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終わりの日のキリストの代表的な言葉

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XII 人の成果を定義するための神の基準とあらゆる人の終わりについての代表的な言葉

今こそ、わたしは一人一人のために終わりを決めるときであり、人に働きかける段階ではない。わたしの手帳にそれぞれの言葉や行動、わたしに従う者としての彼らの道、本来の属性や最後の行いなどを書き留める。このように、どのような人であってもわたしの手から逃れられなく、あらゆる人たちはわたしが定めるように同類の人たちと共にいるだろう。わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ不幸の度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外に他の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者たちすべては神の義ゆえに懲罰されるのであって、彼らの邪悪な行為の報いである。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

わたしがあらかじめわたしの言葉を聞くように定めておいた人たちをすべてわたしの家に招き、わたしの言葉に従い、待ち焦がれる人たちすべてを玉座の前に置く。わたしの言葉を裏切る者たちや、またわたしに従うことも服従することもない人たちや、公然とわたしに反抗する人たちは彼らの最後の罰を待つためにわきに投げ捨てられるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より

創造の時から今日まで、多くの人々がわたしの言葉にそむき、そのためにわたしの回復の流れからうち捨てられ、除かれた。最終的に彼らの体は滅び、その魂はハデスに投げ込まれる。そして、今日でも、その者たちは、まだ重い罰を受けている。多くの人々がわたしの言葉に従ったが、彼らはわたしの啓きと照らしにそむいたために退けられ、サタンの支配下に落ち、わたしに敵対する者になった。(今日、わたしに真っ向から敵対する者は、わたしの言葉の表面的な意味にだけ従い、わたしの言葉の本質に逆らう。)また、わたしが昨日語った言葉だけを聞いて、過去のくずにしがみつき、今日の産物を重んじようとしない人は大勢いる。そうした人々はサタンにとらわれているだけではなく、永遠の罪人になり、真っ向からわたしに敵対しているのだ。そうした人々は、わたしの怒りの最中にわたしの裁きを受けることになり、今日、まだ目が見えず、今も暗い牢獄にいる。(つまり、そうした人々は腐り、サタンに操られるしなびた死体なのであり、その人たちの目はわたしが覆っているから、目が見えないというのだ。)

『言葉は肉において現れる』の「四番目の言葉」より

人類が安息の中に入る前に、各々の種類の人が罰されるか、それともよい報いを受けるかどうかは、彼らが真理を求めるかどうか、神を認識するかどうか、見える神に従うことができるかどうかによって決まる。神に仕えてきたが見える神を認識しないあるいは彼に従順でない人たちはみな真理のない人である。このような人たちは悪を行う人であり、悪を行う人は疑いなくこらしめを受ける対象である。しかも彼らは、彼らの悪行に応じて罰せられる。神は人による信仰の対象であり、また人が従うに値する存在である。だが、漠然とした見えない神だけを信じる人たちはみな神を信じない人たちである。その上、彼らは神に従うことができない。もしこのような人たちが神の征服の仕事が終わるときまでに、依然として、見える神を信じることができず、しかもやはり肉の中の見える神に背き逆らうことを続けるなら、このような「漠然派」は疑いなく滅ぼされる。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

人が人を裁く場合は、人の行いを基準とする。つまり、行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は不道徳者である。神が人を裁く時は、人の本質が神に従順であるかどうかを基準とする。つまり神に従順な者は義なる人であり、神に従順でない者は敵であり、不道徳者である、この人の行いがよいか悪いか、この人の言葉が正しいか間違っているか、に関わらず。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

わたしは地上でわたしに従う者たちを多く求めてきた。彼らの中には祭司として奉仕する者たち、指導する者たち、息子となる者たち、民を構成する者たち、そして奉仕をする者たちがいる。わたしは人がわたしに示す忠誠心に従って分類する。あらゆる人が種類によって区分されるとき、つまり、それぞれの人の性質が明確にされたとき、わたしは一人一人に適切に分類し、その人たちを適切な場所に配置しよう。そうすることでわたしは人類の救いの目的を実現できるかもしれないからである。順番に、わたしは救ってわたしの家に戻したいと願っている人たちのグループを呼び、それから終わりの日のわたしの働きを受けいれるようすべての人に求める。それと同時に、わたしは種類によって人を区分し、彼らの行いに応じてそれぞれに報酬か罰を与える。それらがわたしの働きを構成するステップである。

