神の声を聴いてキリストを認識する

神を愛してこそ本当に神を信じると言える

今日あなたたちが神を愛し、神を知ることを追い求めるには、一方では苦しい精錬を受けることが必要であり、他方では多大の代価を払うことが必要である。神を愛することはいちばん深みのある学課であり、人が一生涯神を信じて学ぶ学課は神を愛することであると言ってもいい。つまり、あなたは神を信じる以上、神を愛さなければならず、もしあなたが神を信じるだけで神を愛さず、神を知ることができず、これまで心からの真実な愛で神を愛したことがなければ、あなたは神を信じても無駄であり、もしあなたが神を信じるのに神を愛さないなら、無駄に一生を過ごしたことになり、あなたの一生はいちばん卑賤な一生である。一生の中で、神を愛したことがなく、神を満足させたことがないなら、あなたが生きているのは何の意義があるのか。あなたが神を信じるのは何の意義があるのか。徒労に終わるのではないか。つまり、人が神を信じ、神を愛しようと思うなら、多大の代価を払わなければならず、外側で何かをすることではなく、心の奥底で本当の悟りを持つことを追い求めなければならない。歌い、踊る時はとても力があるが、真理を実行すべき時になると力がなくなる、これは神を愛することであるのか。神を愛しようと思うなら、何事においても神の心意を求めなければならず、どんな事に当たってもその中に深く根を下ろし、神の心意を探り、この事の上で神の心意は何であるか、神のあなたに対する要求は何であるか、どのように神の心を思いやるべきかを考えるべきである。例えば、事に当たってあなたが苦しみを受けるべき時、あなたは神の心意は何であるか、どのように神の心を思いやるべきかが分からなければならない。あなたは自分を満足させるべきではなく、まず自分を手放すべきであり、肉体はいちばん卑賤なもので、あなたは神を満足させることを求め、自分の本分を尽くさなければならない。あなたがこのように思う時、神はこの事で特別にあなたに啓き、しかもあなたの心も慰めを得ることができる。事に当たって、それが大きな事であれ小さな事であれ、まず自分を手放さなければならず、肉体をいちばん卑賤なものと見なさなければならない。あなたが肉体を満足させるほど、それは欲深くなり、今回それを満足させれば、次回それはまた要求を出す。このままで行くと、人はもっと自分の肉体を愛するようになる。肉体はいつも贅沢な欲望を持っていて、いつもあなたにそれを満足させ、いつも内が享受を得るようにする。たとえば、食べたり、着たり、かんしゃくを起こしたり、或いは自分の弱さを思いやったり、怠けたりする……あなたがそれを満足させるほど、それの欲望は大きくなり、しかもそれはますます放蕩になり、十分な程度に達したら、人の肉体はさらに深い観念を持ち、神に背き、自分をおだて、しかも神の仕事をも疑うようになる。あなたが肉体を満足させるほど、肉体の弱さが多くなり、いつもあなたの弱さを思いやる人がいないと感じ、神のすることが行き過ぎだと思う。しかも「神はどうしてこんなに厳しいのか。どうしていつまでも人を楽にさせないのか」と言うだろう。人が肉体を満足させすぎ、肉体を宝愛しすぎると、自分を葬り去ってしまう。もしあなたが本当に神を愛して、肉体を満足させなければ、あなたは神のしたことがとても適当で、とてもすばらしいのであり、あなたの不従順を呪い、あなたの不義を裁くのは当たり前であるということが分かる。時には神はあなたを打ちたたき、懲らしめ、環境を起こしてあなたを鍛え、あなたに強いて神の前に来させる。あなたはいつも神のすることがとてもすばらしいと感じ、それで、あなたはそんなに大きな苦しみを受けていないように感じ、しかも神が本当に愛しいと感じる。