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終わりの日のキリストの代表的な言葉

目次

XI 神の求め、奨励、警告、慰めについての代表的な言葉

イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大きな救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりすべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしはあなたがたに、注意深く信仰の道を歩むよう助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたはうわべだけ神を信じたり、気楽に信じたりしてはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだあなたはおそらく、自分の信念と聖書に沿っている言葉は1万語にひとつだと信じているだろう。あなたはその1万分の1の言葉の中で求め続けなければならない。わたしは更にあなたに助言する。謙虚であり、自身過剰にならず、思い上がらないようにと。あなたの中の神に対するわずかな畏敬の念からより大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるだろう。これらの言葉をほんの数行読んだだけで、「これは聖霊の示しのほんの一部でしかない」とか、「人々を欺く偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるだろう。そのようなことを言える人たちはあまりに無知だ。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日に偽キリストが現れることにより、神の言葉を盲目的に非難してはならない。策略を恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないのか。もし良く調べた上で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと信じるなら、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないか。あなたは神の玉座の前に戻る幸いに与ることができないということではないのか。そのことを考えてみなさい。軽はずみで衝動的な人であってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のことを考え、前途を考え、そしてあなたのいのちのことを考え、自らをいい加減に扱わないようにしなさい。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

多くの者が、神の二度目の受肉について受け入れ難いものを感じる。なぜなら、神が受肉して裁きの働きを行うことは、人には信じ難いからだ。しかしわたしはあなたに告げなければならない。神の働きは往々にして人の予測をはるかに超えるもので、人の頭がそれを受け入れるのは難しいのだと。というのも、人は地上のウジ虫にすぎないが、神は宇宙を満たす至高の存在だ。人の頭は、ウジ虫しか生み出さない汚い水たまりに過ぎないが、神の考えに支配されたひとつひとつの働きは、神の知恵によるの結晶だ。人は、常に神に敵対することを望む。それなら結局誰が負けることになるかは自明だと、わたしは言おう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

わたしは強く勧める、あなたがたがみな自分を金より重要だとみなさないようにと。もし他の人たちが神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたはできないのか。彼らに比べてあなたがどれほどの高みにいるというのか。もし他の人たちが真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたも同様にできないのか。神の働きの偉大な潮流を止めることはできない。神は、あなたの「功績」のために裁きの働きを繰り返すことはなく、あなたはそんな好機を逃したことを痛烈に後悔するだろう。もしあなたがわたしの言葉を信じないなら、天の偉大な白い玉座があなたの上に「裁きを下す」のを待つが良い!

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。……わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

いのちを追求しない者を変化させることは不可能である。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたがたは自分の変化の追求と真摯な取り組みに重点を置かず、常にそうしたとりとめも無い欲望や、神に対する自分の愛を抑制する物事や、自分が神に近付くことを阻む物事に重点を置く。こうした物事は、あなたがたを変化させることが出来るであろうか。こうした物事は、あなたがたを御国へと導くであろうか。あなたがたの追求の目的が真理を追求することでは無いならば、あなたがたは、これを機に、俗世に戻って成功をめざせばよいであろう。そのようにして時間を無駄にするのは全く無価値である。なぜ自分を苦しめるのか。素晴らしい世界であらゆる物事を楽しめないことがあろうか。金銭、美女、地位、虚飾、家庭、子供達など、この世の産物は、全てあなたがたが享受できる最高の物事ではないのだろうか。地を彷徨い自分が満足できる場所を探すことが、何の役に立つというのか。人の子が枕する所は無いのであれば、どうしてあなたがたが安住の地を得る事が出来ようか。どうして主があなたがたのために、素晴らしい安住の地を造ることが出来ようか。それは可能であろうか。私の裁き以外に、現在あなたがたは真理に関する説教を受けることしか出来ない。あなたがたは私から安楽を得ることも、あなたがたが日夜思い描いているような幸福の巣を得る事も出来ない。私はあなたがたに、この世の富を与えない。あなたがたが真に追求するならば、私はあなたがたに対して、いのちの道の全てを与え、あなたがたを水を得た魚のようにすることを望む。あなたがたが真に追求しないのであれば、私はそれを全て引き上げるであろう。私は、安楽に貪欲で豚や犬のような者に、自分の口から言葉を与えることを望まない。

