IX 堕落した人の悪魔的性質とその本性と本質を明らかにする神についての言葉

人が神に反対し、反抗するのはサタンが人を堕落させているからである。人はサタンによって堕落させられたので、良心が麻痺してしまい、不道徳になり、その考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられるまで、人はもちろん神に従い、神の言葉に従っていた。人はもちろん健全な理知と良心を持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。……正常な理知とは神に従い、忠実であること、神を切望し、神に対して無条件で、神に対して良心を持っていることを意味する。神に対して全身全霊を注ぎ、わざと神に反対するようなことはしないことを意味する。理知が異常な人々はそうではない。人はサタンによって堕落させられた後、神についての観念を作りだし、神への忠誠心や渇望は持っておらず、言うまでもなく神に対する良心も持っていない。わざと神に反対し、批判する。さらには陰で神に悪口雑言を投げつける。人は明らかに神を知っているにもかかわらず、陰で批判し、神に従うつもりはなく、神に盲目的要求や依頼を行うだけである。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

人の性質はこの上なくひどくなり、理知はこの上なく鈍くなり、良心は悪い者によって完全に踏みにじられ、もともとの良心はずっと以前に途絶えてしまった。人は人類に多くのいのちと恵みを授けてくれた受肉の神に感謝しないばかりか、真理を与えてくださったことに対して神に憤慨さえしている。真理に全く関心を持たないので、人は神に憤慨する。肉となった神のために命を捨てることができないだけでなく、神から利益を引き出そうとし、人が神に与えたものの何十倍も神に要求する。そのような良心と理知を持つ人々はこのすべてを当たり前のことと思い、自分は神のために十分費やしたのに、神はあまりにも少ししか与えてくれないと信じている。わたしに一杯の水を与えたのに、両手を伸ばしてミルク二杯分の金貨に等しいものを要求したり、わたしに一夜の部屋を与えたのに、宿泊費として何倍もの額を要求したりする人々がいる。そのような人間性や良心で、どうしてあなたがたはいのちを得ることを望めようか。あなたがたはなんと卑劣な悪党なのだろう。……ほとんどの人は神に対する奉仕の条件さえ口にする。彼は相手が神なのか、人なのかは気にせず、自分の条件だけを話し、自分の欲望を満たすことだけを追求する。わたしのために料理するとき、あなたがたは料理人の料金を要求し、わたしのために走るときは走る料金を要求し、わたしのために働くときは労賃を要求し、わたしの服を洗うときは洗濯代を要求し、教会に与えるときは療養費を要求し、話をするときは演説者の料金を要求し、本を配布するときは配布料金を要求し、何か書いたときは執筆料金を要求する。わたしが取り扱った人々はわたしから補償金さえ要求し、そのうえ、帰宅させられた人々は自分の名前が損なわれたことに対して補償を要求する。結婚していない人々は持参金、または失われた青春時代の補償を要求し、鶏を殺す人々は食肉処理者の料金を要求し、揚げものをする人々は揚げ賃を要求し、スープを作る人々もそれに対する支払いを要求する、等々。これがあなたがたの高尚で偉大な人間性であり、あなたがたの温かい良心に指図されたことである。あなたがたの理知はどこにあるのか。人間性はどこにあるのか。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神に対する人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに充分な説明ができなくなってしまっている──サタンによって大いに堕落させられ、惑わされてしまったので、どこで向きを変えたらよいかわからなくなっているのだ。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人は神を見ると裏切り、見ることができないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知は最初の機能を失い、人の良心も最初の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は人の装いをした獣、毒のある蛇であり……

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

あなたがたは、自分の追求において、個人的な観念や希望や未来が多すぎる。現在の御業は、あなたがたの地位に対する欲望と、とりとめも無い欲望を取り扱うためのものである。望み、地位に対する欲望[j]、そして観念は、典型的なサタンの性情の表れである。そうした物事が人々の心に存在する理由は、サタンの毒が常に人間の考えを腐敗させ、そうしたサタンの誘惑を人間が拒めないことにある。そうした者は罪の中で生活しているが、それを罪と考えず、「私達は神を信じているので、神は私達に祝福を与え、万事適切な采配を行うに違い無い。私達は神を信じているので、他人よりも優れて居るに違い無い。また、私達は他の誰よりも地位と将来性が高いはずである。私達は神を信じているので、神は私達に無限の祝福を与えるであろう。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないであろう。」と考える。人間の心は、長年にわたり人間が生存のために依存してきた思想により腐敗させられ、その結果人間は不誠実で臆病で卑劣なものとなった。人間には意志の力や決意が欠落している上に、貪欲で傲慢で強情な者となった。人間には、克己的決意が完全に欠乏している上、そうした闇の影響による呪縛から逃れる勇気も無い。人間の考えと生活は腐敗し、神への信仰に対する人間の考え方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人間が自分の神への信仰に対する考え方について語る時、それは聞くに堪えないほどである。人間は皆、臆病で無能で卑劣で傷付きやすい。人間は、闇の軍勢に対して嫌悪感を覚えず、光と真理に対する愛を感じずに、光と真理を排除しようとして出来るだけの努力をする。

