終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)

目次

唯一の神自身 9

神は万物の生命の源である (3)

一定期間にわたって、神を知ることに関する様々な事項について話をしているが、最近は神を知るという主題に関して極めて重要な事項、すなわち、「神は万物の生命の源である」について話をした。前回は神が人間のために造った生存環境と、神が人間の生活必需品を全て用意していることについて、それらの側面数件に関する話をした。実際のところ、神の業は、人間の生存環境を用意することや、日常の生活必需品を用意することだけでなく、人間の生存と生活に必要とされる多数の神秘的かつ必要な業の様々な側面を完了するためのものであった。これらは全て神の業である。これらの神の業は、人間の生存環境や人間の日常的な必需品を用意することに限らず、業の範囲は、それよりも遥かに広い。これら2種類の業のほか、神は人間の生活に必要とされる数多くの環境と条件も用意した。これが、本日話をする新しい事項であるが、この事項も神の業に関連するものである。そうでなければ、ここで話をしても無意味である。人間が神を知ることを望んでいても、「神」という言葉、あるいは神が持っているものや神が何であるかのあらゆる側面に関する文献的、教義的な認識しか無かったとしたら、それは真の認識ではない。それでは、神に関する認識を得る方法とは、どのようなものであろうか。それは、神の業から神を知り、神のあらゆる側面を知ることである。そこで、次に神の万物創造時における神の業について話をする。

神が万物を造って以来、神が定めた律法に基づき、万物は機能を続け、常に発展してきた。神に見守られ、神に支配されて、万物は人間の生存とともに常に発展し続けて来た。いかなる物も、これらの律法を変えたり破壊したり出来ない。あらゆる生き物が増殖できるのは、神による支配があるからであり、あらゆる生き物が生存できるのは、神の支配と管理があるからである。つまり、神の支配下においては、あらゆる生き物が規則正しく現れ、繁栄し、消滅し、復活する、ということである。春になると降り注ぐ雨が春特有の感覚をもたらし、地を潤す。地では雪解けが始まり、草が土の中から芽吹き、木々も次第に緑色へと変わる。こうした生き物全てが、地に新鮮な活力をもたらす。これが、あらゆる生き物が現れて繁栄している光景である。様々な動物も巣穴から出て春の温もりを感じ、新しい年を始める。全ての生き物が夏の暑さのなかで日差しを浴び、夏の温かさを楽しむ。様々な草木や植物は急速に生長し、花を咲かせて実を結ぶ。夏は、人間を含めて全ての生き物が活発である。秋には雨が涼しさをもたらし、様々な生き物が刈り入れの時期を迎える。あらゆる生き物が実を結び、こうした生き物が秋の実りを迎えるので、人間もまた冬の食料を準備するために刈り入れを始める。冬になると、全ての生き物が寒さの中で次第に休息し始め、静寂が訪れ、人間もまた休息して冬を過ごす。こうした春夏秋冬の移り変わりは、すべて神が定めた律法により行われる。神はこの律法によりあらゆる生き物と人間を導き、人間のために豊かで色彩に富んだ生活形態を設け、様々な気温と季節のある生存環境を用意した。こうした規律ある生存環境では、人間の規律ある生存と繁殖も可能となる。人間はこの律法を変えることができず、この律法に反することが出来る者は皆無である。この世にどれほど大規模な変革があろうと、これらの律法は存続する。なぜなら、これらの律法が存在するのは、神が存在するからである。その理由は、神の支配と管理である。この種の秩序ある、より広範な環境の中で、人間の生活は、そうした律法と規則の中で進歩する。これらの律法により何世代もの人間が培われ、また何世代もの人間がこれらの律法の中で生存してきた。人間は、何世代にもわたり、神が造った物事と秩序ある環境を享受してきた。人間がこれらの律法を元来のものであると感じたり、それを完全に軽視していたり、あるいはそれが神により指揮されている、支配されていると感じることが出来なかったとしても、いかなる場合も、神は常にこの変わることの無い業を常に行っている。こうした変わらない業における神の目的は、人間の生存と、人間が存続することが出来るようにすることである。

1.神は人類全体を育むために万物の境界を定めている

本日は、こうした神が人間と万物に与えた律法により、どのようにして人類が育まれているかについて話をする。それでは、この主題はどのようなものであろうか。この主題は、こうした神が万物に対して与えた律法が、どのようにして人間を育んでいるか、ということである。これは極めて大きな主題なので、いくつかの部分に分け、それらの各部分をあなたがたに分かりやすく説明するため、ひとつずつ話をする。この方法であれば、あなたがたにとって把握しやすくなり、徐々に理解できるであろう。

まず、神は、万物創造時に、山、平野、砂漠、丘、河川、湖沼の境界を定めた。地上には山、平野、砂漠、丘、そして様々な水域が存在するが、これらは何であろうか。これらは地形ではなかろうか。神は、様々な地形全ての間に、境界を定めた。境界の設定といった場合、それは何を意味するだろうか。それは、山や平野、砂漠、丘にはそれぞれ領域、範囲ないし一定の面積がある。さらに、河川や湖沼などの水域にも一定の水量がある。つまり、神が万物を造った時、神は全てを明確に分割した。神は、ある山の半径が何キロメートルであるか、その範囲はどのようなものかを、既に決めていた。また神は、ある平野の半径が何キロメートルであるか、その範囲はどのようなものかも決めていた。様々な物を造った時も、神は砂漠の範囲、丘の範囲やその割合、そしてそれらの境界が何により定められるかなどの事柄を、全て決めていた。神は、河川や湖沼を造った時に、それらの範囲を決めた。それらの物には、全て境界が存在する。それでは「境界」とは何を意味するであろうか。つい先ほど、万物に対する律法が、いかにして万物に対する神の支配により定められているかに関して話をした。たとえば、山の範囲と境界は地球の回転や時間の経過により広がることも狭くなることも無い。山の範囲と境界は固定されている。この「固定されている」というのが神の支配である。平野に関する範囲や、何がその境界となっているかについては、神により固定されている。平野には境界があり、平野の中央に、勝手に土が盛り上がることは無い。突如として平野が山になることは無い。ここで言う律法と境界は、このことを指す。砂漠に関しては、その役割や地形、位置などについては、ここでは話をせず、境界のみについて話をする。神の支配の下では、砂漠の範囲もまた拡大することは無い。なぜなら、神は砂漠にその律法と範囲を与えたからである。砂漠の面積、役割、砂漠の境界にある物、所在地などは、神によって既に定められている。砂漠はその範囲を超えることも、移動することも、勝手に面積が広がることも無い。河川や湖沼の水流には秩序があり、水流は継続しているものの、河川や湖沼の水はその範囲から出たり、境界を越えたりすることは、嘗て無かった。河川や湖沼は、すべて秩序をもって、それぞれ流れるべき単一の方向に流れている。神の支配の律法下において、勝手に干上がったり、あるいは地球の回転や時間の経過が原因で方向を変えたり、流量を変えたりする河川や湖沼は存在しない。こうした事柄は、全て神が掌握しており、神の支配下にある。つまり、神によって造られ、人間の世界にある万物には、それぞれ固定された場所、地域、そして範囲がある。すなわち、神が万物を造った時に、万物の境界が定められ、その境界は勝手に変えたり、更新したり出来ない。ここで「勝手に」、とは何を意味するであろうか。それは、天候や気温、地球の回転速度などが原因で、こうした境界がやみくもに移動したり、拡大したり、変形したりすることは無い、ということである。ある山を例に挙げると、その山には、特定の高さ、特定の裾野の面積、特定の標高、特定の植生がある。これは全て神により計画され、計算されたものであり、高さや面積は勝手に変わることが無い。平野については、人類の大部分が平野に住んでおり、気候の変化により平野の面積やその存在価値が変わることは無い。こうした様々な地形や地理環境に含まれている物事は神が造ったものであり、そうした物事でさえも、勝手に変わることは無い。たとえば、砂漠の構成要素、その下にある鉱床の種類、砂漠の砂の量、色、厚さなどは、勝手に変わることが無い。こうした物事が勝手に変わらないのは、何故であろうか。その理由は、神の支配と管理である。こうした神が造った様々な地形や地理的環境の中では、あらゆる物事を、計画された秩序ある方法で神が管理している。そうしたわけで、これら全ての地理的環境は、それを神が造ってから数千年、数万年後の現在も依然として存在する。こうした地理的環境は、依然としてそれぞれの役割を果たしている。ある期間に火山が噴火したり、地震が発生したり、地面が大きく動くことがあるが、それでもなお神は地形がその機能を喪失することを許さない。人間が享受し、見ることのできるこれら全てが地球上で秩序をもって存在することができるのは、ひとえにこのような神の管理とそれらのものに対する神の支配、そして律法を掌握しているからである。それでは、神はなぜ、地上にある全ての地形を、このような方法で管理するのであろうか。その目的は、様々な地理的環境で生存している生き物全てが安定した環境を得られること、それらの生き物全てが安定した環境の中で継続して生活し、増えることが出来るようにすることである。移動出来るものと出来ないもの、鼻孔で呼吸するものとそうでないものなど、こうした全ての生き物が、人間の生存のための、独自の環境を構成している。何世代にもわたって人間を育むことが可能であり、また人間が何世代にもわたり継続して平和に生存することが出来るのは、こうした環境のみである。

