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終わりの日のキリストの代表的な言葉

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VII 唯一者である神自らを知ることについての代表的な言葉

聖さの本質は真の愛であるが、それ以上に真理や義、光の本質である。「聖なる」という言葉は、神に用いられた時のみ適切であり、創造物のうちで聖なる物と呼ぶに相応しいものは存在しない。人間はそのことを理解する必要がある。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身6」より

……神の聖さが、神の完璧な本質であり、無私な愛であり、神が人間に与える物事すべての無私な愛であることを認識し、神の聖さは汚れ無く、非難の余地が無いものであることを知るであろう。神の本質は、神が自身の身分を誇示するために用いる言葉などではなく、むしろ神は神の本質を用いて、静かに、そして真摯に個々の人間を取り扱う。つまり、神の本質は実体の無いものでも、理論的なものでも、教義上のものでも無く、ましてやある種の知識などでは無い。神の本質は人間のための教育の一種ではなく、神自身の業による真の明示であり、神の中にある物事や神の存在の本質が明示されたものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身6」より

神の真実性とは、神の聖さであろうか。(その通りである。)神の誠実さとは、神の聖さであろうか。(その通りである。)神の無私さとは、神の聖さであろうか。(その通りである。)神の謙虚さとは、神の聖さであろうか。(その通りである。)神の人間に対する愛とは、神の聖さであろうか。(その通りである。)神は人間に対して真理と生命を無償で与える。これは神の聖さであろうか。(その通りである。)神が明示する物事は、全て神独自のものであり、堕落した人間には存在せず、それを見出すことが出来ない。そうした物事は、サタンが人間を腐敗させる過程や、サタンの腐敗した性質や本質では全く見ることが出来ないものである。つまり、神の中にある物事や神の存在は、すべて独自のものであり、そうした本質を持つのは、神自身のみである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身6」より

神のなさることは、全て人間を普通の生活へと導くためのものである。人間が神の規則を守るようにするためであるか、人間が神の律法を守るようにするためのものであるかを問わず、神の目的は、人間がサタンを崇拝しないようにすること、サタンに害されないようにすることである。これは最も原則的な目的であり、最初に行われたことである。神の心を人間が理解していなかった最初の時には、神は簡単な律法と規則を挙げ、考えられる全ての側面に関する規定を定めった。これらの規定は極めて簡単なものであるが、神の心が含まれているものであった。神は人類を大切にし、心から愛している。そうではないだろうか。(その通りである。)そして、神の心は聖なるものであると言えるであろうか。神の心は清純であると言えるであろうか。(言える。)神には隠された意図があるであろうか。(無い。)それでは、この神の目的は正しく、前向きであるだろうか。(その通りである。)この目的は前向きである。神がどのような規定を定めたとしても、こうした規定の神の業における効力は、人間にとって前向きなものであり、人間を導くものである。それでは、神の意思には、利己的な考えがあるであろうか。神には人間が懸念すべき別の目的があるであろうか。あるいは、神は人間を利用したいとお考えであろうか。そうしたことは一切ない。神は言葉の通り業を行い、同様にして神の心でも言葉の通り考えられている。目的が混入していることや、利己的考えは全く無い。神は自身のために何かをすることが無く、例外無く全てを人間のために行い、自身の目的は一切含まれていない。神には人間に対する計画や意思があるが、神は自身のためには何も行わない。神の業は、全て純粋に人間のために行い、人類を守り、人間が誤った道へと迷い込まないようにするためのものである。……神の人間に対する愛、神が人間を大切にすることは、二言三言では明確に表現できない。それは人間の誇りにより生まれるものではなく、神が実践において示すものであり、神の本質が明示したものである。神が業を行うこれらの方法により、人間は神の聖さを知ることができるであろうか。……神の言葉、神が人間に対して業を行う方法、人間に語ること、人間に思い起こさせること、助言し、励ますことを含め、神が人間に与えるものは、全て1つの要素に由来する。すなわち、それらはすべて神の聖さに由来する。仮にそうした聖なる神が不在であったとしたら、神に代わり、神の業を行うことのできる人間はいない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身4」より

