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28.聖霊の働きと悪霊の働きの違いは何か。

神の言葉

神から出るものは何で、サタンから出るものは何かを理解しなくてはならない。神から出るものはあなたのビジョンをさらに明確にし、神にますます近づかせ、兄弟姉妹と心から愛を分かち合うようにさせる。そして神の重荷に対して配慮を示すことができ、神を愛する心は止むことがなく、目の前には進む道がある。サタンから出るものはあなたのビジョンも、それまで持っていたもの全てをも失わせる。神から離れ、兄弟姉妹に対する愛も失せ、憎しみの心を持つようになる。絶望し、もはや教会生活を望まなくなり、神を愛する心が失せる。それがサタンの働きであり、邪悪な霊の働きがもたらす結末である。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十二章」より

神は同じ業を繰り返しはしない。現実的でない働きは行なわない。神は人間に過分な要求をしない。また、神は人間の理知の外にある業は行なわない。神が為す業はみな、人間の正常の理知の範囲内で行われ、本来の人間の理知の外には及ばない。また、神の働きは人間の正常な必要に沿ったものである。もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

聖霊の働きはすべて、人々が利益を得るのを可能にすることである。すべて人々を啓発することである。人々の利益にならない働きは何もない。真理が深かろうと浅かろうと、また、真理を受け入れる人々の力量がどうであろうと、聖霊がすることはなんであれすべて人々に有益である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

聖霊の働きとは積極的な導きと前向きな啓示の一種だ。それは人々が受け身でいることを許さない。それは慰めをもたらし、信仰と決心を与え、人々が神によって完全な者となれるようにする。聖霊が働く時、人々は盛んに成長することができる。受け身でもなく、強制されることもなく、積極的に成長する。聖霊が働く時、人々は喜んで、自ら進んで従おうとし、謙虚になることを喜び、内側では痛みや弱さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志によって汚されず、人の考えによって汚されず、間違いなく人間的な欲望や動機に汚されないのである。人々が聖霊の働きを経験する時、彼らの内面は特に清い。聖霊の働きを所有する人々は神の愛、兄弟姉妹への愛を体現し、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。聖霊の働きによって触れられた人々は正常な人間性を持ち、人間らしさをもって常に真理を追い求めている。聖霊が人々の内側で働く時、彼らの状態はより良くなっていき、その人間性はより正常になっていく。そして彼らの協力は愚かなものの時もあるかもしれないが、彼らの動機は正しいものであり、彼らの成長は肯定的で、邪魔をしようとしたりはせず、心には悪意がないのだ。聖霊の働きとは正常で現実的なものであり、聖霊は、人の通常の生活における規則にしがたって働き、正常な人々の求めに応じて啓き、導く。聖霊が人々の内に働く時、聖霊は人々を通常の人が持つ必要に応じて導き啓示し、人々の必要に基づいて施す。そして聖霊は人々が欠いているもの、欠乏しているものに基づき前向きに導き、啓示する。聖霊が働く時、この働きは人の通常の生活での規則に調和して行われるものであり、人々が聖霊の働きを見ることができるのは現実の生活の中でのみである。もし、日常生活の中で、人々が前向きな状態であり、通常の霊的生活を送っているのなら、彼らは聖霊の働きを持っている。そういった状態の中では、神の言葉を飲食するなら信仰を得、祈るなら霊的に励まされ、彼らに何か起きたなら彼らは受け身にはならず、それが起きている最中に神が彼らに学ばせようと課している教訓が何なのか見ることができ、受け身でも脆弱な状態でもなく、現実の困難の中にあっても、神のすべての采配に自ら従おうとするのだ。