今わたしが話した事から分かったことは何であろうか。神の万物支配における神の律法は、極めて重要である、ということである。この律法に従って育つ全ての生き物の前提条件は何であろうか。その前提条件は、神による支配である。全ての生き物がこの支配に従って、それぞれの役割を果たしているのは、神の支配があるからである。たとえば、山は森を育む。そして森はその森に棲む様々な鳥や獣を育み、守る。平野は人間が作物を栽培するために用意された場所であり、また様々な鳥や獣のために用意された場所でもある。平野では、大部分の人間が平らな地面で生活することができるので、人間生活に便宜がもたらされる。また、平野には、広大な草原が含まれる。草原は地球の植生である。草原は土を守り、草原に棲む牛、羊、馬を育む。砂漠もまた、その役割を果たす。砂漠は人間の住む場所では無く、その役割は多湿な気候を乾燥させることである。河川や湖沼の水流は、人間の飲料水として便利であり、またあらゆる生き物の水の需要のために存在する。人間は、水が流れている所であれば、どこでも飲料水を得ることができる。様々な地形に対して神が定めた境界は、こうしたものである。こうした神が定めた境界のため、様々な地形により様々な生存環境があり、そうした生存環境は様々な鳥や獣にとって好都合であり、鳥や獣に生存空間を与える。このようにして、様々な生き物の生存環境の境界が発展した。次に話をするのは、このことである。

次に、鳥や獣、昆虫が棲息する環境は、どのようなものであろうか。神は、様々な地理的環境を定めたほか、様々な鳥、獣、魚、昆虫、植物の境界も定めた。また、神は律法も定めた。様々な地理的環境の差異、そして様々な地理的環境が存在することが原因で、様々な鳥、獣、魚、昆虫、植物には、それぞれ異なる生存環境がある。鳥、獣、昆虫は、様々な植物の中で生活し、魚は水中で生活し、植物は地面の中で育つ。地面にはどのような種類があるだろうか。地面には、山、平野、丘陵など様々なものがある。そうしたわけで、鳥と獣はそれぞれに固有の生息地域があり、あらゆる場所を彷徨うことは無い。鳥獣の生息地域は森林と山である。もし、いつか鳥獣の生息地が破壊されるとしたら、この秩序が乱れ、混乱するであろう。この秩序が乱されて混乱した場合、どのような悪影響が即座に現れるであろうか。最初に被害を受けるのは、何であろうか。(人間である。)それは人間である。こうした神が定めた律法と制限の範囲内において、何かしら異常な現象を見た事があるだろうか。たとえば、砂漠を何気なく徘徊している象を見た事があるだろうか。もし見た事がある場合、それは極めて異常な現象である。なぜなら、象の棲息環境は森林であり、神が象の棲息と生存のために用意した環境は、森林だからである。象には固有の棲息環境と決められた固有の棲息地があるのに、なぜそこを離れて彷徨っているのだろうか。ライオンや虎が海の近くを彷徨っているのを見た事がある者は居るであろうか。ライオンや虎の生息地は森林と山である。海の鯨やサメが砂漠に居るのを見た事がある者は居るであろうか。鯨やサメは海を棲息地とし、陸上に棲むことは絶対不可能である。人間の生活環境において、ヒグマと共に生活している人々が居るであろうか。自宅の室内や室外が常にクジャクその他の鳥たちで溢れている中で生活している人間が居るだろうか。森林の中で牛や羊を見た事のある物は居るであろうか。鷹やガンが、サルと戯れているのを見た事がある者は居るだろうか。もしこのような状況を見たことがあるとすれば、それは全て異常現象である。こうした奇妙に見える現象について話をしている理由は、1か所に固定されているか、呼吸して歩くことが出来るか如何を問わず、神が造った万物には、すべて生存のための律法が存在するということを、あなたがたに理解してもらうためである。神がこれらの生き物を造る遥か以前に、神はそれらの生き物のための棲息地、つまり固有の生存環境を用意した。これらの生き物には、それぞれ固定された生存環境、固有の食料、固定の棲息地、生存のための気温などがそうした生き物の生存に適した、固定された棲息地がある。このように、そうした生き物は方々を彷徨ったり人間の生存を侵害したり、人間の生活に影響を及ぼしたりすることは無い。これが、神が全ての生き物を管理する方法である。こうした事は、すべて人間に最適な生存環境を与えるためのものである。万物のうち、生き物には、それぞれ固有の生存環境の中に生き延びるための食料がある。その食料により、生き物は土着の生存環境に固定されている。生き物はその環境に固定されているのである。そうした環境においては、生き物は、それらの生き物のために神が定めた律法に従い、依然として生存と繁殖を続けている。この種の律法や神の予定があるため、あらゆる生き物は人間と調和して相互作用し、人間とあらゆる生き物は相互依存している。

神は万物を造り、その全てについて境界を定め、その中であらゆる生き物を育んだ。万物があらゆる種類の生き物を育んでいたが、それと同時に、神は人間のために様々な生存手段を用意したので、人間の生存手段は1つだけでは無いことがわかる。また人間の生存環境も、1種類だけでは無い。神が人間のために様々な食料や水源を用意したことは既述したが、これは、人間の肉にある命を継続するために不可欠なものである。しかし、人間は全員が穀物を食べて生存しているわけではない。地理的環境や地形の相違に従って、人間には様々な生存手段がある。こうした生存手段は、全て神により用意されたものである。したがって、人間全員が主に農耕に従事しているとは限らない。つまり、人間全員が耕作により食料を得ているとは限らない。これが、本日話す3番目の項目である。境界は、人間の様々な生活様式に基づいて発展した。それでは、人間には、その他にどのような生活様式があるであろうか。それでは、人間には、その他にどのような食料源があるであろうか。それらの物事は、主なものが数種類ある。

1番目は、狩猟の生活様式である。狩猟による生活様式については、皆知っている。あなたがたのうちに、狩猟して生活している者は居るであろうか。あなたがたは全員現代人であるので、狩猟の方法、銃の使用方法を知らない。あなたがたの食料源は、地から生まれる。狩猟生活者は、何を食べるだろうか。(獲物である。)こうした人々は、森で獲った鳥や獣を食べる。「獲物」とは現代の言葉である。狩人はそれを獲物とは考えず、それを食料として、あるいは日々の糧と考える。たとえば、狩人は鹿を獲った時、喜ぶであろう。「よかった。これで数日間の家族の食料は十分だ。」狩人が鹿を獲った時は、農民が土から作物を得た時と同様である。農民は土から作物を得るので、作物を見た時、農民は喜び、安堵する。「これで食料があるので飢える心配はない。」家族は作物を食べることができるので、飢えることは無い。農民の心は安堵し、満足する。そして狩人は獲物を見た時に安堵し、満足する。なぜなら、狩人は食料の心配をせずに済むからである。次の食事で食べるものがあれば、飢えることは無い。これが狩猟生活者である。狩猟を生業としている人々の生活環境は、通常どのようなものであろうか。狩人は、山の森で生活する。狩人は、生活の大部分において作物の栽培をせず、山の森で生活する。山の森には耕作に適した土地があるだろうか。耕作に適した土地を探すのは困難である。したがって、狩人は様々な生き物すなわち獲物を食べて生存する。これが通常の人間とは異なる生活様式の1番目である。

2番目は、牧畜の生活様式である。牧畜で生活する者は耕作しないが、何をするであろうか。牧畜だけであろうか。あなたがたの中にモンゴル系の者が居れば、その者に遊牧民の生活について話をして欲しい。(生活の大部分を、牛や羊の放牧で過ごし、農耕は行わない。冬に家畜の屠殺を行って食べる。主食は牛肉と羊肉で、ミルクティーを飲み、乾燥させた米を食べるが野菜は殆ど食べることが無い。現在は各種交通手段が便利になったので、あらゆる野菜や穀類がある。モンゴル人はミルクティーを飲み、チベット人はバター茶を飲む。牧畜生活者は通年多忙だが、食事は豊かである。ミルク、乳製品、肉を欠くことは無い。牧畜生活者は従前ユルトに住んでいたが、現在はみな住宅を建てる。)モンゴル人は主として牛肉と羊肉を食べ、ミルクを飲み、馬に乗って牧畜を行う。これが牧畜生活者の生活様式である。牧畜生活者の生活様式は、悪いものでは無い。野原で風を髪に、顔に陽の光を受けながら牛や馬に乗り、現代生活のストレスは無い。牧畜生活者は、終日広々とした青空と草原だけを眺めている。牧畜生活者は、全員草原に住み、何世代にもわたって遊牧民の生活様式を継続することが出来る。草原での生活は、多少寂しいが、幸福な生活でもある。悪くない生活様式である。