『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より

人が滅ぼされるかどうかは、その人の本質によって決まる。すなわち、彼らが事を行い、真理を追い求める過程で外に現れる本質によって決まるのである。同様に仕事をししかも同じ程度の量の仕事をする人々のうち、人間性の本質が善であり、真理を持っている人々が、生き残る人々であり、人間性の本質が悪であり、見える神に背く者は、滅ぼされる人々である。人類の目的地に向けられた神の働き及び言葉の何もかもが、人類を、各人の本質に従って適切に取り扱う。そこにはどんな事故も無ければ、些細な誤りもない。人が仕事を遂行するときこそ、人の情感あるいは意味が人間の中に入り込むのである。このとき、神が行う働きが時宜を得る。彼は、いかなる生き物にも不当な要求をもってこない。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

神はその時の背景、実状、人間の行動、実績、表現、人間をとりまく環境や状況に従って各人を取り扱われる。神が誰かを不当に扱われることは無い。これが神の義である。

『キリストの言葉の記録』の「神はどのような人々に懲罰を与えられるか」より

現在において、人間の結末は自らの実績により決定されているが、それは何の実績であろうか。あなたがたは、知っているであろうか。あなたがたは、それが人間の業の中で姿を現す腐敗した性情であると考えるかもしれないが、そのような意味ではない。ここで言う実績とは、あなたがたが真理を実践出来るかどうか、自分の本分を尽くしつつ忠実かつ熱心なままでで居られるかどうか、また神への信仰に対するあなたがたの見方、神に対する姿勢、困難を受ける決意、裁きや剪定を受ける事に対する姿勢、変化の程度、深刻な罪の数のことを指す。これら全てが実績として考慮される。この実績はあなたがたの腐敗した性情を最大限に明示することを指すのではなく、神への信仰において、あなたがたがどの程度に達しているかを指す。

『キリストの言葉の記録』の「人間の結末が自らの実績により決まるということの意味」より

神は常に人間を人間の立場から観察し、人間の言動、ひとつひとつの行動や動き、さらには考えや意図などのすべてを見ている。人間の善行や過ち、罪、反逆や裏切りなど、人間に発生する全ての物事を、人間の結末を決める時の証拠として、神は記録する。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

人が心から追い求めているかどうかは、他の人が彼らをどう評価するかによってあるいは、周りの人が彼らのことをどう見るかによって決まるのではなく、聖霊が彼らの上で働くかあるいは彼らに聖霊の臨在があるかどうか、によって決められる。さらにそれは、一定の期間の聖霊の働きを経験した後、彼らの性質が変化したかどうかと彼らが神についての知識をもっているかどうかによって、なおさら、決められる。もし聖霊の働きがある人の上にあれば、この人の性質は次第に変化し、彼らの神を信じる観点もますます純粋になるのである。人が神につき従った時間が長くても短くても、彼らが変化を経験したならば、このことは、聖霊が彼らの上に働いていることを意味する。もし彼らが変化しなかったなら、このことは、聖霊が彼らの上に働いていないことを意味する。たとえ、このような人が何らかの奉仕を差し出しても、彼らは幸運を得ようとする意図に駆られている。たまに仕えることでは、彼らの性質の変化の代わりをつとめることができない。最後には、彼らはやはり滅ぼされる。なぜなら、神の国の中には奉仕を差し出す者に対する需要はなく、完全にされかつ神に忠実な人たちに役立つように自らの性質を変えなかった人への需要も全くないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

人間が救われるかどうかは、その人間がどの程度条件を満たしているか、どの程度の期間にわたり業を行ってきたかによって左右されず、ましてやその人間がいくつ資格を保有しているかによって左右されない。それは、あなたがたの追求のなかで、何らかの効果があったかにより決められる。あなたがたは、救われた者が実を結ぶ木であり、燃えるように紅葉したり豊かな花を咲かせるが、実を結ばない木では無いことを知るべきである。あなたがたが何年も街を徘徊したとしても、それに何の意味があるというのだろうか。あなたがたの証は、どこにあるだろうか。神に対するあなたがたの敬愛は、あなたがた自身や、あなたがたの欲望に対する愛に劣る。そうした者は、退化した者ではなかろうか。あなたがたは、どうして救いの規範となることが出来ようか。あなたがたの本性は変えられず、あなたがたは反逆的過ぎて、救われることが出来ない。そうした人間は排除されるのではなかろうか。私の業が完了する時は、あなたがたの終わりの日が訪れる時ではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より

