分かっている。だから、わたしはあなたがたにはっきりとお願いしておきたい。真理のしもべとなり、邪悪さや醜さの奴隷となることがないように。真理を踏みにじって、神の家の片隅でも汚すことのないようにしなさい。これが、あなたがたへの忠告である。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

王国の精鋭軍を養成することとは、現実性について語ることが出来るだけの者や自慢するだけの者を訓練することでは無く、常に神の言葉を行動で示すことが出来て、難局に遭遇しても屈せず、常に神の言葉の通りに生活し、この世に退却することの無い者を養成することである。これが神が述べる現実性であり、神の人間に対する要求である。

『言葉は肉において現れる』の「真理の実践のみが現実性を得ることである」より

祝福を一日や二日で受けることはできない―それは多くの犠牲を伴って初めて受け取れるものだ。つまり、精錬された愛や大きな信心、そして神があなたがたに求める多くの真理を持たなくてはならない。それに加えて、義を追い求める姿勢を崩さず、おびえたり屈服したりすることなく、神に対して変わらぬ愛をいだいていなくてはならない。あなたがたの決意が求められ、あなたがたのいのちの性質を変えることが求められる。堕落した部分を改善し、神の采配を不平不満なくすべて受け入れ、死にまでも従順でなくてはならない。これが、あなたがたが達成しなければならない事である。これが神の最終目的であり、この一団に神が求める要求である。神はあなたがたに施したが、彼はあなたがたが彼の要求を満たして報いることを要求する。それだから、神はむやみに働くのではない。なぜ神が何度も高い基準の働きをし、厳しい要求をするのかが分かるだろう。このような訳で、あなたがたは神に対する信心で満たされていなくてはならないのである。要するに、あなたがたが神の嗣業を受け継ぐに相応しい者となるため、神がすべての働きをあなたがたのためにしたのだ。これは神自身の栄光のためというよりあなたがたの救いのため、そして汚された地で深く苦しんでいるこの一団の人々を完全にするためである。あなたがたは神の心を理解しなくてはならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より

この段階の御業においては、大いなる信仰と愛が私達に求められている。私達は些細な不注意から躓くこともある。なぜならこの段階の御業は従前のいかなる御業とも異なるからである。神が完全にされているのは、人類の信仰である。それは誰も見たり触れたり出来ない。神が行われているのは、御言葉を信仰や愛、いのちへ変換する御業である。人間は数百回の精錬を乗り越えてヨブの信仰よりも強い信仰を得る段階に達する必要がある。人間は、一瞬たりとも神から去る事無く、信じ難い苦難とあらゆる拷問を受ける必要がある。人間が死ぬまで従順でり、神への強い信仰を持った時、この段階の神の御業は完了する。

『言葉は肉において現れる』の「道(8)」より

従って、わたしは依然として、わたしの働き全てに対して、あなたが全存在をささげることを求める。さらには、あなたは、わたしがあなたの中で成した働き全てをはっきりと識別して、確信すべきであり、さらにあなたの強さすべてをわたしの働きに投入すべきである。そうすることで、私の働きはより効率的になる。これは、あなたが理解しなければならないことである。お互いに争わず、逃げ道を探すな、あるいは肉の快楽を追い求めるな、これらはわたしの働きを遅らせ、あなたのすばらしき未来を潰す。それは、ただあなたを駄目にして、あなたを決して守りはしない。あなたは愚かではないだろうか。今日、あなたが享受していることがまさに、あなたの未来を潰しており、一方、今日あなたが煩っている痛みこそ、あなたを守っているのである。誘惑に引っかかることがないように、そして、太陽を遮る深い霧に入るのを避けるようにするためには、あなたはそのことに明確に気づかなければならない。深い霧が晴れた時、あなたは偉大な日の裁きの状態におかれているだろう。

『言葉は肉において現れる』の「福音を広める働きは、人を救う働きでもある」より

わたしは、人が善行で報いてくれることだけを望みながら、誰もできない働きをしてきた。ほとんどの人たちはわたしに報いてくれないが、わたしはこの世での旅を終え、次にやって来る仕事を始める。わたしが長年人々の間で続けてきた旅は実を結び、わたしはそれを非常に喜ばしく思っているからである。わたしは人の数は気にせず、むしろ善行を気づかっている。いずれにしても、わたしはあなたがたが自分たちの終着点に備えて、十分な善行をするよう望んでいる。それから、わたしは満足する。さもなければ、あなたがたの誰も災いを免れないだろう。災いはわたしがもたらし、もちろんわたしが采配を振るものである。もしあなたがたがわたしの前で良い働きができないなら、災いの苦しみから免れることはないだろう。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

今日、わたしはあなたがたの中で生き、共に苦しんでいる。わたしは人間がわたしに抱く態度を長い間理解して来た。よりはっきりと伝えることを望まず、ましてやあなたがたを辱しめるために、さらに事例を挙げてあえて痛みを感じるようなことはしたくない。わたしの唯一の願いは、あなたがたが行ったことすべてを心の内に留め、再会した日にはそのひとつひとつをわたしの前で数え上げることができるようにすることである。わたしはあなたがたの誰にも濡れ衣を着せたくない。わたしは常に正しく、公正に、また責められるところがなく行動して来たからである。わたしはあなたがたも高潔であって欲しいと願っており、天と地、またあなたがたの良心に逆らうようなことをしないようにと願っている。これこそ、あなたがたに対する唯一の要求である。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

私は、私の業の最終段階において、あなたがたが見事な成果を実現できること、完全に身を捧げていること、半信半疑ではなくなることを望むのみである。無論、あなたがた全員が好ましい終着点を得ることも、私は望んでいる。それでもなお、私には、あなたがたが私に対して単独かつ最終的な信心を捧げる際に最善の決断を下すことという、私自身の条件がある。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

これは今日、人に対する神の唯一の要求――神を愛する人の姿を生き抜くことであり、そうすれば神の英知の結晶体の光が闇の時代にあふれるようにきらめき、人の生き方は神の働きの中に光り輝くページを記し、東洋で永久に輝き、世界から注目を集め、すべての人の称賛を受けるであろう。さらに確かなことに、今日神を愛する人々にとって、さらによい真理に入ることなのである。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(4)」より

あなたがたが受け取ったものはわたしの真理、道、いのちだけではなく、ヨハネのそれよりも大きいビジョンと啓示である。あなたがたはもっと多くの奥義を理解し、わたしの真の顔も拝した。あなたがたはわたしのさばきをもっと受け入れ、わたしの義なる性質ももっと知った。だから、あなたがたは終わりの日に生まれたけれども、あなたがたの理解は以前のものであり、過去のものである。また今日あることも体験したが、それはわたしの手で成し遂げられた。わたしがあなたがたに求めることは理不尽ではない。というのは、わたしはあなたがたにあまりにもたくさん与え、あなたがたはわたしから多くを見たからである。だから、わたしはあなたがたに昔の聖徒たちがしたように、わたしの証人となってくれるよう願う。そしてこれだけがわたしの心の願いである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは信仰について何を知っているか」より

わたしが語った事柄の全てには神の性質が含まれる。わたしの言葉を注意深く考えるとよい。それらから間違いなく多くの利益を得るであろう。神の本質を理解することは非常に難しいが、わたしはあなたがた全員に神の性質について少なくともいくらかの認識があると信じている。ゆえに、わたしはあなたがたがそれをわたしに証明し、神の性質を犯さないより多くの事柄を行うことを望むのである。それがわたしを安心させてくれるだろう。例えば、常に心の中で神を思いなさい。何かを行う時は、神の言葉に従いなさい。全てにおいて神の心を探し求め、神を軽視したり神の栄誉を汚したりする事柄は行わないようにしなさい。さらに、神を心の奥に追いやって心の中の未来の隙間を埋めないようにしなさい。もしそのようなことをするならば、あなたは神の性質を犯すことになるのである。決して神を冒涜する事柄を口にしたり、神に対して不平を言ったりせず、神があなたの人生を通じてあなたに委ねた全ての事柄を正しく行うことができ、神の言葉の全てに従うならば、行政に触れることを首尾よく避けたことになる。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」より

神の本質をよく知ることは、ささいな事柄ではないのである。あなたは、神の性質を理解しなければならない。そうすることによって、神の本質を少しずつ知るようになることから、同時により素晴らしく、より美しい状態へと進歩するだろう。最後には、顔を見せることを恥じるほど、自分の醜悪な魂を恥だと感じるようになるであろう。その時、神の性質を犯すことがますます減り、あなたの心はますます神の心に近づき、徐々に神への愛が心の中に育つであろう。これは、人類が美しい状態になるしるしである。しかし、あなたがたはまだこの状態に達していない。自分の運命のためにそこかしこへ渡り歩くことで自分を疲れ果てさせているあなたがたの中に、努めて神の本質をよりよく知ろうと思う者がいるだろうか。この状態が続くならば、神の性質をほんのわずかしかわかっていないために、無意識のうちに行政に触れることになる。今あなたがたが行っていることは、神の性質を犯す行為の礎を築いていないだろうか。あなたがたに神の性質を理解するよう求めることは、わたしの働きに相反するものではない。度々行政に触れるならば、懲罰を逃れることができる人がいるであろうか。そうならば、わたしの働きの全てが無駄になるのではないか。このため、わたしは今もあなたがた自身の行いを入念に顧みることに加え、行う事柄に注意を払うようにあなたがたに求めるのである。これはあなたがたに対するより重大な要求であり、あなたがたがこれについてよく考え、大切な事柄として扱うことを願う。あなたがたの行いがわたしの激しい怒りを買う日が来るならば、その結果はあなたがただけが受け止めるものであり、あなたがたの代わりに罪を負う人は他にいないのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」より

あなたがたは皆、自分自身のことを出来る限り迅速に検証し、自分の性格のうち、どの程度が依然としてわたしを裏切っているかを確認する必要がある。わたしは性急にあなたがたの答えを待っている。わたしを無視してはならない。わたしは決して人間に対していい加減な態度は取らない。わたしは言った事を必ず実行する。あなたがた全員が、わたしの言葉を真剣に捉え、それをSF小説のようなものであると考えない者となれることを願っている。わたしが望むのは、あなたがたの具体的な行為であり、想像ではない。次に、あなたがたは、わたしの次の質問に答える必要がある。1.あなたは、自分が真に奉仕者であるならば、おざなりな要素や否定的要素無しで、わたしに忠誠に仕えられるであろうか。2.あなたは、わたしがあなたに感謝した事が無いと知った場合、依然として生涯を通してわたしのところに留まり、仕えることが出来るであろうか。3.あなたが大いに努力しているにもかかわらず、わたしがあなたに対して冷淡であったとしたら、曖昧さの中でわたしのために業を行い続けることが出来るであろうか。4.あなたは、何かをわたしのために費やした後に、わたしがあなたの些細な要求を満たさなかったとしたら、わたしに失望し、落胆したり、さらには激怒したり罵声を浴びせたりするであろうか。5.あなたは、自分がわたしに対して常に忠実であり、わたしを愛しているにもかかわらず、病の苦痛や生活上の束縛、友人や親戚に見捨てられること等の人生における不幸を受けたとしたら、わたしに対するあなたの忠誠や愛は依然として継続するであろうか。6.あなたが心に描いている物事のひとつとしてわたしの業と一致しなかったならば、あなたはどのようにして自分の将来の道を歩むであろうか。7.あなたは、自分が望む物事を一切授からなかった場合、引き続きわたしに付き従う者であり続けられるだろうか。8.あなたは、わたしの業の目的や意味を全く理解できなかった場合、勝手に判断したり結論を出したりしない、従順な者となることが出来るであろうか。9.わたしが人間と共にある時に述べた言葉とわたしが行った業のすべてを大切にすることが出来るだろうか。10.あなたはわたしに忠実に付き従う者となり、何も授からないにもかかわらず、生涯を通してわたしのために苦難を受けることが出来るだろうか。11.わたしのために、自分が将来生きる道を検討したり、計画したり、用意せずに居ることが出来るだろうか。これらの質問は、あなたがたに対するわたしの最終的な要求であり、あなたがた全員がわたしに対して返答できることを期待している。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より

