神の声を聴いてキリストを認識する

神の最も新しい働きを認識して、神と歩調を合わせるべきである

今はあなたたちに民になることを追い求めさせ、すべてが正しい軌道に乗り始めた。あなたたちに民になることを追い求めさせるのは、王国時代に入ったことを意味している。今は正式に王国の訓練に入り始めたのだから、以後の生活は以前のように緩んでいてはならない。そうなら、神の要求水準に到達できない。もしあなたが緊張した雰囲気の中で生きていなければ、これはあなたに向上心がなく、あなたがわけも分からずに追求することが証明され、これでは、神の心を満足させることができない。王国の訓練に入ったら、民の生活を送ったことになる。あなたはこの訓練を受けたいか。緊張した雰囲気の中で生きたいか。神の懲らしめの下で生きたいか。神の刑罰の下で生きたいか。神の言葉があなたに臨み、あなたを試す時、あなたはどのように実行しようとするのか。さまざまな事実に直面する時、あなたはどのようにしようとするのか。以前は命の面を重んじなかったが、今は命の実際に入ることを重んじ、命の性質の変化を追い求めなければならない。これは王国の民が達成すべきことである。民である人はみな、命を持たなければならず、王国の訓練を受け、命の性質の変化を追い求めなければならない。これは王国の民に対する神の要求である。

王国の民に対する神の要求は以下のとおりである。

1.神の委託を引き受ける、つまり世の終わりの働きにおける神のすべての言葉を受け入れる。

2.王国の訓練に入る。

3.自分の心が神に感動されることを追い求める。あなたの心が完全に神に向いた時、正常な霊の生活を持つようになり、すなわち自由の境地の中で生きるようになる。つまり神の愛の顧みと守りの下で生きるようになる。あなたが神の顧みと守りの下で生きてこそ、神に属する人だと言えるのである。

4.神に得られる。

5.神の地での栄光の表現になる。

この五つはあなたたちに対するわたしの委託である。わたしの言葉はすべて民に対して言ったのである。この委託を引き受けようとしない者には、わたしも無理強いしない。もしあなたが本当にこの五つの委託を引き受けたのなら、神のみこころを行なうことができる。今、あなたたちは神の委託を引き受けはじめ、王国の民になり、王国の民になる基準を達成することを追い求めている。これは初歩的な進入である。完全に神のみこころを行なおうとするなら、この五つの委託を引き受けなければならない。もしあなたがこの五つの委託を遂行したら、あなたは神の心にかなう人であり、きっと神に重用される。今、肝心なのは王国の訓練に入ることである。王国の訓練に入ることは、霊の生活と関係がある。以前は霊の生活について語ったことがないが、王国の訓練に入る今日、正式に霊の生活に入るのである。
どのような生活が霊の生活であるか。

つまり、あなたの心が完全に神に向き、あなたが心の中で神の愛を思うことができ、神の言葉の中に生きていて、心がほかのものに占用されず、神の現時の心意を探り出すことができ、しかも聖霊の現時の光を導きとして自分の本分を尽くすことができる。神と人とのこういう生活が霊の生活なのである。

もしあなたが現時の光について行けなければ、あなたと神の関係は疎遠になり、さらには断絶してしまって、あなたの正常な霊の生活もなくなる。神との正常な関係は、神の現在の言葉を受け入れる基礎の上に築かれているのである。あなたは正常な霊の生活があるのか。神と正常な関係にあるのか。あなたは聖霊の働きについて行ける人であるか。聖霊の現時の光について行くことができ、神の言葉の中で神の心意を探り出し、神の言葉において進入がある者は、聖霊の流れについて行った人である。もしあなたが聖霊の流れについていけないのなら、あなたは真理を追い求めない人に決まっている。聖霊は向上心のない人の中で働く機会がない。だから、このような人は意欲がなかなか高まらず、常に消極的になる。今、あなたは聖霊の流れについて行ったのか。あなたは聖霊の流れの中にいるのか。あなたは消極的な状態から抜け出したのか。神の言葉を信じる者、神の働きを自分の土台とする者、聖霊の現時の光について行ける者はみな、聖霊の流れの中にいる人である。あなたが神の言葉は確実だと信じて、神が何を言おうと信じるなら、あなたは神の働きの中に入ることを追い求める人であり、そうすれば、あなたは神の心を満足させることができる。

