神の声を聴いてキリストを認識する

精錬を経験してこそ本当の愛を持つことができる

精錬の中でどのように神を愛すべきか。精錬を経験した後、人は精錬の中で神に対する本当の賛美を発することができ、自分の欠けたところが多すぎるのを見ることができる。精錬が多ければ多いほど、あなたは肉体を裏切ることができ、精錬が多ければ多いほど、人が神に与える愛は多くなる。これはあなたたちが分かるべきことである。なぜ精錬を受けなければならないのか。精錬によってもたらされる効果は何であるか。神が人に対して行なう精錬の仕事はどんな意義があるか。もしあなたが真心をもって神を求めれば、十分な程度まで経験した時、神の精錬が本当によかった、神の精錬が絶対に必要だと感じる。精錬の中でどのように神を愛すべきか。神を愛する志によって神の精錬を受け入れなければならない。精錬を受けるとき、心の中は苦しみを受け、死ぬほど悲しむけれども、あなたは神を愛する心をもって進んで神を満足させ、肉体を思いやらない、これは神を愛するのを実行することである。内側はつらくて、かなりの程度まで苦しんでいるけれども、あなたはやはり神の前に出て、このように祈る。「神様よ!わたしはあなたを離れられません。わたしの内側は暗いけれども、わたしはあなたを満足させたいです。あなたはわたしの心を知っておられます。どうかあなたの愛をもっとわたしの中につくり込んでください。」精錬に遭った時、このように実行すればいい。あなたが神を愛する心を土台とすれば、精錬はあなたが神とさらに近くなり、さらに親しくなるようにする。あなたは神を信じる以上、心を神に渡さなければならない。あなたが自分の心を捧げて神の前に置けば、精錬の中で神を否み、神を離れることは決してない。そうすれば、あなたと神の関係はますます近くなり、ますます正常になり、あなたと神の交流もますます頻繁になる。あなたがいつもこのように実行すれば、もっと多くの時間、神の光の中に生き、神の言葉の導きの下で生きるようになり、あなたの性質もますます変化し、あなたの認識も日増しに増える。いつか、神の試練が突然あなたに臨んだ時、あなたが神の側に立つことができるだけではなく、また神のために証しすることができれば、あなたはヨブのようになり、またペテロのようになる。あなたが神のために証しをしたら、あなたは本当に神を愛する人であり、自ら進んで命を捨てる人であり、神を証しする人であり、神に喜ばれる人である。精錬を経験した後の愛こそ強くてもろくない。神がいつあなたを試しても、どのようにあなたを試しても、あなたが自分の命を度外視することができ、甘んじて神のためにすべてを捨て、すべてに耐え忍ぶことができれば、あなたの愛は純潔になり、あなたの信仰も実際を持つようになる。その時こそ、あなたは本当に神に愛される人であり、本当に神に完全にされる人である。

