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Ⅳ 聖書についての代表的な言葉

1.長い間、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことであった。聖書から離れることは、主を信じることではない。聖書から離れるのは邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じると言うのなら、聖書を読まなければならないのだ。聖書を飲み食いし、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そういうことをするのは、神への裏切りだ。聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる。そこで、人々は主を信じ始めるとすぐに聖書を読み始める。そして、聖書を暗記し、より多く聖書の暗記すればするほど、主を愛し、信仰が深いことの証拠になる。聖書を読み、それについて他の人々に話すことのできる人々はみな、よい兄弟姉妹だ。長年の間、人々の信仰と主への忠誠は、聖書をどれほど理解しているかによって測られてきた。たいていの人は、なぜ神を信じなければいけないのかをまったく理解していないし、どう神を信じるべきかを知らないのに、聖書の章句を解明するために闇雲に手がかりを探す以外には何もしない。人々は聖霊の働きの方向を追究したことはない。これまで、懸命に聖書を勉強し調べる以外のことをしてこなかった。聖書の外で聖霊の新たな働きを見出した者は誰もいないし、聖書から離れた者もいないし、聖書から離れる勇気をもつ者もいない。人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。彼らはみな、特別な解釈を探しているか、より深遠な奥義を聖書の中に探している。彼らは探索し、ヤーウェのイスラエルでの働きの背景に、あるいはイエスのユダヤでの働きの背景にそれを見つけるか、それとも他の誰も知らないさらなる奥義を見つけることを望んでいる。人々の聖書への態度は偏執と信仰で、聖書の内部事情や本質について、完全に理解している人は誰もいない。だから、現在もなお人々は聖書に関して説明しようのない不思議さを感じる。それ以上に、聖書に執着し、聖書を信じている。今日、誰もが終わりの日の働きについての預言を聖書に見出したがっている。その人たちは終わりの日に神がどのような働きをするのか、終わりの日についてどんな前兆があるのかを見つけたがっている。このように、その人たちの聖書信仰はますます熱を帯び、終わりの日に近づくほど、ますます聖書の預言、とりわけ終わりの日についての預言に信頼をおく。そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼によって、その人たちは聖霊の働きを探そうという欲求をもたない。人々の観念では、聖書だけが聖霊の働きをもたらすのである。聖書の中だけに神の足跡を見いだせる。聖書の中だけに神の働きの奥義が隠されている。他の書物や人々ではなく、聖書だけが、神に関するすべてとその働きの全体を明らかにできる。聖書は天の働きを地にもたらす。そして、聖書は時代の始まりと終わりをもたらすことができる。こうした観念があるので、人々は聖霊の働きを探そうという意向をもたない。そこで、聖書が過去にどれほど人々の役に立ったかはともかく、神の現在の働きの妨げになっている。聖書がなければ、人々は別の場所に神の足跡を探せる。しかし、今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは、二重に困難な、苦しいことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、聖書のさまざまな預言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は神が聖書とは別に働けることをどうしても信じられず、聖書の外でも神を見つけることができることが信じられなくなっている。まして、神が最後の働きのあいだに聖書を離れて新しく始められるなどとは信じられない。これは人々にとって考えられないことである。人々には信じられないし、想像することもできない。聖書は神の新たな働きを受け入れるための大きな障害になり、神がこの新たな働きを広めることを困難にしている。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より

