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Ⅸ 堕落した人類のサタン的性質と本質を明らかにする代表的な言葉

1.人が神に反対し、反抗する根源はサタンによる堕落である。サタンによって堕落させられたので、人の良心は麻痺してしまい、不道徳になり、考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられる前は、人はもちろん神に従い、神の言葉を聞いた後それらに従っていた。人は健全な理知と良心を生来持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。人の性質の暴露は人の理知、見識、良心の表出であり、人の理知や見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、したがって人の性質は神に対して反抗的である。人の理知と見識に変化がなければ、その性質を変えることも、神の心にかなうことも不可能である。理知が不健全だと、人は神に仕えることができず、神に使われるには適さない。正常な理知とは神に従い、忠実であること、神を切望し、神に対して無条件で、神に対して良心を持っていることを意味する。神に対して心と考えにおいてゆるぎなく、わざと神に反対するようなことはしないことを意味する。理知が異常な人々はそうではない。サタンによって堕落させられて以来、人は神についての観念を作りだし、神への忠誠心や渇望は持っておらず、言うまでもなく神に対する良心も持っていない。わざと神に反対し、批判する。さらには陰で神に悪口雑言を投げつける。人は明らかにその方が神であることを知っているにもかかわらず、陰で批判し、神に従うつもりはなく、神に盲目的要求や依頼を行うだけである。そのような人々、つまり理知が異常な人々は自分自身の卑劣な行動を知ることや反抗心を後悔することができない。自分自身を知ることができれば、人々は自己の理知を少し取り戻す。神にますます反対し、自分自身を知らなければ、その理知はますます不健全になる。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

2.人の堕落した性質が発覚する源はその人の鈍くなった良心、悪意のある本性、不健全な理知でしかない。良心や理知が正常に戻ることができれば、人は神の前で神に用いられるのに相応しい人になるだろう。人がますます神に反抗的になるのは、単に良心がつねに麻痺しており、その理知が決して健全ではなく、ますます鈍くなっているからであり、そのためイエスを十字架に釘でうちつけさえしたし、終わりの日に受肉した神の肉体が自分の家に入るのを拒絶し、神の肉体を罪に定め、神の肉体を卑しいものとみなすのである。少しでも人間性を持っていれば、受肉した神の肉体をそんなにひどく扱わないだろう。少しでも理知があれば、受肉した神にこのような卑劣な扱い方はしないだろう。少しでも良心を持っていれば、受肉した神にこのような方法で「感謝する」ことはないだろう。人は神が受肉した時代に生きているにもかかわらず、神がそのような良い機会を与えたことに感謝することができず、それどころか、神の到来を呪うか、あるいは神が肉となった事実を完全に無視し、一見したところそれに反対し、うんざりしている。神の到来を人がどのように扱うかにかかわらず、神は要するにそのようなことは気にせず自分の働きを常に続行してきた。たとえ人が神を全く歓迎していなくても、盲目的に神に要求を突き付けてもである。人の性質はこの上なくひどくなり、理知はこの上なく鈍くなり、良心は悪い者によって完全に踏みにじられ、もともとの良心はずっと以前に途絶えてしまった。人は人類に多くのいのちと恵みを授けてくれた受肉の神に感謝しないばかりか、真理を与えたことで神をひどく嫌悪さえしている。真理に全く関心を持たないので、人は神をひどく嫌悪している。人は肉となった神のために命を捨てることができないだけでなく、神から利益を引き出そうとし、自分が神に預けたものの何十倍もの利息を神に要求する。そのような良心と理知を持つ人々はこのすべてを当たり前のことと思い、自分は神のために十分費やしたのに、神はあまりにも少ししか与えてくれないと信じている。わたしに一杯の水を与えたのに、両手を伸ばしてミルク二杯分[a]に等しいものを要求したり、わたしに一夜の宿を提供しても、宿泊費として何倍もの額を要求しようとした人々がいる。そのような人間性や良心で、どうしてあなたがたはいのちを得ることを望めようか。あなたがたはなんと卑劣な悪党なのだろう。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

3.数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神への人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに完全な説明ができなくなってしまっている。人はサタンにより深く堕落させられ、惑わされてしまったので、どちらに向いたらよいかわからなくなっているのである。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人は神を見ると裏切り、神が見えないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知はその本来の機能を失い、人の良心も本来の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は人の装いをした獣、毒のある蛇であり、わたしの目の前でどんなに哀れっぽく見せようとしても、わたしは人に対して決して寛大にはならない。人は白と黒の違い、真理と非真理の違いを把握していないからである。人の理知は大いに麻痺しているにもかかわらず、まだ祝福を得ようと願い、人間性はひどく下劣であるにもかかわらず、まだ王としての統治を保有することを願う。そのような理知の持ち主がいったい誰の王になれるというのか。そのような人間性の者がどうして玉座に着くことができようか。実に人は恥を知らない。身の程知らずな卑劣漢である。祝福を得たいと願うあなたがたに対し、わたしはまず鏡を見つけて、そこに映る自分自身の醜い姿を見ることを勧める。あなたは王になるために必要なものを持っているだろうか。あなたは祝福を得ることのできる者の顔をしているだろうか。性質にわずかな変化もなく、真理は何一つ実践していないにもかかわらず、あなたはまだ素晴らしい明日を願っている。あなたは自分自身を欺いている。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

4.また、数千年におよぶ「民族主義の高尚な精神」が人間の心の奥に残した悪影響、そして、自由も大志も根気も向上意欲も全くなく、消極的で衰退的なまま、奴隷的精神状態にとらわれた人々が束縛されている封建的な考え方もある。こうした客観的要素により、人類の観念的態度や理想、倫理、性質に消えることのない不浄で醜悪な色調が加えられてきた。人間は暗黒のテロリストの世界で生活しているように思われるが、それを超越することを求める者や、理想の世界に移ろうと考える者はいない。人間はむしろ自分の境遇に満足し、子供を産み育て、日常生活の諸事に奔走して励み、汗をかき、快適で幸せな家庭や、夫婦の愛情、親孝行な子供達、平和な人生を送って晩年を迎える喜びを夢見ている。現在まで数十年、数千年、数万年にわたり、人間はそのようにして時間を浪費し、誰も完全な生活を創造することなく、全員がこの暗黒の世界で互いに殺し合うこと、名声や富をめぐって競い合い、互いに謀をすることにのみ没頭している。今まで、誰が神の心を求めたであろうか。今まで、神の働きに注意した者がいるであろうか。人間のあらゆる部分が闇の影響により占められている状態が、人間の本性となって久しい。そのため、神の働きを行うのは極めて困難であり、現在、神が人間に託したことに人々はさらに配慮しなくなっている。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(3)」より

5.人間の本性はわたしの本質と全く異なる。その理由は、人間の腐敗した本性が全てサタンに由来するからであり、また人間の本性はサタンに取り憑かれて腐敗させられていることにある。つまり、人間はサタンの邪悪と醜悪さの影響下で生きながらえている。人間は真理の世界や聖なる環境で育つのではなく、光の中で生活してもいない。ゆえに、人間それぞれの本性に真理が生来備わっていることはあり得ず、それ以上に、神を畏れ、神に従う本質を持って生まれることもあり得ない。逆に、人間は神を拒み、神に反抗し、真理を愛すことのない本性を備えている。わたしが話したいのは、この裏切りの本性に関する問題である。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より

6.人間の存在は、霊が順番に肉体化することに基づいている。つまり、各人は、霊が肉体化した時に、肉にある人間の命を得る。人間の身体が生まれた後、その命は肉の限界、つまり霊が外殻から出る時まで続く。この過程が何度も繰り返され、それと共に人間の霊は往来を繰り返し、全人類の存在が維持されている。肉にある命は、人間の霊の命でもあり、人間の霊は人間の肉の存在を支援する。つまり、各人の命は、その者の霊に由来し、人間の肉に元来いのちがあるのではない。したがって、人間の本性は人間の肉ではなく霊に由来する。人間がサタンによる誘惑、サタンが与える苦悩や腐敗をどのように受けたかを知るのは、各人の霊のみである。人間の肉は、それを知る事が出来ない。よって、人間は無意識のうちに益々汚れ、邪悪で暗黒になってゆく一方、わたしと人間の間の距離も益々広がり、人間の日々も益々暗黒になる。人間の霊は、全てサタンに掌握されている。ゆえに、人間の肉もまたサタンに囚われているのは言うまでも無い。こうした肉と人間が、どうして神に反抗せず、生来神の味方であり得るだろうか。サタンがわたしにより空へと投げ出されたのは、サタンがわたしを裏切ったからであるが、それならば、どうして人間がその影響から解放され得るであろうか。これが、人間の本性が裏切りである理由である。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より

7.わたしに完全に従うことが出来ない行動は裏切りである。わたしに忠実であることが出来ない行動は裏切りである。わたしをごまかし、嘘でわたしを騙すことは裏切りである。頭が多くの観念で一杯で、それをいたる所で広めることは裏切りである。わたしの証しと益を護らないことは裏切りである。心の中でわたしから去って作り笑いを浮かべるのは裏切りである。こうした行動は全て、あなたがたがいつも出来る物事であり、あなたがたの間で恒例ともなっている物事でもある。あなたがたのうちの一人として、それを問題だと考える者はいないが、わたしはそうは考えない。わたしは、わたしを裏切ることを些細な事として扱うことは出来ず、また無視することも出来ない。わたしはあなたがたの間で業を行っているが、あなたがたは依然としてそのような状態である。あなたがたを思い遣り、見守る者がいつの日かいなくなったら、あなたがたは皆お山の大将[b]になるのではなかろうか。その時、あなたがたが大惨事を引き起こした時、誰がその後始末をするのであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より

8.あなたがたは、自分が誰にも悪いことをしたことが無いからといって、自分に裏切りの本性が無いと楽観してはならない。あなたがそのように考えるのであれば、あなたには胸がむかむかさせられる。わたしがその都度述べてきた言葉は、全ての人々に向けて語られたのであって、一個人やあるタイプの人間にだけ向けられたものではない。ひとつの事においてわたしを裏切ったことが無いからといって、それは、あなたが他のどんなことにおいてもわたしを裏切らないことの証明にはならない。結婚生活での挫折の中で真理の追求において確信を失う人々もいる。ある人々は、家族崩壊時にわたしに対し忠誠を尽くす任務を投げ捨ててしまう。束の間の喜びや興奮を求めるために、わたしを見捨てる人々もいる。光の中で生き、聖霊の業の喜びを自分のものとするよりも、むしろ暗い谷に落ちた方が良いという人々もいる。ある人々は、富への欲を満たすために友人の助言を無視し、今なお自分の過ちを認めて戻ることが出来ない。わたしの保護を受けるために一時的にわたしの名のもとで生きる人々もいれば、命にしがみつき、死を恐れているために、少しだけしか捧げない者たちもいる。これらの行動と、その他の不道徳で、その上みっともない行動は、まさに人々が心の奥底で長い間わたしを裏切ってきた行為と同じではなかろうか。無論、人々の裏切りは事前に計画されたものでは無く、それは彼らの本性の自然な現れであることを、わたしは知っている。わたしを裏切りたい者は一人もおらず、その上、何かわたしを裏切る事をして、喜ぶ者はいない。それどころか、彼らは恐怖に震えているではないか。それならあなたがたは、それらの裏切りの埋め合わせをどうやって為すことができるのか、またどのようにして現状を変えることができるのかについて考えているであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より

9.サタンにより腐敗させられた霊は、すべてサタンの支配する領域にある。ただし、キリストを信じる者は分離され、サタンの軍勢から救われ、今日の神の国へと導かれている。こうした人々は、もはやサタンの影響下では生活していない。それでもなお、人間の本性は依然として人間の肉に根ざしている。つまり、あなたがたの霊は救われているにもかかわらず、あなたがたの本性は依然として昔のままの姿であり、あなたがたがわたしを裏切る可能性は依然として100パーセントである。わたしの業が極めて長期に及ぶのはそのためである。なぜなら、あなたがたの本性は極めて揺るぎないからである。現在、あなたがたは皆、自分の本分を尽くす上で可能な限りの苦難を受けているが、否定出来ない事実として、あなたがた各人にわたしを裏切り、サタンの領域、サタンの陣営に戻り、従来の生活へと戻る可能性がある。この時、あなたがたが現在のように人間性や人間としての姿を僅かでも持つことは不可能であろう。深刻な場合、あなたがたは滅ぼされ、さらに永遠に罪に定められ、生まれ変わることは二度となく、厳罰に処されるであろう。これが、あなたがたを待ち受けている問題である。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より

10.あなた方は神によって泥から切り離され、いずれにせよ不潔で嫌われる汚物の中から選び出された。あなた方はサタン[c]に属していて、かつてはサタンによって踏みにじられ、傷つけられていた。だから、あなた方は泥から切り離されたと言われているし、あなた方は神聖ではなく、それどころかサタンは、あなた方を人ではなく物体として長い間ばかにしていたのだ。これがあなた方に対するもっとも適切な表現である。あなた方は、魚や海老のように望ましい捕獲物とは対照的に、自分がよどんだ水や泥の中で見つけられた不潔なものであることを理解しなければならない。あなた方からは何の喜びも引き出されないからである。単刀直入に言えば、あなた方は最低の社会層に属し、豚や犬よりも悪い動物である。率直に言えば、そのような表現であなた方を呼ぶのは誇張表現ではなく、問題を単純化する方法である。あなた方をそのような表現で呼ぶのは、実のところ、あなた方に敬意を表する方法である。あなた方の見識、話し方、「人」としての行動、生活におけるあらゆることは――泥の中におけるあなた方の立場も含め――あなた方の身分が「並外れている」ことを証明するのに十分である。

『言葉は肉において現れる』の「人が本来持つ身分と価値とは――何か」より

11.人は神を追求したがらず、自分の所有物を神のために使いたがらず、生涯を通しての努力を神に捧げたがらず、それどころか、神はやり過ぎたとか、神には人の観念と対立する部分がありすぎるなどと言う。人間性がこのようでは、たとえあなたがたが努力を惜しまないとしても、神の承認を得ることはやはりできないだろうし、あなたがたが神を探し求めていないという事実は言うまでもない。あなたがたは自分が人類の不良品だということを知らないのか。あなたがたの人間性ほど卑しい人間性はないということを知らないのか。あなたがたの「称号」は何か知らないのか。本当に神を愛する人々はあなたがたをオオカミの父、オオカミの母、オオカミの息子、オオカミの孫息子と呼ぶ。あなたがたはオオカミの子孫、オオカミの民族である。あなたがたは自己の身分を知るべきであり、それを決して忘れてはならない。自分がなにか優れた人物だと考えてはならない。あなたがたは人類のなかで最も悪意がある非人間的なものの群である。あなたがたはこのことを全く知らないのか。あなたがたの中で働くためにわたしがどれほどの危険を冒しているか知っているだろうか。あなたがたの理知が正常に戻ることができず、あなたがたの良心が正常に働くことができなければ、あなたがたから「オオカミ」の名称が外されることは決してなく、呪いの日を免れることも決してなく、懲罰を受ける日を免れることも決してない。あなたがたは劣った生まれで、何の価値もない。本質的に飢えたオオカミの群、山積みのがらくたとごみである。あなたがたと違って、わたしがあなたがたに働きかけるのは甘い汁を吸いたいからではなく、その必要があるからである。あなたがたがこのように反抗的態度を続けるなら、わたしは働くのをやめ、二度と再びあなたがたに働き掛けることはない。それどころかわたしを喜ばせてくれる別の集団に働きを移し、このようにして永遠にあなたがたから離れる。なぜならわたしに敵対する人々を見たくないからである。では、あなたがたはわたしに味方することを望むか、それとも反目していたいか。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

12.人類はわたしの敵以外の何ものでもない。人類は、わたしに抵抗し従わない邪悪な者である。人類は、わたしによって呪われた邪悪な者の子孫以外の何ものでもない。人類は、わたしを裏切ったかの大天使の末裔以外の何ものでもない。人類はすでに、わたしによって嫌悪され捨てられ、わたしと対立するようになった悪魔の遺産以外の何ものでもない。全人類の上にかかる空は、暗く陰鬱であり、澄み渡った明るさなど微塵もない。人間の世界は漆黒の闇であり、そこで生きるとき、人は伸ばした自身の手を見ることができないし、顔を上げても太陽を見ることはできない。足の下の道路は、ぬかるみ、くぼみだらけであり、さらに曲がりくねっている。全土に死骸が散乱している。暗がりの隅は遺骸で溢れている。冷たく暗い、奥まった場所は、居を定めている大勢の悪魔たちが群がっている。人類がいる至る所に、悪魔の群れもまた行ったり来たりしている。汚れにまみれた無数のけだものの子孫が残忍な戦いの中で競い合っている。そしてその音が人を震え上がらせる。そのような時代、そのような世界、そしてそのような「地上のパラダイス」において、人は人生の至福を探し出すのにどこへ向かうだろうか。人は、人生の終着点を見出すのにどこへ向かうだろうか。遠い昔にサタンに踏みつけられた人類は、サタンの似姿で行動し続けてきた――それどころかサタンの化身でさえあった。彼ら自身がサタンの明確な証人である証拠だ。そのような人類、そのような人間のくず、あるいは、そのような堕落した人間家族の子孫――彼らがどうして、神の証しに立つことができようか。どこからわたしの栄光は現れるのだろうか。わたしの証しに立てるものはどこにいるのか。わたしに敵対し人類を堕落させている敵はすでに、わたしが創造し、わたしの栄光とわたしの生きることで満ち溢れた人類に汚点を残した。敵はわたしの栄光を奪ってしまった。そしてそれが人に吹き込んだものはサタンの醜悪さで並々と飾られた毒と善悪の知識の木の果実からの汁に他ならない。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

13.「天では、サタンがわたしの敵であり、地上では人がわたしの仇である。天と地は繋がっているので、彼らは9世代にわたり連座して同罪と見なされるべきである。」サタンは神の敵である。わたしがこのように言うのは、サタンが神の偉大な好意と親切に対して報いるどころか、むしろ「流れに逆らって舟を漕ぐ」からであり、そうすることによって神に対する「親孝行」を果たさないからである。人々もサタンと同じではないだろうか。彼らは「両親」に対して子としての尊敬の念をまったく示さず、「両親」から受けた養育と援助に決して返礼をしない。このことは地上の人々が天のサタンと同類であることを十分に示している。人とサタンは神に対する心と気持ちが同じなので、神が9世代を同罪として巻き込み、赦される者は誰もいないのは当然のことである。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第三十八章」より

14.眠っている神の民を救うために神が彼らに呼び掛けない日は一日としてないが、彼らは皆睡眠薬を飲んだかのように活気のない状態にいる。神が彼らを一瞬でも目覚めさせなければ、彼らは睡眠状態に戻り、まったく気づかない。神の民全員のうち、三分の二は麻痺しているようである。彼らは自分が必要とするものも、自分の欠点も知らず、何を着るべきか、何を食べるべきかさえわからない。このことから、赤い大きな竜が人々を堕落させるために努力を振り絞ってきたことが見て取れる。竜の醜さは中国の全地域に広がっており、人々は苛立ち、もはやこの退廃的で、がさつな国に留まることを望んでいない。神が最も嫌うのは、赤い大きな竜の本質であり、そのため、神は一日も欠かさず怒りの中で人々に思い出させ、人々は毎日神の怒りの眼差しにさらされて暮らしている。たとえそうであっても、大半の人々はまだ神を探し求めることがわからず、ただそこに座ってながめ、手で食べ物を与えられるのを待っている。飢え死にしそうでも、彼らは進んで自分の食べ物を探しに行こうとしない。人々の良心はサタンによってとっくに堕落させられており、本質的に冷酷な心に変わってしまっている。神が次のように言うのももっともである。「わたしが促さなければ、あなたがたはいまだに目覚めず、冬眠しているかのように、凍ったような状態のままでいただろう。」人々は冬眠して冬を過ごしており、食べることも飲むことも要求しない動物のようである。これがまさに神の民の現在の状態であり、そこで神は、肉の姿の神を光の中で知ることだけを要求する。神は人々が大いに変わること、あるいは彼らがいのちにおいて目覚ましい成長を遂げることは要求しない。それでも不潔で汚い赤い大きな竜を打ち負かし、神の偉大な力を明らかにするのに十分であろう。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十三章」より

15.わたしの働きが終わる時、もはやわたしは人からこの「救済のための資金」を求めないだろう。それどころか、わたしは本来備わっている機能を実行し、「わたしの家のもの」を下ろして、すべての人々が楽しむために差し出す。今日、すべての人はわたしが与える試練のまっただ中で試される。わたしの手が正式に人々の間に届くと、彼らはもはや感嘆の目でわたしを見上げることはなく、憎しみをもってわたしを扱う。その瞬間、彼らの心臓は直ちにわたしによってえぐり出され、標本になる。わたしは人の心臓を「顕微鏡」で観察する――わたしへの本当の愛はそこにはない。何年もの間、人々はわたしをだまし、からかい続けてきた――彼らの左心房にも右心室にもわたしに対する憎しみの毒が含まれていることがわかるから、わたしが彼らにそのような態度をとるのも不思議ではない。しかし、彼らはまったくこのことを知らず、認めさえしない。わたしが観察した結果を彼らに示しても彼らは目を覚まさない。彼らの心の中では、これらは過去の問題で、今日再び持ち出すべきではないと思っているかのようである。したがって、人々は「わたしの観察結果」を無頓着に見るだけである。彼らは観察記録を返却し、大股に立ち去る。その上、彼らはこのようなことを言う。「これらは重要ではない、わたしの健康に何の影響もない。」彼らは軽蔑的に少し笑い、次に少し威嚇的な眼差しを示し、わたしに対して、そんなに率直であるべきではなく、もっといい加減でなければならないと暗に伝えているかのような態度を示す。まるで、わたしが彼らの内なる秘密を明らかにするのは人の「おきて」を壊すようなものだと言わんばかりである。そこで彼らはわたしをさらに憎むようになる。そうなってようやくわたしは人々の憎しみの源を見る。これは、わたしが見ている時には彼らの血液は流れていて、体内の動脈を通過したあと、血液が心臓に入った時に初めてわたしが新しい「発見」をするからなのだ。しかし、人々はこのことを何も考えない。彼らは完全に不注意で、得るもの、失うものについて考えてみることもなく、そのことは彼らの「私心のない」精神を示すのに十分である。彼らは自分自身の健康状態には何の配慮もせず、わたしのために「飛び回る」。これも彼らの「忠実性」であり、彼らに関して「称賛すべき」ことである。そこでわたしは、彼らはこれによって幸せになるだろうという内容の「称賛」の手紙をもう一度彼らに送る。しかし、この「手紙」を読むと、彼らはすぐに少し腹立ちを感じる。彼らの行うすべてのことについて、わたしが手紙を書かなかったからである。いつもわたしは人々が行動する時指示をしてきたが、彼らはわたしの言葉をひどく嫌悪しているように思われる。したがって、わたしが口を開くとすぐに彼らは目をギュッと閉じ、耳を両手で塞ぐ。彼らはわたしが愛を与えても、尊敬の念を持ってわたしを見上げることはなく、常にわたしを憎んでいる。わたしが彼らの欠点を指摘し、彼らの所有するすべての品物を暴いたからであり、そのため彼らは仕事で損をし、生活の手段をなくしてしまった。そういうわけで彼らのわたしに対する憎しみはその後増加しているのだ。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第三十二章」より

16.人類の本質は、ほんの少しでも望みが残っていれば、神に助けを求めようとせず、自然のままで生き残るための自己満足的方法を採用しようとするものなのだ。これは人類の本質が独善的であり、すべての人を見下しているからである。このため、神は次のように語った。「安楽な時にわたしを愛することのできた者は一人もいない。自分たちが安らかで幸福な時に、喜びを分かち合おうと、わたしに手を伸べた者は一人もいない。」これは実に嘆かわしいことである。神は人類を創造したが、神が人間世界に来ると、彼らは神を拒絶しようとし、あたかも神がさすらっている孤児か、この世に市民権を持たない者であるかのように自分たちの領土から追い払おうとする。誰も神に愛着を覚えず、誰も真に神を愛さず、誰も神の到来を歓迎していない。それどころか、神の到来を見ると、彼らの嬉しそうな顔は瞬く間に曇ってしまう。まるで突然途中で嵐にあったかのようであり、神が彼らの家族の幸せを奪ってしまうかのようであり、神はけっして人類に祝福を与えず、その代わりにただ人類に不幸を与えたかのようである。つまり、人類の考えでは神は彼らにとって恩恵ではなく、いつも彼らを呪う存在なのだ。このため、人類は神を気にも留めず、歓迎せず、いつも神に対して冷淡であり、これはけっして変わっていない。人類はこれらの事柄を心に抱いているので、人類は不合理で不道徳だと神は言い、人間がたぶん備えているであろう感情でさえ彼らの中に感じられないと言う。人類は神の感情にまったく考慮を示さず、神にかかわる時に彼ら独自の「正しさ」を使う。人類は長年の間このようであり、このために神は彼らの性質は変化していないと言った。これは彼らが数枚の羽根ほどの実体しか持っていないことを示すことになる。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十四章」より

17.天の神は、最も不浄な悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言わず、人間の略奪[1]や抑圧を黙って受けた。彼は、人間の不合理な要求に報復することも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をすることも無かった。彼は単に、教えること、啓くこと、叱責、言葉による精錬、注意を喚起すること、勧告すること、慰めること、裁くこと、啓示することなど、人間が必要とする全ての働きを不平を言わずに行う。神の段階のうち、どれが人間のいのちのためでは無かったであろうか。神は人間の前途や運命を取り去ったが、神が行った段階のうち、どれが人間の運命のためでは無かったであろうか。その段階のうち、どれが人間の生存のためでは無かったであろうか。どれが夜のように黒い闇の勢力がもたらす苦難や抑圧から人間を解放するためでは無かったであろうか。どれが人間のためでは無かったであろうか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の真剣な心を、誰が理解できるというのか。神の情熱的な心と熱心な期待は、冷酷な心と冷淡かつ無関心な眼差し、人間による非難と侮辱の繰り返し、辛辣な言葉と皮肉、蔑みといった報いを受け、また嘲笑、蹂躙と拒否、誤解と愚痴、疎外と忌避、欺瞞と攻撃、そして苦しみばかりで報いられている。温かい言葉には、敵意の表情と冷淡な不満の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は、それを忍んで頭を下げ、おとなしく従う牛のように人々に仕えるしか無い。[2]神はいくつの陽と月、いく度星を見上げたことであろうか。彼は何度日の出と共に発ち日の入りと共に戻って、父の元を去った時の苦痛の千倍におよぶ苦悩と、人間の攻撃と打撃、取り扱いと刈り込みを堪え忍び、悶々として眠れぬ夜を過ごしたことであろうか。神の謙遜と慎ましさは、人間の偏見[3]、不当な意見や処遇で応じられ、また神の匿名性と忍耐強さ、寛容さは、人間の強欲な眼差しで報いられ、人間は良心の呵責無く神を踏みにじり、殺そうとする。神を扱う人間の態度は、「希な聡明さ」の類いのものであり、人間に虐待され侮蔑された神は、幾万もの人間の足で踏みつぶされている一方で、人間は意気揚々として立ち、それはあたかも城に住む王のようであり、そして絶対的な権力の掌握[4]を望むかのようであり、陰で宮廷を操り、神を誠実で規則に従い、逆らったり問題を起こすことを許されない裏方の主事にしようとしているようである。神は『末代皇帝』の役を演じ、何の自由も無い操り人形[5]にならなければならない。人間の所行は筆舌に尽くしがたい。それならば、どうして神に対してあれこれと要求する資格が人間にあろうか。どうして神に対して提案する資格が人間にあろうか。どうして人間の弱点に同情することを神に対して要求する資格が人間にあろうか。どうして人間が神の憐れみを授かるのにふさわしいであろうか。どうして人間が神の寛大さを何度も得るのにふさわしいであろうか。どうして人間が神の赦しを何度も得るのにふさわしいであろうか。人間の良心はどこにあるのか。人間は遥か昔に神の心を傷つけ、それを砕け散ったままにして久しい。神は、それが少しの温厚さしか伴わなくても、人間が神に優しく接することを期待して、生き生きと眼を輝かせ、溌剌として人間の中に来た。しかし、神の心はいっこうに人間によっては慰められず、神が受けてきたのは、激化を続ける[6]攻撃と苦悩のみである。人間の心は過度に貪欲であり、人間の欲望は大きすぎ、人間は決して飽き足りることを知らず、常に問題を起こし、無鉄砲であり、神に対して言論の自由や権利を決して与えず、神は、恥辱に屈服し、人間によって好きなように操られることを余儀無くされている。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より

