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IV. 神の働きの三段階と神の名の関係

1. なぜ神は異なる時代に異なる名前をもち、神の名の背後にある意味は何か

関連する神の言葉

「神は私たちと共におられる」というイエスの名は神の性質の全体を表すことができるであろうか。それは神をはっきりと表現することができるであろうか。もし人が神はイエスとだけ呼ばれ、神はその性質を変えることができないので、他の名前を持つことはないと言うなら、そのような言葉は神への冒涜である。あなたがたは、「神は共におられる」というイエスの名が神の全体を表すことができると信じてるのだろうか。神は多くの名前で呼ばれることができるが、それらの多くの名前の中に、神がもっているすべてを要約できる名前はひとつとしてなく、神を完全に表すことができる名前はひとつもない。そして神は多くの名前を持っているが、これらの多くの名が神の性質を余すところ無く明確に表現することはできない。というのは神の性質はあまりにも豊かで、人の認識をはるかに越えているからである。人間の言語は、神を余すところ無く要約することができない。神の性質について人間が知っていることすべてを要約するには、人間には限られた語彙しかない。偉大な、りっぱな、驚くべき、計り知れない、至高の、聖なる、義なる、知恵に満ちたなど、言葉が多すぎる。このように限られた語彙では、人間が神の性質に関して目の当たりにしたことのほんの少しでも記述することは不可能である。もっと最近になって、多くの人々が心の中の熱情をもっと上手に記述しようと、さらに言葉を追加した。神は偉大すぎる。神は神聖すぎる。神は美しすぎる。今日、このように言うことはその頂点に達しているが、それでも人間は神を明確に表現できずにいる。だから、人間にとって神には多くの名前があるが、神には名前がない。これは神の存在はあまりに豊富で、人間の言語は不十分すぎるからである。ひとつの特定の言葉あるいは名前では神のすべてを表すにはあまりにも不十分である。では神はひとつの決まった名前を持つことができるだろうか。神はあまりにも偉大で聖であるのに、なぜ神がそれぞれの新しい時代に名前を変えてはいけないのか。それだから、神が自ら働きを行なうそれぞれの時代に、神が行なう働きを要約するその時代に合った名前を用いるのである。神はその時代における神の性質を表すために、その時代の意義を反映する特定の名前を用いる。神は自身の性質を表現するために人間の言葉を用いる。それでも、霊的な体験をし神をじかに見たことのある多くの人々が、ひとつの特定の名前が神のすべてを表現することはできないといまだに感じている。これはなんと残念なことであろうか。それで人間は神を名前で呼ぶことはなく、ただ「神」と呼ぶのである。人間の心は愛であふれているようでありながら、それはまた矛盾に悩まされているようでもある。人間は神をいかに説明するべきかが分からないからである。神であるものは豊かすぎて、それを表現する方法などどうしても存在しないのである。神の性質を要約できるひとつの名前はなく、神がもつもの、神であるもののすべてを表現できるひとつの名前もないのである。もしも誰かがわたしに「正確には何という名前を使いますか」と尋ねるならば、こう言うであろう。「神は神である。」これこそが神にとって最良の名前ではないのか。神の性質の最高の要約ではないのか。神の名を求めてなぜそんなに骨をおるのか。名前のことで寝食を忘れて、なぜそこまで熱心に考えるのか。神がヤーウェ、イエス、メシヤと呼ばれない日がやって来るだろう――神はただ創造主と呼ばれるであろう。その時、神が地上で呼ばれたすべての名前は終わりを迎える。というのは神の地上での働きは終わり、その後神は名前を持たなくなるからである。すべての物が創造主の支配下に入るときに、何故神を適切ではあるが不完全な名前で呼ぶのか。今も神の名を求めているのか。未だに神はヤーウェとしか呼ばれないと敢えて言うのであろうか。未だに神はイエスとしか呼ばれないと敢えて言うのであろうか。神を冒涜する罪を負うことができるのか。神は本来どんな名前も持たなかったということを知るべきである。神にはするべき働きがあり、人類を経営しなければならなかったので、一、二の、あるいは多くの名前を持っただけであった。どのような名で呼ばれるにしても、それは神自身が自由に選んだのではないだろうか。神はそれを決めるのに被造物を必要とするだろうか。神が呼ばれる名前は人が理解できること、人の言葉にそったものであるが、その名前は人によって要約されることはできない。ただ天には神がいて、それは神と呼ばれ、それは偉大な力を持った神であり、あまりにも知恵があり、あまりにも崇められ、あまりにも素晴らしく、あまりにも神秘的で、あまりにも全能で、そしてそれ以上言うことはない。それがあなたが知っていることのすべてである。このように、イエスの名だけで神を表すことができるだろうか。終わりの日が来ると、神の働きは依然として神が行なうが、時代が異なるので神の名は変わらなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

