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終わりの日のキリストの証人

目次

3.神の心に従う人は正確には何であるか。神における信仰の真の証は何か。

聖書の言葉

このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。(ヨブ1:20-21)

神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、(創22:2、10)

彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。(黙14:4-5)

関連する神の言葉

イエスが神の任務――全人類を贖う業――を完了することができたのは、イエスが神の心に全ての注意を払い、彼には個人的な計画や思慮がなかったからである。だからイエスも神と心を一つにする者であった――神自身であった。それは、あなたたち皆がとてもよく理解しているとおりである。(実際、イエスは神によって証しされた神自身であった。わたしがこのことをここで述べるのは、イエスに関する事実を取り上げてこの問題を例証するためである。)イエスは神の経営(救いの)計画を全ての中心に置くことができ、いつも天の父に祈り、天の父の心を求めた。イエスは祈り、次のように語った。「父なる神よ。あなたの心にかなうことを成し遂げたまえ。わたしの思うようにではなく、あなたの計画によってことを為したまえ。人は弱いかもしれないが、なぜあなたは人のことを気遣うのですか。あなたの手の中では蟻のような人間が、どうしてあなたの配慮の対象になれるのでしょうか。わたしが心の中で願うのは、あなたの心を成就することだけです。わたしの望みは、あなたがわたしの内で行なう業を、あなたが自らの意図にしたがって為すことです。」エルサレムへ向かう途上、イエスは苦悶して、あたかもナイフが心の中で捻じ曲げられているかのように感じたが、神の言葉に背く思いは微塵もなかった。いつも強い力がイエスを磔刑の場所に向かって突き進ませた。最終的に、イエスは十字架に釘付けにされ、罪深い肉と同様になり、人類を贖う働きを完了し、死と黄泉の束縛を克服した。イエスの前に、死も、地獄もハデスも力を失い、イエスによって打ち負かされた。イエスは三十三年生きたが、生涯を通して彼はいつも全力を尽くし、その時の神の働きに従って神の心を全うした。決して自分の個人的損得は考慮せず、いつも父なる神の心のことを思った。従ってイエスが洗礼を受けた後、神は次のように語った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」イエスの神に対する奉仕は神の心にかなうものだったので、神はイエスの肩に全人類を贖うという大きな重荷を負わせ、それを成し遂げるためにイエスをつかわし前進させた。そして、イエスにはこの重要な任務を完成する資格と権限があった。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

神に仕える者は、神と心を一つにする者でなければならず、神に愛されており、神に最大限の忠誠を示すことができなければならない。人々の後ろで行動しようと、前で行動しようと、あなたは神の前で神を喜ばすことができ、神の前ではしっかり立つことができる。また、他の人々があなたをどのように扱おうとも、あなたはいつも自分の道を歩み、神の重荷に一心に注意を払う。こういう者だけが神と心を一つにする者なのだ。神に親しい者が直接神に仕えることできるのは、彼らが神から重大な任務や重荷を与えられているからである。彼らは神の心を自分の心とし、神の重荷を自分の重荷とすることができ、将来の展望を得るか、失うかなど一切考慮しない。将来の展望が何もなく、何も得るものがない時でさえ、彼らは常に愛に溢れる心で神を信じるだろう。そこでこのような人は神と心を一つとする者なのである。神と心を一つにする者は神の腹心でもある。神の腹心だけが、神の絶え間ない憂慮や神の願いを共有することができる。彼らの肉体は弱く、苦痛を味わうが、彼らは痛みに耐え、神を満足させるために、自分の愛するものを断念することができる。神はそのような人々にさらなる重荷を与え、神がしようとすることはこれらの人々を通して表現される。従って、これらの人々は神に愛され、神自身の心に適った神の僕である。そして、このような人々だけが神と共に統治することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