2.聖書は歴史書だ。もちろん、ここには預言者の預言もいくつか載っている。そして、そうした預言は歴史などではまったくない。聖書はいくつかの部分からなっている。預言だけではなく、ヤーウェの働きだけでもなく、パウロの書簡だけでもない。聖書には幾つの部分があるかを知っていなければいけない。旧約には創世記と出エジプトなどが含まれ、そして、預言者たちが書いた預言書もある。最後に、旧約はマラキ書で終わる。旧約は、ヤーウェの導いた律法の時代を記録している。創世記からマラキ書まで、律法の時代の働きすべての総合的な記録だ。これはつまり、旧約は律法の時代にヤーウェに導かれた人々の経験の記録だということだ。旧約の律法の時代、大勢の預言者がヤーウェに起こされ、神の預言をした。彼らはさまざまな部族や民族に指示を与え、ヤーウェのする働きについて預言した。こうした起こされた人々はみな、ヤーウェからの預言の霊を与えられていた。彼らはヤーウェから幻を見せられ、その声を聞くことができたので、ヤーウェに啓示を受けて預言を書いた。彼らの行なった働きはヤーウェの声の代弁で、それはヤーウェに代わって行われた預言の働きであった。当時のヤーウェの働きは、単に霊を用いて人々を導くことであった。ヤーウェは受肉せず、人々は神の顔をまったく見なかった。そこで、ヤーウェは大勢の預言者を起こして、自分の働きをさせた。預言者たちに神託を与え、彼らはそれをイスラエルのすべての部族や氏族に伝えた。彼らの働きは預言をすることで、彼らの一部はヤーウェが彼らに与えた指示を記述して、他の人々に見せた。ヤーウェはこれらの人々を起こして預言を語らせ、将来の働きや、当時進行中の働きについて預言させた。そこで、人々はヤーウェの知恵と素晴らしさを見ることができた。これらの預言の書は聖書の他の書とは大きく異なっていた。それらは預言の霊を受けた人々、ヤーウェに幻を見せられたり、その声を聞いたりした人々が語り、書き記した言葉だ。預言の書以外は、旧約のすべてはヤーウェがその働きを終えた後に人々が作成した記録だ。これらの書は、創世記や出エジプト記がイザヤ書やダニエル書に比肩できないのと同様、ヤーウェの起こした預言者の語った預言とは同列に置けない。預言は働きが実行される以前に告げられた。一方、他の書は働きが完了してから書かれたもので、それが人々にできたことだった。当時の預言者はヤーウェの啓示を受けて預言を伝えた。彼らは多くの言葉を語り、恵みの時代の物事について、また、終わりの日に世界が破壊されることを預言した──ヤーウェが計画している働きだ。残りの書はみな、ヤーウェがイスラエルで行った働きについての記録である。だから、聖書を読む場合には、主にヤーウェがイスラエルでしたことについて読むことになる。聖書の旧約は主にヤーウェのイスラエル人を導く働きの記録であり、モーセを用いてイスラエル人をパロの虜囚から解放し、エジプトから脱出させ、荒野に連れていき、その後、カナンに入った。その後に起こったことはみな、彼らのカナンでの生活である。これ以外はみな、全イスラエルでヤーウェの行った働きの記録である。旧約に記録されていることはみな、ヤーウェのイスラエルでの働きの記録で、これはヤーウェがアダムとエバを創造した場所での働きである。ノアの後、神が正式に地上の人々を導き始めた時から、旧約に記録されていることはみな、イスラエルでの働きである。では、なぜイスラエルの外では何の働きも記録されていないのだろうか。なぜなら、イスラエルの地が人類の生まれた地だったからだ。始めに、イスラエルの他に国はなかった。そして、ヤーウェは他の場所では働かなかった。このように、聖書に記されていることは、純粋に当時のイスラエルでの働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、神の地上における他の働きを預言するもので、ヤーウェの神自身の働きを予告している。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言者の書を除くと、他のすべてはみな当時のヤーウェの働きを経験した人々の記録である。

創造の働きは、人間が存在する以前に行われた。しかし、創世記は人間が存在するようになってから書かれた。これは、モーセが律法の時代に著した書である。これは、今日あなたたちの間に起こっている事柄に似ている。起こった後で、あなたたちは将来人々に見せるために、将来の人々のために書き記すが、記録したものは過去に起こったことで、歴史に他ならない。旧約に記録されている事柄はヤーウェのイスラエルでの働きで、新約に記録されているのは恵みの時代のイエスの働きである。これらは神が二つの異なる時代に行った働きを記録している。旧約は律法の時代の神の働きを記録している。だから、旧約は歴史的な書物で、新約は恵みの時代の働きの産物である。新しい働きが始まると、それも時代遅れになった。そういうわけで、新約もまた歴史的な書物である。もちろん、新約は旧約ほど組織だったものではないし、それほど多くを記録していない。旧約のヤーウェの語った多くの言葉のすべては聖書に記録されているが、イエスの言葉の一部しか四福音書に記録されていない。もちろん、イエスもまた多くの働きをしたが、それは詳細に記録されなかった。新約にあまり記録がないのは、イエスが行った働きの量による。地上でイエスが三年半の間に行った働きと使徒たちの働きは、ヤーウェのそれよりはるかに少ない。だから、新約は旧約よりずっと書が少ない。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より

3.新約の福音の書はイエスが十字架につけられてから二十年から三十年後に書かれた。それ以前には、イスラエルの人々は旧約だけを読んでいた。つまり、恵みの時代の始めに、人々は旧約を読んだのである。新約は恵みの時代になって、はじめて現れる。イエスが働いていた間、新約は存在しなかった。イエスがよみがえり、昇天した後になって、人々はイエスの働きを記録した。そうしてはじめて、四福音書が生まれ、それに加えて、パウロとペテロの書簡、そして黙示録が生まれた。イエスが昇天して三百年以上過ぎた後で、後の世代が記録を集め、新約が生まれた。この働きが完了した後ではじめて新約が存在した。それ以前にはなかったのである。神がすべての働きを行った。使徒パウロも自分のすべての働きを行った。その後に、パウロとペテロの書簡が集められ、ヨハネがパトモス島で記録した最大の幻が、終わりの日の働きを預言していたため、最後に加えられた。これらはみな、後の世代の編集したものであって、今日の言葉とは別物である。今日記録されていることは、神の働きの段階に沿ったものである。人々が今日関わっているのは、神が自ら行った働きであり、神が自ら語った言葉である。人は介入する必要がない──霊から直接出る言葉は順を追って並べられており、人間の記録を編集したものとは異なっている。彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての能力の程度に従っていたと言える。彼らが記録したものは人間の経験であった。人々にはそれぞれ自分なりの記録の手段と認識があり、それぞれの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。なぜ今日の神の働きを求めないのか。神の働きだけが人間を救うことができるのである。聖書は人間を救えない。彼らは聖書を数千年の間読むことが出来たが、それでもなお彼らのうちには少しの変化も見られない。そして聖書を崇めるのなら、けっして聖霊の働きを得ることはないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3)」より