3番目は、漁の生活様式である。人類には、沿岸部や小さな島に住む人々が、ごく一部存在する。こうした人々は水に囲まれ、海に面している。漁民は漁を生業とする。漁を生業とする人々の食料は何であろうか。何を食料としているであろうか。様々な魚や海産物を食料としている。香港が小さな漁村だった頃、当時の香港の住民は漁を生業としていた。当時の住民は農耕を行わず、毎日漁に出ていた。当時の住民の主な食料は、様々な魚、肉、そして海産物であった。当時の住民は、時々魚と米、小麦粉、日用品を交換することもあった。漁を生業としている人々は皆、沿岸部に住んでいるが、一部の人々は船上に住んでいる。これが、沿岸部に住む人々の、一般人とは異なる生活様式である。沿岸部に住む人々は、漁に依存している。漁が収入源であり、食料源でもある。

農民以外に、主として上記3種類の生活様式がある。牧畜、漁、狩猟を生業とする者を除く大部分の人々が、農耕を生業としている。それでは、農耕を生業とする人々には、何が必要であろうか。こうした人々には、土が必要である。農耕を生業とする人々は、何世代にもわたって、主として作物を栽培する。こうした人々は食料を地から得ている。栽培する作物が野菜であるか、果実であるか、穀類であるかを問わず、こうした人々は全員、地から日々の糧を得ている。

こうした様々な人間の生活様式の前提条件は何であろうか。こうした人々が生存するには、環境の基本的維持が必要ではないだろうか。つまり、狩人が山や森、鳥や獣を失ったとしたら、狩人は生活が成り立たなくなる。したがって、狩猟を生業とする人々が山や森を失い、鳥や獣が居なくなったとしたら、狩人は生活の糧を得る源が無くなってしまう。こうした民族は、その後何処へ行き、何をするだろうか。こうした人々の生存の可能性の有無は不明となり、消滅してしまう恐れもある。また、牧畜を生業とする人々は、草原に依存している。こうした人々が依存しているのは、正確には家畜ではなく、家畜が生存する環境となっている草原である。草原が消滅したとしたら、こうした人々は、どこで家畜を放牧すれば良いだろうか。牛と羊は、何を食べるだろうか。家畜が無かったとしたら、遊牧民はどのような生業を営むだろうか。こうした人々は生業を失うであろう。生活の糧を得る手段が無くなったとしたら、人間はどうなるであろうか。生存の継続は極めて困難となり、人間に未来はなくなるであろう。水源が無くなったら、河川や湖沼は干上がってしまうであろう。生活を水に依存する様々な魚は、それでも存続するであろうか。全ての魚が絶滅するであろう。水と魚に生活の糧を依存する人々は、引き続き生存できるであろうか。こうした人々の食料が無くなり、生活の糧を得る源が無くなったとしたら、こうした人々は生存を継続できないであろう。生活の糧や生存に問題が発生するとすぐに、この種の人々は絶滅してしまうであろう。こうした人々は生存できず、絶滅して地上から消滅するであろう。そして、農業を生業とする者が土を失った場合、どのような結果となるであろうか。こうした人々は栽培出来なくなり、植物から食料を得られなくなるであろう。その結果、どうなるであろうか。食料が無かったとしたら、人間は餓死するのではなかろうか。人間が餓死した場合、その種の人間は消滅するのではなかろうか。そうしたわけで、これが様々な生態環境を維持する神の目的である。神が様々な環境や生態系を維持し、生き物をそれぞれの環境に維持する目的は、ただひとつである。その目的とは、様々な人々を育み、様々な地理的環境の中に生きる人々を育むことである。

万物がそれぞれの律法を失ったとしたら、万物は存在しなくなるであろう。万物がそれぞれの律法を失ったとしたら、万物のうち、あらゆる生き物が存続不可能となるであろう。人間もまた、人間が自らの生存を依存している、自らの環境を失うであろう。人間がこれら全てを失うとしたら、人間は世代を超えて繁殖し、生存してゆくことが出来なくなるであろう。人間が現在まで生存してきたのは、神が人類を様々な方法で育むために、人間に対して万物を与えたからである。人間が現在まで、つまり今日まで生存してきたのは、神が様々な方法で人間を育んでいるからである。こうした好ましく秩序のある固定された生存環境により、地上の様々な種類の人間、様々な人種の人間が、予め定めた範囲内で生存出来るのである。この範囲や境界を越えることが出来る者は居ない。なぜなら、それらを定めたのは神だからである。しかし、神がこのように範囲や境界を定めたのは何故だろうか。このことはあらゆる人間にとって極めて重要である。神はあらゆる生き物に対して範囲を定め、様々な種類の人間それぞれに対して、生存する方法を定めた。また神は、地上の人間を様々な種類や人種に分類し、それぞれの範囲を定めた。この事項が、本日次に話す事項である。

4番目の事項は、神が様々な人種の間に境界を定めたことである。地球上には、白色人種、黒色人種、褐色人種、黄色人種が存在する。これらは異なる人種である。神は、これらの人種についても、範囲を定め、人間は無意識のうちに神の管理に基づく適切な生存環境の中で生活する。この範囲から逸脱出来る者は居ない。たとえば、白色人種つまり白人は、主としてどの地域で生活しているであろうか。白人は主としてヨーロッパとアメリカの諸国で生活している。黒色人種は主としてアフリカ大陸内で生活している。褐色人種は主としてどの地域で生活しているであろうか。褐色人種は、主としてタイ、インド、ミャンマー、ベトナム、ラオスなどの東南アジアで生活している。つまり、東南アジア地域である。黄色人種は、主としてアジアすなわち中国、日本、韓国といった国で生活している。神はこうした様々な人種を、すべて適切に分布させたので、これらの人種は世界各地に分布している。こうした世界各地において、神は遠い昔に各人種に適した生存環境を用意した。これらの生存環境において、神は土の色と成分を用意した。白人の身体と黒人の身体の構成要素は同じでは無く、それ以外の人種の身体とも異なる。神が万物を創造した時、神はこうした生存環境を既に用意していた。こうした神の業の目的は、それぞれの人種が増え始めた時、その人数が増加し始めた時、そうした人々がその範囲に固定されるようにすることであった。神が人間を創る前に、神は既にそうしたことを十分に考えていた。神は白人に対して一定の地域を与え、白人が発展し、生存できるようにした。そうしたわけで、神が地球を造った時、どの地域に何を置き、どの地域で何を育成するかなどについて、既に神の計画、意図、目的が存在した。たとえば、神は遠い昔に、ある地域に、どの山を置き、何か所の平野や水源を置き、どのような鳥や獣、魚、植物を置くかを決めていた。ある種類の人間すなわち人種の生存環境を用意するにあたり、地理的環境、土の構成成分、鳥と獣の種類、様々な魚の大きさ、魚の構成成分、様々な水質、様々な種類の植物など、神は様々な問題について検討した。神はそうしたこと全てを遠い昔に用意していた。その種類の環境は、神が白人のために造り、用意した生存環境であった。

神が全ての生き物を創造した時、神はその創造において多くの物事に配慮したことが分かるであろう。神は、計画をもって業を行った。これで、そのことが理解できたであろう。(様々な種類の人間に対する神の配慮は、極めて周到であった。様々な種類の人間のための生存環境のために、神は様々な鳥、獣、魚を用意し、また山がいくつあるか、平野がいくつあるかなどを決めた。それらは全て極めて周到かつ緻密に配慮された。)たとえば、白人の主な食料は何であろうか。(主に高タンパクな食料すなわち様々な肉、乳製品、小麦を原料とする食料である。)白人が食べる食料は、アジア人が食べる食料とは極めて異なるものである。白人が食べる食料は、主に肉、卵、ミルク、家禽である。パンや米などの穀類は、一般に主食ではなく、付け合わせとして皿に盛られる。野菜を用いて作られたサラダを食べる時でも、焼いた牛肉や鶏肉を加える。小麦を原料とする食料を食べる時でも、チーズや卵、肉を加える。つまり、白人の主食は小麦を原料とする食料や米ではなく、肉やチーズを大量に食べる。白人は、極めて高カロリーな食料を食べるので、頻繁に氷水を飲む。白人が食事をする時は、食べ物が食卓に出される前に、皆最初に氷水を飲む。そうしたわけで、白人は体格が良い。これらの食品は白人の生活の源であり、神が白人のために用意した生活環境であり、その生活環境によりそうした白人の生活様式が実現されている。その生活様式は、他の人種の人々の生活様式とは異なる。こうした生活様式が良いか悪いかは問題ではなく、その生活様式は神が予定した、神の支配と采配に起因する生来のものである。この種の人種すなわち白人には、特定の生活様式と生活の糧を得る源があるが、それらは、白人という人種と、神が白人のために用意した生存環境に起因するものである。神が白人のために用意した生存環境や、白人がその環境から得る日常の食品は豊富であると言える。

