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全能神、終わりの日のキリストの代表的な言葉

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XI 神の求め、奨励、警告、慰めについての代表的な言葉

(Ⅱ)人への神の奨励についての代表的な言葉

 イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、のんきであってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

 真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど幸運ではない人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自らをいい加減に扱ってはならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

 多くの者が、神の二度目の受肉について受け入れ難いものを感じる。なぜなら、神が受肉して裁きの働きを行うことは、人には信じ難いからだ。しかしわたしはあなたに告げなければならない。神の働きは往々にして人の予測をはるかに超えるもので、人の頭がそれを受け入れるのは難しいのだと。というのも、人は地上のウジ虫にすぎないが、神は宇宙を満たす至高の存在だ。人の頭は、ウジ虫しか生み出さない汚い水たまりに過ぎないが、神の考えに支配されたひとつひとつの働きは、神の知恵による結晶だ。人は、常に神に敵対することを望む。それなら結局誰が負けることになるかは自明だと、わたしは言おう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

 わたしは強く勧める、あなたがたがみな自分を金より重要だとみなさないようにと。もし他の人たちが神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたはできないのか。彼らに比べてあなたがどれほどの高みにいるというのか。もし他の人たちが真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたも同様にできないのか。神の働きの偉大な潮流を止めることはできない。神は、あなたの「功績」のために裁きの働きを繰り返すことはなく、あなたはそんな好機を逃したことを痛烈に後悔するだろう。もしあなたがわたしの言葉を信じないなら、天の偉大な白い玉座があなたの上に「裁きを下す」のを待つが良い!

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

 あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。……わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

 いのちを追求しない者は変化させられることは出来ない。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたは自分の変化の追求といのちに入ることに重点を置かず、度を越した欲望や、神への愛を閉じ込め、あなたが神に近付くことを阻む物事に常に重点を置く。そのような物事があなたを変化させることが出来るであろうか。あなたを神の国へと導くことが出来るであろうか。あなたの追求の目的が真理を求めることでないならば、これを機に俗世に戻ってそこでの成功を目指せばよいであろう。このようにして時間を無駄にするのは全く無価値である。なぜ自分を苦しめるのか。美しい世界であらゆる物事を楽しめないことがあろうか。金銭、美女、地位、虚飾、家庭、子供など、このような俗世の産物はどれもあなたが享受できる最高の物ではないのか。幸せになれる場所を探して、ここをさまようことが何の役に立つというのか。人の子が枕する所がないのであれば、どうしてあなたが安住の地を得る事が出来ようか。どうして主があなたのために美しい安住の地を造ることが出来ようか。それは可能であろうか。わたしの裁き以外に、現在あなたは真理に関する説教を受けることしか出来ない。あなたはわたしから安楽を得ることも、日夜思い描いているような幸福の巣を得る事も出来ない。わたしはあなたにこの世の富を与えない。あなたが真に追求するならば、わたしはあなたにいのちの道の全てを与え、あなたを水を得た魚のようにすることをいとわない。あなたが真に追求しないのであれば、わたしはそれを全て取り上げるであろう。安楽に貪欲で豚や犬のような者にわたしの口から言葉を与えるつもりはない。

『言葉は肉において現れる』の「なぜ引き立て役になる覚悟がないのか」より

 現在、あなたはわたしが語る言葉を信じず、わたしの言葉を全く気にかけない。この働きが広まる日が来て、あなたがその全てを目にする時、あなたは後悔し、唖然とするであろう。祝福はあるが、あなたはそれを享受することを知らない。また真理はあるが、あなたはそれを追い求めない。あなたは、自分自身を侮辱しているのではなかろうか。現在、神の働きの次の段階はまだ始まっていないが、あなたに対する要求や、あなたが実際に生きるよう求められている事には、何も例外的な事はない。極めて多くの働きと多くの真理があるのだが、それらには、あなたに知られる価値があるのではなかろうか。神の刑罰と裁きは、あなたの霊を目覚めさせることができないのであろうか。神の刑罰と裁きは、あなたに自分を憎ませることができないのであろうか。あなたは、サタンの影響の下で、平安と悦楽と、少しばかりの肉の享楽と共に暮らすことに満足しているのであろうか。あなたは全ての人々のうちで最も卑しい者ではなかろうか。救いをその目で見たことがあるが、それを得るよう追求しない者よりも愚かな者はいない。彼らは、肉を貪り食い、サタンを堪能する人々である。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

