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終わりの日のキリストの代表的な言葉

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VII 唯一者である神自らを知ることについての代表的な言葉

神自身が権威であり、神の権威は崇高さと神の本質を象徴し、神自身の権威は、神の地位と身分を表す。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

端的に言えば、「神の権威」とは、神の心次第であることを意味する。神には何をどのように行うかを決定する権利があり、それは神の心が望む方法により行われる。万物の律法は、人間次第ではなく、神次第であり、人間はその律法を変えることもできない。万物の律法は、人間の意志で変えることができず、しかし神の心、知恵、そして命令により変えられるものであり、これは誰も否定できない事実である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

神の権威とは、神の力であると説明できる。まず、権威と力は、両方とも肯定・善であると断言できる。権威と力は、否定・悪と無関係であり、創造物やそれ以外の物と関連性が無い。神の力は、生命や活力のある、あらゆる形の物を造ることが可能であり、それは神の命により決定される。神は生命であり、したがって全ての生物の源である。さらに、神の権威は、あらゆる生物を神のすべての言葉に従わせることができる。すなわち、神が述べた言葉に従って現れ、神の命令により生き、繁殖し、それ以後、神があらゆる生物を支配しあらゆる生物に命令し、このことから逸脱する物は永遠に存在しない。人間や物には、こうした力が無い。こうした力は神のみにあり、したがってその力を権威という。これは、創造主の独自性である。したがって、それが「権威」という言葉自体であれ、権威の本質であれ、それは神としか関連づけられない。なぜなら、権威は、創造主の固有の身分と本質の象徴であり、また創造主の身分と地位を示すものである。創造主以外に、「権威」という言葉と関連づけられる人間や物は存在しない。これが創造主に固有の権威の解釈である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

神の言葉は権威であり、事実であり、その言葉が神の口で述べられる前に、すなわち神が何らかの業を行うことを決定した時点で、その言葉は既に実現されている。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

創造主の権威と力は、創造主が造った新しい物それぞれにおいて現れており、神の言葉とその実現は、寸分違わず、また少しも時間がずれることなく、完全に同期して発生した。こうした新たな物の出現と誕生は、創造主の権威と力を証明するものであった。神は、神の言葉通りを実行し、神の言葉は実現され、実現された物事は永遠に継続する。この事実は、過去にも現在も全く変わることが無く、また今後も永遠に変わることは無い。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

神の言葉には力、威厳、そして権威がある。こうした力と権威、そして事実の実現の不可避性は、被造物やそれ以外の物のいずれもが、達成することも超越することもできないものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

神が万物の創造を始めた時から、神の力が現され、明示され始めた。なぜなら、神は万物を創造する際に、言葉を用いたからである。神が万物をどのように創造したか、なぜ創造したかを問わず、神の言葉により万物が出現し、確立され、存在した。そしてそれは創造主のみが持つ権威である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

創造主は、言葉により神が求めていることの全てを得て、実現しようとしていることの全てを実現することができるだけでなく、神が創造した全ての物をその手中に収め、神の権威により造った全ての物を支配することも可能である。さらに、すべてが系統的かつ規則正しいものである。また、神の言葉により全ての物が生き、死に、さらに、神の権威により神が定めた律法の中に存在した。これについては例外は無かったのである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

創造主のみにある権威は、万物を創造し、全ての物を出現させるよう命令する神の能力だけでなく、万物を支配し主権を握ることのできる能力、命と活力を与える能力、さらに、神の計画において神が創造する万物を、神が創造した世界の中で出現させ、完璧な形、完璧な生涯の構成、完璧な役割で、その世界に永遠に存在させる能力においても現れた。また、神の権威は、創造主の考えが時間、場所、地理など、いかなる制約も受けない方法で現れた。神の権威と同様、創造主のみにある身分は、永遠に変わることが無い。神の権威は、常に神のみにある身分を表し、その象徴であり、神の権威は、神の身分と共に、永遠に存在するのだ。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