聖霊の流れに入るには、神と正常な関係がなければならず、まず消極的な状態から脱しなければならない。一部の人はいつも大勢に同調し、彼らの心は神から遠く離れている。このような人は向上心がなく、追求する基準が低すぎる。神を愛し、神に得られるのを追い求めることこそ神の心意である。ある人はただ良心で神の愛に報いる。これは神の心を満足させることができない。あなたの追求する基準が高ければ高いほど、神の心にかなうのである。正常な人の一人として、神を愛することを追い求める人の一人として、王国に入って民になることはあなたたちの本当の前途であり、いちばん価値があり、いちばん意義がある人生である。あなたたちはだれよりも幸いである。なぜこのように言うだろう。神を信じない人はみな肉体のために生きており、サタンのために生きているが、あなたたちは今日神のために生きており、神のみこころを行なうために生きているからである。だから、あなたたちの人生は最も意義のある人生である。神に選ばれたこの一団の人だけが最も意義のある人生を生かし出すことができる。世の中のほかの人はだれもあなたたちのように価値、意義のある人生を生かし出すことができない。神に選ばれたがゆえに、神に高められたがゆえに、また神の愛のゆえに、あなたたちは本当の人生を探り出し、どのように生きればいちばん価値があるかが分かった。それは、あなたたちが真面目に追求したからではなく、神の恵みのゆえである。神があなたたちの霊眼を開き、神の霊があなたたちの心を感動させたので、あなたたちが幸運にも彼の前に出ることができた。もし神の霊があなたに啓かなければ、あなたは神の愛すべきところを見ることができず、神を愛するはずもない。神の霊が人の心を感動させたおかげで、人の心が神に向いたのである。こういう場合がある、神の言葉を享受する時、霊の中で感動を受け、必ず神を愛すべきだと感じ、内側の意欲がとても高まり、何もかも放棄することができると感じる。これらを感じたら、あなたが神の霊に感動され、あなたの心も完全に神に向いたのである。この時、あなたは神にこう祈るだろう。「神様よ!わたしたちは本当にあなたに選ばれ、あらかじめ定められた者です。あなたの栄光のゆえに誇りを感じ、あなたの民になれるため光栄に思います。あなたのみこころを行なうために、わたしは完全にあなたのために費やし、あなたのために自分をささげ、自分の一生、自分の畢生の力をあなたにささげたいです。」あなたがこのように祈る時、心の中には神に対する無限の愛と真実な従順が生じる。あなたはこのような経験があるのか。もし人が常に神の霊に感動されれば、このような特別な奉献の祈りをするだろう。「神様よ!わたしはあなたが栄光を受ける日を見たいです。わたしはあなたのために生きたいです。あなたのために生きるのは、いちばん価値があり、いちばん意義があることです。わたしは絶対にサタンのために、肉体のために生きたくありません。今日、あなたのために生きることができるのは、あなたに高められたおかげです。」あなたがこのような祈りをした後、心を神に渡さなければならず、神を得なければならず、生きている間、神を得られなければ死んでも死にきれないと感じる。このような祈りをした後、あなたの内には使いきれない力が湧いてくる。その力の源は知らないが、内には尽きることのない力があり、神が非常に愛らしいと感じ、神は人が愛するに値すると感じる。この時、あなたは神の感動を受けたのである。このような経験がある人はみな、神の感動を受けた人である。常に神の感動を受ける人は命の変化が起こり、彼は完全に神を得ようという志を立てることができ、神に対する愛も強くなり、彼の心は完全に神に向いたのである。家庭とか、この世とか、足手纏いとか、前途などは全部空のかなたへ投げ捨て、畢生の力を神にささげようとする。神の霊に感動される人は、みな真理を追い求める人であり、神に完全にされる見込みのある人である。

あなたは心を神に向けたのか。あなたの心は神の霊に感動されたのか。もしあなたがこのような経験がなく、このような祈りをしたことがないなら、これはあなたの心の中に神の地位がないことを証明する。神の霊に導かれ、感動される者はみな神の働きがある。これは神の言葉、神の愛が彼の内で根を下ろしたことを証明する。ある人はこう言う。「わたしは祈る時、あなたのように真情があふれたり、非常に感動を受けたりするのではない。ある時、ちょっと黙想したり祈ったりすると、神様の愛らしさを感じ、心も神様に感動される。」人の心がいちばん肝心なのである。あなたの心が神に向いた時、あなたの全存在が神に立ち帰ったことになり、この時こそあなたの心が神の霊に感動されるのである。あなたたちのうちの多くの者がこのような経験を持っているが、ただその程度が異なるだけである。ある人はこう言う。「わたしはあまり祈っていないが、ほかの人の交流を聞いただけで、内側の力が湧いてきた。」これはあなたの中に神の感動があることを証明する。心の中に神の感動がある人は、ほかの人の交流を聞くと励まされる。励ましの言葉を聞いてから少しの感動も受けないなら、これは彼の中に聖霊の働きがないことを証明する。渇仰する心がなければ、彼に志がないことを証明し、聖霊も彼の中で働かない。神の感動があるなら、神の言葉を聞くと反応がある。神の感動がなければ、神の言葉と接触することができず、神の言葉は彼と関係がなく、彼は啓きも得られない。神の言葉を聞いた後、反応がない人は、みな感動を受けていない人、つまり聖霊の働きがない人である。新しい光を受け入れることができる人は、みな感動を受けた人であり、聖霊の働きがある人である。