『言葉は肉において現れる』の「何故、引き立て役になることを望まないのか」より

人々は恵みの獲得と平和の享受を神への信仰の象徴と見なし、神に彼らへ適切な終着点を与えさせ、この世で彼らにすべての恵みを与え、神を彼らの召使にし、神に彼らとの平和で友好的な関係を維持させ、彼らの間に決して対立がないことを求める。すなわち、まさに聖書に「私はあなたたちの祈りのすべてを聞くだろう」と記されているように、彼らの神への信仰は、神に、彼らの要求すべてを満たすこと、彼らが祈り求める何でも彼らに与えることを約束するよう要求する。彼らは神に誰も裁かないように、誰も取り扱わないよう要求する。神はいつも親切な救い主イエスであり、常に、どこでも人々と良い関係を保つからである。彼らの信じ方はは次のようである。彼らはいつも臆面もなく神にものを求め、彼らが反抗的であろうと、従順であろうと、神はなんでも盲目的に彼らに与える。人々は絶えず神からの「支払い」を要求し、神はまったく抵抗せずに支払わなければならず、神が彼らから何かを手に入れようと入れまいと、神は2倍払わねばならない。神はただ彼らのなすがままである。神は勝手に人々を指揮することはできないし、ましてや彼らの許可なしに、望むままに神の古くからの隠された英知や義である性質を彼らに明らかにすることはできない。彼らはただ己が罪を神に告白し、神はうんざりすることもできずに、ただ罪を赦すしかなく、これが永久に続く。彼らはただ神をこき使い、神はただ従う。聖書の次のように記されているからである。「神の到来は人を神に仕えさせるためではなく、神が人に仕えるためである。神は人に仕えるためにやって来た。」あなたたちはいつもこのように信じていたではないか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

わたしが癒やさずにいられないほどにわたしを信じる人が何人いるだろうか。何人の人たちが、わたしの力で彼らの体から汚れた霊を追い出さずにはいられないほど、わたしを信じるだろうか。そして何人の人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じ、何人の人たちが、無事にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためだけにわたしを信じるだろうか。何人の人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいるだろうか。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人が本来持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人はわたしに癒してくれるように頼んだが、わたしは彼を認めることもせず嫌悪を感じたとき、人はわたしから離れ、魔術師や魔術などの方法を求めた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、彼らはすべて形跡も残さず消えた。だから、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは信仰について何を知っているか」より

大抵の人の神への信仰の実質は、宗教的な信仰である。彼らは神を愛することができず、ロボットのように神に付き従うことしかできない。心から神を求め、慕い求めることができないのだ。黙って神に付き従っているに過ぎない。多くの人は神を信じているが、神を愛している者はほとんどいない。人々が神を畏れるのは、災難を恐れているから、あるいは、神が偉大な存在だから崇めている―しかし、その畏れや尊崇には愛も、心からの思慕もない。人々は信仰体験において真理のごく小さな部分、あるいは、些細な奥義を求めることでしかない。大抵の人は単に従うだけで、混乱の中ではとにかく恵みさえ受け取れれば良いという姿勢でいる。そうした人は真理を求めない。また、神の祝福を受けるために、誠に神に従おうとはしない。人々の神への信仰生活は無意味だ。無価値で、人々はただ自身の利益と目的だけ追求する。神を愛するために神を信じているのではなく、祝福を受けるために信じているのだ。多くの人は好きなように振る舞い、心の赴くままに行動し、決して神のためも、自分のしていることが神の心に適うかどうかも考えない。そうした人は、神を愛することができないのは言うまでもなく、真の信仰を持つことさえ出来ない。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