神は、優しく、愛に溢れ、配慮された、思いやりのある、特別に配慮された適切な方法で業を行う。神の方法により、あなたが「私がこれをすることを神はお許しにならないだろう」とか、「私がこれをすることを神はお許しになるはずだ」などとこぼすような、強い感情をあなたに抱かせられることは無い。物事が耐えがたくなるような強い考え方や感情を神が与えることは、決してない。そうではないだろうか。(その通りである。)あなたが神の裁きと刑罰の言葉を受け容れる時でさえ、あなたは何を感じるであろうか。あなたが神の権威と力を感じる時、あなたは何を感じるであろうか。あなたは、害することのできない神性を感じるであろうか。(感じる。)こうした場合、あなたは神から遠ざかったと感じるであろうか。あなたは、神に対する恐怖を感じるであろうか。(感じない。)そのかわりに、あなたは、神に対する畏敬の念を感じる。人間は、ただ神の業故に、そうしたものを感じるのであろうか。(その通りである。)サタンが人間に働きかけたとしたら、人間はこうした感情を抱くであろうか。(抱かない。)神は神の言葉、真理、命により、常に人間に与え、支える。人間が弱っている時、落ち込んでいる時、神は決して厳しく「落ち込んではならない。なぜ落ち込んでいるのか。なぜ弱っているのか。何が原因で弱っているのか。あなたは弱すぎるので、死んだほうが良い。あなたは常に落ち込んでいる。生きていて何の意味があるのか。死んでしまえ」などとは言わない。神はこのように業を行うだろうか。(行われない。)神には、このように振る舞う権威があるであろうか。(ある。)しかし、神はそのように振る舞うであろうか。(振る舞われない。)神がこのように振る舞わないのは、神の本質、神の聖なる本質のためである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身4」より

(マタイ4:1~4)さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

……

……主イエスは「人はパンだけで生きるものではなく」、すなわち、人間は物理的な肉にあって生きるが、人間にいのちを与え、肉にある身体に息吹を与えるのは、食べ物ではなく、神が述べた言葉である、と答えた。一方で、人間はこの言葉を真理であるとみなす。この言葉は、人間に信仰を与え、神を頼れること、神が真理であることを実感させる。もう一方で、この言葉の実践的側面はあるだろうか。(ある。)それは何故だろうか。なぜなら、主イエスは40日40夜断食してなお、そこに立ち、生きていたからである。これは幻影であろうか。ここでの要点は、主は40日40夜、何も食べなかった。主はそれでも生きていた。これは、主の言葉の根底にある強力な根拠である。この言葉は簡潔であるが、主イエスに関する限り、主の言葉は、誰かから教えられたもの、あるいは単にサタンに言われた言葉が原因で主が考えられた言葉であっただろうか。それを考えて欲しい。神は真理である。神はいのちである。神の真理といのちは、後で追加されたものだろうか。それは経験から生まれたものであろうか。(そうではない。)それは神の本質的なものであり、真理といのちは神の本質の中に存在するものである。神に何があろうと、神が明示するのは、真理である。その内容の長短に関係なく、この真理、この言葉が、人間を生かし、いのちを与え、人間がその中に真理を見出し、人生の旅路の明瞭さを見出し、神を信仰することを可能とするのである。これが、神によるこの言葉の使用の源である。この源は良いものであるが、この良いものは聖なるものであろうか。(聖なるものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身5」より