神は、他の人種についても生存に必要な環境を用意した。黒人も存在するが、黒人は、主にどこで生活しているであろうか。黒人は主にアフリカの中央部と南部に分布している。神は黒人のためにどのような生活環境を用意したであろうか。熱帯雨林、様々な鳥や獣、砂漠、そして様々な植物である。黒人には水源があり、生活の糧があり、食料がある。神は黒人に対して偏見を持っていない。黒人の人々が何をしたとしても、黒人の生存は嘗て問題となったことが無い。黒人もまた、世界のなかで特定の場所や地域を占めている。

ここで、黄色人種について簡単に話をする。黄色人種は主として東洋に分布している。環境と地理的位置に関して、オリエントとオクシデントの相違点は何であろうか。オリエントは、土地の大部分が肥沃であり、資源や鉱床に恵まれている。つまり、地上および地中の様々な資源が豊富である。神は、この種の人間すなわち黄色人種のためにも、黄色人種に適した土、気候、様々な地理的環境を用意した。そうした地理的環境と、オクシデントの地理的環境との間には大きな差異があるものの、人間に必要な食料や生活の糧、生存のための食料源が神により用意された。そうした環境がオクシデントの白人の環境とは異なるというだけである。ともあれ、わたしがここで注目して貰いたいこと、話をする必要があることは、何であろうか。東洋の人種の人口は比較的多いので、神はその地域に、西洋とは異なる要素を数多く追加した。神は、様々な地形と豊富な資源を東洋に追加した。東洋の自然資源は極めて豊富である。地形もまた多様性が高く、東洋の人種の莫大な人口を育むのに適している。東洋における西洋との相違点として、東洋は東西南北全域にわたり西洋よりも気候が良好である。四季は明瞭に区分され、気温は快適であり、自然資源は豊富であり、自然の景観や地形の種類は西洋よりも格段に良好である。神がこのようにしたのは何故だろうか。神は、白人と黄色人種との間で、極めて合理的な釣り合いを取るようにしたからである。それは何を意味するであろうか。白人が享受している物事のあらゆる側面は、黄色人種が享受している物事よりも良好である。白人の食料や白人が使用しているものは格段に優れている。しかし、神はいかなる人種もひいきすることは無い。神は、黄色人種に対し、白人のためのそれよりも美しく良好な生存環境を与えた。これが先述した釣り合いである。これで、あなたがたは理解したであろう。

神は、どの人種が世界のどの地域に住むかを予め定めたので、人間はその範囲を超えることが出来ない。それは極めて素晴らしいことである。たとえ時代の流れの中で、ある時期に戦乱や侵略があったとしても、神が各人種に対して予め定めた生存環境は、そうした戦乱や侵略により破壊されない。つまり、神は、どの人種が世界のどの地域に住むかを定めたので、人間はその範囲を超えることが出来ない。たとえこの領域を変えたり拡大したりしようとする、ある種の野望が人間にあったとしても、神の許可なくして、その野望を果たすのは極めて困難である。そのようなことは極めて困難である。たとえば、白人は領域を拡大しようとして、他国を植民地化した。ドイツ人は数カ国を侵略し、イギリスはインドを占領した。その結果、どうなったであろうか。そうした活動は失敗に終わった。この失敗から何が分かるであろうか。神が予め定めた事柄を破壊することは許されない。従って、イギリスの拡大勢力が如何に強力であったとしても、最終的にイギリスは撤退せざるを得ず、その地は未だにインドの領地である。その地に住む者は依然としてインド人であり、イギリス人ではない。これは、そうした侵略は、神が許可した活動ではなかったからである。歴史や政治を調査研究する一部の者が、これに関する論文を発表した。これらの者は、イギリスが失敗した原因は、特定の民族を征服することが不可能であるためである、あるいはその他人間が考えつく理由が原因であるなどとしている。それらの理由は、真の原因ではない。真の理由は神であり、神がそれを許可しなかったためである。神が特定の民族を特定の場所で生活させ、その民族をそこに定住させており、その民族が移動することを許可しなかった場合、その民族は移動することが出来ない。神がその民族の範囲を定めた場合、その民族はその範囲内で生活する。人間は、こうした範囲を超えたりその範囲から出たりすることが出来ない。それは確かである。侵略者の勢力がどれほど強力であったとしても、あるいは侵略される者がどれほど脆弱であったとしても、侵略が成功するか如何は、最終的には神にかかっている。神はこうした事柄を予め定めており、それを変えることが出来るものは居ない。これが、神が行った様々な人種の配置方法である。神はどのような業を行って、様々な人種を配置したであろうか。まず、神は比較的大きな地理的その他の環境を用意し、人間のための様々な場所を割り当て、そこで人間は何世代にもわたり生存してきた。生存のための範囲は決定されている。そして人間の食事、生活、何を食べるか、何を飲むか、生活手段など、神はこれらの事柄も遠い昔に決定した。そして、神が万物を創造した時、神は様々な人種のために様々な用意を行った。土壌の構成成分、気候、植物、地理的環境には、様々なものがある。異なる場所には異なる鳥、獣が居り、異なる水域には異なる種類の魚や水産物があり、昆虫の種類でさえも神により決定された。たとえば、アジアにはカササギが居るが、おそらくアメリカには居ないであろう。カササギはアジア固有である。そしてアメリカのスズメは中国本土のスズメとは違う。アメリカ大陸で育つ物は、全て極めて大型で背が高く、がっしりしている。森の木々の根は浅いが、木々は極めて高い木々に育つ。木々は高さ30メートルを超えることもあるが、アジアの森の殆どの木々は、そこまで高くない。アロエという植物については聞いたことがあると思う。日本のアロエは極めて細身で薄いが、アメリカのアロエは極めて大型である。これはアメリカのアロエと日本のアロエとの違いである。アメリカのアロエは、日本のアロエと同じ名称の同種の植物であるが、アメリカ大陸では、アロエは比較的大型であり、明らかに違いがある。こうした様々な側面の相違点は、人間が見たり感じたり出来ない場合もあるが、神が万物を作っている最中に、神はこれらの側面を決め、異なる地理的環境、地形、生物、人種を用意した。神は様々な種類の人間を造ったので、神はそれぞれの人種に必要とされる物事やその生活様式について知っていた。従って、神が造った物事は、極めて善良である。あなたがたは、これについて明確に理解している必要がある。

これらの物事の一部について話をしたが、話の内容の主題について多少の認識が得られたであろうか。主題について何かしらの知識が得られたであろうか。わたしがより広範な主題の中からこうした物事に関して話をしたことには理由がある。ここまでの話で、あなたがたは基本的な概要を理解したはずである。あなたがたが得た知識を発言してほしい。(人類は、すべて神の万物に対する律法のみに基づいて育まれてきた。神がこれらの律法を定めている時、神は様々な人種に対し、様々な環境、生活様式、食料、気候、気温を与えた。これは、全ての人間が地球に住み、存続出来るようにするためであった。このことから、神の経営(救いの)計画と周到な采配、神の知恵と完璧さを知ることができる。)(人間を育むため、神はそうした人間のための律法を定め、地理的環境や様々な食料を用意した。そしてその環境で、より良く生存できるよう、神は様々な生活空間を用意した。このことから、神の業と計画が緻密であること、また神の人類に対する愛がわかる。)それ以外に回答はあるだろうか。(いかなる人間や物事も、神が定めた律法と範囲を変えることは出来ない。それらは皆神の支配下にある。)神により定められた、万物の成育に関する律法の観点から見ると、種類を問わず、全人類が神による供給、神による養育の下で生活しているのではなかろうか。これらの律法が破られたり、神がこの種の律法を定めなかったとしたら、人類の将来的見通しはどのようなものになるであろうか。人類の基本的な生存環境を人類が喪失したとしたら、人類には食料源があるであろうか。食料源が問題になる可能性があるであろう。もし人間が食料源を失ったとしたら、すなわち人間が食べ物を得る事が全く出来なかったとしたら、人間は1か月間存続出来ないであろう。人間の生存が問題となるだろう。したがって、神が人間の生存、継続的な存在と増殖のために行う業のそれぞれが、極めて重要である。神が万物に対して行う業のそれぞれが、人間の生存と密接に関連し、人間の生存と不可分である。そうした業は、人間の生存と不可分である。人間の生存が問題となった場合、神の経営は続行可能であろうか。神の経営は、その後も存在するだろうか。神の経営は、神が育む全人類と共存し、神が万物に対して用意した物や神の人間に対する業が何であるかを問わず、これらの物事は神にとって必要であり、人間の生存に不可欠である。もし神が万物のために定めた律法が守られなかった、つまり律法が破られた、あるいは乱されたとしたら、万物は存続が不可能となり、人間の生存環境や日常の糧、そして人間自身も、すべて存続不可能となるであろう。そのため、神による人間の救いの経営もまた消滅するであろう。これは人間が明瞭に理解すべき事柄である。

