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終わりの日のキリストの証人

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IX.キリストは神自身の現れであることを明白に語らねばならない

1.キリストの神的本質をどのようにして知ることができるか。

参照聖書箇所

「わたしは道であり、真理であり、命である。…わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。」(ヨハネによる福音書14:6、10-11)

関連する神の言葉

「このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人に命を与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真理の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

「神を知ることは、神の御言葉を読んで理解することにより行う必要がある。『受肉された神を見たことがないので、どうして神を知ることができようか』と言う者も居る。実際には、神の御言葉は、神のご性情である。神の御言葉から神の人間への愛、神による人間救済、その救済方法などを知ることが出来る。…なぜなら、神の御言葉は、神が人間に書かせたのではなく、神により明示されたものだからである。御言葉は神が自ら表されたものである。御言葉を表したのは神ご自身であられ、それは神の内なる声である。御言葉が心からの言葉と呼ばれるのは何故だろうか。なぜなら、御言葉は深遠なところから発せられたものであり、神のご性情、御旨、お考え、そして神の人間に対する愛、人間救済、期待だからである。神の御言葉の中には、強いもの、優しく柔和なもの、入念なもの、そして無慈悲な黙示のものがある。あなたがたは、黙示の御言葉だけを見た場合、神は厳しいと感じる。あなたがたが優しく柔和な面だけを見た場合、神はそれほど多くの権威を持っておられないように思われる。したがって、あなたがたは御言葉の前後関係抜きで解釈してはならない。御言葉は、あらゆる側面から検討する必要がある。神は時折優しく柔和な側面から御言葉を述べられ、人間は神の人間に対する愛を知る。また神は時折厳格な側面から御言葉を述べられ、人間は神の侵害不可能なご性情を知る。人間はひどく汚れているので、神の顔を見るに値せず、したがって神の御前に来るに値しない。現在において、人間が神の御前に来る事は、完全に神の恵みの範囲外にある。神の知恵は神が御業を行われる方法と神の御業の意義から理解できる。人間は、神と接触せずとも、神の御言葉からそうした物事を依然として知ることが出来るであろう。真の知識がある者がキリストと接した場合、その者の知識は主と一致する可能性があるが、理論的な知識しか無い者が神と接した場合、その者の知識が主と一致することは無い。真理のこうした側面は大きな謎であり、想像し難い。神が受肉の謎について述べられた御言葉を概括し、それを多角的に検討し、あなたがた同士で話し合うとよい。祈りを捧げ、こうした事柄について大いに思索し、話し合うとよいだろう。おそらく聖霊があなたがたを啓き、そうした事柄を理解させるであろう。なぜならば、あなたがたには神と接する機会が無く、こうした経験に依存して少しずつ自分なりに感じ、神に関する真の知識を得なければならないからである。」

『キリストの言葉の記録』の「受肉に関する知識」より

「…終わりの日に、神が肉になるとき、神はすべてを成し遂げるために、すべてを明らかにするために、主として言葉を用いる。神の言葉の中においてのみ、あなたは、神とは何かを知ることができる。神の言葉の中においてのみ、あなたは、神が神自身であることを知ることができる。肉となった神が地上に来るとき、神は言葉を話すこと以外のどのような他の働きもしない。したがって、事実は必要でない。言葉で十分である。神は主な役割として、この働きをするために、神の力と至高を人が自身の言葉の中に見られるように、神が身を低くして自身を隠すことを人が自身の言葉の中に見られるように、そして神の完全性を人が自身の言葉の中に知ることができるように、来たからである。神が所有するものおよび神が今あるところのものすべてが、神の言葉の中にあり、神の知恵や素晴らしさは神の言葉の中にある。この中にあなたは、神が自身の言葉を話す多くの方法を見ることができる。」

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

「人間は神の働きを経験して神を知るようになる。そして、それ以外に神を知る正しい方法はない。」

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より

「人々が神の言葉を経験する過程は人々が肉における神の言葉の現れを知る過程と同じである。神の言葉を経験すればするほど、人々はますます神の霊を知るようになる。神の言葉を経験することによって、人々は霊の働きの原則を把握し、実践的神自身を知るようになる。実際、神が人々を完全にし、人々を自分のものにする時、神は人々に実践的な神の業を知らせているのである。神は実践的神の働きを通して人々に受肉の実際の意義を示し、神の霊が実際に人の前に現れたことを示す。」

