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終わりの日のキリストの証人

目次

2.世の終わりに働きを行うべく中国で受肉した神の目的と意義は何か。

関連する神の言葉

神の働きのどの段階も、人間のために行われるもので、それはすべての人間のためなのだ。それは受肉した神の働きであるが、それでもすべての人間を対象とする。神はすべての人間の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは限られた範囲のものであるし、この働きの目的もまた限られているが、神が働きのために受肉するたびに、神は、その働きの対象として究極的な代表を選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉の働きの代表となるだけの能力ある集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神が受肉して行う働きの範囲が限られているためで、受肉した神のために特に用意され、受肉した神の働きのために特に選ばれるのである。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則による。働きの対象は、受肉した神の働きに有益なものでなければならず、また、すべての人間を代表する者でなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自らによる贖罪を受け容れることで全人類を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け容れることで全人類を代表できる。ユダヤ人が全人類を代表したことには根拠がある。また中国人が、神自らによる征服を受け容れることで全人類を代表することにも根拠がある。ユダヤ人の間で行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人の間での征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

この段階の働きが人々を完全にすることだけに関わっているなら、それは、イギリス、アメリカ、イスラエルなどどこにおいてもできる。それはどの国の人々にもすることができる。しかし、征服する働きは選ばれたものでなくてはならない。征服する働きの第一ステップは短期間である。さらに、それはサタンを辱しめ、全宇宙を征服するために用いられる。これは征服する最初の働きである。神を信じる人ならだれでも完全にしてもらうことができる、と言うこともできる。なぜなら、完全になることは長期間の変化の後でしか成就することができないからだ。しかし、征服されることはべつのことである。征服される人の良い見本は、最後方でのろのろと歩き、最も深い闇に生きており、最も堕落して、最も神を受け入れ難く、最も神に不従順な人でなければならない。このような人こそ、征服されたことを証拠立てることができる。征服する働きの主な目標はサタンを打ち負かすことである。もう一方で、人々を完全にする主な目標は人々を神のものとすることである。それは征服する働きがここであなたがたのような人たちに対してなされたと、人々が証しするためである。征服された人々、後になって証しをさせることが目的である。これら征服された人々はサタンを辱しめるという目的を達成するために用いられる。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた者だけが意義ある人生を送ることができる」より

中国の人々は、嘗て神を信じたことが無く、ヤーウェに仕えたことも、イエスに仕えたことも無い。中国の人々は、香を焚くこと、叩頭すること、紙銭を焚くこと、仏陀を崇拝することしか出来ない。中国の人々は偶像を崇拝するだけであり、極度に反逆的であるため、人々の地位が低ければ低いほど、それは神があなたがたから得る栄光が一層大きいことを示す。...仮に、中国の地に生まれていたのがヤコブの子孫であって、あなたがたが皆その子孫であったとしたら、あなたがたに対して業を行うことの重要性は何であっただろうか。サタンは何と言うであろうか。サタンは「神よ、中国人は嘗てあなたを畏れていましたが、もう長いこと誰もそれを受け継いでいません。しかし、中国人の祖先は当初あなたを畏れ、あなたを裏切ったことは全くありません。時間が経って、それが受け継がれなくなったということだけです。中国人は人類の中で最も邪悪でも、最も賤しくも、最も遅れてもいません。中国人は当初、あなたを認めていました。そのようなやり方は全く重要ではありません。本当にそのようなやり方で行われたのであれば、この業で誰が確信するでしょうか。」と言うであろう。全宇宙の中で、中国人は最も遅れた人間である。中国人は賤しく、誠実さが乏しく生まれ、愚鈍であり、野蛮で退廃的である。中国人にはサタンのような性情が浸透し、不浄で放蕩である。あなたがたには、その全てが備わっている。そうした堕落した性情に関しては、この業が完了した後、人間はその性情を払拭して完全に付き従って完全にされることが出来るようになるであろう。創造物の中の証しと呼ばれるのは、この種の業による成果のみである。