ここで話をしたことは、すべてが人間ひとりひとりの生存と密接に関連している。あなたがたには「あなたの言うことは話が大きすぎて理解できない」という意見があったり、あるいは「あなたの言うことは私と無関係だ」という者が居たりするかも知れない。しかし、あなたは万物のひとつとして生きているということ、神の支配下にある万物のひとつであるということを忘れてはならない。万物は神の支配から切り離すことが出来ないので、神の支配から自分を切り離すことが出来る人間は居ない。神による支配と供給を失うと、人間の命、すなわち人間の肉にある命は消滅するであろう。これが、神が人間の生活環境を定めたことの重要性である。人種を問わず、また東洋、西洋など居住地域を問わず、人間は、神が人類のために用意した自らの生存環境から自らを切り離すことはできず、神が用意した生存環境による養育と供給から自らを切り離すことができない。あなたの生活手段や、あなたが生活を依存している物事、肉にある命の維持を依存している物事が何であれ、あなたは神による支配と管理から自らを切り離すことが出来ない。一部の人々は、「私は農民では無く、作物を栽培して生計を立てていない。私は食料を天に依存していないので、神により定められた生存環境で生存していない、と言えるであろう。そうした環境からは、何も与えられていない。」などと言う。しかし、それは誤っている。それが誤っているのは何故か。あなたは作物を栽培して生計を立てていないと言うが、穀類を食べないだろうか。あなたは、肉を食べないだろうか。あなたは、卵を食べないだろうか。あなたは、野菜や果物を食べないだろうか。あなたの食べ物や必需品は、全て神が人間のために定めた生存環境と切り離すことが出来ない。人間に必要な物の源は、神が造った万物やこうした生存環境と切り離せない。あなたが飲む水、着ている衣服、使っているあらゆる物のうち、万物から得た物では無いものは、あるだろうか。一部の人々は、「万物から得た物以外の物が多少ある」と言うかもしれない。それは何であろうか。例を挙げられるだろうか。一部の人々は、「プラスチックは万物から得た物以外の物だ。プラスチックは人間が造った化学物質だ」と言うかもしれない。しかし、それは誤っている。それは何故であろうか。プラスチックは人間が造った化学物質だが、プラスチックの原材料は、何に由来するであろうか。(原材料は、最初に神が造られた物に由来する。)原材料は、神が造った物質から得たものである。あなたが享受するもの、見るもの、使うものは、全て神が造った万物から得たものである。つまり、人種、生活手段、居住する生存環境の種類を問わず、人間は自分自身を神から供給される物事から切り離すことが出来ない。そうしたわけで、本日話をしている事項は「神が万物の生命の源である」という主題に関連していると言えるであろうか。本日話をしている事柄は、この大きな主題に含まれるであろうか。本日このような話をしたのは、ひとえにこの関連性があるからである。本日の話には、多少抽象的で話が難解な部分もあるかも知れない。しかし、この主題に関するあなたがたの理解が多少向上したことであろう。

前回まで数回の話で説明した事項は、比較的広範囲におよぶものであり、その対象も幅広いものであったので、理解するには多少の努力が必要である。なぜなら、これらの事項は、人間の神に対する信仰のなかで嘗て直面したことの無いものだからである。この話を神秘であると捉える者と、話として捉える者が居るが、どちらの観点が正しいであろうか。あなたがたは、この話をどのような観点で聞いているだろうか。この話から何が分かったであろうか。誰かに述べて貰いたい。(神の権威の一側面を認識し、神の高潔を知り、それらを知ったことにより人間に対する神の愛を認識した。神の業には、それぞれに、人間に対する神の周到な采配と計画が含まれている。神は人間を愛し、慈しんでいるので、十分に配慮して人間の食料を与えた。)(神の業と、神が万物を整然と整えたこと、万物に律法があることを理解した。また本日の話により、神の業と、人間の救いのための神による周到な采配について理解が深まった。)数回にわたり話をしてきたなかで、神による万物支配の範囲がどのようなものかを理解したであろうか。(それは人類と物事のすべてである。)神はあるひとつの人種の神であるだろうか。神はあるひとつの種類の人間の神であるだろうか。神は限られた一部の人間の神であるだろうか。(そうではない。)そうではないので、人間の神に関する認識において、神が限られた一部の人間の神であるか、あるいは神があなたがただけの神であるという見解は正しいであろうか。神は万物を管理し、支配しているので、人間は神による万物支配で明示された神の業、知恵、全能性を理解できるはずである。これは人間が理解すべき事柄である。神が万物と人間を管理し、支配していると言いながら、神による人間支配に関する認識が皆無であるとすれば、神が万物を支配していることを真に認識できるであろうか。あなたには、それが出来るだろうか。あなたは心の中で「私の一生も神により支配されていることは分かるので、そのように認識出来る」と考えるかも知れない。しかし、神はそれほど小さな存在であるだろうか。神はそのような存在ではない。あなたは、自分自身に対する神の救いと業のみを理解し、そうした救いと業から神による支配を認識している。それでは範囲が小さすぎるので、あなたの神に関する真の認識に悪影響を与える。またこれは、神による万物支配に関するあなたの真の認識を制限する。あなたの認識を、神があなたに与える物事と救いに限定した場合、あなたは神が万物と人間を支配していることを認識することは、決して出来ない。あなたがこうした事柄の全てを理解できなかった場合、あなたは神があなたの運命を支配していることを、真に認識出来るか、というと、それは出来ない。その側面は、決して心の中で理解することが出来ない。あなたがその段階の理解に達することは、決して無い。これについては理解したことと思う。(理解した。)事実、わたしが話をしている事項、内容について、わたしはあなたがたがどの程度理解できるかを知っている。それではその事項についてわたしが話し続けているのは何故であろうか。なぜなら、これらの事項は、神に付き従い、神に救い出されることを求める全ての者が理解すべき事柄だからである。これらの者は、これらの事項を知っている必要がある。こうした事項について、あなたは現時点において理解していないが、いつかあなたのいのちと真理の経験が一定の段階に達し、あなたのいのちの性質の変化が一定のレベルに達し、そしてあなたの背丈が一定のレベルに達した時に初めて、ここでわたしがあなたがたに伝えている事項に関する話により、あなたの神に関する認識の追求に役立ち、あなたの神の認識への追求を満足させるであろう。そうしたわけで、これらの話は、あなたがたの今後における神による万物支配の理解、そして神自身に関する理解の基礎を固め、準備することを目的とするものであった。

ある者の心の中にある神に関する認識の程度により、神がその者の心をどの程度掴んでいるかが決まる。その者の心の中の神に関する認識の量は、神のその者の心の中における地位の高さである。あなたの知る神が空虚で曖昧な場合、あなたの心の中の神もまた空虚で曖昧である。あなたの知る神が、あなたの範囲に限定されている場合、あなたの神は極めて小さい神であり、その神と真の神との間には何の関連性も繋がりも無い。ゆえに、神の実際の業や神の実際、神の全能性、神自身の真の身分、神が持っているものや神が何であるか、神が万物において示した事柄を知ることは、神の認識を求める者それぞれにとって、極めて重要である。これらの事柄は、人間それぞれのいのち、すなわち真理を追求する実際のいのちと不可分である。神に関する認識を、言葉だけに限定した場合、あるいは自分自身の数少ない経験やあなた自身が数えるだけの神の恵み、神への証しだけに限定した場合、あなたの神は、間違い無く真の神では無いと言える。あなたの神は間違い無く真の神自身ではなく、またあなたがたが信じる神は、神では無いとも言えるであろう。それは、わたしが話をしている神は、万物を支配し、万物と共にあり、万物を管理する神であるからである。その神こそが、人類全体と万物の運命を握っている神である。わたしが話をしている神の業は、ごく一部の人々に限定されていない。つまり、そうした業は、現在神に付き従う者に限定されていない。神の業は、万物に、すなわち万物の生存、万物の変化の律法において表されている。あなたが神の万物における業を認識出来ないのであれば、あなたは神の業の証に立つことは出来ない。あなたが神の証に立つことが出来ない場合、自分が知っている小さな神、自分だけの考えに限定された、自分の狭い心の中に居る神とやらについて語り続ける場合、神があなたの信仰を讃えることは決して無いであろう。あなたが神の証に立つ時、自分がいかにして神の恵みを享受し、神の鍛錬と懲らしめを受け、神の祝福を享受しているかだけで神の証をするのであれば、それは甚だ不適切であり、神に満足してもらうには程遠いものである。神の心に沿う方法で神の証をすること、真の神自身の証に立つことを望むのであれば、神の業から神が持っているものや神が何であるかを理解する必要がある。あなたは、神による万物支配から神の権威を理解し、神が全人類に対して施すという事実を理解する必要がある。自分の食料や飲料、生活必需品が神に由来することを認めるのみで、神が万物により全人類に対して施すという事実、神が万物を支配することにより全人類を導いているという事実を理解しないのであれば、神の証に立つことは決して出来ない。あなたがたは、これで完全に理解したであろう。わたしは、何を目的として話をしているであろうか。わたしの話の目的は、あなたがたがこの真理を軽視しないようにすること、わたしが話をしている事柄が、あなたがた自身がいのちに入ることと無関係であると考えないようにすること、そしてこれらの事項が単なる知識や原理であると思わないようにすることである。そうした態度でこの話を聞いた場合、あなたがたが得るものは皆無である。あなたがたは神を知る好機を失うであろう。これで理解できただろうか。