ペテロの名を聞くと、誰もがみな、たたえの心に満ち、…. 彼はわたしの言葉を飲み食べるだけではなく、わたしの意図するところを把握しようと注意を払った。そして、常に思慮深く、慎重に考えた。だから、彼はいつでも霊が敏感で、その行いのすべてにおいて、わたしの心に適うようにすることができたのだ。ふだんの生活では、失敗の網にかかるようなことを深く恐れ、過去に失敗した人々の教訓を元に、より大きな働きができるよう、自らを励ました。ペテロはまた、遠い昔から神を愛した人々すべての信仰と愛から学んだ。このようにして、ペテロはどのような状況からも学び、急速に成長し、わたしの前で最もよくわたしを知る者となったのだ。このため、想像に難くないことだが、彼は所有物をすべてわたしの手に託し、もはや食べること、着ること、眠ること、どこに宿るかにおいてさえ、自分の主人であることをやめ、あらゆる点においてわたしを満足させ、それによってわたしの恵みを豊かに得たのである。まことに、わたしは何度もペテロを試した。もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりとわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることなく、それまでと同じように、わたしへの愛を実現するため、自分の信じることを続けた。. …わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となったのだ。これこそは、あなたがたが見習うべき例ではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「六番目の言葉」より

真の証とは、正確に言うと、何であろうか。ここで言う証には2つの部分がある。ひとつは征服されたことに関する証であり、もうひとつは完全にされたことの証 (すなわち、それは必然的に一層大きな試練と、今後の苦難の後の証) である。つまり、あなたがたが苦難や試練の時に揺るぎなく耐えることが出来るのであれば、あなたがたは証の第2段階に立ったことになる。現在重要なのは、証の第1段階、すなわち罰と裁きの試練全てにおいて揺るぎなく耐えることである。これが征服されることの証である。なぜなら、現在は征服の時だからである。(現在は神の地上における御業の時であることを、あなたがたは知るべきである。神の地上における御業は、裁きと罰の使用により神に付き従う人間の集団を征服することである。)あなたがたが征服された証を行うことが出来るかどうかは、あなたがたが最後まで付き従うことが出来るかだけでなく、あなたがたが神の御業の各段階を経験する時に、この御業の罰と裁きに関する真の知識を得ることが出来るかどうか、あなたがたが真にその御業の全てを知っているかどうかによっても異なる。あなたがたが最後まで付き従えば、なんとか出来る、というわけではない。あなたがたは、あらゆる罰と裁きにおいて自ら進んで降伏することが可能であり、自分が経験する御業の各段階を知ることが可能であり、神の性情に関する知識と、それに関する知識を得ることが可能である必要がある。これがあなたがたに要求される、征服されることの究極の証である。征服されることの証は、おもに神の受肉に関する知識を指す。重要な事として、証のこの段階は、神の受肉に関するものである。この世の人々や権力を振りかざす者の前で何を言うかは問題ではない。何よりも問題となるのは、神が述べた御言葉と神の御業に従うことが出来るかどうかである。したがって、証のこの段階は、サタンと悪魔、そして神が2度目の受肉を行い、一層大いなる御業を行うために来ることを信じない者、そして神の再受肉という事実を信じない者など、神の全ての敵を対象とする。つまり、それは神の受肉を信じない敵であるキリスト反対者全員を対象とする。

…………

終わりの日の証は、あなたがたが完全にされることが可能であるかどうか、つまり、最後の証は、あなたがたが肉にある神が述べた御言葉を受け容れ、神に関する知識を備え、神に関して確信した上で、神が述べた御言葉全てを行動で示し、神が自分に求める条件を満たしているか、すなわちペトロの姿勢とヨブの信仰を満たし、死に至るまで神に従い、自分の全てを神に捧げ、最終的に基準となる人間像、すなわち征服され、罰と裁きを受け、完全にされた者の人間像に達しているかどうかの証である。これが、最終的に完全にされた人間が行うべき証である。