神は万物を造り、また造られた万物の主権を持っている。神は、万物の主権を持っているほか、万物を制御する。「万物を制御する」という概念は、何を意味するであろうか。その概念は、どのように説明できるであろうか。その概念は、実生活にどのように適用されるであろうか。「万物を制御する」とい事実を理解することにより、どのように神の権威を知ることが出来るのであろうか。「神が万物を制御する」という言葉により、神が制御する物事は、惑星や創造物の一部ではなく、ましてや人類の一部ではなく、全てのものであることを知るべきである。それは巨大な物から微小な物まで、見えるものも見えないものも、宇宙の惑星も地球上の生き物も、肉眼で見ることのできない微生物や、その他の形態で存在する物まで、全てである。これが、神が「制御」している「万物」の正確な定義であり、神が権威を及ぼす、神による統治と支配の範囲である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

創造主が神の権威を行使する様式は、厳密にマクロ的観点やミクロ的観点に固執せず、またいかなる形態にも限定されていない。神は、宇宙のはたらきを支配可能であり、万物の生死を支配し、そしてなによりも、万物を操作して神に仕えさせることが可能である。神は山、川、湖などのはたらきを支配することが可能であり、その中にある物を支配し、さらに万物が必要とする物を提供することも可能である。これが、創造主のみにある権威の、人間以外の全ての物に対する顕現である。こうした顕現は生涯に留まらず、終わることも中断することもなく、いかなる人や物によって変えられたり損なわれたり、加減されたりすることもない。創造主の身分に代わることができる者は存在せず、したがって創造主の権威は、いかなる創造物によっても代えられることができず、また創造物以外の物が得ることのできないものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

神が特定の民族を特定の場所で生活させ、その民族をそこに定住させており、その民族が移動することを許可しなかった場合、その民族は移動することが出来ない。神がその民族の範囲を定めた場合、その民族はその範囲内で生活する。人間は、こうした範囲を超えたりその範囲から出たりすることが出来ない。それは確かである。侵略者の勢力がどれほど強力であったとしても、あるいは侵略される者がどれほど脆弱であったとしても、侵略が成功するか如何は、最終的には神にかかっている。神はこうした事柄を予め定めており、それを変えることが出来るものは居ない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身9」より

聖句には「わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。」とある。創造主は人間に対してこの通りの言葉を語った。神がこのように述べると、人間の前に虹が出て、それは現在も存在する。……創造主は、独自の方法により、神と人間との契約を遵守したので、神が立てた契約のしるしとして神が虹を用いたことは、天の律法と天の命令であり、その律法と命令は、創造主にとっても、造った人間にとっても永遠に不変である。しかし、この変えることのできない律法は、神による万物創造後における創造主の権威の現れであり、創造主の権威と力は無限であることを言わなくてはならない。神が虹をしるしとして用いたことは、創造主の権威の継続であり、その延長である。それは神が言葉により行なったもうひとつの業であり、神が言葉により人間と立てた契約のしるしである。神は人間に対して、神が何を行い、それをどのような方法で実現すると決めたかを人間に対して述べ、それは神の言葉に従って実現された。こうした力は神のみにあり、神が言葉を述べてから数千年が経過した現在も、神の言葉により述べられている虹を見ることができる。神が述べたこの言葉により、それは現在まで変えられることが無かった。この虹を消すこと、その律法を変えることができるものはいらず、虹は神の言葉のために存在する。これはまさしく神の権威である。「神は、神の言葉通りを実行し、神の言葉は実現され、実現された物事は永遠に継続する。」現在も存在する虹は、そのことを明確に表しており、神の権威と力の明確なしるしであり特徴である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