1.実際神の働きを裁いてはならない。

2.神の証しする者に反抗してはならない。

3.神の前では、自分の本分を守り放蕩であってはならない。

4.口数は少なくし、自分の言葉と行動が神の証しする者の按配に従うものでなければならない。

5.神の証しを敬い畏れなければならない。神の働きとその口から出る言葉を無視してはならない。

6.神の口調と言葉を真似てはならない。

7.外見では神の証しする者に明らかに反抗することは一切してはならないなどである。

8.あなたの目の前にいる神を欺くまたは神から何か隠すことをしてはならない。

9.神の面前で、みだらな話をしたりでたらめを言ってはならない。

10.神の信頼を得るために、あなたの目の前の神を上手い言葉やたくみな話で欺いてはならない。

11.神の前で不遜な態度を取ってはならない。神の口から話された全ての言葉に従うべきで、それに対し反抗したり逆らったり議論してはならない。

12.神の口から話される言葉を自分の好きなように勝手に解釈してはならない。あなたの舌を戒めなければならない。それは、あなたの舌ゆえに悪い者の欺瞞的な計画に陥らないためである。

13.あなたの歩みを戒めなければならない。それは、あなたが神の定めた境界線を超えて、神の立場から自惚れた尊大な話をして、神に忌み嫌われないためである。

14.むやみに神の口から話された言葉を繰り返してはならない。でなければ他人があなたをあざけり悪魔が嘲笑するだろう。

15.今日の神の仕事に全て従わなければならない。例えあなたが理解していなくとも裁いてはならず、ただ探し求めて尋ねていき、他者と交わるべきである。

16.誰も神の本来の地位を超えてはならない。あなたにできるのは、人の立場から、今日の神に奉仕するだけである。人の立場から今日の神を説いてはならない。これは間違ったやり方であるからだ。

17.誰も神の証しする者の地位に立ってはならない。あなたがたの言葉、行動、内なる思いにおいて、人の立場に立っていなければならない。これは従うべきことであり、人の責任であり、誰にも変更ができず、変更したときには神の行政に背くことになる。そして、これが全ての人が覚えておくべきことである。

摘自《话在肉身显现(选篇)·国度时代神选民必须遵守的十七条诫命》

神の国の時代に神に選ばれし人々が従わなければならない行政命令10項目

1.人は自分を大きく見せてはならないし、崇めてもいけない。人は神を崇め、賛美するべきである。

2.あなたは神の働きのためになることは何でもするべきであり、神の働きに有害なことはしてはならない。あなたは神の名、神の証し、神の働きを守るべきである。

3.金銭、物質、神の家のすべての財産は、人が提供すべき捧げものである。これらの捧げものを享受するのは祭司と神だけである。人からの捧げものは神が享受するためのものであり、神はこれらの捧げものを祭司と分かち合うだけで、ほかの誰も、捧げもののいかなる部分であれ、享受する資格はないからである。人からの捧げものはすべて(金銭や物質的に享受できるものを含め)神に捧げられ、人には与えられない。そこで、これらのものを人は享受すべきではない。人が捧げものを享受するとしたら、その人は捧げものを盗んでいるのである。このようなことをする人は誰でもユダである。ユダは裏切り者であることに加えて、金袋に入っているものも勝手に使ったからである。

4.人の性質は堕落している。その上、人はさまざまな感情を持っている。そこで神に仕える時、男女が二人一緒に働くことは絶対に禁止されている。一緒に働いていることが見つかった者は誰でも除名され、例外はない―誰も免除されない。

5.あなたは神を批判してはならないし、不用意に神に関連する事柄について話し合ってはならない。あなたは人がすべきことをし、話すべきことを話し、自分の限度を越えてはならないし、自分の境界を逸脱してはならない。口を慎み、自分の歩みに気をつけなさい。このすべてを守れば、あなたが神の性質を犯すことを防げるだろう。

6.あなたは、人が行うべきことを行い、自分の責務を実行し、責任を果たし、本分を守るべきである。あなたは神を信じているので、神の働きに貢献するべきである。そうしなければ、あなたは神の言葉を飲食する資格がなく、神の家で暮らす資格もない。

7.教会の仕事や事柄に関し、あなたは神に従うことは別として、すべてのことで聖霊に用いられている人の指示に従うべきである。ほんのわずかな違反も受け入れられない。あなたは無条件に順守しなければならないし、正しいか間違っているか分析してはいけない。何が正しいか、間違っているかはあなたに関係ない。あなたは全面的に服従することだけに関心を持たなければならない。

8.神を信じる人々は神に従い、神を礼拝すべきである。どんな人物に対しても、あなたは崇めたり、仰ぎ見たりするべきではない。神を第1位と位置付け、仰ぎ見る人々を第2位とし、自分自身を第3位と位置付けることは、すべきではない。誰もあなたの心の中に場所を占めるべきではないし、あなたは人々を―とりわけあなたが崇拝する人々を―神と劣らないもの、神と同等なものと考えてはならない。これは神にとって耐えられないことである。

9.あなたは教会の仕事を中心として考えるべきで、自分の肉体の見通しは脇にどけておき、家族の問題については決然とし、心から神の働きに専心し、神の働きを第1にし、自分自身の生活は第2にするべきである。これが聖徒の礼儀正しさである。

10.信仰のない家族(あなたの子供たち、夫または妻、姉妹または両親など)を無理に教会に行かせるべきではない。神の家はメンバーに不足はないし、役に立たない人々で数を作り出す必要もない。喜んで信じる人々でなければすべて教会に導きいれてはならない。この命令はすべての人々に向けられる。この件に関し、あなたたちはお互いにチェックし、観察し、気付かせるべきである。だれでもそれを犯してはいけない。信仰のない家族が嫌々教会に入る時でさえ、彼らに本を与えたり、新しい名前を与えたりしてはならない。そのような人々は神の家には属しておらず、必要ないかなる手段を用いても彼らが教会に入ることは止めなければならない。悪魔が侵入したために教会に問題が持ち込まれたら、あなた自身が除名されるか、またはいくつかの制約が課せられるだろう。要するに、誰もがこの件に関して責任があり、あなたは自分勝手なことをしてはならないし、個人的恨みを晴らすために使ってはならない。

「言葉は肉において現れる」より

(二)神劝勉人方面的经典话语

(II)人への神の奨励についての代表的な言葉

イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大きな救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりすべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしはあなたがたに、注意深く信仰の道を歩むよう助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたはうわべだけ神を信じたり、気楽に信じたりしてはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだあなたはおそらく、自分の信念と聖書に沿っている言葉は1万語にひとつだと信じているだろう。あなたはその1万分の1の言葉の中で求め続けなければならない。わたしは更にあなたに助言する。謙虚であり、自身過剰にならず、思い上がらないようにと。あなたの中の神に対するわずかな畏敬の念からより大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるだろう。これらの言葉をほんの数行読んだだけで、「これは聖霊の示しのほんの一部でしかない」とか、「人々を欺く偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるだろう。そのようなことを言える人たちはあまりに無知だ。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日に偽キリストが現れることにより、神の言葉を盲目的に非難してはならない。策略を恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないのか。もし良く調べた上で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと信じるなら、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないか。あなたは神の玉座の前に戻る幸いに与ることができないということではないのか。そのことを考えてみなさい。軽はずみで衝動的な人であってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のことを考え、前途を考え、そしてあなたのいのちのことを考え、自らをいい加減に扱わないようにしなさい。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

多くの者が、神の二度目の受肉について受け入れ難いものを感じる。なぜなら、神が受肉して裁きの働きを行うことは、人には信じ難いからだ。しかしわたしはあなたに告げなければならない。神の働きは往々にして人の予測をはるかに超えるもので、人の頭がそれを受け入れるのは難しいのだと。というのも、人は地上のウジ虫にすぎないが、神は宇宙を満たす至高の存在だ。人の頭は、ウジ虫しか生み出さない汚い水たまりに過ぎないが、神の考えに支配されたひとつひとつの働きは、神の知恵によるの結晶だ。人は、常に神に敵対することを望む。それなら結局誰が負けることになるかは自明だと、わたしは言おう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

わたしは強く勧める、あなたがたがみな自分を金より重要だとみなさないようにと。もし他の人たちが神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたはできないのか。彼らに比べてあなたがどれほどの高みにいるというのか。もし他の人たちが真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたも同様にできないのか。神の働きの偉大な潮流を止めることはできない。神は、あなたの「功績」のために裁きの働きを繰り返すことはなく、あなたはそんな好機を逃したことを痛烈に後悔するだろう。もしあなたがわたしの言葉を信じないなら、天の偉大な白い玉座があなたの上に「裁きを下す」のを待つが良い!

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。……わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

いのちを追求しない者を変化させることは不可能である。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたがたは自分の変化の追求と真摯な取り組みに重点を置かず、常にそうしたとりとめも無い欲望や、神に対する自分の愛を抑制する物事や、自分が神に近付くことを阻む物事に重点を置く。こうした物事は、あなたがたを変化させることが出来るであろうか。こうした物事は、あなたがたを御国へと導くであろうか。あなたがたの追求の目的が真理を追求することでは無いならば、あなたがたは、これを機に、俗世に戻って成功をめざせばよいであろう。そのようにして時間を無駄にするのは全く無価値である。なぜ自分を苦しめるのか。素晴らしい世界であらゆる物事を楽しめないことがあろうか。金銭、美女、地位、虚飾、家庭、子供達など、この世の産物は、全てあなたがたが享受できる最高の物事ではないのだろうか。地を彷徨い自分が満足できる場所を探すことが、何の役に立つというのか。人の子が枕する所は無いのであれば、どうしてあなたがたが安住の地を得る事が出来ようか。どうして主があなたがたのために、素晴らしい安住の地を造ることが出来ようか。それは可能であろうか。私の裁き以外に、現在あなたがたは真理に関する説教を受けることしか出来ない。あなたがたは私から安楽を得ることも、あなたがたが日夜思い描いているような幸福の巣を得る事も出来ない。私はあなたがたに、この世の富を与えない。あなたがたが真に追求するならば、私はあなたがたに対して、いのちの道の全てを与え、あなたがたを水を得た魚のようにすることを望む。あなたがたが真に追求しないのであれば、私はそれを全て引き上げるであろう。私は、安楽に貪欲で豚や犬のような者に、自分の口から言葉を与えることを望まない。

