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43.神は人の最後に対する神の決定を何に基づけているか。

神の言葉

今こそ、わたしは一人一人のために終わりを決めるときであり、人に働きかける段階ではない。わたしの手帳にひとりひとりの言葉や行動、わたしに従った道、本来の属性や最後の行いなどを書き留める。こうすることで、どのような人であってもわたしの手から逃れることはなく、あらゆる人たちはわたしが定めるように同類の人たちと共にいることになるだろう。わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外に他の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。

『言葉は肉において現れる』の「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より

心に留めるべき格言がある。この格言は極めて重要だと思う。なぜなら、わたしはこの格言を毎日何度も思い出すからである。それは何故であろうか。それは、誰かと会う度、そして誰かの経験談や神への信仰の証しを聞く度、必ずわたしはこの格言を用いて、その者が、神が求め、好むような人間であるかを測るからである。それでは、その格言とは何であろうか。 … それは「神の道を歩みなさい。神を畏れ、悪を避けよ」である。…わたしがこの格言について話をするのは、何故であろうか。あなた方の観点や、あなた方が何を考えるかを問わず、この格言について話をする必要がある。なぜなら、この格言は神が人間の結末を決定する方法に極めて密接に関係しているからである。あなた方が現在この格言をどのように理解し、取り扱っているかを問わず、あなた方に伝えることがある。ある者がこの格言を正しく実践して神を畏れ悪を避ける基準を満たすことが出来るとしたら、その者の生存と好ましい結末は保証される。この格言で定められた基準に達せなかった場合、あなた方の結末は不明であると言える。したがって、心の準備をするため、また神があなた方を評価する時に用いる基準を知ることが出来るようになるために、あなた方にこの格言を伝える。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神が人間の結末を決定する方法とその基準

あなたは、自分自身の意見をまとめたり結論を出したりする前に、まず神のあなたに対する姿勢と神の考えを理解し、その後に自分自身の考えが正しいかを判断するする必要がある。神は、ある者の結末を決定する際に、時間の単位を用いたり、その者が経験した苦難の量を用いたりしたことは無い。それでは、人間の結末を決める際に神は何を用いるであろうか。時間の単位を用いて、ある者の結末を決めるというのは、人間の概念に最も合うものであろう。また、あなた方が頻繁に見かける者として、ある時には大いに献身的であり、多くの時間を費やし、多くの代償を払い、多くの苦難を経験する者もいる。あなた方の見地では、こうした者は神に救われる可能性のある者である。神が人間の結末を決定する際に用いる基準に関する人間の概念は、まさにこうした人々が示す事柄や生き方である。あなたが何を信じるかを問わず、わたしはこうした例を全て挙げない。要するに、それが神自身の考え方による基準でない限り、それは人間の想像に由来し、またそれは全て人間の考えである。自分自身の考えや想像に、盲目的に固執すると、最終的にどのような結果となるであろうか。自明であるが、その結果は、あなたが神に拒まれること以外に有り得ない。その理由は、あなたが常に自分の能力を神に誇示し、神と競い、神と争うばかりで、神の考え方を真に理解しようとせず、神の趣意や人間に対する姿勢を真に理解しようとしないからである。このような事を続けるということは、神を尊重せず、自分を何よりも尊重するということである。あなたは自分自身を信じ、神を信じていない。神は、そうした人間を望まず、神がそのような人間を救うことも無い。もしあなたがこうした観点を捨てることができ、そうした過去の誤った観点を改めることができたならば、そして神の要求に従って行動できたならば、神を畏れ、悪を避ける道の実行を開始し、神をあらゆる物事の中で最も大いなるものとして崇め、自分自身や神を定義する際に、自分の個人的想像や観点、考えを用いないこと。その代わりに、あらゆる面において神の趣意を探求し、神の人間に対する姿勢を認識し、また理解し、神の基準を用いて神に満足してもらえるならば、それは素晴らしいことである。それは、あなたが神を畏れ悪を避ける道を歩み出したことを意味する。

人間の結末を決定する際に、神は、人間がどのように考えるか、人間の考え方や観点をその基準として用いないとすれば、神はどのような基準を用いるであろうか。神は試練を使って人間の結末を決定する。試練の使用により人間の結末を決定する際の基準は、2つある。第1の基準は人間が経験する試練の数であり、第2の基準はその試練における人間の成果である。これら2つの基準が、人間の結末を決める指標である。ここでは、その2つの基準について詳述する。

