神の声を聴いてキリストを認識する

第三章 神の三段階の働きに関する真理を認識しなければならない

3 神の三段階の働きのそれぞれの目的、意義を認識しなければならない。関連する神の言葉は以下のとおりである。

「当時、ヤーウェのイスラエルでの働きの意義、目的、手順は、全地で彼の仕事を展開させるためであり、イスラエルを中心として異邦へ広めるためであった。これは彼が全宇宙で仕事をする原則――点を面におし広め、そして拡大して、全宇宙の下の人が彼の福音を受け入れるようにすることである。最初のイスラエル人はノアの子孫である。これらの人はただヤーウェの息があり、衣食住行も知っていたが、ヤーウェがどういう神であるかを知らず、人に対する彼の心意も知らず、なおさら人がどのように造物主を畏れるべきかを知らなかった。規定があるかどうか、定めがあるかどうか、被造物が造物主に対してすべき仕事があるかどうか、これらについてアダムの子孫は知らなかった。彼らはただ、夫としては汗水流して働いて一家を養うべきであり、妻としては夫に従い、ヤーウェの造った人類のために血統を継ぐべきであることを知っていただけである。つまり、このような、ヤーウェの息、ヤーウェの命だけを持っている人は、どのように神のおきてを守るべきか、どのように造物主を満足させるべきかを知らなかったのであり、彼らが分かっているのはあまりにも少なかった。だから、彼らの心の中には曲がりと欺きがなく、彼らの間には妬みや紛争がとても少なかったが、彼らはヤーウェ――造物主を知らず、また理解していなかった。このような人の先祖はヤーウェのものを食べ、ヤーウェのものを享受することを知っていただけで、ヤーウェを畏れることを知らず、ヤーウェは彼らがひれ伏すべき者であることを知らなかった。これでは、どうして被造物と呼ばれることができるだろうか。それなら、『ヤーウェは造物主である』、』彼が人類を造ったのは、人類が彼を表現し、彼の栄光を現し、彼を代表するためである』という言葉は地に落ちたのではないか。ヤーウェを畏れる心のない人がどうしてヤーウェの栄光の証しになれるだろうか。どうしてヤーウェの栄光の表現になれるだろうか。それなら、ヤーウェが言った『わたしはわたしにかたどって人類を造った』という言葉は、サタン――その悪しき者がとらえる言葉尻となるのではないか。ヤーウェが人類を造って恥を受けるしるしとなるのではないか。その段階の仕事をやり遂げるために、ヤーウェは人類を造った後、アダムの時からノアの時まで、彼らを指示せず、導かなかったのであり、洪水によってこの世を滅ぼした後、正式にイスラエル人――ノアの子孫、すなわちアダムの子孫を導いたのである。ヤーウェはイスラエルで働き、言葉を言って、イスラエルのすべての民がイスラエルの全地で生活するよう導いた。そのため、人はこのことを見た。ヤーウェは人に息を吹き込んで、人が彼の命を持ち、塵の中から蘇って造られた人類になるようにすることができるだけではなく、人類を焼き払い、呪い、彼の懲らしめの杖で人類を管理することもでき、また人の地上での生活を導き、昼と夜の違いによって、人の間で言葉を言い、働くことができる。彼のした仕事はただ被造物に、人はもともとヤーウェが地から拾った塵から来たのであり、しかもヤーウェに造られたのであることを分からせるためであった。それだけでなく、彼がまずイスラエルで働いたのは、全宇宙の下の被造物がみなヤーウェを畏れ、ヤーウェを大いなる者とすることができるように、イスラエル以外の(実はイスラエル以外のものではなく、イスラエル人から分けられた異邦と異族である。だが、その祖先はやはりアダムとエバである)諸国、諸族がイスラエルからヤーウェの福音を得るためでもあった。もしヤーウェが最初イスラエルで働かず、人類を造った後、人類に地上で憂いも悩みもなく生活させただけなら、人の肉体の本性によれば(本性とは、人が永遠に、人が見られないものを知らず、つまりヤーウェが人類を造ったことを知らず、なおさらヤーウェがどうして人類を造ったのかを知らないことである)人は永遠にヤーウェが人類を造ったことを知らず、また、永遠にヤーウェが万物の主であることを知らない。もしヤーウェが人類を造って地上に置き、彼らに享受できるものを与えた後、袖を払って去り、人の間で一定の期間導かなかったとしたら、全人類は烏有に帰し、造られた天地万物、造られた全人類さえも烏有に帰し、しかもサタンに踏みにじられる地になっただろう。そうなら、「地上に、すなわち彼の造ったものの間に、彼の足の置く場所、すなわち聖なる地がある」というヤーウェの願いは破れてしまう。だから、彼が人類を造った後、人類の間で人の生活を導き、人類の間で人に対して話したのはみな、彼の願いをかなえるためであり、また、彼の計画を成就するためであった。彼がイスラエルで働いたのは、ただ彼が万物を造る前に立てた計画を成就するためであった。だから、彼がまずイスラエルの民の間で働いたことは、彼が万物を造ったことと互いに矛盾せず、それはみな彼の経営のためであり、彼の仕事のためであり、彼の栄光のためであり、彼が人類を造ったことがさらに深い意義を持つためでもあった。ノアの後、彼は地上での人類の生活を二千年導いた。そのため、人がみなどのように万物の主ヤーウェを畏れるべきかが分かり、どのように生活すべきか、どのように生きるべきかも分かり、さらに、どのようにヤーウェについて証しし、彼に従い、彼を畏れるべきかが分かり、それによって、ダビデと彼のすべての祭司のように楽器を奏でてヤーウェを賛美することができるようになった。
ヤーウェが二千年の仕事をする前に、人は何も知らず、そのほとんどが堕落してしまった。その結果、世界が洪水によって滅ぼされる前に、人は淫乱で堕落し、心の中に全然ヤーウェを持たず、ヤーウェの道も持たなくなった。彼らはヤーウェがどんな仕事をしようとするかをまったく知らなかった。彼らは理智がなく、見識もなく、ただ呼吸している機械のようであり、人、神、万物、命などについて一切知らなかった。地上で、彼らは毒蛇のように人を誘惑する仕事をたくさんし、ヤーウェを怒らせる言葉をたくさん言ったが、彼らの無知のゆえに、ヤーウェは彼らを罰せず、また彼らを懲らしめなかった。ただ世界が洪水によって滅ぼされた後、すなわちノアが六百一歳の後、ヤーウェは正式にノアに現れ、律法時代が終わるまで、ノアと彼の家族を導き、つまり洪水の後に残った鳥獣類とノアおよび彼の子孫、後裔を導いたのである。その期間は合わせて二千五百年であった。彼がイスラエルで働き、つまり正式に働いたのは全部で二千年であり、イスラエルとイスラエル以外で同時に働いたのは全部で五百年であり、合わせて二千五百年であった。」