もしあなたが肉体の弱さを思いやって、神のすることが行き過ぎだと言ったら、あなたは自分がいつも苦しみの中におり、いつも悲しみ憂いがあると感じ、しかも神のするすべての仕事に対する認識が曖昧模糊となり、神が全然人の弱さに同情せず、人の困難を知らないように感じ、こうしてあなたはいつも自分が一人ぼっちで寂しいと感じ、とてもつらい思いをさせられたと感じる。その時、あなたは不平をこぼすだろう。あなたがこのように肉体の弱さを思いやるほど、神のすることが行き過ぎだと感じ、このまま発展すれば、やがてあなたは神のする仕事を否定し、神に逆らい始め、あなたの中は不従順なものでいっぱいになる。だから、肉体を裏切るべきであり、それを思いやってはならない。夫、妻、子供、前途、婚姻、家庭など、これらは全部持たない!「わたしの心には神しかいない。わたしは神をちゃんと満足させなければならず、自分の肉体を満足させるわけにはいかない」。あなたはこのような志がなければならない。いつもこのような志を持てば、真理を実行し、自分を手放す時、少し力を入れて努力すると実行することができる。こういう伝説がある。昔一人の農夫がいた。彼は道で一匹の凍えた蛇を見て、それを拾って懐に入れた。蛇は生き返った後、その農夫を噛み殺した。人の肉体は蛇のようなものであって、その本質は人の命を害するものである。あなたの肉体が完全に目的を達成した時は、あなたが命をなくす時でもある。肉体はサタンに属するものであって、その中にはいつも贅沢な欲望があり、それはいつも自分のためを考え、いつも幸せを享受し、安逸を貪りたがり、焦らず悩まず、何もしないでいることを望む。もしあなたが肉体を満足させるのがある程度まで達したら、ついにはそれに呑み込まれてしまう。つまり、今回あなたがそれを満足させれば、次回もまたあなたにそれを満足させ、それはいつも贅沢な欲望があり、いつも新しい要求を出し、肉体はあなたがそれを思いやる機会に乗じて、あなたにもっと肉体を宝愛させ、肉体の安逸の中で生きさせる。だから、あなたがずっとそれに打ち勝つことができなければ、最後には自分自身を葬り去ってしまう。あなたが神から命を得られるかどうか、最後の結末はどうなるかは、あなたがどのように肉体を裏切ることを実行するかにかかっている。神はあなたを救い、またあなたを選び定めたが、あなたが今、神を満足させたがらず、真理を実行したがらず、神に対する本当の愛をもって自分の肉体を裏切りたがらなければ、最後には自分を陥れてしまい、そうなら、あなたは極めて大きな苦しみを受けるだろう。あなたがいつも肉体を思いやれば、あなたの中は次第にサタンに食い尽くされ、あなたは何の命も持たなくなり、何の霊の感動も持たなくなり、いつの日か、あなたの中は徹底的に暗くなってしまう。闇の中に生きていれば、あなたはサタンの虜となり、もう神を持たなくなる。その時、あなたは神の存在を否定して、神を離れるはずである。だから、神を愛するには、多大の苦しい代価を払い、苦しみを受けなければならず、本を多く読んだり、道を多く走ったりして、外側で熱心に努め、苦しみを受けることよりも、自分の中のもの、すなわち贅沢な考え、個人の利益、自分の思惑、観念、存心を捨てることが必要である。これこそ神の心意である。

神が人のうわべの性質を対処するのも、神の一部分の仕事であり、例えば人のうわべの不正常な人間性、人の生活様式、生活習慣、風俗習慣、および外側の行為、人の熱心を対処するのである。しかし、彼が人に真理を実行させ、性質の変化を求めさせるのは、主に人の中の存心と観念を対処するためである。もしあなたがうわべの性質だけを対処するなら、それは簡単なのである。例えば、あなたはおいしいものを食べるのが好きだが、あなたに食べさせなくても、あなたは我慢できる。しかし、あなたの中の観念のことになると、あなたは簡単に捨てることはできない。その時、人が肉体を裏切ることが必要であり、多大の代価を払い、神の前で苦しみを受けることが必要である。特に人の存心はそうである。