神の言葉の語調には、神の権威と身分が明示されていることを見出すのは困難ではない。たとえば、神が「わたしはあなたと契約を結ぶ...あなたを...とする...わたしはあなたに...をさせ...」と述べている場合、「あなたを...とする」や、「わたしはあなたに...をさせ」といった、神の身分と権威を確約する言葉は、伝統的な語彙であるのと同時に、ある意味で創造主の忠誠を示すものであり、またある意味では、創造主の身分である神が用いる特別な言葉である。ある者が誰かに対して、その誰かが大いに成功し、諸国民の父となり、王となる者たちが出ることを期待すると言った場合、それは紛れもなくある種の望みであり、約束や祝福ではない。したがって、人間は敢えて「あなたをこうしよう、あなたはこうなる」という語調で話すことは無い。なぜなら、人間にはそうした発言を実現させる力が無く、また言葉通りになるかどうかは、人間が決められないからである。そして、たとえそうした発言をした場合であっても、その発言は、欲望や野心に基づく実の無い戯言である。……人々は、こうした事柄を実現する力が無いことを心の中では明らかに悟っている。なぜなら、全てが自分で管理できる範囲外である。それでは、どうして他人の命運を思い通りにすることができようか。その一方で、神がこうした言葉を述べることができるのは、神にはそうした権威があり、人間との約束をすべて達成し、実現することができ、そして神が人間に授ける全ての祝福を実現させることができるからである。人間は神により造られ、したがって神が誰かを大いに成功させることなど、子供の遊びのようにたやすいことであり、誰かの子孫を繁栄させるために必要とするのは、言葉だけである。こうした事柄について、神自身が汗水を流して働いたり、自分の任務を強く認識したり、やり遂げると心に誓ったりする必要は無い。それこそが神の力であり、権威である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

神の権威は点滅したりするものでも、行ったり来たりするものでもなく、神の権威がどの程度偉大であるかを計測出来る者はいない。どの程度時間が経過したかを問わず、神がある者を祝福した場合、その祝福は継続し、その継続は神の権威が計り知れないことの証拠となり、創造主の尽きることの無い生命力の再来を、人間が幾度となく目の当たりにすることが可能となる。神の権威の表示は、それぞれ神の言葉の完全な証明であり、言葉は万物と人間に対して証明された。さらに、神の権威により実現された全ての物事が比類無く優れており、完璧であった。神の心、神の言葉、神の権威、そして神が実現したあらゆる業は比類の無い美しい光景であり、被造物にとって、人間の言葉では、その重要性と価値を表現できなかった。神がある者と約束した場合、その者の住む場所、その者の行動、約束を受ける前または後のその者の背景、その者の経歴、あるいは生活環境での変動は全て、神自身の手の甲のように熟知されている。神の言葉が述べられてから経過した時間を問わず、その言葉は、神にとってたった今述べられたかのようである。つまり、神には、神が人間と約束したこと全てについて、その約束が何であるか、完全に実現するまでにどの程度時間を要するかを問わず、その約束を追跡し、支配し、実現する力と権威がある。また、その約束の実現が影響を与える時間、地理、人種などの範囲がどの程度であるかを問わず、その約束は実現され、現実となり、さらにその実現において、神は全く努力を必要としない。この事実により、何が証明されるであろうか。それは、神の権威と力が宇宙全体と人類全体の支配に十分であることである。神は光を造ったが、それは神が光を支配しているだけであることを意味するものではなく、また神は単に水を造ったので、水を管理しているが、それ以外の事は神と無関係であることを示すものではない。これは誤解ではないだろうか。神のアブラハムに対する祝福は、数百年後、次第に人間の記憶から消えていったが、神にとって、その約束は全く変わることが無いままである。この約束は未だに実現過程にあり、それは止まることが無い。人間は、この間に神がどのようにして神の権威を行使するか、万物を指揮し、計画するか、神の創造物の中で奇跡的な物語がいくつあったかを知らず、それを聞いたこともない。しかし、すばらしい神の権威の表示と神の業の明示は、すべて万物の間で語り継がれて讃美され、万物が現れて創造主の奇跡的な業を物語った。こうして何度も語られた創造主による万物の支配に関する物語は、万物により永遠に讃美される。神が万物を支配する権威と神の力は、神があらゆる場所に常に存在していることを、万物に対して示す。神の権威と力が遍在することを経験すると、神はあらゆる場所に常に存在していることを理解するであろう。神の権威と力には、時間、地理、場所、人間や物事による制約が無い。神の権威と力の範囲の広さは、人間の想像を超えるものであり、人間には計り知れず、想像を絶するものであり、人間が完全に知ることが不可能なものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