自分の肉のことしか考えず、快適さを好む者、信仰が曖昧な者、魔法の薬や魔術を行う者、淫乱でふしだらな者、ヤーウェの犠牲や神の所有を盗む者、まいないを好む者、天国へ行くことを無為に夢見る者、傲慢で自惚れが強く、個人的な名声や富のためだけに努力する者、無礼な言葉を広める者、神ご自身を冒涜する者、神ご自身を非難し、中傷する者、他の者と徒党を組んで独立しようとする者、自分を神以上に讃美する者、軽薄な若い男性と女性諸君、悪徳に陥れられた中高年の男性と女性諸君、個人的な名声と富を喜び、他人の中で個人的な地位を追求する男性と女性諸君、罪の罠から抜け出せない者は、すべて救いの限度を超えているのではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より

教会に居る者のうち、論争する者はサタンの僕であり、サタンの化身である。こうした者は悪意が過ぎる。識見が無く、真理に味方出来ない者には、すべて邪悪な意図を抱き、真理を汚す。こうした者は、より典型的にサタンを代表する者であり、こうした者に贖いの御業は及ばず、全員が間違い無く排除対象となる。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

現在、殆どの者(すなわち長子を除く全ての者)が、そうした状況にある。私はこうした事柄について極めて明瞭に述べているが、そうした人々は少ししか反応せず、依然として肉の享楽のことを考えている。そうした者は食べては寝て、寝ては食べて、私の言葉について深く考えない。そうした者が活力を得たとしても、それは一時的なものであり、その後は、あたかも私の話を全く聞かなかったかのように、以前の状態に戻り、全く変わらない。それが全く重荷を負わない怠惰な人間の典型であり、最も顕著な居候である。後に、私はそうした者をひとりずつ見捨てるであろう。心配は無用である。私はそうした者を順番に底なしの淵へと送るであろう。聖霊は、そうした者に対して決して業を行わず、そうした者の行動は、すべて賜物である。私がこの賜物に関して述べる時、私は、その者がいのちの無い者であり、私の奉仕者であるという意味である。私はそうした者をひとりも求めて居らず、したがって私はそうした者を排除するであろう(しかし現在において、そうした者は多少役に立つ。)

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

あなたたちはわたしをだまし、欺き、真理を弄び、真理の存在を隠し、真理の本質を裏切る。あなたたちはわたしに敵対している。それでは、あなたたちの未来には何が待っているのか。あなたたちはただ、漠然とした神の心にかなおうとして、単に漠然とした信仰を追究しているが、あなたたちはキリストと融和しない。あなたたちの悪事は、邪悪な者たちが当然受けるものと同じ報復を受けるのではないか。その時、あなたたちは、キリストと融和しない者で、怒りの日を免れることのできる者はいないことに気づくであろう。あなたたちはまた、キリストに敵対する者にどのような報復が行われるかを知ることになるであろう。その日が来れば、神への信仰によって祝福され、天に入るというあなたたちの夢は、すべて砕かれるであろう。しかしながら、キリストと融和する者は別である。その人たちは、まことに多くを失い、多くの苦難を経てきたが、わたしが人間に与える嗣業をみな受けるであろう。あなたたちは最後には、わたしだけが義なる神であり、わたしだけが人間を美しい終着点に導けるということを理解するであろう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より

神を愛さない人は真理を愛さず、したがって神を獲得することはできないし、ましてや神の承認を得ることはできない。そのような人々は、どのように聖霊の働きを経験しようとも、どのように裁きを経験しようとも、やはり神を畏れることはできない。これらの人々は本性を変えることができず、かなり邪悪な性質を持つ人々である。神をあがめない人々はすべて取り除かれ、懲罰の対象になり、悪事を働いた人々と同様に罰せられ、不正なことをした人々よりもずっとひどく苦しまなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