神を信じてから今まで、人には正しくない存心がたくさんあり、あなたが真理を実行しない時、自分の存心が全部正しいと思うが、事に当たると自分の中に正しくない存心がたくさんあることに気づくことができる。だから、神は人を完全にする時、人に、自分の内に神を知る上での阻みとなる観念がたくさんあることに気づかせるのである。あなたが自分の存心が正しくないと気づいた時、自分の観念によって実行せず、自分の存心によって実行せず、何事においても神のために証しをし、立場にしっかり立つことができる。これはあなたが肉体を裏切ったことを証明する。あなたが肉体を裏切る時、あなたの中に争いがあることは免れない。サタンは人をそれに従わせ、肉体の観念に従わせ、肉体の利益を守らせるが、神の言葉はあなたの中で啓き、照らす。その時、あなたが神に従うか、それともサタンに従うかを見る。神が人に真理を実行させる時は、主に人の中のものを対処し、人の考えを対処し、神の心にかなわない観念を対処するのである。聖霊は人の中で人を感動させ、人の中で活動して働く。だから、どんな事の裏にも一回の戦いがあり、真理を実行し、神を愛するのを実行するたびに、一回の大きな戦いが起こり、人の肉体は平安で無事なように見えるが、実は人の心の奥底には一回の生きるか死ぬかの戦いがある。一回の激しい戦いを経て、あれこれ考えたあげく、やっと勝負がつくのだが、これは本当に泣くに泣けず、笑うに笑えないことである。人の中には正しくない存心がたくさんあるか、或いは神のする仕事の多くはあなたの観念に合わないため、人が真理を実行する時、その裏には毎回大きな戦いがあり、人がその真理を実行した後、陰でどれだけの悲しみの涙を流したか分からないが、それにしても最後には思い切って神を満足させる。戦いがあるからこそ、人は苦しみを受け、精錬を受けるのであり、これは本当の受苦である。戦いが臨んだ時、あなたが本当に神の側に立つことができれば、神を満足させることができる。真理を実行する時、人の中が苦しみを受けるが、これは必ず通らなければならない道である。もし真理を実行する時、人の中のものが全部正しいなら、神に完全にしてもらう必要がなく、戦いもなくなり、人も苦しみを受けることがない。人の中に神の使用に適さないところがたくさんあり、肉体の不従順な性質もたくさんあるからこそ、人が肉体を裏切るという学課をもっと深く学ぶ必要がある。それでこそ、神の言う、人が彼と共にする「苦しみ」に触れるのである。困難にぶつかったら、さっそく神にこう祈りなさい。「神よ!わたしはあなたを満足させたいです。最後の苦しみをなめ尽くしてあなたの心を満足させたいです。どんなに大きな挫折に遭っても、わたしはあなたを満足させます。命をかけてもあなたを満足させます!」あなたがこういう志を持って、このように祈れば、あなたは証しにしっかり立つことができる。真理を実行するたびに、精錬や試練、神の仕事が臨むたびに、人は必ず極めて大きな苦しみを受けるのだが、これらは人にとってみなテストである。だから、一人一人の中にはみな戦いがあり、これが実際に代価を払うことである。神の言葉を多く読んだり、道を多く走ったりするのも、少しの代価であり、それは人のすべきことであり、人の本分であり、人の尽くすべき責任である。だが、人の中の放棄すべきものは必ず放棄しなければならない。もしあなたが放棄できなければ、外側で受けた苦しみがいくら大きくても、走った道がいくら多くても、全部徒労である!つまり、あなたが外側で受けた苦しみが価値があるかどうかは、あなたの内側の変化にかかっている。内側の性質が変化し、真理を実行することができれば、あなたが外側で受けた苦しみも神に良しとされる。内側の性質が変化しなければ、あなたが外側で受けた苦しみがいくら大きくても、走った道がいくら多くても、神に良しとされない。人の受けた苦しみが神に是認されなければ、みな徒労に帰する。