18.創造時から現在に至るまで、神は極めて大きな痛みを耐え忍び、無数の攻撃を受けて来た。しかし、現在も人間の神に対する要求は衰えることなく、神を吟味し、神に対して容赦せず、神に対して勧告し、批判し、咎めるだけで、それはあたかも神が誤った道を歩み、地上にある神が残忍で不合理であったり、奔放に振る舞ったり、結局無意味になったりするのを深く恐れているかのようである。人間は、神に対して常にこうした姿勢であった。それが神を悲しませないことが、どうしてあろうか。神は、受肉することにより甚大な苦痛と恥辱を受けたが、その上に、神に人間の教えを受け容れさせることは、どれほど酷いことであろうか。神は、人間の元へ来たことが原因で、全ての自由を奪われたが、それはあたかも神が陰府に捕らわれ、人間による分析を全く抵抗せずに受け容れたかのようである。それは恥辱ではないだろうか。常人の家庭に来たことで、イエスは最大の不義を受けた。それにも増して恥辱的なこととして、イエスはこの汚れた世に来て、深みの底までへりくだり、至って普通の肉を受けた。至高の神は、劣った人間となるにあたり、苦難を受けるのではなかろうか。そしてそれは、全て人間のためではなかろうか。神が自らのことを考えたことがあっただろうか。彼はユダヤ人に拒否されて殺され、人々に愚弄され、嘲笑されても、天に不平を言ったり地に反抗したりすることは無かった。現在、こうした数千年前の悲劇が、ユダヤ人のような人々の間で再発している。そうした者は、かつてと同じ罪を犯しているのではなかろうか。神の約束を人間が授かる資格が、どうしてあろうか。人間は神に反抗して、その後に神の恵みを授かるのではなかろうか。人間が正義と向き合い、真理を探し求める事が決して無いのは、何故だろうか。人間は何故、神のすることに関心を抱かないのだろうか。人間の義はどこにあるのか。人間の公正さはどこにあるのか。人間は厚かましくも神を代表するつもりなのか。人間の正義感はどこにあるのか。人間が愛するもののうち、どの程度が神に愛されているであろうか。人間はチョークとチーズを見分けることが出来ず[7]、常に白黒を混同し[8]、義と真理を抑圧し、不公平と不義を空高く掲げる。人間は光を追い払い、闇の中ではしゃぎ回る。真理と正義を求める者は、それに反して光を退け、神を求める者は神を踏みつけて自らを空高く掲げる。人間は盗賊[9]同然である。人間の理知はどこにあるのか。誰が善悪を区別できようか。誰が正義を守ることが出来ようか。誰が真理のために苦しむことを望むというのか。人間は悪徳かつ邪悪である。人間は神を十字架に付けて拍手喝采し歓声を上げ、その熱狂的な叫びは止むことがない。人間は鶏と犬のように結託して共謀し、自分達の王国を建て、人間の干渉が及ばない場所は無く、また人間は目を閉じてくるったように吠え続け、皆一緒に閉じ込められて濁った雰囲気が充満し、騒々しく活気があり、また盲目的に他人に追従する者たちが絶えず現われては、自分たちの皆祖先の「輝かしい」名声を掲げている。こうした犬と鶏は、遥か昔に神を心の奥へ押しやり、神の心境に対して注意を払ったことは一度も無い。人間は犬や鶏のようであり、他の百匹の犬も吠えさせる吠える犬のようである、と神が言ったのも不思議ではない。そのようにして、神の働きがどのようなものか、正義があるかどうか、神には足がかりとなる場所があるか、明日どうなるか、自分の卑しさや汚れなどにはおかまいなしに、人間は仰々しい謳い文句で神の働きを現代にもたらした。人間は物事をそれほど深く考えたことも、明日のことを懸念したことも無く、有益で貴い物事を集めて自分のものとし、神には屑と残飯[10]しか残さなかった。人間は何と残忍なことであろうか。人間は神に対して何も思いやることが無く、神の全てを密かにむさぼった後、神を自分の後ろに放り投げ、神の存在にそれ以上留意することは無い。人間は神を享受しつつ神に背き、神を踏みつける一方、口では神に感謝し、神を賛美する。人間は神に祈り、神をよりどころとしつつ、神を欺く。人間は神の名を「崇め」神の顔を見上げるが、同時に厚かましく恥知らずに神の玉座に座り、神の「不義」を裁く。人間は口では神に負債があると言って神の言葉を眺めるが、心の中では神を罵る。人間は神に対して「寛容である」が、神を抑圧しつつ、口ではそれが神のためと言う。人間は神のものを手に握り、口では神に与えられた食べ物を噛むが、人間の眼はあたかも神をむさぼり尽くすことを望んでいるかのように冷酷で無情な眼差しで神を見る。人間は真理を見るが、それがサタンの謀だと言うことにこだわる。人間は正義を見るが、それを強制的に自己犠牲に変える。人間は人間の行いを見るが、それが神というものであると言い張る。人間は人間に与えられた天賦の才を見るが、それが真理であると言い張る。人間は神の業を見て、それが傲慢さであり、自惚れであり、虚勢であり、独善であると言い張る。人間は神を見る時、神に人間のレッテルを貼ることを主張し、サタンと共謀する被造物の座に納めようと懸命になる。人間は、それらが神の言葉であることを十分承知しているが、それは人間の書き記したもの以外の何物でもないと言う。人間は、神の霊が肉となって現れていること、神が受肉していることを十分承知しているが、単にその肉はサタンの末裔であると言う。神が謙り隠れていることを十分承知しているが、単にサタンが辱められられ、神が勝利したと言う。なんと役立たずな者達であろうか。人間は番犬として仕える価値さえ無い。人間は白黒を見分けることが出来ず、さらには黒を白だと故意に曲解している。人間の勢力と人間による包囲は、神の解放の日を持ち堪えることが出来るだろうか。人間は故意に神に反抗したあと、まったく気にもしないで、神が自らを現す隙さえ与えずに、神を死に追いやるほどである。義はどこにあるのか。愛はどこにあるのか。人間は神の傍らに座りつつ、跪いて赦しを請うよう神に強要し、人間の采配に全て従い、人間の策略に黙って従うよう迫り、神のすること全てにおいて人間の指示に従わせており、そうならなかったならば人間は激昂して[11]怒り狂う。黒を白へとねじ曲げるような闇の影響下にあって、どうして神が悲しみにうちひしがれないでいられようか。どうして神が懸念せずにいられようか。神が最新の働きを始めた時、それは新時代の夜明けのようであると言われるのは何故だろうか。人間の行いは極めて「豊潤」であり、「枯れることのない生ける水の泉」が人間の心の畑地を間断なく「潤す」一方、人間の「生ける水の泉」はぬけぬけと神と競い合う。[12]両者は折り合いが付かず、その泉は何のおとがめもなく神に代わって人間に施す一方、人間はそれに伴う危険に対して何の懸念することなく、その泉に加担する。それにはどのような効果があるのであろうか。人間は、神が人間の注意を引くことをひどく恐れ、また神の生ける水の泉が人間を引き寄せ、獲得することを深く懸念して、神を冷淡に隅へ追いやり、人間が神を全く気に留めない所まで遠ざける。こうして、この世の懸念を長年にわたり経験した後、人間は神に対して謀略を企て、さらには神を批判の対象とする。それはあたかも神が人間の目の中の丸太となったかのようであり、人間は神を掴んで火にくべて精錬し、清めようと必死になっているかのようである。神の苦難を見て、人間は腹を抱えて笑い、喜んで踊り、神も精錬するに至ったと言い、またあたかもそれのみが天の公平かつ公正なやり方であるかのように、人間は神の穢れた不純物をすっかり焼き尽くして清めると言う。人間のこうした暴力的行為は、意図的かつ無意識のようである。人間は自らの醜い顔を現し、また忌まわしく汚れた魂と哀れな乞食の姿を現す。人間は、遍く猛り狂った後、哀れを極めたパグのように惨めな様相で天の赦しを乞う。人間は常に予想外の行動を執り、「虎の威を借りて他人を脅し」[d]、いつも役を演じ、神の心に少しも配慮せず、自らの地位と比較することも無い。人間はただ黙って神に反抗し、それはあたかも神が人間を虐待しており、神は人間をそのように扱うべきではないかのようであり、また天が目を持たず、故意に人間にとって物事が困難となるようにしているかのようである。したがって、人間は悪徳な謀りを企て、神に対する要求を僅かでも譲ることが無く、どう猛な眼差しで神の一挙一動を睨み、決して自らが神の敵であるとは考えず、神が霧を晴らして物事を明瞭にし、「虎の口」から人間を救い、人間のために報復する日が来ることを願っている。現在に至っても、人々は、時代を通して多くの者たちによって演じられてきた神に敵対するという役割を自らが演じているとは依然として考えていない。人間は、自分が為す全てのことにおいて久しく邪道を行き、かつて理解したことは海に飲み込まれていることを、どうして知ることが出来ようか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より

19.人類がここまで発展してきたことは、前例のない状況である。神の働きと人がいのちに入ることは肩を並べて進むのであるから、神の働きもまた比類の無い程の大いなる好機である。現在まで人間がいのちに入ることは、人間がかつて想像し得なかった不思議である。神の働きは絶頂を迎え、それに続いて人間の「入ること」[13]もまた絶頂を迎えた。神は自らを可能な限り卑しくし、人間その他あらゆる宇宙の万物に一度も反抗したことが無い。一方、人間は神の頭の上に立ち、神を最大限まで抑圧している。万事が絶頂を迎え、義が現れる時が来ている。闇に地を覆わせ、闇に人々を包ませるままにしておくのは何故だろうか。神は数千年、ことによると数万年にわたり、それを見てきて、神の寛容さが限界に達して久しい。神は人間のあらゆる挙動を見続け、人間の不義がどの程度の期間はびこるかを観察し続けてきたが、人間は随分前から鈍感になっているので、何も感じない。一体誰が神の業を見て来たというのか。一体誰が目を上げて彼方を見据えたというのか。一体誰が注意して聴いたというのか。一体誰が全能者の掌中にいたことがあるというのか。人間は皆、架空の恐怖に苛まれている。[14]草や藁の山が何の役に立つというのか。人間は生きて肉にある神を虐待し死に至らしめることしか出来ない。人間は草や藁の山でしか無いが、人間が「最も得意とする」[15]事がある。それは、神を虐待して生きながら死に至らしめ、それが「人間の心に喜びを与える」と叫ぶことである。何とも役立たずの雑魚どもである。特に、止むことのない人の流れの中で、神に注目し、神を堅く破ることの出来ない障壁で包囲する。人間は熱狂してゆく一方であり[16]、人間は神を大群となって取り囲み、神は少しも身動きが取れない。人間は、ありとあらゆる武器を手に、あたかも敵を睨むかのように、怒りに満ちた眼差しで神を見上げる。人間は「神を木っ端微塵に引き裂く」願望を抑えられない様子である。何とも当惑する事であるが、人間と神が、なぜそのような与(くみ)することの出来ない敵同士となったのであろうか。最も愛しい神と人間の間に、何か遺恨があるのだろうか。神の業は人間にとって全く無益なのだろうか。神の業は人間に有害であろうか。神が人間の包囲を破り、第三の天に戻り、人間を再び地下牢に放り込むことを深く怖れつつ、人間は神を睨み続ける。人間は神を警戒してやきもきし、人間のもとにいる神に対して「機関銃」の銃口を向けて、ほふくしている。それはあたかも、神が少しでも身動きすると、人間は神の身体や着衣など、全てを残らず一掃するかのようである。神と人間の関係は、もはや修復不可能である。神は人間にとって理解不可能である一方、人間は故意に目を閉ざしてふざけまわり、わたしの存在を見ることを全く望まず、わたしの裁きに対して一切容赦しない。ゆえに、人間が予期していないときに、わたしは静かに漂うように去り、もはや誰が上で誰が下かということを人間と比較しなくなるであろう。人間はあらゆる「動物」のうち最も卑しく、わたしは人間に気をかけることを、もはや望まない。わたしが自分の恵み全体を、平穏に住む所へと全て取り戻して久しい。人間は極めて不従順であるのだから、何を理由として、わたしの貴い恵みをそれ以上享受するというのか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(10)」より

20.神の働きは潤沢かつ豊富だが、人間の入りは極めて乏しい。人間と神の合同による「企て」のほぼ全てが神の働きであり、人間の入りの程度については、ほぼ見るべきところが無い。人間は極めて貧しく盲目であり、「古代の武器」を手にとって今日の神に対する自らの力を測るほどである。こうした「古代の猿人ども」は、辛うじて直立歩行できるが、自分の「裸」のからだを全く恥じない。そうした者に神の働きを評価する資格が、どうしてあろうか。そうした四肢のある多くの猿人たちの眼は怒りに満ち、石で作った武器を手に、神と争い、この世がまだ見たことの無い猿人の競技、すなわち終わりの日における猿人と神の格闘を始めようとしており、それは全土に知られるであろう。こうした半ば直立歩行している古代の猿人の多くが、さらには、自己満足であふれている。そうした者は顔を覆う毛はもつれ、殺意に満ちて前肢を挙げる。彼らは完全には現代の人類まで進化していないので、直立するときと、這うときがあり、額は汗のしずくで覆われ、露のようであり、やる気がありありと見て取れる。自分たちの仲間である原始の古代猿人が太くのろまな四肢の全てを用いて立ち、辛うじて攻撃をかわせるが反撃する力は無いのを見て、彼らは自己抑制するのが精一杯である。瞬く間に、何が起きたか悟る間もなく、リング上の「英雄」が四肢を空に向けて仰向けに地に倒れる。長年にわたり間違いでありながらも地面に立っていた四肢は、突然逆さまに投げ出され、猿人はもはや反抗する意欲をもたない。それ以後、最古の猿人は地上から一掃される。それは極めて「悲惨」である。この古代の猿人は、そうして突然の終焉を迎えた。なぜ素晴らしい人間の世界からそんなに急いで去る必要があったのであろうか。なぜ仲間と次の段階の戦略を話し合わなかったのであろうか。神との力比べの秘訣をあとに遺すことなくこの世に別れを告げるとは、何と哀れなことだろうか。それほどまで年老いた猿人が「古代文化と芸術」を子孫に伝えることなく、一言ささやくこともなく死んでこの世を去るとは、何と迂闊なことであろうか。近親者を傍に呼び集めて自らの愛を伝える暇も無く、石版に言葉を残さず、天日を見分けず、筆舌に尽くしがたい自らの苦難をひと言も述べることも無かった。息を引き取るにあたり、瀕死の自らの身体の近くに子孫を呼び寄せて、空に向かって永遠に伸びる木の枝のように硬くなった四肢を上向きに伸ばして目を閉じる前に「リングに上がって神に挑んではならない」と告げなかった。これは悲劇の臨終を迎えたように見えるであろう……突然、リングの下からうなるような笑い声がして、半分だけ直立している猿人のひとりの気が変になっている。その者は、古い猿人より進化している鹿などの野性の動物を狩るための「石の棍棒」を手に、周到な計画を胸に秘め[17]、怒りに満ちてリングに飛び乗る。その者は何か手柄を立てたかのようである。石の棍棒の「威力」を用い、「三分間」何とか直立する。この第三の「脚」の「威力」は、何と強いことであろうか。その大柄で愚鈍で不器用な半直立猿人は、棍棒に支えられて三分間直立した。その尊敬すべき[18]老いた猿人が至って傲慢なのももっともである。確かに、その古代の石器は「評判どおり」である。柄も刃も鋒もあるが、刃に艶が無いことが唯一の欠点である。なんと嘆かわしいことか。その古代の「小さな英雄」を見ると、リングの上に立って、リングの下にいる者どもが無能で劣等な者であり、自分は勇敢な英雄であるかのように侮蔑するような目つきで見ている。その英雄は、リングの前に居る者どもを、心の中で密かに忌み嫌っている。「この国は問題に苛まれているのは私達各人のせいである。あなたがたは何故、逃げ出そうとするのか。この国が崩壊に瀕していると知りつつ、血みどろの戦いには参加しないというのか。この国は崩壊に瀕している。あなたがたが、自分の楽しみは後回しにして、まず最初に憂慮しないのは何故か。あなたがたは、よくもこの国が崩壊し、国民が退廃してゆくのを傍観していることが出来るものだ。あなたがたは、国が征服されるという恥辱を受けることを望んでいるのか。あなたがたは全くの役立たずだ。」その者がこう考えると、リングの前で暴動が起こり、その者の眼は一層激昂し、今にも火を放ちそう[19]である。その者は、戦いの前に神が失敗するのを待ち兼ねており、神を死に追いやって大いに人々の心を喜ばせたくてたまらない。その者は、石器が名声を得るに値するかもしれないが、神に対抗することは決して出来ないことを知らない。その者が自分を防御し、倒れて再び立ち上がる間も無く、その者は両眼の視力を失って前後によろめく。その者は、自分の祖先の上に倒れて二度と立ち上がらない。その者は古代の猿人にしがみつき、叫ばなくなり、反抗する意志を全て失って自らが劣っていることを認める。これら二匹の哀れな猿人は、どちらもリングの前で死ぬ。人類の祖先は、今まで生き長らえたのに、義の太陽が昇る日に何も知らずに死んだというのは、何と不幸なことであろうか。それほど大いなる恵みを逃すとは、猿人たちは数千年にわたり待ち続けてきたのに、祝福を受けた日にそれを陰府へ持ち込み魔王とともに「享受する」ことになるとは、何と愚かであろうか。その祝福は生きている者の世界に残し、自分の息子や娘と共に享受するために取っておいてはどうであろうか。まさに自業自得である。多少の地位や名声、そして虚栄のために、殺されるという不幸を受け、慌てて地獄の門を真っ先に開き、その息子となろうとするとは、なんという無駄であろうか。そうした代償は全くの無駄である。それほど「国民的精神に満ち」ている年老いた祖先が、そこまで「自分に厳しく、他人に寛容」となって、自らを地獄に閉じ込め、無能で劣った者を地獄の外に閉め出すとは、何と哀れな事だろうか。このような「民衆の代表者」がどこにいるであろうか。「子孫の幸福」と「未来世代の平和な生活」のため、神の介入を許さず、それゆえ自らの命に全く配慮しない。無制限に自らを「国の大義」に捧げ、黙って陰府へ入る。そのような愛国心が何処にあるというのか。神と戦い、死も流血も怖れず、ましてや明日を憂うことなど無い。そうした者は戦地へ向かうのみである。彼らが自らの「献身の精神」と引き換えに得るのは、永遠の後悔と、地獄で永遠に燃え続ける炎に焼き尽くされることだけであるというのは、何と哀れなことであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(10)」より

21.わたしは多くの日と夜を人間と共に過ごし、人間と共にこの世に住んで来たが、人間に対する要求を追加したことは一切無い。わたしはただ前進するよう人間を導くだけであり、人間を導く以外には何もせず、人間の運命のために采配の働きを間断なく行い続ける。これまでに誰が天の父の旨を理解したことがあるだろうか。誰が天と地をめぐって来たというのか。わたしは人間の「晩年」を人間と共に過ごすことを、もはや望まない。なぜなら、人間はひどく老いぼれて、何も理解せず、わたしが催した祝宴で他のすべてから離れて暴食する事しか知らず、それ以外のことを考え無いからである。人間は極度にけちであり、人間の騒がしさや陰鬱さ、危険は大きすぎるので、わたしは終わりの日に、勝利の貴い果実を分かち合うことを望まない。人間には、人間自らが作り出した豊かな祝福を享受させるがよい。なぜなら、人間はわたしを歓迎しないからである。何故わたしが人間を無理矢理微笑ませる必要があるというのか。世界各地で温もりが欠如し、世界各地の風景には春の兆しが全くない。人間は水生生物のように全く温もりが無く、死体のようであり、血管を通う血でさえも氷のように凍てついていて、心を冷やすからである。温もりは、どこにあるのか。人間は故無く神を十字架に架け、その後全く懸念を感じることが無かった。後悔する者は居らず、こうした残忍な暴君は、依然として人の子を再び「生け捕りにする」[20]こと、そして銃殺刑執行隊の前に立たせ、自らの心の憎しみに終止符を打とうと謀っている。わたしがこのような危険な地に居残ることが、何に役立つというのか。わたしが居残るとすれば、わたしが人間にもたらすのは、対立と暴力、そして終わりなき問題だけであろう。なぜなら、わたしが平和をもたらしたことは無く、わたしがもたらしたのは戦乱だけだからである。人間の終わりの日は戦乱に満ち、人間の終着点は暴力と対立の中で崩れ去るに違い無い。わたしは戦乱の「喜び」を「分かち合う」ことを望まず、人間の流血や犠牲に立ち会わない。なぜなら、人間による拒絶のためわたしは「落胆」させられ、わたしは人間の戦いを見守る気になら無いからである。人間は思う存分に戦えばよい。わたしは休み、眠ることを望む。人間の終わりの日は、悪魔に立ち会わせるのがよい。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(10)」より

22.あなたがたは追求において、個人的な観念や希望や未来を多くもちすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望やとりとめもない欲望を取り扱うためのものである。望み、地位に対する欲望[e]、そして観念はどれも典型的なサタン的な性質の表れである。これらが人々の心に存在する理由は、サタンの毒が常に人間の考えを腐敗させており、サタンの誘惑を人間が決して払いのけることができないことにある。このような人々は罪のただ中で生活しているが、それを罪と考えず、「私達は神を信じているので、神は私達に祝福を与え、万事私達のために適切に手配してくださるに違いない。私達は神を信じているので、他人よりも優れているに違いない。私達は他の誰よりも地位と将来性が高いはずである。私達は神を信じているので、神は私達に無限の祝福を与えるであろう。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないであろう」と考える。人間の心は、長年にわたり人間が生存のために依存してきた思想により腐敗させられ、その結果人間は不誠実で臆病で卑劣になった。人間は意志の力や決意が欠落しているだけでなく、貪欲で傲慢で強情になった。人間には、克己的決意が完全に欠乏している上、闇の影響による呪縛を払いのける少しの勇気もない。人間の考えと生活は腐敗し、神への信仰に対する人間の考え方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人間が自分の神への信仰に対する考え方について語る時、それはただ聞くに堪えない。人間は皆、臆病で無能で卑劣であるが、また傷付きやすい。人間は闇の勢力に対して嫌悪感を覚えず、光と真理への愛を感じず、それらを排除しようと最大の努力をする。あなたがたの現在における考え方や見方は、このようなものではないだろうか。「私は神を信じているのだから、ひたすら神の祝福を浴び、地位は決して下がらず、不信心者の地位よりも高いと保証されているはずだ」このような見方が、あなたがたの心の中に抱かれているのは、一、二年間のことではなく、もう長年にわたってである。あなたがたの取引的な考え方はあまりに発達している。あなたがたは現在の段階まで達したが、依然として地位を捨て去れないままであり、いつか地位がなくなり、名前が汚されるのではないかという強い恐怖を感じて、地位について調べ、観察しようと日々奮闘している。人間は、安楽に対する欲望を決して捨て去らなかった。

『言葉は肉において現れる』の「なぜ引き立て役になる覚悟がないのか」より

23.人々の神への信仰とは、神が自分たちに適切な終着点と、日の下にあるあらゆる恵みを与え、神を彼らの召使にし、神に自分たちとの平和で友好的な関係を維持させ、両者の間に決して対立がないことを求めることである。すなわち、ちょうど聖書に「わたしはあなたたちのすべての祈りに耳をかたむける。」と記されているように、神への信仰において、彼らは神に彼らのすべての要求を満たすことを約束し、祈り求めるものは何でも彼らに与えることを要求する。彼らは神に誰も裁かないように、誰も取り扱わないよう要求する。彼らにとって神はいつも優しい救い主イエスであり、いつでもどこでも人々と良い関係を保つ方であるからだ。彼らの信仰とはこうである。彼らはいつも臆面もなく神にものを求め、彼らが反抗的であろうと従順であろうと、神はなんでも見境なく彼らに授ける。人々は絶えず「負債」の返済を神から要求し、神はまったく抵抗せずに「その負債を返済」しなければならず、神が彼らから何かを得ようと得まいと、神は二倍「返済」しなければならない。神はただ彼らのなすがままである。神は思いのままに人々を指揮することはできない。ましてや彼らの許可なしに、神の望むままに長年隠されてきた神の英知や義の性質を人々に現すことはできない。彼らはただ自分の罪を神に告白し、神はただそれを赦免するだけである。神は彼らの罪にうんざりすることもできずに、こういうことが永久に続くのである。聖書に、神は人に仕えられるためではなく、人に仕えるために来たとか、神は人の召使になるために来たなどと記されているのをいいことに、彼らはただ神をこき使い、神はただそれに従うのである。あなたたちはいつもこのように信じてきたのではないか。神から何も得られないとあなたたちは逃げたがる。そして何か理解できないことがあると、ひどく憤慨しあらゆる種類の悪態を浴びせかけさえする。あなたたちは神自身が英知と奇跡を充分に表現することをどうしても許そうとせず、その代わりにただ一時的な気楽さと心地よさを楽しむことを望む。今に至るまで、神への信仰におけるあなたたちの態度は相変わらずの古い見解である。神があなたたちにほんの少しでも威厳を見せれば、あなたたちは不愉快になる。あなたたちはいま自分の背丈がどのぐらいなのか正確にわかっているのだろうか。あなたたちの古い見解は実の所変化していないのに、自分たちは皆神に忠実だなどと考えてはいけない。何も自分に降りかからない時は、あなたはすべてが順調に進んでいると考え、神を絶頂まで愛する。しかし、ちょっと些細なことが起こると黄泉の国にまで落ちる。これではあなたが神に忠実だと言えるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人の救いに関する神の心を理解するべきである」より

24.わたしの行いは海岸の砂の粒子より数が多く、わたしの知恵はソロモンの全ての子孫の知恵より偉大であるのに、人はわたしのことをただの医師や人の名もない教師としてしか思っていない。何人の人たちが、わたしに癒やされたいためにわたしを信じるだろうか。何人の人たちが、わたしの力で彼らの体から汚れた霊を追い出して欲しいためにわたしを信じるだろうか。そして何人の人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが、平和にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためだけにわたしを信じるだろうか。何人の人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいるだろうか。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人が本来持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人がわたしに癒してくれるように頼んだとき、わたしは彼を気にかけることもせず嫌悪を感じた。人は代わりに汚れた医術や魔術という方法を求めてわたしから離れた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、人は形跡も残さず消えた。だから、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは信仰について何を知っているか」より

25.現在、あなたがたが理解するようになったことは、完全にされなかった歴史上のどんな人間よりも高度である。それが試練に関する認識であれ、神への信仰に関する認識であれ、いずれにせよそれは、神を信じるどんな者の認識よりも高度である。あなたがたが理解しているのは、環境の試練を受ける前に知るようになったことであるが、あなたがたの実際の背丈は、それらのこととは全く相容れないものである。あなたがたが知っていることは、あなたがたが実践することよりも高度である。あなたがたは、神を信じる人々は神を愛すべきであり、祝福のためでなく、神の旨を満たすためだけに努力すべきであると言うが、あなたがたの生活の中に現れているものは、それとは程遠く、ひどく汚れている。ほとんどの人々が、平穏やその他の利益のために、神を信じている。あなたは、自分の利益にならなければ、神を信じず、神の恵みを受けられないのであれば不機嫌になる。これがどうしてあなたのほんとうの背丈でありえようか。家族の中で避けられない出来事(子どもが病気になる、夫が入院する、農作物が不作に見舞われる、家族の者たちからの迫害等)については、あなたは、日常生活で度々起こるこうした出来事を乗り越えることすら出来ない。このような事が起きると、あなたは当惑してどうして良いか分からなくなる――そして殆どの場合、神について不満の言葉をこぼす。神の言葉に騙された。神の業が自分を混乱させたのだと、不平を言う。あなたがたは、そのような思いを抱いたことはないだろうか。このようなことが自分に起こるのは希であると思っているだろうか。あなたがたは、こうした出来事のただ中で生活し日々過ごしている。あなたがたは、神への信仰を成功させることや、神の旨を満たす方法については、少しも考えることが無い。あなたがたの真の背丈は小さすぎる。それは、ひよこよりも小さい。自分の夫の事業で損失が出ると神について不平を言い、神の守りが無い状況に遭遇すると、やはり神について不平を言い、ひよこが一羽死んだり、囲いの中の年老いた牛が病を煩った時でさえ、不平を言い、自分の息子が家族を設ける時が来たが、十分な資金が無い場合にも、不平を言う。また、教会の働き人があなたの家で数回食事したが、教会から払戻しが無い場合や、誰も自分に野菜を送って来ない時も、不平を言う。あなたの腹は不満ではち切れそうだ。また、そのために時折集会へ行かなかったり、神の言葉を食すことも飲むこともなく、長期間にわたって否定的になるのが目に見えている。あなたに今日起こる出来事は一つとしてあなたの先行きや運命と関係が無い。これらの事は、あなたが神を信じていなかった時も起こったものだが、今日はそれらの責任を神に負わせ、神が自分を排除したと主張する。あなたの神への信仰はどうなったのか。あなたは本当に自らのいのちを神に捧げたのか。仮に、あなたがたがヨブと同様の試練を受けたとしたら、今日、神に付き従うあなたがたのうち、揺るぎなく立つことが出来る者は一人もおらず、あなたがたはみな倒れるであろう。また、あなたがたとヨブの間にはまったく雲泥の差がある。今日あなたがたの資産の半分が差し押さえられたならば、あなたがたは神の存在さえ否定するであろう。自分の息子や娘が自分から奪い去られたならば、不当だと叫びながら町中を走り回るであろう。あなたが生活に行き詰まったならば、神に文句をぶつけようとするであろう。わたしが最初にあなたに対して多くの言葉を話して脅したのは何故かと尋ねようとするであろう。このようなとき、あなたがたはどんなことでもするであろう。このことは、あなたがたがまだ真の洞察も真の霊的背丈も得ていないことを示している。したがって、あなたがたの中の試練は大きすぎる。なぜなら、あなたがたが理解している事は多過ぎるぐらいだが、ほんとうに知っている事は、自分が認識している事の、数千分の一にも満たないからである。単に理解や知識を得ることに留まっていてはならない。どの程度を実行に移すことが出来るか、自分の労苦の汗がどれほど聖霊による啓きと照らしに結実しているか、どれだけ多くの実践で自分の決意を現実化したのかを、あなたがたは見るがよい。あなたは、自分の背丈と実践を真剣に考える必要がある。あなたの神への信仰においては、誰かのために単に上辺だけの身振りをしようとしてはならない――あなたが獲得できるか如何は、あなた自身の追求により決まるのである。

『言葉は肉において現れる』の「実践(3)」より

26.あなたは、神への自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいは僅かの苦難も招かないことを望む。あなたは、常にそれらの価値の無いものを追い求め、いのちの価値を全く認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値も無い。あなたは豚のように生きている──あなたと、豚と犬の間には、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者たちは皆、獣ではなかろうか。霊のない死んだ者たちは皆、生ける屍ではなかろうか。あなた方の間で語られた言葉は、一体いくつあるであろうか。あなた方の間で行われた働きは、ほんの少しだろうか。わたしは、あなた方の間で、どれくらい与えたであろうか。それなのに、あなたがそれを得ていないのは何故だろうか。あなたが不平を言うべきことは、何かあるだろうか。あなたが肉を愛しすぎているので、何も得られなかったということではなかろうか。また、その原因は、あなたの考えが突飛すぎるからではなかろうか。また、それはあなたが愚か過ぎるからではないか。あなたは、これらの祝福を得られない場合、自分が救われなかったことを、神のせいにするのか。あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平和を得ることができるようになること──つまり、自分の子が病気にかからないこと、自分の夫が良い職に就くこと、自分の息子が良い妻を見つけること、自分の娘がしっかりした夫を見つけること、自分の牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、家族の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地の良い住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真理の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者たちのひとりであろうか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と違わないのではないか。豚は人生も清められることも追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真理の道を与えたが、あなたは未だにそれを得ていない。あなたは手ぶらである。あなたは、このような生活、つまり豚の生活を続けることを望んでいるのであろうか。このような人々が生きていることの意味は何であろうか。あなたの生活は軽蔑すべきものであり、恥ずべきものであり、あなたはけがれと放蕩の中で暮らし、何も目指す目標がない。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるのであろうか。あなたは、このような経験を続けるならば、得る物は何もないのではないか。真理の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた個人の追求によって決まる。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

27.終着点に関する話になると必ず、あなたがたはその話を特に真剣に受け止める。あなたがたは全員この話題について特に敏感である。好ましい終着点に辿り着くために、神にひれ伏すのを切望する者もいる。あなたがたが切望する気持ちはわたしにも理解でき、それを言い表すことは不要である。あなたがたは自分の肉が災いに陥ることは絶対に望まず、それにも増して長く続く罰を将来受けることを避けたいと考えている。もっと自由に快適に暮らすことを望むのみである。ゆえに、終着点の話になると、あなたがたは殊更心配になり、十分注意しないと神の怒りを買い、然るべき報いを受けるかもしれないと大いに恐れる。あなたがたは自分の終着点のためであれば、躊躇なく妥協してきた。また、あなたがたのうちかつて不従順で軽薄であった多くの者が、突然極めて優しく素直になり、その素直さは寒気がする程である。いずれにせよ、あなたがたは皆素直な心を備えており、終始わたしに対し、非難であれ虚偽であれ、信心であれ、隠しだて無く心を開いてきた。全体的に、あなたがたはわたしに対しそうした心の奥にある重要な物事を極めて腹蔵なく「告白」してきた。無論、わたしもそうした物事を回避したことは無い。なぜなら、それはわたしにとって普通の事となったからである。あなたがたは心労の末に神の承認を得るよりも、むしろ終着点のために火の海に飛び込むほうが良いと考えているであろう。わたしがあなたがたに対して独断的すぎるということではなく、あなたがたの信心はわたしの行うあらゆることに直面するには特に乏しいということである。わたしの言う事を理解できないかも知れないので、簡単に説明する。あなたがたが必要としているのは、真理といのちではなく、自分の行動原理でも無く、いわんやわたしが骨折って行う働きでは無い。あなたがたが必要としているのは、富や地位、家族、結婚など、すべて肉にあって持っている物事である。あなたがたはわたしの言葉や働きを完全に軽視しているので、その信仰をひとことで概括できるが、それは「半信半疑」である。あなたがたは自分が完全に専心している物事を得るためなら何も厭うことは無い。しかし、神への信仰に関する事のために全てを捨てることが無いことをわたしは知った。むしろ、あなたがたは単に比較的に忠誠で真剣なだけである。最大限に真剣な心の無い者は神への信仰における失敗であると言うのはこのためである。よく考えなさい。あなたがたのうちに失敗が多くあるであろうか。

