神の声を聴いてキリストを認識する

神の経営の中でこそ人は救われることができる

神の経営は誰にとっても不案内なことである。人がみな、神の経営は人と何の関係もなく、それはただ神のする仕事、神自身の事だと思っているから、人類は神の経営に対してまったく無関心である。したがって、人類が救われるということは模糊たる事になり、中身のない言辞になった。人は、救われるために、良い落ち着き先に入るために神につき従っている。しかし、神がどのように仕事をするか、何を計画しているか、人類がどのように協力すれば救われることができるかに対しては全然関心を持たない。これはとても悲しいことである。人類が救われるには、神の経営を離れられず、神の計画を免れられない。しかし、人類が神の経営を大切に思わないから、人類と神との距離はますます遠くなった。その結果、造られるとはどういうことであるか、神を信じるとはどういうことであるか、どのように神を礼拝すべきかなどなど、人が救われることと密接な関係があるこれらの問題を知らずに、神につき従う人の列に加わる人がますます多くなった。だから、ここで神の経営について話してみることがとても必要である。それは、神につき従うすべての人が、神につき従うことと、神を信じることの意義をはっきり知り、もっと正しく自分の歩むべき道を選ぶためであり、ただ祝福を得、災難を避け、人にぬきんでるために神につき従うことがないためである。

神の経営は人にとってとても奥深いが、それでも人が理解できないことではない。なぜなら、神のする仕事はすべて神の経営と関係があり、人類を救う仕事と関係があり、人類の命、生活、落ち着き先と関係があるからである。神が人の間で、人に対してする仕事はみなとても現実的で、とても意義があり、人が見ることも体験することもできるのであって、あまり抽象的ではない、と言ってもいい。もし神のする仕事がすべて人にとって受け入れられないことなら、何の意義があるだろうか。このような経営がどうして人を救うことができるだろうか。神につき従っている多くの人は、ただ自分がどうすれば祝福を得られるか、どうすれば災難を避けられるかだけに関心を持っていて、神の仕事、神の経営の話になると、黙り込んで、まったく無関心である。彼らの考えでは、これらの退屈な問題を理解しても自分の命を成長させることができず、何の益も得られないのだから、神の経営に関する情報を聞いてからもいいかげんに扱うだけで、宝物として受け入れず、なおさら命の一部分として受け入れないのだ。これらの人が神につき従う目的はとても単純である。その目標はただ一つ、祝福を得ることである。それ以外の、彼らの目標と何の関係もないことに彼らは取り合う気がない。彼らの考えでは祝福されることが神を信じる一番正当な目的であり、しかも彼らの神を信じる価値でもある。この目的に達成できないなら、何も彼らの心を動かすものはない。これは今神を信じている、もっと多くの人の現状である。彼らの目的と動機はいかにも正しいそうである。なぜなら、彼らは神を信じると同時に、費やし、貢献し、本分を尽くしており、青春をささげ、また家と生業を捨て、さらには長年東奔西走しているからである。最終目的のために彼らは自分の好みを変え、自分の人生観を変え、自分の追求の方向さえ変えたが、自分の神を信じる目的を変えることはできなかった。彼らはみな自分の理想を経営するために走り、その道がどんなに遠くても、途中にどれだけの艱難険阻があっても、彼らはみな揺るがず、死を恐れない。どんな力によって彼らがこのように絶えず費やしているのか。彼らの良心なのか。彼らの偉大で気高い人格なのか。最後まで邪悪な勢力に対抗するという彼らの決心なのか。報酬を求めずに神のために証しをする彼らの信仰なのか。神のみこころを成就するためなら、いかなる代価をも惜しまない彼らの忠誠心なのか。それとも個人の過分な要求が全然ない、彼らの献身的な精神なのか。神の経営の仕事を全然知らない人がこんなに多くの心血を注ぎ、こんなに多くの代価を払うことができるということは、まったく大きなしるしである!このような人がいったいどれほど費やしたかはしばらく論じないが、彼らの行為はわたしたちが分析する必要がある。神のことについて全然知らない人が神のためにこんなに多くの代価を払うことができるのは、人と密接な関係がある利益でしかない、そのほかに何の理由があるのか。ここまで言えば、わたしたちは人が今まで気づいていない問題を発見した。人と神の関係はただ赤裸々な利益関係であり、祝福を受ける人と祝福を与える人の関係である。はっきり言うと、それは雇い人と雇い主の関係である、雇い人があくせく苦労するのはただ雇い主が与える賞金をもらうためである。このような利益関係には肉親の情がなく、ただ取り引きだけがあり、愛することも愛されることもなく、ただ施しと憐れみだけがあり、理解がなく、ただやむを得ず黙って怒りを堪えることと欺きだけがあり、仲睦まじさがなく、永遠に越えられない溝だけがある。事ここに至っては、だれがこのような趨勢を変えることができるだろうか。また何人の人がこのような関係の緊迫さを本当に理解することができるだろうか。人々がみな祝福を得るという楽しい雰囲気に浸っている時、人と神との関係がこんなに気まずくて、こんなに見るに堪えないことに気づいている人はいないと、私は信じている。