4.聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェ神という名で行れた働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。イエスの名の意義とその行った働きは、主に新約に記録されている。旧約の律法の時代、ヤーウェはイスラエルに神殿と祭壇を築いた。地上でイスラエル人の生活を導き、彼らがヤーウェの選ばれた民、つまり彼らが神が地上で最初に選んだ集団で、神の心にかなう者であり、神自ら導いた民であることを証明した。つまり、イスラエルの十二部族がヤーウェが最初に選んだ民であり、神は律法の時代のヤーウェの働き終了まで、いつでも彼らの中で働いた。第二の段階の働きは新約の恵みの時代の働きで、イスラエルの十二部族の一つ、ユダヤ族の間で行われた。働きの範囲が狭かったのは、イエスが受肉した神であったからだ。イエスはユダヤの地でだけ働き、三年半の間だけ働いた。だから、新約に記録されたものは、旧約に記録された働きの量を超えることは到底できないのだ。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より

5.聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたたちは、「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」とは、ヤーウェがエジプト人を殺してイスラエルの民をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた羊の血で、神はそれをもって人間と契約を結んだ。この契約は、二本の門柱と鴨居に羊の血のついた家の者はイスラエル人で、彼らは神の選ばれた民であり、ヤーウェは彼らを通り過ぎる(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子たちと羊や牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容であった。この契約には二重の意味がある。ヤーウェはエジプト人とその家畜を一切救わず、男の初子と羊と牛の初子をみな殺す。そこで、多くの預言書は、エジプト人がヤーウェの契約のために厳しい刑罰を受けることを預言していた。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民は、すべて見逃した。つまり、イスラエルの地に住む民はヤーウェの慈しむ者たちであり、みな助かるであろうということである。ヤーウェは彼らのために長期におよんで働こうと思い、羊の血で彼らと契約を結んだ。それ以後、ヤーウェはイスラエル人を殺すことなく、彼らは永遠に自分の選んだ民であると告げた。イスラエルの十二部族の間で、ヤーウェは律法の時代を通して働きを開始する。イスラエル人に律法を示し、彼らの中から預言者と士師を選び、彼らを神の働きの中心に置いた。ヤーウェは彼らと契約を結んだ。時代が変わらない限り、ヤーウェは選ばれた民の間でだけ働く。ヤーウェの契約は変えられないものだった。それは血で結ばれたからである。そして、神が選んだ民との間で結ばれたのである。より重要なことに、ヤーウェは時代全体を通じて働くために適切な範囲と対象を選んだ。そこで、人々は契約をとりわけ重要なものと見た。これが契約の第二層の意味である。契約締結前の創世記を例外として、旧約の他の書はみな、契約を結んだ後のイスラエル人の間での神の働きを記録している。もちろん、異邦人のことを述べている箇所もあるが、総体的に旧約はイスラエルにおける神の働きを記録している。ヤーウェのイスラエル人との契約のため、律法の時代に書かれた書は「旧約」と呼ばれている。これはヤーウェのイスラエル人との契約に因んで名付けられた。

新約は、イエスが十字架上で流した血と、イエスを信じる者たちとの間での契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、イエスの流した血により罪を赦され、救われ、イエスをとおして生まれ変わり、もはや罪人ではない。神の恵みを受けるにはイエスを信じさえすればよい。そうすれば、死後、地獄の苦しみを受けることがない。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものだ。そしてみな、働きと、そこで述べられた言葉を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約より先には進まない。これらは、すべて経験をした主における兄弟たちが記した書である。だから、これらの書も契約に因んで名付けられ、「新約」と呼ばれる。この二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、終わりの時代には何のつながりもない。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(2)」より

6.多くの人は、聖書を理解することと解釈できることは、真の道を探すのと同じことだと信じている。しかし、実際、物事はそんなに単純だろうか。聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より