『言葉は肉において現れる』の「何故、引き立て役になることを望まないのか」より

現在、あなたはわたしの言葉を信じず、わたしの言葉を全く気にかけない。この業が広まる日が来て、あなたがその全てを認識する時、あなたは後悔し、唖然とするであろう。祝福があるが、あなたはそれを享受する方法を知らない。また真理はあるが、あなたはそれを求めない。あなたは、自分自身を侮辱しているのではなかろうか。現在、神の業の次の段階はまだ始まって居ないが、あなたに対する要求や、あなたが行動で示すよう求められている事には、何も例外的な事は無い。極めて多くの業と真理がある。そうした業と真理は、あなたに知られる価値があるのではなかろうか。神の刑罰と裁きは、あなたの霊を目覚めさせることが出来ないであろうか。神の刑罰と裁きは、あなたに自分を忌み嫌わせることが出来ないであろうか。あなたは、サタンの領域で、ちょっとした肉の享楽と共に平和に喜んで暮らすことに満足しているであろうか。あなたは全ての人間のうち、最も卑しい者ではなかろうか。救いを見たことがあるが、それを追求しない者よりも愚かな者は居ない。そうした者は、自らを肉で満たし、サタンを堪能する者である。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

あなたの信仰は貧弱なので、いのちが与える喜びを今日まで見出すことができないままだ。わたしはあなたに助言する――人生の全てを平凡で肉のための多忙な日々として送り、耐え難い苦しみを耐えて生きるより、その半分をわたしの為に真心から生きるようにと。わたしの刑罰から逃げるほどまで、自身を大事にして何の役に立つのだろうか。永遠の苦難、永遠の刑罰の報いをただ取り込んでしまうためにわたしの一時的な刑罰から自身の身を隠すことは何のために役立つのだろうか。わたしは、実際には誰も強制的にわたしに従わせることはしない。もし人が、わたしの全ての計画に喜んで従うなら、わたしはその人を粗末には扱わない。しかし、わたしは、すべての人が、ヨブがわたしヤーウェを信じたようにわたしを信じることを要求する。もしあなた方の信仰がトマスのそれを超えているなら、わたしの称賛を得、あなた方の忠誠心はわたしの喜びを得、あなた方の日々においてわたしの栄光を見出すだろう。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

あなたがたは、神により完全にされる機会を求めず、完全にされることの追求に努めないのであれば、最終的に良心の呵責で満たされるであろう。完全にされる絶好の機会、絶好の時は、今である。あなたがたが神による完全化を熱心に追求しないならば、神の業が完了した時には手遅れで、あなたがたはその機会を逸したことになるであろう。あなたがたの望みが如何に強かったとしても、神が業を行わなくなった場合、あなたがたが重ねてきた努力を問わず、あなたがたは決して完全にされ得ないであろう。あなたがたは、この機会をとらえ、聖霊の大いなる業により協力する必要がある。あなたがたは、この機会を逃したならば、どれほど努めてもその機会は二度と与えられないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全とされるためには神の旨に配慮する必要がある」より

受動的に神に付き従う者となってはならず、好奇心をそそる物事を追求してはならない。あなたは冷たくも熱くもないので、あなたは自分を喪失し、人生に遅れを生じさせるだろう。あなたは、真理を得て、それを行動で示すことができるように、自分の受動性と不活性を排除し、肯定的な物事の追求と自分の弱みを乗り越えることに熟達する必要がある。あなたの弱みについて、恐れることは一切無く、あなたの欠点は最大の問題では無い。あなたの最大の問題であり、最大の欠点であるのは、冷たくも熱くもなく、真理を追求する望みが欠如していることである。あなたがた全員の最大の問題は、臆病な精神により物事の現状に満足し、受動的に待っていることである。それがあなたがたにとって最大の障害であり、あなたがたが真理を追求する際における最強の敵である。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

終日自分の不安のことだけを考え、真理について調べ、既知の真実を実践することが出来ない者も居る。こうした行動は極めて不合理であり、そうした者は生来苦悶する者であり、祝福を得ていながらそれを享受しない者なのだ。道はそこに有り、人間に必要とされるのは、それを実践することのみである。真理を実践すると決心したならば、自分の弱点や致命的な欠点は変化し得るものであるが、常に注意し、一層多くの苦難を受ける必要がある。神への信仰には、分別のある心が必要である。そのような不用意な方法で、正しく神を信仰することが出来であろうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理を愛する者には進むべき道が有る」より

真理を断念するのは、自分が既に救われない領域に達していると考えていることが原因であり、そのため最も基本的な真理でさえも断念してしまう。それは、自分は真理を実践不可能であるというよりも、むしろ真理を実践する機会を断念するということである。真理を断念しても、変化することが出来るであろうか。真理を断念したならば、神への信仰の意味は、どこにあるであろうか。「性情の変化を追求するのが何時であっても、それは正しい」は既述のことではなかろうか。それを既に忘れたであろうか。あなたがたは、救われる者の人数が寡少であることを覚えているので、自分に望みが無いと感じている。肯定的に追求していなければ、否定的な物事が起こるのではなかろうか。それでは、どうすれば否定的にならずに居られるであろうか。それゆえに言っておくが、自分自身を正確に見る必要があり、真理を断念してはならない。

『キリストの言葉の記録』の「自分自身を正確に見ること、そして真理を断念しないこと」より

進んで完全にされたいと思う人たちなら誰でも、完全にされる機会がある。だから皆リラックスしていなければならない。将来、あなたがたはみな終着点に入るだろう。しかし、もしあなたが進んで完全にされようとせず、素晴らしい領域に入ることを願わないなら、それはあなた自身の問題である。喜んで完全にされようとし、神に忠実である人たちすべて、服従する人たちすべて、そして自分の役目を忠実に成し遂げる人たちのすべて――そのような人たちはすべて完全にされることができる。今日、自分の本分を忠実に果たさない人たちすべて、神に忠実でない人たちすべて、神に服従しない人たちのすべて、とりわけ聖霊の啓示と光を受けたが、それを実践しなかった人たち――そのような人たちは完全にされることはできない。神に喜んで忠実に従う人たちは誰でも、たとえ彼らが多少無知であっても、完全にされることができる。喜んで求めている人たちはすべて完全にされることができる。これを心配する必要はない。あなたがこの方向で進んで追求している限り、あなたは完全にされることができる。わたしはあなたがたの中でこの様な人たちのひとりでも進んで見捨てたり、排除したりすることは願わないが、もし人が一生懸命努力しないなら、あなたは自分自身を破滅させているだけである。あなたを排除するのはわたしではなく、あなた自身である。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

人の人生はすべて神の手中にあり、神の御前における決心がなければ、誰が空虚な人の世界で無駄な人生を送ろうと思うのか。わざわざそうする必要があるのか。この世に生まれ死にゆく人生を急ぎ、神のために何も行わないならば、人生すべてを無駄にすることにはならないか。もし神があなたの行為を語るに値しないと見なされたとしても、死ぬ瞬間、幸せな笑みを浮かべてもらえないだろうか。前進し、後退しないように努めるべきである。これはより良い慣行ではあるまいか。

『言葉は肉において現れる』の「三十九番目の言葉の解釈」より

大部分の人々は常に進取的であり、飽くことが無い。そうした人々は皆、神が現在切望している意向に関する知識が欠如しているので、逃避願望を抱いている。そうした人々は野に出て、手綱から解き放たれた野生の馬のように走り回ることを常に望んでいる一方、良きカナンの地に定住して人間的生活を求める者は希にしか居ない。そうした人々が乳と蜜の流れる地に入ったならば、乳と蜜を授かることしか考えないのではなかろうか。率直に言って、良きカナンの地の外は、どこも荒野である。人間は安息の地に入った時でさえ、自らの本分を維持することが出来ない。そうした人間は単なる淫らな者ではなかろうか。そうした環境において、あなたがたが神により完全にされる機会を失うならば、それは余生を通して悔いる事となり、あなたがたは計り知れず遺憾に思うであろう。結局あなたがたは、カナンの地を見つめるだけでカナンを得られず、拳を堅く握って、後悔で満たされて死んだモーセのようになるであろう。あなたがたは、それを恥だと思わないだろうか。あなたがたは、他人に嘲笑われるのを恥辱だと思わないだろうか。あなたがたは、他人に辱められることを望んでいるであろうか。あなたがたには、立派になろうと努める精神があるのではなかろうか。あなたがたは、神により完全にされる、誉れある正直な人間になりたいのではなかろうか。本当にあなたがたは決断力に欠けている者であろうか。あなたがたは他の道へと進むことを望まないが、神が定めた道を歩むことも望まないのだろうか。あなたがたは敢えて天の旨に反して進むのであろうか。あなたがたは、自分の技能が如何に優れていたとしても、本当に天に逆らうことが出来るだろうか。私は、自分を知るのが私達にとって最善であると思う。神のひと言で天と地は変化するのであるから、貧相で小さな人間は神にとってどのように見えるであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「路……(七)」より

神は罰により人間を征服することを望まない。神は常に人間を強制することを望まない。神は、人間が神の言葉に従い、鍛錬された要領で業を行い、よって神の旨を満たすことを望んでいる。しかし、人間は恥知らずで、常に神に反逆する。私達にとって最善なのは、神を満足させる最も簡明な方法を見出すこと、すなわち神の采配の全てに従うことであると私は考える。そして、あなたがたが真にそれを実現できるならば、あなたがたは完全にされるであろう。これは平易で楽しい事ではなかろうか。他人の言葉を気にせず、考えすぎずに、自分の歩むべき道を進む必要がある。あなたがたは、自分の将来や運命を自ら掌握しているであろうか。あなたがたは常に逃げ出してこの世の道を進みたがるが、そこから抜け出せないのは何故だろうか。あなたがたが分かれ道で何年も躊躇し、結局またしてもその道を選ぶのは何故だろうか。あなたがたが長年彷徨い続けた後に、自分自身ではなく、その家に戻っているのは何故だろうか。それは単にあなたの個人的問題だろうか。この流れの中に居る者いとって、このことを信じないならば、私の言葉を聞くように。すなわち、あなたがたに立ち去る計画があるならば、待ち、あなたがたが立ち去るのを許すかどうか、そして聖霊がどのようにあなたがたを感激させるかを確認し、それを自分で経験するように。はっきり言えば、あなたがたが不幸に見舞われたとしても、あなたがたはこの流れの中でその不幸を受ける必要がある。そして苦難があるならば、あなたがたはその苦難を今ここで受ける必要があり、逃げ出すことは出来ない。あなたがたは、そのことが明瞭に理解できるだろうか。あなたがたは、何処へ向かうだろうか。これが神の律法である。あなたがたは、神がこの人間の集団を選ぶことは無意味だと考えているであろうか。現在の神の業において、神は容易に怒ることが無いが、人間が神の計画を阻害したならば、神は表情を変え、即座に晴天を曇天へと変えることもある。ゆえに、腰を据えて神の計画を尊重すること、そして神が自分を完全にできるようにすることを、あなたがたに進言する。賢者となるには、この方法によるしかない。

『言葉は肉において現れる』の「路……(七)」より

わたしの言葉の外で生き、試練を逃げている人々、彼らは世界を漂っていないだろうか。彼らはあちらこちらへひらひらと揺れる秋の葉のようで、休む場所もなく、ましてやわたしの慰めの言葉などない。わたしの刑罰や精錬が彼らの後を追うことはないが、彼らは天国の外の通りをあてもなくさまよう乞食ではないだろうか。世界は真に、あなたの安息の場所だろうか。あなたは本当に、わたしの刑罰を避けることでこの世から安堵の微笑みを得ることができるだろうか。あなたは本当に、つかの間の楽しみで隠しおおせない空虚さを覆うことができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