                  

「言葉が肉体で現れる・律法時代の仕事」より

「その間、彼は、ヤーウェに仕えるには神殿を建てるべきであり、祭司服を着るべきであり、しかも夜明けから裸足で神殿に入るべきだと、イスラエル人に教えた。それは、彼らの靴がヤーウェの神殿を汚して、火が神殿の上から彼らの身に下って彼らを焼き殺すことがないためであった。彼らはみな自分の本分を果たしてヤーウェの按配に従ったのであり、神殿の中でヤーウェに祈り、ヤーウェの啓示を受けた後、つまりヤーウェの言葉が語られた後、すべての民を導いて、すべての民にヤーウェ――彼らの神を畏れるべきであることを分からせた。ヤーウェはまた、神殿を建て、祭壇を建てるべきであり、ヤーウェの時に、すなわちヤーウェの過越に牛、羊の初子を備えて祭壇にささげてヤーウェに仕えるべきだと彼らに教えた。それは彼らを拘束して、彼らにヤーウェを畏れる心を持たせるためであった。彼らが律法を守るかどうかによって、彼らがヤーウェに忠実であるかどうかを判断した。ヤーウェはまた彼らのために安息日を定めた。つまり、彼が万物を造った第七の日を安息日とした。彼は安息日の次の日を初日と定めた。その日は彼らがヤーウェを賛美し、ヤーウェにいけにえをささげ、ヤーウェのために太鼓や竪琴を奏でる日であった。その日には、ヤーウェはすべての祭司を招集して、祭壇の上のいけにえをすべての民に分けて食べさせ、彼らにヤーウェの祭壇の上のいけにえを享受させ、しかもヤーウェは、彼らが幸いな人であり、彼にあずかるものであり、彼の選民であると言った(これはつまり、ヤーウェがイスラエル人と立てた約束であった)。だから今になっても、イスラエルのすべての民はヤーウェがただ彼らの神であり、異邦人の神ではないと言っている。