7.今日、人々は聖書が神であり、神は聖書だと信じている。また、聖書の言葉のすべてだけが神の語った言葉であって、それはみな、神が語ったと信じている。神を信じている人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだけれど、これらはみな神から霊感を受けており、聖霊の告げたことを記録しているのだとさえ考えている。これは人々の解釈が誤っているのであって、事実に完全に沿ったものではない。実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが見たような幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。あれは単に、パウロが働きの間に諸教会に向けて書いた勧告と慰めと励ましの言葉である。また、当時のパウロの活動の大部分の記録でもある。あれは主における兄弟姉妹のために書かれたもので、当時のすべての教会の兄弟姉妹に、パウロの助言に従い、主イエスの教えを守らせるためのものだった。当時の教会であれ、未来のものであれ、パウロは自分の書いたものをみなが飲み食いしなければならないとは絶対に言わなかったし、また、自分の言葉がみな神から出たものだとも言わなかった。当時の教会の状況に合わせて、パウロは単に兄弟姉妹と心の交流をして、彼らを励まし、彼らの信仰を深めようとしていた。そして、彼は単に説教をしたり思い起こさせたりして、勧告していたのだ。彼の言葉は、彼自身の重荷に基づいて、言葉によって人々を支えたのだ。彼は当時の教会の使徒としての働きをした。彼は主イエスに用いられた働き手だった。そして、教会の責任を与えられていた。彼は教会の仕事を行なうよう任じられていて、兄弟姉妹の状況を調べなければいけなかった。そのために、主においての兄弟姉妹すべてに手紙を書いたのだ。彼が人々に向けて言った信仰を養い、確信に満ちた言葉はみな正しかったが、それは聖霊の言葉を代弁していたのではないし、パウロにも神の代理はできなかった。一人の人間の経験の記録や手紙を聖霊が諸教会に向けて語ったものとして扱うのは、ばかげた解釈であり、ひどい冒瀆である。パウロが諸教会に向けて書いた手紙については、特にそうである。彼の手紙は当時の各教会の事情や状況に基づいて兄弟姉妹に向けて、主における兄弟姉妹を励まし、主イエスの恵みを受けられるようにと書いたものなのだから。彼の手紙は、当時の兄弟姉妹を奮起させるためのものであった。これは彼自身の重荷であり、聖霊が彼に負わせたものだったといえる。結局のところ、彼は当時の教会を導いた使徒で、諸教会に手紙を書いて励ました。それが彼の責任であった。彼の身分は単に活動中の使徒であって、単に神に遣わされた使徒だった。彼は預言する者でも、予知する者でもなかった。だから、彼にとって自分の働きと兄弟姉妹の生活が最も重要なものであった。それで、彼は聖霊を代弁することはできなかったのだ。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、まして、神の言葉であったとは到底言えない。パウロは神の被造物でしかなく、受肉した神では絶対になかったのだから。彼の身分はイエスの身分とは違っていた。イエスの言葉は聖霊の言葉で、神の言葉であった。イエスの身分はキリスト、神の子であったのだから。どうしてパウロがイエスと対等になれるのか。もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。それで、どう思うのか──パウロが諸教会に宛てて書いた手紙には、彼自身の考えが混じっているのではないか。どうして人間の考えで汚れていないと言えるであろうか。彼は自分の個人的経験や人生の幅に基づいて諸教会に向けて手紙を書いた。たとえば、パウロはガラテヤの諸教会に向けて手紙を書いているが、そこには、ある意見が含まれている。そして、ペテロも別の手紙を書いているが、別の意見が見られる。どちらが聖霊から出たものなのか。誰一人確かなことを言えない。だから、彼らは二人とも教会のために重荷を負っていたが、二人の手紙は彼らの霊的背丈を、彼らの兄弟姉妹に向けた備えと支えを、諸教会への彼らの責任を象徴している。その手紙は人間の働きを表しているに過ぎない。すべてが聖霊から出ていたのではないのだ。もしもパウロの手紙は聖霊の言葉だというのなら、その人は愚かで、冒瀆を犯している。パウロ書簡と新約のその他の書簡は、もっと最近の宗教活動家の回顧録のようなものだ。それらはウォッチマン・ニーの著書やローレンスの経験その他と同じようなものだ。簡単に言えば、最近の宗教活動家の著作は新約には含まれていないが、そうした人物の本質は同じである。彼らは一定の期間、聖霊に用いられた人々であったが、直接神を代表することはできなかったのである。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3)」より

8.新約のマタイの福音書は、イエスの系図を記録している。冒頭で、イエスはアブラハムの子孫、ダビデの子孫、ヨセフの子であったと述べている。次に、イエスは聖霊によってもうけられ、処女から生まれたと述べている。すると、イエスはヨセフの子でもアブラハムの子孫でもダビデの子孫でもないことになる。しかし、系図はイエスとヨセフのつながりを主張している。次に、系図はイエスが誕生した過程を記し始める。それによると、イエスは聖霊によってもうけられ、処女から生まれたのであり、ヨセフの子ではない。しかし、系図では、はっきりと、イエスがヨセフの子であると書いてあり、系図はイエスのために書かれているため、その記録は四十二世代に及ぶ。ヨセフの代になると、ヨセフがマリヤの夫であると手短に告げている。これらの記述は、イエスがアブラハムの子孫であることを証明するためのものである。これは矛盾ではないのか。系図は明らかにヨセフの祖先を列挙しており、それは確かにヨセフの系図なのだが、マタイは、それがイエスの系図だと主張している。これはイエスが聖霊によって生まれたことを否定するものではないのか。だから、マタイの系図は人間の考えではないのか。これはばかげている。このことから、この書がすべて聖霊から出たものではないことがわかる。おそらく、神には地上に系図がなければいけないと考えた人々がいて、その結果、イエスをアブラハムの四十二代目の子孫だとしたのではないであろうか。これはまことに愚かなことだ。地上に到着した後で、どうして神に系図があり得るのか。神に系図があると言うのなら、それは神を被造物と同列に置いているのではないか。神は地上の存在ではなく、創造の主であり、肉の体をもってはいても、本質においては、人間と同じではないのだ。どうして神をその被造物と同じものにできるのか。アブラハムは神の代理人ではない。彼はヤーウェの当時の働きの対象であり、単にヤーウェの認める忠実なしもべでしかなく、イスラエルの民の一人であった。どうして彼がイエスの祖先であり得ようか。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3)」より