自分で自分を評価しなさい。

1.あなたは聖霊の現時の働きの中にいる人であるか。

2.あなたの心は神に向いたのか。あなたは神から感動を受けたのか。

3.神の言葉はあなたの内に根を下ろしたのか。

4.あなたの実行は神の要求の基礎の上に築かれているのか。

5.あなたは聖霊の現時の光の導きの下で生きているのか。

6.あなたの心は古い観念に支配されているのか、それとも神の現在の言葉に支配されているのか。

あなたたちがこれらの言葉を聞いた後、内にはどんな反応があるのか。あなたは長年神を信じたが、神の言葉はあなたの命となったのか。あなたの以前の堕落した性質は一体変化したかどうか。神の現在の言葉を通して、あなたは命があるとはどういうことか、命がないとはどういうことか、分かったのか。あなたたちははっきり知っているのか。神に従って行く上で、いちばん肝心なのはすべてにおいて神の現在の言葉によって行なうことである。命の進入を追い求めるにせよ、神の心を満足させることを追い求めるにせよ、神の現在の言葉によって行なわなければならない。もしあなたが交流すること、進入するのを追い求めることが、神の現在の言葉を中心としているのでなければ、あなたは神の言葉の外の人であり、絶対に聖霊の働きがない。神が求めるのは彼の歩調について行ける人である。あなたが以前理解したのがいくらよくても、いくら純粋であっても神は要らない。これらのものを捨てられなければ、あなたの今後の進入にとって極めて大きな障害となる。聖霊の今日の光について行ける人はみな幸いな人である。歴代の人々も神の足跡につき従ったが、今日まで従ってくることはできなかった。これは世の終わりの人の祝福である。聖霊の現時の働きについて行き、神の足跡につき従うことができ、神の導くところへはどこへでも従って行く人は神の祝福がある。聖霊の現時の働きについて行けない人たちは神の言葉の働きの中に入っていない。彼らのした仕事がいくら多くても、受けた苦しみがいくら大きくても、走った道がいくら多くても、無駄であり、神が彼らを良しとするはずがない。今日、神の現在の言葉について行ける人はみな、聖霊の流れの中の人である。神の現在の言葉の外の人はみな聖霊の流れの外の人であり、このような人は神に良しとされない。聖霊の現在の言葉の外での奉仕はみな肉的、観念的な奉仕であり、神の心にかなうことができない。人が宗教的観念の中に生きていれば、神の心にかなうことをすることができず、たとえ神に仕えても想像、観念の中で仕えるのであり、その奉仕が全然神の心にかなうことができない。聖霊の働きについて行けない人は神の心意が分からず、神の心意が分からない人は神に仕えることができない。神が求めるのは彼の心にかなう奉仕であって、観念的、肉的な奉仕ではない。人が聖霊の働きの歩調について行けなければ、観念の中に生きているのであり、このような人の奉仕は妨害、かき乱しであり、このような奉仕は神に背くものである。だから、神の足跡について行けない人は神に仕えることができず、神の足跡について行けない人は神に逆らう者に決まっており、きっと神に味方しないのである。聖霊の働きについて行くとは、人が神の現時の心意が分かり、しかも神の現時の要求どおりに行なうことができ、今日の神に従順で、従って行くことができ、神の最も新しい言葉によって進入することができるということである。このような人こそ聖霊の働きについて行く人であり、聖霊の流れの中の人である。このような人は神に良しとされ、神を見ることができるだけではなく、神の最も新しい働きの中から神の性質を認識し、人の観念、人の不従順、人の本性と本質を認識することもでき、しかも仕える中で、次第に性質の変化を得ることができる。このような人こそ神を得ることができる人であり、本当に真理の道を見つけた人である。聖霊の働きに淘汰された人はみな、神の最も新しい働きについて行けない人であり、神の最も新しい働きを裏切った人である。この人たちが公に神に逆らうのは、神が新しい仕事をしたからであり、神の姿が彼らの観念による神の姿ではないからである。そういうわけで、彼らは公に神に逆らい、公に神を裁き、結局神に見捨てられてしまう。神の最も新しい働きに対する認識を得るのは容易なことではない。人が真心をもって神の働きに従い、真心をもって神の働きを尋ね求めれば、神を見る機会があり、聖霊の最も新しい導きを得る機会がある。わざと神の働きに逆らう人たちは、みな聖霊の啓きを得ることができず、神の導きを得ることができない。だから、人が神の最も新しい働きを得ることができるかどうかは、神の慈しみにかかっており、また人の追求、人の存心にかかっている。