 あなたの信仰は貧弱なので、いのちが与える喜びを今日まで見出すことができないままだ。わたしはあなたに助言する――人生の全てを平凡で肉のための多忙な日々として送り、耐え難い苦しみを耐えて生きるより、その半分をわたしの為に真心から生きるようにと。わたしの刑罰から逃げるほどまで、自身を大事にして何の役に立つのだろうか。永遠の苦難、永遠の刑罰の報いをただ取り込んでしまうためにわたしの一時的な刑罰から自身の身を隠すことは何のために役立つのだろうか。わたしは、実際には誰も強制的にわたしに従わせることはしない。もし人が、わたしの全ての計画に喜んで従うなら、わたしはその人を粗末には扱わない。しかし、わたしは、すべての人が、ヨブがわたしヤーウェを信じたようにわたしを信じることを要求する。もしあなた方の信仰がトマスのそれを超えているなら、わたしの称賛を得、あなた方の忠誠心はわたしの喜びを得、あなた方の日々においてわたしの栄光を見出すだろう。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

 あなたは、神により完全にされる機会を求めず、完全にされることの追求に努めないのであれば、最終的に良心の呵責で満たされるであろう。完全にされる絶好の機会、絶好の時は、今である。あなたが神による完全化を熱心に追求しないならば、神の業が完了した時には手遅れで、あなたはその機会を逸したことになる。あなたの望みが如何に強かったとしても、神が業を行わなくなった場合、あなたが重ねてきた努力を問わず、あなたは決して完全にされ得ないであろう。あなたはこの機会をとらえ、聖霊の大いなる業により協力する必要がある。あなたは、この機会を逃したならば、どれほど努めてもその機会は二度と与えられないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全とされるために神の旨に配慮する」より

 受動的に神に従う者となってはならず、好奇心をそそることを追求してはならない。あなたは冷たくも熱くもないので、あなたは自分を喪失し、いのちの成長を遅れさせるだろう。あなたは、真理を得て、それを実際に生きることができるように、このような消極性と不活発を取り除き、肯定的なことの追求と自分の弱さを克服することに熟達しなければならない。あなたの弱みについて、恐れることは一切なく、あなたの欠点はあなたの最大の問題ではない。あなたの最大の問題であり、最大の欠点であるのは、あなたが冷たくも熱くもなく、真理を追求する願望に欠けていることである。あなた方すべての最大の問題は、臆病な精神によりことの現状に満足し、受動的に待っていることである。それがあなた方にとって最大の障害であり、あなた方が真理を追求することにおける最強の敵である。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

 ここでもうひとつ覚えておいて欲しいことがある。誰々はこういう人だからとか、こんな事をしたからといってあなた方のうちに誤解を生じさせて、霊的に衰退することのないようにしなさい。わたしにとって、それは不適切で無意味なことである。あなたが信じるのは、人間ではなく神ではないのか。役割が全く違うのである。からだはひとつ。それぞれが自分の本分を尽くし、それぞれの持ち場で最善を尽くし──幾分熱があれば、その分光を発する──いのちの成長を求めなさい。そうすれば、わたしは満足する。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十一章」より

 進んで完全にされようとし、神に忠誠を尽くす者たち、服従する者たち、そして自分の役割を忠実に果たす者たち、──そのような人たちは皆、完全にされることが可能である。現在、自分の本分を忠実に尽くさない者たち、神に忠誠を尽くさない者たち、神に服従しない者たち、とりわけ、聖霊の啓示と照らしを受けたが、それを実践しなかった者たち、──そのような人たちはみな完全にされることが不可能である。神に進んで忠誠を尽くし、従う者は、たとえ多少無知であっても、皆完全にされることが可能である。進んで追求する者たちは皆完全にされることが可能である。この点で心配する必要はまったくない。あなたが進んでこの方向を追求している限り、あなたが完全にされることは可能である。わたしは、あなたがたの中の誰をも、見捨てたり、排除したりすることを願わないが、もし人が一生懸命努力しないなら、あなたは自分自身に破滅をもたらしているだけである。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行くこと」より

 人の人生はすべて神の手中にあり、神の前における決心がなければ、誰が空虚な人の世界で無駄な人生を送ろうと思うのか。わざわざそうする必要があるのか。慌しくこの世に来て去っていき、神のために何も行わないならば、人生すべてを無駄にすることにはならないであろうか。もし神があなたの行為を語るに値しないと見なしたとしても、死ぬ瞬間、幸せな笑みを浮かべないだろうか。前進し、後退しないように努めるべきである。これはより良い実践ではあるまいか。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の解釈」の「第三十九章」より