だから、あなたの代価が神に良しとされるかどうかは、あなたに変化があるかどうかにかかっており、あなたが真理を実行し、自分の存心、自分の観念を裏切って、神の心を満足させ、神を知り、神に忠誠を尽くすことができるかどうかにかかっている。あなたの走った道がいくら多くても、あなたが今まで自分の存心を裏切ることを知らずして、外側で事を行ない、外側で熱心であることだけを追い求め、全然命を重んじないなら、これらの苦しみはみな徒労に帰する。ある環境の中で、あなたが何か言いたいが、心の中では「だめだ。この言葉を言い出したら、兄弟姉妹たちを築き上げられず、ほかの人を傷つけるだろう」と感じるなら、自分の中がつらくても、この言葉を言わないほうがいい。なぜなら、この言葉は神の心を満足させることができないからである。その時、あなたの中には戦いがあるが、あなたは苦しみを忍んで割愛し、この苦しみを受けて神を満足させたいと思い、あなたの中は苦しみを受けているが、あなたは肉体を思いやらない。そうすれば、神の心は満足し、それゆえあなたの中も慰めを得る。これが本当に代価を払うことであり、神が求めるのはこの代価である。もしあなたにこのような実行があれば、神はきっとあなたを祝福する。もしあなたがこの点ができなければ、あなたが分かっているのがいくら多くても、いくら口がうまくても、徒労である!神を愛する道で、サタンが神と戦う時、あなたが神の側に立ち、サタンに立ち帰らなければ、神を愛するに至ったのであり、そうすれば、証しにしっかり立ったことになる。

神が人の身にするどの段階の仕事も、うわべから見れば人と人とが接触しているようであり、人の按配或いは人の邪魔から出るようであるが、その裏では、どの段階の仕事も、どんな事でも、サタンが神の前で賭けをするのであって、人が神のために証しにしっかり立つことが必要である。たとえば、ヨブが試練を受けた時、その裏ではサタンが神と賭けをしていたのだが、ヨブに臨んだのは人の業であり、人の邪魔であった。神があなたたちの身にするどの段階の仕事の裏にも、サタンが神と賭けをしており、戦いがあるのである。例えば、あなたが兄弟姉妹に偏見があって、何か言いたい時、それが神に喜ばれないと感じる。でも、言わなければ心がつらい。その時、あなたの内側には戦いが始まる、言うか言わないかと。これが戦いである。だから、どんな事でも戦いがあるのだ。あなたの中に戦いがある時、あなたが実際に協力し、実際に苦しみを受ければ、神はあなたの身に働く。したがって、あなたはこのことを放棄することができ、かんしゃくも自然におさまり、これもあなたが神に協力して得た効果である。どんな事をするにも、かなりの心血を注ぎ、かなりの代価を払わなければならない。実際に苦しみを受けなければ、神を満足させることができず、神を満足させることは言うまでもなく、ただむなしくスローガンを叫ぶに過ぎない!これらのむなしいスローガンは神を満足させることができるのか。サタンと神が霊界で戦っている時、あなたはどのように神を満足させ、どのように神のために証しにしっかり立つべきか。あなたが分かるべきことは、どんな事が臨んでも、あなたにとって一回の大きな試練であり、神があなたの証しを求める時である。あなたがうわべから見れば、事がそんなに大きくないようであるが、これらの事が臨んだ時、あなたという人が神を愛するかどうかが分かる。もし神を愛すれば、神のために証しにしっかり立つことができ、もし神を愛することを実行しなければ、あなたが真理を実行する人ではないことを証明する。真理がなく、何の命もないなら、糠である! どんな事が臨む時も、神が、人が彼のために証しにしっかり立ってほしい時である。今、あなたに何の大きな事も臨んでおらず、あなたが何の大きな証しもしないが、日常生活の細かいところは、みな神の証しにかかわっている。