あなた方一人ひとりが自らの本性を知るべきである。あなた方のほとんどが議論は得意であり、理論的な質問に対する答えはすらすらと出てくるが、実質的な問題になると何も言うことがないのである。今日でさえ、あなた方は未だに浅はかな会話に身をゆだね、自分の古い本性を変えることができずにいるし、あなた方のほとんどは、より高い真理を達成するために追求する方法を変えるつもりがなく、いいかげんに自分の人生を生きているだけである。このような人たちがどうして最後まで神に従うことができるだろうか。たとえ道の最後まで辿り着けたとしても、あなた方にとってそれが何の得になるだろう。手遅れになる前に、真剣に追及するか、あるいは早く負けを認めて放棄して、考え方を改めた方が良い。時間がたつにつれ、あなた方は人にたかる寄生虫になる。そんな低くて卑しい役をあなた方は演じるつもりなのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

私は、理論について語るのを止め、現実の物事、実在し、実体のある物事について語り、「現代美術」を研究し、現実的な話をし、実話を語り、貢献精神を持つよう、全ての者に要請する。話をする時に現実と対峙するようにし、人々を満足させたり、自分に関して人々の見方が変わるように非現実的で大袈裟な話をすることに没頭してはならない。そうすることに、どのような意義があるであろうか。人々を自分に熱狂させることに、何の意味があるだろうか。自分が話をする時は「創造力」を働かせ、自分の行動を公正に判断し、自分の業に合理的に取り組み、人々に話をする時は現実的に話をし、全ての行動において神の家に利益をもたらすことを念頭に置き、良心で自分の感情を律し、恩を仇で返したり、恩に対して感謝しない事の無いようにし、偽善的にならないようにしなければ、あなたがたは悪影響となる。あなたがたが神の言葉を食べ飲みする時、それを現実と一層関連づけ、交流する時は現実的な物事について一層多く語るようにし、人を見下してはならない。神はそうした行為に反対する。より辛抱強く寛容になって、一層多く容認し、寛大になって人々に隠し立てしないようにし、「首相の精神」から学ぶこと。自分の中に好ましくない考えがある場合、肉の捨て去りを実践すること。あなたがたが業を行っている時は、比較的現実的な道について述べ、高尚になり過ぎてはならない。高尚になり過ぎると、人々は話を理解できなくなるであろう。享受を減らし、貢献を増やして、自分の無私な精神と献身を示すこと。神の旨に一層配慮し、自分の良心の声に一層耳を傾けること。また神があなたがたに対する懸念のためにあなたがたに対して忠告する方法を、忘れずに心に留めておくこと。「昔の暦」を一層頻繁に読むこと。一層頻繁に祈りをささげ、一層多く交わること。あまり混乱し過ぎないようにし、理知を示して識見を得ること。罪の手が伸びた場合は、その手を引いて、あまり伸びすぎないようにすること。それは無益である。あなたがたが神から得るのは呪いだけであるので、注意すること。自分の心で他人を憐れむこと。そして常に武器を持って攻撃しないこと。いのちに関して提供する物事、話す物事を一層増やし、他人を助ける精神を忘れないこと。行動を増やし、話を減らすこと。実践する事柄を増やし、調査や分析することを減らすこと。聖霊に感激させられることを増やし、神が自分を完全にする機会を増やすこと。人間的な行動方法が依然として多すぎるので、排除する人間的要素を増やすこと。表層的な行為と態度はそれにも増して忌まわしい。そうした行為や態度は一層排除する必要がある。あなたがたの精神状態はさらに忌み嫌うべきものである。それを更に是正すること。あなたがたの心の中では、人々の地位が高すぎる。神に一層高い地位を与え、不合理が過ぎてはならない。「神殿」はそもそも神のものであって、人間のものであってはならない。つまり、義に一層重点を置き、感情の重点を減らし、肉を排除するのが最善である。現実について一層多くを語り、知識を語る量を減らし、黙しているのが最善である。実践の道について一層多くを語り、価値の無い大袈裟な話を減らし、今すぐ実践を始めるのが最善である。

『言葉は肉において現れる』の「現実性に一層重点を置くこと」より

この道において、多くの人たちは多くの認識を語るが、死ぬ際には、目は涙で溢れ、生涯を無駄にし老齢になるまでいたずらに過ごしたことを嫌悪することになる。理解するだけで、神に栄光を帰す機会を持っていなかった。生涯を諍いに生き、あちらこちらに旅をすることに費やし、死期が来ると、心には後悔が生まれる。死ぬ間際になって初めて、多くの人たちは気が付き、人生の意味を認識するのである。これでは遅くないだろうか。なぜ今日、自分が愛する真理を求めないのか。なぜ明日まで待っているのか。もし真理のために苦しまず、真理を得ることを求めないなら、死ぬ間際に後悔することを望んでいるのだろうか。もしそうなら、何故神を信じるのか。実際、もし人が少しでも努力するなら、真理を実践でき、神に満足してもらえる事柄が沢山ある。人の心は絶えず悪魔に占領され、神のために行動することができない。むしろ、絶えず肉のためにあくせくして走り回り、最終的には何の利益も生まれない。人が絶えず困難や苦悩を抱えるのはこれらが理由である。それらはサタンからの苦痛ではないか。これは肉の堕落ではないか。あなたは口先だけで神を騙すべきではない。むしろ、実質的行動を取らなければならない。自分自身を欺くべきではない。そんなことをして何の意味があるのだろうか。肉のために生き、名声や富を得るために骨を折って、一体あなたは何を得ることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より

あなたがたが生きている毎日は大切で、あなたがたの終着点や運命にとって、とても大切である。だから、あなたがたは持っているものすべて、そして過ぎていく一分一分を大事にしなければならない。あなたがたは最も多く利益をあげるように、時間を有効に使わなければならない。そうすれば、あなたがたはこの人生を無駄に生きたことにはならない。おそらく、あなたがたはなぜわたしがこのようなことを話しているか困惑しているかもしれない。率直に言って、わたしはあなたがたの誰の行動も喜んでいない。というのは、わたしがあなたがたに抱いていた望みは、到底今のあなたがたのようなものではないからである。だから、わたしはこのように表現することができる。あなたがたはすべてまさに危険にさらされている。過去にあなたがたが切実に求めた救いと、あなたがたの真理を追求し光を求める以前の熱望は終わりに近付いている。結局はこれが、あなたがたのわたしへの報い方であり、それはわたしが決して望んでいなかったものである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは誰に忠実か」より

わたしはずっと人にとても厳しい規範を守らせてきた。わたしは、己の考えによってわたしを欺き、条件をもってわたしに強要する者が大嫌いなので、もしあなたの忠誠が己の考えや条件を伴うものであるなら、あなたの忠誠と呼ばれるものなどむしろない方がよい。わたしが人に望むことは、わたしだけに忠実であり、すべてのことをただ「信仰」の一語のために行い、「信仰」の一語を証明することである。わたしは、あなたがたがわたしを喜ばせようとして甘い言葉を使うのを軽蔑する。わたしはいつも、完全な誠実さをもってあなたがたに接しているので、わたしはあなたがたにも、わたしに対して本当の信仰をもってふるまってほしいと願う。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より

わたしは今日、いつもの会話としてあなたがたに話しているのではない。したがって、わたしの言葉を真摯に受け止めるだけでなく、それらについて深く考えなければならない。すなわち、わたしはあなたがたがわたしの語った言葉に対する努力を怠りすぎていると言っているのである。神の性質となると、さらにいっそう考えようとせず、これに対して努力を費やす人もほとんどいない。このため、わたしはあなたがたの信仰が大仰な言葉に過ぎないと言うのである。今でさえも、誰一人として自分の最も致命的な弱点に真の努力を注いでいる者はいない。あなたがたのためにあれこれ心を砕いたにも関わらずあなたがたはわたしを失望させた。誰もが神を無視し、真理を欠く生活を送っているのも当然である。このような人々が聖なる者と見なされることがあろうか。天はそのようなことを許さない。あなたがたの理解はあまりにも乏しいので、わたしはさらに語らざるを得ない。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」より

あなたは、わたしの言葉を信じるであろうか。あなたは、報いを信じるであろうか。あなたは、わたしを騙して裏切るような邪悪な者を、わたしがすべて罰すると信じているであろうか。あなたは、その日が早く来ることを望むであろうか、それとも遅く来ることを望むであろうか。あなたは、罰を強く恐れる者であろうか、あるいは罰を受けるべきであってもわたしを拒むような者であろうか。その日が来た時、あなたは自分が明るく笑って生活しているか、それとも泣きながら歯ぎしりしているかを想像できるだろうか。あなたは、どのような結末を得ることを望むだろうか。あなたは、自分がわたしを100パーセント信じるか、それともわたしを100パーセント疑うかを真剣に検討したことがあるだろうか。あなたは、自分の行動と態度により自分が受ける結末と最後がどのようなものとなるかを注意深く検討したことがあるだろうか。わたしの言葉がひとつずつ実行されることを本当に望むであろうか、あるいはそのことを強く恐れているであろうか。わたしが自らの言葉を実行するために間もなく去ることを、あなたが望むのであれば、あなたは自分の言葉と行動を、どのように扱うべきであろうか。わたしが去ることを望まず、わたしの言葉が全て直ちに実行されるのを望まないのであれば、あなたは一体なぜわたしを信じるのであろうか。あなたは、自分がなぜわたしに付き従っているかを本当に知っているだろうか。それが単に自分の視野を広げるためであったとしたら、あなたはそのような苦悩を受ける必要が無い。それが祝福を受けて今後の災禍を避けるためであるとすれば、あなたが自分の行動を懸念しないのは何故だろうか。あなたは何故、自分がわたしの要求を満たせるかどうかを自問しないのだろうか。あなたは何故、自分が今後わたしの祝福を受けるに相応しいかどうかを自問しないのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より

いずれにしても、真理を重んじない者はすべて、不信仰者であり真理を裏切る者であると言おう。そのような人は決してキリストの承認を得ることはできない。あなたの中にどれほど多くの不信仰があるのかあなたは今、分かっただろうか。そしてあなたは、どれほどキリストを裏切っているだろうか。わたしはあなたに以下のことを熱心に勧める。あなたが真理の道を選んだのだから、あなたは誠心誠意献身すべきである。あいまいなどっちつかずの態度であったり、気のりのしない態度であったりしてはならない。神は世界にも、一人の人間にも属さず、本当に神を信じ、礼拝し、献身的で忠実な者すべてのものに属することを知るべきである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より

最後に、あなたがた全員が自分の終着点のため真剣に努力することを望むが、努力する際は、虚偽的な方法は利用しない方が良いだろう。さもなければ、あなたがたについて、私の心は落胆するであろう。こうした落胆の結果、どうなるであろうか。あなたがたは自分をごまかしているのではないだろうか。自分の終着点のことを懸念しつつ、それを破滅させる者は、全く救われることが無いであろう。そうした者が憤慨したとしても、誰が共感するであろうか。とにかく、私は依然として、あなたがたが適切かつ良好な終着点を得るよう願うことを望む。それにもまして、私は、あなたがたのうちに災いに遭う者が一切居ないことを願っている。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