 大部分の人々は常に進取的であり、飽くことがない。彼らは皆、神が現在切望している意向に関する認識が欠如しているので、逃避願望を抱いている。彼らは手綱から解き放たれた野生の馬のように大自然の中を走り回ることを常に望んでいる。しかし、良きカナンの地に定住して人間的生活を求める者は希にしかいない。そうした人々が乳と蜜の流れる地に入ったならば、それを享受することしか考えないのではないであろうか。率直に言って、良きカナンの地の外はどこも荒野である。人々は安息の地に入った時でさえ、自らの本分を維持することが出来ない。そうした人々は単なる淫らな者ではないであろうか。その環境において神により完全にされる機会を失ったならば、それは余生を通して悔いる事となり、計り知れず遺憾に思うであろう。結局あなたは、カナンの地を見つめるだけでカナンでの生活を享受することができず、拳を堅く握って後悔で満ちたまま死んでいったモーセのようになるであろう。それを恥ずかしいことだとは思わないのだろうか。他人に嘲笑われるのを恥辱だと思わないのだろうか。他人に辱められることをいとわないのであろうか。立派になろうと努める気持ちがないのであろうか。神により完全にされる誉れある正直な人間になる覚悟がないのであろうか。本当に決断力に欠けている者なのであろうか。他の道へと進む覚悟はないが、神が定めた道を歩む覚悟もないのだろうか。敢えて天の旨にはむかうのであろうか。あなたの技能が如何に優れていたとしても、本当に天に逆らうことが出来るのだろうか。わたしはまず自分を知るのがわたしたちにとって最善であると思う。神の一言で天と地は変化するのであるから、貧相で小さな人は神の目にどのように映るであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「道…… (7)」より

 神は罰により人間を征服することを望まない。神は常に人間を強制することを望まない。神は、人間が神の言葉に従い、鍛錬された要領で働きを行い、これにより神の旨を満たすことを望んでいる。しかし、人間は恥知らずで、常に神に反逆する。それよりは神を満足させる最も簡明な方法を見出すこと、すなわち神の采配の全てに従うことが最善であるとわたしは考える。そして、真にこれを実現できるならば、あなたは完全にされるであろう。これは平易で楽しい事ではなかろうか。他人の言葉を気にせず、考えすぎずに、自分の歩むべき道を進みなさい。自分の将来や運命を自ら掌握しているのであろうか。常に逃げ出して世俗的な道を進みたがるのに、そこから抜け出せないのは何故だろうか。分かれ道で何年も躊躇し、結局またしてもこの道を選ぶことになるのは何故だろうか。長年彷徨い続けた後に、思わずこの家に戻っているのは何故だろうか。これは単にあなたの個人的問題だろうか。この流れにいる人々にとって、このことを信じないならば、わたしの言葉を聞くように。すなわち、離脱するつもりならば、そうすることを神が許すか否かをしばらく待って見極めよ。そして聖霊がどのようにあなたを動かすかを自分で経験するように。はっきり言えば、不幸に見舞われたとしても、この流れの中では苦難しなければならないのであり、そして苦難があるならば、その苦難を今ここで受けなければならず、他のどこへも行くことは出来ない。これが明瞭に理解できるだろうか。何処へ行くと言うのだろうか。これが神の行政命令である。神がこの人間の集団を選ぶことは無意味だと考えているのであろうか。現在の神の働きにおいて、神は容易に怒ることがないが、人々が神の計画を阻害しようとするならば、神は表情を即座に晴天を曇天へと変えることもある。ゆえに、腰を据えて神の計画に従うこと、そして神があなたを完全にすることができるようにすることを進言する。これが唯一の賢者となる方法である。

『言葉は肉において現れる』の「道…… (7)」より

 わたしの言葉の外で生き、試練を逃げている人々、彼らは世界を漂っていないだろうか。彼らはあちらこちらへひらひらと揺れる秋の葉のようで、休む場所もなく、ましてやわたしの慰めの言葉などない。わたしの刑罰や精錬が彼らの後を追うことはないが、彼らは天国の外の通りをあてもなくさまよう乞食ではないだろうか。世界は真に、あなたの安息の場所だろうか。あなたは本当に、わたしの刑罰を避けることでこの世から安堵の微笑みを得ることができるだろうか。あなたは本当に、つかの間の楽しみで隠しおおせない空虚さを覆うことができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

 あなた方一人ひとりが自らの本性を知るべきである。あなた方のほとんどが議論は得意であり、理論的な質問に対する答えはすらすらと出てくるが、実質的な問題になると何も言うことがないのである。今日でさえ、あなた方は未だに浅はかな会話に身をゆだね、自分の古い本性を変えることができずにいるし、あなた方のほとんどは、より高い真理を達成するために追求する方法を変えるつもりがなく、いいかげんに自分の人生を生きているだけである。このような人たちがどうして最後まで神に従うことができるだろうか。たとえ道の最後まで辿り着けたとしても、あなた方にとってそれが何の得になるだろう。手遅れになる前に、真剣に追及するか、あるいは早く負けを認めて放棄して、考え方を改めた方が良い。時間がたつにつれ、あなた方は人にたかる寄生虫になる。そんな低くて卑しい役をあなた方は演じるつもりなのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

