終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)

目次

「神の働きのビジョン」に関する神の言葉三節からの抜粋

1.ヨハネはイエスがバプテスマを受ける7年前に天の国の福音を広め始めた。彼の働きは、それに続くイエスの働き以上のように人々には思われたが、それでもヨハネは依然として一人の預言者でしかなかった。ヨハネは神殿の中では働いたり語ったりせず、町や村で働き、語った。ヨハネはもちろんユダヤ人国家の中で働き、語ったが、特に貧しい人々の間でそうした。ヨハネは主イエスのために適した人たちを用意し、イエスが働くのに適した場所を準備するために、ユダヤ庶民の間で福音を広めただけで、社会の上層部の人たちとはめったに接触するようなことはなかった。ヨハネのような預言者が切り開いてくれた道で、主イエスは到来するや否や十字架の道を歩み始めることができた。神が自身の働きをするために人となった時、神は人々を選ぶことをする必要もなく、自身では人々を探したり、働く場を探したりする必要はなかった。イエスがやって来た時、そのような働きをする必要はなく、イエスの到来の前にもうすでに適材な人物がイエスのために用意されていた…ヨハネは7年間働いていた。つまり、彼は7年間福音を宣べ伝えていたのである。その間、ヨハネは多くの奇跡は行わなかった。彼の仕事は道を整え、準備をすることであったからだ。そのほかのイエスが成そうとしていた全ての働きは、ヨハネとは関係がなかった。ヨハネはただ人々が救われるように、自分の罪を告白し、悔い改めるよう促し、バプテスマを授けただけだった。ヨハネは新しい働きをし、人が決して歩いたことがなかった道を開いたけれど、やはりヨハネはイエスのために道を整えただけだった。ヨハネは準備の働きをしたただの預言者で、イエスの働きをすることはできなかった。イエスは天の国の福音を語る最初の者ではなかったけれど、またヨハネが進んだ道を継続したけれども、依然としてイエスの働きをすることができる人はほかには誰もいなかった。そしてそれはヨハネ以上の働きだった。イエスは自身独自の道を用意することはできなかった。イエスの働きは神の働きを直接実行するものだった。そしてヨハネが何年働いたとしても、彼はやはり預言者であって、道を整える人でしかなかった。イエスによって成された3年間の働きはヨハネの7年間の働きに優っていた。イエスの働きの本質は同じではなかったからである。 

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(1)」より

2.その時、イエスの働きの一部は旧約聖書と合致しており、律法の時代のモーセの律法とヤーウェの言葉とも合致していた。これらはすべてイエスがかつて行った働きの一部だった。イエスは会堂で人々に説教をし、教えた。そしてイエスに敵対していたパリサイ人を叱責するために旧約聖書の預言者たちの預言を用い、また彼らの不従順さをあばき、こうして非難するために聖書の言葉を用いた。というのは、彼らはイエスが行ったことを軽蔑し、特に、彼らはイエスの働きの多くが聖書の律法を遵守していなかったこと、さらにイエスが教えたことは彼ら自身の言葉より高尚であり、聖書の預言者たちによって語られたことよりさらに高尚だったことを忌み嫌った。イエスの働きは人類の贖いと十字架のためだけにあった。そのため、どんな人を征服するために、イエスはこれ以上の言葉を言う必要はなかった。イエスが人に教えたことの多くは聖書の言葉から来ており、そしてたとえイエスの働きが聖書を越えていなかったとしてさえも、イエスはやはり十字架の働きを達成することができた。イエスの働きは言葉の働きでもなく、人類の征服のためでもなく、人類を贖うためにあった。イエスは人類のために罪のいけにえとして行動をしただけで、人類のための言葉の源として行動したのではなかった。イエスは人を征服する異邦人の働きはしなかったが、神の存在を信じている人たちの間でなされた十字架の働きをした。たとえイエスの働きが聖書に基づいて実行され、パリサイ人たちを非難するために昔の預言者によって言われたことを用いたとしても、これは十字架の働きを完成するのには十分だった。もし今日の働きが依然として聖書の昔の預言者たちの予言に基づいて実行されるなら、あなたがたを征服するのは不可能であろう。というのは旧約聖書には、あなたがた中国人の不従順さ、また罪についての記録はなく、あなたがたの罪の歴史もないからである。それだからもしこの働きがまだ聖書に残っているなら、あなたがたは決して屈服することはないだろう。聖書に記録されているのは限定されたイスラエル人の歴史であり、あなたがたが善か悪かを判断したり、あなたがたを裁いたりすることができるものではない。わたしがイスラエル人の歴史に従ってあなたがたを裁くと想像してみてほしい――今日のようにあなたがたはわたしに従ってくれるだろうか。あなたがたは自分達がどれほど難しい人間か知っているだろうか。この段階で、言葉が全く話されなかったら、征服の働きを完成することは不可能だろう。わたしは十字架に釘付けされるために来たのではないので、あなたがたが征服されるためには、わたしは聖書からかけ離れた言葉を話さなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(1)」より