わたしは、何を目的としてこれらの事項について話をしているであろうか。わたしの目的は、人々に神を知らしめること、神の実際の業について理解せしめることである。あなたに神を知る機会や可能性があるのは、神と神の業について理解した時のみである。たとえば、ある者について理解したい場合、あなたがたはどのような方法でその者を理解するであろうか。その者の外観を観察することによってであろうか。その者の着衣や着こなし方を観察することによってであろうか。その者の歩き方を観察することによってであろうか。その者の知識の範囲を考察することによってであろうか。そのような方法でないことは間違い無いだろう。それでは、あなたがたはどのような方法でその者を理解するであろうか。あなたがたは、その者の思想や話、態度、その者が表出ないし明示する事柄により判断するであろう。これが、あなたがたがその者を知り、理解する方法である。それと同様に、神や、神の実践的側面、神の真の側面について知りたい場合は、神の業など、神が行う実践的な事柄の全てにより神を知る必要がある。これが最適かつ唯一の方法である。これで理解できただろうか。神は万物に対して神の業を示し、万物を支配し、万物の律法を制御している。人間にとって、神を理解し知ることは、絶対的に必要なことである。

2.神は万物間の相互関係の釣り合いを取り、人間に安定した生存環境を与える

ここまでは、神が万物に対する律法を支配する方法について、そして神が、神の万物に対する律法を用い、またその律法内において、全人類に施し、育む方法について話をした。これがひとつの側面である。次に、もうひとつの側面、すなわち、神が万物を支配する、ある方法について話をする。その方法とは、神が万物を造った後に、万物の相互関係の釣り合いを取った方法である。これもまたかなり大きな事項である。万物の相互関係の釣り合いを取ることは、人間が行うことの出来ることであろうか。人間のみでは不可能である。人間はその調和を乱すことしか出来ない。人間は、万物の相互関係の釣り合いを取ることができない。なぜなら、人間にはそうした強大な権威や力が無いからである。そうした事が可能な力は、神自身だけに存在する。神がこうした業を行う目的は何であろうか。これもまた同様に、人間の生存と密接な関係がある。神が行うことを望む業は、すべて必要なものである。つまり、神が行う可能性も、行わない可能性もある業というものは無い。神が人間の生存を保護し、好ましい生存環境を人間に与えるためには、神が行う必要のある、不可欠かつ重要な業がある。

「神が万物の釣り合いを取る」という言葉の文字通りの意味からすると、この事項は極めて広範である。万物の釣り合いを取ることが、まさに神による万物の支配であることを理解するため、まずは、ある概念を説明する。「釣り合いを取る」という語は、何を意味するであろうか。まず、「釣り合いを取る」という語は、何かが釣り合っていない状態になることを阻止することを指す。天秤については、皆知っている。天秤で何かの重さを量る時は、それを天秤の一方に乗せ、他方におもりを乗せる。その物の重さは、最終的なおもりの量により決まる。これを釣り合いという。釣り合いを取るには、天秤の両方の重さを等しくする必要がある。神が造った万物には多数のものが含まれていた。神は固定されたもの、移動するもの、生きているもの、呼吸するもの、呼吸しないものを造った。神は極めて多くのものを造ったが、こうした万物すべての間に相互依存関係、互いに助け、制限し合う関係、相互に繋がりのある関係を成立させるのは、容易であろうか。こうした関係には、原理があることに間違い無い。こうした関係は極めて複雑だが、神にとっては困難ではない。しかし、人間にとって、こうした関係は極めて研究が困難である。釣り合いという言葉は、極めて単純に思われる。しかし、人間が釣り合いを研究したり、釣り合いを取ったりする必要があるとしたら、人間生物学者、天文学者、物理学者、化学者、さらには歴史家など、聡明な学術研究者が全員で取りかかるであろう。そうした研究の最終結果は、どうなるであろうか。その最終結果は、無である。なぜなら、神の万物創造は極めて驚異的であり、人間がその謎を解明することは決して無いからである。神があらゆる生き物を造った時、神は生き物同士の間の原理を定め、様々な生存方法による相互の制限、相補性、養育方法を定めた。こうした様々な方法は極めて複雑であり、単純でも一方向性のものでもない。人間が精神や知識、そして視認する現象により、神の万物支配の根底にある原理を確認ないし研究しようとすると、これらの事柄は解明が極めて困難である。解明することも、何らかの結論を得ることも、それと同様に極めて困難である。人間が成果を達成することは極めて困難であると言えるだろう。人間の精神と知識に依存して釣り合いを維持し、神が造った万物を統治するのは、極めて困難である。人間は、様々な生き物の生存に関する原理を知らないので、こうした釣り合いを保つ方法を知らない。したがって、人間があらゆる生き物を管理し、統治することになった場合、人間はその釣り合いを壊す可能性が極めて高いであろう。釣り合いが壊れるとすぐに、人間の生存環境が破壊され、破壊後はその人間の生存危機が発生するであろう。こうした状況により、大災害が発生するであろう。人間が大災害の中で生活した場合、人間の将来には、何が待ち構えているであろうか。それは想像や予期が困難な結果となるであろう。現在、世界が直面しているのは、まさにこうした危険である。

それでは、神はどのような方法で万物の間の釣り合いを取っているであろうか。まず、世界には、年間を通して氷雪で覆われている地域や、四季を通して春のような気候の地域がある。氷や雪は一切見当たらない。冬は無く、常に春のような状態である。これが1種類目の方法であり、比較的広範囲にわたる気候の観点から見たものである。2種類目の方法は、山を見た時に見受けられる、地面を覆い尽くして生い茂る様々な植物である。広大な森があり、森の中を歩くと陽の光が見えないほどである。その他の山では草も生えず、荒れた不毛の山々が延々と続く。外観は両者とも土が盛り上がっている山である。植物が生い茂る山々もあれば、草さえも無い山々もある。これが2種類目の方法である。3種類目の方法では、草が風に揺れる草地が見渡す限り続く場合がある。しかるに、見渡す限り砂漠が続く場合もある。生き物は一切見られず、ましてや水源など見当たらず、ただ砂漠を吹き渡る風の音だけである。4種類目の方法では、広大な水域である海で覆われている場所があるが、その一方で、泉を探すのも困難な場所もある。5種類目の方法では、霧雨が頻繁に降り、霧が多く湿度の高い場所がある一方で、強い日差しが照りつける日が極めて多く、一切雨が降らない場所もある。6種類目の方法では、空気が薄く呼吸が困難な高原となっている場所がある一方で、様々な渡り鳥の棲息地となる湿地と低地がある場所もある。これらは様々な気候の種類であるか、あるいは様々な地理的環境に対応する気候または環境である。つまり、神は、人間が生存する環境の空気、気温、湿度の釣り合いを取るため、比較的広域的な環境の側面、気候、地理的環境、土壌の構成要素、水源の量などから人間の基本的な生存環境の釣り合いを取るようにした。こうした対照的な種類の地理的環境があるので、人間には安定した空気が供給されており、四季を通して安定した気温、湿度が与えられている。これにより、人間は常にそうした生存環境で生活を継続することができる。このことは、比較的広範囲にわたる環境の観点から述べたものである。まず、比較的広範囲にわたる環境の釣り合いを取る必要がある。これは、神が望み、人間に必要とされる状態に釣り合いを取るため、様々な地理的場所と地理的方法、様々な気候の推移による相互抑止力により釣り合いが取られる。このことは、比較的広範囲にわたる環境の観点に基づく方法である。