律法時代に、ヤーウェは多くの戒めを定めて、モーセに、彼につき従ってエジプトの地から出たイスラエルの民たちに発布させた。この戒めは当時ヤーウェがイスラエルの民に与えたのであり、エジプト人とは関係がなく、イスラエル人を拘束するためのものであった。彼は戒めによって彼らに要求したのである。安息日を守るかどうか、父母を敬うかどうか、偶像を拝むかどうかなどなど、これらを原則として彼らを罪に定め、或いは彼らを義としたのである。ヤーウェの火が彼らに臨むかどうか、彼らが石で打ち殺されるかどうか、ヤーウェの祝福を得ることができるかどうかはみな、彼らがこれらの戒めを守るかどうかにかかっていた。もし安息日を守らない人がいれば、ほかの人に石で打ち殺され、もし祭司が安息日を守らなかったら、ヤーウェの火が彼に臨んだ。もし人が父母を敬わなければ、同様にほかの人に石で打ち殺され、これはみなヤーウェに良しと認められたことである。ヤーウェが戒め、律法を定めたのはみな、彼が人の生活を導いている間、人が彼の言葉を聞き、彼の言葉に従って、彼に背かないようにするためであり、これらの律法でこれらの生まれたばかりの人類を支配して、これによって以後の仕事のために基礎を築くためであった。だから、ヤーウェのした仕事によって、第一の時代を律法時代と呼んだ。ヤーウェはたくさんの言葉を言い、たくさんの仕事をしたけれども、彼はただ積極的な面から人を導いたのであり、これらの無知な人たちが彼の導きの下で人としての生き方を習得し、生活の仕方を習得し、ヤーウェの道を理解するようにしただけである。彼のした仕事の多くは、人が彼の道を守り、彼の律法を守ることができるためであった。彼はとても浅く堕落させられた人の身に働いたのであり、性質の変化や命の成長を云々するまでには至らなかった。ただ人に律法を守らせることによって人を拘束し、人をコントロールしただけである。当時のイスラエル人にとっては、ヤーウェはただ神殿の中の神であり、天の神でもあり、雲の柱であり、火の柱でもあった。ヤーウェが彼らに行わせたのは、ただ今日の人が思っているような律法、戒めであり、それは規定だとさえ言える。なぜなら、ヤーウェのしたことは彼らを変えるためではなく、もっと多くの、人の装備すべきものを人に与え、自らの口で人に教えるためだったからである。それは、人が造られた後、人の具備すべきものを全然持たなかったからである。こうして、ヤーウェは、人が地上で生活するのに持つべきものを彼らに与えた。それゆえ、ヤーウェに導かれた人類は、人類の祖先――エバとアダムに勝るようになった。というのは、ヤーウェが彼らに与えたものは、最初エバとアダムに与えたものを超えたからである。どうであろうと、ヤーウェがイスラエルでした仕事は人の導きになって、人に造物主を認めさせることしかできなかった。しかし、それは征服することではなく、変えることでもなく、ただ導くことであった。これは律法時代のすべての仕事であり、ヤーウェがイスラエルの全地でした仕事の背景、内幕、本質であり、六千年の手始めの仕事――人々をヤーウェの手の支配下に置くことでもある。こうして、六千年の経営計画の中のもっと多くの仕事が生じたのである。」

  