あなたがたは、神が人間と同様の見方をしたり、神が人間の見方、知識、科学、哲学、想像により物事に対処したりするのを見受けることは無いであろう。神の業や神が明示する物事は、すべてそうした人間の物事ではなく、真理と関連している。つまり、神が述べた言葉や行った業は、すべて真理に関連する。この真理は事実無根の幻想ではなく、この真理と言葉は、神の本質といのちにより表出される。こうした言葉や神が行った業の本質は、真理であり、したがって神の本質は聖なるものであると言える。換言すると、神の言葉や業は、すべて人間に生命力と光をもたらし、人間が良いものとそうした良い物の現実性を理解することを可能とし、人類が正しい道を進むように、人類を光の道へと導く。こうした事柄は、神の本質と神の聖なる本質により判断される。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身5」より

神は「神は唯一無二の聖さである」と称するに相応しいであろうか。(相応しい。)世界中で、万物のなかで、こうした人間の認識に相応しいのは神のみであろうか。それ以外に何かあるだろうか。(無い。)それでは、神は人間に何を与えるであろうか。神はあなたが気づかないうちに、ちょっとした配慮や思いやり、気遣いを与えただけであろうか。神は人間に何を与えたであろうか。神は無条件かつ代償を要求せずに、隠された意図なく人間にいのちを与え、全てを与えた。神は、神の真理、言葉、いのちを用いて人間を導き、サタンの危害、試し、惑わしから人間を遠ざけ、人間がサタンの邪悪な本性と醜悪な顔を明瞭に見えるようにする。神の人間に対する愛と配慮は、真実であろうか。それらの物事は、あなたがたひとりひとりが感じられることであろうか。(そうである。)

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身4」より

サタンが人間を腐敗させるとき、あるいは留まることを知らない危害を加えるとき、神は何もせず傍観することも、神の選民を無視したり、見て見ぬふりをしたりすることも無い。サタンが行うことは、神にとって全て明瞭であり、神はその全てを理解している。サタンが何をしても、サタンがどのような動向を引き起こしたとしても、神はサタンが何をしようとしているかを知っており、神が、神の選民を見捨てることは無い。神は、その代わりに、誰の気を引くこともなく、秘密裏に、そして静かに、必要とされるすべての業を行う。神が誰かに業を行う時、神が誰かを選ぶ時、神はそれを誰にも告げず、またそれをサタンに告げることも無い。神がそれを誇示することが無いのは、なおさらである。神は、静かに、そして自然に、必要な業を行うのみである。まず、神はあなたの家族を選ぶ。その家族にはどのような経緯があるか、あなたの両親や祖先は誰か、そうした事柄は、既に神により決定されている。つまり、そうした事柄は、神が取り急ぎ決めたことではなく、遠い過去に始まった業である。神があなたが生まれる家族を選んだ後、神はあなたが生まれる日を選ぶ。現在、神はあなたが産声を上げて生まれるのを見、あなたが最初の言葉を口にするのを見、あなたが躓きながら歩くことを覚えるのを見ている。あなたは最初の一歩を踏み出し、その後もう一歩を踏み出し、走ったり、跳んだり、話をしたり、自分の感情を表現できるようになる。こうして人間が成長する間、サタンの眼差しは、あたかも獲物を睨む虎のように、人間ひとりひとりに注がれている。しかし神は、業を行う時、人間や出来事、物事、場所、時間の制限を受けることが一切無く、神が行うべき業、神が行なわなくてはならない業を行なう。あなたは、成長過程において、あなたが好まない物事や疾病、挫折に遭遇することがある。しかし、あなたがその道を進む時、あなたのいのちと将来は、完全に神の慈しみのもとにある。神は、あなたの人生全体にわたってあなたの傍らにあり、あなたを守り、見守るという真の保証を、あなたに与える。あなたは、それを知らずに育つ。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身6」より