聖霊の現在の言葉に従うことができる人はみな幸いな人である。以前人がどうであったか、聖霊が人の身にどのように働いたかにかかわらず、最も新しい働きを得る人はみないちばん幸いな人である。今日、最も新しい働きについて行けない人はみな淘汰されてしまう。神が求めるのは、新しい光を受け入れることができる人であり、最も新しい働きを受け入れ、認識する人である。なぜ貞潔な処女にならなければならないと言うのか。貞潔な処女は聖霊の働きを尋ね求め、新しいものを受け入れることができ、しかも古い観念を捨てて、神の今日の働きに従うことができるからである。今日の最も新しい働きを受け入れたこの一団の人は、世界の始まる前から神に定められた者であり、いちばん幸いな人である。あなたたちは直接神の声を聞き、神の出現を見た。だから、天においても、地においても、すべての世代を通じて、あなたたちこの一団の人がいちばん幸いである。これはみな神の働きのゆえであり、神の定め、選びのゆえであり、神の慈しみのゆえである。もし神が言葉を言わず、声を発しなければ、あなたたちは今日のような状態になることができるのか。だから、すべての栄光と賛美を神に帰すと言うのである。なぜなら、このすべては神に高められたおかげだからである。これらを思い出す時、あなたはまだ消極的であるのか。あなたの意欲はまだ高まらないのか。

今日、あなたが神の言葉の裁き、刑罰、打ちたたき、精錬を受けることができ、さらに神の委託を引き受けることができるのは、神が世の始まる前から定めたことである。だから、あなたが刑罰を受ける時、そんなに悩むことはない。あなたたちに対してする仕事、あなたたちに賜った祝福はだれも奪っていくことができず、あなたたちに与えたすべてはだれも奪っていくことができない。宗教の人々はあなたたちとは比べられない。あなたたちはそれほど多くの聖書の知識を持っておらず、それらの宗教的教理を持っていないけれども、神があなたたちに対してする仕事のゆえに、あなたたちが得たものは、歴代のいかなる人のよりも多い。だから、これはあなたたちへの最大の祝福である。それゆえに、あなたたちはもっと神のために自分をささげるべきであり、もっと神に忠誠を尽くすべきであり、神に高められたがゆえに、あなたはもっと頑張り、身丈を用意して神の委託を引き受けるべきである。神の与えた地位にしっかり立ち、民になることを追い求め、王国の訓練を受け、神に得られて最後に神の栄光の証しとなる、あなたはこれらの志を持っているのか。あなたにこのような志があれば、最後にはきっと神に得られ、神の栄光の証しとなることができる。あなたが分からなければならないが、いちばん重要な委託は神に得られて、彼の栄光の証しになることであり、これは神の心意である。

聖霊の現在の言葉が聖霊の働きの動きであり、聖霊がこの間に、常に人に啓くものが聖霊の働きの動向である。今、聖霊の働きの動向は何であるか。すべての民を神の現在の働きの中に、正常な霊の生活の中に導き入れることである。正常な霊の生活に入るには、このいくつかの段取りがある。

1.まずあなたの心を神の言葉に傾注する。以前の神の言葉を追い求めず、また研究せず、なおさら照らし合わせず、心を完全に神の現在の言葉に傾注する。もしだれかが、やはり以前の神の言葉や霊的な書籍、或いはほかの説教を読もうとしていて、聖霊の現在の言葉に従わないなら、このような人は最も愚かな人であり、神はこのような人を憎み嫌う。もしあなたが聖霊の現時の光を受けたいと思うなら、心を完全に神の現在の言葉に傾注しなければならない。これが最初にすべきことである。