『言葉は肉において現れる』の「実践的な神は神自身であることを知るべきである」より

「私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。それにもかかわらず、私達の心の中では虚栄心がはびこり、このような人を神として喜んで受け入れることができないでいる。この人が私達にどんなに多くのマナ、どんなに多くの喜びを与えても、私達の心の内に在る主の地位を奪うことができないのである。私達はこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのである。もし彼がはっきりと語り、自分が神であることを私達に納得させなければ、私達は決してこの人を神として、つまりもうすぐ現れるはずであったが既に私達のもとで長く働いてきた神として、思い切って認めることはないだろう。

神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

神に征服されるのは、武術の試合のようである。

神の言葉の一つ一つが私達の急所を突き、私達は悲嘆にくれ、恐れる。神は私達の観念を明らかにし、想像を明らかにし、堕落した性質を明らかにする。私達の言動の全て、思いや考えの一つ一つを通して、私達の本性や本質は神の言葉によって明らかにされ、私達は辱められ、恐怖で震える。神は、私達の行動、目的と意図、それに自分でも知らなかった堕落した性質までを私達に示し、私達を徹底的にさらけ出された気持ちにさせ、さらには完全に納得した気持ちにさせる。神は、私達が神に反抗したことを裁き、神に対する冒涜と糾弾を理由に私達を罰し、私達は神の目には何の価値もなく、生きたサタンそのものであると思わせる。私達の希望は粉々にされ、もはや神に対する理不尽な要求や企てはしなくなり、私達の夢さえも一夜にして消える。これは、私達の誰も想像できず、受け入れることのできない事実である。一瞬、私達は心のバランスを失い、この先どうやって続けていけば良いのか、どうやって私達が信じることがらを保ちつつ続けていけば良いのか分らなくなる。まるで自分達の信仰が振り出しに戻り、主イエスに出会ったことも、親しんだこともなかったような気持ちになる。目の前のこと全てが私達を混乱させ、どこか漂流しているような気持ちにさせられる。私達は狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには押さえきれない憤りと屈辱がある。私達はうっぷんを晴らそうと試み、出口を探そうと試み、その上、救い主イエスを待ち続けて、胸の中を打ち明けようと試みる。表面上は放漫にも謙虚にも見えないときもあるが、私達は心の中でこれまでにない喪失感に苦しんでいる。ときには表面上はいつになく冷静に見えるかもしれないが、内面では波打つ海原のような苦悶に耐えている。神の裁きと刑罰は、私達の希望と夢の全てを奪い去り、私達の途方もない望みはもはや無く、あの人が救い主で、私達を救うことができるということを信じようとはしない。神の裁きと刑罰は私達と神との間に深い溝を広げ、誰もそれを渡ろうとさえしない。神の裁きと刑罰によって、これほどの挫折と屈辱を初めて感じたのである。私達は、神の裁きと刑罰によって、神の名誉と人による侮辱に対する神の不寛容を本当に認識した。それと比べて私達はなんと卑しく汚れていることか。神の裁きと刑罰によって私達は初めて、いかに自分達が傲慢で尊大であるか、そして人間は決して神と同等ではなく、神と肩を並べることはないことを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、私達はこのような堕落した性質の中でもはや生きていかないことを切望するようになり、そのような本性と本質からできるだけ早く抜け出し、もう神から憎まれたり、神に嫌悪感を起こさせることのないようにと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、私達は神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と計画に反抗する気持はなくなった。彼の裁きと刑罰によって、私達は再びいのちを追い求めるようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった。私達は、征服する働きから立ち去り、地獄から抜け出し、死の影の谷から抜け出た…全能神は、私達この集団に属する人間を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、全ての敵を倒したのだ。」

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

「あなたがたは、神が人間と同様の見方をしたり、神が人間の見方、知識、科学、哲学、想像により物事に対処したりするのを見受けることは無いであろう。神の業や神が明示する物事は、すべてそうした人間の物事ではなく、真理と関連している。つまり、神が述べた言葉や行った業は、すべて真理に関連する。この真理は事実無根の幻想ではなく、この真理と言葉は、神の本質といのちにより表出される。こうした言葉や神が行った業の本質は、真理であり、したがって神の本質は聖なるものであると言える。換言すると、神の言葉や業は、すべて人間に生命力と光をもたらし、人間が良いものとそうした良い物の現実性を理解することを可能とし、人類が正しい道を進むように、人類を光の道へと導く。こうした事柄は、神の本質と神の聖なる本質により判断される。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身5」より