神への信仰における成功は人々の独自の行動により達成されるということを知らなければならない。人々が成功せずに失敗する場合、それもまた本人の行動が原因であり、他の要素の影響が原因ではない。神を信じるよりも困難で苦労を伴う事柄を成し遂げるためなら、あなたがたは何でもするであろうし、その事柄を極めて真剣に扱うであろうと思う。過ちをおかすことさえも嫌うであろう。これらはあなたがた全員が人生に注ぎ込んできた絶え間ない努力である。あなたがたは自分の家族を欺くことが無いであろう状況において、肉にあるわたしを欺くことすら出来る。これがあなたがたの一貫した振る舞いであり、人生に適用する原則である。あなたがたはわたしを欺くため、また美しく幸福な終着点を得るために、依然として偽りの姿を創っているのではないのか。あなたがたの信心と真剣さは一時的なものでしかないことに気付いている。あなたがたの志とあなたがたが支払う代償は今のためだけであり、そのときのためではないのではないのか。あなたがたは美しい終着点を確保するために、最後に一つの努力をするだけでいたいと思っている。あなたがたの目的は取り引きをすることのみであり、真理に対する負債を抱えないようにすることではなく、とりわけわたしが支払った代償を償還するためではない。つまり、自分の聡明さを用いる用意があるだけで、戦う覚悟はない。それがあなたがたの心からの願いではなかろうか。あなたがたは自分自身を隠してはならず、またそれ以上に、自分の終着点のために食事や睡眠が出来なくなるほど頭脳を苦しめてはならない。最後にはあなたがたの終着点は既に定められているというのが本当ではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

28.毎日、すべての人の行いや思いは神に注目されており、それらは同時に、彼ら自身の明日への準備となる。これはすべての生ける者が歩かなければならない道であり、わたしがすべての者に予め定めた道である。誰もこれを逃れることはできないし、誰にも例外はない。わたしは数えきれないほどの言葉を語り、さらには、測り知れないほどの量の働きを行ってきた。わたしは一人ひとりが、その生来の本性、およびそれがどのように進化するかに応じて、その人が為すべき全てのことを自然に遂行している様子を毎日見ている。知らないうちに、多くの人たちはすでに、あらゆる種類の人たちが露わにされるためにわたしが定めた「正しい軌道」に乗った。わたしはすでにあらゆる種類の人間を違った環境に置いており、その場所で、一人一人が生まれ持った特性を表現し続けている。彼らを縛る者は誰もいないし、彼らを誘惑する者もいない。彼らはすべてにおいて自由であり、彼らが表現するものは自然に出てくる。彼らを抑制するものが唯一あるが、それはわたしの言葉である。だからわたしの言葉をしぶしぶ読む者も幾人かいるが、彼らの最後が死で終わらないようにそうしているだけであり、決してわたしの言葉を実践しているわけではない。その一方、一部の人たちは、彼らを導き彼らに施すわたしの言葉がなくては日々耐え難いことに気づき、自然にわたしの言葉をいつも手放さないでいる。時が経つにつれて、彼らはやっと人生の奥義、人類の終着点、人間であることの価値を発見する。人類はわたしの言葉の前では、このような有様でしかない。そしてわたしは、ただ事を自然の成り行きに任せる。わたしは、人がわたしの言葉を彼らの生存の基盤として生きるように強制するようなことは一切しない。だから、良心や自分の存在価値のない人たちは、静かに事の成り行きを観察し、大胆にわたしの言葉を投げ捨て、自分の好きなようにする。彼らは真理や、わたしから出るすべてのものにうんざりする。さらに彼らはわたしの家にいることにもうんざりする。このような人たちは、たとえ奉仕をしていても、彼らの終着点のために、またわたしの懲罰を逃れるために、わたしの家に一時的に留まる。しかし、彼らの意図は決して変わることはないし、彼らの行動も変わることはない。このことは彼らの、祝福への願望を助長し、また、ただ一度で神の国に入り、そこに永久に留まることができ、さらに永久の天の国に入る欲求までも助長する。わたしの日がいつかすぐに来るのを彼らが待ち焦がれれば焦がれるほど、ますます彼らは、真理が彼らの道の障害物となり、躓きの石となっていると感じる。彼らは、真理を追求することなく、裁きも刑罰も受け入れることなく、とりわけ、わたしの家に従属的に留まり、わたしの命令どおりに従うことなどなく、ただ天の国の祝福を永久に楽しむために、神の国に足を踏み入れるのを待ち切れないでいる。これらの人々がわたしの家に入るのは、真理を求める心を満たすためでも、わたしの経営の下で共に働くためでもない。彼らの目的は、ただ次の時代に滅ぼされない人たちの一人になることだけである。よって、彼らの心は、真理とは何か、あるいは真理をどのように受け入れるかなど全く知っていない。これが、そのような人たちが真理を実践したことがまったくなく、自らがどれだけ極端なほどひどく堕落しているかを悟ることがないにもかかわらず、最後まで「しもべ」としてわたしの家に留まった理由である。彼らは「忍耐強く」わたしの日が来るのを待ち、わたしの働きの仕方に翻弄されても疲れを知らない。彼らがどんなに努力しても、彼らがどんな代価を支払っても、彼らが真理のために苦しみ、わたしのために犠牲を払ったことなど誰ひとり認めないだろう。心の中では彼らは、わたしによって古い時代が終わる日を見るのを待ちきれず、さらに、彼らはわたしの力と権威がいかに偉大であるかを知りたいと切に願っている。彼らが決して急いで行おうとしなかったこと、それは、自らを変え、真理を追求することである。彼らは、わたしがうんざりしているものを愛し、わたしが愛しているものにうんざりしている。彼らはわたしが憎むものを慕い、同時に、わたしの忌み嫌うものを失うことを恐れている。彼らはこの邪悪な世に生きているが、それを一度も憎んだことはなく、この世がわたしによって滅ぼされるのを心底恐れている。彼らが持っている目的は矛盾している。彼らはわたしが忌み嫌うこの世を喜んでいるが、また同時に、わたしがこの世をまもなく滅ぼすことを切望している。こうして、彼らは、真理の道から外れてしまう前に、破滅の災難を免れ、次の時代の主人へと変えられるというのである。これは彼らが真理を愛さず、わたしから出る全てのものにうんざりしているからである。おそらく、彼らは祝福を失わないように、しばらくは「従順なる人たち」になるだろうが、彼らの「祝福切望意識」や滅びと燃える火の池に入ることへの恐怖が覆い隠されることは決してないだろう。わたしの日が近づくにつれ、彼らの願望は着実に強くなる。そして災いが大きければ大きいほど、わたしを喜ばせるにはどうしたらよいのか、彼らが長い間切望してきた祝福を失うのを避けるためには何をどうしたらよいのかが分からなくなり、彼らはますます無力になる。一旦わたしの手がその働きを始めると、このような人たちは先駆者として仕えるために熱心に行動する。彼らはわたしが彼らに気づかないことを深く恐れ、軍隊の前線に突入することだけを考える。彼らは自分たちの行為や行動が全く真理に沿っておらず、わたしの計画をただ妨害し、干渉するだけであるということを知らないで、自分が正しいと思うことを言ったり行ったりする。彼らは大いに努力するかもしれないし、困難に耐えようとする意志や意図は真実かもしれないが、彼らがすることすべてがわたしとは関係がない。なぜなら、わたしは彼らの行いが良い心がけから出ているのを一度も見たことはないし、ましてや彼らがわたしの祭壇に何か置くのを見たことは一度もないからだ。これが、彼らが長年わたしの前でしてきた行いである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より

29.神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいるため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのである。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちのいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目当て、つまり祝福を受けることしかない。そこで、その目的に関わりあること以外に関心を向けることは怠惰すぎてしないのである。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものの方向を変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力がそのような献身を続けさせるのだろうか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しする信仰心だろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人々がそれほどまでに神に捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、甘受と欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

30.多くの人は、自分がいずれ辿りつく終着点のため、あるいは一時的に楽しみにあずかるために神を信じている。神による取り扱いを経験したことのない者にとって、神を信じることは、天国に行くためであり、また見返りを得るためなのであって、完全にされるためでも、被造物としての本分を尽くすためでもない。つまり、ほとんどの人は、その責任を果たしたり本分を完了したりするために神を信じているのではないのである。意味ある人生を送るために神を信じている人はほんのわずかで、「人は生きている以上、神を愛すべきである。なぜなら、そうすることがごく当然で正しいことであり、またそれが人の天職である」と信じる人もめったにない。このように、人はそれぞれ追い求める目標が違うが、その追求の目的と裏に在る動機はどれも似通っており、しかも、それらの人々は崇拝の対象が大体同じなのである。過去数千年に渡り、多くの信徒が死に、そして多くの信徒が死んで甦った。神を追い求めているのは一人二人というものではなく、千人二千人でさえ足りないが、そのような人々のほとんどは、個人の前途や未来の輝かしい希望のために神を求めているのであり、キリストに身を捧げている者はごく少数である。熱心な信徒でさえ、そのほとんどが自らの罠に陥って死に至っており、成功を収めた者の数はさらにほんのわずかである。そして、今日に至るまで、人が失敗してきた原因、あるいは成功できた秘訣は彼らに知られていない。キリストを熱心に追い求める人たちでさえ、未だに突然の識見を得たわけでもなく、これらの奥義の真相を突き止めたわけでもない。彼らはただ本当に知らないのである。彼らは、涙ぐましい努力をして求めるが、その歩む道は、成功へのそれではなく、既に先駆者が失敗した道なのである。そう考えると、どのように求めたにせよ、それは闇へ向かう道を歩いているということではないだろうか。結局彼らが得るのは苦い果実だけではないのか。過去に成功した者をまねる人が結果的に幸運を得るのかそれとも不運に見舞われるのかということすら予想困難であるのに、過去に失敗してきた人の跡をたどる人の勝算がどれほどあるだろう。失敗する可能性は更に大きいのではないか。彼らの歩む道に何の価値があるというのか。時間の無駄ではないのか。人がその追求に成功しても失敗しても、要するにいずれの結果でもその原因があるのだ。そして成功するか失敗するか、それは思うままに自由に追い求めることでは決まらないのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

31.大抵の人の神への信仰の実質は、宗教的な信仰である。彼らは神を愛することができず、ロボットのように神に付き従うことしかできない。心から神を求め、慕い求めることができないのだ。黙って神に付き従っているに過ぎない。多くの人は神を信じているが、神を愛している者はほとんどいない。人々が神を「畏れる」のは、災難を恐れているから、あるいは、神が偉大な存在だから「崇めて」いる―しかし、その畏れや尊崇には愛も、心からの思慕もない。人々は信仰体験において真理のごく小さな部分、あるいは、些細な奥義を求めることでしかない。大抵の人は単に従うだけで、混乱の中ではとにかく恵みさえ受け取れれば良いという姿勢でいる。そうした人は真理を求めない。また、神の祝福を受けるために、誠に神に従おうとはしない。人々の神への信仰生活は無意味だ。無価値で、人々はただ自身の利益と目的だけ追求する。神を愛するために神を信じているのではなく、祝福を受けるために信じているのだ。多くの人は好きなように振る舞い、心の赴くままに行動し、決して神のためも、自分のしていることが神の心に適うかどうかも考えない。そうした人は、神を愛することができないのは言うまでもなく、真の信仰を持つことさえ出来ない。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

32.人類の神への信仰の最も悲しい点は、神の働きの只中に人間が自分なりの経営を行い、神の経営そのものには無関心なことである。人間の最大の失敗は、神に服従し神を礼拝することを求めると同時に、人間は自分なりの理想の終着点を打ち立て、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき、憎しみに満ちた哀れな存在かを理解したとしても、自分の理想や希望を簡単に捨て去ることのできる人がどれだけいるだろうか。また、誰が途中で足を止め、自分の事だけを考えるのをやめられるだろうか。神と密接に協力して、その経営を完成する者を神は必要としている。神に服従するために、神の経営の働きに身も心も捧げる人を神は必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者は必要ではない。まして、わずかばかりを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者は、無用である。わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を神は嫌う。神の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話したがる心無い人々を神は憎む。それにもまして、神が人類を救うために行なう働きがもたらす機会を通じて利を得ようとする人々を、神は嫌う。そうした人は、神が経営の働きで成し遂げ、獲得しようとしていることにはまったく無関心だからである。そういう人々は、神の働きがもたらす機会を利用していかに祝福を受けるかということだけに気をもんでいる。彼らは、神の心には無関心で、自分たちの未来と運命のことだけに没頭している。神の経営の働きを嫌い、神がどのように人類を救うかとか、神の心についてはまるで関心がない人々は皆、神の経営(救い)の働きと無関係に好き勝手をしている。彼らの行動は、神によって記憶されず、認められず、まして神に喜ばれることなどない。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

33.人々は人生を経験するにつれ、「自分は神のために家族も仕事も諦めた。神は私に何を与えてくれただろうか。神に与えられたものを全て計算して確かめてみなければ。最近何か祝福を与えられただろうか。私はずっと多くを捧げ、ずっと走り回り、多くの犠牲を払ってきた。神はその報いとして何か約束を下さっただろうか。神は私の良い行いを覚えているだろうか。私の最後はどうなるだろう。神から祝福を受けるだろうか。」誰もが常に、頻繁にそのようなことを心の中で計算し、彼らの動機付けであり、大志であり、取り引きがかかっている神に要求する。つまり、人間は心の中で常に神を試し、常に神の計画を考え出し、常に神に対して自分を弁護し、神からの言葉を絞り出し、自分の欲しいものを神が与えるかどうかを見ている。神を求める一方で、人は神を神として扱っていない。人間は常に神と取り引きし、絶えず神に要求し、1与えられればその次は10与えられるように神に強要する。人間は神と取引しようと試みながら、同時に神と口論もし、中には試練が降りかかったり、ある種の状況に置かれたりすると、気弱になり、すべきことに対して受け身になって怠けるようになり、神に対して不満だらけになる人さえいる。神を信じ始めた時から、人間は神を豊穣の角やスイス・アーミーナイフのように豊かで万能であり、自分は神にとって最も価値ある者と見なすのである。あたかも神に祝福させて言葉を与えされることが当然の権利であり義務であり、神には自分を守り、労り、施す責任があるかのように。信仰を持つ大半の人々にとって「神を信じる」とは基本的にそのような理解でしかなく、それが神を信じることに対する最も深い考えなのである。人間の本質からその主観的な追求に至るまで、神に対する畏れなど全くない。人が神を信じる目的は神を礼拝することとは何ら関係ないのである。つまり、人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは考えもしないし理解もしないのである。このような状況を考えれば、人間の実体がどのようなものかは明らかである。その本質とは何か。人間の心は邪悪で、不実で偽りに満ち、公正と義を愛するものでも善を愛するものでもなく、卑劣で貪欲なものである。人間は神に対して完全に心を閉ざしている。神に心を捧げてなどいない。神が人の心を本当に見たことなどなく、人間に礼拝されたことなどない。どれ程大きな犠牲を払っても、どれ程人間に対して働いても、どれ程人間に与えても、人間の目が開かれることはなく、全く無関心である。人間が神に心を明け渡したことなどなく、自分の心を考え、自分で決断するばかりである。これは、人間が神を畏れ悪を避ける道に従うことを望まず、神の主権と采配に従うことを望まず、神を神として礼拝することも望まないということの現れである。それが今日の人間の状態である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

34.人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に従う限り、神は最も正しいから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に従ったならば、神は人間を見捨てられるであろうか。わたしは全ての人間に対して公平であり、全ての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な条件があるので、全ての人間は、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどれほど幅広いか、立派であるかということには気を留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。あなたに真理が欠けており、あなたがわたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意や配慮なく、ただついて来るだけであれば、わたしはその時あなたの悪のためにあなたを打ち倒し、罰するであろう。その時、あなたは何と言うであろうか。あなたは、神は義ではないと言えるであろうか。現在、あなたがわたしが語った言葉に従うならば、あなたはわたしが認めるような人である。あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神のために奔り回ることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。またあなたはこう言う。「とにかく私は神が義であると信じている。私は神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたのだ。――神は必ず私のことを覚えているはずだ。」神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

35.神の働きにはいつも新しい進展があるので、新しい働きもあり、当然すたれた古い働きも出てくる。この古い働きと新しい働きは矛盾するものではなく、補い合うもので、そのひとつひとつが過去から続いている。新しい働きがあるから、もちろん、古い働きは取り除かれなければならない。たとえば、長年実践されてきた慣習や習慣的に用いられてきた言い習わしは、人の長年の経験や教えと相まって、人に様々な観念を形成した。人によるそのような観念の形成にとってさらに好都合なことに、古代から長年伝えられた理論の広まりに結びついて、神が自分の顔や本来の性質をまだ完全には人に現していないということである。人が神を信じる過程において、様々な観念の影響により、神に対する様々な観念的な認識は形成され、進歩し続けてきたと言える。結果として多くの宗教家が神の敵となった。人々の宗教的な観念が強ければ強いほど、彼らは神に反対し、神の敵となってしまう。神の働きはいつも新しく古いものは何ひとつなく、規則を形成することも一切なく、むしろ、継続的により大きい範囲で変化したり小さい範囲で変化したりして、新しくなっている。この働きは神自身の本来の性質の表れである。それはまた神の働きの本来の原則でもあり、神が自身の経営を成し遂げる手段の一つである。もし神がこの方法で働かないとしたら、人は変わらず、神を知ることもできず、サタンが打ち負かされることもないだろう。よって、彼の働きのうちに一貫性のないように見える変化は継続して起きるが、それは実は周期的なものである。しかしながら、人が神を信じる方法は全く異なり、古い、親しみのある教えや制度にしがみつき、より古いものを心地よく感じる。石のように頑固で愚かな人の考えが、どのようにして神の計り知れない多くの新しい働きと言葉を受け入れることができようか。人はいつも新しく古いことが一切ない神を嫌悪する。人が好むのは、白髪で不動のアンティーク化した古い神のみだ。つまり、神と人はそれぞれ好みが異なるため、人は神の敵となった。このような不一致は、神が新しい働きをして六千年近く経った今日も多く存在する。故に、もう救済策もないのだ。それは人の頑なさが原因かもしれないし、神の行政命令が人間には不可侵であるが故かもしれない。だが神自身はまた完成されていない経営の働きを隣に誰もいないかのように進め、これらの宗教家たちは未だに、古くさい本や書物にすがっている。これらの不一致により、神と人とが敵対し、和解不可能にさえなっているが、神はそのような不一致は存在しないかのように、目を留めることはない。しかし、人は自分の信念にしがみつき、それらを手放すことはない。それでもひとつはっきりとしていることは、人が自分自身の姿勢を変えることがなくても、神の足はいつも動いており、神はいつも状況によって自分の姿勢を変え、最終的に戦わずして打ち負かされるのは人間である。一方、神は敗北した全ての敵にとっての最大の敵であり、打ち負かされた人々およびまだ打ち負かされていない人々の勝者でもある。誰が神と競って勝利できるのか。人の観念の多くは神の働きが発端となるため、神から来るように思える。しかし、だからと言って神は人を赦すことはしないし、神の働きから外れた「神のため」の多くの製品を次々製造する人を褒めそやすことももちろんしない。かえって、彼は人の観念や古くて敬虔な信仰にとても嫌気がさしていて、これらの観念が生まれた日さえも無視する。人の観念は人により広まり、それらの源は人の考えや心であり、神からのものではなく、サタンによるものであるため、彼はこれらの観念を自分の働きによるものだとは全く認めない。神の意図は、自身の働きを、古いものや死んだものではなく、常に新しく生き生きとしたものとし、人の拠りどころとなるものが時代や期間に合わせて変化し、永遠に続くものであったり不変のものであったりしないことである。彼は人を生かし新たにさせる神であり、人を死に至らせ古くする悪魔ではないからである。あなたがたはまだこれが分からないか。あなたは心を閉ざしているので、神について持っている観念を手放すことができない。神の働きが理不尽だからでも、人間の願望と合致していないからでもなく、無論神がいつも自分の義務に怠慢だからなどでもない。あなたが自分自身の観念を手放すことができないのは、あなたが不従順すぎるからであり、そしてあなたに神の被造物らしさが少しもないからで、神があなたに対してことを難しくしているのではない。全てはあなたに起因していて、神とは関係ない。全ての苦しみと不幸は人が引き起こしている。神の意思はいつも良いもので、彼はあなたに自らの観念を作り出してほしいと願ってはいない。あなたに時代とともに変わり、新しくなってほしいと願っている。それでもあなたは大切なことを見極めることができず、いつも調査か分析をしている。神があなたに対してことを難しくしているのではなく、あなたが神への畏れを持っておらず、あなたがあまりに不従順なだけだ。ごく小さな被造物が、神に与えられたもののほんの一部を取り、それを使って神を攻撃しようとする。これは人の不従順ではないのか。人は神の前で自分の考えを表明する資格などはなく、価値のない、悪臭を伴う腐った格言を思いつくままに持ち出して来る資格などないと言える。カビの生えたような観念など尚更持ち出せない。それらはもっと価値のないことではないか。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる」より

36.神の働きは前進を続けており、その目的が変ることはないが、神の働きの実行手段はたえず変化しており、それによって神に従う人々も変化していく。神の働きが増えれば増えるほど、人はさらに徹底的に神を知るようになり、それに応じて人の性質も神の働きとともに変化する。しかし、神の働きがたえず変化しているため、聖霊の働きを知らない人々や真理を知らない愚かな人々は神の敵対者になる。神の働きは人が抱く観念とは決して一致しない。神の働きはいつも新しく、決して古くないからである。神は古い働きを決して繰り返さず、むしろこれまでなされたことのない仕事をたゆみなく行う。神はその働きを繰り返すことはなく、人は例外なく神の過去の働きに基づいて神の今日の働きを判断するので、神が新しい時代の働きの各段階を実行するのは困難を極める。人はあまりにも多くの妨げとなる物を突きつける。人の考えは偏狭すぎる。誰も神の働きを知らないのに、誰もがその働きを定義する。神から離れたら、人はいのちも真理も神の祝福も失ってしまうのに、人はいのちも真理も受け入れず、ましてや神が人類に与えるさらに大きな祝福も受け入れない。すべての人は神を得たいと願っているのに、神の働きのいかなる変化も許容することができない。神の新しい働きを受け入れない人々は、神の働きは不変であり、永久に停滞したままであると信じている。彼らの信条によれば、神から永遠の救いを得るためには律法を守ってさえいれば十分であり、悔い改め、罪を告白しさえすれば、神の心は永遠に満たされる。彼らは、律法の下の神、人間のために十字架につけられた神だけが神のはずであると考えている。また、神は聖書を超えるべきではないし、超えることはできないとも考えている。まさにこうした考えが彼らを古い律法に堅く縛りつけ、厳しい規定に束縛し続けてきた。さらに多くの人々が、神の新しい働きがどのようなものでも、預言による裏付けがなければならず、その働きの各段階で、本心で神に従うすべての者には啓示が示されなければならない、そうでなければそれは神の働きではありえないと信じている。人が神を知るようになるのはただでさえ決して容易なことではない。さらに、人の愚かな心、ならびにうぬぼれという反抗的な本性を考慮すると、人が神の新しい働きを受け入れるのはなおさらむずかしい。人は神の新しい働きを入念に調べることも、謙遜して受け入れることもない。むしろ、軽蔑的な態度をとり、神の啓示と導きを待つ。これは神に反抗し、敵対する人の行動ではないだろうか。そのような人たちがどうして神の承認を得ることができようか。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

37.神がまるで変わりのない粘土像であるかのように、あなたがたが神を評価し、描写するために既成概念を用いるなら、また、あなたがたが神を聖書の中だけに限定してしまい、神を働きの限定範囲内に閉じ込めるなら、これはあなたがたが神を罪に定めていることを証明することになる。彼らの心の中には、旧約時代のユダヤ人たちが神を偶像の型に投じ、まるで神はメシヤとしか呼ばれないかのように、またメシヤと呼ばれる者だけが神であり、彼らはまるで神は(生のない)粘土像であるかのように、神に仕え礼拝し、彼らは当時のイエスを十字架に釘づけし、死を宣告し、罪のないイエスを罪に定めたのである。神は何の罪も犯さなかったのに、人は神を容赦なく、断固たる決心をもって神に死を宣告した。そうして、イエスは十字架にかけられた。人はあたかも神の経営を見通してきたように、また神が行う全てのことは人の手中にあるかのように、人は常に神は変わらないと信じ、聖書によって神を定義している。人々は極端にばかげており、極度に傲慢であり、仰々しい雄弁の才を持っている。神に対するあなたの認識がどんなに大きいとしても、あなたは神を知らないし、あなたほど神に反抗している人たちは誰もおらず、またあなたは神を罪に定めているとわたしはやはり言おう。というのは、あなたは神の働きに従い、神によって完全にされる道を歩くことは全く不可能だからである。神はなぜ決して人の行動に満足しないのだろうか。なぜなら、人は神を知らず、人は多くの観念を持っており、現実に応じる代わりに、神に対する人の認識は画一的だからである。このように、今日神は地上に来て、再び人間によって十字架に釘づけされた。

『言葉は肉において現れる』の「悪人は罰せられなければならない」より

38.各期間において、神は新たな働きを開始し、各期間において、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような一つの時代のみに該当する真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きに遅れずついて行くことは決してできず、聖霊の働きを得ることは永遠にできないであろう。神がどのように働くかに関わらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、遅れずについて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊により排除されることなどあろうか。神が何を為すかに関わらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、何も疑わずに聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰されることなどあろうか。神の働きは一度も停止したことがなく、神の歩みは止まったことがない。また神の経営の働きが完成する前、神は常に忙しく、休んだことがない。しかし、人間は異なる。人間は、ほんの少し聖霊の働きを得ただけで、あたかもそれが決して変わらないかのように扱う。人間は、わずかに知識を得ただけで、より新しい神の働きの足取りに進んでついて行こうとしない。人間は、わずかに神の働きを見ただけで、すぐに神を一種の木の人形のように決めつけ、神は常に人間の見る形のままであり、過去も未来も常にそのような形であると信じる。人間は、表面的な知識だけを得て、誇らしくなって我を忘れ、全く存在しない神の性質や在り方をみだりに主張する。そして聖霊の働きの一つの段階について確信するあまり、神の新たな働きを宣べ伝えるのがどのような人であれ、人間はそれを受け入れない。彼らは聖霊の新たな働きを受け入れることができない人々である。彼らは保守的過ぎて、新しい事を受け入れられない。これらの人々は神を信じてはいるが、神を拒んでいる者たちである。人間は、イスラエルの民が「ヤーウェのみを信じてイエスを信じなかった」のは誤っていると信じるが、大多数の人々が「ヤーウェのみを信じてイエスを拒絶する」という役、そして「メシアの再来を切望するがイエスというメシアには反対する」という役を演じている。それならば、人間が、聖霊の働きの一つの段階を受け入れた後も、依然としてサタンの支配の下で生活し、依然として神の祝福を受けていないことに何の不思議も無い。これは、人間の反抗心の結果ではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

39.人間の最大の問題は、見ることも触れることもできないもの、途方もなく神秘的で驚異的なもの、人間の想像を超えた、普通の人間には手の届かないものだけを愛する点だ。それが非現実的であればあるほど、人間はそれを分析し、他のものには目もくれずそれを追い求め、それを手に入れようとする。それらが非現実的であればあるほど、ますます綿密に調べ、分析し、それらについて、自分なりのこと細かな考えを紡ぎだす。それに対して、物事が現実的であればあるほど、人間はそれらを素っ気なく扱う。ただそれらを見下し、蔑みさえする。これはまさに、あなた方がわたしのしている現実的な働きに対してとっている態度ではないのか。物事が現実的であればあるほど、あなた方は、ますます偏見を持つ。あなた方は、そういうものを調べる手間もかけず、ただ無視する。そうした現実的なありのままの条件を見下して、最も現実的である神について数多くの観念をもち、神の現実性と正常を受け入れることができない。そのようにして漠然としたものの中で信じているのではないか。あなた方は、過去の漠然とした神については揺るぎない信念を持っているが、今日の真の神には何の興味も示さない。それは、過去の神と現在の神とが二つの別の時代に属するからではないのか。それはまた、過去の神が天の崇高なる神であるのに対して、現在の神は地上のちっぽけな人間であるからではないのか。そのうえ、人間の崇める神は人間が頭で作り出した神であるのに対して、今日の神は地上で生まれた現実の肉だからではないか。結局のところ、人間が神を探求しないのは、今日の神は余りにも現実的であるからではないのか。何故なら、今日の神が人間に求めているのは、まさに、人間が最もしたくないこと、最も恥と思うことだからである。これは、人間にとって困難なことではないか。これは、人間の古傷をさらすことではないのか。このように、現実を追い求めない者は、受肉した神の敵、反キリストとなる。これが明白な事実ではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

40.わたしは、長年にわたり、神を信仰する大勢の人々と出会って来た。こうした信仰はどのような形態であろうか。神が空気のような存在であるかのように、神を信仰する人々がいる。こうした人々は、神の存在に関する疑問に答えられない。なぜなら、こうした人々は神の存在や不在を感じる事も意識することも出来ず、ましてや神を明確に理解することなど出来ないからである。こうした人々は、無意識のうちに、神は存在しないと考えている。その一方で、神が人間であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、自分達に出来ないことが神にも出来ず、神は自分達と同様に考えているに違いない、と考えている。こうした者による神の定義は「目に見えず、触れることの出来ない人間」である。そのほかにも、神が操り人形であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、神には感情が無く、神は彫像であると考えている。問題が発生した場合、神はどのような姿勢も取らず、観点も意見もなく、人間の思うままである。人間は、単に自分達の好き勝手に信仰しているだけである。こうした者が神を偉大な存在とした場合、神は偉大であり、小さな存在とした場合、神は小さいものとなる。人間が罪を犯して神の慈しみや寛容、愛が必要な時、神は慈しみを与えなくてはならない。こうした人々は、自分の心で神を考え出し、その神に自分達の要求や、願望を全て満たさせる。時や場所、そうした人々が何をしているかを問わず、そうした人々は、神の扱いや神への信仰に、そうした妄想を適用する。自分が神の性質を侵害しても、神は自分達を救うことが出来ると考えている者さえいる。これは、そうした人々が、神の愛は無限であり、神の性質が義であり、人間がどれほど神の怒りを買ったとしても、神はそれを一切覚えていることが無い。人間の過失や侵害、不従順は、その者の性質の一時的な現れであるので、神は人々に対して機会を与え、寛容かつ辛抱強い。神は、そうした人々を今まで同様、愛するであろう。したがって、依然として救いの希望は大いにあると考えていることが原因である。事実、ある者が神をどのように信仰しているかを問わず、その者が真理を追い求めていない限り、神はその者に否定的な姿勢を取る。それは、あなたが神を信仰している時に、神の言葉が記された本を大切にし、毎日読んで研究しているものの、真の神を無視し、空気や普通の人間、あるいは操り人形のように扱っているからである。わたしがこう説明するのは何故であろうか。なぜなら、わたしの知るところによると、あなたが問題に遭遇しているか、難しい状況に遭遇しているかを問わず、あなたの無意識の領域にあり、あなたの内部で形成された物事には、神の言葉や真理の追求と関連する物事が一切無いからである。あなたが理解しているのは、自分が考えている物事や自分の観点のみであり、そうした自分の考えや観点を神に対して強制しているのである。そうした物事が神の観点とされ、遵守すべき基準とされている。このような状態を続行すると、時間と共に、あなたは神から徐々に遠ざかって行く。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