「言葉が肉体で現れる・律法時代の仕事」より

「恵みの時代に、人がすでにサタンに堕落させられたので、全人類を贖う仕事をするには、働きの効果を収めるために、必ず豊かな恵み、数えきれないほどの包容、忍耐がなければならず、さらに十分に人の罪を赦すことができる罪祭がなければならなかった。恵みの時代の人が見たのは、ただわたしが人の罪を赦すための罪祭、すなわちイエスであり、彼らは神が人を憐れみ、人を包容することができることしか知らず、彼らが見たのはただイエスの憐れみと慈しみだけであった。これらはみな彼らが恵みの時代に生まれたからである。だから、彼らは贖われる前に、イエスが彼らに与えたたくさんの恵みを享受しなければならなかった。こうしてこそ、彼らのためになり、彼らは恵みを享受することによって、罪が赦されることができ、イエスが彼らに与えた包容と忍耐を享受することによって、罪が贖われる機会を得ることができる。イエスの包容と忍耐のゆえに、人は罪が赦されて、イエスから与えられた豊かな恵みを享受する資格を持つようになった。イエスが言ったように、『わたしが来たのは、義人を贖うためではなく、罪人を贖って、罪人の罪が赦されるようにするためである。』もしイエスが受肉した時、もたらした性質が裁きと呪いであり、しかも人がいつまでもそれを犯してはならないとしたら、人は永遠に贖われる機会がない。その場合、人は永遠に罪に属するだろう。そうだったら、六千年の経営計画はただ律法時代にとどまり、その結果、律法時代が六千年続くことになり、人の罪もきっとますます多くなり、ますます深くなり、こうして人類を造ったすべての意義は烏有に帰してしまい、人は律法の下でヤーウェに仕えるしかないが、人類の罪は最初造られた人類の罪を超えてしまう。イエスが人類を愛し、人の罪を赦し、人に十分な憐れみと慈しみをもたらすほど、人はイエスに救われ、イエスが身代金を払って贖い戻した失われた小羊と呼ばれる資格を持つようになり、サタンもこの仕事に手を出しようがなくなる。なぜなら、イエスは慈母が懐にいる赤子に対するように、彼につき従う人を扱って、彼らに対して怒りを発せず、憎みを抱かず、慰めに満ちていたのであり、彼は彼らの間で大いに憤ったことがなく、彼らの罪を包容し、彼らの愚昧と無知を見なくて、『七度を七十倍するまで人を赦しなさい』とさえ言ったからである。そのため、ほかの人の心は彼の心に感化され、このように、人は包容のゆえに罪が赦されたのである。」

  

「言葉が肉体で現れる・贖いの時代の仕事の内幕」より

「時代が異なるため、彼は常に人に豊富な食物を与えて人が満ち足りるようにした。彼は彼につき従うすべての民に情けをかけて、彼らのために病気を治し、悪霊を追い出し、また、死人を生き返らせた。人が彼を信じ、彼のしたすべてには真心、誠意がこもっているのを見ることができるように、彼は腐った死体をさえ救って、人に死人でも彼の手の中で生き返ることができるのを見せた。彼はずっとこのように人の間で黙々と忍耐し、彼の贖いの仕事をしていて、十字架につけられる前に、彼はすでに人の罪を担って、人の罪祭となったのである。人類を贖うために、彼は十字架につけられる前に、すでに十字架の道を開いておいた。最後に彼は十字架につけられて、十字架のために自分自身を犠牲にし、彼は自分のあらゆる憐れみ、慈しみと聖を人類に与えた。」

  