神の名は変わらないという人たちがいる。ではなぜヤーウェという名前がイエスになったのか。メシアの到来についての預言はあるが、ではなぜイエスという名の人が来たのか。なぜ神の名は変ったのか。そのような働きはずっと以前に実行されなかったか。神は今日新しい働きをすることはできないのか。昨日の働きは変えることができ、イエスの働きはヤーウェの働きから続いて起こることができる。ではイエスの働きを別の働きが継承することはできないのか。ヤーウェの名前をイエスに変えることができるなら、イエスの名前も変えることはできないのか。これは特異なことではなく、人々がそう考えるのは[a]ひとえに彼らの短絡思考のせいである。神はつねに神であり、神の働きや名前が変化しようとも、その性質や知恵は永遠に変わらない。神はイエスという名前でしか呼ぶことはできないと信じているならば、あなたはあまりに無知である。イエスが永遠に神の名前であり、神は永遠に、そしてつねにイエスという名前で知られており、これは決して変わることはないとあえて断言するのか。律法の時代を終わらせたのはイエスの名前であり、最後の時代を終わらせるのもそうであると確信をもって断言するのか。イエスの恵みが最後の時代を終わらせることができると誰が言えるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

もしどの段階においても神の働きが常に同じで、神がいつも同じ名前で呼ばれるなら、人はどのように神を知るのだろうか。神はヤーウェと呼ばれなければならず、ヤーウェと呼ばれる神以外に、他の名前で呼ばれるものは神ではない。あるいは神はイエスとだけ呼ばれ、神がイエス以外の他の名で呼ばれることはない。イエス以外では、ヤーウェは神ではなく、全能神も神ではない。人は神が全能であると信じているが、神は人とともにいる神である。神は人とともにいるから、イエスと呼ばれなければならない。こうすることは教義に従い、神をある範囲に束縛することである。神がそれぞれの時代に行なう働き、神が呼ばれる名前、神が持つ姿、今日までの神の働きのそれぞれの段階などは、ひとつの規律に従うことはないし、いかなる束縛にさらされることもない。神はヤーウェであり、しかしイエスでもあり、メシヤ、全能神でもある。神の働きは徐々に変わることができ、それにあわせて神の名にも変化がある。どのひとつの名も神を完全に表すことはできず、神が呼ばれるすべての名が神を表すことができ、神がそれぞれの時代に行なう働きが神の性質を表している。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

それぞれの時代で、神は新しい働きを行い、新しい名前で呼ばれる。どうして神が異なった時代に同じ働きをすることができるのか。どうして神が古いものにしがみついていることがありえようか。イエスの名は贖いの働きのために使われたが、それならば終わりの日にイエスが再臨するとき依然として同じ名前で呼ばれるであろうか。イエスはまだ贖いの働きをするのであろうか。なぜヤーウェとイエスはひとつであるのに、違う時代には異なる名前で呼ばれるのか。それは働きの時代が違うからではないのか。ひとつの名前で神全体を現わすことができるのだろうか。この様に、神は違う時代には異なる名前で呼ばれなければならない。そして時代を変え時代を現わす名前を用いなければならない。なぜなら、ひとつの名前だけで神を完全に表すことはできないからである。そしてそれぞれの名前はある時代の神の性質を表すだけで、神の働きを表すためだけに必要である。よって、神は時代全体を表すために、どんな名前であれ神の性質に合う名前を選ぶことができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

イエスが行った働きはイエスの名を表し、恵みの時代を代表した。ヤーウェによってなされた働きはヤーウェを表し、律法の時代を代表した。それらの働きはひとつの霊による二つの異なる時代における働きであった。イエスが行った働きは恵みの時代だけを代表することができ、ヤーウェが行った働きは旧約聖書の律法の時代だけを代表することができた。ヤーウェはイスラエルとエジプトの民を導き、そしてイスラエルを越えるあらゆる国々を導いただけであった。新約聖書の恵みの時代のイエスの働きは、イエスがその時代を導く中でのイエスの名による神の働きであった。…それらは二つの違った名前で呼ばれたが、二つの段階の働きはひとつの霊によって行なわれ、第二の働きは第一の働きの続きであった。名前が違い、働きの内容も違っていたように、時代も違った。ヤーウェが来たときは、それはヤーウェの時代で、イエスが来たときは、それはイエスの時代であった。だから神が来るときはそのたびに神はひとつの名で呼ばれ、神はひとつの時代を表し、新しい道を開く。それぞれの新しい道で神は新しい名前を持ち、それは神は常に新しく、決して古くないということと、神の働きは常に前進していることを示すのである。歴史は常に前進しており、神の働きは常に前進している。神の六千年の経営計画が終わりに達するためには、前進し続けなければならない。毎日、神は新しい働きを行なわなければならず、毎年、神は新しい働きを行なわなければならない。神は新しい道を開き、新しい時代を始め、新しくさらに偉大な働きを始め、そして新しい名前と新しい働きをもたらさなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしであるすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、力ある全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

脚注

a.原文では「人々がそう考えるのは」が省略されている。

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