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終わりの日のキリストの代表的な言葉

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VII 唯一者である神自らを知ることについての代表的な言葉

神の義の性質は聖であり、侵害不可能なものであり、疑うことのできないものであり、創造物にもそれ以外の物にも、その性質を持つ物は存在しない。神の義の性質は、神に固有であり限定されたものである。つまり、神の怒りは聖であり、侵害不可能なものであると同時に、神の義の性質のもうひとつの側面である神の憐れみもまた聖であり、侵害不可侵なものである。創造物やそれ以外の物で、神の業における神の代理となることができるものは皆無であり……これが、神固有の義の性質の真の表出である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

神の性質は、神自身の固有の本質である。神の性質は時間の経過とともに変化することも、場所によって変化することもない。神の固有の性質は、神のみにある本質である。神が誰に対して業を行うかを問わず、神の本質も、神の義なる性質も、不変である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

この時、人間は腐敗を極めたのであった。人間は、神の存在、人間の出自を知らなかった。もし誰かが神のことを口にしようものなら、ソドムの人々は攻撃し、中傷し、冒涜したであろう。神の警告を伝えるために神の使いが来た時ですら、腐敗したソドムの人々は悔い改めの姿勢を見せなかったのみならず、自分達の邪悪な行いを止めようともしなかった。それどころか、ソドムの人々は、恐れ多くも神の使いを痛めつけようとした。ソドムの人々が明確に示したのは、神に対する極端な敵意のある本性であり、本質であった。腐敗したソドムの人々の神に対する反抗は、ソドムの人々の腐敗した性質の明示や、真相の理解の欠如に起因する誹謗中傷であるだけでは無かった。ソドムの人々の邪悪な行いは愚かさや無知に起因するものでは無く、またソドムの人々が裏切られたからでも無く、勿論、誤った方向へと導かれたからでも無かった。ソドムの人々の行いは、目に余るほど激しい神への敵意、反抗、そして騒動のレベルに達していた。当然ながら、人間のこうした行いは神の怒りを買い、また犯してはならない神の性質を激怒させることになる。したがって、神は直接的かつ隠すこと無く、神の怒りと威厳を示した。それは、神の義なる性質の、真の明示である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

ソドムの町を滅ぼす時に神が用いた火は、神が人間や物を滅ぼす最も迅速な方法である。ソドムの人々を焼き尽くしたことは、人々の身体だけでなく、人々の霊魂全体を滅ぼすものであり、それにより、物質的世界と人間が見ることの出来ない世界の両方において、町の中に居た人々の存在の消滅が確実なものとされた。それは、神が怒りを明示し、表現する方法のひとつである。こうした態様の明示や表現は、神の怒りの本質の一面であり、したがって、当然ながら神の義なる性質の本質の明示でもある。神が怒りを伝える時、神は憐れみと慈愛の明示を一切停止し、寛容と忍耐を明示することは無くなる。忍耐を継続し、今一度憐れみと寛容を与えるよう神を説得できる人間、物、理由は一切存在しない。そうした神の持っているものに代えて、神は一瞬の迷いもなく、神の怒りと威厳を伝え、神の望むところに従って、神が望む業を迅速かつ円滑に行う。人間が反してはならない神の怒りと威厳は、こうして伝えられ、それは神の義なる性質のある側面を表すものでもある。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

ソドムの人々の邪悪な所行全てを考慮すると、神の使いを傷つけたことは氷山の一角に過ぎず、それにより明示されている人々の邪悪さは、大いなる海のひとしずくに過ぎない。したがって、神はソドムの人々を火で破壊することに決定した。神は洪水や嵐、地震、津波など、火以外の方法は用いなかった。神がソドムの破壊に火を用いたことは、何を意味するであろうか。それは、ソドムの町の完全なる破壊を意味する。それは、ソドムの町という存在が地球上から完全に消滅した事を意味する。ここで言う「破壊」とは、町の形態や構造や外観が消滅しただけでなく、町の中にいた人々の魂も消え去り、根絶されたということを意味する。簡単に言えば、ソドムに関係する全ての人々、出来事、物体が破壊されたということである。ソドムの人々に来世や再生は無く、神はソドムの人々を、神の創造物である人類から永久に根絶させた。「火の使用」は、罪の阻止を示し、罪の終わりを意味する。その罪は消滅し、広まることが無くなる。それは、サタンの邪悪の温床が無くなり、サタンの邪悪の留まる場所として与えられた、墓さえも奪われたことを意味した。神とサタンの戦いにおいて、神が火を用いられるということは、神の勝利の証をサタンに焼き付ける烙印のようなものである。ソドムの破壊は、人間を腐敗させ、虜にすることで神に対抗するサタンの野望における大いなる失策であり、またそれと同様に、人間が発達する過程において、神の導きを拒み、悪に身を委ねた場合の屈辱を示すものである。さらにソドムの破壊は、神の義なる性質を真に明示するものとなる記録でもある。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