本分を尽くす者と、本分を尽くさない者はもともと敵であり、神を愛する者と、神を憎む者はもともと敵対する者であり、安息の中に入る者と、滅ぼされる者は相容れることのできない二種類の被造物である。本分を尽くす被造物は生き残ることができ、本分を尽くさない被造物は滅ぼされる。もっと重要なこととして、これは永遠に続く。あなたが夫を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが妻を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが自分の不信仰者の父母に孝行するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。神を信じることに関して人の見解は正しいだろうか、そうでないだろうか。ここなぜあなたは神を信じるのだろうか。あなたはいったい何を得ようとするのだろうか。あなたはいったいどのように神を愛しているのだろうか。もし被造物の本分を果たすことができず、自分の全力を尽くすことができないような者がいるなら、彼は滅ぼされる。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する知識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは、天使長の後裔であり、滅ぼされる。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

現在、多くの者が、神に付き従うのは容易であると考えているが、神の業が終わろうとしている時、あなたは「付き従う」という言葉の真意を知るであろう。征服された後の現在も依然として神に付き従うことが出来るということだけでは、あなたが完全にされる者の一人であることは証明されない。試練に耐えることも、苦難を克服することも出来ない者は、最終的に、揺るぎなく耐えることが出来ず、最後まで神に付き従うことが出来ないであろう。真に神に付き従っている者は、自分に対する試練の業に耐えることが出来るが、真に神に付き従っていない者は、いかなる神の試練にも耐えることが出来ない。遅かれ早かれ、そうした者は排除されるが、克服者は神の国に残るであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

神は試練を使って人間の結末を決定する。試練の使用により人間の結末を決定する際の基準は、2つある。第1の基準は人間が経験する試練の数であり、第2の基準はその試練における人間の成果である。これら2つの基準が、人間の結末を決める指標である。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神がある者の心を得ることを望んだ時、神はその者に様々な試練を与える。こうした試練の最中に、神がこの者の心を得ず、神には、その者に何らかの姿勢、すなわち、その者が神を畏れつつ物事に取り組んだり、振る舞ったりすること、あるいは悪を避ける姿勢や決意が見られなかったとする。こうした場合、幾つもの試練の後、神がこの者に示した忍耐は無くなり、神はその者を容赦しなくなる。神はその者に試練を与えなくなり、その者に業を行わなくなる。その結果、この者の結末はどうなるであろうか。その者の結末は無い。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

そうした者がどのようにして試されるとしても、心の中に神が存在する者の忠義は変わることが無い。しかし、心の中に神が存在しない者については、神の業が自分の肉に有利で無いならば、神に対する見方を変え、神から去ることさえある。そうした者が、最後に確固として耐えない者であり、神の祝福を求めるだけで、神のために費やし、神に自らを捧げる願望が一切無い者である。こうした下劣な人々は、神の業が終わりを迎えた時に全員排除され、同情の余地の無い者である。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

わたしの関心は引き続きすべてあなたがたの行動とふるまいについてであり、それに基づいてあなたがたの終着点が決められる。しかし、患難の時代に、わたしに全く不義であった者たちに、もはや憐れみは与えられないことを明白にしなければならない。わたしの憐れみはこれ以上延長されないからである。さらに、わたしは、かつてわたしを裏切った者は誰も好まず、ましてや友の利害を裏切る者たちと係ることを望まない。その人が誰であっても、これがわたしの性質である。あなたがたに伝えなければならない。わたしを悲しませる者は誰であっても、再び憐れみの対象となることはなく、これまで忠実であった者はとこしえにわたしの心に留まるだろうことを。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

最後は安息の中で生き残る人々はみな苦難の日を経験し、しかも神のために証しをしてきた人だろう。彼らはみな人の本分を果たしてきた人であり、心から神に従う人である。仕える機会を利用して真理の実行を免れようと思う人たちはみな、生き残ることができないだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

神がすべての人の結末を定めるのは、適切な基準に基づいている。彼は、人の言行だけに基づいて意思決定をするのではなく、人のある時期の行いに基づいて意思決定するのでもない。神は人がかつて神に仕えたからといって、そのすべての悪行を寛大に処理することは決してなく、また、人が神のためにかつて一時費やしたからといって彼の死を免除することもない。だれ一人として自分の悪の報いから逃れられず、また、だれ一人として自分の悪行を隠して滅亡の苦しみから逃れられない。もし人が本当に自分の本分を果たすことができるなら、このことは、祝福を受けても不運に苦しんでも、彼らが神に永遠に忠誠を尽くし、報酬を求めないことを意味する。もし祝福に出会う時は神に忠実であるが、祝福に出会うことができない時は神に忠実でなく、結局はその上神のために証しをすることができず、自分の尽くすべき本分をも果たすことができないなら、かつて神に忠実に仕えた人であっても、やはり滅ぼされる。要するに、不道徳者は永遠に生きることはできず、安息の中に入ることもできない。義なる人こそが安息の主人である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