兄弟姉妹たちも、あなたの家族も、周りの人々もあなたに感心し、いつか異邦人が入ってきて、あなたのあらゆる行いに感心し、神がしたのは本当にすばらしいのを見ることができれば、あなたが一つの証しをしたことになる。あなたはあまり見識がなく、素質も劣っているが、神に完全にされることによって、神を満足させることができ、神の心を思いやることができるようになり、神が素質がいちばん劣っている人たちの身にこんなに大きな仕事をしたのが見られる。人が神を知ったし、サタンの前に勝利を得る者になったし、神に対する忠心が充分な程度に達したら、この一団の人はいちばん気骨のある人であり、これはいちばん大きな証しである。あなたは大きな仕事をすることはできないが、神を満足させることができ、ほかの人は観念を捨てることができないが、あなたは観念を捨てることができ、ほかの人は実際の経験の中で神を証しすることができないが、あなたは自分の実際の身丈、実際の行動で神の愛に報い、神のために高らかな証しをすることができる、これこそ実際に神を愛するということである。もしあなたがこの点ができなければ、あなたは家族の中で、兄弟姉妹たちの中で、世間の人の前で証しがない。あなたがサタンの前で証しをすることができなければ、サタンはあなたを嘲笑い、あなたを児戯と見なし、おもちゃと見なして、つねにあなたを弄び、あなたの意識が混乱するようにする。もしかすると今後、いくらかの大きな試練があなたに臨むかもしれないが、今、あなたが真実な心をもって神を愛することができれば、後の試練がどんなに大きくても、どんなことが臨んでも、あなたは証しにしっかり立つことができ、神を満足させることができる。そうすれば、あなたの心は慰めを得ることができ、今後どんなに大きな試練にあっても心配することはない。以後のことをあなたたちは見極めることができないから、現在の状態の中で神を満足させるしかない。あなたたちは大きな仕事をすることはできないが、実際の生活の中で神の言葉を経験して神を満足させること、強くて高らかな証しをして、サタンに恥をかかせることを重んじるべきである。肉体は満足せず、苦しみを受けたけれども、あなたは神を満足させてサタンに恥をかかせた。もしあなたがいつもこのように実行すれば、神はあなたの前で道を開いてあげ、いつか大きな試練が臨んだ時、ほかの人はみなつまずくが、あなたはやはり立っていられ、あなたの代価のゆえに、神はあなたが立っていられ、つまずかないように守ってあげる。ふだんあなたが真理を実行し、神に対する本当の愛をもって神を満足させることができれば、神は以後の試練の中で必ずあなたを守り、あなたは愚昧で、身丈が小さく、素質が劣っているけれども、神はあなたを偏り見ない。これはあなたの存心が正しいかどうかにかかっている。今、あなたは神を満足させることができ、細かい事柄でも見過ごさず、何事においても神を満足させ、神に対する本当の愛を持ち、真心を神にささげ、見極められないこともあるが、神の前に存心を正して、神の心意を求め、神を満足させるためにすべての事を行う。あなたが兄弟姉妹たちに見捨てられるかもしれないが、あなたが心の中で神を満足させており、肉体の享楽を貪っているのではない。あなたがいつもこのように実行すれば、大きな試練が臨む時に守られる。

試練は人の中のどんな状態に対してであるか。人の中の、神を満足させることのできない不従順な性質に対してである。人の中には混じりけ、偽善の要素がたくさんあるから、神は人を試して、試練で人をきよめるのである。しかし、もしあなたが今、神を満足させることができれば、以後の試練はあなたにとって成就であるが、もし今、神を満足させることができなければ、以後の試練はあなたにとって試みであり、知らず知らずあなたはつまずいてしまい、その時は、あなたの思うとおりにならなくなる。なぜなら、あなたは神の仕事について行けず、実際の身丈がないからである。