あなたがたから去る前に、わたしは真理に沿わないことをしないようにと依然として熱心に勧める。むしろ、あなたがたはすべての人が喜ぶようなことをし、すべての人やあなたがた自身の終着点に益があるようなことをするべきである。さもなければ、災いに苦しむ者は、他ならぬあなたがたとなるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

あなたがたは自分の行いに注意し、自分に降りかかること全てに注意するように。軽はずみに何かをしたり衝動的に何かをしたりすることのないように。神や人、物事そして神が用意した物事を急いで扱ったり、ありのままで対応したり、想像や概念に従って扱ってはならない。自分の行いに注意深くし、更に祈り、求め、神の怒りを招くことのないようにしなさい。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

神の救いの過程や神があなたの結末を決定する時、神があなたに与えるのが、哀れみであるか、寛容であるか、裁きであるか、刑罰であるかを問わず、あなたに対する神の姿勢は一定ではない。その姿勢は、あなたの神に対する姿勢や、あなたの神に関する理解により異なる。あなたの一時的な認識や解釈で神を永久的に定義しないこと。死んだ神でなく、生きている神を信仰すること。……あなた方の心にある神への愛と、神を敬う姿勢を用いて今後の道を歩んでほしい。神への信仰をどのように扱うかに関する問題で混乱しないこと。その問題を、最も重要な問題のひとつとして扱うこと。その問題を自分の心に留め、実行に移し、実生活と関連させること。口先だけの美辞麗句として用いないこと。なぜなら、これは生死にかかわる問題であり、あなた方の運命を決める問題だからである。この問題を子どもの遊びのような、冗談として扱わないこと。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を深く悲しむ。神は、人類の、没落に向かう緩やかな行進と帰り道のない行路に対し、悲しみを感じる。神の心を打ち砕き、神を裏切って悪者を求めるこのような人類はどこへ向かうか、誰も考えたことがない。まさにこの理由により、誰も神の怒りを知覚しないのである。神を喜ばせるための道を探す者、あるいは神により近づこうと努める者は誰もいない。さらに、神の悲しみと苦痛を理解しようとする者は誰もいない。たとえ神の声を聴いた後であっても、人は神の恵みと配慮を避け、神の真理を遠ざけて、神から離れた道を進み続け、彼はむしろ、神の敵であるサタンに自分の身を売り渡す。そして、神を棄て去った悔い改めない人に対して、神がどのように振るまうか、いくらかでも考えてみた者はあるだろうか。神が繰り返し注意や呼びかけを行うのは、神が準備した、人の肉と霊魂にとって耐えられない前例のない災いをその手にもっているからであるということを知る者は、誰もいない。この災いは、単に肉の懲罰だけではなく、霊魂の懲罰でもある。あなたはこのことを知っていなければならない。すなわち、神の計画が無効にされ、神の注意と勧告が何の反応も生まないときに、神はいかなる怒りを解き放つだろうか。これは、いかなる被造物も今までに経験したことも聞いたこともないものであろう。そして、この災いは前例がなく、決して繰り返されない、とわたしは言おう。これは、神の計画の中にはただひとつの創造とただひとつの救いしかないからである。これは最初であり、最後でもある。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

今わたしはあなたにひとつの秘密を教えよう。神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にも推し測ることができない。これは今もそうであり、昔もそうであったし、これからもそうであろう。わたしが伝える第二の秘密はこれである。すべての被造物のいのちの源は神から来るのである。いのちの形や構造にいかなる違いがあっても、あなたがどのような生命体であっても、神が定めたいのちの道と逆方向に動くことはできないのである。いずれにしても、わたしが人に理解してほしいことは、人がどんなに努力しても、奮闘しても、神の配慮、守り、備えなしには、人は受け取るはずであったものを何も受け取ることができないということである。神からのいのちの供給なしには、人は生きる価値を失い、いのちの意義を失う。神のいのちの価値を無駄にする人が、それほどのんきでいることを神がどうして許すことができるだろうか。もう一度言うが、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。もし人が、神が授けたものを大事にできなければ、神は与えたものすべてを取り戻すだけではなく、人は神が費やしたものすべてを償うために、二倍を返さなくてはならないのである。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

(三)神警戒人方面的经典话语

(III)人への神の警告についての代表的な言葉

神の受肉を否定する人々は、霊、あるいは神が行う働きの原則を知らない人なのだ。今は聖霊の時代だと信じているのに、聖霊の新しい働きを受け入れない人々は、曖昧な信仰の中に生きている人なのだ。こうした態度の人々は聖霊の働きを決して受けとらない。聖霊が直接語りかけ、働きを実行することだけを望み、肉となった神の言葉や働きを受け入れない人々は新しい時代に足を踏み入れることも、神からの全き救いを受けることも決してできない。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定している人がどうして神の啓示を受けることができるだろうか」より

メシアを理解しない人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができる。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。さらに、彼らはイエスの再臨をサタンの偽りとして見ることができ、より多くの人が受肉による再来したイエスを非難するはずだ。このこと全てがあなたがたを恐れさせないだろうか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが語った言葉の全てをはねつけることとなる。あなたがたがそれほど混乱しているなら、あなたがたはイエスから何を得るのか。あなたがたが頑なに自分の間違いに気がつくのを拒絶した場合、イエスが白い雲に乗って肉に戻る時にあなたがたはイエスの働きをどのようにして理解できるのか。わたしは言う。真理を受け入れず白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅びる民族である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。その時あなたは大きな興奮に包まれるだろう。だが、あなたがイエスが天から降臨することの証人となる時は、あなたが地獄へ送られ、懲罰される時でもあることを、あなたは知るべきだ。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人がしるしを見る前、真理の現れだけがある時に終わる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上で業を行うために託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない罰は、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、否定するなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが否定したのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

わたしはすべての人にわたしが行ってきたことは正しく、わたしの性質の表現であることを知って欲しいと思っている。人類を生み出したのは人ではなく、とりわけ大自然の行いではない。それどころか、すべてのものの中で、あらゆる生けるものを育むのはわたしである。わたしの存在なしには、人類は滅び、災害に苦しむだけであろう。だれも麗しい太陽や月、緑にあふれる世界を再び見ることはできないだろう。人類は極寒の夜や、避けられない死の影の谷に遭遇するだけだろう。わたしは人類の唯一の救いである。わたしは人類の唯一の望みであり、さらに、わたしは全人類がその存在を託すその者である。わたしがいなくては、人類はすぐに停滞してしまう。わたしがいなくては、たとえだれもわたしに注意していなくても、人類は大災害に苦しみ、あらゆる種類の霊に踏みつけられるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

わたしの言葉は永遠に変わらない真理である。わたしは人間にとっていのちの提供者で、人類のための唯一の案内人である。だが誰もこの真実を知らない。わたしの言葉の価値と意味は、人間に認められているか受け入れられているかではなく、言葉自体の本質で決定される。たとえこの地上でだれひとりわたしの言葉を受け入れることができないとしても、わたしの言葉の価値と、どれだけそれが人類に対する助けになるかは、人には評価できないほどである。だから、わたしの言葉に逆らい、論駁し、あるいはわたしの言葉を全く軽蔑している人たちに直面するとき、わたしの変わらない姿勢はこうである。時と事実をわたしの証人とさせ、そしてわたしの言葉は確かに真理であり、道であり、いのちであることを証明する。そして、わたしが言ってきたことはすべて正しく、人はそれを備えるべきであり、さらに人はそれを受け入れるべきであることを彼らに実証させよう。わたしはわたしに従う人たちすべてにこの事実を知らせる。すなわち、わたしの言葉を完全に受け入れることができない人たち、わたしの言葉を実践できない人たち、わたしの言葉に目的を見いだせない人たち、そしてわたしの言葉ゆえに救いを受け入れることができない人たちはわたしの言葉によって罪に定められた人たちであり、さらにわたしの救いを失ってきた人たちである。わたしのむちは決して彼らから離れることはない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より

もしあなたがこうした真理を重視せず、避けたり、別の道を考え出そうと常に考えたりしているなら、あなたはひどい罪人だとわたしは言おう。もしあなたが神を信じていても、神の真理やその心を追求せず、あなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている者だとわたしは言おう。あなたは、偉大な白い玉座から逃れる操り人形であり裏切り者で、神は自分の目から逃れようとする反抗者を誰ひとり容赦しない。そうした人は、更に重い懲罰を受ける。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

わたしはわたしがすべきことをし、すべきでないことはしない。しかし、あなたがたがもっと反省することに時間を費やすようわたしは依然として望んでいる。あなたの神に対する認識が正確にはどれほど正しいのだろうか。あなたは再び神を十字架に釘づけにした人たちの一人だろうか。最後にこう言おう。「わざわいだ。神を十字架につけた者たち。」

『言葉は肉において現れる』の「悪人は罰せられなければならない」より

人間は、自分の中に神を崇める心、そして神に対して従順な心を持っていなかった場合、神のために業を行うことが出来ないだけでなく、その反対に神の御業を阻害し、神に反抗する者となるであろう。神を信じる者が神に従う事も、神を崇めることも無く、神に反抗した場合、それは信者にとって最大の恥辱である。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

私の業は、あなたがたにとって極めて有益である。私があなたがたから得ることを望むのは、正直で肯定的な心であるが、現在に至るまで、私の手には何も無い。考えて欲しいのだが、将来、私が依然としてこのような言いようの無い苦い思いをしているとしたら、あなたがたに対する私の態度はどのようなものとなるであろうか。私は現在と同様に親しくするであろうか。私の心は、現在と同様に安らかであろうか。あなたがたは、骨折って畑仕事をしたが全く収穫を得なかった者の気持ちが分かるだろうか。強く打たれた者の傷がどれほど深いか分かるだろうか。希望に満ちつつ、誰かと不当な条件で訣別せねばならない者の苦渋を、あなたがたは感じることができるだろうか。挑発された者の怒りを理解したことがあるだろうか。敵意を向けられ、欺かれた者の復讐の衝動を理解することが出来るだろうか。そうした者の精神を理解するならば、神が報いられる時の姿勢を想像するのは、困難ではないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

わたしはあなたがたに忠告する。わたしが招く人たちは堕落したことがない人たちではないが、わたしが選ぶ人たちはわたしを真に愛している人たちである。だから、あなたがたは言葉と行いにおいて油断することなく、あなたがたの意図や考え方を吟味し、一線を超えないようになければならない。終わりのときには、わたしの前にあなたがたの愛を捧げることができるよう最善を尽くしなさい。さもないと、わたしの怒りがあなたがたから離れることがないように。

『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より

もし、物事の現在の状態に不満であり、自分には何らかの特別な技能や能力があると考え、運が良ければ現状を変えたり現状から逃れられたりすると考えている者がいたり、人間の力で自分の運命を変えたい、他人よりも卓越し、名声と富を得ようとしている者がいたとすれば、その者に言っておくが、その者は自分で物事を困難にし、問題を買って出て、墓穴を掘っているのだ。遅かれ早かれ、その者は自分が選択を誤っていること、無駄な努力をしていることに気付くであろう。あなたの運命に立ち向かう志と願望、大それた行動は、あなたを取り返しのつかない状態へと続く道へと導き、そのために辛い代償を払うこととなるであろう。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身3」より