神が町を見捨てる時、神は、その町に神の罰を下す。神が町を嫌悪する時、神は、神の怒りをその町の人々に伝える警告を繰り返し行う。しかし、神が町を滅ぼすと決めた時、つまり、神の怒りと威厳が反故にされた場合、神は罰や警告を与えるのを止める。その代わりに、神はその町を破壊する。神は、その町を完全に消滅させるのである。これが神の義なる性質である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

神が人間に対する懸念と愛の証を得るとき、人間は神の怒りを感じることも、神の威厳を理解することも、反抗に対する神の不寛容さを感じることも出来ない。それが原因で、常に人間は、神の義なる性質が単に憐れみと寛容さと愛のみであると考えるようになった。しかし、神が町を滅ぼしたり、人間を憎悪したりということを知ると、人間は神が人間を滅ぼす時の怒りと威厳により、神の義なる性質の別の側面を見ることができる。これが、反抗に対する神の不寛容さである。反抗を一切甘受することの無い神の性質は、あらゆる神の創造物の想像を超え、それ以外の物にも、その性質を阻んだり干渉したり出来る物は存在せず、そうした性質を模倣したり、偽ったりすることが出来ないのは尚更である。したがって、神の性質の様々な側面のなかでも、この側面は、人間が最も詳しく知るべきものである。この種の性質は、神自身だけに存在し、他の誰にも存在しない。神がこの種の義なる性質を持っている理由は、人間を腐敗させ、食い物にする邪悪さ、腹黒さ、反逆、サタンの悪意に満ちた行動を、神が嫌悪しているからであり、また神に反逆する全ての罪の行いを神が嫌悪しているからである。さらに神の聖なる清い本質もその理由となっている。それゆえ、創造物やそれ以外の物が、神に対して率直に反対ないし対抗することを、神は甘受しないのである。たとえ、神が嘗て憐れみを示した者や神の選民となった者であったとしても、神の性質を挑発し、神の忍耐と寛容の原則を超えただけで、神は自身の義なる性質、すなわち、いかなる反抗をも甘受しない性質を、全く容赦なく、また躊躇なく示す。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

神が怒りを示していることは、あらゆる邪悪な力が滅びること、あらゆる敵対勢力が破壊されるということを象徴するものである。これが神の義なる性質と、神の怒りの独自性である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

しかしながら、神が怒りを示す時は、邪悪な力は全て阻止され、人間を傷つける全ての罪が阻止され、神の業を阻害する敵意のある力が明らかにされ、取り上げられて呪われ、神に反逆するサタンの僕は罰せられて根絶される。その者たちがいなくなった後、神の業は何ものにも阻害されることなく進められ、神の経営(救いの)計画は、予定通り一歩ずつ着実に実行され、神の選民はサタンの妨害や策略の対象となることなく、神に付き従う者は、静寂と平和の中で神の導きと施しを楽しむ。神の怒りは、あらゆる邪悪の力の増大と横行を阻止する防衛手段であり、また正義で肯定的な物事全ての存在を守り、広め、それを抑圧や破壊から永久に保護する防衛手段である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

神が怒りを示す時、邪悪な力が阻止され、邪悪な物事が破壊される一方、正義であり、肯定的な物事は、神の慈しみと保護を与えられ、存続が可能となる。神が怒りを伝えるのは、不正義で邪悪な物事が、正義で肯定的な物事の通常の活動と発達を妨害し、破壊するからである。神の怒りの目的は、神自身の地位や身分を守るためではなく、正義であり、肯定的であり、善良で美しい物事、そして人間の普通の存在における律法と秩序を守るためである。これが神の怒りの根底にある原因である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

人間が造られて以来、神は義の性質により人間の正常な生活を継続的に守っている。神の義なる性質に怒りと威厳が含まれているため、邪悪な人間や物事、人間の普通の生活を阻害し損なうあらゆる物事が、神の怒りによる罰を受け、制限され、破壊される。過去数千年にわたり、神は義なる性質により、神に反抗し、サタンの僕や手先となったあらゆる不浄な悪霊を、人間を経営する業の中で継続的に倒し、破壊して来た。したがって、人間に対する神の救いの働きは、常に神の計画に従って進行してきた。つまり、神の怒りの存在のおかげで、人間の中で最も義なる運動は、かつて破壊されたことが無い。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