……

サタンから来る働きとは何か。サタンから来る働きにおいては、人々のビジョンは曖昧で抽象的であり、正常な人間性を持たず、彼らの行動の背後にある動機は間違っている。そして神を愛したいと願いはしても、常に心に自責の念があり、そういった自責の念や思いが内で互いに干渉し、彼らのいのちの成長を制約し、神の前に正常な状態を持てないようにする。つまり、人々の内にサタンの働きが始まるやいなや、彼らの心は神の前に平安を失い、自分でもどうしたら良いかわからず、兄弟姉妹の集まりが目に入れば逃げたくなり、他の人が祈る時に目を閉じることができない。悪霊の働きは人と神との正常な関係を壊し、人々がそれまで持っていたビジョンやいのちが進んでいた道を混乱させる。心の中で彼らは神に近くことが決してできず、いつも彼らに分裂を引き起こし、足かせとなるような事が起こり、心は平安を見つけられず、神への愛の力はなくなり、霊が沈んでいく。こういったことがサタンの働きの顕現なのだ。サタンの働きは次のような事柄に現れる。堅く立っていることができずに証しとなることができず、それがあなたを神の前に落ち度のある者、神への忠実さを全く持たない者とさせる。サタンからの干渉により、あなたは自らの内に神への愛や忠実さを失う。あなたは神との正常な関係を剥ぎ取られ、真理や自らを改善することを求めず、後戻りし、受け身となり、自分を甘やかし、罪が広がるのをなすがままにし、罪を憎まなくなる。さらに、サタンからの干渉はあなたをふしだらにし、神があなたの中で触れたものは消えてしまう。そしてあなたは、神について不平を言って神に対抗し、そして神を疑うようになり、そこにはさらにあなたが神を離れる危険性もある。このすべてはサタンの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「聖霊の働きとサタンの働き」より

神は、優しく、愛に溢れ、繊細で、思いやりのある方法で、特別に配慮された適切な方法で働きます。神の方法は、「神は私にこれをさせてくれるべきだ」とか、「神は私にそれをさせてくれるべきだ」のような強い感情をあなたに抱かせることはありません。神は物事が耐えがたくなるような強い考え方や強い感情をあなたに与えることは決してありません。そうではありませんか。たとえ神の裁きと刑罰の言葉を受け入れるときでさえ、あなたはどう感じますか。神の権威と力を感じるとき、あなたはどう感じますか。神は神聖で害することができないと感じますか。(はい。)そのようなときに、あなたは神から遠ざけられたと感じますか。神に対する恐怖を感じますか。(いいえ。)感じません。そのかわりに、あなたは神に対する畏敬の念を感じます。人がこのように感じるのは、ただ神の働き故ですか。……

……人間に対するサタンの業に関しては、サタンの悪意のある邪悪な本性を十分に言い表し、あなたがたがサタンの憎らしさを知ることができる二つの語句があります。サタンが人間に接近する際に、サタンは常に強制的に一人ひとりの人間を占有し、一人ひとりの人間に取り憑き、害を及ぼすところまで到達し、サタンの目的を果たし、無謀な野望を実現させようとします。「強制的に占有する」とはどういう意味ですか。それはあなたの同意の上で、それとも同意なしで起こりますか。あなたが知っていて、それとも知らないうち起こりますか。それはまったく知らないうちに起こります。あなたが意識していない状況において、おそらくサタンがまだ何も言っていないとき、おそらくまだ何も行っておらず、何の前提も脈絡もないとき、サタンはあなたを取り囲んでそこにいるのです。サタンは利用する機会を探しており、次にあなたを強制的に占有し、あなたに取り憑き、あなたを完全に支配し危害を加えるという目的を果たします。これが、サタンの人類を手に入れるための神との戦いにおける典型的な意図と振る舞いです。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 4」より

聖霊は自分の中で常に業を行っている、という者も居る。それは不可能である。仮に、そうした者が、聖霊は常に自分と共にあると言うのであれば、それは現実的であろう。仮に、そうした者が、自分の思考や理知は常に正常である、と言うのであれば、それもまた現実的であり、それは、聖霊がそうした者と共にあることを示すであろう。だが、聖霊は常に自分の中で業を行っている、どの瞬間も、自分は神により啓かれ、聖霊に触れられ、常に新たな認識を得ている、とあなたが言う場合、それは正常ではない。それは極めて超自然的である。そうした人々が悪霊であることに何の疑いも無い。神の霊が受肉した時でさえ、時には休息し、また食事をする必要があったのだから、あなたにそのようなことが必要なことは言うまでもない。悪霊に取り憑かれた者は、肉の弱さが無いように思われる。そうした者はあらゆる物事に背いて捨て去ることが可能であり、冷淡であり、苦悩に耐えることが可能であり、肉体を超越したかのように、全く疲労を感じない。これは極めて超自然的ではないだろうか。悪霊の業は超自然的であり、人間には出来ない業である。区別がつけられない人々は、そうした者を見ると羨み、そうした者の神への信仰は極めて強く、優れており、そうした者は弱いことが決してないと言う。実のところ、これは悪霊の業の表れである。なぜなら、正常な人間には必然的に人間の弱みがあり、それが聖霊の存在が有る者の正常な状態だからである。

『言葉は肉において現れる』の「実践 (4)」より

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