真理を実践する予定ではない者に対し、それ以上罪を重ねないよう、今すぐ教会を去るよう勧告する。さもなければ、後悔するのも手遅れとなる時が来るであろう。また特に教会内の徒党を組む者や分裂を招く者、地域の下劣なへびは、なおさら直ちに教会を去る必要がある。こうした邪悪な狼のような本性の者は、変わることが出来ないので、神の罰を避けるため、出来るだけ早く教会を去り、兄弟姉妹の正しい生活を二度と阻害してはならない。こうした者と親しくしている人々は、その機会を活用して反省するのがよい。あなたがたは、邪悪な者に付き従って教会から去るであろうか、それとも教会に残り、完全な誠実さをもって付き従うであろうか。あなたがたは、このことを十分検討する必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

わたしの目の前でどんなに哀れっぽく見せようとしても、わたしは決して寛大にはならない。人は白と黒の違い、真理と非真理の違いを把握していないからである。理知は大いに麻痺しているにもかかわらず、人はまだ恩恵を得ようと願い、人間性はひどく下劣であるにもかかわらず、まだ王としての統治を保有しようと願う。そのような理知の持ち主がいったい誰の王になれるというのか。そのような人間性の者がどうして玉座に着くことができようか。実に人は恥を知らない。身の程知らずな卑劣漢である。恩恵を得たいと願うあなたがたに対し、わたしはまず鏡を見つけて、そこに映る自分自身の醜い姿を見ることを勧める。あなたは王になるために必要なものを持っているだろうか。あなたは恩恵を得ることのできる者の顔を持っているだろうか。性質にわずかな変化もなく、真理は何一つ実践していないにもかかわらず、あなたはまだ素晴らしい明日を願っている。あなたは自分自身を欺いている。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

多くの人たちは自分たちが犯した甚だしい過ちに心穏やかではない。また多くの人たちはたった一つの良い行いすらしてこなかったことを恥じている。しかし、自分たちの罪を恥ずかしいとも思わず、それどころかますます悪くなる者たちも存在し、自分たちの醜い顔―まだ完全には暴露されていなかったが―を、わたしの性質を試そうと完全に引き剝がしている。わたしは、誰かの行動を気にすることも注目することもない。むしろ、わたしはわたしがしなければならないことをし、何らかの情報を得、地上を歩き回り、わたしが興味のあることをする。大切な時には、一瞬も遅れることはなく、計画通りに人々の中でわたしの働きを再開し、それは楽々とまた簡潔に行われる。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

しかし、わたしの仕事のあらゆる段階で捨て去られる人たちもいる。わたしは彼らのお世辞や見せかけのへつらいを軽蔑するからである。わたしが忌み嫌う者たちは意図的であろうがなかろうが確実に捨てられる。つまり、わたしはわたしが軽蔑する全ての者が離れていくことを望んでいる。言うまでもなく、わたしの家に留まっている悪い者たちを見逃すことはしない。人を懲罰する日が近づいているため、いやらしいやつを全て投げ捨てたいとは思わない。なぜなら、わたし自身の計画があるからだ。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

わたしが受肉しているとき、誰でも肉の体のわたしと、わたしの働きについて議論する者を、わたしは憎む。わたしには地上に身内がないのであり、誰であっても、わたしを同等の存在を見て、わたしを引き寄せて昔のことを語ろうとする者は滅ぼされるのだということを、すべての人間に、わたしは何度も思い起こさせた。これがわたしの権限である。そうしたことについて、わたしは人間に対して、まったく許容しない。わたしの働きを妨げてわたしに意見しようとする者は、刑罰を受ける。けっして赦されることがない。

『言葉は肉において現れる』の「二十番目の言葉」より

神の言葉を読みながら心の中では神に反発している人も多いのだろうが、そのように反発した後は、胸がえぐられるような思いをして、仮に家庭での不和や、身体の不調または子供達に関する悩み事などを生むのではないだろうか。たとえあなたの肉体が死を免れたとしても、神の手から逃がれることはできないし、そのような単純なことではないのである。これは、神に近い人ほど特に気をつけるべきことである。あなたは、時が経つにつれてこのことを忘れ、気付かないうちに誘惑に嵌り、全てに無頓着になり、そしてその時からあなたが罪を犯す始まりになる。これは取るに足らない些細な問題だと、あなたは思われるだろうか。もし実践を守れば、あなたは完全にしてもらう機会を得る。そして神の面前で、神の口から直接その助言を受けることができる。それを重要としないのであれば、あなたにとってこれは災いになる。つまり、神に対し反抗的になり、あなたの言葉と行動が放蕩になり、遅かれ早かれ強風と巨大な波に流されるということである。あなたがたは一人ずつ、これらのことを心に留めておくべきである。神の証しする者は、あなたを罪に定めないかもしれないが、神の霊はあなたの裁きを終えていないし、神はあなたを赦さない。それでもあなたは、神に対して罪を犯すことができるのか。そういうわけで、神が何を言っても、あなたは神の言葉を実践し、あらゆる手段を使って忠実に守らなければならない。それは決して容易なことではないが。

『言葉は肉において現れる』の「新時代の戒め」より

多神主義的に考えている場合、わたしはあなたに人間くずである、サタンの化身である、邪悪の権化であると言わざるを得ない。……時間、場所、あなた方の経歴を問わず、あなたは神と、人間、物事を混同してはならない。神の権威を知ることや、神の権威や神自身の本質に近づくことが、どれほど困難であると感じているか、またあなたの考え方や想像がどの程度サタンの行動や言葉と一致するか、そうした行動や言葉にあなたがどの程度満足しているかを問わず、あなたは愚かであってはならず、それらの概念に惑わされてはならず、神の地位と存在を否定してはならず、心の中の神を排除して、神の代わりにサタンを受け容れて、サタンを崇拝してはならない。そのようなことをした場合、どのような結末が待っているかは、あなた方に想像できることであると、わたしは確信している。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

愛は神の本質の一部であり、また神は全ての人間に憐れみを与えるが、神の本質が威厳でもあることを人間は軽視し、忘れてしまう。神に愛があることは、人間が自由に神に反することが可能であり、神には感情も反応も無い、ということではない。神に憐れみがあることは、神による人間の取り扱いに原則が無い、ということではない。神は生きており、現実に存在する。神は想像上の操り人形などでは無い。神は存在するので、人間は神の心の言葉を注意して聞き、神の姿勢に注意し、神の感情を理解する必要がある。人間は、人間自身の想像により神を定義したり、人間が神に関して思うことや望むことを神に強制したり、神に人間の流儀で人間の取り扱いかたを考えさせたりしてはならない。そのようなことをするというのは、あなた方は神の怒りを買い、神の怒りを試し、神の威厳を挑発しているに等しい。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

わたしとの長年の関わり合いをもってしても慈悲心と真理を持つ人間とならず、代わりに邪悪な生き方が浸透しており、人一倍傲慢であるだけでなく、わたしに対する誤解が酷く、わたしを仲間としてしか見ないようであれば、あなたの苦しみは皮膚だけにとどまらず、骨にまで浸透してしまっている。その場合、為せるべきことは自らの葬儀が来るまで待つしかない。その時になってあなたの神になってほしいと嘆願する必要はない。あなたは死に値する、赦されない罪を犯してしまったのであるから。例えわたしが慈悲を与えることができたとしても、天の神はあなたの命を取ることを主張するであろう。神の性質に対する罪は普通の問題ではなく、非常に深刻な性質のものだからだ。

『言葉は肉において現れる』の「地上の神をどのように知るか」より

人々は、役人や主君に仕えるやり方を神の家に持ち込み、そういうやり方がここで通用すると、無益に思い込んでいる。彼らには、神は羊ではなく、獅子の性質を持っているとは、思いもつかない。そのため、初めて神と関わった者は、神と交わることができない。神の心は人間のそれとは異なっているのだから。多くの真理を理解して初めて、いつでも神を知っていられるようになる。この認識は文字や教義ではなく、神の心を知る宝、神があなたを喜んでいる証となるものである。真の認識を欠き、真理を自らのものとしていないのなら、あなたの感情に基づいた奉仕は神に嫌われ、憎まれるだけである。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

第三の忠告だが、まず神を信じる者はみな、これまでたどってきた道のどこかで神に逆らい、神を欺いたことがある。過ちの中には、不正として記録する必要のないものもあるが、赦されないものもある。その多くは行政に背くものであり、神の性質に逆らうものだからである。自分の運命を心配する多くの人々は、それはどういう行いかと尋ねるだろう。あなたがたは、自分が本来、傲慢で尊大であり、事実を受け入れることを望んでいないということを知らなければならない。だから、まずあなたがたが自らを省みた後、少しずつ教えていこう。行政の内容をよく理解し、神の性質を知るようにしなさい。そうでなければ、唇を閉じていることができず、いつまでも偉そうなことをまくしたてるだろうから。無意識の中に神の性質に逆らい、闇に落ち、聖霊と光とを失うことになる。あなたがたは、行いにおいて無原則だからだ。してはいけないことをし、言ってはいけないことを言うなら、相応の罰を受けることになる。あなたは言葉と行いにおいて無原則であっても、神はそのいずれにおいても、まことに原則がある。あなたが罰を受けるのは、人にではなく、神に背いたからだ。もし、あなたの人生で神の性質に背くようなことを幾度もしたのであれば、あなたは地獄の子ということになる。人間の目には、真理に沿わないことを少ししただけのことと見えるだろう。しかしながら、神の目からすると、あなたのためには、もう罪を贖う捧げ物がないのだということは、わかっているだろうか。あなたは行政に何度も背いていながら、悔い改めようとしなかった。そのため、地獄に落とされ、神の懲罰を受けるしかないのだ。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

今後の経験において、わたしが述べた事柄をあなた方が実行できることを願っている。神を無視したり、空気のようなものとみなしたりしてはならず、自分に都合の良い時だけ神が存在するような気がするが、それ以外の時は神が存在しないような気がするようであってはならない。あなたが、無意識のうちにそのように認識している場合、あなたは既に神を激怒させている。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

…この神の性質は、神の言葉でしばしば述べられている。あなたが神のためにどれほど多くの道を歩み、どれほど働き、どれほど堪え忍んできたとしても、あなたが神の性質を害すると、神はあなたに対し、あなたがしたことに応じて報いを与える。あなたは、この言葉を見たことがあるだろうか。(見たことがある。)見たことがあるであろう。これは、神が人間を神に親しい存在とみなしているかも知れないが、人間は神を友達や親戚のように扱ってはならないことを意味する。神を友達のように扱ってはならない。あなたが如何に多くの愛情を神から受けていたとしても、如何に多くの寛容さを与えられていたとしても、決して神を友達のように扱ってはならない。これが神の義なる性質である。…人間が神を害した場合、それは1回の行動あるいはひと言の発言が原因であるとは限らず、むしろその人間の態度や状態が原因である。これは極めて恐るべきことである。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身7」より

わたしの業は、人間の霊を救う業である。あなたの霊がサタンの掌中に陥ったならば、あなたの身体は平和な日々を送れないであろう。わたしがあなたの身体を護っているならば、あなたの霊は確実にわたしの庇護にあるであろう。わたしがあなたを本気で忌み嫌ったならば、あなたの身体と霊は、即座にサタンの掌中に陥るであろう。あなたは、そうなった場合の自分の状況を想像出来るだろうか。ある日わたしの言葉があなたがたに意味をなさなくなったならば、わたしはあなたがたを全てサタンに引き渡し、わたしの怒りが完全に無くなるまで2倍の苦悶を与えるか、あるいはわたし自らが、救いようのない人間であるあなたがたに懲罰を与える。なぜなら、あなたがたがわたしを裏切る心は変わらなかったからである。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より