家族の中で避けられない出来事 (子どもが病気になる、夫が入院する、農作物が不作に見舞われる、家族の虐待等) については、あなたがたは、日常生活で発生するこうした出来事を乗り越えることすら出来ない。こうした出来事が発生した場合、あなたがたは当惑してどうして良いか分からなくなり、殆どの場合、神に対して苦情を述べる。神の御言葉に騙された、神の御業により困らされていると、不平を言う。あなたがたは、そのように考えるであろうか。そうした物事が自分に起こるのは希であると思うだろうか。あなたがたは、こうした出来事の中で暮らしている。神への信仰を成功させることや、神の御旨を満たす方法については、少しも考えることが無い。あなたがたの真の器量は小さすぎる。それは、ひよこよりも小さい。自分の夫の事業で損失が出ると神に不平を言い、神の守りが無い環境に遭遇すると、やはり神に不平を言い、ひよこが一羽真だ時や、高齢の牛が病を煩った時でさえ、神に不平を言い、自分の息子が家族を設ける時が来たが、十分な資金が無い場合にも、神に不平を言い、教会の従業員が自分の家で2度ほど食事したが、教会から払戻が無い場合や、誰も自分に野菜を送って来ない時も、不平を言う。あなたがたは、胃が不平で満たされ、それが原因で時折集会に出席しなかったり、神の御言葉を食べ飲みしなかったりし、多くの場合、長期間にわたって否定的になる。自分に今日起こった出来事は自分の先行きや運命と無関係である。こうした物事は、あなたがたが神を信じていなかったとしても起こるが、今日はそうした物事の責任を神に負わせ、神が自分を排除したと主張する。神への信仰はどうなったのであろうか。あなたがたは真に自らのいのちを全て神に捧げたのではなかったか。仮に、あなたがたがヨブと同様の試練を受けたとしたら、今日、神に付き従うあなたがたのうち、揺るぎなく耐えることが出来る者は居らず、全員倒れるであろう。また単純に、あなたがたとペトロの間には、果てしない相違がある。現在、あなたがたの資産のうち半分が差し押さえられたならば、あなたがたは神の存在を否定するであろう。もし自分の息子や娘が自分から奪い去られたならば、抗議しながら街路を後進するであろう。自分の人生が行き詰まったならば、「神」にその旨を告げ、私が最初にあなたがたに対して多くの話をして脅したのは何故かと尋ねようとするであろう。こうした場合、あなたがたは差し控える事無く何でもするであろう。

『言葉は肉において現れる』の「実践 (3)」より

神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けよう、どうして災いを避けようということだけを考えている。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいて、そのため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのだ。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちの命の一部であると理解することもない。そうした人々は、神に付き従うのに、ただ一つの目当て、祝福を受けるということしか考えていない。そこで、その目的に関わりあること以外には関心がない。そうした人たちにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが本来の目的であって、それが信仰の価値にほかならないのだ。その目的を果たすことに関わりのないことには、無感動である。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たす。若さを捨て、家族や職を捨て、家から離れて何年も懸命に働く。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものを変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を実現するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力が、そのような献身を続けさせるのだろう。これは良心だろうか。偉大で高潔な人格なのだろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意なのだろうか。これは報いを求めずに神を証しする信心なのだろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心なのだろうか。それとも、個人的で法外な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神なのだろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき不思議に思える。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解したこともない人々が、それほどまでに神に捧げられる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで解明していなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということだ。これは恵みの与え手と受け手との関係だ。簡単に言うと、これは、雇い主と従業員の関係のようなものだ。従業員は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、慈善と慈悲とがあるだけだ。理解はなく、諦めと欺きだけだ。親しみはなく、越えがたい溝があるだけだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

人間の神に対する信仰の最も悲しい点は、神が働きをしている最中に自分なりの経営をしていて、神の経営そのものには無関心なことだ。人間の最大の欠点は、神に服従することを求め礼拝していると同時に、自分なりの理想の終着点を建て上げ、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき存在で、憎しみ、哀れなものか理解したとしても、自分なりの理想や希望を速やかに捨て去ることのできる人が、どれだけいるだろう。また、誰が途中で足を止め、自分の事だけを考えるのをやめられるだろう。神は、自分と密接な協力をして、その働きを成就する者を必要としている。神は、自身に服従するために自身の経営の働きに身も心も捧げられる人を必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者は欲していない。まして、わずかばかりを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者は、無用である。神は、わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を嫌う。神は、自身の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話すような心無い人々を憎む。神は、自身の救いの仕事を通じて利を得ようとする人々をそれにも増して嫌う。それは、そうした人は、神が経営のその働きで成し遂げよう、得ようとしていることにはまったく無関心だからだ。そういう人々は、神の働きを利用して祝福を受けることだけを考えている。そういう人々は、神の心には無関心で、自分たちの未来と運命のことだけを考えている。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

終着点に関する話になると、あなたがたはその話を特に真剣に受け止める。あなたがたは全員この話題について特に敏感である。好ましい終着点に辿り着くために、神にひれ伏すのを切望する者も居る。あなたがたが切望するのは十分理解可能であり、それを言い表すことは不要である。あなたがたは、自分の肉が災いに陥ることは絶対に避けたいと考え、それにも増して、将来は長年続く罰を受けることを避けたいと考えている。あなたがたは、一層自由で快適に暮らすことを望むのみである。ゆえに、終着点の話になると、あなたがたは殊更心配になり、十分注意しないと神の怒りを買い、然るべき報いを受けるかもしれない、と大いに恐れる。あなたがたは、自分の終着点のためであれば、躊躇なく妥協してきた。また、あなたがたのうち、嘗て不従順で軽薄であった多くの者が、突然極めて優しく素直になり、その素直さは寒気がする程である。いずれにせよ、あなたがたは皆素直な心を備えており、終始私に対し、非難であれ、虚偽であれ、信心であれ、隠しだて無く心を開いている。総合的に、あなたがたは私に対し、そうした心の奥にある重要な物事を極めて腹蔵なく「告白」して来た。無論、私もそうした物事を回避したことは無い。なぜなら、そうした物事は私にとって普通の事となったからである。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