あなたが生まれた時から現在に至るまで、神はあなたに対して多くの業を行ってきたが、神が業を行った時、その都度あなたにその旨を伝えることは無かった。あなたが知るべき事ではないので、あなたに伝えることは無かったのではないか。(その通りである。)人間にとって、神の業は、全て重要である。神にとって、それは神が行うべき事である。しかし神の心中には、神がなすべき業として、そうした事柄よりも遙かに重要なことがある。それは何であろうか。つまり、人間が生まれてから現在に至るまで、神は人間ひとりひとりの安全を保証する必要があるということである。……この場合の安全とは、あなたがサタンにより食い尽くされない、ということである。それは重要であろうか。あなたはサタンに食い尽くされていないが、そうであれば、そのことはあなたの安全に関連するであろうか。それはあなた個人の安全に関するもので、それよりも重要な事は存在し得ない。サタンにより食い尽くされたなら、あなたの霊も肉も、神に属さなくなってしまう。神は、あなたを救わなくなってしまう。神はそうした魂や人々を見捨てる。そうしたわけでわたしは、神が行う必要のある最も重要な業は、あなたの安全、すなわちあなたがサタンに食い尽くされないことを保証することであると言うのである。これは極めて重要ではないだろうか。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身6」より

神が人間に対して行う全ての業により、人間は次第に成熟し、神の意思や真理の一部、肯定的な物事や否定的な物事、邪悪とは何か、闇とは何かを知るようになる。神は、人間を常に懲らしめ、罰するとは限らず、また常に寛容と忍耐を示すとは限らない。むしろ、神は各人に対し、様々な段階において、また人間の様々な器量や背丈に応じて、異なる方法で施す。神は、人間に対して多くの業を行い、人間はそうした代償や業を認識することは無いものの、神の業は、すべて人間ひとりひとりに対して実際に行われている。神の愛は、実在する。神の恵みにより、人間は数々の災害を回避する一方で、人間の弱さについて、神は何度となく寛容を示す。神の裁きと刑罰により、人間は、人類の腐敗と、人類のサタンのような腐敗した要素を次第に認識するようになる。神が与える物事、神が人間の目を開くこと、そして神による導きにより、人間は、真理の本質、人間に必要な物事、自分が進むべき道、人生の意味、自分の人生の意味、将来へと進む方法を、一層多く知ることができるようになる。こうした神の業は、神の元来の目的と不可分のものである。それでは、その目的とは何であろうか。あなたがたは、その計画を知っているであろうか。神がそのような方法で人間に対する業を行うのは、何故だろうか。神はどのような結果を実現しようとしているのであろうか。すなわち、神は人間がどのようになることを求め、人間から何を得ることを求めているのであろうか。神は、人間の心が蘇ることを求めている。つまり、神がこのようにして人間に対して業を行うのは、継続的に人間の心を目覚めさせ、魂を目覚めさせ、人間がどこから生まれたか、人間を導き、支え、また人間に与え、人間の存在を現在まで維持しているのは誰かを認識させるためであり、創造主は誰であるか、誰を礼拝すべきか、人間はどのような道を歩むべきか、人間はどのようにして神の前に来るべきかを人間に認識させるためである。こうした方法が用いられるのは、人間が神の心を知り、理解し、神による人間救いの業の根拠となる大いなる慈しみと思いを理解するように、人間の心を次第に蘇らせるためである。人間の心が蘇ると、人間は堕落し、腐敗した性質の生活を送ることを望まなくなり、その代わりに神が満足する真理を求めることを望むようになる。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンにより支配されることも騙されることも無くなる。その代わりに、人間は神の業と言葉に積極的に協力して神の心を満足させ、神に対する畏れと邪悪の忌避を得る。これが神の業の元来の目的である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身6」より

以上により、神の業や、人間に対して神が慎重に用意する物事が全て完璧であることが分かった。神の業は誤りがない。つまり、それは非の打ち所がなく、誰の修正も、助言も、変更も必要ないものである。個々の人間に対する神の業には、いずれも疑われる部分が無く、神はあらゆる者の手を引いて導き、常に見守り、その者の傍らにいる。このような環境と背景の元で人間が成長するとすれば、実際のところ人間は神の手の中で成長すると言えるのではないか。(その通りである。)……神の業の根底にある大いなる心と慈しみには、疑問の余地が無い。さらに、神が業を行っている間、神は、神があなたのために負ったその代償をあなたが知ることを条件としたり、要求したりすることで、自身に感謝の念を抱かせることは一度もしなかった。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身6」より