もしあなたが単にわたしを信じ、わたしの栄光もわたしの証しもあなたの中に見ることができないなら、わたしはとうの昔にあなたを投げ捨ててしまっただろう。そのことをすべて知っている者たちに関して言えば、彼らはわたしの目にはイバラでさえあり、わたしの家では、彼らは単に躓きの石でしかない。彼らは少しも役に立たず、重要でないので、わたしの働きにおいて完全に選り分けなければならない毒麦である。わたしはずいぶん前に彼らを忌み嫌ってきた。証しをしないこれらの者たちに関して、わたしの怒りは永遠にあり、わたしのむちは彼らから離れることは決してない。わたしはずいぶん前に彼らを悪者の手に渡し、彼らはわたしの祝福を少しも持っていない。その日、彼らの罰は愚かな女たちの罰よりはるかに痛みを伴う。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは信仰について何を知っているか」より

この世を捨てたがらず、父母を離れるのがつらいと感じ、彼ら自身の肉の喜びを捨てるのがつらいと感じるような人々はみな神に従順ではなく、みな滅ぼされる。肉となった神を信じない人はみな悪魔である。さらに、彼らは滅ぼされる。信じるが真理を行わない人々、肉となった神を信じない人々、神の存在を全く信じない人々はみな、滅ぼされる。生き残ることができる人はみな、洗練の苦しみを受けても持ちこたえることのできた人である。これは、本当に試練を経た人である。神を認めない人はみな敵である。すなわち、神が受肉したことを認めない者はだれも、この時代の流れの中にあってもこの流れに関係なくても、みな反キリストである。もし神を信じない反抗派がそうでないなら、誰がサタンだろうか、誰が悪魔だろうか、誰が神の敵だろうか。彼らは神に背く人たちではないだろうか。彼らは口先だけで信じると言うが真理を持っていない人たちではないだろうか。彼らは、祝福を受けることだけを追い求めるが神のために証しをすることができない人たちではないだろうか。今日あなたはまだこのような悪魔と親しく交わり、悪魔と一致した道義心や愛を強調することもできる。これはサタンに親切心を示しているのではないだろうか。それは、悪魔に同調すると考えられないだろうか。もし人々が今日まだ、善悪を区別することができないならそして神の意志をどんな形でも求めることを望まず、愛や憐れみを、盲目的に強調するなら、さらに神の心を自身のものとして全く持つことができないなら、そのような人の結末はもっと悲惨だろう。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

人が祝福を受けるか、それとも災いを受けるかは、自分自身の本質によって決まるのであって、ほかの人と共有する共同の本質によって決まるのではない。神の国の中には全然こういう言い方あるいはこういう規定がない。人が最後に生き残ることができるのは、彼が神の要求を満たしたからである。人が安息の時代を生き残ることができないのは、彼自身が神に背き、神の要求を満足させることができなかったからである。どの人にもふさわしい終着点がある。この終着点は各人の本質によって決まるのであり、ほかの人とは全然関係がない。子供の悪行は父母に移されることはできないし、加えられることができず、子供の義も父母と共有することはできない。父母の悪行は子供に移されることはできず、父母の義も子供が父母と共有することはできない。すべての人が各々の罪を担い、すべての人が、各々の幸運を享受する。だれもほかの人の代わりをすることができない。これが義である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

わたしに敵対する人々は、わたしと融和しない。真理を愛さない人々も同じである。また、わたしに反抗する人々は、いっそうわたしに敵対し、わたしとは融和不可能である。わたしと融和しない人々をみな、わたしは邪悪な者の手に引き渡す。そうした人々を邪悪な者による堕落に任せ、自分たちの有害さを自由にあらわにさせ、最後には、邪悪な者に手渡し、食い尽くされるに任す。どれだけの人がわたしを崇めるかは気にしない。つまり、どれだけの人がわたしを信じているかは気にしないということである。わたしが問題にするのは、どれだけの人がわたしと融和するかということである。それは、わたしと融和しない人々はみな、わたしを裏切る邪悪な者だからだ。彼らはわたしの敵であり、わたしは自分の敵を自分の家に「納め」はしない。わたしの味方である人々は永遠にわたしの家でわたしに仕える。そして、わたしに敵対する者たちは、永遠にわたしの罰を受けて苦しむ。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より