『言葉は肉において現れる』の「何故、引き立て役になることを望まないのか」より

現在、あなたはわたしの言葉を信じず、わたしの言葉を全く気にかけない。この業が広まる日が来て、あなたがその全てを認識する時、あなたは後悔し、唖然とするであろう。祝福があるが、あなたはそれを享受する方法を知らない。また真理はあるが、あなたはそれを求めない。あなたは、自分自身を侮辱しているのではなかろうか。現在、神の業の次の段階はまだ始まって居ないが、あなたに対する要求や、あなたが行動で示すよう求められている事には、何も例外的な事は無い。極めて多くの業と真理がある。そうした業と真理は、あなたに知られる価値があるのではなかろうか。神の刑罰と裁きは、あなたの霊を目覚めさせることが出来ないであろうか。神の刑罰と裁きは、あなたに自分を忌み嫌わせることが出来ないであろうか。あなたは、サタンの領域で、ちょっとした肉の享楽と共に平和に喜んで暮らすことに満足しているであろうか。あなたは全ての人間のうち、最も卑しい者ではなかろうか。救いを見たことがあるが、それを追求しない者よりも愚かな者は居ない。そうした者は、自らを肉で満たし、サタンを堪能する者である。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

あなたの信仰は貧弱なので、いのちが与える喜びを今日まで見出すことができないままだ。わたしはあなたに助言する――人生の全てを平凡で肉のための多忙な日々として送り、耐え難い苦しみを耐えて生きるより、その半分をわたしの為に真心から生きるようにと。わたしの刑罰から逃げるほどまで、自身を大事にして何の役に立つのだろうか。永遠の苦難、永遠の刑罰の報いをただ取り込んでしまうためにわたしの一時的な刑罰から自身の身を隠すことは何のために役立つのだろうか。わたしは、実際には誰も強制的にわたしに従わせることはしない。もし人が、わたしの全ての計画に喜んで従うなら、わたしはその人を粗末には扱わない。しかし、わたしは、すべての人が、ヨブがわたしヤーウェを信じたようにわたしを信じることを要求する。もしあなた方の信仰がトマスのそれを超えているなら、わたしの称賛を得、あなた方の忠誠心はわたしの喜びを得、あなた方の日々においてわたしの栄光を見出すだろう。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

あなたがたは、神により完全にされる機会を求めず、完全にされることの追求に努めないのであれば、最終的に良心の呵責で満たされるであろう。完全にされる絶好の機会、絶好の時は、今である。あなたがたが神による完全化を熱心に追求しないならば、神の業が完了した時には手遅れで、あなたがたはその機会を逸したことになるであろう。あなたがたの望みが如何に強かったとしても、神が業を行わなくなった場合、あなたがたが重ねてきた努力を問わず、あなたがたは決して完全にされ得ないであろう。あなたがたは、この機会をとらえ、聖霊の大いなる業により協力する必要がある。あなたがたは、この機会を逃したならば、どれほど努めてもその機会は二度と与えられないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全とされるためには神の旨に配慮する必要がある」より

受動的に神に付き従う者となってはならず、好奇心をそそる物事を追求してはならない。あなたは冷たくも熱くもないので、あなたは自分を喪失し、人生に遅れを生じさせるだろう。あなたは、真理を得て、それを行動で示すことができるように、自分の受動性と不活性を排除し、肯定的な物事の追求と自分の弱みを乗り越えることに熟達する必要がある。あなたの弱みについて、恐れることは一切無く、あなたの欠点は最大の問題では無い。あなたの最大の問題であり、最大の欠点であるのは、冷たくも熱くもなく、真理を追求する望みが欠如していることである。あなたがた全員の最大の問題は、臆病な精神により物事の現状に満足し、受動的に待っていることである。それがあなたがたにとって最大の障害であり、あなたがたが真理を追求する際における最強の敵である。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