神による人間それぞれに対する処遇は熱心で責任感があり、あなたが自分自身に対するよりも責任感に溢れている。そうではないだろうか。神は無益に言葉を述べることも、尊大に振る舞うことも、人々を欺くことも無い。その逆で、神は誠実かつ静かに、自身が行う必要のある業を行う。……神には、狡猾さや偽りが不在である。神は誠実で、神の業はすべて真実であり、事実である。神は、人間が信頼し、自分の人生などの全てを託すことの出来る、唯一の存在である。……神には、サタンの邪悪さが全く見られない。神の業や明示する事柄は、全て人間にとって有益であり、役立つものであり、人間に施すために行ったものであり、いのちに満ちあふれ、人間に対して進むべき道と方向性を与えるものである。神は腐敗しておらず、さらに神の業を検討すると、神は聖なる存在であると言えるであろうか。(そう言える。)神には人間の腐敗が一切不在であり、腐敗した人間の性質やサタンの本質と僅かにでも類似した部分が、一切無い。この観点から、神は聖なる存在であると言うことができる。神は全く腐敗した部分を示さず、神の業における神自身の本質の明示が、神自身が聖なる存在であることを確認するために必要とされる全てである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身6」より

人間の堕落、汚れ、暴力に対する神の忍耐には限界がある。その限界に達すると、神はもう耐えることはしない。新しい経営と新しい計画を開始し、神がしなければいけないことを開始し、神の業と、神の性質のもう一つの面を現すのである。それは、神を決して怒らせてはいけないという意味でもなければ、神は権威と怒りに満ちているという意味でもなく、人間を滅ぼすことができると示すためでもない。神の性質、神の聖い本質が、このような人間が自身の前で生き、自身の支配の下で生きていることをこれ以上許さず、これ以上耐えることもできないのである。つまり、全ての人間が神に敵対していたとき、地上で神が救うことができる人間がいなくなったとき、神はそのような人間に対し忍耐することをやめ、一切の躊躇なく、そのような人間を滅ぼす計画を実行するのである。これらの神の行動は、神の性質によるところなのである。これは必然の結果であり、神の支配の下にある全ての被造物はこれに耐えなければならない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

わたしは断固として、厳粛にこう言える。「神の怒りには、誰も疑う余地がない」神の怒りは、純粋で混じり物のない怒りであり、その他の意図や目的は無い。神の怒りの理由は純粋であり、一点の非も無く、非難する余地が無い。神の怒りは、いかなる創造物にも存在しない、神の聖なる本質の自然な明示である。これは神固有の義なる性質であり、創造主の本質と、創造物の本質との顕著な相違点である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

あなたが神の聖さを理解した時、あなたは神を真に信仰することが可能となり、神の聖さを理解した時、「唯一の神自身」という言葉の真意を本当に理解できるようになるであろう。あなたは、他の道を歩むことも可能であると想像することが無くなり、神があなたのために用意した全てを裏切る意志が無くなる。神の本質は聖なるものであるので、あなたは、神によってのみ、人生を通して光ある正しい道を歩むことが可能となり、神によってのみ、人生の意味を知ることが可能となり、神によってのみ、真の人生を送ることが出来るようになり、真理を獲得し、知り、真理からいのちを得ることが出来るようになる。人間が邪悪を回避するのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことが出来るのは、神のみである。神以外に、あなたが苦しまないよう、辛苦の海から救い出すことが出来る人間や物は存在しない。このことは、神の本質により決定される。私心をなくしてあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生について究極的に責任を負うのは、神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を用意する。こうしたことは、被造物やそれ以外の物のいずれも成し得ないものである。被造物やそれ以外の物に、こうした神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い、導く能力のある人や物は存在しない。人間にとって、これが神の本質の重要性である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身6」より

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