あなたがたは、心労の末に神の承認を得るよりも、むしろ終着点のために火の海に飛び込むほうが良いと考えているであろう。私はあなたがたに対して独善的すぎるということではなく、あなたがたの信心は、特に私の行うあらゆる業に直面するに足りないということである。あなたがたは私の言う事を理解できないかも知れないので、簡単に説明する。あなたがたが欲しているのは、真理といのちでは無く、自分の行動原理でも無く、いわんや私が骨折って行う業では無い。あなたがたが欲しているのは、富や地位、家族、結婚など、すべて自分が肉にあって持っている物事である。あなたがたは私の言葉や業を完全に軽視しているので、あなたがたの信仰をひとことで概括すれば、それは「半信半疑」と言える。あなたがたは、自分が完全に専心している物事を得るためなら何も厭うことは無い。しかし、あなたがたの神への信仰に関する事のために、全てを無視することが無いことを、私は知った。むしろ、あなたがたは単に比較的忠誠かつ真剣なだけである。最大限に真剣な心の無い者は、神への信仰に欠陥のある者である。あなたがたのうち、欠陥のある者が多数居るかどうかを、注意深く考える必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

人間性が欠如している者は、神を真に愛することが出来ない。環境が安全で安心なものである時、あるいはそうした者が利益を得る時、そうした者は神に対して完全に従順であるが、自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりした時、そうした者は直ちに反乱を起こす。ほんのひと晩の間に、そうした者は、にこやかで「親切な」人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の根拠も無く、それまでの恩人を生かしておけない敵として扱う。こうした一瞬にして殺しを行う悪魔が追放されていない場合、そうした者は、それ以上の苦難の根源となるのではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

今、人々は肉をもつものを手放すことができない。彼らは、肉の楽しみを放棄できず、この世、金銭、堕落した性質をも捨てることができない。大多数の人はいい加減に追求している。実は、このような人々は、心の中に全く神を持っていない。まして、彼らは神を恐れない。彼らは心の中には神を持たないので、神が行うすべてを知覚することができず、なおさら、彼の口から出た言葉を信じることができない。このような人々はあまりにも肉中心である。彼らは、あまりにも深く堕落させられ、いかなる真理をも欠いている。その上、神が受肉できることを信じない。肉となった神を信じない人、すなわち見える神の働きと言葉を信じない人、見える神を信じないで天の見えない神を崇拝する人はみな、心の中に神を持たない人である。彼らは、神に背き逆らう人たちである。このような人は真理を欠いているのは言うまでもなく、人間性、理性を欠いている。このような人たちにとっては、見える神、触れることができる神はもっと信頼できず、見えない神、触れることのできない神こそが、いちばん信頼でき、またいちばん彼らの気分を晴れ晴れとさせるのである。彼らが求めるのは現実的な真理ではなく、人生の真諦でもなく、まして神の意図でもない。彼らはむしろ、刺激を求めている。もっとも彼らの欲望を満たすことができるものならどんなものであっても、間違いなくそれが、彼らが信じ、追い求めようとするものである。彼らが神を信じるのはただ自分の欲望を満たすためであって、真理を求めるためではない。このような人たちはみな悪を行う人たちではないのか。彼らはとても自信があり、天の神が彼らのような「善良な人々」を滅ぼすとは信じない。むしろ神が彼らを生き残らせてくれ、しかも手厚く報いてくれると思っている。なぜなら、彼らは神のために多くの事をし、神のためにずいぶん「忠誠」を尽くしたからである。もし彼らが見える神を追い求めるつもりなら、彼らの欲望が満たされそうになくなると、彼らは直ちに神に反撃するか、或いはすぐ足を踏みならし烈火のごとく怒るはずである。この人たちはみな自分の欲望を満たす小人である。彼らは、真理を追い求める誠実な人々ではない。このような人々は、キリストを模倣するいわゆる不道徳者である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