終日自分の不安のことだけを考え、真理について調べ、既知の真実を実践することが出来ない者も居る。こうした行動は極めて不合理であり、そうした者は生来苦悶する者であり、祝福を得ていながらそれを享受しない者なのだ。道はそこに有り、人間に必要とされるのは、それを実践することのみである。真理を実践すると決心したならば、自分の弱点や致命的な欠点は変化し得るものであるが、常に注意し、一層多くの苦難を受ける必要がある。神への信仰には、分別のある心が必要である。そのような不用意な方法で、正しく神を信仰することが出来であろうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理を愛する者には進むべき道が有る」より

真理を断念するのは、自分が既に救われない領域に達していると考えていることが原因であり、そのため最も基本的な真理でさえも断念してしまう。それは、自分は真理を実践不可能であるというよりも、むしろ真理を実践する機会を断念するということである。真理を断念しても、変化することが出来るであろうか。真理を断念したならば、神への信仰の意味は、どこにあるであろうか。「性情の変化を追求するのが何時であっても、それは正しい」は既述のことではなかろうか。それを既に忘れたであろうか。あなたがたは、救われる者の人数が寡少であることを覚えているので、自分に望みが無いと感じている。肯定的に追求していなければ、否定的な物事が起こるのではなかろうか。それでは、どうすれば否定的にならずに居られるであろうか。それゆえに言っておくが、自分自身を正確に見る必要があり、真理を断念してはならない。

『キリストの言葉の記録』の「自分自身を正確に見ること、そして真理を断念しないこと」より

進んで完全にされたいと思う人たちなら誰でも、完全にされる機会がある。だから皆リラックスしていなければならない。将来、あなたがたはみな終着点に入るだろう。しかし、もしあなたが進んで完全にされようとせず、素晴らしい領域に入ることを願わないなら、それはあなた自身の問題である。喜んで完全にされようとし、神に忠実である人たちすべて、服従する人たちすべて、そして自分の役目を忠実に成し遂げる人たちのすべて――そのような人たちはすべて完全にされることができる。今日、自分の本分を忠実に果たさない人たちすべて、神に忠実でない人たちすべて、神に服従しない人たちのすべて、とりわけ聖霊の啓示と光を受けたが、それを実践しなかった人たち――そのような人たちは完全にされることはできない。神に喜んで忠実に従う人たちは誰でも、たとえ彼らが多少無知であっても、完全にされることができる。喜んで求めている人たちはすべて完全にされることができる。これを心配する必要はない。あなたがこの方向で進んで追求している限り、あなたは完全にされることができる。わたしはあなたがたの中でこの様な人たちのひとりでも進んで見捨てたり、排除したりすることは願わないが、もし人が一生懸命努力しないなら、あなたは自分自身を破滅させているだけである。あなたを排除するのはわたしではなく、あなた自身である。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

人の人生はすべて神の手中にあり、神の御前における決心がなければ、誰が空虚な人の世界で無駄な人生を送ろうと思うのか。わざわざそうする必要があるのか。この世に生まれ死にゆく人生を急ぎ、神のために何も行わないならば、人生すべてを無駄にすることにはならないか。もし神があなたの行為を語るに値しないと見なされたとしても、死ぬ瞬間、幸せな笑みを浮かべてもらえないだろうか。前進し、後退しないように努めるべきである。これはより良い慣行ではあるまいか。