9.聖霊に用いられた者たちの言葉は全て聖霊から出た言葉である、とあえて言う人が今日あなた方の中にいるだろうか。そんなことをあえて言う人がいるだろうか。もしあなたがそのようなことを言うなら、いったいなぜエズラの預言書は除外され、昔の聖徒や預言者たちが書いた書物も同じように扱われたのか。それらの全てが聖霊から出たものであるなら、どうしてあなた方はあえてそのような気まぐれな選択をするのか。あなたに聖霊の働きを選ぶ資格があるのか。また、イスラエルの史実の多くが除外された。このような過去の記述が全て聖霊から出たものであると信じるなら、一部の書が排除されたのはなぜか。それらがみな聖霊から出たものであれば、全て保管されて、諸教会の兄弟姉妹が読めるよう送られるべきである。それを人間の意図によって選抜したり処分したりすべきではない。そのようなことは間違っている。パウロとヨハネの経験には個人的に見たことが含まれていると言っても、それは彼らの経験と認識がサタンから出たものということではなく、彼らが個人的に経験したり見たりしたものがあったというだけのことである。彼らの認識は当時の実際の経験を背景にして生まれたものであり、それが全て聖霊から出たものだと誰が自信を持って言えるだろうか。もし四つの福音書が全て聖霊から出たものなら、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネが、イエスの働きについてそれぞれ違うことを言っているのはなぜか。そのことを信じないというなら、聖書の中の、ペテロが主を三度否定する話を読んでみなさい。四つの書すべてが違い、それぞれ特徴を持っている。多くの無知な人達は言う。「受肉の神もまた人間であるのなら、その方の語る言葉は全く聖霊から出るものと言えるだろうか。もしパウロとヨハネの言葉に人の意志が混じっているのなら、神が語る言葉には本当に人の意図が混ざっていないのだろうか」そんなことを言う人たちは盲目で無知なのだ。四つの福音書を注意して読みなさい。イエスが行った事、イエスが語った事に関して記述されていることを読んでみなさい。それぞれの記述が全く異なっており、違う視点を持っている。これらの福音書の作者によって書かれたものが全て聖霊から出たものならば、全てが同じであり一貫しているはずだ。それでは、どうして相違があるのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

10.聖書は神のイスラエルでの働きの歴史記録であり、古代の預言者たちの数多くの預言と、ヤーウェが当時その働きについて述べたことの一部が記録されている。だから、人々はこの本を神聖なものとして尊ぶ(神は聖く、偉大であるから)。もちろん、これはみな、人々のヤーウェへの畏敬と神への尊崇から来ている。人々がこの本をこのように扱うのは、神の被造物が自分たちの創造主を深く畏敬するためで、この本を天の書と呼ぶ者さえいる。実際のところ、これは人間の記録でしかないのだが。これはヤーウェが直接名付けたものではないし、ヤーウェが直接その作成を導いたものでもない。つまり、この本の著者は神ではなく、人間なのだ。聖書は、人間が敬ってつけた書名に過ぎない。この書名は、ヤーウェやイエスが話し合って決めたものではない。これは人間の考えでしかない。この本はヤーウェの著書ではないし、ましてイエスの著したものでもない。そうではなくて、多くの古代の預言者や使徒たち、予知する者の書いたものを後の世代が編集して、その人々にはとりわけ聖いものと映った古代の文書を一冊の本に、未来の世代によって解読されるのを待っている多くの計り知れない深遠な奥義を含んでいるとその人々が信じた一冊の本に、まとめたものである。だから、よけいに人々はこの本を天の書だと考えがちである。四福音書と黙示録の追加によって、この本への人々の態度は、他のどの本とも異なっていて、誰一人、この「天の書」を解明しようとしない。――それはあまりに「神聖」だからだ。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より

11.あなたたちは聖書を理解しなければいけない──この働きは最も必要なものだ。今日、聖書を読む必要はない。そこには新しいものは何もないからだ。みな古い。聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていたなら、恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはその人を拒んでいただろう。そして、罪に定めていたであろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたなら、その人はパリサイ人であったであろう。もし、今日、旧約聖書と新約聖書をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを罪に定めるだろう。今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約聖書と新約聖書を飲み食いするなら、その人たちは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、そして彼の言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を開くためのものであり、それは意図的に聖書に戦いを挑むものではなかったし、意図的に旧約を放棄するものでもなかった。イエスはただ、自分の職分を果たすため、自分を切に求める人々に新たな働きをもたらすために来たのである。旧約を説明し、その働きを継続するために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展を続けるようにするためではなかった。イエスの働きはそれが聖書に基づいたものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、しなければならない働きをするために来たのだ。だから、イエスは旧約の預言を説明せず、また旧約の律法の時代の言葉に沿った働きもしなかった。イエスは旧約の記述を無視した。それが自分の働きに合致しているかどうかを気にしなかった。また、他の人々が自分の働きを理解しているかどうか、人々がそれをどう非難しているかも気にしなかった。イエスはただ、しなければならない働きを続けたのだ。多くの人々は旧約の預言者たちの預言に基づいて彼を罪に定めたのだが。人々にとって、イエスの働きは根拠を欠き、旧約の記述に反することが数多くあった。これは愚行ではないか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの預言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より