41.人々がわたしと共に集う時、わたしの心は喜びで満たされる。直ちにわたしは手の中にある恩恵を人々に授け、人々がわたしと集うことができるようにする。わたしに従わない敵ではなく、わたしと共に生きる友人になるようにするのだ。したがって、わたしも人に心から接する。わたしの働きの中では人をハイレベルな組織のメンバーと見なしているので、わたしは人に対してことさら注意を払う。なぜなら人はいつもわたしの働きの目的だからである。わたしは人々がわたしを尊敬する気持ちになるように人々の心の中にわたしの場所を定着させた――しかし彼らはなぜわたしがこうするのかまったく知らず、ただ待つだけなのだ。人々の心の中にはわたしが定着させた場所があるのに、彼らはわたしがそこに住むことを求めない。それどころか、彼らは「聖なる神」が心の中に突然やってくるのを待っている。わたしの姿はあまりにもみすぼらしいので、人々の求めに合わず、したがってわたしは彼らから「排除」される。彼らが望んでいるのは高貴で強力な「わたしの姿」だから――わたしが世の中に来た時、人々にはそうは見えなかったので、彼らは遠くを見つめ、心に抱く神を待ち続けた。わたしが彼らの前に現れた時、彼らは大衆の前でわたしを拒絶した。わたしは片隅に立ち、人の下す「判決」を待ち、人々がこの欠陥だらけの「製作品」であるわたしを結局どう扱うか確かめるために見守っているしかなかった。わたしは人々の傷跡は見ないで、傷のない部分を見るようにし、このことで満足する。人々の目には、わたしは空から降りてきた「小さな星」にすぎず、天国で一番小さい者であり、今日地上に来たのは神に任命されたからなのだ。その結果、人々は神とわたしを一つのものと認めるのをひどく恐れ、「わたし」と「神」という言葉により多くの解釈を思いついた。わたしの姿には「神」の風貌がまったくないので、人々は皆わたしが神の家族ではなく、使用人であると信じて、これは神の姿ではないと言う。おそらく神を見たことのある人々がいるだろう――しかしわたしは地上では見識に欠けているから、神はわたしに「現れる」ことがなかったというのだ。おそらく、わたしには「信仰」があまりにも足りないために、人々の目にはわたしがみすぼらしい者と見えるのだろう。人々は、本当の神なら創造主なのできっと人の言語に堪能だろうと想像する。しかし、事実はまさに反対である。わたしは人の言語が下手なだけでなく、人の「欠点」を「補う」ことさえできない時がある。その結果、わたしは少し「罪悪感」を感じる。人々の「要求」通りに行動しないで、ただ材料を用意し、彼らに「欠けているもの」に応じて働くだけだからである。わたしは人に多くを要求しないが、人々はその反対であると思っている。したがって、彼らの「謙虚さ」があらゆる動きに明らかにされる。彼らはわたしが迷うのを深く恐れ、わたしが山の奥深くにある古代の森にさまよい入るのではという恐怖に怯え、いつもわたしの前を歩き、わたしのために道案内をしようとする。その結果、人々はわたしが地下牢の中に歩いて行ってしまうのを深く恐れ、いつもわたしを前方へと導いている。わたしは人々の「信仰」にはやや「好ましい印象」を持っている。彼らは食べ物や睡眠のことを考えず、わたしのために精を出して働き、わたしに対する労働のため昼も夜も眠らず、白髪にさえなるほどであった――これは彼らの信仰が全世界の人々を「超越」し、各時代を通して使徒達や預言者に「まさっている」ことを十分に示している。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第三十二章」より

42.肉となった神を信じない人、すなわち、目に見える神の働きと言葉を信じない人、目に見える神を信じないで目に見えない天の神を崇拝する人はみな、心の中に神を持たない人である。彼らは、神に従わず、反抗する人たちである。このような人は真理を欠いているのは言うまでもなく、人間性と理知をも欠いている。このような人たちにとっては、目に見える神、触れることができる神はもっと信頼できず、目に見えない神、触れることのできない神こそが、いちばん信頼でき、またいちばん彼らの心を喜ばせるのである。彼らが求めるものは現実的な真理ではなく、いのちの本質でもなく、ましてや神の考えなどではない。むしろ彼らは、刺激を求めている。もっとも彼らの欲望を満たすことができるものならどんなものであっても、間違いなくそれが、彼らが信じ、追い求めるものである。彼らはただ自分の欲望を満たすためだけに神を信じるのであって、真理を求めるためではない。このような人たちはみな悪を行う人たちではないのか。彼らはひどく自信過剰で、天の神が彼らのような「善良な人々」を滅ぼすとは信じない。むしろ神は彼らを生き残らせ、しかも手厚く報いてくれると思っている。なぜなら、彼らは神のために多くの事をし、神のためにずいぶん「忠誠心」を尽くしたからである。もし彼らが目に見える神を追い求めるとなった場合、彼らの欲望が満たされないとなれば、彼らは直ちに神に反撃するか、烈火のごとく怒るはずである。このような人たちはみな、自分の欲望を満たそうとする卑劣な人間である。彼らは、真理を追い求めることにおいて誠実な人々ではない。このような人々は、キリストに従ういわゆる悪者たちである。真理を求めないこのような人たちは真理を信じることはできない。彼らは、人類の未来の結末については、なおさら感じることができない。なぜなら、彼らは目に見える神の働きと言葉をひとつも信じず、人類の未来の終着点をも信じることができないからである。したがって、彼らは見える神につき従っていても、やはり悪を働いて真理を求めず、わたしの要求する真理を実践することもない。自分が滅ぼされることを信じない人たちは逆に、まさに滅ぼされる対象そのものである。彼らはみな、自分がとても賢明であると信じていて、自分が真理を実行する人であると信じている。彼らは自分の悪行を真理と考え、それを大事にする。このような悪者はみなひどく自信過剰である。彼らは真理は教義であるとし、自分の悪行を真理と見なす。最後に彼らは自分の蒔いた種から刈り取る。自信過剰で傲慢であればあるほど、真理を得ることができず、天の神を信じれば信じるほど、神に逆らう。このような人たちはみな罰せられる人々である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

43.人の目には、神の言葉は毎日使う道具のようで、大切になどしないのである。従って、人々は神の言葉を実践できない。真理を知ってはいるが実践しない惨めで不幸な存在となってしまった。だからこうした人の過ちだけでも、一定期間神が嫌悪感を抱くのに十分である。人々が神の言葉を心に留めないと何度も言うのはこのためである。それでも彼らの観念故に、次のように考える。「私たちは日々神の言葉を研究し、分析しているのに、私たちが神の言葉を心に留めないなどと言われるのはどういう訳だろう。これは不当ではないだろうか。」あなたのために少し細かく分析しよう。――これを聞くと人々は赤面するであろう。神の言葉を読む彼らは、まるでよだれを垂らしながら飼い主の言葉を聞くパグのように頷き、右脚を後方へ引きながらおじぎをする。それだから、この時人々は自分達が相応しくない者と感じ、涙が頬をつたい、悔い改めて再出発したいかのようである。だが暫くするとまた、羊のようにおどおどした態度は失せて貪欲な狼のようになる。神の言葉は脇に置いてしまい、己のこと最優先、神のことは最後にしている彼らにとって、神の言葉を実践することなどできないのである。何か事が起こると、彼らはひじを外側に向けて曲げる。[f]これは身内に対する裏切りである。神が「生存をわたしに頼りながら、『反対側に走っているのだ。』」と言うのも不思議ではない。神の言葉には偽りはなく、全て真実で、少しの誇張もないが、それでも控えめに言われているようであることが、このことでやっと分かる。人の霊的背丈があまりに低く、神の言葉に耐えられないからである。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第三十六章」より

44.多くの人々が神の言葉を日々読み、場合によってはその中にある代表的な言葉を、最も貴重な財産として注意深く暗記しようとしたり、その上随所で神の言葉を説教して言葉によって他の者たちに糧を与え、援助している。彼らは、これを行うことは神を証しし、神の言葉について証しすることであり、また神の道に従うことであると考えている。さらに彼らは、これを行うことは神の言葉に従って生きることであり、神の言葉を実生活に活かすことであり、こうすることにより、神の称賛を得て、救われ、全き者とされることだと考えているのだ。しかし、彼らは、神の言葉を説教する一方で、実践では神の言葉に従うことも、神の言葉により啓示されているものに自らを一致させようとすることも決してない。彼らはむしろ策略により他人からの敬服と信頼を得て、自らの経営の中に入り、神の栄光をかすめ取るために神の言葉を用いている。彼らは、神の言葉を広めることにより得られる機会を利用して、神の働きと称賛を得ることをいたずらに願っている。彼らは神の言葉を説教する過程で神の称賛を得ることもできないだけでなく、神の言葉を証しする過程で従うべき道を見いだすことも出来ず、神の言葉により他の人に与えたり助けたりする過程で自分自身に与えることも助けることもなく、これら全てを行う過程で神を知ることも、真に神を畏れる心に目覚めることもできないまま、いったい何年が過ぎ去ったことだろうか。しかし、それとは反対に彼らの神に関する誤解は深くなる一方であり、神に対する不信感は深刻になるばかりであり、神に関する想像は大げさになるばかりである。彼らは、神の言葉に関する理論に満たされ、方向付けられて、まるで水を得た魚のようであり、何の苦もなく自分の能力を発揮しているようであり、あたかも自分の人生の目的や使命を見出し、新しい命を得て救われたかのようであり、まるでリサイタルのように神の言葉を饒舌に語りながら真理に辿り着き、神の意図を把握し、神を知る道を見出し、また神の言葉を説教する過程の中で、あたかも神と顔を合わせることがしばしばあるかのようである。また彼らは、しばしば「感極まって」涙を流し、しばしば神の言葉の中にある「神」に導かれ、神の真摯な配慮と優しい思いやりに絶えず掴まっているように見え、同時に、人間に対する神の救いと経営を理解し、神の本質を知るにいたり、神の義なる性質を理解しているかのように見える。こうした土台に基づき、彼らは、神の存在をより固く信じ、神の誉れ高い地位について熟知し、また神の荘厳さ、超越性をより深く感じているように考えられる。彼らは、神の言葉に関する表面的な認識に耽溺し、信仰が成長し、苦難に耐える決意が強まり、神に関する認識が深まったかのように見えはする。彼らは、神の言葉を実際に体験するまでは、神に関する彼らの認識や、神に関する考えは、すべて彼らの勝手な想像と推測から生まれたものであることに、殆ど気付かない。彼らの信仰は神のいかなる試練にも耐えず、彼らの言うところの霊性と背丈は、神の試練にも検証にも耐えることは全くできない。彼らの決意は砂上の楼閣以外の何物でもなく、彼らのいわゆる神に関する認識もまた、自分の空想による虚構にすぎない。事実、これらの、いわば神の言葉に対して多くの努力をした人々は、真の信仰、真の服従、真の思いやり、あるいは神に関する真の認識とは何かを悟ることが全くない。彼らは、理論、想像、知識、賜物、伝統、迷信、そして人類の道徳的価値観さえも利用して、それらを神への信仰や神を求めるための「投資資産」や「武器」に変え、また神への信仰や神を求めるための基盤にさえ変えてしまう。また同時に、彼らはこうした資産と武器を利用して、神を知るための、また神による検証、試練、刑罰、裁きなどに対処し取り組むための魔法の護符へと作り変える。最終的に、彼らが蓄えたものはいまだに、宗教的暗示や封建的迷信と、ロマンチックで異様で謎めいたことの全てが深く染みわたった、神に関する結論でしかなく、彼らが神に関して知り神を定義する方法は、天上や、天の神のみを信じる人々と同じ型に嵌まったものである。一方、神の実在性、神の本質、神の性質、神の所有するもの、神の存在そのものなど――真の神自身に関する事すべて――は、彼らの認識では把握出来ないことであり、全く無関係で、正反対な事である。こうして、彼らは、神の言葉による供給や栄養により生活しているにもかかわらず、神を畏れ、悪を避ける道を、本当の意味ではたどることが出来ない。こうしたことの真因は、彼らが神と親しくなることが決してなく、神と真に接することも、交わることもなく、したがって彼らにとって、神との相互理解を達成することは不可能であり、神を真に信仰し、神を求め、礼拝することを、自らのうちに目覚めることができないことである。彼らがこのように神の言葉を見なし、神をこのように見なすこと――この見方や態度により、彼らは努力の末に何も手に入れることが出来ず、また神を畏れ、悪を避ける道へと進むことが永遠に出来ないように運命付けられているのである。彼らが目指す目標と彼らが進んでいる方向は、彼らが永遠に神の敵であり、永遠に救いを得られないことを示している。

『言葉は肉において現れる』の「神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道」より

45.わたしはあなたがたの生活の中に現れるが、あなたがたはそれを知らず、わたしにも気づかない。わたしの語る言葉の半分はあなたがたに対する裁きであり、さらにその半分しか効果がないのであなたがたは「注意散漫」になる。残りの半分は人生についてあなたがたに教え、どのように振る舞えばよいか教えるものであるが、それはまるであなたがたにとって存在しないかのようであり、あなたがたはそれに対しあたかも遊んでいる子どもの言葉を聞くようにヴェールをかけたような笑みを浮かべ、そして何もしないのだ。こういったことについてあなたがたは心を砕いたこともない。あなたがたはわたしの行動を好奇心から眺めてきたので、今やあなたがたは暗闇に落ち、光を見ることができない。──暗闇で哀れっぽく泣いているのである。わたしがあなたがたに望むのは従順、あなたがたの無条件の従順、そしてさらにわたしが要求するのは、あなたがたがわたしが語ることすべてに確信を持つことである。あなたがたはわたしの言葉と働きに対して無視するような態度を取るべきではないし、特にわたしの言葉に向き合うのに選り好みすべきでなく、ましてや常に無関心でいるべきではないことは言うまでもない。わたしの働きはあなたがたの只中で行われ、わたしはわたしの言葉の多くをあなたがたに与えてきた。しかしもしあなたがたがわたしに対してこのようにごまかそうとするのであれば、わたしは、あなたがたが獲得もせず実行にも移していないものを異邦人の家族に渡してしまうだけだ。被造物の中でわたしの手にないものなどあるだろうか。あなたがたのほとんどは「熟した老年」であり、わたしのこの種の働きを受け入れる精力がないのである。あなたがたはハンハオ鳥[g]のように、なんとかやり過ごしているだけであり、わたしの言葉を真剣に扱ったことはない。若者は極めて虚栄心が強くひどく甘やかされており、わたしの働きにはさらに注意を払わない。彼らはわたしの晩餐会のご馳走を楽しむ気分ではないのだ。まるで鳥かごから出て、遠くへ飛び立っていった小さな鳥のようだ。このような若者あるいは老人がどのようにわたしにとって有益になるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「若者と老人に向けた言葉」より

46.神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が讃美しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。こうした人々は、何年にわたり神に付き従って来たかによらず、自分の考えや観点は全く変わらない。こうした人々は、信仰を持たない人々のようであり、信者以外の原則や作法に従って物事を対処し、信者以外の人々が持つ生存の規則や信念を遵守している。こうした人々は神の言葉を自分自身のいのちであることを決して認めず、神の言葉が真理であると決して信じず、神の救いを受ける意志が一切無く、神を自らの神として認めたことが一度も無い。こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる霊的な必需品のように扱っているため、神の性質や本質を理解しようとすることが有意義だと考えていない。真の神に該当する物事全てが、こうした人々に無縁であると言えるであろう。こうした人々は無関心であり、わざわざ注意を払うことも無い。これは、こうした者の心の深部において、神は視認できず、触れる事も出来ず、したがって神は存在しない、と常に激しい口調で伝える声があるからである。こうした人々は、そのような神を理解しようとすることは、努力に値しない、自分自身を騙そうとしているだけだと考えている。こうした人々は言葉で神を認めるのみで、本気で証しをすることは無い。また、こうした人々は実践的には何もせず、自分達が利口だと考えている。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

47.あなたがたが長年にわたってわたしの前でしてきた行動から、これまで一度も受け取ったことのない答えが得られた。そして、このような答えに対する問いは、「真理と真の神の前における人の態度とは、どのようなものだろうか」である。わたしが人間に注いできた努力は、人間を愛することがわたしの本質であることを証明している。また、わたしの前で人が為す行動や行為は、真理を憎みわたしに反抗する人間の本質を証明した。わたしはわたしに従ってきたすべての人たちのことをいかなる時にも気にかけているが、わたしに従う人たちはわたしの言葉をいつも受け入れようとしない。彼らはわたしから出る提案でさえ、ひとつとして受け取ることがまったくできない。これがわたしをもっとも悲しませることである。たとえわたしの態度が誠実で、わたしの言葉がやさしくても、誰もわたしを理解することなどないし、その上、誰もわたしを受け入れることができない。みな、わたしにまかされた仕事を、自分本来の意図に従って行っている。彼らはわたしの意図を求めることもなく、ましてや、わたしの要望など尋ねることなどない。みなわたしに逆らっているのに、彼らは依然としてわたしに忠実に仕えていると主張している。多くの人たちは、自分が受け入れられない真理、あるいは自分が実践できない真理は、真理ではないと信じている。そのような人たちにとって、わたしの真理は否定され、投げ捨てられるものになっている。それと同時に、わたしは言葉においてのみ神として人間に認められる者となったが、また真理でも、道でも、いのちでもない部外者とみなされるようになった。次の真実を知るものは一人もいない:わたしの言葉は永遠に変わらない真理である。わたしは人間にとっては、いのちを与える者であり、人類の唯一の案内人である。わたしの言葉の価値と意味は、人間に認められているかどうか、受け入れられているかどうかではなく、言葉自体の本質によって決定される。たとえこの地上でだれひとりわたしの言葉を受け入れることができないとしても、わたしの言葉の価値と、どれだけそれが人類の助けになるかは、人には計り知れない。だから、わたしの言葉に逆らい、反論し、あるいはわたしの言葉を全く軽蔑している人たちに直面するとき、わたしの変わらない姿勢はこうである。時と事実をわたしの証人とし、わたしの言葉が確かに真理であり、道であり、いのちであることを示させよう。そして、わたしが言ったことはすべて正しく、人はそれを備えるべきであり、さらに人はそれを受け入れるべきであることを、時と事実に実証させよう。わたしはわたしに従うすべての者たちに次の事実を知らせる。わたしの言葉を完全に受け入れることができない人たち、わたしの言葉を実践できない人たち、わたしの言葉に目的を見いだせない人たち、そしてわたしの言葉によって救いを受け入れることができない人たちは、わたしの言葉によって罪に定められた人たちであり、さらには、わたしの救いを失った人たちである。そして、わたしのむちは決して彼らから離れることはない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より

48.あなたがたは何年もの間わたしに従ってきたものの、忠実の片鱗さえわたしに示したことはない。そのかわりに、自分が愛する人々や自分の気に入るものの周りを回ってきただけである。そうするあまりに、いつでも、どこへ行こうとも、あなたがたはこれらを心に留め、見捨てたことはない。あなたがたが自分の愛する何か一つのことに夢中になったり情熱的になったりするのは、必ずわたしに従っているときや、さらにはわたしの言葉に耳と傾けているときである。それゆえ、わたしがあなたがたに求める忠実を、あなたがたは「愛玩物」に忠実であり、それを可愛がるために代わりに使っている、とわたしは言うのである。あなたがたはわたしのために犠牲の一つや二つ払うかもしれないが、それはあなたがたのすべてを表しておらず、あなたがたが本当に忠実なのはわたしであると示してもいない。あなたがたは自分が情熱を感じる活動に関わる。息子や娘に忠実な人もいれば、夫や妻、富や仕事、上司、地位、女性に忠実な人もいる。自分が忠実なことについては、うんざり感じたり悩まされたりすることは決してない。それどころか、そういうものをさらに大量に、さらに高品質のものを所有することにますます熱心になり、決してあきらめない。わたしとわたしの言葉は、あなたがたの情熱の対象の後ろに押しやられる。それらは最下位に置かれるより他にない。この最下位をこれから発見し、忠実になるもののために空けておく人さえいる。そのような人の心の中にわたしの形跡がわずかでもあったことはない。わたしがあなたがたに求め過ぎるとか、あなたがたを不当に非難しているとか、あなたがたは思うかもしれない。しかし、あなたがたが家族と幸せなひと時を過ごしているあいだに、わたしに忠実であったことは一度としてなかったという事実を少しでも考えたことがあるだろうか。そのような時にあなたがたは痛みを感じないのか。心が喜びで満たされるとき、労働の報いを受けるとき、あなたがたは自分には十分な真理が備わっていないことに失望しないのか。わたしの承認を受けられなかったためにあなたがたはいつ泣いたのか。あなたがたは自分の息子や娘のために知恵を絞り苦心するが、それでも満足しない。彼らのためにはまだ十分に勤勉ではない、彼らのためにできる限りのことをしていないと信じる。しかし、わたしに対しては、あなたがたはいつも怠惰で不注意であった。わたしはあなたがたの記憶の中にいるだけで、心の中に長く留まることはない。わたしの献身と努力をあなたがたが感じることは永遠になく、その価値を深く感じたことはない。少しのあいだ考えるだけで、それで十分だと信じる。このような「忠実」はわたしが長いあいだ切望してきたものではなく、長いあいだ嫌悪してきたものである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは誰に忠実なのか」より

49.もし今わたしがあなたがたの前に現金を置いて選択の自由を与えたならば、そしてその選択を理由にあなたがたを非難しないならば、あなたがたのほとんどが現金を選び、真理を放棄するであろう。あなたがたのうち優秀な人は現金をあきらめ、しぶしぶ真理を選ぶ。一方、中間の人は片手に現金をつかみ、もう片手に真理をつかむ。あなたがたの真の姿がこのように明らかになるのではないだろうか。真理と自分の忠実の対象のどちらかを選ぶとき、あなたがたは皆このような選択をするが、あなたがたの態度に変化はない。そうではないだろうか。あなたがたのうちには正誤のあいだを揺れ動いた人が多くいるのではないのか。是と非、黒と白の対立において、家族か神か、子どもか神か、平和か分裂か、富か貧困か、地位か平凡か、支持されるか捨てられるかなどについて、あなたがたは自分がした選択を知っているはずである。平和な家族と崩壊した家族では、あなたがたは前者を選び、躊躇することなくそのように選択した。富と本分でも、岸辺に戻る[h]覚悟さえないまま再び前者を選んだ。贅沢と貧困でも前者を選んだ。息子、娘、妻、夫とわたしでも前者を選び、観念と真理でも再び前者を選んだ。あなたがたのありとあらゆる邪悪な行いに直面して、わたしはあなたがたへの信頼を完全に失った。あなたがたの心が柔和にされることにここまで抵抗するとは、わたしはただただ驚く。長年の献身と努力は明らかにあなたがたの放棄と絶望しかわたしにもたらさなかった。しかし、あなたがたへのわたしの希望は日ごとに大きくなる。わたしの日はすべての人の面前に完全にさらけ出されているからである。それなのに、あなたがたは暗く邪悪なものを求めることに固執し、それを手離すことを拒否する。それでは、あなたがたの行く末はどうなるのか。あなたがたはこのことを注意深く考えたことがあるのか。もし再び選択するように言われたならば、あなたがたはどういう立場を取るのか。やはり前者を選ぶのか。やはりあなたがたは失望と痛ましい悲しみをわたしにもたらすのであろうか。やはりあなたがたの心には温かさはわずかしかないのであろうか。やはりあなたがたはわたしの心を慰めるために何をするべきか気づかないのであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは誰に忠実なのか」より

50.わたしは、人間が忙しい時には身を隠し、暇な時に姿を現す。人間は、わたしをあらゆる願いをかなえる全能の神であると思っている。だから、たいていは、わたしを知りたいという欲求からではなく、神の助けを求めてわたしの前に来る。病の苦しみにあるとき、人間はわたしにあわてて助けを求める。困難な状態にあるとき、人間は、自分たちの難儀を除くことをひたすらに願って、自分たちの苦しみについて打ち明ける。しかし、安楽な時にわたしを愛することのできた者は一人もいない。自分たちが安らかで幸福な時に、喜びを分かち合おうと、わたしに手を伸べた者は一人もいない。自分のささやかな家庭が幸福で安らかな時には、人間はいつもわたしを押しのけ、あるいは戸口から締め出し、入れないようにする。そして、家庭の幸福を楽しむ。人間の心はあまりに狭いので、愛情深く、慈悲深く、親しみやすい神である私を受け入れさえしない。楽しい笑いの場で、何度、わたしは人間に拒絶されたことか。人間が倒れたとき、何度、彼らはわたしを支えにしようと、寄りかかってきたか。何度、病に苦しむ人間に、医者の役目を強いられたか。人間とは何と残酷なのだ。まったく理不尽で不道徳だ。人間に備わっているはずの感情さえ、彼らの内に見いだせない。彼らには人間性の痕跡がほとんど完全にない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十四章」より

51.神の国では、わたしは王だ──しかし、人間は、わたしを王として扱う代わりに、わたしを天から降りてきた救い主として扱う。そのため、人間はわたしから施しをもらうことを期待し、わたしを知ることを追求しない。まことに大勢が、わたしの前で乞食のように叫んだ。まことに大勢が「袋」を開いて、生きるための食物をくれるよう願った。まことに大勢が、飢えた狼のように、わたしを食べ尽くし、腹を膨らませようと、貪欲な目で見つめた。まことに大勢が、自分たちの罪のために恥じて、黙って頭を垂れ、寛容を祈り、あるいはわたしの刑罰を受けようとした。わたしが話すと、さまざまな人間の愚行が不合理に思われる。そして、人間の真の姿が光の中に明かされると、輝く光の中で人間は自分を許すことができない。そこで、急いでわたしの前に来てひれ伏し、罪を告白する。人間の「正直さ」のため、わたしはもう一度救いの車に載せる。人間はわたしに感謝し、わたしを愛情のこもった目で見る。しかし、それでも人間は、まだほんとうにわたしの内に逃げ込むつもりはなく、完全にわたしに心を捧げてはいない。人間はただわたしのことを誇るが、ほんとうにわたしを愛しているのではない。心をわたしに向けていないからだ。その人の体はわたしの前にあるが、その心はわたしの後ろにある。規則に関して、人間の理解はあまりに不十分であり、また、わたしの前に来ることには関心がないので、わたしは適切な助けを与え、頑固な無知の状態を改めさせようとする。これがまさに、わたしが人間に与える憐みであり、わたしが人間を救うために奮闘する方法である。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十二章」より

52.わたしの家にいる人みなを含め、今日の世の人々の中で、誰が本当にわたしの内に保護を求めているのか。誰が、わたしの支払ったものの代価として、心を差し出しているのか。かつて誰が、わたしの家に安らかに住んだのか。かつて誰が、ほんとうに自らをわたしに差し出したのか。わたしが人間に何かを要求すると、相手はすぐさま「小さな倉庫」を閉ざす。わたしが人間に与えると、相手はすぐさま、わたしの富をこっそり得ようと、口を開ける。そして、その心は、わたしが反撃するのではないかと深く恐れて、震える。だから、人間の口は半分開き、半分閉ざされているのだ。そこで、わたしの与える富を真に享受することができない。わたしは安易に人間を罪に定めない。しかし、人間はいつでもわたしの手を取り、憐みをかけてくれと願う。人間が願ったときにだけ、わたしは再び「憐み」をかける。そして、わたしの口から最も厳しい言葉を与えるので、人は直ちに恥じ入り、直接わたしの「憐み」を受け取る事ができず、別の人に渡してもらうようにする。人間が完全にわたしの言葉を把握すると、わたしの願いどおりの成長を遂げ、その嘆願は実を結び、むなしく無益なものではなくなる。わたしは、見せかけではない、人類の心からの嘆願を祝福する。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十八章」より

53.人々はわたしを知らず、その本性はわたしに逆らうものなので、わたしに忠実な者たちでさえ、おのが快楽を追求している。しかし何か悲しみをもたらすことが起こると、彼らの心はすぐに変わり、わたしのそばから退くことを望む。これはサタンの本性である。あなたは自分自身が忠実であるという意見に固執してはならない。己のために益になることが何もなければ、この獣の群れはわたしに忠誠を尽くすことが全くできない。わたしがわたしの行政命令を宣言しなかったならば、あなたがたはずっと前に退いていただろう。あなたがたは皆、鍋と火の間に挟まれたまま、わたしのために奉仕をする意欲がない一方、わたしの手によって打たれることも望んでいない。誰であれわたしに逆らう者には大きな災いが今にも降りかかろうとしていることをわたしが告げなかったならば、あなたがたはずっと以前に退いていたであろう。人の心がどれほど狭いか、わたしは知らないだろうか?ほとんどの人たちが今、小さな希望を抱いているが、その希望が失望に転じると、それ以上先に進む意欲を失い、引き返すことを求める。前にも言ったが、わたしは本人の意志に反して誰もここに引き留めることはしない。だから、結果があなたにとってどうなるのか、慎重に考慮せよ。これは事実であり、あなたに対するわたしの空脅しではない。わたし以外には、人間の本性を探ることができる者はいない。彼らは皆、自分の忠誠が不純であることを知らずに、自分たちがわたしに忠実であると思い込んでいる。これらの不純は、人々を破滅させであろう。というのは、それは赤い大きな竜の計略であるからだ。このことは、はるか昔にわたしによって露わにされた。わたしは全能なる神である。わたしがこれほど単純なことを理解しないことなどあろうか?わたしはあなたの血肉を透して、あなたの意図を見ることができる。わたしにとって、人間の本性を見抜くことは難しくないが、人々は自分の意図を知っている者は自分以外にはいないと考えて、利口ぶる。彼らは、全能なる神が天と地と万物の中に存在することを知らないのか?