 わたしは、理論について語るのを止め、現実の物事、純粋で実体のある物事について語り、「現代美術」を研究し、現実的な話をし、実話を語り、貢献精神を持つよう、全ての者に要請する。話をする時に現実と対峙するようにし、人々を満足させたり、自分に関して人々の見方が変わるように非現実的で大袈裟な話をすることに没頭してはならない。そうすることに、どのような意義があるであろうか。人々を自分に熱狂させることに、何の意味があるだろうか。自分が話をする時は「創造力」を働かせ、自分の行動を公正に判断し、自分の業に合理的に取り組み、人々に話をする時は現実的に話をし、全ての行動において神の家に利益をもたらすことを念頭に置き、良心で自分の感情を律し、恩を仇で返したり、恩に対して感謝しない事の無いようにし、偽善的にならないようにしなければ、あなたがたは悪影響となる。あなたがたが神の言葉を飲食する時、それを現実と一層関連づけ、交流する時は現実的な物事について一層多く語るようにし、人を見下してはならない。神はそうした行為に反対する。より辛抱強く寛容になって、より多く譲歩し、寛大になって人々に心を開き、「首相の精神[a]」から学ぶこと。自分の中に好ましくない考えがある場合、肉の捨て去りを更に実践すること。あなたがたが働いている時は、現実的な道について多く述べ、高尚になり過ぎてはならない。高尚になり過ぎると、人々は話を理解できなくなるであろう。享受を減らし、更に貢献して、自分の無私な精神と献身を示すこと。神の旨に一層配慮し、自分の良心の声に一層耳を傾けること。また神があなたがたに対する懸念のためにあなたがたに対して日々訓戒するのをもっと心に留めて忘れずにいること。「昔の暦」を一層頻繁に読むこと。一層祈りをささげ、もっと頻繁に交わること。混乱したままでいないようにし、理知を示して識見を得ること。罪の手が伸びた場合は、その手を引いて、あまり伸びすぎないようにすること。それは無益である。あなたがたがそのような状態であれば、あなたがたが神から得るのは呪いだけであるので、注意すること。他人を憐れむこと。そして常に武器を持って攻撃しないこと。いのちに関してもっと提供し、語り、他人を助ける精神を忘れないこと。行動を増やし、話を減らすこと。実践する事柄を増やし、調査や分析することを減らすこと。聖霊に更に動かされ、神が自分を完全にする機会を増やすこと。人間的な行動方法が依然として多すぎるので、人間的要素をもっと排除すること。表層的な行為と態度は未だに忌まわしい。そうした行為や態度は一層排除する必要がある。あなたがたの精神状態は未だに余りにも忌まわしい。それを更に是正すること。あなたがたの心の中では、人々が多くを占めすぎている。神に一層高い地位を与え、そのように不合理であってはならない。「神殿」はそもそも神のものであって、人間が占領してはならない。つまり、義に一層重点を置き、感情の重点を減らし、肉を排除するのが最善である。現実について一層多くを語り、認識を語る量を減らし、黙しているのが最善である。実践の道について一層多くを語り、価値の無い大袈裟な話を減らし、今すぐ実践を始めるのが最善である。

『言葉は肉において現れる』の「現実性に一層重点を置くこと」より

この道において、多くの人たちは多くの認識を語るが、死ぬ際には、目は涙で溢れ、生涯を無駄にして老齢になるまでいたずらに過ごしたことを嫌悪することになる。その人たちは教義を理解するだけで真理を実践することも神の証しをすることもできず、代わりにあちこち走り回ったり、蜂のように忙しくしているだけである。いったん死を目前にして、自分に真の証しがないこと、自分が神をまったく知らないことがようやくわかる。これでは遅くないだろうか。なぜ今日、自分が愛する真理を求めないのか。なぜ明日まで待っているのか。もし真理のために苦しまず、真理を得ることを求めないなら、死ぬ間際に後悔することを望んでいるのだろうか。もしそうなら、何故神を信じるのか。実際、もし人が少しでも努力するなら、真理を実践でき、神に満足してもらえる事柄が沢山ある。人の心は絶えず悪魔に占領され、神のために行動することができない。むしろ、絶えず肉のためにあくせくして走り回り、最終的には何の利益も生まれない。人が絶えず困難や苦悩を抱えるのはこれらが理由である。それらはサタンからの苦痛ではないか。これは肉の堕落ではないか。あなたは口先だけで神を騙すべきではない。むしろ、実質的行動を取らなければならない。自分自身を欺くべきではない。そんなことをして何の意味があるのだろうか。肉のために生き、名声や富を得るために骨を折って、一体あなたは何を得ることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より