「言葉が肉体で現れる・贖いの時代の仕事の内幕」より

「イエスの贖いがなければ、人はずっと罪の中に生きているようになり、罪の子孫、鬼の後裔になってしまう。このままでいけば、全地はサタンが住まう地になってしまい、またサタンが生存する地になってしまう。しかし、贖いの仕事をするには、人に憐れみと慈しみを施さなければならない。こうしてこそ、人は罪の赦しを得ることができ、最後に完全にされ、完全に得られる資格を持つことができる。もしこの段階の仕事がなければ、六千年の経営計画は展開されることができない。もしイエスが十字架につけられず、ただ人のために病気を治し、悪霊を追い出したとしたら、人の罪はやはり完全に赦されることができない。彼は地上に来て三年半の仕事をしたが、それはただ贖いの仕事を半分やり遂げただけである。そして、彼は十字架につけられて罪の肉の様になって、その悪しき者に渡され、これによって、十字架につけられる仕事をやり遂げ、人類の運命を把握した。彼がサタンの手に渡されてはじめて、人類は贖われたのである。彼はこの世で三十三年半の苦しみを受け、嘲られ、誹謗され、見捨てられ、枕するところ、安息するところさえもなかった。その後、十字架につけられ、彼の全存在――きよくて、罪のない肉体が十字架につけられて、あらゆる苦しみをなめ尽くした。政権や権力を握った者たちはみな彼を嘲り、彼を鞭打ち、兵士たちは彼の顔に唾を吐くことさえしたが、それでも、彼はやはり一言も言わず、最後まで耐え忍び、無条件に死に至るまで従い、それによって人類を全部贖い戻した。その後初めて彼は安息に入った。」

  

「言葉が肉体で現れる・贖いの時代の仕事の内幕」より

「恵みの時代にはどんな仕事をしたのか。イエスは人を救う神であり、彼の所有、所是は恵み、慈しみ、憐れみ、包容、忍耐、へりくだり、愛、寛容であり、彼が来てこんなに多くの仕事をしたのは人を贖うためであった。彼の性質は何であるか。彼の性質は憐れみ、慈しみであった。彼の憐れみ、慈しみのとおりなら、彼は必ず人のために十字架につけられなければならなかった。これをもって神は、自分の全存在をささげるほど、人を自分のように愛していることを証明した。サタンは言った。『あなたが人を愛する以上、とことんまで愛すべきであり、十字架につけられて、人を十字架の上から、すなわち罪の中から救い出し、あなた自身をささげて、全人類と交換しなければならない。』サタンはこのように賭けて言った。『あなたが憐れみ、慈しみの神である以上、あなたは人をとことんまで愛すべきであり、あなた自身を十字架にささげるべきだ。』するとイエスは言った。『人類のためなら、わたしは喜んで自分のすべてを引き渡す。』それから少しも自分を惜しまずに十字架に行って、全人類を贖った。恵みの時代に、神の名はイエスであり、つまり神は人を救う神であり、神は憐れみ、慈しみの神であった。神は人と共におり、一人一人には、彼の愛、彼の憐れみ、彼の救いが伴っていた。人はイエスの名を受け入れ、彼の臨在を受け入れてこそ、平安と喜びを得ることができ、彼の祝福、彼の極めて大きく極めて多くの恵み、彼の救いを得ることができた。イエスが十字架につけられることによって、彼につき従った人はみな救われ、罪の赦しを得た。恵みの時代に、『イエス』は神の名であり、つまり恵みの時代の仕事はイエスという名を主とした仕事であった。恵みの時代に、神はイエスと呼ばれ、彼は旧約聖書の範囲を超えて一段階のさらに新しい仕事をし、彼の仕事は十字架につけられることで終わったのである。これは彼の全部の仕事であった。」

  

「言葉が肉体で現れる・働きの異象(三)」より

「人から見れば、神が十字架につけられたことによって、神はもう言が肉体となる仕事を終わらせ、全人類をみな贖い戻し、しかも陰府の鍵を握った。人はみな神の仕事がもう完全に完成したと思っている。実は、神から見れば、彼の仕事はただごく一部しか成し遂げられておらず、彼はただ全人類を贖っただけで、全人類を征服しておらず、なおさら人のサタン的な醜い姿を変えていない。だから、神はこう言った。「言がなった肉体は死の苦しみを経たが、しかしそれはわたしが受肉した目的のすべてではない。イエスはわたしの愛する子であり、わたしのために十字架につけられたが、彼はわたしの仕事を完全には終わらせておらず、一部分だけをしたのである。」こうして、神はまた、言が肉体となる仕事を継続するための二回目の計画を始めた。神の最終的な心意は、サタンの手から救い出された人をみな完全にし、得ることである……」