もし人がサタンの権勢の下に陥ったら、内側の、神に対する愛はなくなり、以前の異象、以前の愛、以前の志はすべてなくなってしまう。以前、神のために苦しみを受けるのは当たり前のことだと思っていたが、今は、神のために苦しみを受けるのは恥だと思い、しかも不平を少なからずこぼす。これはサタンの働きであり、人がサタンの支配下に陥ったことの表れである。このような状態になった時、あなたはさっそく祈り、さっそくこのような状態を正すべきである。そうすれば、あなたはサタンに攻撃される時に守られる。苦しい精錬の中で、人はいとも容易にサタンの権勢の下に陥る。このような精錬の中で、あなたはどのように神を愛すべきか。あなたの志を奮い立たせ、あなたの心を神の前に置き、最後の光陰を神にささげるべきであり、神がどのように精錬しても、あなたは真理を実行して神の心を満足させ、自ら進んで神を求め、自ら進んで交わることを求めるべきである。この時、あなたが受動的であればあるほど消極的になりやすく、後退しやすい。機能すべき時、あなたはうまくできないが、あなたの全力を尽くし、ただ神を愛する心をもって行い、ほかの人がどう言っても、あなたがうまくやったと言っても、そうでないと言っても、あなたの存心は正しく、しかも独りよがりではない。あなたは神のためを思っているからである。ほかの人に誤解される時、あなたはこのように神に祈るべきである。「神様よ!わたしはほかの人がわたしを大目に見ることを求めず、ほかの人がわたしを許すことも求めず、ただ心からあなたを愛し、心が落ち着き、良心がとがめられないことだけを求めます。わたしはほかの人に褒められ、高められることを求めず、ただ心からあなたを満足させることだけを追い求めます。わたしはこの機能をする時、最善を尽くしました。わたしは愚昧で、素質が劣っており、盲目であるけれども、あなたの愛らしさを知っています。わたしは自分のすべてをあなたにささげたいです。」このように祈ると、神を愛する心が生じ、心もだいぶ落ち着くようになる。これも神を愛するのを実行することである。経験の中で、二回失敗し、一回成功する、或いは五回失敗し、二回成功するというふうに経験してはじめて、失敗の中で神の愛らしさを見、自分の欠けたところを自覚することができる。再びこれらのことに会ったら、あなたは自分自身に気を配り、自分の足を慎み、祈りに励むべきである。あなたが段々これらのことに打ち勝つことができるようになったら、あなたの祈りが効果を収めたのである。あなたが今度成功して、内側で享受を得、しかも祈ると神に触れることができ、聖霊の臨在を失っていないことを経験した時はじめて、神があなたの中でどのように働いたかを知ることができる。このように実行することによって、あなたは経験の中で実行の道を持つようになる。もしあなたが真理を実行しなければ、あなたの内側の聖霊の臨在はなくなる。しかし、このことで真理を実行したら、内側は少しつらいけれども、その後、聖霊が伴い、あなたが祈る時、神の臨在を探ることができ、神の言葉を実行する時も力があり、兄弟姉妹たちと交流する時も良心に咎められず、平安を感じる。そうすれば、あなたは自分のしたことを打ち明けることができる。ほかの人がどう言おうと、あなたは神と正常な関係を持つことができ、人の束縛を受けず、すべてを超越することができる。これはあなたが神の言葉を実行することで効果を収めたことを証明する。
神が人を精錬すればするほど、人の心は神を愛することができる。人の心が苦しみを受けるのは、人の命のためになる。それによって、人はさらに心を神の前に落ち着かせることができ、神ともっと密接な関係を持つことができ、さらに神の極めて大きな愛、神の極めて大きな救いを見ることができる。ペテロは数百回の精錬を経験し、ヨブも何度か試練を受けた。あなたたちが神に完全にされようと思うなら、同じく百回の精錬を経験しなければならず、この過程を経なければならない。この段取りを経てはじめて、神の心を満足させることができ、神に完全にされることができる。精錬は神が人を完全にする最もよい方法である。精錬、苦しい試練によってこそ、人は心から神に対して本当の愛を生み出すことができる。苦難がなければ、人は神に対して本当の愛を持たないのである。内側に試練がなく、本当の精錬が臨まなければ、人の心がいつも外で漂っている。かなりの程度まで精錬を受けると、あなたは自分の弱さ、自分の問題を発見し、自分の欠けたところが多すぎ、たくさんの困難にぶつかったら、打ち勝つことができないと自覚し、自分の不従順が多すぎると自覚する。試練の中でこそ、自分の実際の状態を本当に知ることができる。試練はもっと人を完全にすることができる。