『言葉は肉において現れる』の「三十九番目の言葉の解釈」より

大部分の人々は常に進取的であり、飽くことが無い。そうした人々は皆、神が現在切望している意向に関する知識が欠如しているので、逃避願望を抱いている。そうした人々は野に出て、手綱から解き放たれた野生の馬のように走り回ることを常に望んでいる一方、良きカナンの地に定住して人間的生活を求める者は希にしか居ない。そうした人々が乳と蜜の流れる地に入ったならば、乳と蜜を授かることしか考えないのではなかろうか。率直に言って、良きカナンの地の外は、どこも荒野である。人間は安息の地に入った時でさえ、自らの本分を維持することが出来ない。そうした人間は単なる淫らな者ではなかろうか。そうした環境において、あなたがたが神により完全にされる機会を失うならば、それは余生を通して悔いる事となり、あなたがたは計り知れず遺憾に思うであろう。結局あなたがたは、カナンの地を見つめるだけでカナンを得られず、拳を堅く握って、後悔で満たされて死んだモーセのようになるであろう。あなたがたは、それを恥だと思わないだろうか。あなたがたは、他人に嘲笑われるのを恥辱だと思わないだろうか。あなたがたは、他人に辱められることを望んでいるであろうか。あなたがたには、立派になろうと努める精神があるのではなかろうか。あなたがたは、神により完全にされる、誉れある正直な人間になりたいのではなかろうか。本当にあなたがたは決断力に欠けている者であろうか。あなたがたは他の道へと進むことを望まないが、神が定めた道を歩むことも望まないのだろうか。あなたがたは敢えて天の旨に反して進むのであろうか。あなたがたは、自分の技能が如何に優れていたとしても、本当に天に逆らうことが出来るだろうか。私は、自分を知るのが私達にとって最善であると思う。神のひと言で天と地は変化するのであるから、貧相で小さな人間は神にとってどのように見えるであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「路……(七)」より

神は罰により人間を征服することを望まない。神は常に人間を強制することを望まない。神は、人間が神の言葉に従い、鍛錬された要領で業を行い、よって神の旨を満たすことを望んでいる。しかし、人間は恥知らずで、常に神に反逆する。私達にとって最善なのは、神を満足させる最も簡明な方法を見出すこと、すなわち神の采配の全てに従うことであると私は考える。そして、あなたがたが真にそれを実現できるならば、あなたがたは完全にされるであろう。これは平易で楽しい事ではなかろうか。他人の言葉を気にせず、考えすぎずに、自分の歩むべき道を進む必要がある。あなたがたは、自分の将来や運命を自ら掌握しているであろうか。あなたがたは常に逃げ出してこの世の道を進みたがるが、そこから抜け出せないのは何故だろうか。あなたがたが分かれ道で何年も躊躇し、結局またしてもその道を選ぶのは何故だろうか。あなたがたが長年彷徨い続けた後に、自分自身ではなく、その家に戻っているのは何故だろうか。それは単にあなたの個人的問題だろうか。この流れの中に居る者いとって、このことを信じないならば、私の言葉を聞くように。すなわち、あなたがたに立ち去る計画があるならば、待ち、あなたがたが立ち去るのを許すかどうか、そして聖霊がどのようにあなたがたを感激させるかを確認し、それを自分で経験するように。はっきり言えば、あなたがたが不幸に見舞われたとしても、あなたがたはこの流れの中でその不幸を受ける必要がある。そして苦難があるならば、あなたがたはその苦難を今ここで受ける必要があり、逃げ出すことは出来ない。あなたがたは、そのことが明瞭に理解できるだろうか。あなたがたは、何処へ向かうだろうか。これが神の律法である。あなたがたは、神がこの人間の集団を選ぶことは無意味だと考えているであろうか。現在の神の業において、神は容易に怒ることが無いが、人間が神の計画を阻害したならば、神は表情を変え、即座に晴天を曇天へと変えることもある。ゆえに、腰を据えて神の計画を尊重すること、そして神が自分を完全にできるようにすることを、あなたがたに進言する。賢者となるには、この方法によるしかない。