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第百十八章」より

54.彼らがどのようにして試されるとしても、心の中に神が存在する者の忠誠は変わることがない。しかし、心の中に神が存在しない者たちは、神の働きが自分の肉に有利でないならば、神に対する見解を変え、神から去ることさえある。最後に確固として立つことができない者、神の祝福を求めるだけで、神のために尽くし、神に自らを捧げる意欲が一切無い者はこのようである。このような下劣な人々は、神の働きが終わりを迎える時に全員追放され、同情に値しない者たちである。人間性が欠如している者は、神を真に愛することができない。状況が安全で平穏な時、あるいは彼らが利益を得られる時は、彼らは神に対して完全に従順であるが、一旦自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりすると、彼らは直ちに反乱を起こす。ほんのひと晩のうちに、彼らは、にこやかで「心優しい」人間から、醜く残忍な死刑執行人となり、何の根拠も無く、昨日までの恩人を生かしておけない敵として扱う。瞬く間に殺しを行うこれらの悪魔らが追放されていないなら、それらは、さらなる苦難の源となるのではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

55.人間は苦痛の中でわたしを求め、試練の中にあって、わたしを探す。平和の時にはわたしを楽しみ、危険になると、わたしを否定する。忙しい時にはわたしを忘れ、暇な時には、わたしに対しておざなりな態度をとる。しかし、けっして誰も生涯を通じてわたしを愛しはしない。人間がわたしの前で熱心であればいいと思う。わたしに何かよこせとは言わない。ただ、すべての人がわたしを真剣に受け止め、わたしを欺くのではなく、誠意を人間の内に取り戻せるようにしたいのだ。わたしの啓きや照らし、努力はすべての人にあまねく行き渡る。しかし、人間のあらゆる行動の真相も人々にあまねく行き渡り、それはわたしに対する欺きも同じである。人間には母の胎にいるときから欺きの種が備わっていたものででもあるかのようだ。生まれながら欺きの特別の技術をもっているかのようなのだ。そのうえ、人間はけっしてそのことを漏らさない。誰一人、そうした欺きの技術の源を見通した者はいない。その結果、人間はそれと気付かずに欺きの中で生き、自身を許しているかのようで、それが、自分で意図的にわたしを騙そうとしているのではなく、神の計らいででもあるかのように振る舞う。これこそが、人間がわたしを欺く原因なのではないか。これは人間の狡猾なしわざではないのか。わたしはけっして人間の巧みな言葉に惑わされたことはない。わたしはずっと以前に人間の本質を見抜いていたのだから。人間の血にどれほどの不純物が含まれているか、どれほどサタンの毒がその髄に潜んでいるか、誰が知っているのか。人間は日々にそれに慣れ、サタンのしわざに無感覚になり、「健康的な生き方」を見つけることには何の関心もない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十一章」より

56.わたしは何度も霊で人間に呼びかけた。しかし、人間は、わたしが突き刺しでもしたかのように振る舞い、わたしが別の世界に連れて行こうとしているのではないかと、ひどく恐れ、離れた所からわたしを見ている。何度も人間の霊に問いかけてみたが、人間はまったく気づかないで、わたしが彼の家に入って、その機会に持ち物をすべて奪うのではないかと、深く恐れている。そこで、わたしを締め出すので、わたしは、冷たい、固く閉ざされた「扉」に向かい合うことになった。人間が倒れ、わたしが助けたことは何度もあるが、人間は気がつくと、すぐさまわたしを去り、わたしの愛に触れず、用心深い目を向ける。人間の心が温かくなることはなかった。人間は感情のない冷血動物だ。わたしの抱擁に温まっても、けっしてそれで深く動かされることがない。人間は山の野蛮人のようなものだ。人間は一度たりとも、わたしの人類に対する思いを大切に思ったことがない。人間はわたしに近づきたがらず、山々の中に住むことを好む。そこでは野獣に脅かされているのだが、それでも、わたしの内に逃げ込もうとはしない。わたしは人間に強制しない。わたしの働きをするだけだ。陸地のすべての富を楽しみ、海に飲み込まれる危険から解放されようと、いつの日か人間は大海原をわたしに向って泳ぐことだろう。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十章」より

57.あなたがたの心の中にある欺瞞をわたしは深く理解している。あなたがたのほとんどは好奇心からわたしに従い、空虚からわたしを求めて来たのだ。あなたがたの第3の希望──平和で幸せな人生という願い──が叶わなかった時、あなたがたの好奇心は消散する。あなたがた一人ひとりの心の内にある欺瞞は、あなたがたの言葉と行いを通して明るみに出る。率直に話すならば、あなたがたはただわたしに対して好奇心を持っているだけで、恐れてはいない。あなたがたは言葉に気をつけず、行動を抑えることはさらにない。そうであれば、あなたがたの信仰とはどうなのか、本当のところ。純粋なものなのだろうか。あなたがたはわたしの言葉を単に心配をなくし、退屈を軽減するために利用しているにすぎない。あなたの空虚な空間を埋めるために。あなたがたのうちの誰がわたしの言葉を実践したのか。誰が純正な信仰を持っているのか。あなたがたは、神は人々の心を深く見通す神であると叫び続けているが、あなたがたが心に叫んでいる神はわたしとどう互換性があるのか。このように叫んでいるなら、なぜそんな風に行動するのか。そういった愛でわたしに返済しようとしているということなのだろうか。あなたがたの唇は非常に大きな献身が語られているのだが、あなたがたの実際の捧げ物は、そして良き行いはどこにあるのか。わたしの耳に届くあなたがたの言葉がなければ、わたしはどうあなたがたをこれほど憎むことができようか。あなたがたがわたしを真に信じるのならば、なぜそのような苦痛の状態に陥ることができるのだろうか。あなたがたはまるで地獄で裁判を受けているかのような、落ち込んだ表情を浮かべている。活力がなく、内なる声について弱々しく語っており、実は文句と呪いの言葉で満ちているのだ。あなたがたはとうの昔にわたしの働きについて信頼を失っており、元来持っていた信頼も消え去った。それでどのように最後まで従うことができるのか。そのようなやり方でどのように救われることができるのか。

『言葉は肉において現れる』の「若者と老人に向けた言葉」より

58.人間が神を信じていても、その心には神がいないままであり、神をどう愛するかも分からず、神を愛したいとも思わない。人間の心は神に近付いたことがなく、常に神を避けているからである。その結果、人間の心は神から遠く離れてしまっている。では人間の心はどこにあるのか。実際には、人間の心はどこかに行ってしまったわけではない。人間は自分の心を神に明け渡したり、神に見て頂こうと神の前に明らかにする代わりに、自分の中に閉じ込めてしまった。「ああ神様、私の心を見てください。あなたは私の考えることを全てご存知です」などとしばしば祈る人もあり、中には自分の心を神の前に明らかにすると誓い、誓いを守らなければ罰を受けることすら厭わないとまで言うが、事実はその逆なのである。たとえ人間が、神に自分の心を見せたとしても、それは人間が神の導きと采配に従えるという意味でもなく、自分の運命や将来を手放し、全てを神の支配に委ねるという意味でもない。したがって、あなたが神に立てる誓いや、あなたが神に宣言したことに関わらず、あなたの心は神の目には閉ざされたままなのである。神に自分の心を見せはしても、それを支配することは許可していないのだから。別の言い方をすれば、あなたは神に自分の心を捧げてなどおらず、神に対して聞こえのいい言葉を並べているに過ぎないのである。一方で、あなたは諸々の不誠実な考えや企て、陰謀、計画を神には見られないようにし、自分の将来と運命を神に取り上げられるのではないかと深く恐れて手放そうとしない。このように、人間の神に対する誠実さというものを、神は見ることがない。神は人間の心の奥深くを見ており、人間の考えや願い、人間が心にしまい込んであるものを見ることができるが、それでも人間の心は神に属しておらず、人間はその心を神に明け渡してもいない。つまり、神に人間の心を見る権利があっても、それを支配する権利はないのである。主観的な認識に囚われて、人間は自分を神の意のままにして欲しいとも、してもらおうとも思わない。神から自らを閉ざし、それだけでなく、どうしたら自分の心を覆い隠せるかを考えようとさえする。聞こえのよい言葉とお世辞を並べてその印象を偽り、そうすることで神の信頼を得、本当の姿を神の目から隠そうとするのである。人間が神にその心を見せたがらないのは、人間が自分の本当の姿を神に知られたくないからである。彼らは神に心を明け渡したいとは思わず、手放さずにいたいと思っている。人間は自分がすること、欲することは全て自分で計画済みで計算済みで、自分で決定済みだということなのである。神に自分の計画に参加してもらう必要も、仲介してもらう必要もなく、ましてや神の指揮や采配など無用なのである。したがって、神の命令、神が与える任務、あるいは神が人間に要求することに関わらず、人間は自分の考えや利益に基づいて判断し、その時の状態や状況に沿って判断するのである。人間は常に自分が馴染みのある知識と見識、そして自分の知性を使ってゆくべき道を判断し選択し、神が仲介し制御することを許さない。これが神から見た人間の心である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

59.人々は神からの試練をしばしば懸念し、恐れながらも常にサタンの罠の中に生き、サタンに攻撃されて虐待される危険な領域で生活している。それでも人々は恐れることもなく、落ち着いている。どういうことなのだろうか。人間の信仰は、その人が見える範囲のものに限られる。人間は神の人間に対する愛や労り、優しさや配慮に対して全く感謝することがない。神の試練、裁き、刑罰、威厳、怒りに対する僅かな不安と恐れがなかったならば、人間は神の善なる意図を全く理解しないのである。試練と聞いただけで神にあたかも隠れた動機があり、神には悪い計画があるとさえ思い込む者もいる。そして神が本当に何をしようとしているかを理解することはない。それゆえ、神の主権と計画に従うと叫んでいながらも、人間に対する神の主権と計画に対してあらゆる手段で抵抗する。気をつけていなければ神に間違った方向へ連れていかれてしまう、自分の運命にしがみついていなければ持っているものを全て神に取り上げられてしまい、人生が終わってしまうかもしれないとすら思っているからである。人間はサタンの陣営にいながらサタンに虐待されることを恐れず、サタンに虐待されていながらサタンの虜になることを恐れない。人間は神の救いを受けると言いながら、神に信頼することはなく神がサタンの爪から真に救うとも信じない。人がヨブのように神の采配と計画に従うことができ、自分の全てを神の手に委ねることができれば、ヨブ同様、最後に神の祝福を受け取るのではないのだろうか。神の主権に従うことができたのならば、人が失うものなどあるだろうか。それだから、あなた方は自分の行いに注意し、自分に降りかかること全てに注意するように。軽はずみに何かをしたり衝動的に何かをしたりすることのないように。そして神、あるいは神があなたに用意した人や物事を、自分の激情や天性に頼って、または自分の想像や観念に従って扱ってはならない。自分の行いに注意深くし、更に祈り、求め、神の怒りを招くことのないようにしなさい。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

60.あなた方の信仰はとても素晴らしい。あなた方は喜んで自分の人生をわたしの働きに捧げると言う。そのためにありとあらゆることをすると言う。しかし、あなた方の性質はあまり変わっていない。あなた方の言葉はいつでも傲慢で、その行動は不快なものであった。まるで、舌と唇は天国にあるが、足は遥か地上にあるかのようだ。だから、人の言葉と行いと評判は、未だに酷いままである。あなた方の評判は崩れ、振る舞いの品格が落ち、話し方は卑しい。あなた方の人生は卑怯で、人間性は全て卑しい。他人に対して心が狭く、些細なことまでことごとくゴネる。自分の評判や地位のためには口喧嘩も辞さず、そのためには地獄や火の湖にまであえて落ちるほどだ。あなた方が現在発している言葉と行いだけで、あなたを罪深いと断定するに十分である。わたしの働きに対するあなた方の態度は、あなたをよこしまな者と判断するのに十分で、あなたの全性質は、あなたの魂が嫌悪すべきものに満ちた穢れたものであると言うのに十分である。あなた方が示すものや表わすものは、あなた方が穢れた霊の血を十分飲んだと判断するのに十分である。神の国に入ることに関してあなた方に語られる時、感情を露わにしないことだ。今のあり方が、天にあるわたしの国の門を通るに相応しいと信じているのか。あなた方は自分の言葉と行いがわたしの試験を通ることなく、わたしの働きと言葉の聖なる地に入れると信じているのか。誰がわたしの二つの目をうまく欺けるだろうか。どうしてあなたの卑劣で卑しい行動と会話がわたしの目から逃れることができようか。わたしはあなた方の生活を、穢れた霊の血を飲み肉を喰らうものと断定した。なぜなら、毎日あなた方はわたしの目の前で彼らの姿を呈しているからだ。わたしの前でのあなたの振る舞いはとりわけ酷い。それで嫌悪を感じずにいられようか。あなたの発言には、穢れた霊の不純さがある。まるで魔術師であるかのように、そして、欺き、よこしまな者の血を飲む人々のように、あなた方は欺き、隠し、お世辞を言う。人間の表わすものは全て極めてよこしまである。それならば、義なる人々のいる聖なる地にどうして全ての人が置かれることなどあるだろう。あなた方の卑劣な振る舞いが、不義なる人々と区別されると思うのか。あなたの蛇のような舌は、破滅と嫌悪すべきものを引き起こすその肉体を滅ぼすだろう。穢れた霊の血で覆われたあなた方の手もまた、あなた方の魂を地獄へと引きずり込む。それなのになぜ、真っ先にこの機会を利用して、その穢れに満ちた手を清めないのか。なぜ真っ先にこの機会を利用して、不義の言葉を語るその舌を切り取らないのか。自ら進んで自分の2本の手、舌と唇を地獄の炎で苦しませたいのか。わたしはこの目であらゆる人々の心を見守り続ける。わたしが人類を創造する遥か以前に、わたしは自らの手中に彼らの心を掴んだからだ。わたしは遥か昔、人間の心を見通していた。どうして人の心の思いがわたしの目を逃れることができようか。わたしの霊の炎から逃れるよう、どう間に合わせることができようか。

『言葉は肉において現れる』の「あなた方の性格は卑しすぎる」より

61.あなたの唇は鳩より優しいが、あなたの心は古代の蛇より悪意がある。あなたの唇はレバノンの女性ほど美しいが、あなたの心はレバノンの女性ほど優しくはなく、カナン人の美しさの比較対象になどならないことは言うまでもない。あなたの心はあまりに欺きに満ちている。わたしが忌み嫌うのは、専らよこしまな人々の唇とその心である。わたしの要求は聖人より高いものではない。わたしはひたすらよこしまな人々の邪悪な行いを忌み嫌い、彼らが自分の穢れを捨て去り、現在の窮地から脱することでよこしまな人々と一線を画し、義なる者達とともに生き、ともに聖なるものとなるよう望んでいるのである。あなた方とわたしの状況は同じだが、あなた方は穢れで覆われており、創造当初の人間と少しも似ていない。あなた方は毎日穢れた霊に倣い、穢れた霊と同じ行動をとり同じ言葉を発し、穢れた霊の汚い水にあなた方全体、舌や唇までも浸っている。あなた方の全てが完全にそのような穢れた染みで覆われており、わたしの働きに用いることのできる部分がひとつもないほどだ。実に悲しい。そんなまるで馬や牛の世界に住んでいながら、あなたは平気でいる。しかも喜びで満たされて、自由に、気楽に生きている。そんな汚水の中で泳ぎ回っていながら、自分の陥ってしまった状況を理解していない。毎日穢れた霊と付き合い、「糞便」と関わる。あなたの人生は実に卑しいが、人間の世界で生き延びられていない事、自分の人生をしっかり保てていないことに気づいていない。あなたの人生はとうの昔に穢れた霊によって踏みにじられ、あなたの性格はとっくに汚水で汚れてしまっていることに気づかないのか。あなたは自分が地上の楽園に生き、幸福の只中にいると思っているのか。穢れた霊と人生を共にし、穢れた霊があなたに用意したもので生きて来たことを知らないのか。あなたが生きていることに意味などあろうか。あなたの人生に価値などあろうか。穢れた霊である両親のために今まで忙しく走り回って来たが、あなたを陥れたのが、あなたを生み、育てた穢れた霊だと気づかない。更には、あなたの穢れが彼らによるものだとは知らず、彼らは「楽しみ」は与えるが、罰を与えたり裁いたりすることはせず、呪うことなど到底ないと思っている。あなたに向けて怒りを爆発させたことなどなく、あなたに対して愛想良く、親切にする。彼らの言葉はあなたの心を養い、あなたを虜にする。そうすることであなたが迷い、知らず知らずのうちに引き込まれ、進んで彼らに尽くすようになり、あなたは彼らのはけ口となり、しもべとなるようにする。あなたは不平ひとつ言わず、彼らの思うままになる―彼らにだまされているのだ。それゆえ、わたしが行う働きにあなたは全く反応しない。いつでも密かにわたしの手をすり抜けるのも、わたしの好意を騙し取るために、いつも甘い言葉を言いたがるのも、不思議ではない。結局あなたには別の計画があったのだ。全能者であるわたしの行いも僅かに見てはいるものの、わたしの裁きと刑罰は微塵もしらない。わたしの刑罰がいつ始まったのかをあなたは知らず、どうやってわたしをそそのかすかだけを知っており、わたしが人間の違反行為を容赦しないことは知らない。

『言葉は肉において現れる』の「あなた方の性格は卑しすぎる」より

62.わたしはずっとあなた方の間にいて、いくつもの春と秋を過ごし、久しくあなた方の間におり、共に過ごした。あなた方の卑劣な行動のうち、どのくらいわたしの目をすり抜けただろうか。あなた方の心からの言葉は常にわたしの耳に響いた。わたしの祭壇で、あなた方は何百万もの望みを唱えた。数えられないほどの望みを。にもかかわらず、あなた方が捧げたもの、費やしたものは皆無である。ひとしずくの誠意すらわたしの祭壇に捧げられてはいない。わたしに対する信仰の実りはどこにあるのだ。あなた方はどこまでも続く恵みを受け、果てしなく続く天の奥義を見た。わたしは天の炎さえもあなたがたに見せたが、あなた方を焼き尽くすような心は持っていなかった。それなのにあなた方はその報いとしてどれ程をわたしに捧げただろうか。どれ程のものを進んで捧げるだろうか。わたしから与えられていた食物を携えて、あたかも自分が汗水たらして得たものかのようにわたしに差し出し、自分がもつ全てのものを捧げるかのような言い方をする。あなたからの「寄付」は全てわたしの祭壇から盗んだものだとどうして分からないのか。そのような物をわたしに捧げて、それはごまかしではないのか。今日わたしが喜ぶものは、わたしの祭壇に捧げられたものであり、あなたが労苦した見返りとして得たものでわたしに差し出したものではないことがどうして分からないのか。あなたは事実このようにわたしを騙しているのだから、あなたを許せる筈がない。こんな状態をこれ以上耐え続けられる筈がない。わたしはあなた方に全てを与えた。わたしはあなた方に全てを解放し、必要を満たし、あなた方の目を開いた。にも関わらず、あなた方はこうしてわたしを騙し、良心を無視する。わたしは無欲にもあなた方に全てを与えた。それ故、苦しみの中にあっても、わたしが天からもたらした全てをあなた方は得ることができた。しかし、あなた方から捧げるものは何もなく、ほんの少し寄付すれば、後になって精算した。あなたが捧げたものなど無に等しいのではないか。自分は砂粒ひとつだけを差し出しておいて、わたしには金1トンほども要求する。理不尽そのものではないか。わたしはあなた方の間で働きをする。わたしの受けるべき1割をあなた方が捧げた形跡など全くなく、追加のいけにえを捧げたことなど勿論ない。更には、信心深い者たちの捧げた1割を不道徳者が取り上げている。あなた方は皆、わたしから離れているのではないか。皆、わたしに敵対しているのではないのか。皆、わたしの祭壇を破壊しているのではないか。そのような人間が、わたしの目に宝と映ることなどあろうか。わたしの嫌う豚や犬ではないのか。あなた方の邪悪な行いを宝物と呼ぶことなどどうしてできようか。

『言葉は肉において現れる』の「あなた方の性格は卑しすぎる」より

63.私は他者を疑わない者を好む。そして真実を快く受け入れる者を好む。この二種類の人々を私は大いに保護しよう。私から見ると彼らは正直な人々だからである。もしあなたが嘘つきなら、全ての人々や物事に対し慎重で疑い深くなるだろうから、私に対するあなたの信仰も疑念を基盤にして成り立つことになる。そのような信仰を私は決して認めない。真の信仰がないあなたには、真の愛はなおさらない。そして気の向くままに神を疑い、神への憶測を巡らすなら、あなたは間違いなくあらゆる人々の中で最も不正直である。あなたは神が人間のようでありうるかどうか憶測する。許し難いほど罪深く、狭量な性質で公正さと分別に欠け、正義感がなく、邪悪な策略に溺れ、不誠実でずるく、悪事や闇を喜ぶ、といった具合である。人は神のことを少しも知らないがゆえに、このような考えをもつのではないか。このような信仰は罪以外の何物でもない。中には、私を喜ばせるのはまさに媚びへつらいごまをする者たちであり、そのような技量のない者は神の家では歓迎されずに居場所を失う、と信じている者すらいる。長年かけてあなた方が得た知識はこれだけなのか。これがあなた方の手に入れたものなのか。私に関するあなた方の知識はこのような誤解にとどまらない。さらに悪しきは、あなた方による神の霊への冒涜と、天に対する悪口である。あなた方のような信仰のせいで、あなた方はますます私から逸れていき、私とさらにひどく敵対するだけだと私が言うのは、それゆえである。

『言葉は肉において現れる』の「どのように地上の神を知るか」より

64.神と人を同等なものとして語ることはできない。神の本質と神の働きは人にとって最も深遠で理解しがたい。神が人の世でみずから働きを行わず、言葉を話さなかったら、人は決して神の意志を理解することはできないし、全生涯を神に捧げてきた人々でさえ、神の承認を得ることはできない。神の働きがなければ、人の行いがどんなによくても無駄である。神の考えはいつも人の考えより高く、神の英知は人にとって測り知れないものだからである。そこで、神と神の働きが「はっきりと見える」人々は無力で、皆傲慢で無知だとわたしは言う。人は神の働きを決め付けるべきではないし、その上、人は神の働きを決め付けることはできない。神の目には人は蟻よりも小さいのに、どうして人が神の働きを推し測ることなどできようか。「神はあんな方法やこんな方法では働かない」とか「神はこのようである、あのようである」といつも言っている人々――彼らは皆高慢ではないだろうか。わたしたちは皆、肉体を持つすべての人々はサタンによって堕落させられていることを知るべきである。神に反抗するのは彼らの本性であり、彼らは神と同等ではなく、ましてや神の働きに助言することなどできない。神が人をいかに導くかは神自身の働きである。人は服従するべきであり、これこれしかじかの意見を持つべきではない。人はちり芥にすぎないのだから。わたしたちは神を見つけようとしているのであり、神が考慮するべき神の働きの上に自分たちの観念を重ね合わせるべきではないし、神の働きに故意に反対するために自分たちの堕落した性質を用いることなどもってのほかである。そのような行為はわたしたちを反キリストにさせるのではないだろうか。どうしてそのような人々が神を信じているなどと言えるだろう。わたしたちは神の存在を信じているので、神を満足させ、神を見たいと望んでいるので、真理の道を求め、神と融和するための道を探すべきである。わたしたちはかたくなに神に反抗するべきではない。そのような行動に何の益があるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

65.多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、狭量で偏狭な人々で、単に自分たちがいかに賢いかを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で6000年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせていない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちはあさはかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

66.あなた方が神の働きに逆らう、あるいは自分の観念により今日の働きを判断するのは、あなた方が神の働く原則を知らないからであり、またあなた方が聖霊の働きを真剣に受け止めないからだということを認識しなさい。あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。もしあなたの観念が正されなければ、常に神に敵対することになり、永久に神と融和することができず、そしていつも神から離れていることになる。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

67.自分がすべてを理解していると考えてはいけない。あなたがこれまで目にし、経験してきたことは、すべてわたしの経営計画の千分の一を理解するのにさえ十分ではないとわたしは言う。ではなぜそんなに傲慢なのか。あなたの持っているほんのわずかな才能と最小限の認識では、イエスの働きの一秒に使用するのにさえ不十分である。あなたは実際どれほどの経験を持っているのか。あなたが生涯で見てきたもの、耳にしてきたすべて、想像してきたことは、わたしが一瞬で行う働きより少ない。あら探しをしたり、欠点をみつけたりしないほうがよい。どんなに傲慢でも、あなたはまだアリ以下の被造物なのだ。あなたの腹の中にあるすべては、アリの腹の中にあるすべてよりも少ない。自分が多くを経験し、先輩になったので、思うがままの横柄さで語り、行動してもよいと考えてはならない。あなたの経験があり、先輩であるのは、わたしが発した言葉の結果ではないのか。自分の労働や苦労と引き換えにそれらを獲得したと信じているのか。今日、あなたはわたしの受肉を見て、その結果、たっぷりと観念を持ち、そこから数え切れないほどの勝手な考えが出て来る。わたしの受肉がなかったら、あなたの才能がどんなに並外れたものであっても、これほどの観念を持つことはないだろう。勝手な考えが生まれるのはここからではないのか。イエスの初めて受肉がなければ、あなたは受肉について何を知っているだろうか。あなたが二度目の受肉を厚かましくも大胆に批判するのは一度目の受肉を知っているからではないのか。いったいなぜ素直に従う代わりに細かく調べなければならないのか。あなたはこの流れに入り、受肉した神の前に来た。どうしてあなたに研究することが許されようか。あなたが自分の家族史を研究するのは結構なことだが、神の「家族史」を研究するなら、今日の神はあなたがそうすることをどうして許せようか。あなたは盲目ではないのか。あなたは自ら屈辱を受けようとしているのではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より

68.今日の生き方を追求するのに最も適切な方法は何か。追求において自らをどのような者とみなすべきか。あなたは自らに今降りかかってくるあらゆることに対応する術を知っておかねばならない。それが試練であれ、苦しみであれ、無慈悲な刑罰であれ、呪いであれ、これらの全てを慎重に考えねばならない。なぜわたしはこのようなことを言うのか。それは結局のところ、今あなたに降りかかっているのは、次から次に降りかかってくる小さな試練だからだ。おそらくあなたにとって今この試練は大きなストレスではないのだろう。だから自らの進歩を追求するための貴重な富として試練を考えて対応せず、物事をなすがまま流れに任せているのだ。あなたは迂闊すぎる。実際にはあなたは目の前を漂い流れゆく雲であるかのように、この貴重な富を捉えている。しかも、大打撃が次々に小さな出来事として起こるので、あなたにはそれほど辛く思えず、このような出来事を重要視していない。あなたは小さな出来事を冷静に傍観するだけで、真剣に受け止めていない。時折このような出来事が壁にぶつかって行き詰まるのをみているだけだ。あなたは傲慢すぎる。あなたは次から次に起こる激しく荒々しい攻撃に対して尊大な態度を取っているだけであり、時には冷静に微笑んで無関心な様子を露呈することさえある。これはあなたがなぜ自分がこのような「不運」に何度も苦しむのかについて考えたことがないからである。もしかするとわたしは人々にあまりに不公平だろうか。わたしはあなたのあら探しをしているだけだろうか。あなたの考えはわたしが説明したほど真剣ではないが、その冷静な態度はあなたの心の内面世界を鮮明に描き出している。言うまでもなく、あなたの心の奥深くに隠されているのは、無分別な悪口雑言と終わりなきかすかな悲しみ以外の何物でもない。これは他人にはほとんどわからないものである。これはあなたがこのような試練に苦しんでおり、それをとても不当だと感じているからだ。だからこそ、あなたはこのような方法で悪口雑言を浴びせているのだ。これはこれらの試練が原因で、あなたが世界は荒廃していると感じているからだ。だからこそ、あなたは憂鬱でたまらない。あなたは次から次へと降りかかる打撃や懲らしめを最高の保護として捉えておらず、天からの不当な挑発や自分に対する妥当な天罰であるとみなしている。あなたはとても無知である。あなたは容赦なく最高の時を暗闇に閉じ込め、素晴らしい試練と懲らしめを敵からの攻撃であるとみなすことが度々あるのだ。あなたはこのような環境に適応できないだけではなく、更に言えば、適応するつもりさえないのだ。これはあなたが次から次に起こる刑罰を無慈悲だとみなして、刑罰から何も得る気がないためである。あなたは求めもせず探求もしない。天の意思に身を任せている。あなたはその結果として、そこがどこであれ、今の場所にいるのだ。あなたが無慈悲とみなす懲らしめによって、あなたの心は全く変わらなかった。そのような懲らしめがあなたの心を占めたこともない。その代り、あなたの心が傷ついただけである。あなたはこの人生においてこの「無慈悲な刑罰」を敵視しただけで、何も得ていない。あなたは独り善がりすぎる。自分があまりに卑しいからこのような試練を課されているのだとあなたが考えることはまずない。むしろ、あなたは自分がとても不運だと考えている。更に、あなたはわたしがいつもあなたのあら探しをしていると言う。今までずっと、あなたはわたしの言葉や行動を実際にどのくらい理解してきたのか。自分を生まれながらの天才であり、自分は地上にそびえ立つ存在で、天に届くには高さが少々足りないだけだなどと考えないことだ。あなたは地上の他の人々より賢くはない。あなたは自分を過大評価しており、地上の他の分別ある人間より小生意気なほど愚かだと言えるだろう。未だかつてあなたが劣等感を持ったことなどないのだ。まるであなたが水晶のようにはっきりとわたしの全ての行動を見通しているかのようである。だが実際にはあなたは分別ある人にはほど遠い。これはわたしが何をしようとしているのかがあなたには全くわかっておらず、わたしが今していることについては更にわかっていないためである。だからこそわたしは言う。人生というものを自覚していないが、天からの恵みに農業を頼っている老練な農夫と比較することはできないのだと。あなたは自分自身の人生についてとても投げやりである。自分自身の評価がわかっていない。自己認識は更に乏しい。あなたは「横柄なお偉方」でありすぎる。わたしが本当に懸念しているのは、あなたのようなプレイボーイ達や優雅な淑女達が更に強くて荒々しい風や波の攻撃に耐えられるのかということだ。プレイボーイ達は今自分達が置かれているこのような環境について全く気にしていない。くだらないことに思えて、このようなことに関心がないのだ。彼らに否定的な発想はなく、自分達を卑しい存在であるとみなしていない。その代り、今でも涼みながら「並木道」をのんびり散歩したり歩き回ったりしている。学ばず何もわかっていないこれらの「大物たち」には、なぜわたしがこのようなことを彼らに言うのか見当もつかない。けんか腰の彼らは自分自身のことが少しわかっているだけなのだ。その後、彼らの悪の道に変化はない。彼らはわたしのもとを去った後も、世界の至る所に存在し、威張り散らして騙し続けるのだ。あなたの顔の表情はあまりに目まぐるしく変わる。そうやってあなたは今もわたしを欺いている。あなたは厚かましすぎる。そして優雅な若い淑女達は本当に滑稽だ。彼女達はわたしの切迫した発言を聞き、自分達がいる環境に気づいて、涙を流さざるを得ない。まるで魔法をかけようとしているかのように、自分の体をクネクネひねるのだ。これはあまりにおぞましい。彼女は自分の霊的背丈を見てベッドに横たわり、そのままベッドにいる。泣き止まずに。まるでほとんど窒息寸前であるかのようだ。このような言葉から自分自身の未熟さと卑しさに気づいた彼女は、その後、否定的な発想でいっぱいになる。うつろに見つめるその瞳には光がない。彼女は不満を言わない。わたしを憎んではいない――ただ動くことさえしないほど後ろ向きの発想なのだ。彼女もまた学ばず何も知らない。わたしのもとを去った後、彼女はまたジョークを言ったりふざけたりするようになる。その銀色のベルのような笑いは、まさしく「シルバー・ベルのお姫様」なのだ。双方ともあまりに脆く、自己憐憫がなさすぎる。人類のなかでも傷物といわれる人々よ、あなたがたは皆、あまりに人間性が欠けている。あなたがたは自己愛や自己保護というものを知らない。理性というものを理解していない。真の道を求めることをせず、真の光を愛することもしない。特に自分自身を大切にする方法を知らない。何度も心の片隅にわたしの教えの言葉を押しやり、遊びの時間に楽しむためにわたしの言葉を使うことさえしてきた。わたしの言葉をいつも自分自身のお守りとして使ってきた。悪魔に批判されたら、ちょっと祈るだけだ。後ろ向きの気持ちの時は眠り、幸せな気持ちの時には狂ったように走り回る。わたしに叱責されると頷いてお辞儀をするが、わたしのもとを去る時には残忍に笑う。人々の中ではあなたはいつも最高で、あなたが自分のことを最もうぬぼれが強い人間だと思ったことなど一度もない。あなたはいつも横柄なお偉方で、自己満足に浸っており、ひどく傲慢である。果たしてどのようにしたら、学ばず何も知らないこのような「若者」、「若い淑女」、「紳士」又は「淑女」がわたしの言葉を大切な宝物のように扱うことができるのだろうか。更にあなたに問う。今までずっとわたしの言葉とわたしの働きからあなたは何を本当に学んできたのかと。あなたのごまかしの方がもっと賢いのか。あなたの肉の方がもっと高尚なのか。あなたのわたしに対する態度の方がもっと尊大なのか。あなたに率直に言おう。昔あなたの勇気はネズミ程度の勇気だったが、わたしがこれほど大きな仕事をしたおかげで、今あなたの勇敢は実際にもっと偉大なものになったのだ。あなたのわたしに対する畏怖は日に日に弱くなっていく。なぜならわたしが慈悲深すぎるからだ。わたしは今まで暴力的な方法を使ってあなたの肉を罰したことがない。わたしは口できついことを言っているだけだと、おそらくあなたは思っているだろう。しかし、ほとんどの場合、わたしは微笑みながらあなたと対面しており、今まで面と向かってあなたを批判したことはほとんどない。これは特にわたしがいつもあなたの弱点に配慮しているからなのだ。それゆえ、あなたはまるで蛇が優しい農夫に対応するかのように、わたしに対応してきた。他人を慎重に品定めするという人類のスキルに、わたしは本当に感服している。本当に素晴らしい、最高である。あなたに真実を伝えよう。今日あなたが畏敬の念を持っているかどうかは、重要ではないのだ。わたしは神経質になっていないし、心配してもいない。しかし、あなたにこれも伝えよう。学ばず何も知らないあなたという「天才」は、最後には己の自画自賛というちっぽけな浅知恵で滅びるのだ。苦しむのはあなたである。そして罰されるのはあなたである。わたしは今後もあなたの道連れになって地獄に行き、苦しみ続けるほど愚かではない。なぜならあなたとわたしは同類ではないからだ。忘れるな。あなたはわたしに呪われた創造物であることを。そしてわたしから教わり、わたしに救われた創造物であることを。あなたの中にわたしが渇望する物はない。わたしがいつ働こうとも、わたしが人々や出来事、物事に操られることはない。人類に対するわたしの態度や見方はいつも同じで変化したことがなかったと言えるだろう。あなたに対して特にえこひいきはしない。なぜならあなたはわたしの経営の付属物だからだ。あなたは決して他の物よりも強くはない。あなたにアドバイスしよう。自分が創造物でしかないことをいつも覚えておけと。あなたはわたしと共に生きているが、自分の身分を知って自分自身をあまり高く評価しないことだ。たとえわたしがあなたを批判しなくても、あなたを取り扱わなくても、わたしが微笑みながらあなたに接していても、それであなたとわたしが同類だと証明されたわけではない。あなたは真理を求めているのであって、あなた自身は真理ではないと心得ておくべきである。あなたはわたしの言葉に従っていつ何時でも変わらねばならない――これから逃れることはできない。わたしはあなたにアドバイスしよう。素晴らしい時を過ごしている真っ最中に、この類まれな機会があるうちに、何かを学べと。そしてわたしを騙そうとするなと。わたしを欺くのにお世辞を言う必要はない。あなたがわたしを求めるのは、わたしのためではない――あなたのためである。