3. 今日なされる全てのことは現在を基にしているが、やはり律法の時代のヤーウェの働きが基盤になっており、この範囲を超えることはない。たとえばあなたがたの言葉に気をつけること、姦淫を犯さないことなど――これらは旧約聖書の律法ではないだろうか。今日、あなたがたに要求されていることは十戒だけに限らず、以前のものより高尚な戒めや律法であるが、これは以前のものが廃止されたという意味ではない。というのは神の働きのそれぞれの段階は以前あった段階を基盤にして実行されるからである…。もし、今日あなたがたがイスラエルの人々と同じように、戒めに従い、旧約聖書の律法を守ることしか要求されていないなら、もしあなたがたがヤーウェによって制定された律法を暗記するように要求されたとしても、あなたがたが変えられるという可能性はないだろう。もしあなたがたがこれらの限られた戒めを守ったり、数えきれないほどの律法を暗記したりしているだけなら、あなたがたの古い性質は深く根ざし、それを引き抜く方法はないだろう。そのため、あなたがたはますます堕落し、誰ひとり従順にならないだろう。つまり、僅かな簡単な戒めや数知れない律法ではあなたがたにヤーウェの働きを知ってもらうことはできないということである。あなたがたはイスラエル人と同じではない。律法に従い、戒めを暗記することによって、彼らはヤーウェの行いを証しし、ヤーウェに対して揺るぎない献身の思いを捧げることができたが、あなたがたはこれを達成することはできない。そして、旧約聖書時代の僅かな戒めによってあなたがたが心を捧げるようにもならず、それがあなたがたを守ることもないだけではなく、あなたがたをだらしなくさせ、そしてあなたがたをハデスに落とすだろう。わたしの働きは征服の働きで、あなたがたの不従順さや古い性質に向けられているので、ヤーウェとイエスの優しい言葉は今日の裁きの厳しい言葉にははるかに劣っている。そのような厳しい言葉がなくては、何千年もの間服従して来なかったあなたがた不従順の「専門家」を征服するのは不可能だろう。旧約聖書の律法はずいぶん前にあなたがたへの力を失い、今日の裁きは古い律法よりもっとはるかに手ごわい。あなたがたに最も適しているのは裁きであって、律法という取るに足らない制限ではない。というのは、あなたがたは最初の状態の人間ではなく、何千年もの間堕落している人間だからである。あなたがたが今成し遂げなければならないことは、今日の人間の実際の状態に応じて、現代人の才幹と実際の身の丈に応じてであり、あなたがたが教義に従うことは要求されない。それは、あなたがたの古い性質に変化が起こるためであり、あなたがたが自分の観念を捨てるためである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(1)」より