  

「言葉が肉体で現れる・働くことと進入すること(六)」より

「最後の仕事は言葉を言うことであり、言葉によって人は大きな変化を得ることができる。今、この人たちがこれらの言葉を受け入れてから得た変化は、恵みの時代に人がそれらのしるしと奇跡を受け入れてから得た変化よりずっと大きい。なぜなら、恵みの時代に手を置いて祈ると、悪霊は人から出て行ったが、人の内側のそれらの堕落した性質は依然として存在しており、人の病気は治され、人の罪は赦されたけれども、人が一体どうすれば内側の堕落したサタン的性質を脱ぎ捨てることができるかについての仕事はまだ人の身に行われておらず、人はただ信仰によって救われ、信仰によって罪の赦しを得ただけで、罪を犯す人の本性はまだ取り除かれておらず、まだ人の内側に存在しているからである。人の罪が神の受肉によって赦されたのであって、人の内側に罪がなくなったのではない。人が罪を犯せば、罪祭によって赦されることができるが、一体どうすれば人が罪を犯さず、罪の性質を完全に脱ぎ捨て、罪の性質がある程度変えられることができるか、この問題は人が解決することができない。人の罪は確かに赦された。それは神が十字架につけられた仕事のゆえである。だが、人はやはり古くて堕落したサタン的性質の中に生きている。こうして、人を堕落したサタン的性質の中から完全に救い出して、罪の性質が完全に取り除かれ、しかも再び発展せず、人の性質が全部変化するようにしなければならない。だから、人に命の成長へと至る道を分からせ、人に命の道、性質の変化に至る道を分からせ、しかも人にみなこの道によって実行させる必要がある。これによって、人が次第に性質の変化を得て、光の照らしの中で生きるようにし、人の行うすべての事が神の心にかなうようにし、人が堕落したサタン的性質を脱ぎ捨て、サタンの暗やみの権勢から逃れて、完全に罪の中から出て来ることができるようにする。こうしてこそ、人は完全な救いを得ることができるのである。イエスが働いた時、イエスに対する人の認識は依然として漠然としており、依然としてぼんやりしていた。人はずっと彼のことをダビデの子だと思っており、彼のことを大預言者だと言い、彼のことを、人の罪を贖う慈しみ深い主だと言っていた。ある人たちは信仰によって彼の衣の房に触れるとすぐ病気が治り、盲人も見えるようになり、死人も生き返ることができた。しかし、人の内側の根深い、堕落したサタン的性質には、人は気付くことができず、どのように脱ぎ捨てるかも知らなかった。人はたくさんの恵みを受けた。例えば、肉体の平安、喜びとか、一人が神を信じれば家族全員が祝福されるとか、病気がいやされるとかの恵みである。ほかは人の良い行いと敬虔な様子であった。人がこれによって生きることができれば適格な信徒であり、このような信徒こそ死んだ後、天堂に上ることができ、すなわち救われたのである。しかし、この人たちは生前に命の道が全然分からず、ただ罪を犯しては罪を認め、罪を犯しては罪を認めただけで、性質の変化に至る道を持ってはいなかった。恵みの時代の人はこういう状態にあるのであった。人は完全に救われたのか。まだである!だから、その段階の仕事をやり遂げた後、また一段階の裁き、刑罰の仕事をしなければならない。この段階では言葉によって人をきよめ、人に歩むべき道を持たせるのである。もしこの段階で再び悪霊を追い出すなら、効果と意義がなくなる。なぜなら、人の罪の性質が脱ぎ捨てられていなくて、人がただ、罪が赦されたという基礎の上にとどまっているからである。罪祭によって、人はすでに罪の赦しを得た。それは十字架の仕事はもう終わり、神はもうサタンに打ち勝ったからである。しかし、人の堕落した性質がまだ人の内側に存在していて、人はまた罪を犯して神に逆らうはずであり、神はまだ人類を得ていない。だから、この段階では言葉で人の堕落した性質をさらけ出して、人に適切な道によって実行させる。この段階でする仕事は、前の段階よりさらに意義があり、前の段階でした仕事より効果がさらに大きい。なぜなら今は、言葉が直接人に命を供給して、人の性質が完全に新しくされることができるようにするのであり、これは一段階のさらに徹底的な仕事だからである。だから、世の終わりの受肉は、神の受肉の意義を完全にし、神の人を救う経営計画を徹底的に完成したのである。」