神が述べた言葉は、すべて命令であり、天の律法であり、神の権威を示すものであった。なぜなら、神の言葉の背後には、神の命令に背いた者や天の律法を破った者に対する神の罰が暗示されているからである。……サタンを含めた万物のなかには、創造主が定めた天の律法や命令に背くことができるものは一切無く、また、こうした天の律法や命令に違反しようとするものは一切ない。なぜなら、服従を拒んだ者に対して創造主により科される罰に変更を加えたり逃れたりできる人間や物は存在しないからである。天の律法や命令を定めることができるのは創造主のみであり、それらを施行できるのも創造主のみであり、人間や物が背くことができないのは、創造主の力のみである。これが、創造主固有の権威であり、この権威は万物において至高のものであるので、「神は最も偉大であり、サタンはその次に偉大である」と言うことはできない。固有の権威を持つ創造主を除いて、神は存在しないのである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

サタンは、これまで数千年にわたって人間を腐敗させてきている。サタンは無数の邪悪を働き、何世代もの人々を騙し、また世界中で凶悪な罪を犯してきた。サタンは人間を虐げ、騙し、誘惑して神に謀反を起こさせ、何度も神の経営(救いの)計画を混乱させ、妨害してきた。それでもなお、神の権威の下で、万物やすべての被造物は神により定められた律法を遵守し続けている。神の権威に比べれば、サタンの邪悪な性質とその蔓延は極めて醜く、不愉快であり、卑劣であり、取るに足りず、脆弱である。サタンは神により造られた万物の中を歩んでいるが、神の命令を受けた人間や物事に対して、ほんの僅かな変化さえも与えることができない。数千年が経過した現在、人類は神から授かった光りと空気を享受し、神自身から授かった息を呼吸し、神が造った花々や鳥たち、魚や昆虫を楽しみ、神から授かった全てを享受している。昼と夜が引き続き交互に入れ替わり、四季は通常通り移ろいでおり、今年の冬には、空を舞うガンの群れが渡り去ってゆき、次の年の春に舞い戻り、魚は河川や湖沼以外へと移動して生活の場とすることなく、夏の日中にはセミが魂を歌い上げ、秋には鈴虫が草の間で風に合わせて優しい歌を口ずさみ、ガンは群れを成し、鷹は単独で行動し、ライオンの群れは狩りを行うことで生命を維持し、ヘラジカは草原の草花から立ち去ることが無い。万物のなかでも、動物は、すべて行き来を繰り返しており、無数の変化が一瞬にして発生する。しかし、その本能と生存のための律法は不変である。動物は神の施しと糧により生きており、動物の本能を変えることや、動物の生存の律法を妨害することは、誰にもできない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

神には権威と力があるものの、神の権威は真実であり、本物であり、空虚なものではない。神の権威と力の信ぴょう性と現実性は、神による万物創造や万物の支配、そして神が人間を導き、経営する過程において、次第に明示され、具体化された。神の人間や万物に対する支配のあらゆる方法や観点、詳細、神が実現されたすべての業、そして神の万物に関する理解により、実際に神の権威と力が空虚な言葉では無いことが証明された。神の権威と力は万物に現され、継続的に明示された。こうした顕現と明示は、神の権威の実際の存在を物語るものである。なぜなら、神は常に神の権威と力を用いて神の業を継続し、万物に命令し、万物を支配しており、神の力と権威は、天使や神の使いが代理になれるものではないからである。神は、どのような祝福をアブラハムとヨブに与えるかを決定した。それは、神次第であった。神の使いが自らアブラハムとヨブを訪れたが、彼らの行動は神の命令、神の権威に従い、神の支配に従っていた。人間には、聖書の記録から、神の使いがアブラハムを訪れ、ヤーウェ自らは何も行っていないように思われるが、実際は、真に力と権威を行使しているのは神自身であり、これについては人間にとって疑念の余地が無い。天使や使い達には大きな力があり、奇跡や、神から命じられた事を行っているのが分かるが、彼らの行動は、神の命令を遂行するためのものに過ぎず、決して神の権威の明示では無い。なぜなら、創造主の持つ、万物を造り、支配する権威を持つ人間や物は存在しないからである。そうしたわけで、創造主の権威を行使できる人間や物は存在しない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