神の怒りの噴出は神の義なる性質を示す側面のひとつに過ぎないものの、神の怒りが、その対象について無差別なことや、原則が無いということは決して無い。それとは反対に、神は怒りやすくなく、神が軽率に怒りや威厳を示すことは無い。更に、神の怒りはかなり制御され、計測されているので、神の怒りと、人間が怒りを爆発させたり、発散させたりするのとは比較することは出来ない。聖書には、人間と神との対話が多く記録されている。聖書に登場する人間の一部は、発言が浅薄で、無知で、稚拙であるが、神はそうした人間を打ち倒すことも、非難することも無い。特に、ヨブの試練の間、ヤーウェ神はヨブの3人の友やその他の者たちの発言を聞いて、その者たちをどのように扱ったであろうか。神はその者たちを非難したであろうか。神はその者たちに対して、激怒したであろうか。神は、そのようなことを一切しなかった。その代わり、神はヨブに対し、その者たちのために祈るよう命じ、神はその者たちの誤りを気に留めることは無かった。これらの例では、神が腐敗した無知な人間を扱う主な姿勢が示されている。したがって、神の怒りの発出は、神の気分を示したり晴らしたりするものでは決して無い。神の怒りは、人間が考えるような感情の爆発では無い。神は、自分の気分を制しきれなかったり、怒りが我慢の限界を超えたりすることが原因となって、怒りを発出させることが無い。逆に、神の怒りは、神の義なる性質を示し、その性質を純粋に表出し、神の聖なる本質の象徴を表出するものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

神のニネベの人々に対する怒りの程度を問わず、ニネベの人々が断食を宣言して粗布と灰を身に付けるとすぐに、神の心は次第に軟化し、神の心が変化を始めた。神がニネベを破壊すると宣言した時、ニネベの人々による罪の告白と悔い改めの前の時点で、神は依然として怒っていた。ニネベの人々が一連の悔い改めの行動を取った後、神のニネベの人々に対する怒りは、ニネベの人々に対する憐れみと寛容さへと次第に変化していった。1件の出来事において、こうした神の性質の2つの側面が同時に現れたことには、何ら矛盾することは無かった。これに矛盾が無いことは、どのようにして理解すべきであろうか。神は、ニネベの人々が悔い改めた時に、これらの対局にある本質を連続して表出し、明示しており、これにより神の本質の現実性と不可侵性を理解することができる。ここでは神の姿勢により分かることがある。それは、神は人間に対して容赦することが無いということではなく、また神はニネベの人々に対して憐れみを与えることを望んでいない、ということでも無い。それは、人々が神の御前で真に悔い改め、悪の道を離れ、不法を手から捨てることは、極めて希だ、ということである。つまり、神が人間に対して怒っている時、神は人間が真に悔い改めること、人間の真の悔い改めを見ることを望んでおり、こうした場合に、神は憐れみや寛容さを、人間に対して引き続き寛大に与える。すなわち、人間の邪悪な行動は神の怒りに触れ、神の憐れみと寛容さは、神の言葉を聞き、神の前で真に悔い改める者、悪の道を離れ、不法を手から捨てることができる者に与えられる。ニネベの人々に対する扱いでは、神の姿勢が極めてはっきりと明示されていた。神の憐れみと寛容さを得ることは全く困難では無い。神は真の悔い改めを要求する。人々が悪の道を離れ、不法を手から捨てるかぎりにおいて、神は心と人々に対する姿勢を変える。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

神には哀れみと寛容があるが、神が怒りを露にする時には、神の聖さと義に背くことを許さない神の側面を見せる。人間が神の命令に完全に従うことができ、神の要求に従って行動することができる時には、神は人に溢れるほどの憐れみをかける。しかし人間が堕落、そして神への憎悪と敵意で満ちている時、神は深い怒りを感じる。では神の怒りはどれほど深いのだろうか。神の怒りは、神が人間の抵抗と悪行を見なくなるまで、神の目の前から消えてなくなるまで続く。そうしてはじめて、神の怒りは消える。…優しく、美しく、善いものに対しては神は寛大で憐れみ深い。邪悪で罪深く、悪意に満ちたものに対しては、深く怒り、その怒りは止まることがないほどである。神の溢れんばかりの憐れみと深い怒り―これらは神の性質の2つの原則であり、最も重要な側面であり、初めから終わりまで示されているものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