  

「言葉が肉体で現れる・受肉の奥義(四)」より

「王国時代に、神は言葉で時代を開き、言葉で働き方を変え、言葉で全時代の仕事をする。これは言葉時代に、神が働く原則である。彼は言が肉体となり、異なった立場に立って話して、人は本当に、言葉が肉体で現れた神を見、神の知恵と奇しさを見た。このように働くのは、人を征服し、人を完全にし、人を淘汰するという目的をよりよく達成するためであり、これこそ言葉時代に言葉によって働くということの本当の意味である。言葉によって神の働きを認識し、神の性質を認識し、人の本質を認識し、人の進入すべきものを認識し、言葉によって神が言葉時代にしようとするすべての仕事をなし遂げ、言葉によって人を明らかにし、人を淘汰し、また言葉によって人を試す。人はみな言葉を見、言葉を聞いたし、また言葉の存在を知ったので、神の存在を信じ、神の全能、知恵を信じ、神の、人を愛し、人を救う心を信じた。……王国時代を通じて、神は言葉で働き、言葉で働きの効果を収め、彼はしるしも力あるわざも行なわず、ただ言葉で働く。人はみな言葉のゆえに滋養を得、供給を得、言葉のゆえに認識を得て、本当の経験を得る。」

  

「言葉が肉体で現れる・王国時代は言葉時代である」より

「今の時代に神のする仕事は、主に人に命の言葉を供給し、人の本性の本質及び堕落した性質をさらけ出し、人の宗教的観念、封建的思想、古い思想を取り除くことである。人の知識、文化、これらはみな神の言葉のさらけ出しによって清められなければならない。世の終わりに、神は言葉で人を完全にするのであって、しるしや奇跡で人を完全にするのではなく、言葉を言うことによって人を明らかにし、裁き、罰し、完全にして、人が神の言葉の中から神の知恵を見、神の愛しさを見、神の性質を知り、神の言葉を通して神の業を見ることができるようにする。」

  

「言葉が肉体で現れる・神の現時の働きに対する認識」より

「最後の、時代を終わらせる仕事の中で、神の性質は刑罰と裁きであり、彼はすべての不義を明らかにして、公にすべての民を裁き、心から彼を愛する人たちを完全にし、このような性質こそ時代を終わらせることができる。今はもう世の終わりになり、万物はおのおのその種類に従い、みな異なった性質によって異なった種類に分けられ、この時はちょうど神が人の結末、落ち着き先を明らかにする時である。もし人が刑罰、裁きを経験しなければ、人の不従順、不義は現れることができない。刑罰、裁きによってこそ、万物の結末をすべて明らかにすることができ、人は刑罰、裁きの中でこそ本来の姿が現れ、それから悪は悪に帰し、善は善に帰し、人がみなおのおのその種類に従うようになる。神は刑罰、裁きによって万物の結末を明らかにし、そうすることで悪を行う者を罰し、善を行う者を賞し、すべての人を神の権威の下に従わせる。これらの仕事はすべて、義なる刑罰と裁きによってなし遂げなければならない。人は極みまで堕落していて、あまりにも不従順なので、刑罰と裁きを主とした、世の終わりに明らかにされた神の義なる性質だけが人を徹底的に変え、完全にすることができ、悪を現すことができ、これによってあらゆる不義の者を厳しく懲罰する。だから、このような性質はすべて時代的な意義を持っているのであり、神が性質を明らかにし、公にするのは一つ一つの新しい時代での仕事のためであり、彼が無意味に随意に彼の性質を明らかにするのではない。」

  

「言葉が肉体で現れる・働きの異象(三)」より