人類が神を信じることで、最も悲しむべきことは、人が神の仕事の中で自分の経営を営んで、神の経営を無視することであり、最大の失敗は、人が神に従い、神を礼拝することを追い求めると同時に自分の理想の中の落ち着き先の夢を編んでおり、どうすれば最大の祝福、絶好の落ち着き先を得られるかを考えていることである。人はみな自分が哀れで、恨めしくて、かわいそうだと知っているが、容易に自分の理想と望みをあきらめることができる人は何人であろうか。まただれが自分の歩みを阻んで、自分のために計画するのをやめることができるだろうか。神が求めているのは、彼と緊密に協力して彼の経営を完成する人であり、彼に従うために彼の経営の仕事に全身全霊を傾ける人であって、毎日手を伸ばして彼に物乞いをする人ではなく、彼のために少し費やしてから、その借金を取り立てようと待っている人ではない。神は、少し奉献してから、かつての功労に自足するような人たちを憎んでおり、彼の経営の仕事に反感を持ちながら、天に上って祝福を得ることについてだけ話したがる冷血な人類を憎んでおり、さらに、彼が救いの仕事をするという機会に乗じて投機をする人たちを憎んでいる。なぜなら、この人たちは、神が経営の仕事の中で何を成就しようとするか、何を得ようとするかに対して全然関心を持たず、どうすれば神が仕事をするという機会に乗じて祝福を得ることができるかだけに関心を持っており、彼らは全然神の心を思わず、自分の前途と運命にだけ関心があるからである。神の経営に反感を持ち、神がどのように人類を救うか、神のみこころは何であるかに対して少しも興味を持たない人たちは、みな神の経営の仕事の外に自分の好きなことをしているのだ、彼らの行為は神に覚えられず、神に良しと認められず、また神の気に入らないのである。

人の様々な状態に鑑みて、わたしたちは労力と時間を費やして『神の三段階の仕事の実録の精選』という本を整理した。この本の内容は完全ではないが、その中から神の経営の仕事の内容の一部分を知ることができる。もちろん、この部分の内容は、わたしたちが神の経営を知るための媒介、神の性質を知るための媒介でもある。これはただ一部分の内容であって、神のあらゆる仕事の実録ではなく、神の各段階の仕事の抜粋部分だけであるが、神の経営の仕事に対する人の興味をそそるのには十分である。もし本当にあなたにこのような効果をもたらすことができるなら、この本を編集する苦心も無駄ではない。