植生などの詳細を見たとき、どうすればその釣り合いを取ることが出来るだろうか。つまり、植生は、どうすれば釣り合いの取れた生存環境のなかで生存を継続することが可能となるであろうか。それは、様々な植物の寿命、成長速度、繁殖速度を管理して生存環境を保護することにより実現される。例として草を挙げると、草には春の若芽、夏の花、秋の実がある。草の実が地に落ちると、その草は死ぬ。その翌年、その実の種が芽を出し、同じ律法にしたがって継続する。草の寿命は極めて短く、春から秋までであり、その後草は死ぬ。地に落ちた種それぞれから根と芽が出て花が咲き、実がなる。この過程が発生するのは、僅かに春から夏そして秋までの期間である。また様々な樹木にもそれぞれに寿命と発芽時期、結実時期がある。一部の樹木は、わずかに30年から50年で死ぬ。これらの樹木の寿命は30年から50年だが、その実が地に落ち、実から根と芽が出て、花を咲かせ、実がなり、それが30年から50年にわたって生きる。これがその樹木の反復周期である。そして高齢の樹木が死に、若い樹木は生長する。森では常に樹木が成長しているのを見受けるのは、このためである。しかし、樹木にもまた適切な生死の周期と過程がある。樹木によっては、1000年を超えて生きるものもあり、3000年もの間生きる樹木もある。樹木はこの種の植物である。植物の種類やその寿命の長さを問わず、一般的に、神は植物の寿命、植物の繁殖能力、繁殖速度、繁殖量、繁殖率を管理して植物の釣り合いを取る。こうすることにより、草から樹木まで、植物は継続して生存し、釣り合いの取れた生態環境のなかで成長可能となる。そうしたわけで、地球上の森を見たとき、樹木か草かを問わず、植物は固有の律法に従って継続的に繁殖と生長を続けている。植物に人間の支援は不要である。植物は人間の追加支援を一切必要としない。植物が独自の生存環境を維持出来るのは、ひとえにこうした釣り合いが取られているからである。それらの森林や草原が地上で生存出来るのは、ひとえにそうした植物に適した生存環境があるからである。植物の存在は、何世代にもわたる人間や、鳥、獣、昆虫、様々な微生物など、森や草原を棲息地とする様々な生き物を育む。

また神は、様々な動物の釣り合いも管理している。この釣り合いはどのように管理されているだろうか。動物も植物と同様であり、神は動物の繁殖能力、個体数、繁殖率、その動物が他の様々な動物に対して果たす役割により釣り合いを取り、個体数を決定している。たとえば、ライオンはシマウマを食べるが、ライオンの数がシマウマの数を超える場合、シマウマの運命はどうなるであろうか。シマウマは絶滅するであろう。また、仮にシマウマの繁殖量がライオンの繁殖量よりも遥かに少ない場合、シマウマとライオンはどのような運命を辿るであろうか。この場合のシマウマとライオンもまた絶滅するであろう。したがって、シマウマの数はライオンの数よりも遥かに多くなければならない。これは、シマウマがシマウマ自身のためだけでなく、ライオンのためにも存在するからである。それぞれのシマウマが全てのシマウマの一部であるが、それはライオンが食べる食料でもある、とも言えるであろう。ライオンの数がシマウマの数を超えることのないよう、ライオンの繁殖速度はシマウマの繁殖速度を超えることはない。このようにしてのみ、ライオンの食料源を保証することができる。ライオンはシマウマの天敵であるものの、ライオンとシマウマが同じ地域でのんびりと休息しているのを見かけることが、頻繁にある。ライオンがシマウマを狩り、食べることにより、シマウマの個体数が減ったり、シマウマが絶滅したりすることはなく、またライオンの個体数は、ライオンが持っている「王」たる地位のため、増えることは無い。この釣り合いは、遥か昔に神が定めたものである。つまり、神はあらゆる動物の間の釣り合いに関する律法を定めたので、動物は釣り合いを取ることが可能である。これは人間が理解可能な物事である。シマウマの天敵はライオンのみだろうか。ワニもまたシマウマを食べる。ワニがシマウマを食べているのを見た事があるだろうか。ワニがシマウマを食べている光景もまた残虐である。シマウマは極めて無力な動物の種であると考えられる。シマウマにはライオンのような獰猛さが無く、ライオンという手強い敵と対峙した時は、逃げることしか出来ない。シマウマは逆らうことすら出来ない。シマウマが逃げ切れなかった時、シマウマはライオンにより食べられるほかに道が無い。こうした状況は、動物界において頻繁に見受けられる。こうした状況を見たとき、あなたがたはどのような印象を受けるであろうか。あなたがたは、シマウマを哀れむであろうか。あなたがたは、ライオンに嫌悪を感じるであろうか。シマウマは、容姿が極めて美しい。しかし貪欲なライオンが常にシマウマを狙っている。そしてシマウマは遠くへ逃げないので愚かである。シマウマは、ライオンが木の陰に居て、何気ない素振りでシマウマを待ち伏せているのを見ている。ライオンが何時シマウマを食べるかは、誰にも分からない。シマウマは、心の中でこうした事を知っているであろうか。シマウマは知っているが、その場所を去ることは無い。それは驚異的なことである。その驚異には神の予定と支配が含まれている。あなたはシマウマを哀れむが、シマウマを救うことは出来ず、またライオンを嫌うが、ライオンを追い払うことが出来ない。シマウマは神がライオンのために用意した食料であるが、ライオンがシマウマをどのように食べても、シマウマは消滅することが無い。ライオンが産む子孫の数は極めて少なく、繁殖速度が遅いので、ライオンの数がシマウマの数を超えることは無い。ライオンが如何に大量に食べようと、ライオンの数がシマウマの数を超えることは無い。これは、一種の釣り合いである。

このような釣り合いを維持している神の目的は何であろうか。その目的は人間の生存環境や生存と関連している。シマウマやそれに類似する鹿などのライオンの獲物となる動物の繁殖速度が過度に遅く、ライオンの数が急増した場合、人間にはどのような危険が及ぶであろうか。まず、人間が飼育するニワトリ、アヒル、ガチョウ、犬などがライオンの獲物となるであろう。これはそうした動物が屋外で生活しており、まずライオンの獲物となるからである。そうした動物だけでライオンの食料として十分であろうか。豚を2頭飼っている家庭もある。もしライオンが山から下りて来て豚2頭を食べたとしたら、ライオンは食後にそこから去るであろうか。ライオンは「山には食べ物が無いから、ここに居よう。この家庭には豚が居る。豚は私が食べたが、人間がいるはずだ。次の食事のための獲物がまだないから、丁度よい。人間は家の中に閉じこもっているが、永遠にそうしていることことは出来ない。」と思うであろう。人間が家の外へ出るとすぐに、ライオンは人間をいとも簡単に食べるであろう。人間は抵抗できない。それは悲惨なことではないだろうか。ライオンがシマウマを食べるというのは正常な現象だが、ライオンが人間を食べると、それは悲劇となるであろう。神はこうした悲劇を予定しておらず、それは神の支配外であり、ましてや神が人間にもたらすものでは決してない。むしろ、それは人間が自ら招いたものである。そうしたわけで、神が考えるとおり、万物の釣り合いは、人間の生存に不可欠である。植物であるか動物であるかを問わず、万物の適切な釣り合いを崩してはならない。植物、動物、山、湖沼は、人間のために正常な生態環境をもたらす。人間の生存が安全であるのは、こうした釣り合いの取れた生態環境が人間に存在する場合のみである。草木の繁殖能力が芳しくなかったり、繁殖速度が極端に遅かったりしたら、土はどうなるであろうか。土は湿分を喪失するのではないだろうか。土から湿分が無くなると、問題となるだろうか。土が湿分と植生を喪失すると、浸食が急速に進み、土中に砂が発生する。その土は健全な状態で無くなり、砂が多くなり、土壌が悪化すると、人間の生存環境も破壊される。この環境破壊と同時に、災害が発生するであろう。こうした生態系の釣り合いや生態環境が存在しない場合、万物の釣り合いが崩れていることが原因となって、人間は頻繁に災害に見舞われるであろう。たとえば、環境の釣り合いが崩れた結果、特定の場所でカエルが増加し、カエルの生態系が破壊され、全てのカエルが集まり、個体数が激増して、都市部でもカエルが道路を横断したり大量のカエルが道路上に居るのが目撃されるような場合がある。大量のカエルが人間の生存環境を占領したとしたら、それは何と呼ばれるであろうか。それは災害と呼ばれる。それが災害と呼ばれるのは何故だろうか。カエルという小動物は、カエルの生存に適した場所に留まっている場合、人間の生存環境の釣り合いを維持するので、人間にとって有益である。カエルが災害となるとすぐに、人間生活の秩序に影響を与える。カエルがもたらすあらゆる物事や要素が、人間の生活の質に悪影響を及ぼすおそれがある。人間の身体の器官が攻撃されることすらある。これがその種の災害のひとつである。