神を捨て去った者に関し、そうした者の神に対する卑劣な姿勢と真理を軽視する心により、神の性質が侵害される。こうした者が神に赦されることは決して無いであろう。既にこうした者は神の存在を知り、神は既に来たという知らせを受け、神の新たな業を経験してさえいる。こうした者が立ち去ることは、迷いに起因する事例でも、その事に関する理解が不明瞭であった事例でもない。まして、そうした者は、強制的に立ち去らされたものでは決して無い。むしろ、それはそうした者が意識的に、明瞭な精神状態で、神から去ることを選んだものである。そうした者が立ち去ったのは、道を見失ったものでも、捨て去られたものでもない。したがって、神の目から見ると、そうした者は群れから迷い出た羊と同様の事例では無く、ましてや道を見失った放蕩息子と同様の事例でも無い。こうした者は罰を受けずに立ち去った者であり、そうした条件や状況により、神の性質が侵害され、その侵害に鑑みて、神はその者に絶望的な結末を与える。こうした結末は恐ろしいものではないだろうか。したがって、ある者が神を知らない場合、その者は神を侵害する恐れがある。それは決して些細なことでは無い。ある者が、神の姿勢を真剣に受け止めず、またその者は迷える子羊であり、神はその者が改心するのを待ち、その者が戻るのを心待ちにしていると考えているとしたら、その者は罰の日からそれほど離れていない。

『言葉は肉において現れる』(続編)「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

義を行う者はつまるところ義を行う者であり、悪を行う者はつまるところ悪を行う者である。義を行う者はつまるところ生き残ることができ、悪を行う者は滅される。聖なる者は聖なる者である。彼らは汚れた者ではない。汚れた者は汚れた者であって、聖なる要素が少しもない。不道徳者はすべて滅ぼされる。義人はすべて生き残る。悪を行う人の子供が義を行う者であっても、義人の父母が悪を行う者であっても。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

神の働きが終わった後、すべての被造物の中には、滅びる者もいれば、生き残る者もいる。これは神の救いの全計画の必然的趨勢である。これはだれも否認できないことである。悪を行う者はみな生き残ることができず、最後まで彼に従順でつき従う者は、確実に生き残るよう予定されている。これは、人類を管理する仕事であるから、生き残る者もいれば排除される者もいる。これは異なる種類の人々の異なる結末であり、被造物に対するいちばんふさわしい取り決めである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

死んだ人の魂であれ、肉としてまだ生きている人であれ、すべての悪を働く者、すべての救われなかった者は、人類の中の聖なるものたちが安息の中に入る時、滅ぼされる。これらの、悪を働く魂と悪を働く人々、或いは義人の魂と義を行う人々が、どんな時代に属していたとしても、悪を行う者はみな滅ぼされ、義なる人はみな生き残る。人あるいは魂が救いを受け取るかどうかは、終わりの時の仕事によってのみ決まるのではなくて、それよりも、彼らが神に逆らってきたかどうかあるいは神に背いてきたかどうかによって確定されるのである。もし前の時代の人が悪を働き、しかも救われることができなかったなら、彼は疑いなく、懲罰される対象になる。もし今の時代の人が悪を働き、しかも救われることができないなら、彼らもまた、確実に懲罰の対象になる。人々は、善と悪にもとづいて分離されるのであって、時代にもとづいて分離されるのではない。ひとたび、善と悪によって分離されたら、人々は直ちに罰されるあるいは報奨を与えられるのではない。むしろ神は、終わりの日における彼の征服の仕事を遂行した後、はじめて悪を行う者を罰し、善を行う者を賞する仕事を行う。実は、神が人類に対して働きをはじめた時からずっと、彼は人類を分けるために善と悪を用いている。彼は単に、彼の仕事を終える時に義なる人を賞し、不道徳者を罰するのであり、彼が最後に仕事を終える時に悪者と義人を分けて、それからすぐ悪を罰し、善を賞する仕事に着手するのではない。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを不潔な霊の渦中に放り込む。その結果、彼らは二度と肉体をもつことはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは「聖なる方が白い雲の上に乗って」降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の民族にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

『言葉は肉において現れる』の「二十六番目の言葉」より

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