4.当時、イエスの働きは人類全ての贖いであった。イエスを信じる全ての人の罪は赦された。イエスを信じている限り、イエスはあなたを贖った。もしあなたがイエスを信じたなら、あなたはもはや罪人ではなく、罪から解放された者である。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には、反抗的で、神に逆らっている人たちも残っていて、彼らはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救いは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、全ての罪が赦されたことを意味した。もしあなたが信じたなら、あなたはもう罪の中にはいない…イエスは人を完全にし、自身のものとするために来たのではなく、働きの一段階を行ったために来たのである。それは天の国の福音をもたらし、十字架の働きを完成させることであり、イエスが十字架に打ちつけられると、イエスの働きは終わりを迎えた。しかし、現在の段階、征服の働きの段階では、もっと多くの言葉が語られ、もっと多くの働きがなされ、そして多くの過程を踏まなければならない。そのため、イエスとヤーウェの働きの奥義が現わされなければならない。その結果全ての人は自らの信仰を理解し明確にするかもしれない。というのは、これは終わりの日の働きで、終わりの日は神の働きの終わりであり、この働きが完了する時だからである。働きのこの段階はあなたのためにヤーウェの律法とイエスの贖いを明確にし、基本的にはあなたが神の六千年経営計画の全体像を理解し、この六千年経営計画の全ての意義と本質を理解し、そしてイエスによって成された全ての働きとイエスが語った言葉の目的、そしてあなたの聖書に対する盲目的信用と崇拝さえも理解するためである。これら全てがあなたに理解させてくれるだろう。あなたはイエスによって行われた働きと今日の神の働きの両方を理解するようになるだろう。あなたは真理、いのち、そして道を全て理解し見上げるだろう。イエスによって成された働きの段階で、イエスはなぜ神の働きを終えることなく去ったのだろうか。イエスの働きの段階は、完了させるための働きではなかった。イエスが十字架に釘付けにされたとき、イエスが語った言葉もまた終わりを迎えた。十字架の後、イエスの働きは結果として終わりとなった。現段階は違っている。言葉は最後まで語られ、神の働きが全て完了して初めて、神の働きが終わる。イエスの働きの段階の期間、多くの言葉が語られずに終わったか、あるいは明確に語られなかった。しかしイエスの職分は言葉による宣教ではなかったため、自身が何を語って何を語らなかったかは問題にされず、十字架につけられた後に去った。その段階の働きは主に十字架のためであり、今日の働きの段階とは異なる。この段階の働きは基本的には完了すること、明確化すること、そして全ての働きを終結することである。もし言葉が全て最後まで語られないなら、この働きを終える方法はないだろう。この段階の働きで、全ての働きは終わりとなり、言葉を用いて達成されるからである。当時イエスは、人には理解できない多くの働きをした。イエスは静かに去り、今日依然としてイエスの言葉が理解できない人たちが多くいる。彼らの理解は間違っているが、それでも彼らは正しいと信じており、間違っていることに気づかない。最後には、この現段階は神の働きを完全に終わらせ、その結論を提供するだろう。全ての人たちが神の経営計画を理解し知るようになるだろう。人の考え方、意図、間違った理解、ヤーウェとイエスの働きに対する人の観念、異邦人たちについての見解、そして人の全ての不条理は正されるだろう。そして人はいのちの正しい道、神によってなされた全ての働き、そして全ての真理を理解するだろう。そうなった時、この段階の働きは終わりとなるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

5.ヤーウェの働きは世界の創造で、全ての始まりであった。この段階の働きは働きの終わりで、終結である。最初に、神の働きはイスラエルの選びの民の間で実行され、最も聖なる地における新しい時代の夜明けであった。最後の段階の働きは世界を裁き、時代の終わりを遂げるために最も汚れた国で実行される。最初の段階では、神の働きは最も明るい地で行われ、最後の段階は最も暗い場所で実行され、この暗やみは追い払われ、明るさがもたらされ、すべての人々は征服される。最も汚れた、最も暗い場所にいる人々が征服され、すべての人々が神の存在とこの方が真の神であることを認め、すべての人々が確信するとき、この事実は全宇宙を通して征服の働きをするのに用いられるだろう。この段階の働きは象徴的である。一旦この時代の働きが終わると、六千年経営の働きは完全に終わりを迎えるだろう。最も暗いこれらの場所が征服されると、他の場所も同じように征服されることは言うまでもない。そのように、中国での征服の働きのみが、その象徴としての意味を持つ。中国は暗闇のすべての勢力を具現化しており、中国の人々は肉なる人々、サタンのものとなった人々、そして血肉による人々を代表している。赤い大きな竜によって最も堕落させられ、神に最も反抗して、人間性が最も卑しく汚れているのは中国人である。そして、彼らはすべての堕落した人間性の典型である…なぜわたしはいつも、あなたがたはわたしの経営計画の付属物であると言ったのか。それは堕落、汚れ、不義、対立、そして反抗が最も完全に顕れ、色々な形で現れたのは中国の人たちの中においてであるからである。ある意味では、彼らの才幹は乏しく、また別の意味では、彼らの生活と考え方は遅れており、彼らの習慣、社会環境、家族――すべてが劣っており、最も遅れている。彼らの地位もまた低い。この場所での働きは象徴的で、この試験的な働きが全て実行された後、神の次の働きはもっと順調に進むだろう。もしこの段階の働きが完成され得るなら、次の働きも勿論完成される。この段階の働きが達成され、大きな成功をおさめると、全宇宙を通してなされる征服は完全に終わりとなるだろう。実際、あなたがたの間で働きが成功したなら、これは全宇宙を通して成功したと同じことであろう。これはなぜわたしがあなたがたを模範、見本としたいかの意義である。反抗、対立、汚れ、不義…、すべてがこの人たちに見られ、彼らの中には人類の反抗心がすべて代表されている――彼らはまさにそれである。このように、彼らは征服の縮図として掲げられ、一旦彼らが征服されると、彼らは自然に他の人たちの見本となり模範となるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