サタンは神の権威に背いたことが一切無く、さらには神の指示と具体的な命令を注意深く聞き、それに従い、それに反することは無く、神の命令を自由に変えることも、当然ながら無かった。それは、神がサタンに対して定めた制限であり、したがってサタンが敢えてその制限を超えようとしたことは無い。これは神の権威の力ではなかろうか。これは神の権威を証しするものではなかろうか。サタンは、神に対してどのように振る舞うか、神をどのように見るかについて、人間よりもはるかに明確に理解していたので、霊の世界において、サタンは神の地位と権威を明確に理解しており、また神の権威の力と神の権威の行使が基づいている原則に関しても、深く理解していた。サタンがこうした神の権威や地位を見過ごすことも、何らかの形でそれに背くことも、神の権威を逸脱する行動を取ることも、決して無かった。また神の怒りに対抗することも一切なかった。サタンは元来邪悪で傲慢であるが、神がサタンに対して定めた限界を超えたことは無い。数百万年の間、サタンはそうした限界を固く守り、神からの指示や命令に全て従い、その限界を敢えて超えようとしたことは無い。サタンは悪意に満ちているにもかかわらず、腐敗した人間よりもはるかに「賢い」。サタンは創造主の身分を知っており、自らの限界も心得ていた。サタンの「従順な」行動から、神の権威と力は、サタンが背くことのできない天の命令であることが理解できる。また、まさにこの独自性と権威故に、万物が秩序にしたがって変化し、増加し、人間は神が立てた過程に従って生活し繁殖でき、この秩序を乱したり、この律法を変えたりすることができる人間や物が不在であることが分かる。なぜなら、人間や物はすべて創造主の手から現れ、創造主の命令と権威から現れたからである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

人間は万物の中で生活し、この世で人々の物質的な需要を満たす様々な方法により快楽を得、この物質世界が継続的に進歩しているのを見ているにもかかわらず、自分自身の経験、すなわち人間の心や霊が感じる事柄は、物質的な事柄と何ら関係が無く、また、物質的な事柄はそうした経験の代替ではない。そうした経験は人間の心で深く認識する物事であって、目に見えないものである。そうした認識は、人生と人間の運命に関して、その者が理解し、それを感じることの中にある。そして多くの場合、そうした認識の結果として、目に見えない支配者が人間のために万物を用意し、指揮していることの理解へと繋がる。こうした物事の中では、人間は運命の定めや指揮を受け入れざるを得ず、また同時に、人間は創造主が計画した将来の道、創造主による個人の運命の統治を受け入れざるを得ない。これは疑いの無い事実である。運命に関して人間がどのような見通しを立て、どのような姿勢であったとしても、その事実を変えられる者はいない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

あなたがたが毎日どこへ行き、何をして、誰と会い、何を見て、何を言うか、あなたがたに何が起こるか、といった事柄を予測出来るであろうか。人間はそうした事柄の発生を予測することができず、ましてそれらがどのように展開してゆくかを予測することは出来ない。人生において、予期せぬ出来事は日常的に発生する。こうした日常的に起こる変化や、そうした変化の発生のしかた、発生後の展開形態は、何ら規則性無く発生する物事は無く、発生した物事の結果やその必然性は、人間の意志で変えられないということを、人類に対して継続的に喚起するものとなっている。あらゆる出来事は、人間に対する創造主の訓戒や、人間は自分自身の運命を支配できないという知らせを伝達すると同時に、自らの運命を掌握しようとする人間の大それた、そして無意味な野望や願望に対する反証でもある。こうした出来事は、耳元で連続的に発生する強い衝撃音のように、人間に対して、誰が最終的に人間の運命を支配しているかを強制的に再検討させるものである。人間の野望や願望が繰り返し阻まれ、砕かれてゆくにつれ、結果として人間は、待ち受ける運命や、現実、天の意、そして創造主による統治を、無意識のうちに自然と受け入れる。こうした日常的な変化から全人生の運命に至るまで、創造主の計画や統治を明示しないものは無い。すなわち、「創造主の権威は超越不可能である」という知らせを伝えないもの、「創造主の権威は至高のものである」という恒久の真理を伝えないものは存在しない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