それと別の、人間が頻繁に経験する災害として、イナゴの大量発生がある。これは災害ではなかろうか。これは恐るべき災害である。人間は飛行機や大砲、原子爆弾を造ることができるが、そうした人間の能力がどれほどのものかを問わず、イナゴが人間を侵略した時、人間にはどのような対策があるだろうか。人間はイナゴに対して大砲を使えるだろうか。イナゴをマシンガンで撃つことが出来るだろうか。それは出来ない。それではイナゴに殺虫剤を噴霧して駆除できるであろうか。それも容易ではない。それでは、そうした小さなイナゴは、何故侵略してくるのだろうか。それは穀物を食べるためである。イナゴが襲来した場所は、全て完全に穀物が消滅する。イナゴは穀物と穀粒のみを食べる。イナゴが通過すると、穀物は全て消滅する。イナゴが襲来すると、農民が生活の糧とし、1年分の穀物を、一瞬にしてイナゴが食べ尽くしてしまう。それでは、イナゴの襲来は人間にとって何であろうか。それは単なる不都合ではなく、災害である。

イナゴは災害のひとつであるが、ネズミはどうであろうか。ネズミの繁殖速度が速すぎる場合であって、ネズミを食べるフクロウや鷹が居ない場合、ネズミは想像以上に急速に繁殖する。ネズミが氾濫して対策が採られなかった場合、人間は適切な生活ができるか、というと、それは不可能である。それでは、人間にはどのような問題が発生するであろうか。(ペストが発生する。)ペストだけだろうか。ネズミはあらゆる物を食べ尽くす。ネズミは木でさえも食べる。家の内部に2匹のネズミが居た場合、その家の住人は全員困るであろう。ネズミは油を食べたり、穀物を食べたり、衣服をかじったりする。これがネズミが人間に及ぼす被害である。ほんの小さいネズミであるが、人間には対策となる手段が無い。ネズミは人間を脅かすことすらある。ネズミは時として食器棚に昇るが、そこにある食器はそれでも使えるだろうか。それらの食器は使えず、消毒も効果が無く、消毒しても安心できないので、仕方なくそれらの食器を捨てる。また、ネズミが食べない物についても、ネズミはそれをかじり、台無しにする。ネズミは衣服や靴、木、家具など、あらゆるものをかじる。ネズミの大群については言うまでも無いが、困惑を引き起こすには、たった2匹のネズミで十分である。ネズミが災害となると、その被害は想像を絶する。

それでは、蟻が災害となった場合は、どのようなものであろうか。蟻が人間におよぼす被害は無視できない。蟻が木を蝕んだ結果、家1軒が倒壊することも珍しくない。蟻の力は侮れない。そうしたわけで、シロアリやその卵が木造住宅で発見された場合、アメリカでは大問題となる。シロアリ駆除専門技術を持つ技術者が従事する専門企業を探す必要がある。シロアリを退治しなければ、その家は売却が困難になり、大問題となる。あなたがたは、馬を食べた蟻の大群の話を聞いたことがあるだろうか。蟻の大群が馬を襲い、残されたのは馬の骨だけであった。これは恐ろしいことである。それを見た馬の持ち主は、どこへ逃げただろうか。付近に湖があったので、その持ち主は湖へ向かって走り、泳いで湖の対岸へ渡った。この者はそうして一命を取り留めた。しかし、それを目撃した後、持ち主は、あれほど小さい蟻の想像を絶する威力を目撃したことを、一生涯忘れることができなかった。持ち主は危うく蟻に食べられそうになった。この者が馬を持っていなかったとしたら、蟻は間違い無くこの者を食べていたであろう。また蟻とこの者の間には水があったので、蟻は急いで水を渡ってこの者を食べることが出来なかった。もし水が無かったとしたら、この者は馬もろとも食べられていたであろう。蟻の威力を侮ってはならない。

また、様々な鳥が災害となった場合も、恐ろしいものとなる。つまり、それがどのような動物や生き物であったとしても、その釣り合いが崩れた場合、それは通常と異なる、異常な範囲に増殖し、繁殖し、棲息することになる。そうした状況は、人間に対して想像を絶する影響を及ぼすであろう。そうした事態は人間の生存や生活に影響するだけではなく、人間に災害をもたらし、人間が完全に絶滅することもあるであろう。

神が万物を造った時、神は様々な手段と方法により、万物の釣り合いを取るようにし、山や湖沼の存続条件、植物や様々な動物、鳥、昆虫の生活条件の釣り合いを取った。神の目的は、神が定めた律法に従って様々な生き物が生活し、繁殖できるようにすることであった。あらゆる生き物はこれらの律法に反することができず、またこれらの律法は破ることが出来ないものであった。人間が安全に生活し、何世代にもわたって繁殖可能であるのは、この種の基本的な環境の中のみであった。ある生き物が、神が定めた量や範囲、神が支配している増加率、頻度、数を超えている場合、人間の生存環境は様々な程度の被害を受けるであろう。それと同時に、人間の生存が危機に瀕することになるであろう。ある種の生き物の個体数が多すぎる場合、その生き物は人間の食料を奪い、人間の水源に損害を与え、人間の生活地域が破壊されるであろう。このように、人間の繁殖と生存状態は、即座に影響を受ける。たとえば、水は万物にとって極めて重要である。ネズミ、蟻、イナゴ、カエルなど動物の数が多すぎる状態であり、それらの動物が水を飲む必要がある場合、こうした動物が飲む水の量も増加する。動物が飲む水の量が増加すると、その固定された飲料水の水源と水域において、人間の飲料水と水源は減少し、水が不足するであろう。様々な動物の個体数が増加し、人間の飲料水が破壊された場合、汚染された場合、あるいは減少した場合、そうした過酷な生存環境では人間の存続は深刻な危機に陥る。適切な数を超える動物が1種類あるいは数種類存在する場合、人間の生存空間内の空気、気温、湿度、そして空気の構成成分ですら様々な程度で被害を受け、破壊されるであろう。同様にして、こうした状況下では、人間の生存と運命が、この種の環境の脅威を受けるであろう。したがって、人間がこうした釣り合いを失った場合、人間が呼吸する空気が損害を受け、飲む水が汚染され、必要とする気温も変化し、様々な程度の影響を受けるであろう。こうした事態が発生した場合、人類の土着の生存環境に甚大な影響と問題が発生する。このような、人間の基本的な生存環境が破壊された状況では、人類の運命と将来の見通しは、どのようなものになるであろうか。これは極めて深刻な問題である。

人間にとって万物がどのような存在であるか、神が造った物それぞれの役割、それが人間にどのような影響を及ぼし、どれほど大きな利益をもたらすかを神は知っているので、神の心では、こうした物事全てに計画があり、また神は神が造った万物のあらゆる側面を管理している。したがって、人間にとって、神が行う業は、全て極めて重要であり、全て必要なものであった。万物の生態的な現象や万物の自然の律法を見ると、神が造った物それぞれの必要性に疑念を抱かなくなるであろう。あなたは、神による万物に対する采配と、神が人間に施す様々な方法について、無礼な言葉を使って勝手な判断をすることが無くなるであろう。また万物に対して神が定めた、神の律法に関しても、勝手な結論を行わなくなるであろう。そうではないだろうか。

今わたしが話した事柄は何に関するものであろうか。それを考えて欲しい。神の業には、それぞれに神独自の意図がある。人間にはこの意図が理解できないものの、その意図は常に人間の生存と密接に関連している。その意図は、人間の生存と関連していて、不可分である。なぜなら、神は無益な業を一切行わないからである。行われる業それぞれについて、その原則と原理には神の計画と知恵が含まれている。その計画と意図の根底にある目的は、人間の保護、災害や生き物による侵害、万物による人間に対する危害の回避における人間の支援である。そうしたわけで、本日話をした事項で見た神の業から判断して、神は別の方法で人間に施していると言えるであろうか。神はこの方法により人間に糧を与え、人間を牧養していると言えるであろうか。そう言えることは間違い無いであろう。ここまでの話で理解しているはずであるが、この事項と「神は万物の生命の源である」という表題には、強い関連性があるであろうか。(ある。)強い関連性があり、本事項はその一側面である。これらの事項について話をするまで、人々にあるのは神、神自身、神の業に関する曖昧な想像だけであり、そうした物事に関する真の認識は無い。しかしながら、人々が神の業について伝えられると、神の業の原則を理解できるので、それについて明瞭な理解を得ることができるのではないだろうか。(その通りである。)神の心では、神が業を行う時、万物を創造した時、万物を支配する時の神の原理、原則、規則は極めて複雑である。ここでの話のなかで、なにかひとつの事項について伝えた場合、これらが神の業であり、極めて現実的であることを、心の中で理解することが出来るであろうか。(出来る。)それでは、あなたがたの現時点における神の認識は、以前と異なるであろうか。それは本質的に異なる。従前の認識は極めて空虚であり、曖昧であるが、現在の認識には神の業を支持し、神が持っているものや神が何であるかと比較するための、具体的な証拠が多数含まれている。したがって、本日の話は、全てあなたがたの神の理解において重要な内容である。

本日の話はこれで終わりである。ごきげんよう。さようなら。(全能神、さようなら。)

2014年2月9日