2.神の現在の言葉の基礎に基づいて祈り、神の言葉の中に入って神と交わり、あなたがどんな基準に達しようとするのか、神の前で自分の志を立てる。

3.聖霊の現在の働きの基礎の上に立って、さらに深く真理に進入することを追い求め、以前の古い言い方、教理に固執しない。

4.聖霊の感動を求め、神の言葉に進入する。

5.現時聖霊が歩んでいる道に入ることを追い求める。

どのように聖霊の感動を求めるか。いちばん肝心なのは、神の現在の言葉の中に生きていて、神の要求に基づいて祈ることである。そのように祈ったら、聖霊はきっとあなたを感動する。あなたが神の現在の言葉に基づいて求めたのではないならだめである。あなたはこう祈るべきである。「神様よ!わたしはあなたに逆らう者です。本当にあなたに負い目があります。わたしはあまりにも不従順で、いつもあなたを満足させることができません。神様よ、わたしを救ってください。わたしはあなたのために最後まで効力したいです。あなたのためなら死んでもいいです。あなたがわたしを裁き、罰しても、わたしは恨み言を言いません。あなたに逆らったので、わたしは死ぬべきです。あらゆる人がわたしの死のゆえにあなたの義なる性質を見ることができるように願っています。」あなたがこのように真心をもって祈るとき、神が聞いてくれるし、またあなたを導く。もし聖霊の現在の言葉に基づいて祈らなければ、聖霊はあなたを感動するはずがない。「神様よ!わたしはあなたの委託を引き受け、あなたの委託の上で忠誠を尽くしたいです。あなたの栄光のために、自分の一生をささげたく、わたしのあらゆる行ないが民に対する基準に達することができ、わたしの心があなたに感動されることを望みます。あなたのその霊が常にわたしに啓いてください、わたしのあらゆる行ないがサタンを辱めることができ、最後にあなたに得られますように」と、あなたが神の心意、神が今しようとすることに基づいて祈り、このように神の心意を中心として祈れば、聖霊は必ずあなたの中で働く。肝心なのは、祈りの言葉がどれほど多いかではなく、神の心意を探ることができるかどうかである。あなたたちはみなこのような経験があるかもしれない。ある集会で祈る時、聖霊の働きの動向は、あらゆる人の意欲が高まってくるように、最高潮に達することである。ある人は激しく泣いたり涙を流したりして祈り、神の前で極めて後悔し、ある人は志を表し、誓いを立てる。これは聖霊の働きが収めようとする効果である。今、最も肝心なのは、あらゆる人が心を完全に神の言葉に傾注することである。以前の言葉を重んじてはならない。もしあな

たが相変わらず以前のものを固く守れば、聖霊はあなたの身に働かない。あなたはこのことの重要性が
分かったのか。

あなたたちは現在、聖霊が歩んでいる道は何であるかを知っているのか。以上述べたいくつかのことは、聖霊が現在と今後成し遂げようとすること、つまり聖霊の歩む道であり、人の追求すべき、進入すべきものである。命に進入することで、少なくとも心を神の言葉に傾注し、神の言葉の裁きと刑罰を受け、神を渇仰する心を持ち、さらに深く真理に進入することを追い求め、神の要求する目標に向かって追い求めなければならない。あなたにこの意欲がある時、神があなたを感動したこと、あなたの心が神に向き始めたことを証明する。

命への進入の第一歩は、心を完全に神の言葉に傾注することであり、第二歩は、聖霊の感動を受けることである。聖霊の感動を受けて得る効果は何であるか。もっと深い真理を渇仰し、求め、模索することができ、積極的な面で神と協力することができることである。今、神と協力するとは、目標を持って追い求め、目標を持って祈り、目標を持って神の言葉を交流し、神の要求どおりに本分を尽くすということである。これこそが神との協力である。あなたが神に働かせるだけで、自分は何もせず、祈りもしなければ求めもしないなら、これは協力すると言えるのか。人の協力の要素がなく、目標を持って訓練したり、進入したりしないなら、これは協力すると言えない。ある人はこう言う。「すべては神様の定めにかかっており、神ご自身がなさるのだから、神様が働かなければ、人は何ができるでしょうか。」神の働きは正常であって、少しも超然としない。あなたが進んで求めてこそ、聖霊は働くのである。なぜなら、神は人に無理強いしないからである。だから、あなたは神に働く機会を与えなければならない。あなたが追求もせず進入もせず、渇仰する心が少しもないなら、神は働く機会がない。神の感動を求める方法は何であるか。祈り、神に近づくことである。しかし最も肝心なことを忘れてはならない。それはすなわち、神の言葉の基礎の上に立ってそれを行なうということである。あなたが常に神の感動を受ければ、あなたは肉体の束縛を受けなくなる。夫、妻、子女、金銭などはいずれもあなたを束縛することができず、あなたが真理を追い求め、神の前に生きることだけを望むようになれば、その時、あなたは自由の境地の中に生きている人になる。