わたしは数えきれないほどの言葉を語り、さらに数えきれないほどの量の働きを行ってきた。毎日、わたしは一人ひとりが、その従来の本性およびそれがどのように進化するかに応じて、すべき全てのことを自然に遂行している様子を見ている。知らないうちに、多くの人たちはすでに「正しい軌道」に乗っていた。この正しい軌道は、わたしによってあらゆる種類の人たちが明らかにされるために定められたのだ。わたしはすでにそれぞれの人を違った環境に置いており、その場所で、一人一人は生まれ持った特性を表現し続けている。彼らを縛る者は誰もいないし、彼らを誘惑する者も誰もいない。彼らはすべてにおいて自由であり、彼らが表現するものは自然に出てくる。彼らを自由にさせないたったひとつのものがある。それは、わたしの言葉である。だから多くの人たちは不承不承にわたしの言葉を読むが、彼らの最後が死では終わらないようにそうしているだけであり、決してわたしの言葉を実践しているわけではない。その一方で、一部の人たちは彼らを導き彼らに施すわたしの言葉がなくては日々耐え難いことに気づき、自然にわたしの言葉をいつも手放さないでいる。時が経つにつれてやっと、彼らは人生の秘密、人類の終着点、人間であることの価値を発見する。人類はわたしの言葉の前でこのような有様でしかない。わたしはただすべてのことを自然の成り行きに任せているだけである。わたしは、人がわたしの言葉をその存在の基盤とし、それによって生きるよう強制するようなことは一切しない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より

人の目に、神の言葉は毎日使う食器のように映り、全く大切にしない。このため、人は神の言葉を実践することができない。人は、真理を知ってはいるがそれを実践しない惨めで不幸な存在となってしまった。この人の過ちだけでも、しばらくの間神に嫌悪感を起こさせるに十分であるため、神は人が神の言葉に注意を払わないと何度も言われるのである。それでも、人は思考の中で次のように考える。「わたしたちは毎日神の言葉を研究し、分析しているのに、なぜ神の言葉を気にも留めないと言われるのか。不公平ではないか。」少し細かく分析しよう。人は赤面するであろう。人が神の言葉を読むとき、彼らはその主人の言葉をよだれで汚すパグのように頷き、うやうやしくおじぎをする。そのとき、人は不相応さを感じ、涙がほおを伝わる。悔い改めて新たにスタートしようと望んでいるかのように見えるが、そのときが過ぎると、 従順さはすぐに消え失せ、貪欲な態度が取って代わる。人は神の言葉を脇にどけ、いつも私事が優先され、神の事柄は最後に来ると信じる。このような行為のため、人は決して神の言葉を実践することができない。事実が分かると、彼らは親しい者をないがしろにして他人を助ける。これは彼ら自身の人を裏切ることになる。神が「生活のためにわたしに頼りながら『逆方向に向かって走る』」と言われるのも不思議ではない。これによってのみ、神の言葉には偽りが微塵もなく、完全な真理であり、誇張も全くないことがわかる。それにも関わらず、神の言葉はいささか軽視されてきたようである。人の背丈は低すぎて、それらを受け入れる能力がないからである。