 あなたは、若いからといって、自分を過小評価してはならない。あなたはわたしに自身を捧げるべきである。わたしは人々の外見や年齢は気に掛けない。わたしが心に留めるのは、彼らが心からわたしを愛するかどうか、他のすべてを無視して、わたしの道に従い真理を実践するかどうかである。明日がどうなるか、また将来がどのようになるかを心配するな。あなたが日々わたしに依り頼んで生きる限り、わたしは必ずあなたを導く。「私のいのちはあまりにも未熟だ。私は何も理解していない」というような思いに囚われるな。それはサタンによって送られた思いである。絶えずわたしに近づき、道の終わりまでわたしの足跡をたどるために、ただあなたの心を用いなさい。わたしの非難と警告の言葉を聞いて、目を覚ますとき、あなたは即座に前へ走らなければならない。わたしに近づくことを止めてはならない。群れの歩みに遅れないようにし、目を前に向け続けなさい。わたしの前であなたは心と魂のすべてを尽くして、あなたの神を愛さなければならない。奉仕の道において、わたしの言葉をもっと理解しようとしなさい。真理を実践する際、あなたは心弱くなってはならない。強い心を持ちなさい。男児の覚悟と気骨を持ち、そして強靭な心を持っていなさい。あなたがわたしを愛したいなら、わたしがあなたの中に達成することを望むすべてのことでわたしを満足させなければならない。あなたがわたしに従いたいなら、あなたが持っているもの、愛するものをすべて捨て、わたしの前にへりくだって従い、単純な心を持たなければならない。そして無作為に物事を研究したり考慮したりしてはならない。あなたは常に聖霊の働きについて行かなければならない。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十八章」より

 若者は理想や大志、進歩に対する熱心な性質を欠いているべきではない。前途について落胆したり、生活に希望を失ったり、あるいは将来への自信を失ったりすべきではない。若者は、人生のすべてをわたしのために費やしたいという願いを実現させるべく自らが選んだ真理の道を進み続ける忍耐力を持つべきである。真理を失うことなく、あるいは偽善や不義を隠すことなく、ふさわしい姿勢に硬く立つべきである。ただ流れに身をまかせるのではなく正義と真理のために身を捧げ戦う強い精神を持つべきだ。若者は暗闇の力の圧迫に屈服することなく、自らの存在の意味を変える勇気を持つべきである。若者は逆境の中で諦めるのではなく、赦しの精神をもって兄弟姉妹に対して開放的かつ率直であるべきだ。

『言葉は肉において現れる』の「若者と老人に向けた言葉」より

 兄弟たちよ、目覚めなさい!姉妹たちよ、目覚めなさい!わたしの日は遅れることはない。時は命であり、時を掴むことは命を救うことである。その時はそう遠くない。大学の入学試験を受けて不合格であれば、猛勉強して再挑戦することができる。だがわたしの日にはそのような先延ばしはない。覚えておきなさい。もう一度言う、覚えておきなさい。これらの善き言葉をもって強く説く。あなたの目の前でこの世の終わりが始まり、大きな災害が急速に迫る。あなた方にとって、いのちが大切か、それとも寝ること、食べること、飲むこと、着ることが大切か。あなた方がそれらのものを慎重に推し量る時が来た。これ以上疑っていてはならず、確信することを避けてはならない。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第三十章」より

 あなたがたが現在生きている毎日は大切で、あなたがたの終着点や運命にとって、とても大切である。だから、あなたがたは持っているものすべて、そして過ぎていく一分一分を大事にしなければならない。あなたがたは最も多くを得られるように、時間を有効に使わなければならない。そうすれば、この人生を無駄に生きたことにはならない。おそらく、あなたがたはなぜわたしがこのようなことを話すのか困惑しているかもしれない。率直に言って、わたしはあなたがたの誰の行動も喜んでいない。というのは、わたしがあなたがたに抱いていた望みは、到底今のあなたがたのようなものではないからである。だから、わたしはこのように表現することができる。あなたがたは皆、まさに危険にさらされている。過去のあなたがたの救いへの叫びと、真理を追求し光を求める以前の熱望は終わりに近付いている。結局はこれがあなたがたのわたしへの報い方であり、それはわたしが決して望んでいなかったものである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは誰に忠実か」より

 人々はこの短い期間、自分の肉を忘れることはできないのだろうか。神と人の間の愛を裂き得るものは何だろうか。誰が神と人の間の愛を引き裂き得るだろうか。それは両親だろうか、夫か、姉妹か、妻か、それとも痛みをともなう精練だろうか。良心が持つ感情は人間の心の中の神の姿を消し去ることができるだろうか。人々の互いの恩義と行動は、自ら出た行為だろうか。それらを人間は矯正することができるのだろうか。誰が自分自身を守ることができるだろう。人々は自らに施すことができるだろうか。人生で強いのは誰だろう。わたしから離れて独り立ちできるのは誰だろう。自分を顧みるようにと、すべての人々に向かって神が幾度も要求するのはなぜだろう。なぜ神は次のように言うのだろう。「自分の困難を自らの手で用意する人などあるだろうか。」