茫々たる大空宇宙で、数えきれないほどの生き物が繁殖し、生息しており、繰り返して命の法則に従っており、一つの変わることのない法則に従っている。死んだ人は生きている人の物語を持っていき、生きている人はまた死んだ人の歴史悲劇を繰り返している。人類は聞かずにはいられないだろう。わたしたちはなぜ生きているのか、またなぜ死ぬのか、だれがこの世界を支配しているのか、まただれがこの人類を創造したのか、まさか本当に大自然の造化なのか、人類は本当に自分の運命を支配できるのか……と。何千何百年もの間、人類は絶えずこのような問題を提起したが、不幸なことに、人類がこれらの問題をせんさくすればするほど、科学に対する渇望は募る一方だ。科学が人の肉体にもたらすのは 一時的な満足と享受であって、霊魂の深いところのその孤独感、寂しさと、隠しようのない恐れ、無力感から人類を解放することはできない。人類はただ肉眼で見ることができ、頭で理解できる科学知識によって心を麻痺させるだけで、奥義を探究する人類の歩みを阻むことはできない。人類は宇宙万物の支配者が一体だれであるかを全く知らず、また人類の初めと将来をも知らず、ただやむを得ずこの法則の中で生きているだけで、だれもそこから抜け出すことができず、だれもそれを変えることができない。なぜなら、万物の間で、宇宙の上でとこしえからとこしえまでおられるその方がこのすべてを支配しているからである。彼は人類が今まで見たことのないその方であり、人類が今まで会ったことのないその方であり、人類に存在が認められていないその方であるが、人類の祖先に息を吹き込み、人類に命を与えたその方であり、人類が生存できるように人類を供給し、養うその方であり、人類を今日まで導いてきたその方であり、さらに、人類の生存に唯一頼りになるその方である。彼は万物を支配しており、宇宙の中の万物と生き物を支配している。彼は四季を掌り、風、霜、雪、雨の転換を調節している。彼は人類に日光を与え、また人類のために夜のとばりを下ろす。彼は天地を広げ、人類に山河湖とその中の生き物をもたらした。彼の業はどこにでもあり、彼の力はどこにでもあり、彼の知恵はどこにでもあり、彼の権威はどこにでもある。このすべての法則は彼の業の現れであり、彼の知恵と権威の表現なのである。だれが彼の支配から逃れられようか。だれが彼の按配から逃れられようか。万物は彼の目の前に生きており、彼の主権の下で生息している。彼の業と彼の力のゆえに、人類は彼が確かに存在することを認めざるを得ず、彼が万物を支配しているという事実を認めざるを得ない。彼以外に、いかなるものもこの宇宙を支配することができず、絶えずこの人類に供給することもできない。あなたが神の業を認識できるかどうか、神の存在を信じるかどうかにかかわらず、あなたの運命は疑いなく神に定められており、神は疑いなく永遠に万物を支配するその方なのである。彼の存在と彼の権威は、人類が認識できるかどうか、理解できるかどうかによって決まるのではない。彼だけが人類の過去、現在と将来を知っており、彼だけが人類の運命を決定することができる。あなたがこの事実を受け入れられても受け入れられなくても、近い将来、人類はこのすべてを自分の目で見るようになり、それは神がまもなくなし遂げる事実でもある。人類は神の目の前に生きており、また神の目の前に死ぬ。人類は神の経営のために生きており、また神の経営のために目を閉じ、来ては去り、去っては来、このように繰り返している。これらはすべて神の支配と按配によるのである。神の経営はずっと前に進んでいて、今まで止まったことがない。彼は、人類が彼の存在を知り、彼の支配を信じ、彼の業を見、彼の国に帰るようにしようとする。これが彼の計画であり、彼の数千年来の経営の仕事である。

天地創造の時から、神は彼の経営の仕事に着手し始め、この経営の仕事の核心は「人」なのである。神の創造したすべてのものは人のためにあるのだ、と言ってもいい。彼の経営の仕事は数千年に渡るのであり、一分一秒或は一瞬のうちのものではないし、一年二年のものでもないから、彼は人類の生存に欠かせないものをたくさん造らなければならなかった。たとえば、太陽、月、いろいろな生き物および人類の食物と人類の生活環境などである。これは神の経営の始まりである。