現実では、神の心は、物事や環境の変化に伴い、継続的に変化している。神の心が推移している時、神の本質の様々な側面が現れる。この推移の過程において、神が心を変えた瞬間、神は、神のいのちが存在する真実と、神の義なる性質は真実であり生きているということを、人間に対して明示する。さらに、神は独自の真の明示により、神の怒り、憐れみ、慈悲、寛容さが存在する真実を人間に対して証明している。神の本質は、時間と場所を問わず、物事の展開にしたがって明示される。神は、獅子の怒りと母の憐れみと寛容さを持っている。人間が神の義の性質を疑うこと、侵害すること、変更すること、ゆがめることは、許されない。神の義なる性質、すなわち神の怒りと憐れみは、時間と場所を問わず、全ての物事において表出される。神は、こうした側面をありとあらゆる所で、ありとあらゆる瞬間に、鮮明に表出する。神の義なる性質は、時間や場所の制限が無い。つまり、神の義なる性質は、時間と場所の制約に支配されて機械的に表出されたり明示されたりするのではない。むしろ、神の義なる性質は、いつでも、どこでも、自由に表現され、表出される。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

……それは聖句にあるヤーウェの言葉の通りである。すなわち、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは…この大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」これは、ヤーウェがヨナを非難して述べた言葉であるが、すべて真実である。

……ヤーウェ神は、創造主の人類全体に対する慈悲を提示した。この部分では、「創造主の慈悲」は虚言でも、空虚な誓いでもなく、具体的な原則であり、方法であり、目的であった。創造主は真実であり、実在し、嘘や偽りを行わない。そしてこのように、神の慈悲は、あらゆる時代において、人間に対して無限に与えられる。しかし、現在に至るまで、この創造主とヨナとの対話は、神が人類に対して慈悲をもって接する理由、神が人類に対して慈悲を示す方法、神が人類に対してどの程度寛容であるか、そして神の人間に対する真の思いに関する、神による、唯一の言葉である。ヤーウェ神の簡潔な対話では、自身の人間に対する完全な心が表出されている。この対話は人間に対する神の心の姿勢に関する真の表出であり、また人間に対するによる慈悲の豊かな付与に関する、具体的な証明でもある。神の慈悲は、従前において世代から世代へと続いて来たのと同様に、人間のうち比較的高い年齢層のみに与えられるものではなく、人間のうち比較的若い層にも与えられる。多くの場合、神の怒りは特定の地域、特定の時代に人類に対してくだされるのに対し、神の慈悲は決して止まることが無い。神は、自身の慈悲により導き、施し、与え、そしてそれを神の創造物の世代から世代へと連綿と続けられる。なぜなら、神の人間に対する真の思い入れは、変わることが無いからである。「惜しまないでいられようか」という言葉が示す通り、神は常にご自身の創造物を愛慕してきた。これが創造主の義の性質による慈悲であり、この慈悲もまた、創造主の純然たる特質である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

人間は、神が寛容に扱う人々、慈悲深く扱う人々、そうした慈しみを受けるのがどのような種類の人間であるかを知る必要がある。これが、知っておくべき要点のひとつである。さらに、神が如何に愛に満ちていたとしても、人間に対する神の慈悲と愛が如何に深かったとしても、神の地位や身分、威厳を害する者に対しては容赦しないということを理解する必要がある。神は人間を愛しているが、人間を甘やかすことは無い。神は人間に愛情と慈しみを与え、人間を寛容に扱うが、人間に迎合することは一切無い。神には、神の原則と限界がある。あなたがどれほど神からの愛を感じていたとしても、その愛がどれほど深かったとしても、他の人間のように神と接してはならない。神は人間を神に親しい存在として扱うことは本当であるが、人間が神を他の人間として、あるいは友人や崇拝対象など、他の創造物であるかのようにみなした場合、神はそうした人間の前から姿を消し、そうした人間を見捨てる。これが神の性質であり、神は、こうした事柄に対する注意を怠って神に接する人間を容赦しない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身7」より

創造主は、自身の固有の方法と原則に従って、自身の義なる性質を示し、他の人々、出来事、物事による支配や制限を受けない。神の固有の性質のため、神の考えや心をかえることが出来る者はおらず、また神を説得して神の決断を覆すことの出来る者も居ない。創造物の行動や考えは、全て神の義なる性質による判断に基づき存在する。神が怒るか、憐れみをかけるかを支配できるものは居ない。それを決定できるのは、創造主の本質、つまり創造主の義なる性質のみである。これが創造主の義なる性質に固有の特徴である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

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