『言葉は肉において現れる』の「モアブの子孫を救うことの重要性」より

今、モアブの子孫に対して業を行うということは、最も暗い闇に落ちた者を救うということである。モアブの子孫は呪われたが、神はモアブの子孫から栄光を得ることを望んでいる。なぜなら、モアブの子孫は皆、当初は心に神の無い者であったからである。真の征服は、そうした者を神に従い、神を愛する者にすることのみであり、そのような業の成果が最も貴重であり、最も確信を与えるものである。栄光を得ることとは、そのことのみであり、終わりの日に神が得ることを望む栄光は、その栄光である。そうした人々は、地位が低いものの、現在極めて大きな救いを得ることが出来る。それはまさに神の奉挙である。この業は極めて有意義であり、神がモアブの子孫を得る手段は、裁きである。神は故意にモアブの子孫を罰しておらず、神はモアブの子孫を救うために来た。仮に神が終わりの日に依然としてイスラエルを征服する業を行っているとすれば、それは価値の無いものである。よしんばその業に成果があったとしても、その成果には価値も大きな重要性も無く、神は全ての栄光を得られないであろう。神は、最も暗い闇の地に落ち、最も遅れている、あなたがたに対して業を行っている。そうした者は神が存在することを認めず、神が存在することを未だに知らずに居る。こうした創造物は、神のことを忘れるほどまで、サタンにより堕落させられている。そうした者はサタンにより盲目にされているので、天に神が存在することを全く知らない。あなたがたは皆、心の中で常に偶像、サタンを崇拝している。あなたがたは最も賤しく、時代遅れな者ではなかろうか。あなたがたは最も賤しい肉であり、個人的な自由を欠き、困難も経験する。また、あなたがたはこの社会の中で最も賤しい者であり、信仰の自由さえ欠いている。これが、あなたがたに対して業を行う重要性である。

『言葉は肉において現れる』の「モアブの子孫を救うことの重要性」より

終わりの日の御業が、最も暗く遅れた地である中国で行われているのだろうか。それは、神の聖さと義を現すためである。つまり、暗い場所では、神の聖さを一層明るく照らすことが出来る。その真相は、こうした物事を行うのは、ひとえに神の御業の為である。あなたがたが知っているのは、天の神が地に来られて自分達の中に居ること、そして神はあなたがたの汚れと反逆性により際立ったものとされており、あなたがたは神の知識を得られるようになったことだけである。これは素晴らしい励みではないか。

『言葉は肉において現れる』の「征服の御業の第2段階は、どのように実りを迎えるか」より

神が地に来たとき、神はこの世のものではなく、この世を楽しむために受肉することもなかった。業により神の性情を最適に示す地、そして業が最も有意義となる地が、神が生まれた地であった。その地が聖いか汚れているかを問わず、また神が何処で業を行うかを問わず、神は聖い。この世の万物は神により造られた。ただし、そうした万物は全てサタンにより腐敗させられている。しかしながら、万物は依然として神のものであり、神の掌中にある。神が不浄の地に来て業を行ったのは、神の聖さを示すため、そして神の業のため、つまりこの不浄の地の人々を救うために神が大いなる屈辱を受け、そのようにして業を行うためであった。それは、証しのためであり、全人類のためである。この種の業により人間が理解できることは、神の義である。またその業により、神の至高性を一層示すことが出来る。神の偉大さと高潔さは、誰もそれほど気にかけないような賤しい人間の集団を救うことによって示される。不浄の地に生まれる事が、神が賤しいことを示すことは一切なく、その事によって、神の偉大さと、人間に対する真の愛を万物が理解できるようになるのみである。神がこのように業を行えば行うほど、その業が示す神の人間に対する純粋な愛、完璧な愛が一層はっきりと示される。