「神もまた不浄の地で生活しているが、少なくとも神は不浄に汚れていない。神はあなたがたと同様に不浄の地で生活しているが、神には理知と識見がある。神は不浄を忌み嫌っている。あなたがたは、自分の言動の中にある不浄な物事を自分で認識する事が出来ないが、神にはそれが出来る。神はあなたがたにそれを示すことが出来る。あなたがの教養、識見、理知の欠如、遅れた生活様式など、嘗てのあなたがたに存在した物事は、全て神がそれを暴露したことにより現在明らかになっている。神はそのように御業を行うために地に来たので、人間は神の聖さと義なるご性情を理解している。神はあなたがたを裁き、罰して、あなたがたに自分自身を理解させる。時折、あなたがたの悪魔のような本性が現れると、神はそれをあなたがたに見せることが出来る。神は、自分の手のひらのように人間の本質を知っている。神はあなたがたと同様に生活し、あなたがたと同じ食べ物を食べ、あなたがたの家と同じような家に住んでいるが、神はあなたがたよりも多くの物事を知っている。しかし、神が最も憎むのは、人間の人生哲学とその不正さと虚偽である。神はそうした事柄を憎み、それらを認めることを望まない。特に、神は人間の肉の交流を憎まれる。神は人間の交流の全般的な知識の一部を完全に理解していないものの、人間が自分の腐敗した性情の一部を表した時、神はそれを完全に認識している。神は御業の中で、人間に存在するそうした物事により、人間と会話し、人間に教え、また人間を裁き、神の義であり聖い性情を示す。このようにして、人間は神の御業の引き立て役になる。人間の腐敗した様々な性情やサタンの醜い顔を暴くことが出来るのは、神だけである。神はあなたがたを罰することは無い。神は単にあなたがたを神の聖さの引き立て役とする。そしてあなたがたは自分だけで揺るぎなく耐えることが出来ない。なぜなら、あなたがたは過度に不浄だからである。神は、神がどれほど聖いか人間が知ることが出来るように、そうした人間が示す物事により話をし、そうした物事を暴く。神は人間の中にある僅かばかりの不浄でさえも、人間の心の中にある不浄な考えや、神の御旨に則していない言動のうち、最も小さなものでさえも、見逃さないであろう。神の御言葉のおかげで、不浄が残っている人間や物は一切存在しないであろう。そうした不浄は全て暴かれるであろう。その後になって初めて、あなたがたは神が真に人間とは異なるということを理解する。神は、人間の中にあるほんの僅かな不浄をも徹底的に忌み嫌う。時折、人間は理解できずに「あなたはどうして常に立腹しているのでしょうか。神よ、あなたは何故、人間の弱さに配慮されないのでしょうか。なぜ、人間を多少なりとも赦されないのでしょうか。なぜ、それほどまで人間に対して思いやりが無いのでしょうか。あなたは人間がどれほど腐敗しているかを知っておられるのに、なぜ、人間をこのように扱われるのでしょうか。」と言う。神は罪を忌み嫌い、憎む。神はあなたがたの中にあるかも知れない反逆性を、特に忌み嫌う。あなたがたが反逆的性情を表すと、神は計り知れないほど忌み嫌う。こうした物事によって、神の性情と存在を表すことが可能となる。それをあなた方自身と比較すると、神は同じ食べ物を食べ、同じ衣服を着て、神も人間と同じ享楽を味わい、人間と共に生活しているが、神は人間とは違う。それがまさしく、引き立て役となることではなかろうか。神の大いなる御力を際立たせるのは、こうした人間の中にある物事である。貴い光の存在を減らすのは、闇である。」

『言葉は肉において現れる』の「征服の御業の第2段階は、どのように実りを迎えるか」より

「神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない『類人猿』と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神の存在を表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。神の働きに関し、人は神がどのような存在か言うことはできない。神を神の働きに基づいて創造された人として分類することも不可能である。神そのものも神を創造された人として分類できないようにしている。人は神を人間以外のものと考えるしかなく、どの範疇に神を入れるかはわからない。そこで、人は神を神の範疇に入れざるをえない。こうすることは、人にとって不合理なことではない。なぜなら、神は人が行うことのできないたくさんの働きをしてきたからである。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

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