12.当時、イエスの言葉や働きは教理に固執したものではなかった。また、旧約聖書の律法に従って働きを実行することもなかった。それは、恵みの時代に行われるべき働きに従っていたのである。イエスは自らもたらした働きと、自らの計画と、自らの職分に従って尽力したが、旧約聖書の律法に従っては働かなかった。イエスの働きで旧約の律法に基づいたものはひとつもなかった。また、イエスは預言者たちの言葉を実現させるためにこの世に来て働いたのでもなかった。どの段階の神の働きも、とりわけ昔の預言者たちの預言を成就させるためのものではなく、教理に従うため、あるいは意図的に預言者たちの預言を実現させるために来たのでもなかった。だが、彼の行ったことが昔の預言者たちの言葉を混乱させることはなく、彼が過去に行った働きの妨げとなることもなかった。神の働きの顕著な点は、いかなる教理にも縛られずに、彼自身が為すべき働きを行うことであった。彼は預言者でも先見者でもなく、自らが行うべき働きをするために実際に来て、自身の新しい時代を切り開き、新たな働きを実行するために来た行動の人であった。もちろん、イエスが自身の働きを為すために来たとき、旧約聖書の昔の預言者たちが語った多くの言葉を成就させてもいる。今日の働きもまた旧約聖書の昔の預言者たちの預言を成就させている。ただ単にわたしはその「黄ばんだ古い暦」を掲げることがないというだけのことだ。というのは、わたしには他にももっと為すべき働きがあり、あなた方に語るべきことももっとあるからだ。そして、その働きと言葉は聖書の聖句を説明するより遥かに重要な事である。なぜなら、そのような働きは、あなた方にはさほど意義も価値もなく、あなた方の助けになることも、あなた方に変化をもたらすこともないからだ。わたしは聖書に書かれたことを成就するために新しい働きをする訳ではない。もし神が聖書の中の昔の預言者の言葉を成就するためだけに、この地上に来たのなら、受肉の神と昔の預言者たちのどちらが偉大なのだろう。結局のところ、預言者たちが神を支配しているのか、それとも神が預言者たちを支配しているのか。あなたは、これらの言葉をどのように説明するつもりなのか。

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

13.律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。だから、かつて行われたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は神が地上で、イスラエルの外で、より偉大で新しい働きをしたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超え、これまでに預言されていない、新しい、驚くべき働き、イスラエルの外の新たな働き、人々が見も想像もできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。なぜ今日、聖書を読まないように言われるのか、なぜ聖書とは別の働きがあるのか、なぜ神は新たな、より詳細な実践を聖書に求めないのか、なぜより偉大な働きが聖書の外にあるのかを理解しなければいけない。これをみな、あなたたちは理解する必要がある。新旧の働きの違いを知らなければいけない。聖書を読まないが、聖書を分析できなければいけない。そうでなければ、まだ聖書を崇めていて、新たな働き、新たな変化に入るのが困難になるであろう。より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より

14.当時のユダヤ人はみな旧約聖書を読んでいて、男の子が飼い葉桶の中で生まれるというイザヤの預言を知っていた。それではなぜ、これを知っていたにもかかわらず、彼らはイエスを迫害したのか。彼らの反抗的本性と聖霊の働きについての無知のためではないだろうか。当時、パリサイ人は、イエスの働きは預言された幼児について彼らが知っていることとは違っていると信じていた。今日の人が神を受け入れないのは、肉となった神の働きが聖書と一致しないからである。彼らの神に対する反抗の本質はまったく同じものではないだろうか。あなたは聖霊のすべての働きを疑いなく受け入れることができるか。もしそれが聖霊の働きなら、それは正しい流れである。あなたは何を受け入れるべきか選別するよりも、むしろそれをほんのわずかな疑念も抱かずに受け入れるべきである。神から幾分かの見識を得て、神に対して用心するのであれば、それは本当に無用な行為ではないだろうか。あなたがするべきなのは、聖書からさらに実証を求めたりせず、聖霊の働きである限り、いかなるものも受け入れることである。あなたが神を信じるのは神に従うためであり、神を調べるためではないからである。わたしがあなたの神であることを示すためにわたしに関するさらなる証を探し出すべきではなく、むしろわたしがあなたのためになるかどうかを見定めるべきである。それが鍵である。たとえ聖書の中に疑うべくもない証拠を見つけたとしても、それによってあなたが完全にわたしの前に来られることにはならない。あなたはわたしの前ではなく、聖書の制約の中で生きているのである。聖書はあなたがわたしを知る助けにはならないし、わたしへのあなたの愛を深めることもできない。聖書は男の子が生まれると預言したが、人は神の働きを知らなかったため、その預言が誰に実現するかは誰にも分からなかった。そのため、パリサイ人はイエスに逆らうことになった。わたしの働きは人にとって有益であることを知っている者もいるが、それでも彼らはイエスとわたしがお互い両立しない二つのまったく別の存在であると信じ続けている。当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。ヤーウェが律法の時代に旧約の律法を定めたとき、なぜその時恵みの時代の働きを行わなかったのか。なぜ恵みの時代の働きを前もって明らかにしなかったのか。そうすれば人が受け入れるための役に立ったのではないだろうか。ヤーウェは男の子が生まれて、指導者になると預言しただけで、恵みの時代の働きを前もって実行はしなかった。各時代の神の働きには明確な境界がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、神の各時代の代表的な働きは前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に捜し求めるのは誤った考えに基づく行為ではないだろうか。手に聖書を携えているだけでなにを見分けることができるのか。聖書の解釈者であれ説教者であれ、誰が今日の働きを予知することができようか。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