『言葉は肉において現れる』の「モアブの子孫を救うことの重要性」より

全宇宙のすべての神の働きは、この一団の人々に焦点を当てている。神はすべての努力をし、あなたがたの犠牲となった。全宇宙のすべての聖霊の働きを取り戻し、あなたがたに与えたのだ。だから私は言う。あなたがたは幸運なのだと。それに加えて神は、自分が選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなたがたへと移した。それはあなたがた一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。ゆえにあなたがたは神の嗣業を受け、更に神の栄光の継承者となるのだ。あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」誰でもこの言葉を耳にしたことがあるだろうが、その言葉の真意を理解した者はいない。今日あなたがたは、この言葉の真の意味をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものだ。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害を受けている。ゆえにこれらの言葉は、あなたがた一団の身に実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、すべての神の働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。ゆえに、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。神にとって赤い大きな竜の地で自分の働きを実行することは非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を実行し、自分の知恵と素晴らしい業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一団の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこの汚された地における人々のすべてのサタン的な性質がゆえに、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、その業の証人となる人々を手にするのだ。これが、神がこの一団の人々に行った全ての犠牲に関する完全な意義だ。つまり、神は自身に逆らう者たちを通して征服の働きを行うのだ。そうすることでのみ、神の力が現わされるのだ。言い換えれば、汚された地にいる者たちのみが神の栄光の継承者に相応しく、これが唯一、神の力を際立たせることができるのだ。それだから、神の栄光は汚された地とそこに住む者たちから得られると言おう。これが神の心だ。これはイエスの段階の働きと同じだ。イエスは、彼自身を迫害したパリサイ人たちを通してのみ栄光を受けることができた。そのような迫害やユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されたり中傷されたりすることもなく、ましてや十字架に付けられることなどなく、栄光を受けることは不可能だったに違いない。神が各段階のどこで働いても、どこで肉の働きをしても、神はそこで栄光を受け、自分が得ようとする者たちを得るのである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。

大きな赤い竜が住む地において神が偉大な働きを行ったことを考えれば、その働きをどこか別の地で行えば、とうの昔にすばらしい実を結んでおり、容易に人に受け入れられていただろう。神を信じる西洋の聖職者たちにとっては、そのような働きを受け入れることはいとも簡単なことだっただろう。イエスによる段階の働きが前例となっているからだ。だから、神は自身が栄光を得るこの段階の働きを別のどの場所でもなしえないのである。つまり、全ての人間から支持され、全ての国から認められているので、神の栄光を得ることができないのだ。そしてこのような事実にこそ、この段階の働きがこの地でなされることの重要な意味がある。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より

神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。…

アメリカ人でも、イギリス人でも、どこの国の人でも、自分という枠を乗り越え、自分という存在を超越し、神の創造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはないだろう。それは、特定の国や民族に神が現れることはないだろうと考えている人が多いからである。ああ、神の働きの意義はなんと深く、神の現れはなんと重要か。それは人の観念や考えで測ることなどできるのだろうか。そのため、神の現れを探し求める際には、みずからの国籍や民族性という枠を突き抜けるべきである。そうすれば、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを喜び迎えることができる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

神は全人類の神である。神が自分を一つの国や民族の所有物とすることはない。神が自分の計画にある働きを、形式や国、民族といった制限を受けることなく行う。これまであなたはこのような形式を考えたこともなかったかもしれないし、そのような形式があることを否定するかもしれない。神が現れる国や民族は差別されている最貧国かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神は、自分の力によって、また自分の真理と性質を通して、自分と心が一つになっている人々をすでに得ている。それは神が求めていた人々で、神に征服され、苦しい試練とあらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる人々である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。…「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。どこで自分を現そうとも、神は神だからである。神の本質が現れる場所や方法で変わることはない。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。たとえば、主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもある。さらに言えば、全宇宙で唯一無二の神である。だから、神の語る言葉から神の心を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。ここに記した言葉に神の現れを見てとってほしい。そして、新しい時代に向かって神の足跡をたどってゆき、神の現れを待ち望む人々に用意された新天新地にたどりついてほしいのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より