『言葉は肉において現れる』の「路……(七)」より

わたしの言葉の外で生き、試練を逃げている人々、彼らは世界を漂っていないだろうか。彼らはあちらこちらへひらひらと揺れる秋の葉のようで、休む場所もなく、ましてやわたしの慰めの言葉などない。わたしの刑罰や精錬が彼らの後を追うことはないが、彼らは天国の外の通りをあてもなくさまよう乞食ではないだろうか。世界は真に、あなたの安息の場所だろうか。あなたは本当に、わたしの刑罰を避けることでこの世から安堵の微笑みを得ることができるだろうか。あなたは本当に、つかの間の楽しみで隠しおおせない空虚さを覆うことができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

あなた方一人ひとりが自らの本性を知るべきである。あなた方のほとんどが議論は得意であり、理論的な質問に対する答えはすらすらと出てくるが、実質的な問題になると何も言うことがないのである。今日でさえ、あなた方は未だに浅はかな会話に身をゆだね、自分の古い本性を変えることができずにいるし、あなた方のほとんどは、より高い真理を達成するために追求する方法を変えるつもりがなく、いいかげんに自分の人生を生きているだけである。このような人たちがどうして最後まで神に従うことができるだろうか。たとえ道の最後まで辿り着けたとしても、あなた方にとってそれが何の得になるだろう。手遅れになる前に、真剣に追及するか、あるいは早く負けを認めて放棄して、考え方を改めた方が良い。時間がたつにつれ、あなた方は人にたかる寄生虫になる。そんな低くて卑しい役をあなた方は演じるつもりなのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

私は、理論について語るのを止め、現実の物事、実在し、実体のある物事について語り、「現代美術」を研究し、現実的な話をし、実話を語り、貢献精神を持つよう、全ての者に要請する。話をする時に現実と対峙するようにし、人々を満足させたり、自分に関して人々の見方が変わるように非現実的で大袈裟な話をすることに没頭してはならない。そうすることに、どのような意義があるであろうか。人々を自分に熱狂させることに、何の意味があるだろうか。自分が話をする時は「創造力」を働かせ、自分の行動を公正に判断し、自分の業に合理的に取り組み、人々に話をする時は現実的に話をし、全ての行動において神の家に利益をもたらすことを念頭に置き、良心で自分の感情を律し、恩を仇で返したり、恩に対して感謝しない事の無いようにし、偽善的にならないようにしなければ、あなたがたは悪影響となる。あなたがたが神の言葉を食べ飲みする時、それを現実と一層関連づけ、交流する時は現実的な物事について一層多く語るようにし、人を見下してはならない。神はそうした行為に反対する。より辛抱強く寛容になって、一層多く容認し、寛大になって人々に隠し立てしないようにし、「首相の精神」から学ぶこと。自分の中に好ましくない考えがある場合、肉の捨て去りを実践すること。あなたがたが業を行っている時は、比較的現実的な道について述べ、高尚になり過ぎてはならない。高尚になり過ぎると、人々は話を理解できなくなるであろう。享受を減らし、貢献を増やして、自分の無私な精神と献身を示すこと。神の旨に一層配慮し、自分の良心の声に一層耳を傾けること。また神があなたがたに対する懸念のためにあなたがたに対して忠告する方法を、忘れずに心に留めておくこと。「昔の暦」を一層頻繁に読むこと。一層頻繁に祈りをささげ、一層多く交わること。あまり混乱し過ぎないようにし、理知を示して識見を得ること。罪の手が伸びた場合は、その手を引いて、あまり伸びすぎないようにすること。それは無益である。あなたがたが神から得るのは呪いだけであるので、注意すること。自分の心で他人を憐れむこと。そして常に武器を持って攻撃しないこと。いのちに関して提供する物事、話す物事を一層増やし、他人を助ける精神を忘れないこと。行動を増やし、話を減らすこと。実践する事柄を増やし、調査や分析することを減らすこと。聖霊に感激させられることを増やし、神が自分を完全にする機会を増やすこと。人間的な行動方法が依然として多すぎるので、排除する人間的要素を増やすこと。表層的な行為と態度はそれにも増して忌まわしい。そうした行為や態度は一層排除する必要がある。あなたがたの精神状態はさらに忌み嫌うべきものである。それを更に是正すること。あなたがたの心の中では、人々の地位が高すぎる。神に一層高い地位を与え、不合理が過ぎてはならない。「神殿」はそもそも神のものであって、人間のものであってはならない。つまり、義に一層重点を置き、感情の重点を減らし、肉を排除するのが最善である。現実について一層多くを語り、知識を語る量を減らし、黙しているのが最善である。実践の道について一層多くを語り、価値の無い大袈裟な話を減らし、今すぐ実践を始めるのが最善である。