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の解釈」の「第二十四章と第二十五章」より

 わたしはずっと人にとても厳しい規範を守らせてきた。己の考えによってわたしを欺き、条件をもってわたしに強要する者がわたしは大嫌いなので、もしあなたの忠実が意図や条件を伴うものであるなら、あなたの忠実と呼ばれるものなどむしろない方がよい。わたしが人に望むことは、わたしだけに忠実であり、すべてのことをただある一語のために行い、その一語を証明することであり、その一語は「信仰」である。あなたがたがわたしを喜ばせようとして甘い言葉を使うのをわたしは軽蔑する。わたしはいつも、完全な誠実さをもってあなたがたに接しているので、わたしはあなたがたにも、わたしに対して本当の信仰をもってふるまってほしいと願う。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じる人なのか」より

 現在まで長年にわたり神を信じている者は、美しい終着点を望んで来ており、神を信じる全ての者は、幸運が突然自分に訪れることを望み、また知らないうちに、天国のどこかで安らかに落ち着いていたいと願う。しかし、こうした美しい考えを持った人々は、自分がそのような幸運を得たり、天国で居場所を得たりする資格があるかどうかを知らないとわたしは言っておく。現在のあなたがたは十分に自分のことを知っているが、それでも終わりの日の災いを逃れ、邪悪な者たちを罰する全能者の手から逃れることが出来るよう願っている。美しい夢を抱き、快適な人生を望むことは、誰かの思いつきではなく、サタンが腐敗させた人々全員の共通点であるかのように思われる。そうであっても、わたしはあなたがたの途方もない欲望と祝福を得ることへの熱望に終止符を打ちたいと思う。あなたがたの過ちが多数有り、反抗した事実が多数あり、増え続ける一方であることを考えると、どうしてそうした事柄があなたがたの美しい未来像に含まれることが有り得るだろうか。自分が満足するままに誤ったままで生活を送ることを望み、自分を思い留まらせる物事が全く無いが、それでもなお夢を叶えたいというのであれば、朦朧としたまま意識を取り戻さないよう勧める。なぜなら、あなたの夢は空虚であり、義なる神の前において自分を例外とするためには役立たないからである。

『言葉は肉において現れる』の「過ちは人間を地獄へ送る」より

 わたしは今日、いつもの会話としてあなたがたに話しているのではない。したがって、わたしの言葉を真摯に受け止めるだけでなく、それらについて深く考えなければならない。すなわち、わたしはあなたがたがわたしの語った言葉に対する努力を怠りすぎていると言っているのである。神の性質となると、さらにいっそう考えようとせず、これに対して努力を費やす人もほとんどいない。このため、わたしはあなたがたの信仰が大仰な言葉に過ぎないと言うのである。今でさえも、誰一人として自分の最も致命的な弱点に真の努力を注いでいる者はいない。あなたがたのためにあれこれ心を砕いたにも関わらずあなたがたはわたしを失望させた。誰もが神を無視し、真理を欠く生活を送っているのも当然である。このような人々が聖なる者と見なされることがあろうか。天はそのようなことを許さない。あなたがたの理解はあまりにも乏しいので、わたしはさらに語らざるを得ない。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より

 あなたは、わたしの言葉を信じるであろうか。あなたは、報いを信じるであろうか。あなたは、わたしを騙して裏切るような邪悪な者を、わたしがすべて罰すると信じているであろうか。あなたは、その日が早く来ることを望むであろうか、それとも遅く来ることを望むであろうか。あなたは、罰を強く恐れる者であろうか、あるいは罰を受けるべきであってもわたしを拒むような者であろうか。その日が来た時、あなたは自分が明るく笑って生活しているか、それとも泣きながら歯ぎしりしているかを想像できるだろうか。あなたは、どのような結末を得ることを望むだろうか。あなたは、自分がわたしを100パーセント信じるか、それともわたしを100パーセント疑うかを真剣に検討したことがあるだろうか。あなたは、自分の行動と態度により自分が受ける結末と最後がどのようなものとなるかを注意深く検討したことがあるだろうか。わたしの言葉がひとつずつ実行されることを本当に望むであろうか、あるいはそのことを強く恐れているであろうか。わたしが自らの言葉を実行するために間もなく去ることを、あなたが望むのであれば、あなたは自分の言葉と行動を、どのように扱うべきであろうか。わたしが去ることを望まず、わたしの言葉が全て直ちに実行されるのを望まないのであれば、あなたは一体なぜわたしを信じるのであろうか。あなたは、自分がなぜわたしに付き従っているかを本当に知っているだろうか。それが単に自分の視野を広げるためであったとしたら、あなたはそのような苦悩を受ける必要が無い。それが祝福を受けて今後の災禍を避けるためであるとすれば、あなたが自分の行動を懸念しないのは何故だろうか。あなたは何故、自分がわたしの要求を満たせるかどうかを自問しないのだろうか。あなたは何故、自分が今後わたしの祝福を受けるに相応しいかどうかを自問しないのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より