まず、あなたが神の試練に直面するとき (注:あなたの観点では、この試練が小規模であり、述べる価値が無いと思われることもある)、神はあなたに対し、それが神の手であること、そしてその状況をあなたのために計画したのが神であることを、明白に認識させる。あなたの背丈が未熟な場合、神はあなたを試すために試練を計画する。これらの試練は、あなたの背丈に応じたもので、あなたが理解可能であり、耐えられるものである。あなたのどの部分が試されるのであろうか。それは、神に対するあなたの姿勢である。この姿勢は極めて重要であるか、というと、当然ながら、重要である。極めて重要である。なぜなら、この人間の姿勢が、神の望む成果であり、神にとって最も重要なものである。さもなければ、神が人間に対する取り組みとして、こうした業を行わないであろう。神は、これらの試練により、神に対するあなたの姿勢、あなたが正しい道を歩んでいるか、あなたが神を畏れ、悪を避けているかを確認することを望んでいる。したがって、その時点においてあなたの真理に関する理解が深いか浅いかを問わず、あなたは神の試練に遭遇し、あなたの真理に関する理解が深まるのに合わせて、神はあなたのために、引き続きそれに応じた試練を計画する。あなたが再び試練に直面した時は、神はあなたの観点や考え、神に対する姿勢が一定期間後に向上しているかを確認することを望む。一部の人々は、「神が常に人間の姿勢を確認したいのは何故だろうか。人間が真理をどのように実行するかを、神は既に見たのではないのか。それでもなお、神が人間の姿勢を確認したいのは何故だろうか。」と言う。これは無思慮な戯言である。神がそのような手順を採るということは、その手順には神の趣意があるということである。神は常に人間を人間の立場から観察し、人間の言動、ひとつひとつの行動や動き、さらには考えや意図などのすべてを見ている。人間の善行や過ち、罪、反逆や裏切りなど、人間に発生する全ての物事を、人間の結末を決める時の証拠として、神は記録する。神の業が段階的に進められるようにつれ、あなたは一層多くの真理を聞き、肯定的なものや情報、真理の現実を一層多く受け入れる。この手順の過程において、神の人間に対する要求もまた増加する。同時に、神はあなたのために、以前よりも大きな試練を計画する。神の目的は、あなたの神に対する姿勢が、その間に成熟したかどうかを調べることである。無論、この間に神があなたに要求する視点は、あなたの真理に関する現実の理解に準拠するものである。

あなたの背丈が徐々に増加するにつれ、神があなたに要求する基準も高くなる。あなたが未熟な時、神はあなたに極めて低い基準を与え、あなたの背丈がそれより多少大きい場合、神は少し高い基準を与える。しかし、あなたが全ての真理を理解した後、神はどうするであろうか。神はあなたを、さらに大規模な試練に直面させるであろう。これらの試練で神が得たい物事や見たい物事は、あなたの神に関する認識の深化と真の畏れである。この時、神のあなたに対する要求は、あなたの背丈が未熟だった時よりも高く、そして「厳しく」なる。(注:人間はそれを厳しいと捉えるが、神はそれを妥当であるとみなしている。)神が人間に試練を与える時、神が造りたい現実は、どのようなものであろうか。神は、人間に対して自分の心を神に渡すよう、常に求めている。一部の人々は「どのようにして心を渡すのだろうか。私は本分を尽くし、自宅や生活を捨て、神のため費やしている。そうしたことは、自分の心を神に渡す例ではないか。そのほかに、どのようにして自分の心を神に渡すことができるだろうか。そうしたことは、自分の心を神に渡す例に該当しないことがあるだろうか。神の具体的な要求は、どのようなものだろうか」と言う。その要求は至って簡潔である。事実、自分の試練の様々な段階において、様々な程度で、既に自分の心を神に渡した者もいる。しかし、大部分の人々は、神に自分の心を渡したことが無い。神があなたに試練を与える時、神はあなたの心が神と共にあるか、肉と共にあるか、サタンと共にあるかを調べる。神があなたに試練を与える時、神はあなたが神に敵対する立場に立っているかどうか、神に味方する立場に立っているかどうか、あなたの心が神と同じ側にあるかどうかを調べる。あなたが未熟な状態で試練を受ける時、あなたの真理に関する認識は限られているため、あなたの自信は極めて少なく、神の趣意を満足させるために何をする必要があるかを、正確に把握できない。それでもなお、あなたは心から誠実に、神に対して祈り、率先して神に自分の心を渡し、神をあなたの君主とし、最も貴重だと思う物事を神に捧げることが可能である。既に自分の心を神に渡している、とは、このことを指す。あなたが一層多くの説教を聞き、一層多くの真理を理解するようになると、あなたの背丈は次第に成熟してゆく。この時に神があなたに要求する基準は、あなたが未熟だった時の基準とは異なり、神はそれよりも高い基準をあなたに要求する。人間の心が次第に神へと渡された時、その心は次第に神へと近づいて行く。人間が真に神のもとへ近付いた時、人間の心は神を益々畏れる。神は、このような心を求めている。

神がある者の心を得ることを望んだ時、神はその者に様々な試練を与える。こうした試練の最中に、神がこの者の心を得ず、神には、その者に何らかの姿勢、すなわち、その者が神を畏れつつ物事に取り組んだり、振る舞ったりすること、あるいは悪を避ける姿勢や決意が見られなかったとする。こうした場合、幾つもの試練の後、神がこの者に示した忍耐は無くなり、神はその者を容赦しなくなる。神はその者に試練を与えなくなり、その者に業を行わなくなる。その結果、この者の結末はどうなるであろうか。その者の結末は無い。この者は悪業を働いたことがないかもしれない。また、この者は妨害や破壊を働いたことがないかもしれない。また、この者は公然と神に反抗したことがないかもしれない。しかし、この者の心は、神に対して隠されている。こうした者は、神に対する明確な姿勢や観点を持ったことがないので、神はその者の心が神に渡されていることや、その者が神を畏れ悪を避けることを望んでいることが、明確に認識出来ない。神は、このような者に対して忍耐を示さなくなり、代償を払わなくなり、憐れみを与えなくなり、その者に業を行わなくなる。この者の神を信仰する生活は、既に終わっている。なぜなら、神がその者に与えた数々の試練で、神は望ましい結果を得なかったからである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

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