『言葉は肉において現れる』の「現実性に一層重点を置くこと」より

この道において、多くの人たちは多くの認識を語るが、死ぬ際には、目は涙で溢れ、生涯を無駄にし老齢になるまでいたずらに過ごしたことを嫌悪することになる。理解するだけで、神に栄光を帰す機会を持っていなかった。生涯を諍いに生き、あちらこちらに旅をすることに費やし、死期が来ると、心には後悔が生まれる。死ぬ間際になって初めて、多くの人たちは気が付き、人生の意味を認識するのである。これでは遅くないだろうか。なぜ今日、自分が愛する真理を求めないのか。なぜ明日まで待っているのか。もし真理のために苦しまず、真理を得ることを求めないなら、死ぬ間際に後悔することを望んでいるのだろうか。もしそうなら、何故神を信じるのか。実際、もし人が少しでも努力するなら、真理を実践でき、神に満足してもらえる事柄が沢山ある。人の心は絶えず悪魔に占領され、神のために行動することができない。むしろ、絶えず肉のためにあくせくして走り回り、最終的には何の利益も生まれない。人が絶えず困難や苦悩を抱えるのはこれらが理由である。それらはサタンからの苦痛ではないか。これは肉の堕落ではないか。あなたは口先だけで神を騙すべきではない。むしろ、実質的行動を取らなければならない。自分自身を欺くべきではない。そんなことをして何の意味があるのだろうか。肉のために生き、名声や富を得るために骨を折って、一体あなたは何を得ることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より

あなたがたが生きている毎日は大切で、あなたがたの終着点や運命にとって、とても大切である。だから、あなたがたは持っているものすべて、そして過ぎていく一分一分を大事にしなければならない。あなたがたは最も多く利益をあげるように、時間を有効に使わなければならない。そうすれば、あなたがたはこの人生を無駄に生きたことにはならない。おそらく、あなたがたはなぜわたしがこのようなことを話しているか困惑しているかもしれない。率直に言って、わたしはあなたがたの誰の行動も喜んでいない。というのは、わたしがあなたがたに抱いていた望みは、到底今のあなたがたのようなものではないからである。だから、わたしはこのように表現することができる。あなたがたはすべてまさに危険にさらされている。過去にあなたがたが切実に求めた救いと、あなたがたの真理を追求し光を求める以前の熱望は終わりに近付いている。結局はこれが、あなたがたのわたしへの報い方であり、それはわたしが決して望んでいなかったものである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは誰に忠実か」より

わたしはずっと人にとても厳しい規範を守らせてきた。わたしは、己の考えによってわたしを欺き、条件をもってわたしに強要する者が大嫌いなので、もしあなたの忠誠が己の考えや条件を伴うものであるなら、あなたの忠誠と呼ばれるものなどむしろない方がよい。わたしが人に望むことは、わたしだけに忠実であり、すべてのことをただ「信仰」の一語のために行い、「信仰」の一語を証明することである。わたしは、あなたがたがわたしを喜ばせようとして甘い言葉を使うのを軽蔑する。わたしはいつも、完全な誠実さをもってあなたがたに接しているので、わたしはあなたがたにも、わたしに対して本当の信仰をもってふるまってほしいと願う。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より