わたしが挙げた要求は、すべてあなたがたが自分を検証するためのものである。あなたがた全員が、これらの問題を真剣に検討出来ること、そしてわたしをいい加減に取り扱わない事を期待している。わたしは近い将来、わたしの要求に対するあなたがたの回答を確認する。その時までは、あなたがたにそれ以上の物事を要求することは無く、またあなたがたに深刻な忠告をそれ以上述べることは無いであろう。そしてわたしは、自分の権威を行使する。残すべき者は残され、報いられるべき者は報いられ、サタンに引き渡されるべき者は、サタンに引き渡され、厳罰を受けるべき者は厳罰を受け、滅ぶべき者は滅ぼされるであろう。そのようにして、わたしの日にわたしを侵害する者は誰も居なくなるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より

人々は、些かといえどもわたしの存在を信じず、わたしの到来を歓迎もしない。人類はただ渋々とわたしの要求に応え、一時的にそれらの要求に合意する。彼らは人生の喜びや悲しみを心からわたしと共有したりしない。人々はわたしを不可解な存在と見るので、渋々わたしに微笑むふりをし、権力に擦り寄る姿をうっかり見せてしまう。これは、人々がわたしの働きについて、ましてや今日のわたしの意図について何の知識も持ち合わせないからである。わたしはあなた方すべてに正直に言う。その日が来ると、わたしを崇めるすべての人の苦しみは、あなた方の苦しみほどではないだろう。あなた方の信仰は実際、ヨブのそれを超えていない──ユダヤのパリサイ人の信仰ですら、あなた方の信仰を上回る──したがって、差し迫る、火で焼かれる日にあなた方は、イエスに非難される時にはパリサイ人達よりも多くの苦しみを受け、モーセに抵抗した250人のリーダーよりも多くの苦しみを受け、滅びのときに焼けるような炎の下に置かれたソドムよりも重い苦しみを受けるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

人々は、わたしの到来を喜ばず、わたしの栄光の日々を尊びもしない。彼らは、わたしの刑罰を喜んで受け入れることはなく、ましてやわたしの栄光をわたしに復させようなどとはせず、悪魔の毒を進んで投げ捨てようとすることもない。人々は常にわたしをだまし、いつでも明るい微笑と幸せそうな顔を装う。彼らはわたしの栄光が去った後に直面する暗闇の深さに気づかず、とりわけ、わたしの日が人類全体にやってくるとき、彼らの日々はノアの時代の人々のそれよりもなお一層厳しいことに気づいていない。なぜなら、彼らはわたしの栄光がイスラエルを去ったときの暗さがどれほどだったかを知らない。人は夜明けが訪れると、夜の真っ暗闇を通り抜けることがいかに厳しいかを忘れる。太陽が再び隠れ、夜の暗闇が人の上にのしかかるとき、彼は暗闇の中で再び、悲嘆にくれ歯ぎしりする。わたしの栄光がイスラエルから別れた時、イスラエルの人たちがその困難の中でどれほど苦しんだかを、あなた方は忘れたのか。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

無数の理由から―おそらく、時間が足りず、多忙を極めた仕事のスケジュールなどの理由で―わたしの性質により人がわたしのことを少しでも知るようにさせるには至らなかった。ゆえに、わたしの新しい計画、わたしの最後の働きへと前進して新しいページを開き、その結果、わたしを見る者たちはみな、わたしの存在のために胸をたたいて、とめどなく泣くだろう。わたしはこの世に人類の最後をもたらし、その後、わたしの性質をすべて人類に公布するからだ。そうして、わたしを知っている人たちもわたしを知らない人たちもすべて「喜んで見つめ」る。そして、確かに、わたしが人々の中に現れ、全てのものが増える地上に来たことを知るのである。これはわたしの計画であり、わたしの人類の創造以来、たったひとつの「告白」である。あなたがたにわたしの一挙一動を心から見つめて欲しいと願う。わたしの杖はもう一度、人類へと向けられ、わたしに敵対する者たちすべてに向けられるからだ。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

私のひと言で、宇宙の隅から隅まで全体が揺れ動く。誰が私の言葉を聞いて震撼せずにいられようか。誰が、私を畏れる心を抱かないであろうか。誰が、私の業から私の義と威厳を知り得ないであろうか。誰が、私の業において私の全能性と知恵を認めることが出来ずに居るであろうか。不注意な者は皆、確実に死ぬであろう。なぜなら、不注意な者は私を裏切る者であり、私を知らない者であり、最も残忍な大天使だからである。あなたがたは、自分自身を確認する必要がある。残忍であり、独善的で傲慢で自惚れた者は、私の嫌悪の対象であることは確実であり、滅びるであろう。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

神の働きは強く打ち寄せる大波のようなものである。誰も神を引き留めることはできないし、誰も神の歩みを停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め、渇望する人々だけ神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然の罰を受ける。

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

わたしの日が来たら、わたしは燃える炎を、かつてわたしを強烈に激怒させた不従順な者たちの上に永遠に雨あられとふりかけ、かつてわたしに悪口雑言を投げつけ、わたしを見捨てたあの獣たちに永続的懲罰を課し、かつてわたしと共に食べ、暮らしたがわたしの存在を信じず、わたしを侮辱し、裏切った不従順な息子たちを怒りの火でいつまでも焼くだろう。わたしはわたしの怒りを引き起こしたすべての人々に懲罰を与え、わたしの怒りのすべてを、かつてわたしと対等につきあうことを望んだにもかかわらずわたしを礼拝せず、従わなかった獣どもに雨あられとふりかける。わたしが人を打つ鞭は、かつてわたしの顧みや、わたしが話した奥義を楽しみ、わたしから物質的楽しみを引き出そうとしたあの獣たちを攻撃する。わたしはわたしの場所を取ろうとする者は誰も許さない。わたしから食べものや衣服を奪おうとする者は誰も容赦しない。今のところ、あなたがたは損害を免れており、相変わらず背伸びしてわたしに無理な要求をしようとしている。怒りの日が来たら、あなたがたはわたしにこれ以上要求はしないだろう。その時、わたしはあなたがたを心ゆくまで「楽しませ」、あなたがたの顔を地中に押し込もう。そうすれば二度と起き上がることができないだろう。遅かれ早かれ、わたしはこの負債をあなたがたに「返す」──そしてあなたがたが辛抱強くこの日の来るのを待つことを

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

(四)神安慰人方面的经典话语

(IV)人への神の慰めについての代表的な言葉

神の愛と憐れみが経営の働きの隅々に行き渡り、人間が神のよき意図を理解できるとできないとに関わらず、神は疲れを知らず成就しようとする働きを続ける。人々がどれほど神の経営を理解しているかに関わらず、神の働きの恩恵と助けがすべての人に理解される。おそらく、今日、あなたは、神に与えられた愛もいのちも何も感じていない。しかし、あなたが神を捨てない限り、真理を求めようという決意を諦めない限り、神の笑顔があなたの前に現される日は必ず来るだろう。神の経営の働きの目的は、サタンに堕落させられ、神に敵対する人間を見捨てず、サタンの支配下にある人間を取り戻すことなのだから。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

神の救済の神が救済の御働きをされている間、救われる人々はすべて、最大限まで救われ、誰も見捨てられない。神の御働きの目的は人を救うことだからである。神が人を救済している間、性質に変化を達成できないすべての人々、完全に神に従うことのできないすべての人々はみな罰の対象になる。この働きの段階――御言葉の働き――は人が理解しないすべての方法と神秘を人に明らかにし、人が神の御心と人に対する神の要求を理解できるようにし、彼らが神の御言葉を実践する条件を持ち、性質の変化を達成できるようにする。神は御働きを行うためにだけ言葉を使い、人々が少し反抗的でも彼らを罰しない。今は救済の時だからである。反抗的なすべての人が罰せられたら、誰も救われる機会がないだろう。彼らはみな罰せられ黄泉の国に落ちるだろう。人を裁く御言葉の目的は、人々に自分自身を知り、神に従うようにすることである。御言葉の裁きによって彼らを罰することではない。……言葉の征服を受け入れた一人ひとりには救済の機会が豊富にあるだろう。これらの人々それぞれに対する神の救済は彼らに神の最大限の慈悲深さを示す、つまり、彼らには最大限の寛容さが示される。人々が間違った道から後戻りする限り、彼らが悔やむことができる限り、神は彼らに神の御救済を受ける機会を与える。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

現在において、神はあなたがたを完全にすることを真に望んでおり、それは話だけの事では無い。今後あなたがたにどのような試練が降りかかるか、何が起こるか、どのような災いが降りかかるかを問わず、神はあなたがたを完全にすることを望んでいる。これは絶対的であり、疑う余地のない事実である。それは、どのようにして理解できるであろうか。それは、様々な時代と世代の間における神の言葉は、嘗て現在ほどの高水準に達したことが無い、という事実から理解できる。神の言葉は最高領域に入っており、全ての人間に対する聖霊の現下の業もまた前例が無い。従来の世代の者で、こうした状態を経験した者は、まず存在しないであろう。イエスの時代でさえも、現在のような黙示は無かった。あなたがたに対して述べられた言葉や、あなたがたが理解している物事、あなたがたが経験する物事が、極めて高水準に達している。あなたがたは試練や罰の最中に立ち去ることが無いが、そのことは、神の業が嘗て無い輝かしさに到達していることを証明するに十分である。これは人間が為し得る事でも、人間が維持している事でもなく、神自身の業である。したがって、神の業に関する多くの事実から、神が人間を完全にすることを望み、神があなたがたを完全にすることが出来ることは確実であることを理解できる。あなたがたが、このことを知り、この新たな発見を実現することが出来るのであれば、あなたがたはイエスの2度目の降臨を待つことなく、今の時代において神が自分を完全にすることを許すであろう。したがって、あなたがたは、自分が神により完全にされるために、それぞれ出来る限りを尽くし、努力を一切怠らないようにすべきである。

『言葉は肉において現れる』の「皆が自らの役割を果たすことについて」より

現在の流れにおいて、神により完全にされる機会は、神を真に愛する者各人にある。そうした者は、若いか年老いているかを問わず、神に対する従順さと敬愛がその者の心にある限り、神により完全にされることが可能であろう。神は、各人の様々な役割に従って、人間を完全にする。あなたがたは、全力を尽くし、神の業に服従する限りにおいて、神により完全にされることが出来るであろう。現時点において、あなたがたのうち完全な者は一人も居ない。あなたがたは、1種類の役割を果たすことが出来る時と、2種類の役割を果たすことが出来る時がある。あなたがたが神のために全力を尽くし、神のために自らを費やす限りにおいて、最終的にあなたがたは神により完全にされるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「皆が自らの役割を果たすことについて」より