『言葉は肉において現れる』の「実践 (4)」より

神の明白な証しに立つことは、あなたがたに実践の神に関する知識があるか如何、そしてその平凡であるだけでなく普通の人物の前に従い、今後も死ぬまで従い続けられるか如何に、専ら関連する。あなたがたがこの従順さによって真に神の証しに立つならば、それはあなたがたが神により得られたことを意味する。死ぬまで従い、神の前で不満が無い状態であり、批判したり中傷したりせず、観念を抱かず、その他いかなる意図が無い状態で居ることが出来るということにより、神は栄光を得るであろう。人々により蔑まれている普通の人物の前における従順さと、死ぬまで観念を抱かずに従うことが出来ることが、真の証しである。神が人間に対して真摯に取り組むよう要求する現実とは、あなたがたが神の言葉に従い、神の言葉を実践し、実践の神に服従し、自らの堕落を知り、神の前で自らの心を開き、最終的には神の言葉によって、神に得られることが出来ることである。神は、そうした言葉があなたがたを征服し、あなたがたを完全に神に対して従順にすることが出来る時、栄光を得る。それによって神はサタンを辱め、神の業を完了する。

『言葉は肉において現れる』の「神の実際性に対して絶対的に服従できる者は、真に神を愛する者である」より

あなたがたは、神がどのようにして自分を精錬されるかを問わず、完全に確信し、神への確信を決して失ってはならない。あなたがたは人間がすべき事をしなければならない。それが、神が人間に要求されている事であり、あなたがたの心は、いかなる時も完全に神へと戻り、神へと向かわねばならない。それが勝者である。神が勝者と呼ばれる者は、サタンの影響下に置かれ、サタンに包囲された時、つまり闇の軍勢の中で孤立した時でも、神の証しに立ち、神への確信と帰依を維持できる者である。何があっても、あなたがたが依然として純真な心と神に対する真実の愛を維持できるのであれば、それは、あなたがたが神の御前で証しに立っているということであり、それは神が言われるところの勝者となることである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自らを神に捧げ続けなければならない」より

神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある。例えば、あなたが兄弟姉妹に対して偏見を持っているなら、あなたには言いたい言葉――神にとって不愉快かもしれないとあなたが感じる言葉―― があるだろうが、心の中ではあなたにとって言わずにいるのは難しいことである。そしてこの時、あなたの心の中には戦いが始まる。私は話すべきか否か。これは戦いである。従って、すべての中に戦いがあり、あなたの心の中に戦いがある時、あなたの実際の協力と実際の苦しみのおかげで、神はあなたの中で働く。結局、心の中であなたは問題を脇にどけておくことができ、怒りは当然消滅する。それが、あなたが神に協力した結果である。あなたが行うすべてはあなたが一定の代償を努力で支払うことを要求する。実際の困難がなければ、あなたは神も満足してもらうことはできないし、神に満足してもらうことに近づくことさえなく、それらは空虚なスローガンに過ぎなくなる。これらの空虚なスローガンは神に満足してもらうことができるだろうか。神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。あなたには洞察力がないし、能力は乏しいが、神があなたを全き者とすることによって、あなたは神に満足してもらうことができ、神の心に留意することができる。他の人々は、最も能力の乏しい人々に神がとても偉大な働きを行ったことがわかるだろう。人々は神を知るようになり、サタンの前で克服者になり、ある程度神に忠実になる。この一群の人々ほど気骨を持っている人はいないだろう。これが最大の証しである。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

人々の内で神がいのちになるやいなや、神を離れることはできなくなる。それは神の業ではないのだろうか。これ以上の証しはない。神は一定のところまで働いた。神は人々に、仕えよ、罰を受けよ、あるいは死ねと言ったが、人々は退いていない。このことは、そうした人々が神に征服されていることを示している。真理を持っている人々は、実体験から証しに固く立つことができ、その信仰的立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する他の人々と正常な関係を持つことができ、自分達に何かが起こった時は、完全に神に従い、そして死にまでも神に従う。日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉を交わり、神に導かれ、神の啓示を受け、自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを語ることができ、霊において奉仕することを深く理解し、自然と語り、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何か起こった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。それはつまり、ある程度の経験を積むと、心の中に神について理解力が養われ、そこで、外に現れる性質もまた、安定するのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より