『言葉は肉において現れる』の「三十六番目の言葉の解釈」より

そして、良心や自分たちの存在の価値観を持ったことのない人たちは、静かに事の成り行きを観察し、大胆にわたしの言葉を投げ捨て、自分たちの好きなようにする。彼らは真理や、わたしから出るすべてのものに嫌になる。さらに彼らはわたしの家にいることにもうんざりする。このような人たちはたとえお仕えをしていても、彼らの終着点のため、そしてわたしの懲罰を逃れるために、わたしの家に一時的に滞在する。しかし、彼らの意図は決して変わることはないし、行動も変わることはない。このことは彼らの、祝福に対する願いを助長し、ただ一度で神の国に入り、そこに永久に留まることができ、さらに永久の天国に入る欲求までも助長した。わたしの日が来るのを彼らが待ち焦がれれば焦がれるほど、ますます彼らは、真理が彼らの道の障害物となり、躓きの石となっていると感じる。彼らは、天国の祝福を永久に楽しむために、神の国に入るのを待ちきれない、それも、真理を追求する必要もなく、裁きも刑罰も受ける必要はなく、とりわけ、わたしの家に従属的に留まり、わたしの命令に従うことなどなく。これらの人々がわたしの家に入るのは、真理を求める心を満たすためでも、わたしの経営の下でともに働くためでもない。彼らは単に次の時代に滅ぼされない人たちの仲間に入りたいだけである。よって、彼らの心は、真理とは何か、あるいは真理をどのように受け入れるかなどを全く知るにいたっていない。これが、そのような人たちが真理を実践したことがなく、自らがどれだけ堕落しているかを理解したことがないにもかかわらず、最後まで「しもべ」としてわたしの家に泊まった理由である。彼らは「忍耐強く」わたしの日が来るのを待ち、わたしの働きの方法で翻弄されても疲れを知らない。彼らがどんなに努力しても、彼らがどんな代価を支払っても、誰も彼らが真理のために苦しみ、わたしのために犠牲を払ったことを見ないだろう。彼らの心の中では、わたしが古い時代を終わらせる日を見るのを待ちきれず、さらに、彼らはわたしの力と権威がいかに偉大であるか、切に知りたいと願っている。彼らが決して急いで行おうとしなかったこと、それは、自らを変え真理を追求することである。彼らはわたしがうんざりしているものを愛し、わたしが愛しているものに彼らはうんざりしている。彼らはわたしが忌み嫌うものを慕い、と同時にわたしが忌み嫌うものを失うことを恐れている。彼らはこの邪悪な世に生きているが、それを憎んだことはなく、この世がわたしに滅ぼされるのを心底恐れている。彼らが持っている目的は矛盾している。彼らはわたしが憎むこの世を楽しんでいるが、と同時にわたしがこの世をまもなく滅ぼすよう待ち望んでいる。こうすることで、彼らが真理の道から外れてしまう前に破滅の災難を免れ、次の時代の主人へと変えられるからだ。これは彼らが真理を愛さず、わたしから出る全てのものにうんざりしているからである。おそらく、彼らは祝福を失わないように、しばらくは「従順なる人たち」になるだろうが、彼らの祝福切望症や滅びと燃える火の池に入ることへの恐怖が覆い隠されることは決してないだろう。わたしの日が近づくにつれ、彼らの欲望は着実に強くなってくる。そして災いが大きければ大きいほど、わたしを喜ばせるにはどうしたらよいか、彼らが長い間待ち望んできた祝福を失うのを避けるためには何をどうしたらよいかが分からなくなり、彼らはますます無力になる。一旦わたしの手がその働きを始めると、このような人たちは前衛として仕えるために熱心に行動する。彼らはわたしが彼らに気づかないことを深く恐れ、軍隊の第一線に押し寄せることだけを考える。彼らは自分たちの行為や行動が全く真理に沿っておらず、わたしの計画をただ単に破壊し、妨害させるだけであるということを知らないで、自分が正しいと思うことを言ったり行ったりする。彼らは大いに努力するかもしれないし、困難に耐える意思や意図は真実かもしれないが、彼らがすることすべてがわたしとは関係がないものばかりだ。彼らの行いが良い心がけから出ているのを一度も見たことはないし、ましてや彼らがわたしの祭壇に何か置くのを見たことは決してなかったからだ。これが、彼らが長年わたしに見せてきた行いである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より

あなたがたが長年にわたってわたしに見せてきた行動から、これまで受け取ったことのない答えが出た。そして、このような答えに対する質問は、「真理と真の神の前における人の態度とは、どのようなものだろうか」である。わたしが人に注いできた努力は、人を愛することがわたしの本質であることを証明してきた。そして、わたしに見せる人の行動や行為は、真理を憎みわたしに反抗する人の本質を証明した。わたしは常にわたしに従ってきたすべての人たちを気にかけているが、わたしに従う人たちはわたしの言葉を決して受け入れられない。彼らはわたしから出る提案でさえ、ひとつとして受け取ることができない。これがわたしをもっとも悲しませる。たとえわたしの態度が誠実で、わたしの言葉がやさしくても、誰もわたしを理解できないし、その上、誰もわたしを受け入れることはできない。人々はみな、わたしにまかされた仕事を、自分の本来の意図に従って進めている。彼らはわたしの考えを求めることもなく、ましてやわたしの要望など尋ねることもない。みなわたしに逆らっているのに、彼らは依然としてわたしに忠実に仕えていると主張している。多くの人たちは、彼らに受け入れられない真理あるいは彼らが実践できない真理は、真理ではないと信じている。そのような人たちにとって、わたしの真理は否定され、投げ捨てられるようなものになっている。それと同時に、わたしは言葉の上だけで神として人に認められるようになり、真理でも、道でも、いのちでもない部外者とみなされるようになった。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より

あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は知性と観念のみであり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないか。今日なお、あなたがたはありとあらゆる真理の言葉に対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。あなたがたはキリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どうすれば聖霊の働きに入ることができるのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の策略の間の区別の仕方を知らない。あなたがたはただ、あなたがたの思いに沿わない、神が表明した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、必ず滅ぼされる部類に属する。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の跡継ぎであり、天使長の子孫であり、永遠の破滅を逃れることのできない輩である。……真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽のキリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を差し出すイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に対処するしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、あまりに傲慢だ。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が讃美しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。こうした人々は、何年にわたり神に付き従って来たかによらず、自分の考えや観点は全く変わらない。こうした人々は、信仰を持たない人々のようであり、信者以外の原則や作法に従って物事を対処し、信者以外の人々が持つ生存の規則や信念を遵守している。こうした人々は神の言葉を自分自身のいのちであることを決して認めず、神の言葉が真理であると決して信じず、神の救いを受ける意志が一切無く、神を自らの神として認めたことが一度も無い。こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる霊的な必需品のように扱っているため、神の性質や本質を理解しようとすることが有意義だと考えていない。真の神に該当する物事全てが、こうした人々に無縁であると言えるであろう。こうした人々は無関心であり、わざわざ反応することも無い。これは、こうした者の心の深部において、神は視認できず、触れる事も出来ず、したがって神は存在しない、と常に激しい口調で伝える声があるからである。こうした人々は、そのような神を理解しようとすることは、努力に値しない、自分自身を騙そうとしているだけだと考えている。こうした人々は言葉で神を認めるのみで、本気で証しをすることは無い。また、こうした人々は実践的には何もせず、自分達が利口だと考えている。神は、こうした人々のことを、どう思うであろうか。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神が人類を愛されていることを知った後、人間は、神を愛の象徴として定義する。人間の行動、態度、人間が神をどう扱うか、人間がどれほど不従順であるかを問わず、神には愛があり、神の愛は無限であり、計り知れないので、そうした事は問題にならない。神には愛があるので、人間に対して忍耐できる。神には愛があるので、人々に対してそして人々の未熟さに対して憐み深くあることができ、人間の無知さそして不従順に対して憐み深くあることができる。本当にそれが実状であろうか。一部の人々にとって、神の寛容さを1回ないし複数回経験した時、人間は神に関する独自の認識のなかで、それを重要視し、神は永遠に寛容であり、憐れみ深くあると考え、人生を通して、その寛容さが、神が人間を取り扱う基準であるとみなす。神の寛容さをひとたび経験した時、神は寛容であり、その寛容さは無限で無条件であり、全く原則は無い、と恒久的に定義する人々もいる。……あなた方の神に対するこうした姿勢は、どのような結果を招くであろうか。その結果、あなた方は神に関することを常に結論付けることになる。あなた方は、多少の認識知識を得ると、それに大いに満足し、神の全てを得たような気分になる。その後は、神がそのような存在であると決めつけ、神が自由に動けないようにしてしまう。神が何か新しい業を行った時は、それが神であることを決して認めない。やがて、神が「わたしはもはや人間を愛していない。今後人間には憐れみを与えない。今後は人間に寛容さや忍耐をもって接しない。わたしは人間に対する極度の嫌悪感と反感に満たされている」と言った時、人間はそうした発言に心の底から対抗する。一部の人々は「あなたはもはや私の神ではなく、私が付き従いたい神ではない。あなたがそのような発言をするのであれば、あなたは私の神の資格を失い、私はあなたに付き従う必要はない。あなたが憐れみや愛、寛容さをくださらないのであれば、私はもはやあなたに付き従わない。あなたが私に対して常に制限無く寛容であり、忍耐深くあり、また、あなたが愛であること、寛容であること、そして忍耐深くあることを私に示された場合のみ、私はあなたに付き従うことが可能であり、あなたに最期まで付き従う確信を持つことができる。あなたの寛容さと憐れみを与えられているので、私の不従順や侵害は無制限に赦され、無制限に見逃され、私はいつでも、どこでも罪を犯し、いつでもどこでも罪を告白して赦され、いつでもどこでもあなたの怒りを買うことができる。あなたは、私の結末を決めたり、自分自身の考えを持ってはならない。」とさえ言うであろう。あなた方は、このような疑問についてそこまで主観的かつ意識的に考えないかも知れないが、神を自分の罪を赦すための道具や、美しい終着点を得るための存在とみなす時、あなたはいつのまにか、生きる神を、あなたに対抗する存在、あなたの敵としてしまっている。……

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

わたしは、長年にわたり、神を信仰する大勢の人々と出会って来た。こうした信仰はどのような形態であろうか。神が空気のような存在であるかのように、神を信仰する人々がいる。こうした人々は、神の存在に関する疑問に答えられない。なぜなら、こうした人々は神の存在や不在を感じる事も意識することも出来ず、ましてや神を明確に理解することなど出来ないからである。こうした人々は、無意識のうちに、神は存在しないと考えている。その一方で、神が人間であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、自分達に出来ないことが神にも出来ず、神は自分達と同様に考えているに違いない、と考えている。こうした者による神の定義は「目に見えず、触れることの出来ない人間」である。そのほかにも、神が操り人形であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、神には感情が無く、神は彫像であると考えている。問題が発生した場合、神はどのような姿勢も取らず、観点も意見もなく、人間の思うままである。人間は、単に自分達の好き勝手に信仰しているだけである。こうした者が神を偉大な存在とした場合、神は偉大であり、小さな存在とした場合、神は小さいものとなる。人間が罪を犯して神の慈しみや寛容、愛が必要な時、神は慈しみを与えなくてはならない。こうした人々は、自分の心で神を考え出し、その神に自分達の要求や、願望を全て満たさせる。時や場所、そうした人々が何をしているかを問わず、そうした人々は、神の扱いや神への信仰に、そうした妄想を適用する。……事実、ある者が神をどのように信仰しているかを問わず、その者が真理を求めていない限り、神はその者に否定的な姿勢を取る。それは、あなたが神を信仰している時に、神の言葉が記された本を大切にし、毎日読んで研究しているものの、真の神を無視し、空気や普通の人間、あるいは操り人形のように扱っているからである。わたしがこう説明するのは何故であろうか。なぜなら、わたしの知るところによると、あなた方が問題に遭遇しているか、難しい状況に遭遇しているかを問わず、あなた方の無意識の領域にあり、あなた方の内部で形成された物事には、神の言葉や真理の追究と関連する物事が一切無いからである。あなた方が理解しているのは、自分が考えている物事や自分の観点のみであり、そうした自分の考えや観点を神に対して強制しているのである。そうした物事が神の観点とされ、遵守すべき基準とされている。このような状態を続行すると、時間と共に、あなた方は神から徐々に遠ざかって行く。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根拠を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから未だに彼らはメシアが来るのを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからだ。これほど愚かで頑固で無知な彼らが、神の祝福を得られるだろうか、とあなたがたが言ってみよ。彼らがメシアに会うことなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きのめざすものを知らなかったためにイエスに敵対した。イエスの語った真理の道を知らなかったために、イエスに敵対し、さらにはメシアを理解できなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従うことはなかった。彼らが神を信じる原則は、「どれほどあなたの説教が奥深く、どれほどあなたに権威があろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない」というものである。これらの見方は不合理でばかばかしいものではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