それから、神は人類をサタンに渡した、そのため、人はサタンの権勢の下に生きるようになった。したがって、神の一番目の時代の仕事——律法時代の物語が次々と生み出された……何千年もの律法時代に、人類は律法時代の導きに慣れて、何とも思わなくなって、だんだん神の顧みから遠ざかっていった。それで人はみな律法を守ると同時に偶像を礼拝し、悪事を働くようになった。彼らはヤーウェの守りを失って、ただ神殿の中で祭壇にかじりついて生活していた。実は、神の仕事はとっくに彼らから離れた。イスラエルの民は相変わらず律法を固く守り、ヤーウェの名を唱え、しかも自分だけがヤーウェの民、ヤーウェの選民だとさえ誇りに思っていたが、神の栄光はこっそり彼らを離れて行った……

神はいつもあるところからこっそり離れ、それと同時にほかの場所で静かに新しい仕事に取りかかる。感覚の鈍い人々にとっては、それはただの絵空事である。人はいつも古いものを至宝として守り、見知らぬ新しいものを敵或は目の上のたんこぶと見なしている。だから、神がどんな新しい仕事をしても、初めから終わりまで、万物の中で人だけが最後にその情報を知るのである。

同じように、ヤーウェが律法時代の仕事を終わらせてから、神はまた第二段階の新しい仕事――肉体を着て、すなわち受肉して人となり、十年二十年もの間、信徒たちのうちで働き、話をしていたが、なんとそれを知っている人は一人もいなかった、主イエスが十字架につけられて復活した後、ごく一部の人が初めて彼は神の言がなった肉体であることを認めた。しかし、困ったことに、パウロという者が出現して、死んでも屈服せずに最後まで神に敵対していた。撃たれてから使徒となった後も、依然として自分の旧い性質を改めず、しかも多くの手紙を書いた。不幸なことに、後人はなんと彼の手紙を神の言葉として享受し、さらにはそれを新約聖書の中にまとめて、神の発声、言葉と同一視した。これは本当に人類が聖書を持った後の一大スキャンダルである。これはまさに人が極めて愚かなため犯した間違いではないか。神の恵みの時代の仕事の記録には、神の仕事や言葉を偽る人の手紙あるいは人の霊的の書き物があるべきではないのを知らないのか。余談はさておき、本題に戻ろう。神の第二段階の仕事がやり遂げられた後、すなわち十字架につけられた後、人を罪の中(すなわちサタンの手)から奪い返すという仕事はもう成し遂げられた。だから、それ以後、人類は主イエスを救い主として受け入れさえすれば、罪が許されるのである。名義上から言えば、人の罪はもう、人が救われるため神の前に出る時の障壁ではなく、サタンが人を訴える時の口実ではない、なぜなら神自身が実際の仕事をし、罪の肉の様、前味わいとなり、神自身が罪祭だからである。こうして、人類は十字架から降りてき、神の肉体――この罪の肉の様によって贖われ救われたのである。それで、人はサタンに捕えられた後、もっと神の前に出て神の救いを受け入れるようになった。もちろん、この段階の仕事は、律法時代よりさらに深く、さらに一歩進んだ神の経営なのである。