『言葉は肉において現れる』の「学習せず何も知らない人は獣ではないのか」より

69.人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、即ち、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。そうすると、人間の本分は尽くされる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと裁きを体験する過程を通して少しずつ減少する。それらは人間の本分を妨げることも影響することもない。奉仕の中にあるかもしれない欠点を恐れて、奉仕をやめたり妥協したり退いたりする者たちは、すべての人々の中で最も臆病である。もし人間が奉仕する中で表明すべきことを表明できず、人間として本来可能なことを成し遂げず、その代わりにのらくらし、形だけ奉仕しているふりをするならば、その人は被造物が本来備えているはずの役割を失ったのである。こうした人間は凡庸なくだらない者で、無用の長物であるとみなされる。どうしてこんな者が被造物という呼び名に値するのか。彼らは、外見は立派でも中身は腐った堕落した存在ではないのか。人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を表すことができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。もし人間が人間として本来達成可能なことを失うなら、その人はもはや人間とはみなされない。その人は被造物として存在し、神の前に来て神に仕える資格はない。さらに、そんな者は神の恵みを受け、神に見守られ、保護され、神によって完全にされる資格はない。神の信頼を失った多くの者は、いずれ神の恵みを失う。そうした人々は、自分たちの悪行を恥ないどころか、ずうずうしくも神の道が間違っているという考えを言い広める。そして、そのような反抗的な者たちは、神の存在を否定さえする。どうしてそのような反抗的な人間が神の恵みを享受する特権をもてようか。自分の本分を果たすことのできなかった人間は、神に対して極めて反抗的で、多くを神に負っている。それにもかかわらず、彼らは反対に、神が間違っていると激しく非難する。そうした人間がどうして完全にされるに値するのか。これは、神に取り除かれ、罰される先触れではないのか。神の前で自らの本分を果たさない者は、すでに最も憎むべき罪を犯している。その罪に対しては、死さえも充分な罰ではない。しかし、人間はずうずうしくも神に反論し、自らを神に比べる。そんな人間を完全にする値打ちがどこにあるだろうか。もし人間が自分の本分を果たさないなら、その人間は罪悪感と負い目を感じるべきである。自らの弱さ、無用さ、反抗心、堕落、を恥じ、神のために自らのいのちと血を犠牲にするべきである。そうしてはじめて、人間は真に神を愛する被造物となり、そうした人間だけが神の祝福と約束を享受し、神によって完全にされる資格がある。では、あなたたちの大多数はどうであろうか。あなたたちの間で生きている神を、どう扱っているのか。神の前でどのように本分を尽くしてきたのか。あなたたちは、するように命じられたすべてのことを、命がけでさえ為し遂げたことがあるのか。あなたたちは何を犠牲にしたのか。わたしから多くを受けているのではないのか。あなたたちは区別ができるのか。あなたたちは、どれほどわたしに忠実なのか。あなたたちは、どのようにわたしに仕えてきたのか。また、わたしがあなたたちに授け、あなたたちのためにしたあらゆることは、どうなのか。あなたたちは、その大きさを測ったことがあるのか。それを、あなたたちは皆、ささやかながら内にもつ良心のすべてに照らして判断したのか。あなたたちの言動はいったい誰に相応しいのか。そんなにもちっぽけなあなたたちの犠牲が、わたしがあなたたちに授けたものすべてにふさわしいとでもいうのか。わたしはそうするしかないので、心からあなたたちに献身してきたが、あなたたちはわたしについて邪悪な疑念をもち、いい加減な気持ちでいる。あなたたちの本分はこの程度で、それがあなたたちの唯一の役割である。そうではないのか。あなたたちは自分が被造物としての本分を全く果たしていないことが分からないのか。どうしてあなたたちが被造物とみなされることができるのか。あなたたちは、自分たちがいったい何を表明し、何を生かし出しているのかが、はっきりわかっていないのか。あなたたちは自分の本分を果たすことを怠ったにもかかわらず、神の憐れみと豊かな恵みを得えることを求めている。このような恵みはあなたたちのように無価値で卑劣な者たちのためではなく、何も求めず喜んで自らを犠牲にする人々のために用意されている。あなたたちのような人々、これほどに凡庸な取るに足りない人々は、天の恵みを享受するにまったく値しない。苦難と絶え間ない罰だけがあなたたちの生涯につきまとうだろう。わたしに忠実であることができないのなら、あなたたちの運命は苦しみに満ちたものになる。わたしの言葉とわたしの働きに対して自分の行為を説明できないのなら、あなたたちの分け前は罰だけである。どんな恵みも祝福も、神の国でのすばらしい生活も、あなたたちには無縁である。これがあなたたちに相応しい結末であり、それは自ら招いた結果である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

70.次に、「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12章6〜8節)という聖句について検討する。ここでいう「宮」とは、何であろうか。「宮」とは、簡単に言えば高い大きな建物を指し、律法の時代は、宮とは司祭が神を礼拝する場であった。主イエスが「宮よりも大いなる者がここにいる。」と言った時、「者」とは誰をさしていたであろうか。ここで「者」とは、明らかに肉体を持つ主イエスを指す。なぜなら、神殿よりも偉大なものは主イエスのみだったからである。この聖句は人々に何を伝えているだろうか。この聖句では、神殿の外に出るよう、人々に伝えている。なぜなら、神は既に神殿の外に出ており、神は神殿では何も行っていなかったので、人々は神の足取りに続き、神の新たな業における段階に従うべきだったからである。主イエスがこうした言葉を伝えた背景には、律法のもとにおいては、神殿が神そのものよりも偉大なものであると人々が考えるようになっていたということがある。すなわち、人々は神ではなく、神殿を礼拝したので、主イエスは人々に対して偶像を崇拝せず、神は至高の存在であるので、神を崇拝するよう警告したのだ。そうしたわけで、主は「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と述べたのである。主イエスから見て、律法のもとでは、人々はもはやヤーウェ神を礼拝しておらず、単にいけにえを捧げる手続に従っていただけであったことは明瞭であり、したがって主イエスはその手続を偶像崇拝であると判断された。これらの偶像崇拝者は、神殿を神よりも偉大で崇高なものと考えていた。こうした者の心には神殿しかなく、神は存在しなかったので、神殿を失った場合、こうした者はすみかを失った。神殿無くしては、こうした者は礼拝を行うために訪れる場所がなく、いけにえを捧げることができなかった。ここでいう、こうした者のすみかとは、ヤーウェ神の礼拝という名目で活動を行っていた場所であり、こうした者は神殿に滞在して自分たちの私事を行うことができた。ここでいう、こうした者が「いけにえを捧げる」とは、神殿で礼拝を行うという口実のもとに、自分の個人的な恥ずべき取引を行う、ということであった。当時の人々が、神殿は神よりも偉大であると考えていたのは、このためであった。こうした者は、神殿を隠れ蓑として利用し、いけにえを人々と神を欺くための口実として利用していたので、主イエスは人々に警告したのだった。こうした言葉を現在に当てはめた場合、こうした言葉は当時と同様に正当であり、適切である。現在の人々は律法時代の人々とは異なる業を経験してはいるが、人々の本質は同じである。現在における業に関しても、「神殿は神よりも偉大である」という考えと同様の物事を人々は依然として行っている。たとえば、人々は自分の任務を遂行することを職務と考えており、神を証しすること、大きな赤い龍と戦うことを、人権保護や民主主義、自由のための政治活動であると考えている。また人々は自分の技能を活用する任務を職務とするが、神を畏れ、悪を忌み嫌うことは、単に守らなければならない宗教的教義として扱うなどしている。こうした人間の表出は「神殿は神よりも偉大である」という表出と本質的に同じではなかろうか。2000年前は、人々は自分の職務を物理的な神殿で行っていたのに対し、現在においては、人々は自分の職務を無形の神殿で行っているというだけのことである。規則を重視する人々は、規則を神よりも偉大であると考え、地位を好む人々は、地位を神よりも偉大であると考え、職務を好む人々は、職務を神よりも偉大であると考えるなど、全ての表出の結果として言えるのは、「人々は、口では神を最も偉大であるとして褒めたたえるが、人々の目には、あらゆる物事が神よりも偉大であるように映る」ということである。その理由は、人々が、自分が神に付き従う道で自分自身の才能を示し、あるいは自分自身の業務ないし職務を遂行する機会を見出すとすぐに、人々は神から離れ、自分が好む職務に没頭してしまうからである。神がこうした人々に託した物事や、神の旨については、捨て去られて久しい。こうした状況のなかで、これらの人々と、二千年前に神殿で自分の個人的な取り引きを行っていた人々と何か違うであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

71.多くの人々がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の快楽から離れることをいつも恐れている。彼らは教会で通常の役割を果たさず、無料で食べ、あるいは、兄弟姉妹をわたしの言葉で訓戒し、自分を高くして、他人に対して威張る。これらの人々は神の旨を行っていると言い張って、自分は神と心を一つにする者だといつも言う――これはばかばかしくないだろうか。あなたが正しい動機を持っていても、神の旨に沿って仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし動機が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く者であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人々にはまったく同情しない。神の家で、彼らは無料で食べ、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものばかりを求め、神の心には何の注意も払わない。彼らのすることは神の霊に見られることはない。彼らはいつも状況を操り、兄弟姉妹に対して陰謀を企んでいる。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神と心を一つにする者になれるだろうか。あなたは神の祝福を受けるにふさわしいだろうか。あなたは自分のいのちにも教会にも責任を持っていないのに、神の任務を受けるのにふさわしいだろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するだろうか。あなたがこのような形で仕えるなら、神はあなたにあえて大きな任務を託すだろうか。あなたは物事を先延ばしにしているのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

72.人類とはなんと残酷で残忍だろうか!狡猾で陰謀を企て、互いに争い、名声や富の為に争い会い、殺し合う――そのようなことは一体いつ終わるのだろうか。神は何十万の言葉を話したのに、誰も理解しなかった。彼らは自分たちの家族や、息子や娘たちのために、また自分たちの職業や将来、地位、虚栄心、金銭のために、また衣服や、食物、肉のために働いて来た――誰の行動が真に神のためなのだろうか。神のために行動している者たちにしても、神を知る者たちはほとんどいない。自分たちの利益のために行動していない人たちは一体何人いるだろうか。自分たちの地位を維持するために周りの人たちを圧迫も差別もしない人たちは何人いるだろうか。このように、神は数えきれないほど何度も力ずくで死の宣告を受け、数えきれないほど野蛮な裁判が神に有罪判決を下し、もう一度神を十字架に釘づけにした。神のために真に働いたので、義人と呼ばれる人たちが何人いるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「悪人は罰せられなければならない」より

73.あなたがたが今日何を行っているのか自覚したことがあるだろうか。世界中で暴れ回り、互いに陰謀を企て、騙し合い、こっそりと、恥じ入ることもなく不誠実に振舞い、真理も知らず、ひねくれて、人を欺き、お世辞を言い、自分は常に正しく他人よりも優れていると思い、自惚れ、山の野生動物のようにどう猛な振る舞いをし、獣の王のように荒っぽい。――これが人間の姿だと言えるのか。あなたは無礼で理不尽だ。あなた方はわたしの言葉を宝としたことはなく、軽蔑的な態度をとった。このようなことで、何かを達成することや、真の人生と美しい希望はどこからくるのか。あなたの過剰な想像力が、本当にあなたを虎の口から救うのか。本当にあなたを燃える炎から救うのか。わたしの働きを真に価値ある宝と見なしていたら、あなたはここまで堕落していただろうか。あなたの運命はほんとうに変えられないということだろうか。そのような後悔を抱いたまま死にたいと思うのか。

『言葉は肉において現れる』の「人の本質と地位」より

74.あなた方一人ひとりは、群衆の最高の高みに昇りつめた。あなた方は昇りつめて群衆の祖先となった。あなた方は極めて身勝手であり、蛆虫の間で暴れまわりながら、安らぎの場所を求め、自分よりも小さい蛆虫を貪ろうとしている。あなた方は海底に沈んだ幽霊にも増して心の内に悪意と邪悪を持っている。あなた方は糞の最下層に住み、蛆虫を上から下まで邪魔して心穏やかにさせないようにし、争い合っているかと思えば静かになっている。あなた方は自分の身分も知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのであろうか。あなた方がわたしに対し真に畏敬の念を持っているならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどんなに高くても、あなたは糞の中にいる臭く取るに足らない虫であることに変わりはないではないか。あなたは、羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか。

『言葉は肉において現れる』の「落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう」より

75.あなたがたにとっては、自己を知るという真理にさらなる努力を捧げるのが最善であろう。なぜあなたがたは神に気に入られていないのか。なぜあなたがたの性質は神に嫌われるのか。なぜあなたがたの話す言葉は神にとっていまわしいのか。少々の忠実を示したとたんに、あなたがたは自分を称賛し、わずかな犠牲に対する褒美を要求する。ほんの少しの従順を示しただけで、他者を見下し、ささいな業を達成しただけで、神を軽蔑する。神を迎えもてなす代償として、金、贈り物、称賛を要求する。硬貨を一、二枚与えると、心が痛む。硬貨を十枚与えると、祝福と特別扱いを望む。あなたがたのそのような人間性は、話すのも聞くのも正に不快である。あなたがたの言動に何か称賛に価するものはあるのか。本分を尽くす人と尽くさない人、指導者と追随者、神を迎えもてなす人としない人、寄付する人としない人、言葉を説く人と受ける人など、このような人々は皆、自分を称賛する。これを可笑しいとは思わないのか。自分は神を信じていると十分に知りつつ、あなたがたはそれでも神と相容れることができない。自分には全然とりえがないことを十分に知りつつ、それでも自慢することにこだわる。あなたがたはもはや自制心をもたないところまで自分の理知が劣化してしまったとは感じないのか。そのような理知しかなくて、どうして神と関わる資格があるのか。あなたがたはこの重大事に自分のことが心配ではないのか。あなたがたの性質は既に、神と相容れることができないところまで劣化している。このような状態で、あなたがたの信仰は滑稽ではないか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは自分の未来にどのように向かって行くつもりなのか。歩くべき道をどのように選ぶつもりなのか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より

76.今、わたしは地上に暮らし、人々のもとで生活している。人々は皆、わたしの働きを経験したり、わたしの発言を見守ったりしている。またそれとともに、わたしの追随者たちがわたしからいのちを受け、それゆえに彼らがたどることのできる道を得られるように、彼ら一人ひとりにあらゆる真理を授ける。わたしは神、いのちを与えるものだからである。わたしの何年もの働きのあいだ、人間は多くを受け、多くをあきらめてきたが、それでも人間は真にわたしを信じていないとわたしは言う。なぜなら、人間はわたしが神であること口先では認めはするものの、わたしが話す真理には異議を唱え、わたしが彼らに要求する真理の実践を行なうことなど尚更ないからである。つまり、人間は神の存在だけを認め、真理の存在は認めない。神の存在だけを認め、いのちの存在は認めない。神の名だけを認め、神の本質は認めない。その熱心さゆえに、人間はわたしにとって嫌悪するべきものとなった。人間はわたしを欺くために、耳に心地よい言葉を使うだけで、わたしを真の心をもって礼拝する者はいないからである。あなたがたの言葉には、蛇の誘惑がある。さらに、それは極端なまでに不遜で、まさに大天使の宣言そのものである。その上に、あなたがたの行いは不名誉なほどにボロのように破れている。あなたがたの過度の欲望や貪欲なもくろみは聞くに堪えない。あなたがたは皆、わたしの家の蛾、嫌悪をもって捨て去られる対象になった。あなたがたの誰も真理を愛する人ではなく、むしろ祝福を欲し、天に昇ることを欲し、キリストが地上でその力を振るう荘厳な光景を見ることを欲する人だからである。しかし、そこまで深く堕落し、神が何であるかを全く知らないあなたがたのような人が、どうして神に従うに値することがあり得るのかを考えたことがあるのか。どうして天に昇れるというのだろうか。壮麗さにおいて前例のないその荘厳さを見るのに、どうして値することがあり得るというのか。あなたがたの口は欺きと汚物、裏切りと傲慢の言葉で満ちている。誠実な言葉をわたしに語ったこともなければ、聖なる言葉も、わたしの言葉を経験しても、わたしへの服従の言葉も語ったことがない。最後には、あなたがたの信仰はどのようになるのだろうか。あなたがたの心は欲望と富で、あなたがたの頭は物質的なもので満ちている。日々、あなたがたはいかにして何かをわたしから得ようかと、どれほどの富と幾つの物質的なものがあるかを計算している。日々、さらに多くの、もっと良い享受されるものが享受できるようにと、あなたがたにさらなる祝福が施されるのを待っている。あなたがたの考えにいつ何時もあるのはわたしではなく、わたしから来る真理でもなく、むしろあなたがたの夫(妻)や息子、娘、あるいは食べたり着たりするもの、あなたがたの楽しみがいかに増え、さらに良くなることができるかということである。たとえ限界まで満腹したところで、あなたがたは死体とほとんど変わらないのではないのか。たとえ外見を豪華に着飾ったところで、あなたがたはいまだに、いのちのない歩く屍ではないのか。あなたがたは食べ物のために、髪に白髪が交じるまで懸命に働くが、わたしの働きのために毛一本犠牲にする者は誰もいない。あなたがたは常に、体を酷使し頭を悩ませて、自分の肉体のため、息子や娘のために働きづめだが、わたしの心に気づかいを見せる者はひとりとしていない。あなたがたがわたしからまだ得ることを期待しているものは何なのか。

『言葉は肉において現れる』の「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」より

77.あなたがたの心は悪、裏切り、欺きで満ちている。そのような状態であるならば、あなたがたの愛には幾つの不純物があるのか。あなたがたは、自分はわたしのためにすでに十分あきらめてきたと思っている。自分のわたしへの愛はすでに十分だと考えている。しかし、それならば、あなたがたの言葉と行動にはなぜいつも反抗と欺きがあるのか。あなたがたはわたしに従うものの、わたしの言葉を認めない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしを脇へ置く。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしに疑いをもっている。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしの存在を受け入れられない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしが誰であるかに相応しくわたしを扱わず、あらゆる機会にわたしにとって物事を困難にする。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、あらゆる事柄においてわたしをからかい欺こうとする。これを愛とみなすのか。わたしに仕えるものの、わたしを恐れない。これを愛とみなすのか。あなたがたはあらゆる面で、あらゆる事柄においてわたしに反対する。これをすべて愛とみなすのか。あなたがたはかなりの犠牲を捧げてきたのは確かである。しかし、わたしがあなたがたに要求することを実践したことが全くない。これを愛とみなすことができるだろうか。注意深く検討すると、あなたがたの中にはわたしへの愛のほんの少しのほのめかしもないことがわかる。これほど長年の働きとあれだけ多くの言葉を与えてきた後、あなたがたは実際にどれほどのことを得てきたのか。このことは注意深く振り返り検討する価値がないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」より

78.神の意志を理解しない人々は神の敵対者である。神の意志を理解するが、真理を実行しない人々は神の敵対者である。神の言葉を飲食するが、なおも神の言葉の本質に逆らう人々は神の敵対者である。受肉した神の観念を持ち、故意に反抗する人々は神の敵対者である。神を裁く人々は神の敵対者である。神を知ることができず、神を証しすることができない者は誰でも神の敵対者である。それゆえ、わたしの忠告を聞きなさい。あなたがたが本当にこの道を歩む信念を持っているなら、その道をたどり続けなさい。神に敵対するのをやめることができないなら、手遅れにならないうちに立ち去るのが一番良い。そうでなければ、良くなるどころかかえって先が思いやられるだろう。なぜならあなたがたの本性はあまりにも堕落しているからである。あなたがたは、微塵ほどの忠誠心や服従心も、義や真理を渇望する心も持っていない。神に対する愛もほんの少しも持ち合わせていない。神を前にしたあなたがたの状態はまったくひどい有様である。あなたがたは守るべきものを守ることができず、言うべきことが言えない。実行すべきことが実行できず、果たすべき役割を果たすことができない。持つべき忠誠心、良心、服従心、あるいは決意を持っていない。耐えるべき苦しみに耐えておらず、持つべき信仰を持っていない。あなたがたはいかなる長所にも全く欠けている。あなたがたは生存していくための自尊心をもっているだろうか。あなたがたは目を閉じて永遠の眠りについた方がまだましだと、わたしは言わざるを得ない。そうすれば神はあなたがたのために心配したり、苦しみに耐えたりする必要はなくなる。あなたがたは神の存在を信じているが、神の意志を知らない。あなたがたは神の言葉を飲食するが、神の要求に応じることができない。あなたがたは神を信じているが、神を知らない。そして追い求める目的もなしに生きている。あなたがたは何の価値も目的も持っていない。あなたがたは人として生きているが、何の良心も、品位も、わずかな信頼性も持たない。どうしてあなたがたを人とみなすことができようか。あなたがたは神を信じているのに神をだます。そのうえ、あなたがたは神の金を奪い、神の捧げものから食べるが、結局、神の感情への配慮や神への良心はまったく示さない。最も些細な神の要求にさえ応じることができない。そんなあなたがたをどうして人とみなすことができようか。あなたがたが食する食べ物、呼吸する空気は神から来ており、あなたがたは神の恵みを享受しているのに、結局は、神についてほんの僅かの認識さえ持っていない。それどころか、あなたがたは神に敵対するろくでなしになってしまった。それでは、あなたがたは犬同然の獣ではないのだろうか。動物の中であなたがたよりたちの悪い動物はいるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

79.あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は単に知的で観念的であり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないのか。今日なお、あなたがたは真理の言葉の一つ一つに対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。キリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どのように聖霊の働きに入っていくのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の惑わしの区別の仕方を知らない。ただ、自分の考えに沿わない、神が表した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

80.男女を問わず、あなたがたはそれぞれ、一日中何に気を取られているであろうか。あなたがたは自分の食事を誰に依存しているか、知っているであろうか。自分の衣服や、刈り取って自分の手の中にあるものを見て、自分の腹をさすって見るがいい。あなたがたが注いだ血と汗の結果は、何であろうか。あなたは依然として観光旅行に出掛けようとしたり、悪臭を放つ自分の肉を飾ろうとしたりしている。それにどのような価値があるというのか。あなたは正常であるよう求められているのに、正常でないどころか、その反対である。そうしたものが、どうして厚かましくもわたしの前に来ることが出来ようか。こうした人間性で、自分の肉を示して闊歩し、常に肉の欲の中で生活しているのであれば、あなたは不浄な悪魔と悪霊の末裔ではなかろうか。わたしはそうした不浄な悪魔を長く生かしてはおかない。そして、あなたの心にある考えをわたしが知らないと思わないように。あなたは自分の欲と肉を厳しく律しているかも知れないが、あなたの心にある考えや、あなたの目が望む物事を、わたしが知らないことがあり得るだろうか。あなたがた若い女性達が花のように愛らしい化粧をしているのは、自分の肉を誇示するためではなかろうか。あなたがた女性諸君にとって、男性の存在とは何であろうか。男性は苦難の海から本当にあなたがたを救い出すことが出来るであろうか。また、遊び歩いている男性諸君は、紳士的で目立つ装いだが、それは自分の容姿を自慢するためでは無かろうか。それに、あなたがたは、誰のためにそうしているのだろうか。あなたがた男性諸君にとって、女性はどのような利益があるであろうか。女性はあなたがたにとって罪の源ではなかろうか。あなたがた男性諸君と女性諸君に対し、わたしは多くの言葉を述べてきたが、そのうち、あなたがたが応じている言葉はほんの僅かである。あなたがたの耳はこもり、目はかすみ、心は冷酷になり、身体には欲望だけしか無くなる。あなたがたはそうした状態から抜け出せない。汚物の中でもがくうじのようなあなたがたに、誰が近付きたいと思うだろうか。あなたがたは、肥やしの中からわたしが取り上げた者でしかないこと、そして元来、正常な人間性を備えていなかったことを忘れてはならない。わたしがあなたがたに求めているのは、元来あなたがたに備わっていなかった正常な人間性である。わたしは、あなたがたが自分の欲望を誇示することや、長年にわたって悪魔により鍛えられた悪臭を放つ肉を自由にさせることは求めて居ない。あなたがたがそのように着飾る時、自分が一層深い罠に陥ることを恐れないであろうか。あなたがたは、元来自分が罪深いということを知らないのだろうか。あなたがたは、自分の体が肉欲に満ちていることを知らないのだろうか。あなたがたの欲望は、あなたがたの衣服から染み出て、あなたがたの耐えがたいほど醜く汚れた悪魔としての状態が現れるほどである。あなたがたにとって、それは最も明瞭な事ではなかろうか。あなたがたの心や目や唇は、すべて不浄な悪魔に汚されているのではなかろうか。あなたの心や目や唇は、不浄ではなかろうか。あなたは、倫理に反する[i]ことをしない限り、自分は最も聖いと思っている。また、可愛らしく着飾れば自分の卑しい魂を隠すことが出来ると考えているが、そのようなことは決して出来ない。わたしはあなたに、一層現実的になるよう、助言する。欺いたり偽ったりしてはならない。また自分を誇示してはならない。あなたがたは自分の欲望を互いに誇示するが、あなたがたが得るのは、永遠の苦難と冷酷な懲らしめだけである。あなたは、どのような必要性があって互いに戯れ、恋するのであろうか。それは、あなたがたの清廉さであろうか。それにより、あなたがたは正直になるであろうか。わたしは、あなたがたのうち魔法の薬や魔術を行う者や、自分の肉を愛する若い男女を忌み嫌う。あなたがたは、自制するのが理想的である。なぜなら、今日わたしがあなたに求めているのは、あなたの欲望を誇示することではなく、正常な人間性を備えることだからである。あなたがたは、常にあらゆる機会を利用している。なぜなら、あなたがたの肉や欲望が大きすぎるからである。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より

81.わたしの業の期間において、あなたがたは常にわたしに反対する行動を取り、決してわたしの言葉に従わなかった。わたしは自分の業を行い、あなたは、あなたの業を行い、あなたは自分の小さな王国を建てる。あなたがたは、きつねと犬の群れのようであり、あなたがたの行動は、全てわたしに反対するものである。あなたがたは常に、自分のことだけを愛するものを抱こうとする。あなたがたの敬愛は何処にあるのか。あなたがたの行動は、すべて偽りである。あなたがたには、服従や敬愛が一切無い。あなたがたの行動は、全て偽りであり、冒涜である。そうした人々が救われ得るであろうか。性的倫理が欠如し、好色な男性は、常に妖艶な売春婦を惹き付けて「享楽」に耽溺することを望む。わたしはそうした性的倫理が欠如した悪魔を救わず、そうした不浄な悪魔を忌み嫌う。その好色さ、妖艶さにより、あなたがたは陰府に落とされた。あなたがたは、自分に対して何を述べるであろうか。あなたがたのように不浄な悪魔や悪霊のような者は、極めて凶悪である。あなたがたは非常に不快である。どうしてそうしたくずのような人々が救われるであろうか。罪から抜け出せずにいる人々は、それでも救われるであろうか。これらの真理、この道、そしてこのいのちは、あなたにとって何の魅力も無い。あなたがたは罪深さ、金銭、地位や名声、利益、肉の享楽、男性の端正さ、女性の色っぽさに惹かれる。あなたがたには、どのような資格があって、わたしの国に入るというのか。あなたがたの像は、神よりも尊大であり、あなたがたの地位は神よりも高く、人々の中でのあなたがたの名声は言うまでも無い。あなたがたは、他人に崇拝される偶像となっている。あなたは、大天使となったのではなかろうか。人間の最後が示される時は、救いの業が完了する時でもあり、あなたがたのうち多くの者が、救いの限界を超えた屍となっており、排除されなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より

82.人間は自身を大切にしないので、価値のない不幸な人たちと言える。もし彼らが自分自身さえ愛せず、踏みにじるならば、彼らは価値がないことになるではないか。人類は自分をもてあそび、進んで他人に汚されようとする不道徳な女性のようである。しかし、たとえそうであっても、人類はまだ自分がどんなに卑しいかわからない。彼らは他人のために働くことや、自分を他人の支配下に置いて話すことに喜びを見出す。これは実に人類の汚さではないだろうか。わたしは人類の中で人生を経験していないし、真に人間の生活を経験していないが、人間のあらゆる動き、あらゆる行動、あらゆる言葉、あらゆる行いを非常に明確に理解している。わたしは人類を最も強い羞恥心に晒すこと、彼らがもはや自分自身のごまかしを見せられなくなるまで、自分の願望に譲歩しなくなるまで、その身を晒させることさえできる。殻の中に退くカタツムリのように、彼らはもはや自分の醜い状態をあえてさらけ出しはしない。人類は自分自身を知らないので、その最大の欠点は、醜い顔つきを見せびらかしながら自分たちの魅力を他人に見せびらかすのを厭わないことであり、これは神がもっとも嫌うことである。人々の間の関係は異常であり、正常な人間関係は存在しないので、ましてや神との関係は正常[j]ではない。神は多くを語っており、そうする中での神の主要な目的は人類の心の中に一定の場所を占めることであり、人々の心の中からすべての偶像を取り除かせることなのだ。それができた時には、神は全人類に力をふるい、地上に神が存在する目的を達成することができる。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十四章」より