 わたしはあなたがたを征服するため、あなたがたに何度も警告し、多くの真理を与えた。現在、あなたがたは従前よりも豊かであると感じ、人間のあるべき姿の原則を多数理解し、信心深い者が備えるべき常識を多数得ているであろう。それが、あなたがたが現在まで何年もかけて得た物事である。あなたがたの成果は否定しないが、その長い年月の間におけるあなたがたのわたしに対する数々の反抗や反逆もまた否定しないと、率直に述べる必要がある。なぜなら、あなたがたのうちには聖人は居らず、例外無くサタンにより腐敗させられた人間であり、キリストの敵だからである。現在までのあなたがたの過ちと反抗は無数に有るので、わたしが自分自身の言った事を常に何度も繰り返していることは、少しも奇妙なことではない。わたしはあなたがたとそのように暮らしたくはないが、あなたがたの将来と終着点のため、ここでもう一度、従前述べたことを繰り返す。あなたがたがわたしの望みを叶えてくれること、それ以上に、あなたがたがわたしの言葉を全て信じることが出来ること、そしてさらにわたしの言葉の深い意味を推し量ることが出来ることを願っている。わたしの話に疑念を持たずに居ることや、勝手にわたしの言葉を選んで無視したりすることはさらにひどく、容赦できない。わたしの言葉を非難しないこと。ましてやわたしの言葉を軽視するのはなおのこと、わたしがいつもあなたがたを試しているなどと述べたり、さらにはあなたがたに対して述べた言葉が正確さに欠けるなどとは言わないこと。わたしはこれらの事柄を、容赦できない。あなたがたがわたしとわたしの話をそのような疑念をもって扱い、一切認めようとしないので、わたしはあなたがたそれぞれに対して真剣に言うが、わたしの話を哲学と関連づけたり、偽る者の嘘と一緒にしたり、わたしの言葉に侮蔑をもって応じたりしないこと。わたしがあなたがたに述べている物事を今後あなたがたに伝えたり、それほど慈悲深く語る事が出来る者や、ましてやそれらの要点を辛抱強く説明できる者は居ないであろう。今後の日々は、良き時代を回想し、むせび泣き、悲痛にうめきつつ過ごすか、あるいは暗い夜を、与えられた真理のかけらもいのちも無く過ごすか、あるいは単に絶望的に待って過ごすか、あるいは自分が不合理であることに関する苦い後悔の念とともに過ごすであろう。こうした可能性は、あなたがた各人にとって実質上不可避である。あなたがたのうちには、神を真に崇拝する立場の者は皆無であるからだ。あなたがたは放縦さと邪悪の世界に耽溺し、自分の考えや霊魂、身体に、いのちや真理とは無関係であり、また実際にはそれらに反する無数の物事を採り入れる。そうしたわけで、わたしがあなたがたに望むのは、あなたがたが光の道へ導かれることが出来ることである。あなたがたが自分を思いやり、世話をして、自分の終着点に重点を置きすぎず、自分の行動や過ちに対して無関心とならずに居られることが、わたしの望みの全てである。

『言葉は肉において現れる』の「過ちは人間を地獄へ送る」より

 いずれにしても、真理を重んじない者はすべて、不信仰者であり真理を裏切る者であるとわたしは言う。そのような人は決してキリストの承認を得ることはない。あなたのうちにどれほど多くの不信仰があるのかあなたは今、分かっただろうか。そしてどれほどのキリストへの裏切りがあるのかを。わたしはあなたに以下のことを熱心に勧める。あなたが真理の道を選んだのだから、誠心誠意献身すべきである。あいまいであったり、気のりのしない態度であったりしてはならない。神は世界にも、一人の人間にも属さず、本当に神を信じ、礼拝し、献身的で忠実なすべての人々に属することを知るべきである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じる人なのか」より