だから、あなたが今後立っていられ、よりよく神を満足させ、最後まで神について行くことを望むなら、今から基礎をしっかりと打ち立て、何事においても真理を実行して神を満足させ、神の心を思いやらなければならない。いつもこのように実行すれば、あなたの中に土台ができ、神はあなたの彼を愛する心を奮い立たせ、あなたに信仰を与え、いつの日か本当に試練が臨んだら、あなたは苦しみを受け、ひどく悲しみ、極度の悲痛を経験して、死んだようであるかもしれないが、あなたの神に対する愛は依然として変わらず、しかも深くなることができる。これは神の祝福である。もしあなたが、神が今言うこと、行うことをみな従順な心をもって受け入れることができれば、神は必ずあなたを祝福し、それなら、あなたは神の祝福、神の約束を受け継ぐ人である。しかし、もし今あなたが実行しなければ、いつか試練が臨んだら、あなたの愛がなくなり、あなたの信仰もなくなり、その時、試練は試みになってしまい、あなたはサタンの試みに陥って、抜け出すことができなくなる。今、小さな試練が臨む時、あなたは立っていられるかもしれないが、いつか大きな試練が臨んだら、あなたが立っていられるとは限らない。一部の人はいい気になっていて、自分がもう大丈夫だと思っている。この時、もしあなたが深く進もうとせず、しかも自己満足するなら、あなたは危険である。今、神はもっと大きな試練の仕事をしないので、あなたは何でも大丈夫なようであるが、神があなたを試す時、あなたは自分の欠乏が多すぎることを知るようになる。なぜなら、あなたの身丈は小さすぎて、大きな試練に耐えられないからである。もし今あなたが進歩向上を求めないで、元のところで足踏みしているなら、大風が臨むと倒れてしまう。あなたたちは常に自分の身丈が小さいことを自覚しているべきである。こうしてこそ、進歩することができる。試練の中でこそ、あなたは自分の身丈が本当に小さく、意志も弱すぎ、実際のものが少なすぎて、神の心を満足させることができないことを知ることができる。その時、あなたがこれらを認識できても遅くなる。

もしあなたが神の性質に対して認識がなければ、試練の中で必ず倒れる。なぜなら、あなたは神がどのように人を完全にするかを知らず、神がどんな方式によって人を完全にするかも知らないので、神の試練があなたに臨む時、あなたの観念に合わないと、あなたは立っていられなくなるからである。神の真実な愛は神のすべての性質である。神のすべての性質が人に明らかにされると、あなたの肉体にもたらすのは何であるか。神の義なる性質が人に明らかにされると、人の肉体は必ずたくさんの苦しみを受ける。これらの苦しみを受けなければ、あなたは神に完全にされることができず、本当の愛を神にささげることもできない。神があなたを完全にするためには、彼のすべての性質をあなたに明らかにしなければならない。世の初めから今まで、神のすべての性質は人に明らかにされたことがない。世の終わりに、神は彼のすべての性質を、彼に選び定められたこの一団の人に明らかにし、しかも人を完全にする時に彼の性質を明らかにするのであり、これによって一団の人を完全にする。これは神の人に対する本当の愛である。神の人に対する本当の愛を経験しようとしたら、人は極めて大きな苦しみを経験し、高い代価を払わなければならない。こうしてこそ、最後に神に得られることができ、本当の愛を神に返すことができ、神の心も満足を得る。人が神に完全にされたいと思い、神のみこころを行ない、本当の愛を完全に神にささげようと思うなら、たくさんの苦しみや環境にさいなまれ、気絶したり生き返ったりするほど苦しめられなければならない。そうすれば、人は最後にやむを得ず真心を神に返すことができる。人が神に対して本当の愛があるかどうかは、苦しい精錬の中で明らかにされるのであり、神が人の愛を純潔にするのも、苦しい精錬によって達成するのである。