15.聖書は人間の歴史の中で数千年にわたり存続し、人々は皆、聖書を神のように扱い、その結果終わりの日の人々は神を聖書と取り替えるほどだからである。これは神が真に嫌悪することである。ゆえに、神は、空き時間に聖書の内部事情と起源を明瞭に説明しなければならなかった。そうしなければ、聖書は人々の心の中で依然として神の代わりとされ、人間は聖書の言葉に基づいて神の業を非難したり評価したりするからである。聖書の本質、構造、そして欠陥に関する神の説明は決して聖書の存在を否定するものでも、聖書を非難するものでも無い。むしろそれは、人々が聖書に対して正しい見方をし、聖書を崇拝するのを止め、迷わないように、合理的かつ適切な説明を示し、聖書の元来の像を復元し、聖書に関する人々の誤解を訂正するものである。人々は自分たちの聖書への盲目的な信仰が、神を信じ崇めることであると誤解し、聖書の真の背景や弱点を敢えて正面から見ようとしない。全ての人が聖書の純粋な知識を得た後、人々はそうした状況から躊躇無く離れ、堂々と神の新たな言葉を受け容れることができるであろう。これが、この数章における神の目的である。ここで神が人々に語ろうとする真理は、神の現在の働きや言葉の代替となることができる理論や事実は無いということ、そして神の地位の代替となるものは一切無いということである。聖書の罠を捨て去ることができないならば、人々は決して神の前に来ることはできないであろう。神の前に来ることを望むのであれば、まず自らの心から神の代替となり得るあらゆるものを払拭する必要がある。そうすれば、神は満足するであろう。ここで神は聖書を説明しているだけであるが、聖書以外にも人間が誤って真に崇拝している物事が多数あるということ、そして人間が崇拝しないものだけが真に神に由来するということを忘れてはならない。神は単に例として聖書を用い、人々に誤った道へ進まないように、神を信仰し神の言葉を受け容れる時に再び極端になって困惑に陥らないように注意を促しているのである。

『言葉は肉において現れる』第三部「諸教会を歩くキリストの言葉」の「序論」より

16.今日、わたしはこのようにして聖書を分析しているが、これはわたしが聖書を憎んでいるからではないし、また、参考としての価値を否定するものでもない。わたしが聖書の本来の価値とそのなりたちを説明し、明確にしているのは、あなたが闇の中にとどまることのないようにである。人々は聖書について実に多くの解釈をしており、その多くは誤っているので、聖書をこのように読むのは、得るべきものを得ることを妨げるだけではなく、さらに重要なことに、わたしのしようとする働きの妨げとなる。これは未来の働きのために、はなはだしく邪魔なものとなり、有用さより欠点ばかりをもたらす。だから、わたしがあなたに教えていることは、単に聖書の本質とその内部事情である。わたしは聖書を読むなと言っているのではないし。また、聖書がまったく無価値だと告げて歩けとも言っていない。ただ、聖書に関して正しい知識と見方をもつべきだというのだ。あまり偏った見方をしないことだ。聖書は人間の書いた歴史書だが、これはまた、古代の聖人や預言者が神に仕えた原則とともに、近い時代の使徒たちが神に仕えた経験を記した文書でもある。これらはみな、そうした人々が実際に見て、知った事柄であり、この時代に真の道を求める人々に関する参考としては役立てることができる。だから、聖書を読めば、他の書物からは得られない多くのいのちの道について知ることができる。これらの道は、預言者や使徒たちがかつて経験した、聖霊の働きのいのちの道であり、その言葉の多くは貴く、人々の必要とするものを与えてくれる。だから、人々はみな聖書を読むことを好むのである。聖書にはまことに多くの事が隠されているから、人々の聖書の見方は偉大な宗教家の著作に対するものとは異なっている。聖書は古代と新しい時代にヤーウェやイエスに仕えた人々の経験と認識を集めた記録で、後の世代は、これにより多くの啓示、洞察、実践への道を学ぶことができた。聖書がどの偉大な宗教家たちの著作よりも高位にあるのは、彼らの著したものが聖書から引き出したものであり、彼らの経験はみな聖書から来ていて、いずれも聖書を解説しているからである。そこで、人々は偉大な宗教家の著書から糧を得られるが、彼らはまだ聖書を崇める。聖書がじつに偉大で深遠に思われるからだ。聖書はパウロ書簡やペテロの書簡といった、いのちの言葉の書の一部を収めているし、また、人々はこれらの書から必要なものや助けを得ることができるものの、これらの書は時代遅れで、過去の時代に属するものである。どれほど優れていても、一つの時代にだけ通用するもので、永遠ではない。神の働きは常に進展しており、ただパウロやペテロの時代にとどまることはできないし、いつまでもイエスが十字架につけられた恵みの時代にとどまることもできない。だから、これらの書は恵みの時代にのみふさわしいものであって、終わりの日の神の国の時代にはふさわしくない。これらは恵みの時代の信者の必要を満たすものであって、神の国の時代の聖徒のためのものではない。どんなにすぐれたものであっても、それらは過去のものなのだ。これはヤーウェの創造の働きやイスラエルでの働きも同様だ。働きがどんなに偉大なものであっても、それは過去のものであって、それが廃れる時が来ることは決まっていた。神の働きもまた同じである。偉大だが、終わる時が来る。いつまでも創造の働きにとどまることはできないし、十字架刑の時代にとどまっていることもできない。十字架刑の働きがいかに説得力があり、サタンを打ち負かすことにおいてどれほど効果的であっても、結局、働きは働きであり、時代もまた時代なのである。働きはいつまでも同じ基礎の上にとどまれない。また、時代がけっして変わらずにあるということはありえない。創造があったのだから、終わりの日がなければならない。これは必然だ。だから、今日、新約のいのちの言葉、つまり使徒たちの書簡とそれに四福音書は歴史的な書となり、古い年鑑となった。古い年鑑がどうして人々を新たな時代に導けるであろうか。年鑑がどれほど人々にいのちを与えることができたとしても、人々を十字架に導くことができたとしても、時代遅れなのではないか。価値がないのではないか。だから、盲目的にこれらの年鑑を信じるべきではないと言うのだ。ああしたものは古すぎて、あなたを新たな働きに至らせることができず、重荷になるだけだ。新たな働き、新たな進路に至らせることができないばかりか、古い宗教的な教会に入らせる。もしそうなると、神への信仰において退歩していることになるのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より