ある者の出生に関する創造主による予定は、生存に必要な物事の全てを、創造主がその者に対し与えることを意味する。同様に、その者が生まれるということは、生存に必要な物事の全てを、創造主からその者が授かること、そしてその時点からは、別の形態で、創造主の備えのもとに、創造主の支配の下で、その者が生きるということを意味する。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

様々な人間の出生は、すべてその人間のために創造主により準備された運命により決定される。その者の現在における人生の運命、その者が果たす役割、遂行する使命は、その者の出生により決まる。こうした物事は、すべて創造主による統治の対象となり、創造主により予め定められたものである。そうした定められた場所から逃れられる者、その者の出生時の状況を変更出来る者、自分自身の運命を選択出来る者は、存在しない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

ある者の出生の状況と死の状況は、両方とも創造主により予め定められたものであり、それらはその者の終着点、運命である。……人間は将来に向けて様々な計画を立てることができるが、出生と他界の時期や状況は誰にも計画できない。人々は死を回避し、拒否しようと最大限努力するが、死は人知れず静かに近付いて来る。自分の死期やどのように死ぬかを知る者はおらず、ましてや何処で死ぬかを知る者はいない。生死の力を持つのは人類では無く、自然界の生き物では無く、唯一の権威を持つ創造主であることは明らかである。人間の生死は自然界の法則の結果ではなく、創造主の権威による統治の結果である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、人間は運命において皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別は無い。ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

運命に関しては、人間は皆独立しており、各人には独自の運命がある。したがって、ある者の両親がその者の運命を阻むことも、その者が人生で担う役割に何らかの影響を与える事も出来ない。その者が生まれる家庭や、その者の成育環境は、その者の人生における使命を果たすための前提条件でしか無いと言えるであろう。そうした物事は、何らかの形でその者の人生における運命を決めたり、どのような宿命の中でその者が使命を果たすかを決めたりすることは無い。……創造主により予め定められたその者の使命に、その他の客観的条件が影響を与えることは無い。人間はみな、自分に特定の成育環境で成人に達し、段階的に自分自身の人生の道を歩み始め、創造主が各人のために計画した使命を果たし、自然と無意識のうちに人類の大海原へと入り、その生涯における役割を担い、そこで創造主の定めと統治のために、被造物として自分の責任を全うする。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

基本的に、長い人生の中では、誰もが数多くの危険な状況や誘惑に遭遇している。これは、あなたの傍らには、常にサタンが存在し、あなたを見据えているからである。サタンは、あなたが災害に見舞われたり、災難が降りかかったり、あなたがあらゆることに失敗したりすることを喜び、また、あなたがサタンの罠にかかることを喜ぶ。しかるに神は、常にあなたを守り、次々起こる逆境や災難の中でもあなたを守る。これが、平安や喜び、祝福、人間の安全など、人間が持つものは、実際のところ全てが神の支配下にあり、神が各人の人生と運命を導き、決定する、とわたしが述べている理由である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身6」より

神の権威の下では、全ての者が能動的あるいは受動的に神の統治と計画を受け入れるので、人生においてどれほどもがいたとしても、どれほど誤った道を進んだとしても、結局は創造主がその者のために定めた運命の範囲内に戻ってしまう。これが創造主の権威の凌駕することが不可能な性質であり、創造主の権威が万物を制御し支配する方法である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

神は人間の唯一の主であり、神は人間の運命の唯一の主である。したがって、人間にとって自分の運命を決定し、支配することは不可能である。その者の能力が如何に優れていても、その者は他人の運命に影響を与えられず、ましてや指揮したり、予定したり、制御したり変更することは出来ない。人間のすべてを支配するのは、唯一の神自身のみである。なぜなら、人間の運命に対する統治を担う唯一の権威があるのは神のみであり、したがって創造主は人間の唯一の主だからである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