 最後に、あなたがた全員が自分の終着点のため真剣に努力することを望むが、努力には虚偽的な方法は利用しない方が良いだろう。さもなければ、あなたがたにわたしの心は落胆することになるであろう。こうした落胆の結果、どうなるであろうか。あなたがたは自分をごまかしているのではないだろうか。自分の終着点のことを懸念しつつ破滅させる者は、全く救われることが無い。そうした者が憤慨したとしても、誰が同情するであろうか。とにかく、わたしは依然としてあなたがたが適切かつ良好な終着点を得るよう願うつもりである。それにもまして、あなたがたのうちに災いに陥る者が一人もいないことを願っている。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

 あなたがたから去る前に、わたしは真理に沿わないことをしないようにと依然として熱心に勧めなければならない。むしろ、あなたがたはすべての人が喜ぶようなこと、すべての人に益をもたらすこと、あなたがた自身の終着点に益をもたらすことをするべきである。さもなければ、災いの中で苦しむ者は、他ならぬあなたがたとなるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より

 あなた方は自分の行いに注意し、自分に降りかかること全てに注意するように。軽はずみに何かをしたり衝動的に何かをしたりすることのないように。神や人、物事そして神が用意した物事を急いで扱ったり、ありのままで対応したり、想像や概念に従って扱ってはならない。自分の行いに注意深くし、更に祈り、求め、神の怒りを招くことのないようにしなさい。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

 神の救いの過程や神があなたの結末を決定する時、神があなたに与えるのが、哀れみであるか、寛容であるか、裁きであるか、刑罰であるかを問わず、あなたに対する神の姿勢は一定ではない。その姿勢は、あなたの神に対する姿勢や、あなたの神に関する理解により異なる。あなたの一時的な認識や解釈で神を永久的に定義しないこと。死んだ神でなく、生きている神を信仰すること。……あなた方が落ち込まずに、あなた方の心にある神への愛と、神を敬う姿勢を用いて今後の道を歩んでほしい。神への信仰をどのように扱うかに関する問題で混乱しないこと。その問題を、最も重要な問題のひとつとして扱うこと。その問題を自分の心に留め、実行に移し、実生活と関連させること。口先だけの美辞麗句として用いないこと。なぜなら、これは生死にかかわる問題であり、あなた方の運命を決める問題だからである。この問題を子どもの遊びのような、冗談として扱わないこと。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

 神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を深く悲しむ。神は、ゆっくりと衰退に向かう人類の行進と、戻ることのできない路について、悲しんでいる。人類は神の心を打ち砕き、神を否認・否定して悪しき者を求めた。このような人類がどこへ向かっているのか、誰ひとり考えたこともない。まさにこの理由により、誰も神の怒りを知覚しないのである。神を喜ばせるための道を探す者、あるいは神により近づこうと努める者はひとりもいない。さらに、神の悲しみと痛みを理解しようとする者は誰もいない。たとえ神の声を聴いた後であっても、人は神の恵みと配慮を避け、神の真理を遠ざけて、神から離れた道を進み続け、むしろ、神の敵であるサタンに自分の身を売り渡す。そして、神を棄て去った悔い改めない人に対して、神がどのように振るまうか、いくらかでも考えてみた者はいるだろうか。神が繰り返し注意し忠告・勧告するのは、人の肉と霊魂にとって耐えがたい、前例のない災いを神が用意して、その手にもっているからであるということを知る者は、誰もいない。この災いは、単に肉の懲罰だけではなく、霊魂の懲罰でもある。あなたは次のことを知らなければならない。神の計画が無効にされ、神の注意と勧告が何の応答も生まないときに、神はいかなる怒りを注ぐだろうか。これは、いかなる被造物も今まで経験したことも聞いたこともないようなものであろう。そして、この災いは前例がなく、決して繰り返されない、とわたしは言おう。これは、神の計画の中にはただひとつの創造とただひとつの救いしかないからである。これは初めであり、終わりでもある。

『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より

 今わたしはあなたにひとつの奥義を教えよう:神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にも推し測ることができない。これは今もそうであり、昔もそうであったし、これからもそうであろう。わたしが伝える第二の奥義はこれである:すべての被造物のいのちの源は、形や構造にいかなる違いがあっても、神から来るのである。あなたがどのような生命体であっても、神が定めたいのちの道と逆方向に動くことはできないのである。いずれにしても、わたしが人に理解してほしい唯一のことは、人がどんなに努力し奮闘しても、神の配慮、守り、備えなしには、人は受け取るはずであったものを何も受け取ることができないということである。神からのいのちの満たしなしには、人は生きる価値観を失い、いのちの目的意識を失う。神は、神のいのちの価値を大事にしない人が、それほど無頓着でいることをどうして許すことができるだろうか。もう一度言うが、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。もし人が、神が授けたものを大切にできなければ、神は与えたものすべてを取り戻すだけではなく、人は神が費やしたものすべてを償うために、二倍を返さなくてはならないのである。

『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より

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