あなたがキリストと共にあるのであれば、あなたはキリストに毎日3回の食事を振る舞い、おそらくお茶も振る舞い、生活に必要な物事を手配し、外見上キリストを神として扱うだろう。何か起きると、人間の観点は、常に神の観点と相反するものになる。人間は神の観点を理解できず、受け入れられない。人間は表面上では神と折り合いが付くかも知れないが、それは神と一致することを意味するものではない。何かが起こるとすぐに、人間の不服従の真実が現れ、人間と神の間にある敵対心が確認される。この敵対心は神が人間に敵対しているのでも、神が人間に敵対することを望んでいるのでも、神が人間を敵対する立場に置き、敵対するものとして扱っているのでもない。むしろ、それは人間の主体的意志と無意識の精神に潜む、神に敵対する本性の問題である。人間は神に由来するもの全てを研究対象とみなすので、神に由来する物事や神が関与する物事に対する人間の反応は、何よりも推測し、疑念を抱き、すぐに神と矛盾し神に反する姿勢を取ることである。その後、人間はそうした受動的な精神状態となり、神と対立し、神と争い、そうした神は人間が従うに値するかどうか疑念を抱くことさえある。人間の理性は、今後はそのようにあるべきでは無いと言うものの、人間はそうすることを選び、何も躊躇せずに、最期まで一貫してそのまま続行する。……このことにより示されている事は、何であろうか。それは、人間と神が敵対していることを示している。それは、神が人間を敵として扱っているのではなく、人間の本質自体が神に敵対するものだからである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

あなたがたの信心と真剣さは一時的なものでしかないことに気付いている。あなたがたの志と、あなたがたが支払う代償は、今のためだけであり、過去のためではないのではないか。あなたがたは、美しい終着点を確保するために、一度だけの決定的な取り組みを行いたいと思っている。あなたがたの目的は、取り引きをすることのみであり、真理に対する負債を抱えることを避けることであり、とりわけ私が支払った代償を償還しないようにすることである。つまり、あなたがたは自分の聡明さだけを用いることを好むが、そのために戦うことを好まない。それがあなたがたの心からの願いではなかろうか。あなたがたは自分自身を隠してはならず、またそれ以上に、自分の終着点のために、食事や睡眠が出来なくなるほど頭脳を苦しめてはならない。いずれにせよ、結局あなたがたの終着点は既に定められている、というのは本当だろうか。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

人は神を追求したがらず、自分の所有物を神のために使いたがらず、生涯を通しての努力を神に捧げたがらず、それどころか、神はやり過ぎだとか、神には人の観念と対立する部分がありすぎるなどと言う。人間性がこのようでは、たとえあなたがたが努力を惜しまないとしても神の承認を得ることはやはりできないだろうし、あなたがたが神を探し求めていないという事実は言うまでもない。あなたがたは自分が人類の不良品だということを知らないのか。あなたがたの人間性ほど卑しい人間性はないということを知らないのか。あなたがたの「称号」は何か知らないのか。本当に神を愛する人々はあなたがたをオオカミの父、オオカミの母、オオカミの息子、オオカミの孫息子と呼ぶ。あなたがたはオオカミの子孫、オオカミの民族である。あなたがたは自己の身分を知るべきであり、それを決して忘れてはならない。自分がなにか優れた人物だと考えてはならない。あなたがたは人類のなかで最も悪意がある、非人間的なものの群である。あなたがたはこのことを全く知らないのか。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より