神の権威は、状況を問わず存在する。つまり、あらゆる状況において、神は人間の運命その他あらゆるものを、神の考えと望みに従って支配し、計画する。これは人間が変化することで変化するものではなく、人間の意志に依存しないものであり、時間、場所、地理のいかなる変化によっても変えられることが無い。なぜなら、神の権威は、神の本質そのものだからである。人間が神による統治を知って受け入れられるかどうか、そしてそれに服従出来るかどうかは、神による人間の運命の統治という事実に少しも影響しない。つまり、神による統治に対して人間がどのような姿勢を取るかによらず、神が人間の運命と万物を統治しているという事実が変わることは無い。たとえ神による統治に服従しなかったとしても、依然として神はあなたの運命を操り、また、たとえあなたが神による統治を知ることが出来なくても、神の権威は依然として存在する。神の権威、そして神が人間の運命を統治しているという事実は人間の意志から独立したものであり、人間の好みや選択に従って変わることが無い。神の権威は全ての場所にあり、いつでも、どの瞬間も存在する。もし天と地が無くなるとしても、神の権威は決して無くならない。なぜなら、神は神自身であり、神に唯一の権威があり、神の権威は人間や出来事、物事、空間や地理による制限を受けないからである。神は常に神の権威を行使し、神の力を示し、神の経営(救い)の業を継続する。また神は、これまでと同様、常に万物を支配し、万物に必要なものを与え、万物を指揮する。そうした事柄は、誰も変えられない。それは事実であり、太古の昔から不変の真理であり続けている。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

神には権威と力があるものの、神は自身の業に対して厳格であし、原則を固守し、言葉の通りにしている。神の厳格さと神の業の原則では、創造主が侵害不可能であること、そして創造主の権威が無敵であることが示されている。神には至高の権威があり、万物が神の支配下にあり、神には万物を支配する力があるが、神は、かつて自身の計画を害したことも混乱させたことも無く、神が権威を行使する時は、常に神自身の原則に厳密に従い、神の口で述べた言葉に従い、神の計画の段階と目的に従っている。神により支配されている万物もまた、神が権威を行使するときの原則に従っており、神の権威の定めの例外となる人間や物は存在せず、神の権威が行使される際の原則を変更できる人間や物が一切存在しないことは、言うまでも無い。神の観点から見ると、祝福された者は、神の権威により多くの財産を受け、のろわれた者は神の権威による罰を受ける。神の権威の支配下においては、神の権威行使の例外となる人間や物は存在せず、神の権威が行使される際の原則を変更できる人間や物も一切存在しない。創造主の権威は、いかなる要素の変化によっても変更されず、同様に、神の権威が行使される際の原則は、いかなる理由によっても変更されない。天と地に大規模な変動が発生する可能性もあるが、創造主の権威は不変であり、万物が消滅する可能性もあるが、創造主の権威は決して消滅しない。これが創造主の不変であり侵害不可能な権威であり、まさに創造主固有のものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身1」より

人類の運命と万物の運命は、創造主による統治と密接に絡み合い、創造主の指揮と不可分の繋がりがあり、最終的にそれらの運命を神の権威から引き離して翻弄することはできない。人間は、万物の法則により創造主の指揮と統治を理解するようになり、生存の法則により創造主の統治を認識し、万物の運命により創造主がその万物に対する統治と支配を行使する方法に関して結論を得る。また人間は、人間と万物のライフサイクルによって、万物やあらゆる生物に対する創造主の指揮と采配を真に経験し、そうした創造主による統治や采配が、この世の法令や規則、制度その他の権力や威力よりも優先されるのを目の当たりにする。これに鑑みると、創造主による統治は、いかなる被造物も侵害出来ないものであり、いかなる権力も創造主によって予定された物事に干渉したり変更したり出来ないものであることを、人類は認めざるを得ない。人類や万物の何世代にもわたる生活や繁殖は、こうした神性の法則や規則の下で行われる。これは創造主の権威が真に具現化されたものではなかろうか。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身3」より

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