83.わたしはこのようにあなたがたの間で働き、語った。わたしは多くの力と努力をつぎ込んだが、あなたがたは、わたしがはっきりと語った言葉にいつ耳を傾けただろうか。あなたがたは全能者であるわたしにどこでひれ伏したのか。あなたがたはなぜわたしをこのように扱うのか。なぜあなたがたが話すこと、することのすべてがわたしの怒りを呼び起こすのか。なぜあなたがたの心はそれほど頑ななのか。わたしはあなたがたを打ち倒したことがあるか。なぜあなたがたはわたしを悲しませ、心配させることしかしないのか。あなたがたは、わたしヤーウェの怒りの日があなたがたに臨むのを待っているのか。あなたがたの不服従により呼び起こされた怒りをわたしが注ぐのを待っているのか。わたしがするすべてのことは、あなたがたのためではないのか。それなのに、あなたがたはいつもわたしヤーウェをこのように扱ってきた。わたしの捧げ物を盗み、わたしの祭壇のいけにえを家に持って帰り、オオカミの穴にいる子や孫を養っている。「人々」は互いに戦い、怒りに満ちたまなざしで、剣と槍を持って向かい合い、全能者であるわたしの言葉を便所に投げ込み、排泄物のようにけがれたものにしている。あなたがたの人格はどこにあるのか。あなたがたの人間性は獣性になってしまった。あなたがたの「心」はずっと前に石になってしまっている。あなたがたは、わたしの怒りの日が来るときこそ、今日あなたがたが全能者であるわたしに対して行う悪をわたしが裁くときであることを知らないのか。このようにわたしをだまし、わたしの言葉を沼地に投げ込んで耳を傾けず、わたしの背後でこのようにふるまって、わたしの怒りの目を逃れられると思うのか。あなたがたがわたしのいけにえを盗み、わたしの財産をむやみに欲しがったとき、あなたがたはわたしヤーウェの目に既に見られていたことを知らないのか。あなたがたがわたしのいけにえを盗んだとき、それはいけにえが捧げられる祭壇の前であったことを知らないのか。このようにわたしをだませるほど自分たちが賢いなどとどうして思えるのか。あなたがたの憎むべき罪から、どうしてわたしの怒りが去るであろうか。どうしてわたしの燃える怒りが、あなたがたの悪行を行き過ぎるだろうか。あなたがたが今日行う悪は、あなたがたに逃げ道を開くことはなく、あなたがたの明日に刑罰を積み上げる。それは、あなたがたに対して、全能者であるわたしの刑罰を引き起こす。あなたがたの悪行と悪しき言葉が、どうしてわたしの刑罰から逃れられるだろうか。どうしてあなたがたの祈りがわたしの耳に届くだろうか。どうしてあなたがたの不義に、わたしが逃げ道を用意するだろうか。どうしてわたしに逆らって行うあなたがたの悪行をそのままにしておけるだろうか。蛇の舌のように毒に満ちたあなたがたの舌を切らずにいられようか。あなたがたは自分の義のためにわたしに依り頼まず、自分の不義の結果として、わたしの怒りを積み上げている。どうしてわたしがあなたがたを赦せようか。全能者であるわたしの目には、あなたがたの言葉と行いはけがれている。全能者であるわたしの目は、あなたがたの不義を無限の刑罰と見なす。どうしてわたしの義なる刑罰と裁きがあなたがたから離れるだろうか。あなたがたがわたしにこんなことをして、わたしを悲しませ怒らせるのに、どうしてあなたがたをわたしの手から逃れさせ、わたしヤーウェがあなたがたを罰して呪う日から離れさせることなどできようか。あなたがたのすべての悪しき言葉が、すでにわたしの耳に届いていることを知らないのか。あなたがたの不義がすでにわたしの聖なる義の衣を汚したことを知らないのか。あなたがたの不服従がすでにわたしの激しい怒りを呼び起こしたことを知らないのか。あなたがたがわたしを長い間怒りに煮えくり返るまま放置し、わたしの忍耐をずっと試してきたことを知らないのか。既にあなたがたがわたしの肉体をぼろぼろに傷つけたことを知らないのか。わたしはこれまで我慢してきたが、わたしはわたしの怒りを放ち、あなたがたをもう容赦しない。あなたがたの悪行がすでにわたしの目に届き、わたしの叫びがすでにわたしの父の耳に届いていることを知らないのか。どうして彼が、あなたがたがわたしをこのように扱うことを許すだろうか。わたしがあなたがたに行うすべての働きは、あなたがたのためではないか。それなのに、あなたがたのうち誰が、わたしヤーウェの働きをさらに愛するようになっただろうか。わたしが弱いからといって、わたしが苦しみを受けたからといって、わたしがわたしの父の旨に忠実でないことなどあり得ようか。あなたがたにはわたしの心が分からないのか。わたしはヤーウェがしたようにあなたがたに語る。あなたがたのためにわたしは多くを捧げたではないか。わたしは父の働きのためにこのすべての苦しみに喜んで耐えるけれども、わたしの苦しみの結果としてあなたがたの上にもたらす刑罰を、あなたがたがどうして免れようか。あなたがたはわたしの多くを享受したではないか。今日、わたしは、わたしの父によってあなたがたに授けられたのだ。あなたがたは、わたしの豊富な言葉よりも、はるかに多くのものを享受していることを知らないのか。わたしの命が、あなたがたの命、及びあなたがたが享受するものと引き換えられたことを知らないのか。わたしの父がサタンと戦うためにわたしの命を使ったこと、またわたしの命をあなたがたに与えて、あなたがたが百倍を受けるようにし、多くの誘惑を避けられるようにしたことを知らないのか。あなたがたが多くの誘惑と、また多くの火の刑罰を免れたのは、ただわたしの働きによってであることを知らないのか。あなたがたがこれまで楽しむことをわたしの父が許しているのは、ただわたしの故であることを知らないのか。どうしてあなたがたの心は今日、たこができてしまったかのように、頑ななままなのか。あなたがたが今日犯す悪は、わたしが地上から去った後に来る怒りの日から、どうして逃れられるだろうか。これほど心の頑なな者たちを、わたしはどうしてヤーウェの怒りから逃れさせることができようか。

『言葉は肉において現れる』の「肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない」より

84.臭く取るに足らない虫であるあなた方は、わたし、ヤーウェの祭壇から生贄を盗む。そうする中で、堕落し、衰えている自らの名を回復して、イスラエルの選民になることができようか。あなた方は恥知らずの哀れな存在である。祭壇の生贄は人々がわたしにささげた物であり、わたしを恐れる人々の情け深さを表している。それらはわたしが支配するためのものであり、わたしが用いるためのものであるのに、人々が捧げた小さなキジバトをどうしてわたしから奪うことができようか。あなたはユダになることを恐れないのであろうか。あなたの地が血に染まった荒野となることを恐れないのであろうか。恥知らずな者よ。あなたは、人々が捧げたキジバトが蛆虫であるあなたの腹を養うためだけの物であると思っているのか。わたしがあなたに与えた物は、わたしが喜んで与えた物である。わたしがあなたに与えなかった物はわたしが好きなようにできるのであって、あなたがわたしへの捧げ物をただ盗むことはできない。働く者はわたし、ヤーウェ─創造の神であり、人々が生贄を捧げるのは、わたしのためである。あなたは、それがあくせくしているあなたへの報酬であると思うのか。あなたは本当に恥知らずである。あなたがあくせくするのは、誰のためであるか。自分のためではないか。なぜわたしの生贄を盗むのか。なぜわたしの金袋から金を盗むのか。あなたはユダ・イスカリオテの息子ではないか。わたし、ヤーウェの生贄は、祭司が享受するものである。あなたは祭司であるのか。あなたは、うぬぼれてわたしの生贄を食べ、食卓に並べさえするのか。あなたには何の価値もない。あなたは何の価値もない、哀れな存在である。わたし、ヤーウェの火は、あなたを燃えつくすであろう。

『言葉は肉において現れる』の「落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう」より

85.あなたの長年の神への信仰の日々において、あなたは誰ものろったことはなく、何も悪いことをしたことがないかもしれない。しかし、あなたのキリストとの関わりにおいて、あなたは真理を語れず、誠実に振る舞えず、キリストの言葉に従えない。そのため、あなたは世界で一番腹黒く邪悪な人である、とわたしは言う。あなたは親戚、友人、妻(あるいは夫)、息子や娘、両親には極めて親切で献身的で、決して他人を利用したりはしないかもしれない。しかし、キリストと相容れることができないのなら、キリストと調和して交流することができないのなら、たとえあなたが隣人を助けるためにすべてを捧げたり、父や母、その他の家族を細やかに世話したりしても、あなたはそれでも悪意があり、さらにずるがしこい策略に満ちている、とわたしは言う。他人と仲良くしているからや少しの善行を行うからというだけで、自分はキリストと相容れると思ってはならない。あなたは自分の親切な意図が天の恵みをだまし取れると思っているのか。少しの善行をすることが、従順になることの代わりになると思っているのか。あなたがたのうち誰も取り扱われ、刈り込まれることを受け入れることができず、皆がキリストの普通の人間性を受け入れることに困難を覚える。それにもかかわらず、自分の神への従順をいつも自慢している。あなたがたのこんな信仰はそれに相応しい報いを引き起こす。気まぐれな幻想にふけり、キリストを見たいと望むのはやめなさい。あなたがたの霊的背丈はあまりに小さく、それゆえキリストを見る資格さえないからである。反抗心を完全に拭い去り、キリストと調和できるようになったときに、神は自然にあなたに現れる。もしあなたが刈り込みや裁きを経験せずに神を見に行くのであれば、あなたは疑いなく神の敵になり、破滅することになる。人間の本性は元来神に敵対している。すべての人間はサタンの深遠なる堕落にさらされたからである。もし人間がその堕落の只中から神と関わろうとしても、そこから何一つ良いものが生まれないことは確実である。人間の言動は、あらゆる節目に人間の堕落を確実にさらけ出し、神との関わりにおいて、人間の反抗心はあらゆる面で明らかにされる。知らず知らずに、人間はキリストに反対し、キリストを欺き、キリストを見捨てるようになる。これが起こると、人間はますます危険な状態に陥り、これが続けば、人間は懲罰の対象になるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より

86.わたしは実に多くの言葉を発した。また、わたしの心と性質を明らかにしてきた。それなのに、人々はまだわたしを知り、わたしを信じることができずにいる。あるいは、人々はまだわたしに従えずにいると言える。聖書の中に生きる人々、律法に囲まれて生きる人々、十字架上で生きる人々、教義に従って生きる人々、わたしが今日している働きの中で生きている人々──この中の誰がわたしと融和しているであろうか。あなたたちは、祝福とねぎらいを受け取ることだけを考え、どうしたらわたしと融和できるか、どうしたらわたしの敵になることがないかということを少しも考えようとしたことがない。わたしは、ほんとうにあなたたちに失望した。わたしは実に多くをあなたたちに与えてきたのに、ほとんど何もあなたたちから受けていないのだから。あなたたちの欺き、あなたたちの傲慢、あなたたちの貪欲、あなたたちの途方もない欲求、あなたたちの裏切り、あなたたちの不服従──このどれにわたしが気づかずにいるのか。あなたたちはわたしをごまかし、わたしをからかい、わたしを侮辱し、わたしを欺き、わたしに要求し、わたしに犠牲を強要する──そうした悪行がどうしてわたしの罰を免れることができようか。あなたたちの邪悪な行為は、わたしへの敵意の証拠、あなたたちがわたしと融和しない証拠である。あなたたちの一人一人が、自分はわたしの心にかなうと信じているが、もしそうなら、誰にその反論できない証拠が適用されるのか。あなたたちは、自分はわたしにこのうえなく誠実で忠実だと信じている。あなたたちは、自分はまことに親切で、思いやりがあり、わたしに多くを捧げてきたと思っている。あなたたちは、自分はわたしに十分奉仕したと思っている。しかし、そうした考えを自身の行いに引き比べてみたことがあるだろうか。わたしに言わせれば、あなたたちはひどく傲慢で、ひどく貪欲でひどくいい加減だ。あなたたちがわたしをばかにする手口は、とても狡猾で、愚かな意図や愚かしい手段をいろいろもっている。あなたたちの忠誠はごくわずかでしかなく、あなたたちの誠意はあまりに薄く、あなたたちの良心は、さらに乏しい。あなたたちの心にはあまりに多くの悪意があって、誰もその悪意から免れられない。わたしでさえ。あなたたちは、自分の子ども、夫、あるいは自己保存のためにわたしを締め出す。わたしのことを気にする代わりに、あなたたちは自分の家族、子供、地位、将来、自分の欲求充足を気にかけている。あなたたちは、話し行動しながらわたしのことを考えたことがいつあったであろうか。寒いとき、あなたたちは自分の子供、夫、妻、あるいは親のことを思う。暑いときもまた、わたしはあなたたちの思いの内に入っていない。務めを果たしている時、あなたは、自分の利益、自分の身の安全、自分の家族のことを考えている。あなたがわたしのために何をしたことがあるというのか。あなたは、いつ、わたしのことを考えたのか。あなたは、わたしとわたしの働きのために惜しむことなく身を捧げたことがいつあったであろうか。あなたがわたしの味方である証拠はどこにあるのか。あなたのわたしへの忠誠はどこに実在しているのか。あなたのわたしへの従順さはどこに実在しているのか。あなたの意図が、わたしから祝福を受けるためではなかったことがいつあったであろうか。あなたたちはわたしをだまし、欺き、真理を弄び、真理の存在を隠し、真理の本質を裏切る。あなたたちはわたしに敵対している。それでは、あなたたちの未来には何が待っているのか。あなたたちはただ、漠然とした神の心にかなおうとして、単に漠然とした信仰を追究しているが、あなたたちはキリストと融和しない。あなたたちの悪事は、邪悪な者たちが当然受けるものと同じ報復を受けるのではないか。その時、あなたたちは、キリストと融和しない者で、怒りの日を免れることのできる者はいないことに気づくであろう。あなたたちはまた、キリストに敵対する者にどのような報復が行われるかを知ることになるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より

87.あなた方はみな、神の前で報われ、神の寵愛を受けたいと願っている。神を信じ始めた者は誰でもそのようなことを望むものである。誰もが高尚な物事を追い求めることに夢中になり、誰ひとり他者に後れを取りたくないからである。これが人というものである。まさにそれゆえに、あなた方の多くが絶えず天の神の機嫌を取ろうとしているのだが、実際には、あなた方の神に対する忠実さと正直さは、自分自身に対する忠実さと正直さよりもはるかに劣る。私はなぜそう言うのか。なぜなら私は、神に対するあなた方の忠実さを全く認めておらず、それどころか、あなた方の心の中にいる神の存在を否定しているからである。言うなれば、あなた方が崇拝する神、あなた方が敬慕する漠然とした神は、そもそも存在していないのである。私がこれほどまでに断言できるのは、あなた方が真の神からあまりにも遠ざかっているからである。あなた方の忠実さの根拠は、あなた方の心の中にある偶像である。一方、私から見れば、あなた方は偉大とも非力とも思っていない神を、言葉で認めているにすぎない。神から遠ざかっていると言うのは、あなた方が漠然とした神を身近に感じている一方で、真の神からは遠く離れているということである。「偉大ではない」と言うのは、今日あなた方の信じている神が、大した能力のない人間、大して高貴ではない人間のようにしか見えていないことを指している。そして「非力ではない」と言うのは、その人物が雲を呼び雨を降らせることはできないにしても、神の霊に呼びかけて天と地を揺るがすほどの働きをさせ、人々をすっかり困惑させることができるという意味である。表面上、あなた方はみな地上のキリストに極めて従順なようだが、実質的にはキリストを信仰してもいなければ愛してもいない。つまり、あなた方が本当に信じているのは自分自身の感情という漠然とした神であり、あなた方が本当に愛しているのは、日夜恋い慕うものの直接会ったことがない神なのである。キリストに対するあなた方の信仰はわずかでしかなく、愛はない。信仰とは信じることと信頼することである。愛とは心の中で崇拝して敬慕し、決して離れないことである。しかし、今日のキリストに対するあなた方の信仰と愛は、そこにまったく至っていない。信仰について言えば、あなた方はキリストをどのように信仰しているのか。愛について言えば、あなた方はキリストをどのように愛しているのか。あなた方はキリストの性質を全く理解しておらず、ましてやキリストの実質などなおさら知らないのに、どのようにしてキリストを信仰するというのか。キリストに対するあなた方の信仰の実体はどこにあるのか。どのようにキリストを愛しているのか。キリストに対するあなた方の愛の実体はどこにあるのか。

『言葉は肉において現れる』の「どのように地上の神を知るか」より

88.イエスを見る前には、つまり、受肉した神を見る前には、たとえばイエスの外観、話し方、生き方などについて、あなたがたはあらゆる考えを抱くことであろう。しかし、ひとたび本当にイエスを見たら、あなたがたの考えはすぐに変わる。なぜか。その理由を知りたいか。人間の考えを見過ごすことはできないというのは本当である。しかしそれ以上に、キリストの本質は人間が変えることを許さない。あなたがたはキリストを不死の人、あるいは賢人としてとらえており、誰一人としてキリストを神聖な本質をもつ普通の人としてとらえていない。したがって、昼も夜も神に会うことを切望している人の多くが実は神の敵であり、神と相容れないのである。これは人間側の間違いではないだろうか。今でさえ、あなたがたは自分の信心と忠実は十分なので自分はキリストの顔を見るのに相応しいと考えている。しかし、わたしはあなたがたに実際的なものをさらに多く備えるように強く勧告する。これは、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う人の多くが失敗したから、また失敗するからである。彼らは皆パリサイ人の役割を演じる。あなたがたの失敗の理由は何か。それはまさに、あなたがたの観念の中に立派で称賛に値する神がいることである。しかし実際は人間が望むとおりではない。キリストは立派でないだけでなく、特に矮小である。キリストは人間であるというだけではなく、ごく普通の人間である。キリストは天に上ることができないだけでなく、地上を自由に動き回ることさえできない。そのため、人々はキリストを普通の人間として扱う。人々はキリストと共にいるときにキリストを気軽に扱い、不注意に話しかけ、しかも同時に「真のキリスト」の到来をいまだに待っている。あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、その言葉を普通の人間の言葉とみなしている。このため、あなたがたはキリストから何も受け取っておらず、代わりに自らの醜さを完全に光にさらけ出しているのである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より

89.キリストと触れ合う前に、あなたは自分の性質が完全に変革したと、自分はキリストの忠実な追随者であり、キリストの祝福を受けるに自分ほど値する人は他にいないと、多くの道を旅し、かなりの働きを行ない、多くの成果をもたらしてきたので、あなたは最後に栄冠を受ける人の一人になるに違いないと信じているかもしれない。しかし、あなたが知らないかもしれない真実が一つある。すなわち、人間の堕落した性質と反抗心と抵抗は、人間がキリストを見るときに暴露され、そのときに暴露される反抗心や抵抗は他のどの時よりも絶対的に完全に暴露される。それは、キリストは人の子、すなわち普通の人間性をもつ人の子であるため、人間はキリストに栄誉を与えることも尊敬することもないからである。神が肉において生きているために、人間の反抗心は徹底的に、詳細まで鮮明に光にさらけ出される。それで、キリストの到来は人類の反抗心をすべて明るみに出し、人類の本性を際立たせた、とわたしは言うのである。これは「山から虎をおびき出す」、「洞窟から狼をおびき出す」と呼ばれる。あなたは自分は神に忠実であるとあつかましくも言うのか。自分は神に絶対的な服従を示しているとあつかましくも言うのか。自分は反抗的ではないとあつかましくも言うのか。「神がわたしを新しい環境に配置するたびに、わたしはいつも不平を言わずに服従し、さらに、神についての観念も一切抱かない」と言う人がいる。また、「神がわたしに何を課しても、わたしは力の限りを尽くし、決して怠けない」と言う人もいる。ならば、わたしはあなたがたに問う。キリストと共に生きるとき、あなたがたはキリストと相容れることができるのか。そして、どれだけの時間のあいだ、キリストと相容れるのか。一日か。二日か。一時間か。二時間か。あなたがたの信仰は確かに称賛すべきものかもしれないが、粘り強さという点では、あなたがたは大したことはない。ひとたび本当にキリストと共に生きるようになると、あなたの独善性とうぬぼれは言葉と行動をとおして少しずつさらけ出され、あなたの行き過ぎた欲望、不服従な考え方、不満もまた自然に明らかになる。最終的には、あなたの傲慢はさらに大きくなり、水と油のように、あなたとキリストは相容れなくなり、そうなるとあなたの本性は完全に露わになる。そのとき、あなたの観念はそれ以上隠すことはできなくなり、あなたの不満も自然に表れ、あなたのいやしい人間性は完全にさらけ出される。しかし、そのときでさえ、あなたは自分の反抗心を否定し続け、代わりに、このようなキリストは人間には受け入れ難く、人間に対して厳し過ぎ、もしキリストがもっと優しければ完全に服従するだろうと考える。あなたがたは自分の反抗心には正当な理由があり、キリストが自分に何かを強要しすぎるときだけキリストに反抗するのだと考える。あなたがたは自分がキリストを神として見ておらず、キリストに従う意志がないことを一度たりとも考慮したことがない。むしろ、キリストがあなたの望みどおりに働きを行うことを執拗なまでに主張し、キリストがあなたの考え方と一致しないことを一つでもすれば、直ちにキリストは神ではなく、一人の人間だと考える。あなたがたの中には、このようにキリストと争ったことがある人が多くいるのではないのか。あなたがたが信じているのは結局のところ誰なのか。そして、あなたがたはどのように追い求めているのか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より

90.あなたがたはキリストを見たいと常に思っているが、自分をそのように高く評価しないことをわたしは勧める。誰でもキリストを見ることができるが、誰もそうするに相応しくない、とわたしは言う。人間の本性は邪悪、傲慢、反抗心に満ちているため、キリストを見た瞬間にあなたの本性はあなたを破壊し、あなたを死に至らせる。あなたの兄弟(あるいは姉妹)との関わりは、あなたについて特に何も示さないが、あなたがキリストと関わるときには、事はそのように単純ではない。何時でも、観念が根を張り、傲慢が芽を出し、反抗心はイチジクの実をつけるかもしれない。そのような人間性をもっていて、どうしてあなたがキリストと関わるに相応しくなれるのだろうか。あなたは毎日、その一瞬一瞬に本当にキリストを神として扱うことができるのか。あなたは本当に神への服従という現実をもっているのか。あなたがたは心の中で立派な神をヤーウェとして礼拝しつつ、目に見えるキリストを人間とみなしている。あなたがたの理知はあまりに劣っており、あなたがたの人間性はあまりに卑しい。あなたがたはキリストを神として常に見ることができない。ときどき、そのような気分になったときだけ、あなたがたはキリストをひっつかまえて、神として礼拝する。このため、あなたがたは神の信者ではなく、キリストと戦う共犯者の集団である、とわたしは言うのである。他人に親切にする人でさえ報われるのに、キリストはあなたがたのあいだでそのような働きをしたものの、人間からは愛も報いも従順も受け取っていない。これは胸が張り裂けるようなことではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より

91.キリストの神性はすべての人を超越するもので、ゆえに彼はあらゆる被造物の最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それは彼の身分を決定する。よって彼の人間性がいかに普通であっても、神自身の身分を持っていることは否定できない。彼がどのような観点から語り、どのように神の心に従っても、神自身ではないと言うことはできない。愚かで無知な者はしばしばキリストの普通の人間性を欠陥と見なす。人はどれほど自身の神性を現して明らかにしたキリストをも、キリストと認めることができない。そしてキリストが服従と謙遜を示せば示すほど、愚かな人間は益々キリストを軽くあしらう。キリストに対して排他的、侮蔑的な態度をとり、一方で尊大な姿の「偉人たち」を高い地位に置いて崇拝する者たちさえいる。人の神に対する抵抗と不従順は、肉となった神の本質が神の心に従うという事実と、キリストの普通の人間性とから来る。ここに人の神に対する抵抗と不従順の根源がある。もしキリストが人間としての外観を持たず、被造物としての観点から父なる神の心を求めることもせず、超人間性を持っていたならば、不従順になる人間はおそらくいないだろう。人が常に天にいる目に見えない神の存在を信じようとする理由は、天にいる神は人間性を持たず、被造物としての性質を一つも持たないからである。そのため人は常に天にいる神には最大の畏敬を抱き、キリストには侮蔑的な態度をとる。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

92.信仰に関して言えば、信仰があるので神に付き従うのであり、もしそうでなければ、そのような苦しみに耐えることはないと多くの者は考えるかもしれない。それではわたしは尋ねる。あなたは神の存在を信じているのに、決して神を畏れないのはなぜなのか。もしあなたが神の存在を信じているなら、それではなぜ、心に神に対する恐れをいだかないのだろうか。キリストは神の受肉であるということを受け入れるなら、それではなぜ、あなたはそれほどに彼を侮り、それほど不敬な態度で振るまうのだろうか。なぜあなたはあからさまに彼を批判するのだろうか。なぜいつも彼の所在を詮索するのだろうか。なぜあなたは彼の采配に従わないのだろうか。なぜ彼の言葉に従って行動しないのだろうか。なぜあなたは彼をゆすり、捧げ物を奪い取ろうとするのだろうか。なぜあなたはキリストに成り代わって話すのだろうか。なぜあなたは、彼の働きと言葉が正しいかどうかを判断するのだろうか。なぜ彼のいないところでずうずうしくも彼を冒涜するのだろうか。このようなこと、さらにほかのことがあなたがたの信仰を形成しているのだろうか。

あなたがたの話すことと行いのあらゆる部分が、あなたがたが内面に抱くキリストへの不信仰の要素を露呈する。あなたがたの行いの動機と目的には、不信仰が浸み込んでおり、あなたがたのまなざしから発するその意図さえそのような要素で汚れている。つまり、あなたがた一人ひとりが、一瞬一瞬、不信仰の要素を抱いているのである。そうであれば、あなたがたの体の中を巡る血には、この肉となった神に対する不信仰が浸み込んでいるので、あなたがたはどの瞬間にもキリストを裏切る危険性があるということである。したがって、あなたがたが神への信仰の道に残す足跡には深さがないとわたしは言う。この神への信仰の道を行く旅路において、あなたがたはしっかりと地に足をつけておらず、単に動作を行なっているに過ぎない。あなたがたはいつもキリストの言葉を完全に信じず、すぐに実践に移せないのである。これが、あなたがたにキリストへの信仰がない理由である。いつもキリストについて観念を持っていることが、あなたがたがキリストを信じないもうひとつの理由である。キリストの働きに対していつも懐疑心を持つこと、キリストの言葉に耳を傾けようとしないこと、キリストが行なう働きが何であれ、それにいつも意見を持ち、それを適切に理解できないこと、どんな説明を受けても、観念を手放すことに苦労することなど、これらはすべて、あなたがたの心の中に混入している不信仰の要素なのである。あなたがたはキリストの働きに付き従い、決して遅れをとらないが、あなたがたの心の中にはあまりにも反逆が入り混じっている。この反逆は、あなたがたの神への信仰における不純物なのである。おそらくあなたがたは同意しないであろうが、もしあなたがその不純物から来る自らの意図を認識できないなら、あなたは間違いなく滅びる者の一人となる。なぜなら、神は、彼を本当に信じる者だけを完全にするのであり、彼に懐疑的な者、ましてや彼に渋々従ってはいても決して彼が神であるとは信じない者を完全にしないからである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じる人なのか」より

93.一部の人々は真理を喜ばず、裁きとなればもっと喜ばない。むしろ、人々は権力と富に喜びを見出すのであり、そのような人々は俗物と呼ばれる。彼らはもっぱら、影響力を持つ世界中の宗派や、神学校出身の牧師や教師を探し求める。真理の道を受け入れたにもかかわらず、彼らはどこまでも懐疑的で、自分自身を完全に献げることができない。彼らは神のために犠牲を捧げることについて話しはするものの、その目は偉大な牧師や教師に注がれ、キリストは無視されている。彼らの心は名声、富、栄誉にばかり向けられている。彼らは、そのような取るに足りない人がそれほど多くの者を征服することができ、そのような平凡な人が人を完全にすることができるなどと全く信じない。塵と糞の中にいるこれらのとるに足りない人々が神に選ばれているとは信じないのである。もしそのような人々が神の救いの対象であれば、天と地がひっくり返り、すべての人間が大笑いするだろうと彼らは信じている。彼らは、もし神がそのような取るに足らない人々を完全にするために選んだのであれば、先に挙げたような偉大な人たちは神そのものになると信じている。彼らの考え方は不信仰によって汚れている。実際のところ、不信仰どころか、彼らは、ばかげたけだものである。なぜなら、彼らは地位、名声、権力だけに価値を置き、重要視するものは大組織や宗派であるからである。彼らはキリストに導かれる者のことを全く考慮しない。キリストに、真理に、そしていのちに背をむけた裏切り者でしかないのである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じる人なのか」より

94.あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、目立った地位にある偽の牧者たちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を愛さないが、邪悪な世と交わりを持つ奔放な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを奪い取り放蕩な生活を送る屍たちを賞賛するのである。あなたはキリストのそばで苦しむ覚悟はないが、あなたに肉、言葉、支配しか与えない無謀な反キリスト者たちの腕の中に喜んで飛び込む。今でもあなたの心は、彼らに、彼らの評判に、彼らの地位に、そして彼らの影響力に向いている。それなのに、あなたはキリストの働きを飲み込みがたいものにする態度をとり続け、進んでそれを受け入れようとしない。だから、あなたにはキリストを認める信仰がないとわたしは言うのである。あなたが今日に至るまでキリストに従ってきたのは、あなたが強いられていたからに過ぎない。一連の気高いイメージが、あなたの心にいつまでもそびえている。彼らの言葉や行いのひとつひとつが忘れられず、彼らの影響力ある言葉や手も忘れられない。あなたの心の中では、彼らは永遠に至高で、永遠に英雄なのである。しかし、これは今日のキリストにはあてはまらない。彼はあなたの心の中で永遠に取るに足らない存在であり、永遠に畏敬に値しない。なぜなら、彼はあまりにも普通すぎ、あまりにも影響力がなさ過ぎ、高遠さからははるかにかけ離れているからである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じる人なのか」より

95.今なお、あなたがたのうちに大いに不信仰がある。あなたがた自身の内側をよく見てみよ。そうすれば、必ず答えが見つかる。あなたが真の答えを見つけるとき、あなたは自分が神を信じる人ではなく、むしろ神を欺き、冒涜し、裏切る者であり、神に忠実でない者であることを認める。そのときあなたは、キリストは人ではなく、神であると悟る。その日が訪れると、あなたはキリストを畏敬し、恐れ、真に愛する。今、信仰はあなたがたの心の30パーセントしか占めておらず、残りの70パーセントは疑いが占めている。キリストによってなされたいかなる行いも、話されたいかなる言葉も、あなたがたにキリストについての観念や意見を形づくらせる。このような観念や意見は、キリストに対するあなたがたの完全な不信仰から生じるのである。あなたがたは天にいる目に見えない神だけを敬慕し惧れ、地上の生けるキリストを全く重んじないのである。これもあなたがたの不信仰ではないだろうか。あなたがたは、過去に働いた神だけを慕い、今日のキリストを直視しようとしない。このすべてが、あなたがたの心にいつまでも混ざり合い、今日のキリストへの信仰を欠いた「信仰」なのである。わたしは決してあなたがたを過小評価しない。あなたがたの内にはあまりにも多くの不信仰があり、あなたがたには不純で、詳細に吟味されねばならないところが多すぎるからである。このような不純物は、あなたがたが全く信仰を持たないことのしるしである。このような不純物はあなたがキリストを放棄したことの目印であり、あなたがたにキリストの裏切り者の烙印を押す。このような不純物は、キリストについてのあなたがたの認識を覆い隠すベールであり、あなたがたがキリストのものとされることに対する障壁であり、あなたがたがキリストと相容れるのを妨げる障害物であり、そしてキリストがあなたがたを承認しないという証拠なのである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じる人なのか」より

96.長年にわたる働きを通じて、あなた方は多くの真理を目の当たりにしてきた。しかしどのような事柄が私の耳に入ってきたか、あなた方は知っているのか。あなた方のうち喜んで真理を受け入れる人はどれほどいるのか。あなた方はみな、自分たちは喜んで真理の代価を払うと信じているが、真理のために本当に苦しんだ者が、あなた方の中にどれほどいるというのか。あなた方の心の中には不義しかなく、そのため誰もが同じように不正直で心が曲がっていると思うのである。受肉した神が普通の人間のように優しい心や慈愛を持ち合わせていないこともありうる、と信じるに至るほどに。さらに、あなた方は高潔さや慈悲深く慈愛に満ちた性質は天の神にのみ存在すると信じている。あなた方は、そのような聖人は存在せず、ただ闇と悪が地上を支配するのみだと信じているが、その一方で神とは、人々が善きものや美しきものに対する自らの切望を託す先であり、人々によって作られた伝説上の人物なのである。あなた方の頭の中では、天の神とは非常に立派で正しく偉大な、崇拝し敬慕する価値のあるものであり、一方、地上の神は天の神の単なる代役、単なる道具にすぎないということになっている。あなた方は、この地上の神は天の神に等しいはずがない、まして天の神と比較するなど話にならないと信じている。神の偉大さと栄誉に関して言えば、これらは天の神の栄光の一部だが、人間の本性や堕落となると、それらは地上の神も関わっている特質だというのである。天の神は永遠に高貴だが、地上の神は永遠に取るに足りず、弱く、無能である。地上の神は感情的になることなく、ひたすら義であるが、地上の神には利己的な動機しかなく、公平さも分別もない。天の神は少しも曲った所がなく永遠に誠実だが、地上の神には常に不正直な面がある。天の神は人間を深く愛するが、地上の神が人間に示す配慮は不十分で、人間を全く顧みないことすらある。このような誤った知識がもう長い間あなた方の心の中にあり、将来にわたり永続する可能性もある。あなた方はキリストの全ての行いを不義な視点から見ており、キリストの働きの全ても、キリストの正体も実体も、悪人の視点から評価する。あなた方は重大な過ちを犯し、先人の誰もがなさなかったことをなしてきた。つまり、あなた方は頭に王冠を戴せた高貴な天の神だけに仕え、取るに足りないと見なすあまり自分の目には映らない地上の神には、決して耳も貸さないのである。これはあなた方の罪ではないか。神の摂理に背くあなた方の典型的な例ではないか。あなた方は天の神を崇拝する。あなた方は高貴な像を崇拝し、雄弁で名高い者たちを尊ぶ。あなたは、その手を富で満たしてくれる神の命令には喜んで従い、望みを全て叶えてくれる神を渇望する。あなたが崇拝しない唯一の神は高貴でないその神であり、あなたが嫌う唯一のことは、誰からも高く評価されないその神と関わることである。あなたがやりたがらない唯一のことは、あなたに一銭ももたらさないその神に仕えることであり、あなたが恋い慕うよう仕向けることのできない唯一の者は、魅力のないその神である。この種の神はあなたの視野を広げられず、あたかも宝物を見つけたかのように感じさせることもできず、ましてやあなたの願いをかなえることもできない。ならば、なぜあなたはその神について行くのか。このような問いについて考えたことはあるのか。あなたのしていることはキリストに背くだけではない。より重大なのは、天の神に背くということである。これが神を信仰するあなた方の目的ではあるまい。