ペテロは一生の中で、数百回の精錬を経験し、苦しい試練をたくさん経験した。これらの精錬は彼がこの上なく神を愛することの基礎となり、彼の一生の中で、最も意義のある経験となった。彼がこの上なく神を愛することができた原因は二つある。一つは神を愛する彼の志であり、もっと重要なのは彼の受けた精錬と苦しみであった。これらの苦痛は、神を愛する道における彼の導きとなり、彼の最も忘れがたいものとなった。人が神を愛することで精錬の苦しみを受けなければ、その愛は天然に満ちており、人の好みに満ちている。このような愛はサタンの意思に満ちていて、全然神の心を満足させることができない。人が神を愛する志を持っていることは、本当に神を愛していることだとは言えない。人が心の中で思っていることはすべて神を愛するためであり、神を満足させるためであり、全然人の意思が混雑せず、すべて神のためであるようだが、神の前に持って行ったら神に良しとされることができず、神に祝福されることもできない。たとえ人がすべての真理をはっきり理解し、認識したとしても、それは神を愛するしるしだと言えず、人が神を愛することの実際を持ったとも言えない。人は精錬を受ける前にたくさんの真理を理解したが、これらの真理をすべて実行することはできない。精錬を受ける時こそ、人はこれらの真理の真意が分かり、これらの真理の含意を本当に理解することができる。その時、人がまたこれらの真理を実行すれば、正確になり、しかも神の心にかなう。その時の実行の中には、個人の意思が少なくなり、人の天然も少なくなり、人の情感も少なくなり、その時の実行こそ、本当に神を愛する表れである。神を愛するという真理は、人が口先だけで認識し、心の中に願望を抱けば、効果を収めることができるのではなく、人が分かったら効果を収めることができるのでもない。人が多大の代価を払い、人が精錬の中でたくさんの苦しみを受けなければならない。こうしてこそ、人の愛は純潔になり、神の心にかなうことができる。神が人に神を愛するよう要求するのは、熱心、天然をもって彼を愛することを要求するのではなく、忠誠心、真理をもって彼に仕えることを要求するのである。それこそ本当の愛である。しかし、人が天然の中で生きていれば、真理と忠誠心をもって神に仕えることができない。神に対してとても熱心でなければ、神に対してとても冷淡であり、神をこの上なく「愛する」のでなければ、神を非常に恨むのである。天然の中に生きている人は、いつもこのような極端な状態の中に生きており、いつもこのような、非真理的な状態の中に生きていて独りよがりである。わたしは幾度このことに言及したが、人はまじめに取り合わず、このことの重要性をはっきり理解することができない。だから、人はみな自分で自分を愚弄するような信仰の中に生きており、非真理的な、神を愛することへの想像の中に生きている。歴代にわたって、人類が発展し、時代が移り変わるにつれて、人に対する神の要求はますます高くなり、神は人が彼に対してひたむきであることを要求する。しかし、神に対する人の認識はますますぼんやりしており、ますます漠然としている。それに伴って、神に対する人の愛の中には、混ざり物がますます多くなっている。人の状態、人のあらゆる行いはますます神の心にかなわなくなった。人がますます深くサタンに堕落させられたのだから、神がもっと多くてもっと大きな救いの仕事をする必要がある。神に対する人の「要求」がますます高くなるにつれて、神に対する人の愛もますます少なくなり、人はみな真理のない不従順の中、人間性のない生活の中に生きており、神に対してわずかな愛も持たないばかりか、かえって不従順と背きに満ちている。人から見れば、人はもう神に対して最大限の愛と寛容を持ったが、神はそうとは思わない。彼に対する人の愛にはどれほどの混ざり物があるかを、彼ははっきり調べている。彼は人が媚びへつらうからと言って、人を違った目で見ることはなく、人の捧げのゆえに人の恩に「報いる」こともない。神は人のように弁別力がないのではない。だれが心から彼を愛する者であるか、だれが心から彼を愛する者ではないかを、彼はみな知っている。彼は人の一時の衝動のゆえに、熱血にあふれてのぼせ上がることはなく、人の本質、人の行いによって人を取り扱うのである。神はつまるところ神であり、彼には彼の尊厳、彼の主張があり、人はつまるところ人であり、人の真理に合わない愛のゆえに、神はのぼせ上がるはずがない。逆に、彼はこのすべてを正確に扱うのである。

人の状態に応じ、神に対する人の態度に応じて、神は新しい仕事をした。それは、人が彼を知るためだけではなく、彼に従うためでもあり、人が彼を愛するためだけではなく、彼について証しするためでもある。そういうわけで、人は神の精錬、神の裁き、対処、手入れを経験しなければならない。もし神がこのようにしなければ、人は永遠に神を知ることができず、永遠に本当の愛、本当の証しを持つことができない。神が人を精錬するのは、一つの方面から効果を得るためではなく、多方面から効果を得るためである。そういうわけで、神は、進んで真理を求める人たちに対して精錬の仕事をするのである。それは、人の志、人の愛が神に完全にされるためである。このような精錬は、進んで真理を求め、神を渇仰する人たちにとって最も意義のあることになり、とても大きな助けとなった。神の性質は、人がそれほど簡単に知ることができるものではなく、また、それほど簡単に理解できるものでもない。なぜなら、神はつまるところ神であり、人と同じ性質を持つことはないからである。だから、人は容易に彼の性質を知ることができない。真理は人が生まれつき備えているものではなく、サタンに堕落させられた人が容易に理解できるものでもない。人は真理を備えておらず、真理を実行する志も備えていない。もし人が苦しみを受けず、精錬を受けず、裁きを受けなければ、人の志は永遠に成就されることができない。精錬はどの人にとっても、かなりつらいのであり、かなり受け入れがたいのである。しかし、神は精錬の中で人に彼の義なる性質を明らかにし、精錬の中で人に対する彼の要求を公にするのであり、しかも精錬の中で人に対してもっと多く啓き、もっと多く実際に手入れし、対処するのであり、事実と真理の対照によって人がさらに自分を知り、さらに真理を理解し、さらに神の心意を理解するようにし、そうすることで、人が神に対してもっと真実で、もっと純潔な愛を持つようにする。これは神が精錬の仕事をする目的である。神が人に対してするすべての仕事は、その目的と意義があるのである。彼は意義のない仕事をせず、人のためにならない仕事をしない。神が人を精錬するのは、人を彼の前から取り除くためではなく、人を地獄に滅ぼすためでもなく、精錬の中で人の性質を変え、人の意図、人の古い観点を変え、神に対する人の愛を変え、人のあらゆる生活を変えるためである。精錬は人にとって実際のテスト、実際の訓練であり、精錬の中でこそ、人の愛はその本来の機能を発揮することができる。