わたしは今日、いつもの会話としてあなたがたに話しているのではない。したがって、わたしの言葉を真摯に受け止めるだけでなく、それらについて深く考えなければならない。すなわち、わたしはあなたがたがわたしの語った言葉に対する努力を怠りすぎていると言っているのである。神の性質となると、さらにいっそう考えようとせず、これに対して努力を費やす人もほとんどいない。このため、わたしはあなたがたの信仰が大仰な言葉に過ぎないと言うのである。今でさえも、誰一人として自分の最も致命的な弱点に真の努力を注いでいる者はいない。あなたがたのためにあれこれ心を砕いたにも関わらずあなたがたはわたしを失望させた。誰もが神を無視し、真理を欠く生活を送っているのも当然である。このような人々が聖なる者と見なされることがあろうか。天はそのようなことを許さない。あなたがたの理解はあまりにも乏しいので、わたしはさらに語らざるを得ない。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」より

あなたは、わたしの言葉を信じるであろうか。あなたは、報いを信じるであろうか。あなたは、わたしを騙して裏切るような邪悪な者を、わたしがすべて罰すると信じているであろうか。あなたは、その日が早く来ることを望むであろうか、それとも遅く来ることを望むであろうか。あなたは、罰を強く恐れる者であろうか、あるいは罰を受けるべきであってもわたしを拒むような者であろうか。その日が来た時、あなたは自分が明るく笑って生活しているか、それとも泣きながら歯ぎしりしているかを想像できるだろうか。あなたは、どのような結末を得ることを望むだろうか。あなたは、自分がわたしを100パーセント信じるか、それともわたしを100パーセント疑うかを真剣に検討したことがあるだろうか。あなたは、自分の行動と態度により自分が受ける結末と最後がどのようなものとなるかを注意深く検討したことがあるだろうか。わたしの言葉がひとつずつ実行されることを本当に望むであろうか、あるいはそのことを強く恐れているであろうか。わたしが自らの言葉を実行するために間もなく去ることを、あなたが望むのであれば、あなたは自分の言葉と行動を、どのように扱うべきであろうか。わたしが去ることを望まず、わたしの言葉が全て直ちに実行されるのを望まないのであれば、あなたは一体なぜわたしを信じるのであろうか。あなたは、自分がなぜわたしに付き従っているかを本当に知っているだろうか。それが単に自分の視野を広げるためであったとしたら、あなたはそのような苦悩を受ける必要が無い。それが祝福を受けて今後の災禍を避けるためであるとすれば、あなたが自分の行動を懸念しないのは何故だろうか。あなたは何故、自分がわたしの要求を満たせるかどうかを自問しないのだろうか。あなたは何故、自分が今後わたしの祝福を受けるに相応しいかどうかを自問しないのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より

いずれにしても、真理を重んじない者はすべて、不信仰者であり真理を裏切る者であると言おう。そのような人は決してキリストの承認を得ることはできない。あなたの中にどれほど多くの不信仰があるのかあなたは今、分かっただろうか。そしてあなたは、どれほどキリストを裏切っているだろうか。わたしはあなたに以下のことを熱心に勧める。あなたが真理の道を選んだのだから、あなたは誠心誠意献身すべきである。あいまいなどっちつかずの態度であったり、気のりのしない態度であったりしてはならない。神は世界にも、一人の人間にも属さず、本当に神を信じ、礼拝し、献身的で忠実な者すべてのものに属することを知るべきである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より

最後に、あなたがた全員が自分の終着点のため真剣に努力することを望むが、努力する際は、虚偽的な方法は利用しない方が良いだろう。さもなければ、あなたがたについて、私の心は落胆するであろう。こうした落胆の結果、どうなるであろうか。あなたがたは自分をごまかしているのではないだろうか。自分の終着点のことを懸念しつつ、それを破滅させる者は、全く救われることが無いであろう。そうした者が憤慨したとしても、誰が共感するであろうか。とにかく、私は依然として、あなたがたが適切かつ良好な終着点を得るよう願うことを望む。それにもまして、私は、あなたがたのうちに災いに遭う者が一切居ないことを願っている。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

あなたがたから去る前に、わたしは真理に沿わないことをしないようにと依然として熱心に勧める。むしろ、あなたがたはすべての人が喜ぶようなことをし、すべての人やあなたがた自身の終着点に益があるようなことをするべきである。さもなければ、災いに苦しむ者は、他ならぬあなたがたとなるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