『言葉は肉において現れる』の「どのように地上の神を知るか」より

97.あなた方は神に喜んでもらうことを切望するが、神から遠く離れている。何が問題なのか。あなた方は神の言葉こそ受け入れるものの、神の取り扱い、神の刈り込みは受け入れず、まして神の采配の一つ一つを受け入れること、神を完全に信仰することなどできない。ならば何が問題なのか。つまるところ、あなた方の信仰とは、ひよこが生まれることのない空っぽの卵の殻なのである。あなた方の信仰は真理をもたらすこともいのちも与えることもなく、代わりに支えと希望という錯覚を与えてきた。この支えと希望という錯覚こそが、あなた方が神を信じる際の目標であり、真理やいのちが目的ではないのである。だからこそ私は、あなた方の神への信仰の流れが、盲従と無恥によって神の機嫌を取ろうとする行為以外の何物でもなく、決して真の信仰と見なすことはできない、と言うのである。このような信仰からどうしてひよこが生まれようか。言い換えれば、このような信仰が何を成しうるだろうか。神に対するあなたの信仰の目的は、あなた方自身の目標を達成するために神を使うことである。これは神の性質に背いたことを表すさらなる事実ではないか。あなた方は天の神の存在は信じ、地上の神の存在を否定するが、私はあなた方の見方を認めない。私は地に足を着け地上の神に仕える人だけを賞賛し、地上のキリストを認めようとしない人は決して賞賛しない。そのような人は、どれほど天の神に忠実であろうとも、最後は悪人を罰する私の手から逃れられない。このような人は悪人である。彼らは神に敵対し、キリストに喜んで従ったことのない邪悪な者たちである。無論、キリストを知らない者、さらにはキリストを認めない者もみなこれに含まれる。

『言葉は肉において現れる』の「どのように地上の神を知るか」より

98.どの教会にも、教会を混乱させ、神の業を阻害する者が居る。こうした人々は、すべて神の家族に身を隠したサタンである。こうした者は特に演技力に優れ、自らの目的を果たすため、敬意を持ってわたしの前に来て頭を下げ、みすぼらしい犬のように振る舞い、「すべて」を献じているが、兄弟姉妹の前では醜悪な素性を露わにする。こうした者が真理を実践している人を見ると、攻撃して排除し、自分自身よりも手に負えない人を見ると、その人にお世辞を言って機嫌を取り、教会の中では暴君のように振る舞う。この種の「地域の下劣なへび」、あるいは「愛玩犬」は、殆どの教会の中に居ると言えるであろう。この種の者は集まってこそこそと歩き回り、ウインクや秘密の合図を送り合う。この種の者の中に真理を実践する者は皆無である。最も強い毒を持つ者が「悪魔の頭」であり、最も評判の高い者が他の者を従え、一味の旗を高く掲げる。この種の人々は教会内を荒らし回り、否定性を広め、死をもたらし、したい放題、言いたい放題に振る舞い、誰もそれを止める者は居らず、サタンの性質に満ちあふれている。この種の者が妨害し始めるとすぐに、教会内に死の空気が入る。教会内で真理を実践する者は見捨てられ、その者は潜在能力を発揮できない一方、教会を妨害し、死を広める者は、教会内で放縦に行動する。さらに、殆どの人々がこうした者に従う。こうした教会は、明らかにサタンの支配下にあり、そこでは悪魔が教会の王である。教会の人々が立ち上がってこうした悪魔の頭を追放しなかった場合、教会の人々もまた、遅かれ早かれ破滅するであろう。今後は、こうした教会への対策を実施する必要がある。多少の真理を実践できる者が追求していない場合、その教会は追放されるであろう。真理を実践することを望む者や、神の証しに立つことが出来る者が教会内に不在の場合、その教会は完全に追放される必要があり、その教会と他の教会との関係は断絶される必要がある。これを、死を葬り、サタンを追い払う、と呼ぶ。教会に、地域の下劣なへびのような者と、そのへびに従う、分別の無い小ばえのような者が居て、教会に居る者が、真理を理解してなお、そうしたへびのような者の呪縛と操作を駆逐できなかった場合、そうした愚か者は最終的に排除されるであろう。そうした小ばえのような者は、何ら劣悪な事をしていないかもしれないが、ことさら狡猾でずる賢く、そうした者も全て排除されるであろう。そうした者はひとり残らず消し去られるのだ。サタンに属す者はサタンへと戻されるが、神に従う者は間違い無く真理を探し求めるであろう。これは、そうした者の本性により決められる。サタンに従う者を全て滅ぼすことである。こうした者は決して憐れまれることが無いであろう。真理を探し求める者に糧を得させ、心ゆくまで神の言葉を堪能させることである。神は義であり、人間を不公平に扱うことは無い。あなたは、自分が悪魔であれば、真理を実践出来ないであろう。あなたが真理を探し求める者であれば、あなたがサタンの虜にならないことは確実であり、それについて全く疑う余地は無い。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

99.進歩を求めない者は、常に他の者が自分自身と同様に悲観的であり怠惰であることを望み、真理を実践しない者は、真理を実践する者に嫉妬する。真理を実践しない者は、常に混迷している者や分別が無い者を欺くことを求める。こうした者が放つ物事は、あなたを退化させ、引きずり落とし、異常を引き起こし、内面を闇で満たすおそれがあり、またあなたを神から遠ざけ、あなたに肉を愛させ、自らの欲望を満たすようにさせる。真理を愛さず、常にうわべだけで神に接する者は、己を知らず、そうした者の性質により、人々は誘惑されて罪を犯し、神に反抗する。こうした者は真理を実践せず、また他人が真理を実践することを許さない。こうした者は罪を愛し、自分自身を忌み嫌うことは全く無い。こうした者は己を知らず、また他人が己を知ることや、真理を求めることを阻む。こうした者が欺く人々は、光を見ることができずに闇に落ち、己を知らず、真理を明瞭に理解しておらず、神から遠ざかってゆく。こうした者は真理を実践せず、また他人が真理を実践することを阻み、愚かな人々を自らの前に来させる。こうした者は、神を信じるというよりも、自らの祖先を信じている、こうした者が信じているのは、自らの心の中の偶像である、と言った方が良い。神に付き従っていると言う者にとって、自らの目を開き、自分が信じているのが誰かを良く見るのが最善であろう。あなたが信じているのは、本当に神であるか、それともサタンであるか。あなたは、自分が信じているのが神ではなく、自分にとっての偶像であることを知っている場合、自分は信者であると述べずにいるのが最善であろう。あなたは、自分が誰を信じているのか知らないならば、同様に、自分は信者であるとは言わないのが最善であろう。そうであると言うのは、冒涜である。あなたに、神を信じることを無理強いしている者は居ない。わたしを信じている、という言葉は、とうの昔に聞き飽きており、二度と聞きたいとは思わないので、そうした言葉を言わないで欲しい。なぜなら、あなたがたが信じているのは、あなたがたの心の中の偶像であり、あなたがたの中にいる地域の下劣なへびだからである。真理を聞いた時に首を横に振り、死の言葉を聞いた時に満面の笑みを浮かべる者は、サタンの子孫であり、そうした者は全て排除対象となる。教会には識見の無い者が多数居て、何かしら偽りの出来事があると、そうした者はサタンに味方をする。こうした者は、自分がサタンの僕と呼ばれると、不当な扱いを受けたと感じる。こうした者は全く識見が無いと言う者もいるが、こうした者は常に真理の無い側に味方する。重要な時期に、こうした者が真理の味方をしたことや、真理のために立ち上がって議論をしたことは一度も無いが、こうした者は本当に識見が無いのであろうか。こうした者が常にサタンの味方をするのは、何故だろうか。何故、こうした者は真理について正当な言葉も合理的な言葉も決して述べないのだろうか。こうした状況は、本当に一時的な混乱から生まれるのだろうか。ある者の識見が少なければ少ないほど、その者が真理の味方をする能力も低くなる。それは何を示すであろうか。それは、識見の無い者が邪悪を愛していることを示して居るのではなかろうか。それは、識見の無い者がサタンの忠実な子孫であることを示して居るのではなかろうか。こうした者が常にサタンの味方をし、サタンと同じ言葉を述べることが出来るのは何故だろうか。こうした者のあらゆる行動、言動、表現は、こうした者が決して真理を愛する者ではなく、むしろ真理を忌み嫌う者であることを十分に示している。こうした者がサタンの味方をすることが出来ることは、こうしたサタンのために一生涯を通して戦う小悪魔をサタンが真に愛していることを十分に示している。こうした事実は、全て十分に明白ではなかろうか。あなたが本当に真理を愛する者であるならば、真理を実践する者を全く認めることが出来ず、真理を実践しない者が僅かに表情を変えた時、その者に直ちに従うのは、何故だろうか。これはどのような問題であろうか。わたしは、あなたに識見があるかどうかや、あなたがどれほど甚大な代償を払ったか、あなたの勢力がどれほど強いか、あなたが地域の卑劣なへびであるか、旗を掲げる主導者であるかを問題とはしない。あなたの勢力が強いのであれば、それは単にサタンの支援を得ているということであり、あなたが高位にあるのであれば、それは単にあなたの周囲に真理を実践しない者が多すぎるということであり、あなたがまだ排除されていないのであれば、それは今が追放の業の時ではなく、むしろ排除の業の時期だからである。今あなたを追放する喫緊性は無い。わたしは、単にあなたが排除された後の罰を与える日の到来を待つのみである。真理を実践しない者は、全て排除されるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

100.神を真に信じる者は、神の言葉を実践することを望み、真理を実践することを望む者である。本当に神の証しに立てる者は、神の言葉を実践する意志のある者でもあり、こうした者は本当に真理の味方となることが出来る者である。謀る者や不正を行う者は、すべて真理の無い者であり、そうした者は皆、神に恥辱をもたらす。教会に居る者のうち、論争する者はサタンの僕であり、サタンの化身である。こうした者は悪意が過ぎる。識見が無く、真理に味方出来ない者には、すべて邪悪な意図を抱き、真理を汚す。こうした者は、より典型的にサタンを代表する者であり、こうした者に贖いの業は及ばず、全員が間違い無く排除対象となる。真理を実践しない者も、意図的に教会を崩壊させる者も、神の家族として居残ることを許されてはならない。しかしわたしが追放の業を行うのは今ではない。こうした者は、単にあばかれ、最終的に排除されるのみである。こうした者には、これ以上無意味な業はなされない。サタンに属する者は真理に味方出来ない者であるが、真理を探し求める者は真理に味方出来る。真理を実践しない者は、真理の道を聞く価値も、真理の証しに立つ価値も無い者である。基本的に、真理はそうした者が聞くための物ではなく、むしろ真理を実践する者のために述べられる。教会を混乱させ、業を阻害する者は、各人の結末が明示される前に、まず片方によけられる。業が完了した後、こうした者は順番に暴き出されてから排除される。真理を与える時、こうした者はしばらく無視される。人間に対して全ての真理が明示された後、こうした者が排除される。なぜなら、その時は全ての人々が、その種類により分別される時でもあるからである。見識の無い者は、賢明さに劣っているがために、邪悪な者の手により滅ぼされ、惑わされて、戻ることが出来ない。こうした者を、そのように扱う必要があるのは、こうした者が真理を愛さず、真理の味方になることが出来ず、邪悪な者に付き従い、邪悪な者の味方となり、結託して神に反抗するからである。こうした人々は、邪悪な人々が邪悪さを放っていることを完全に知っているが、決心を固めてそうした邪悪な者に付き従い、真理と反対方向へと進む。こうした、真理を実行せず、しかし破壊的で忌まわしい行動を行う人々は、すべて邪悪ではなかろうか。そうした者の中には、自らを「王」のように装う者と、それに追随する者が居るが、両者の神に反逆する性質は全く同じではなかろうか。こうした者は、神は自分達を救わないと言うが、どうして弁解できようか。また、こうした者は、神は義ではないと言うが、どうして弁解できようか。こうした者を滅ぼすのは、自らの邪悪ではなかろうか。こうした者を地獄へ落とすのは、自らの反逆心ではなかろうか。真理を実践する者は、最終的に救われ、真理により完全にされるであろう。真理を実践しない者は、最終的に真理により滅びを得る。これらが、真理を実践するものと、実践しない者を待ち受ける最後である。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

101.あなたは神を信じているので、あなたは神の言葉とその働きの全てに信仰を持たなければならない。つまり、あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことはないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。そのような者は常に神の新しい働きに対して敵対する態度をとり、従う意志など微塵も示さず、喜んで服従を示すことや謙虚になることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で得意になり、誰に対しても従うことをしない。神の前では、自分が説教者として最も長けており、他の人に働きかけることに自分が一番熟練していると考える。自分が獲得した宝を決して手放そうとせず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。このような人が、教会内に確かに数名存在する。このような人々は、「不屈の英雄」と呼ぶことができ、世代を超えて神の家に留まるのである。彼らは神の言葉(教義)を語ることを自分の最高位の本分と解釈する。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの「神聖で犯すべからざる」本分を続ける。彼らに触れる者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりもいない。神の家で「王」となり、何代にも亘ってはびこり、他の者を圧制する。このような悪魔の一団は、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔をわたしの目の前に生かしておけるだろうか。半分だけ従っている者でさえ最後まで歩き続けることはできないのに、従う気持ちが微塵もないこのような暴君が最後まで歩き続けられないのは尚更である。神の働きは人間によって簡単に獲得されるものではない。人間が全力を尽くしても、その一部だけを得て最後に完全にされるだけである。そうであれば、神の働きを潰そうとしている大天使の後代はどうであろうか。彼らが神のものとなる望みは更に薄いのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より

102.なたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、「どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない」というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

103.神の働きの目的を理解しない者は誰でも神に敵対する人々であり、神の働きの目的が分かっているのに神を満足させようとしない人々はなおさら敵対する。荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

104.悪魔と悪霊は、地上を暴れ回り、神の心と丹精を込めた努力を封じ込めて、それらを浸透不可能なものとしている。何という大罪であろうか。どうして神が不安にならずにいられようか。どうして神が怒らずにいられようか。悪魔は、神の業に対して重篤な妨害や反対を引き起こしている。まったく反逆的過ぎる。そうした大小の悪魔は、自分よりも強力な悪魔に対してでさえも、横柄な態度を取って波乱を引き起こす。悪魔は真理を明瞭に理解しているにもかかわらず、故意に真理に逆らう。まさに反逆の子である。それは、地獄にいる悪魔達の王が玉座に就いたので、自惚れて他人を全て侮辱しているかのようである。真理を求め、義に付き従う者は、何人いるだろうか。そうした悪魔は皆、糞の中のはえがたかった、ぶたや犬のような、頭を振って混乱を招く[21]獣である。そうした悪魔は、自分達が腐敗物に群がるはえに過ぎないことには気づかず、地獄にいる自分達の王が、全ての王の中で至高の存在であると考えている。それだけではなく、自分達のぶたや犬の両親に頼り、神の存在に対して中傷的なことを述べる。そうした小ばえのような者は、自分達の両親がハクジラ[22]のように大きいものであると考えている。そうした者は、自分達は極めて小さい存在であるが、自分達の両親は自分達よりも10億倍大きく不浄なぶたや犬であることに気付かないのであろうか。そうした者は、自分の卑しさに気付かず、ぶたや犬の腐った臭いを根拠として暴れ回り、将来の世代を生み出す妄想にとらわれる。これは完全なる厚顔無恥である。そうした者は、自分の背中に緑色の羽根がある(自分が神を信仰していると主張することを指す)ことで、自惚れて自分の美しさと魅力を至るところで自慢するようになり、密かに自らの不浄を人間になすりつける。さらに、そうした者の自惚れは、あたかも虹色の羽根が自分の不浄を隠すことが出来るかのようであり、それゆえに真の神の存在を迫害する(これは、宗教界の内情を指す)。人間は殆ど知らないが、はえの羽根は美しく魅力的だが、所詮は不浄に満ち、細菌に覆われた、小さなハエである。そうした者は、両親であるぶたや犬の力を借り、圧倒的な凶暴さで地の上で暴れ回る(これは、真の神と真理を裏切る国家の強力な支援を受けて神を迫害する宗教関係者を指す)。それは、あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が、古巣である赤い大きな竜の国家へと、神と共に戻ったかのようである。そうした者は、自らの迫害の業を再開し、その数千年にわたる業を継続する。こうした堕落した者の集団が最後に地の上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、不浄な霊は、さらに狡猾で悪賢くなっているようである。そうした者は、密かに神の業を台無しにする術を常に考えている。そうした者は狡猾で悪賢く、自国で数千年前の悲劇を再現することを望んでいる。そうした行いにより、神は突き動かされて大声で叫ぶ寸前の状態にされ、神は第三の天に戻ってそうした者を滅ぼさずにいられない。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

105.聖書によると、イエスと、主イエスの行動に対するパリサイ人の評価は「気が狂ったと思った…『彼はベルゼブルにとりつかれている』…『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』」(マルコによる福音書3章21〜22節)というものであった。律法学者とパリサイ人による主イエスに対する審判は、何の根拠もなく下されたものではなく、律法学者とパリサイ人が主イエスの行動について見たこと、聞いたことに基づいた結論であった。その審判は、表層的には法に基づき行われ、人々は、それが十分な根拠に基づくものと考えたが、イエスを裁いたその傲慢さを、律法学者とパリサイ人は抑えることが出来なかった。人々の主イエスに対する激昂した憎悪のエネルギーが、神を拒絶する邪悪な本性とともに、人々の向こう見ずな野望と邪悪なサタンのような形相に現れていた。主イエスの審判で律法学者とパリサイ人が口にしたことは、人々の向こう見ずな野望、嫉妬、そして人々の神と真理に対する敵意の、醜く邪悪な本性を動機とするものであった。律法学者とパリサイ人は主イエスの行動が何によるものかを調査せず、イエスの言動の本質を調査することもなかった。その代わりに、律法学者とパリサイ人は、主イエスが取った行動を、盲目的に、苛立って、狂気のように、そして計画的な悪意をもって非難し、卑しめた。それは、主イエスの霊すなわち聖霊、神の霊を見境なく卑しめるような状態にまで達していた。律法学者とパリサイ人が「気が狂った」、「ベルゼブル」と「悪霊どものかしら」と言うのは、そうしたことを意味するものであった。つまり、神の霊はベルゼブルであり、悪霊の頭である、と言ったのであった。彼らは、受肉した神の霊による業を、狂気であるとした。彼らは神の霊をベルゼブル、悪霊の頭として冒涜したのみならず、神の業を罪であるとした。律法学者とパリサイ人は、主イエスを有罪とし、冒涜した。彼らの神に対する反逆的、冒涜的本質は、サタンと悪魔の神に対する反逆的、冒涜的本質と同じである。彼らが象徴するものは、腐敗した人間だけでなく、サタンの権化でもあった。彼らはサタンと人類の繋いでおり、サタンに力を貸す伝令であった。主イエス・キリストに対する彼らの冒涜と誹謗の本質は、神の地位を奪おうとする奮闘努力であり、終わることのない神への反抗、挑戦であった。彼らの神への反抗、神に対する敵対心の本質、そして言葉や考え方が、神の霊を直接冒涜し、怒らせた。それゆえに、神は律法学者とパリサイ人の言葉と行動に妥当な裁きを下し、その行動を聖霊に対する冒涜の罪であるとした。この罪は、この世でもきたるべき世でも赦されることがないのは、聖句に「聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」、また「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」とある通りである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

106.あなたの心の中には非常に大きな秘密がある。あなたはそのことにまだ気がついていない。なぜなら光のない世界でずっと生きてきたからである。あなたの心と霊はあの悪い者に取上げられてしまった。あなたの目は暗闇のせいで見えなくなり、空の太陽も夜のきらめく星も見ることができない。あなたの耳は欺瞞的な言葉で塞がれ、ヤーウェのとどろきわたる声も玉座から流れる水の音も聞こえない。あなたは正当にあなたのものであるすべて、全能者があなたに与えたものすべてを失った。あなたは終わりのない苦しみの海に入った。救出する力もなく、生き残る希望もなく、ただもがき駆け回ることしかできず…。その瞬間から、あなたはあの悪い者に苦しめられるように運命づけられ、全能者の祝福から遠く離れ、全能者の施しの届かないところにおり、後戻りできない道を歩いている。百万回の呼び声もあなたの心と霊を奮い起こす見込みはない。あなたはあの悪い者の手の中で深い眠りについている。悪い者は境界も、方向も、道しるべもない広大な領域へとあなたを誘惑した。それ以来、あなたは本来の純粋さと無邪気さを失い、全能者の気づかいを避けるようになった。あなたの心の中では、あの悪い者があらゆることにおいてあなたを操縦し、あなたのいのちになった。あなたはもはや悪い者を恐れることも、避けることも、疑うこともしない。代わりにあなたは悪い者を心の中で神として扱う。あなたは悪い者を祀り、礼拝するようになる。あなたと彼は物体とその影のように切り離せなくなり、生においても死においても互いに委ねあっている。あなたは自分がどこから来て、なぜ生まれ、なぜ死ぬのか全く知らない。あなたは全能者を見知らぬ人として見る。あなたは全能者の起源を知らず、ましてあなたのために全能者が行った全てのことなど知るよしもない。全能者から来るあらゆることがあなたにとって憎むべきものになった。あなたはそれを大事にしないし、その価値も知らない。全能者からあなたが施しを受けた日から、あなたはあの悪い者とともに歩いている。あなたは悪い者とともに何千年もの風雨を耐え抜いてきて、悪い者とともにあなたのいのちの源であった神に立ち向かう。あなたは悔い改めを一切知らず、ましてや自分が滅亡の淵に達したことなど知りもしない。あなたは悪い者があなたを誘惑し苦しめてきたことを忘れてしまった。あなたは自分の起源を忘れてしまった。そのようにしてきょうこの日まで、一歩一歩悪い者はあなたに害を与えてきた。あなたの心と霊は麻痺し、腐敗してしまった。あなたはもはや人の世の苦悩について不満を言うこともなく、世の中が不公平であるとは信じない。まして、全能者が存在するかどうかなど気にかけることもない。このようになったのは、あなたが随分前に悪い者を真の父と思うようになり、もはや彼から離れることはできないからである。これがあなたの心の中の秘密である。

『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より

107.夜明けが到来すると、明けの明星が東に輝きだす。それは以前にはそこになかった星で、静寂な星空を照らし、人々の心の中で消された光を再び燃え立たせる。人々はこの光のおかげでもはや孤独ではない。この光はあなたも他人も同様に照らす。しかし、あなただけが暗夜に眠りについたままである。あなたには音も聞こえず光も見えない。あなたは新天新地、新しい時代の到来にも気付かない。なぜなら、あなたの父が、「我が子よ、起きなくてよい。まだ早い。外は寒い。外に出るな。剣や槍があなたの目を射抜かないように」とあなたに言うからである。あなたは自分の父の忠告だけを信じる。なぜなら父はあなたより年を取っており、あなたを心から愛しているので、父だけが正しいと信じているからである。そのような忠告と愛があるために、あなたはもはや世界には光があるという言い伝えを信じなくなり、世界にまだ真理があるかどうかを気にかけなくなる。あなたはもはや全能者からの救済を望むなどということはしない。あなたは現状に満足していて、もはや光の到来を期待しないし、言い伝えられる全能者の出現に注意することもない。あなたに関する限り、あらゆる美しいものは復活させることができず、存在することもできない。あなたの目には、人類の明日、人類の未来は消滅し、跡形もなくなっている。あなたは父の衣に必死になってしがみつき、共に苦しむことを気にせず、あなたの旅の友、長旅の方角を失うことを恐れている。広大でもやの掛かった人の世があなたがたの多くを作り上げ、この世の様々な役割を満たすことにひるまず屈せず立ち向かうようにさせた。それにより、死を全く恐れない多くの「戦士」が作り出された。さらには、自らの創造の目的さえ知らない無感覚で麻痺した人間の群れが次々に生まれた。全能者の目はこの苛酷な苦しみにある人類の一人ひとりを眺めている。全能者に聞こえるのは苦しむ人々の泣き叫ぶ声であり、全能者に見えるのは苦しめられた人々の恥知らずな有様であり、全能者が感じるのは救いの恩恵を失った人類の無力と不安である。人類は全能者の配慮を拒絶し、自らの道を歩くことを選び、全能者の目による詮索を避けようとする。彼らはむしろ深海の苦さを、最後の一滴まで、かの敵とともに味わう方を好む。全能者のため息は人類にはもはや聞こえない。全能者の手はもはやこの悲劇的な人類に進んで優しく触れることはない。全能者は何度も何度も奪還し、何度も何度も失う。このように全能者の働きは繰り返される。その瞬間から全能者は疲れ、うんざり感じ始め、その掌中にある働きを止め、人々の間をさまよい歩くのを止める…。人間はこのような変化の一切、このような全能者の行き来にも、全能者の悲しみと憂いにもまったく気づかない。

『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より

108.夜が静かにしのび寄って来ても、人は気づかない。なぜなら、人の心は夜がどのようにして近づくのかも、それがどこから来るのかも感知できないからである。夜が静かに過ぎ去ると、人は日の光を歓迎するが、光がどこから来て、どのように夜の闇を追い払ったかについては、なおさら知るよしもなく、まして気づいてもいない。こうして繰り返される昼と夜の移り変わりによって、人は一つの時期から次の時期へ、一つの歴史的背景から次の歴史的背景へと導かれ、それと同時に、それぞれの時期における神の働きと、それぞれの時代における神の計画が確実に遂行される。人は神と共にこれらの時期を歩んできたが、神が万物と全ての生けるものの運命を支配することも、神がどのように万物を指揮し導くのかも知らない。これは太古の昔から現代まで、人には知るよしもないことであった。その理由は、神の業があまりにも隠され過ぎているからでも、神の計画がまだ実現されていないからでもない。それは、人の心と霊が神からあまりに遠く離れているため、神に従いながらもサタンに仕え続けるまでなり、しかも、まだそのことに気づいていないからである。神の足跡と顕現を積極的に探し求める者は一人もいない。また進んで神の配慮と加護の中で生存しようとする者もいない。その代わりに、この世と邪悪な人類が従う生存の掟に適応するために、邪悪な者、サタンの腐敗に頼ることを人は望む。この時点で人の心と霊は、サタンへの貢物となり、その餌食となった。その上、人間の心と霊はサタンの住みかとなり、サタンの恰好の遊び場となった。こうして人間は、人間であることの原則について、また人間存在の価値と意義についての理解を気づかないうちに失うのである。神の律法、そして神と人の間で交わされた契約は、人の心の中で次第に薄れ、人は神を求めることも神に注意を払うことも止めてしまう。時間が経つにつれ、人は神が人間を創造した理由も、神の口から出る言葉や神から来る全てをもはや理解しなくなる。それから人は神の律法と掟に抵抗し始め、人の心と霊は麻痺してしまう……。神は自らが最初に創造した人間を失い、人間はその始まりの根源を失う。これが人類の悲哀である。

『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より

脚注

1.「略奪」は人間の不従順さを露わにするために用いられている。

2.「敵意の表情と冷淡な不満の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は、それを忍んで頭を下げ、おとなしく従う牛のように人々に仕えるしか無い」は原文では一文であるが、意味をより明確にするために、ここでは二文に分けてある。最初の文は人間の行為を指し、次の文は神が受けた苦難と、神が謙り隠れていることを示している。

3.「偏見」は人間の不従順なふるまいを指す。

4.「絶対的な権力の掌握」は人間の不従順な行動を指す。人間は自らを高くし、他の者を束縛し、自分に従わせ、自分のために苦難を受けるようにさせる。そうした者が神に敵対する勢力である。

5.「操り人形」は、神を知らない者を揶揄するために用いられている。

6.「激化を続ける」は、人間の卑しい行動を強調するために用いられている。

7.「チョークとチーズを見分けることが出来ない」は人間が神の旨を歪めてサタンのようなものにする場合のこと、広義には神を拒む人々の行動を指す。

8.「黒と白を混同する」は、真理を妄想と、また義を悪と混同することを指す。

9.「盗賊」は人間が非常識で識見に欠けていることを示すために用いられている。

10.「屑と残飯」は、人間が神を弾圧する行動を示すために用いられている。

11.「激昂して」は、激怒し、憤慨した醜悪な人間の顔を指す。

12.「ぬけぬけと」とは、人間が無謀になって神に対する畏敬の念が一切無くなった状態を指す。

13.「人間の『入ること』」とは、ここでは人間の不従順なふるまいを指す。人間が真にいのちに入ること(これは良いことである)を指すのではなく、人間の悪いふるまいと行動を指す。この語句は包括的に、神に反抗する人間の行動を指す。

14.「架空の恐怖に苛まれている」は、人間の見当違いな人間としての生活を揶揄するために用いられている。悪魔と共生している醜悪な人間の生活を指す。

15.「最も得意とする」は揶揄的に言われている。

16.「熱狂していく一方であり」とは、人間の醜悪な状態を揶揄的に指す。

17.「周到な計画を胸に秘め」は揶揄的に言われており、人間がどれほど自分を知らないか、自分の本当の霊的背丈に無知であるかを意味している。

18.「尊敬すべき」は揶揄的に言われている。

19.「放ちそう」とは、神に打ち負かされて怒りで湯気が立っている醜悪な人間の状態を指す。神に対する人間の反抗の度合いを示す。

20.「周到な計画を胸に秘め」とは、人間がどれほど自分を知らないか、自分の本当の背丈を知らないかを指して揶揄的に用いられている。

21.「混乱を招く」とは、悪魔的性質の者が暴動を起こし、神の業を阻害し、神の業に反対することを指す。

22.「ハクジラ」は嘲笑的に用いられている。ハエが極めて小さく、ハエにとって、ぶたや犬はクジラのように大きく見えることの比喩表現。

a.原文では、ここに「の金貨」が続く。

b.中国の諺。文字上の意味は「山を占領して自分が王であると宣言する山賊」である。

c.原文では「それ」となっている。

d.これは中国のたとえ話である。

e.原文には「~に対する欲望」という語句が含まれていない。

f.「ひじを外側に向けて曲げる」とは中国の慣用句で、両親、子供、親戚または兄弟姉妹などの近親者を犠牲にして他人を助ける人を意味する。

g.寒號鳥の話はイソップのアリとキリギリスの寓話によく似ている。寒號鳥は温暖な気候の時は巣を作らずに眠っていることを好み、隣に住むカササギが繰り返し警告したにも関わらず巣を作らず、冬が来ると寒號鳥は凍死してしまう。

h.「岸辺に戻る」とは中国語の慣用句で、「悪の道から離れる」という意味。

i.「岸辺に戻る」とは中国語の慣用句で、「悪の道から離れる」という意味。

j.原文では「正常な」は省かれている。

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