私の言葉を読み、それが満たされると信じた者は、祝福されている。なぜなら、私はそうした者を虐げることは無く、そうした者が信じている物事で、そうした者を満たすからである。私の恵みは、このようにしてあなたがたに与えられる。私の言葉は、あらゆる者に隠されている秘密を打つ。全ての者が致命傷を負っているが、私はそれを癒やす優れた医者であるから、私の所へ来るがよい。将来は悲しみや涙が一切無くなるであろう、と私が言ったのは何故だろうか。それは、このためである。私の中では全てが実現されるが、人間の中では全てが堕落しており、無益であり、その全てが人間にとって偽りである。あなたがたは、私の前であらゆる物を受け取り、あなたがたの従来の想像を絶する恵みの全てを見て、受け取るであろう。私の前に来ない者が反逆的な者であり、私を拒む者であることは確実である。私は、そうした者を決して容易には赦さず、厳しく罰するであろう。それを覚えておくように。私の前に一層来る者は、一層多くを得るが、それは恵みでしかないであろう。その後、そうした者は一層大いなる恵みを得るであろう。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私の声を聞いた兄弟姉妹すべてに言っておくが、あなたがたは私の厳格な裁きの声を聞き、極度の苦難を受けてきた。しかし、あなたがたは、私の厳しい言葉の背後には、私の旨が隠されていることを知る必要がある。私は、あなたがたが救われることが出来るように、あなたがたを鍛錬している。私の愛する息子のため、私があなたがたを鍛錬し、剪定して、間も無く完全にするであろうことを、あなたがたは知る必要がある。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

今回は、神が来られて人間を打たれず、むしろ人間を最大限に救われるために来られる。一体誰が一切過ちを犯さないだろうか。皆打たれるならば、どうしてそれを救いと呼べるだろうか。罪には、故意におかされたものと、意図せずおかされたものがある。意図せずにした事は、気付いてから変えることができる。それならば、神は自分が変わる前に自分を打たれるであろうか。」と推測する。神はこのようにして人間を救われるか、というと、決してそうではない。あなたがたが意図せず罪をおかすか、反抗的な本性ゆえに罪をおかすかを問わず、現実に早く目覚めなければならない、ということを覚えておくように。先へ進む努力をするように。状況を問わず、あなたがたは先へ進む努力をする必要がある。神は人間を救うために御業を行われ、神が救いたいと望まれている人間を出鱈目に打たれることは無い。

『キリストの言葉の記録』の「神の御旨は人間を最大限に救うことである」より

否定性の真っ只中に居る者も存在するが、そうした者でさえも、依然として自分の本分における「結末の如何を問わず、神に対して最後まで忠信なる」姿勢を維持することが出来る。私はこれが変化であると述べて居るが、あなたがたは自分自身でそれに気付いていない。事実、自分自身を入念に検討すると、自分の腐敗した性情の一部が既に変化したことが分かるであろう。しかし、自分自身を評価する際に、常に最高の基準を採用している場合、そうした最高基準に到達出来ないのみならず、自分自身の内部で行った変更でさえもまた否定されるであろう。これは人的な過誤である。真に善悪を区別できる者であれば、自分自身の内部における変化を自認しても危害は無く、自らの変化を理解できるだけでなく、それ以上に実践すべき将来の道を見いだすことが出来るであろう。その時、自分が熱心に努力する限り、自分には希望があること、贖われる可能性が皆無ではない事が分かるであろう。ここで言っておくが、自分の問題点を正確に見ることが出来る者には、希望があり、そうした者は否定性から脱却可能である。

『キリストの言葉の記録』の「自分自身を正確に見ること、そして真理を断念しないこと」より

わたしは、あなたがたのなかに、神に無視され、神に見捨てられたように感じる者がいることを望まない。わたしは、あなたがた全員が真理と神の理解を追求し、揺るがぬ意志で、不安や負担なく、勇気を持って前進することを望む。あなたがこれまでどのような過ちを犯したとしても、どれほど大きく道を外れたとしても、どれほど神に背いたとしても、そうしたことが神の理解を追求する上で負担や重荷とならないようにすること。先へ進んでゆくことである。それが何時起こるかを問わず、人間の救いである神の心は決して変わらない。それが神の本質のなかで最も尊い部分である。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身6」より

志を失ったり、弱くなったりしてはならない。私はあなたがたに示すであろう。国への道は、それほど平易ではなく、それほど単純な物事は無い。あなたがたは、恵みを容易に授かることを望んでいるであろう。現在、あらゆる者が辛い裁きに直面するであろう。さもなければ、あなたがたが私を愛する心は強くならず、あなたがたは私に対する真の愛を抱かないであろう。それが些細な状況であったとしても、あらゆる者がそれを経験する必要がある。単に、そうした状況には、ある程度の差異がある、ということだけである。そうした状況は私の恵みのひとつである。私の前に跪き、私の恵みを求める者は、何人居るであろうか。愚かな子供達よ。あなたがたは、数件の幸運な言葉を私の恵みであるとみなすが、辛苦を私の恵みのひとつであるとは感じない。私と辛苦を共にする者は、私と快楽を共にすることは確実である。それが私の約束であり、あなたがたに対する私の恵みである。食べ飲みして授かることを躊躇してはならない。闇が去ると、光が来る。夜明け前が最も暗いが、その後次第に明るくなってから太陽が昇る。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」誰でもこの言葉を耳にしたことがあるだろうが、その言葉の真意を理解した者はいない。今日あなたがたは、この言葉の真の意味をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものだ。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害を受けている。ゆえにこれらの言葉は、あなたがた一団の身に実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、すべての神の働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。ゆえに、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。神にとって赤い大きな竜の地で自分の働きを実行することは非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を実行し、自分の知恵と素晴らしい業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一団の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこの汚された地における人々のすべてのサタン的な性質がゆえに、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、その業の証人となる人々を手にするのだ。これが、神がこの一団の人々に行った全ての犠牲に関する完全な意義だ。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より

人間がどの側面で苦難を受け、挫折すべきかは、神により運命づけられ、人間自身の要求に基づいていない。これは絶対的に正しい。あらゆる信者は神の御言葉の試練を経験し、神の御言葉の中で苦難を受ける能力がある。そのことは、あなたがたが明瞭に理解できる事柄であろうか。したがって、あなたがたが経験した苦難は、現在の祝福に引き換えられており、神のために苦難を受けていない場合、あなたがたは神の讃美を得られない。あなたがたは、嘗て不平を言ったかも知れないが、いくら不平を言ったとしても、神はあなたがたに関して、そのことを覚えていない。今日という日が来たのであれば、昨日の問題を検討する理由は無い。

『言葉は肉において現れる』の「神に対する本当の愛は自発的なものである」より

あなたがたが、私の前に自らの心を置くよう最大限に努めたならば、私はあなたがたを癒やし、あなたがたの心の平安と幸福を与える。あなたがたは、人間の許可を求めてはならない。私を満足させることの方が大切かつ重要ではなかろうか。あなたがたは、私を満足させることで、永遠の平安と幸福、したがって一生涯にわたる平安と幸福を一層多く得ることが出来るのではなかろうか。あなたがたの前にある苦難は、あなたがたの将来における恵みがどれほど大いなるものであるかを示して居る。それは筆舌に尽くせないものである。あなたがたは、私がどれほどの恵みをあなたがたに与えるかを知らず、それを夢見ることさえ出来ないであろう。現在、その恵みが、まさに現実となりつつある。それは、それほど遠い将来では無いが、あなたがたにはそれが見えるであろうか。それは、ひとつ残らず私の中にあるのであるから、なんと先行きが明るいことであろうか。あなたがたは、涙をぬぐい去り、痛みや悲しみを感じない。全てが私の掌中にある。私の目標は、あなたがたを近いうちに克服者にすること、そしてあなたがたを私と共に栄光へと導くことである。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私は、私達が神の愛に報いるべき時が来た、と考えている。私達は神への信仰の道を歩んで来たため、多くの嘲笑、罵倒、迫害の対象となっているが、私はそれが有意義なことだと考える。それは栄誉ある事であり、恥ではなく、私達が享受している祝福は甚大である。落胆することは数え切れないほど多いが、そうした時、神の御言葉が安らぎをもたらし、いつの間にか悲しみが喜びに変わっている。何かに事欠くことは数え切れないほど多いが、そうした時、私達は神の御言葉により恵みを授かってきた。病に伏すことは数え切れないほど多いが、そうした時、神の御言葉がいのちをもたらし、私達は危険から安全へと逃れてきた。あなたがたは、気付かぬうちに、こうした極めて多くの物事を既に享受してきた。あなたがたは、そうした物事を覚えていないことがあろうか。

『言葉は肉において現れる』の「道(2)」より

人が神を得ることができないのは、神が感情を持っているからでも、神が人に得られるのを好まないからでもなく、人が神を得たくないからであり、人が緊急に神を探し求めていないからである。本当に神を探し求める人がどうして神に呪われるだろうか。健全な理知と繊細な良心を持つ人がどうして神に呪われるだろうか。本当に神を礼拝し、仕える人がどうして神の怒りの火によって破壊されるだろうか。喜んで神に従う人がどうして神の家から追放されるだろうか。神をどれほど愛しても愛しきれない人がどうして神の懲罰の中で生きることになろうか。喜んですべてを神のために断念する人がどうして無一文な状態になるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

水が人間をそっくり呑み込むと、わたしは淀んだ水から救い出し、新たに生きる機会を与える。人間が生きる自信を失うと、死の瀬戸際から引き戻し、生きる勇気を与え、わたしを存在の基礎とするようにする。人間がわたしに不服従であるとき、わたしはその不服従の中でわたしを知るように仕向ける。人間の古い本質を考慮し、わたしの哀れみにより、人間を殺すよりは、悔い改めて新たに始めさせる。人間が飢饉に苦しむと、一息でも残っていれば、わたしは彼らを死から奪い、サタンの罠に陥らないようにする。何度、人々はわたしの手を見ただろう。何度、人々はわたしの親切な顔、笑顔を見、何度、わたしの威厳、わたしの憤りを見ただろう。人間は、けっしてわたしを知らないのだが、わたしは彼らの欠点につけ込んで無用な厄介事を引き起こしはしない。人間の困難を経験したため、わたしは人間の弱点に同情する。人間の不服従、忘恩に対してだけ、わたしは程度に応じて罰を下す。

『言葉は肉において現れる』の「十四番目の言葉」より

全能者は、深い悲しみの中にあるこのような人々に慈しみを抱く。同時に、神は何の自覚もしていないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、神は人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならないからである。神は探したいと、あなたの心や霊を探したいと、願っている。神は、あなたに食べ物や水をもってきたい、あなたを目覚めさせたいと思っている――そうしてもはやあなたが渇きを感じないように、もはや空腹でなくなるように。あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。彼はあなたのそばで見守っている、あなたが引き返してくるのを待っている。あなたの記憶が突然回復する日を待っている――すなわち、あなたが神から来たという事実、ともかくもどこかで道を失った、道端で気を失った、それから知らずに一人の「父」ができたことが意識にのぼる日を。そして全能者がそこで待っていたということ、はじめからずっとあなたが返ってくることを待っていたということを、あなたが理解することを。全能者は苦しげに切望している、そして答えのない応答を待っている。全能者が見守ることはきわめて貴重であり、人間の心や霊に対するものである。おそらくこの見守りは無期限であり、そしておそらくそれは終わりの段階にある。しかし、あなたは、あなたの心や霊が今、本当のところ、どこにあるのかを知るべきだ。

『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より

神の愛は泉の水のように溢れ出て、あなたや私や他の誰かに、そして真理を求め、神の出現を待ち望む全ての人に与えられる。

月がいつも太陽を追いかけているように、神の働きは決して止むことはなく、あなたや私や他の誰かの上に、そして神の足跡に従い、神の裁きと刑罰を受け入れる全ての人に対して行われる。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より