あなたがたは自分の行いに注意し、自分に降りかかること全てに注意するように。軽はずみに何かをしたり衝動的に何かをしたりすることのないように。神や人、物事そして神が用意した物事を急いで扱ったり、ありのままで対応したり、想像や概念に従って扱ってはならない。自分の行いに注意深くし、更に祈り、求め、神の怒りを招くことのないようにしなさい。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

神の救いの過程や神があなたの結末を決定する時、神があなたに与えるのが、哀れみであるか、寛容であるか、裁きであるか、刑罰であるかを問わず、あなたに対する神の姿勢は一定ではない。その姿勢は、あなたの神に対する姿勢や、あなたの神に関する理解により異なる。あなたの一時的な認識や解釈で神を永久的に定義しないこと。死んだ神でなく、生きている神を信仰すること。……あなた方の心にある神への愛と、神を敬う姿勢を用いて今後の道を歩んでほしい。神への信仰をどのように扱うかに関する問題で混乱しないこと。その問題を、最も重要な問題のひとつとして扱うこと。その問題を自分の心に留め、実行に移し、実生活と関連させること。口先だけの美辞麗句として用いないこと。なぜなら、これは生死にかかわる問題であり、あなた方の運命を決める問題だからである。この問題を子どもの遊びのような、冗談として扱わないこと。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を深く悲しむ。神は、人類の、没落に向かう緩やかな行進と帰り道のない行路に対し、悲しみを感じる。神の心を打ち砕き、神を裏切って悪者を求めるこのような人類はどこへ向かうか、誰も考えたことがない。まさにこの理由により、誰も神の怒りを知覚しないのである。神を喜ばせるための道を探す者、あるいは神により近づこうと努める者は誰もいない。さらに、神の悲しみと苦痛を理解しようとする者は誰もいない。たとえ神の声を聴いた後であっても、人は神の恵みと配慮を避け、神の真理を遠ざけて、神から離れた道を進み続け、彼はむしろ、神の敵であるサタンに自分の身を売り渡す。そして、神を棄て去った悔い改めない人に対して、神がどのように振るまうか、いくらかでも考えてみた者はあるだろうか。神が繰り返し注意や呼びかけを行うのは、神が準備した、人の肉と霊魂にとって耐えられない前例のない災いをその手にもっているからであるということを知る者は、誰もいない。この災いは、単に肉の懲罰だけではなく、霊魂の懲罰でもある。あなたはこのことを知っていなければならない。すなわち、神の計画が無効にされ、神の注意と勧告が何の反応も生まないときに、神はいかなる怒りを解き放つだろうか。これは、いかなる被造物も今までに経験したことも聞いたこともないものであろう。そして、この災いは前例がなく、決して繰り返されない、とわたしは言おう。これは、神の計画の中にはただひとつの創造とただひとつの救いしかないからである。これは最初であり、最後でもある。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

今わたしはあなたにひとつの秘密を教えよう。神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にも推し測ることができない。これは今もそうであり、昔もそうであったし、これからもそうであろう。わたしが伝える第二の秘密はこれである。すべての被造物のいのちの源は神から来るのである。いのちの形や構造にいかなる違いがあっても、あなたがどのような生命体であっても、神が定めたいのちの道と逆方向に動くことはできないのである。いずれにしても、わたしが人に理解してほしいことは、人がどんなに努力しても、奮闘しても、神の配慮、守り、備えなしには、人は受け取るはずであったものを何も受け取ることができないということである。神からのいのちの供給なしには、人は生きる価値を失い、いのちの意義を失う。神のいのちの価値を無駄にする人が、それほどのんきでいることを神がどうして許すことができるだろうか。もう一度言うが、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。もし人が、神が授けたものを大事にできなければ、神は与えたものすべてを取り戻すだけではなく、人は神が費やしたものすべてを償うために、二倍を返さなくてはならないのである。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より