神の経営はこうである。神とは何であるか、造物主とは何であるか、どのように神を礼拝すべきか、どうして神に従わなければならないのか、これらについて全然知らない人類をサタンに渡し、サタンに意のままに堕落させてから、神が一歩一歩とサタンの手から奪い返し、最後には人類が完全に神を礼拝し、サタンを捨てるようにする。これが神の経営である。これは神話物語のように聞こえ、また人には理解し難いことでもある。神話物語のように思われるのは、人がこの数千年来どれだけのことが人に起こったかを知らず、どれだけの物語がこの大空宇宙で生じたかも知らないからであり、さらに、人の肉眼ではこの物質世界の後ろにある、そのもっとくすしくて怖い世界が見られないからである。人には理解し難いのは、神の人類を救うことの意義や神の経営の仕事の意義を知らず、神が求めているのはどのような人類であるかを知らないからである。神が求めているのは、サタンに全然堕落されていないエバとアダムのような人類であるのか。違う!神の経営は一団の、神を礼拝し、神に従う人を得るためである。この人類はサタンに堕落させられたけれども、もはやサタンを父親と見なさず、サタンの醜悪な姿を知ってサタンを捨て、そして神の前に出て神の裁きと刑罰を受け入れ、それによって、醜悪と聖との対比を知り、神の偉大さとサタンの邪悪を知るようになった。このような人類はもはやサタンのために尽くすことはなく、もはやサタンを礼拝し、祭ることはない。彼らは一団の、本当に神に得られた人類だからである。これが人類を経営する神の仕事の意義である。この経営の仕事の中で、人類はサタンに堕落させられる対象であると同時に、神に救われる対象でもあり、神とサタンが奪い合う産物でもある。神は仕事をすると同時に、一歩一歩と人をサタンの手から奪ってくる、それゆえ、人と神はますます近くなった……

それから、王国時代が来た。この段階の仕事はさらに現実的であるが、人には一番受け入れがたい仕事でもある。なぜなら、人と神が近くなるほど、神の杖が人に近づき、神の姿もますます人に明らかに現されるからである。人類は贖われてから、正式に神の家に戻った。ちゃんと楽しめると思っていた人類は、かえって神に真っ向から雨あられと打たれた。これは誰でも予想できなかったことである。なんと神の民になるにはこのような洗礼を「享受」しなければならないのだ。このような扱いを受けて、人は落ち着いてよく考えざるを得なかった。わたしは神が大金をかけて買い取ったあの長年見失った羊なのに、なぜ神がこのようにわたしを扱うのか。まさか神が彼の方式によってわたしをからかい、わたしを明らかにするのか……長年の経験を経て、精練の苦しみや刑罰の苦しみを受けた人類は辛酸をなめ尽くした。昔の「輝き」と「ロマン」を失ったが、知らず知らずのうちに人としての道理を理解し、人を救う神の長きに渡るなみなみならぬ苦心を理解した。人はだんだん自分の野蛮、自分の不従順と神に対する様々な誤解や過分な要求を憎み始めた。時間は逆戻りできず、過ぎ去ったことは人の悔しい思い出になり、神の言葉と神の愛も人の新しい生活の原動力になった。人の傷口は日に日に癒え、体は丈夫になり、立ち上がって全能者の顔を見るようになった……彼はずっとわたしのそばで見守ってくれ、彼の笑顔と彼の美しい姿はやはりそんなに人の心を動かすのであり、彼の心はやはりそんなに彼に造られた人類を気にかけているのであり、彼の両手はやはりあの時と同じように温かくて力強いのである。人はエデンの園の時に戻ったようである、しかし今の人はもう蛇の誘惑に聞き従わず、もうヤーウェの顔を避けず、神の前にひざまずき、神の笑顔を見ながら一番貴重ないけにえをささげる。ああ!わが主、わが神!

神の経営の仕事の細かいところから、神の愛と憐みがにじみ出ている。人が神のなみなみならぬ苦心を理解できるかどうかにかかわらず、彼はやはり倦まずたゆまず彼の成し遂げようとする仕事をしている。神の経営に対する人の認識が多かろうと少なかろうと、神の仕事が人にもたらす助けと有益は、誰でも感じられることである。もしかすると、今あなたは神からの愛と命の供給を全然感じていないかもしれないが、あなたが神を離れず、真理を追求する決心をあきらめない限り、いつか神の笑顔はきっとあなたに現れる。なぜなら、神の経営の目的はサタンの権勢の下にある人類を奪い返すことであって、サタンに堕落させられた、彼に逆らう人類を放棄することではないからである。

二〇〇五年九月二三日発表