17.わたしは人々の間で多くの働きをしてきた。わたしがその間に発した言葉は数多くある。これらの言葉は人間の救済のためで、人間がわたしと融和するようにと発したものである。しかし、わたしと融和する者は、地上ではほんの数名しか得ていない。だから、人間はわたしの言葉を重んじないとわたしは言う。人間はわたしと融和しないのだから。このように、わたしのしている働きは単に人間がわたしを崇めるようにするためだけではなく、もっと重要なことには、人間がわたしと融和するようにである。堕落した人々は、みなサタンの罠に囚われている。彼らは肉に生き、利己的な欲求をもって生きていて、彼らの中には、わたしと融和する者は、ただの一人もいない。わたしと融和すると言う者もいるが、みな漠然とした偶像を拝んでいる。彼らはわたしの名を聖いものとしているが、わたしに反する道を歩んでいる。そして、彼らの言葉は傲慢とうぬぼれに満ちている。心の底では、みなわたしに敵対しており、わたしと融和していないからである。毎日、彼らは聖書にわたしの痕跡を探し、適当に「都合の良い」句をみつけては、いつまでも読み続け、それを聖句として唱える。彼らはわたしと融和する方法を知らず、わたしに敵対するということが何を意味するかを知らず、単に闇雲に聖句を読んでいるだけである。彼らは見たことがなく、見ることもできない漠然とした神を聖書の中に閉じ込めて、暇な時に取り出して眺めている。彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、聖書の言葉に厳密に従った人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。聖書の影響力を擁護するため、聖書の権威を維持するため、聖書の評判を守るため、彼らは慈悲深いイエスを十字架につけることまでした。彼らは、ただ単に聖書を守るため、人々の心の中にある聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのである。だから、彼らは未来と罪のための捧げ物を見捨て、聖書の教義に従わなかったイエスを罪に定めて殺したのである。彼らは聖書の一字一句に隷属していたのではないか。

では、今日の人々はどうだろう。キリストは真理を解き放つために来た。しかし、人々は天に入って恵みを受けるために、キリストを人間の間から追い出したいくらいなのである。彼らは聖書の権益を守るために真理の訪れを完全に否定し、聖書の永続を確実にするため、再び肉となったキリストをもう一度十字架に釘付けにしたいくらいなのである。あれほど悪意に満ちた心をもち、わたしに対してあれほど敵意のある本性をもつ人間が、どうしてわたしの救済を受けられるのか。わたしは人間の間に生きているが、人間はわたしの存在を知らない。わたしが人間に光を照らしても、人間はわたしの存在を知らずにいる。わたしが怒りを人間の上に放つと、人間はますます強くわたしの存在を否定する。人間は言葉、聖書との融和は求めるが、真理と融和しようとわたしの前に来る者はただの一人もいない。人間は天のわたしを見上げ、天にいるわたしについて、とりわけの関心を向けるが、肉におけるわたしを心にかける者は誰一人いない。人間の間で生きるわたしがあまりに平凡だからである。聖書の言葉に合致するものだけを求める人々、漠然とした神に合致することだけを求める人々は、わたしには哀れに見える。それは、その人たちが崇めているのは死んだ言葉と、計り知れない宝を与えられる神だからである。その人々が崇めているのは、人間の思いのままになる神なのだが、それは存在しない。では、そうした人々はわたしから何を得られるのか。人間はただ言いようもなく低劣である。わたしに敵対する人々、わたしに限りない要求をする人々、真理を愛さない人々、わたしに反抗心をもつ人々──どうしてそんな人々がわたしと融和できるのか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より

18.神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

19.終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、彼らが何千年もしがみついてきた汚水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の子である。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡に従う者だと見なされることはあろうか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと言えようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

脚注

a.「一片の枯れ木」は「救いようがない」という意味の中国の諺。

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