6.イスラエルで実行された最初の段階ほど象徴的なものはない。イスラエルの民はすべての人々の中で最も聖く、最も堕落していない人たちであり、この地の新しい時代の夜明けは最大の意義を持っていた。人類の祖先はイスラエルから来て、イスラエルは神の働きの発祥地であったということができる。はじめのころ、この人たちは最も聖く、そして彼らはみなヤーウェを礼拝し、彼らの中の神の働きは最大の結果をもたらすことができた…彼らは全人類の中で最も堕落しておらず、はじめのころ彼らは神を見上げ、崇敬することに心を尽くした。彼らはヤーウェの言葉に従い、常に宮で奉仕をし、祭司の衣や冠をつけた。彼らは神を礼拝した最初の人々で、神の働きの最初の対象だった。この人たちは人類すべての見本であり模範だった。彼らは聖、そして義の見本であり模範だった。ヨブ、アブラハム、ロト、ペテロ、テモテのような人たち―彼らはみなイスラエル人で、最も聖なる見本であり模範だった。イスラエルは人類の中で神を礼拝するための最初の国で、他のどこよりも義なる人々が出た。神は将来その地全体の人類をより良く経営することができるように彼らの中で働いた。彼らが成就したことと、ヤーウェに対する義なる礼拝は記録された。その結果彼らは恵みの時代にイスラエルを越えて人々の見本、模範として仕えることができた。そして彼らの行動は今日に至るまで、数千年の働きを支えた。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

7.イエスの名は恵みの時代の始まりを印した。イエスが公生涯を始めた時、聖霊がイエスの名に証しはじめ、ヤーウェの名はもはや語られなかった。そしてその代わり、聖霊が主にイエスの名のもとに新しい働きを始めた。イエスを信じる人たちの証はイエス・キリストのためにあり、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためだった。旧約聖書の律法の時代の終わりは、基本的にヤーウェの名の下で行われた働きが終局を迎えたことを意味した。この後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神はイエスと呼ばれ、ここから聖霊が基本的にイエスの名の下で働きを開始することになった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

8.イエスが再びやって来る時、時代はすでに変わっているが、依然としてイエスと呼ぶことができるだろうか。神はイエスの名によってしか知られていないのか。新しい時代に神は新しい名前で呼ばれることはできないのか。ひとりの人のイメージとある特定の名前が神全体を表すことはできるだろうか。それぞれの時代で、神は新しい働きをし、新しい名前で呼ばれる。神はどのように異なった時代に同じ働きをすることができるのか。神は古い物にしがみついていられるだろうか。イエスの名は贖いの働きのために使われ、終わりの日にイエスが再臨する時依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスは依然として贖いの働きをするのだろうか。なぜヤーウェとイエスは一つであるのに、二人は違った時代には異なった名前で呼ばれるのか。それはその時代の彼らの働きが違っているからではないだろうか。一つの名前で神全体を現わすことはできるだろうか。この様に、神は違った時代には異なった名前で呼ばれなければならない。そして時代を変え時代を現わす名前を用いなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神自身を完全に現わすことはできないからである。そしてそれぞれの名前はある時代の神の性質を現わすだけで、神の働きを現わすためだけに必要である。よって、神は全時代を表すために、どんな名前であれ、神の性質にピッタリの名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代、あるいはイエスの時代のどちらであっても、それぞれの時代は名前によって表されている。恵みの時代の後、最後の時代が来て、イエスはもうすでに到来していた。それなのになぜイエスはまだイエスと呼ばれることができるのだろうか。イエスは人々の中で同じ形を取ることなどできるだろうか。イエスはただナザレ人の姿であったことをあなたは忘れたのだろうか。イエスは人類の贖い主であっただけだということをあなたは忘れたのだろうか。イエスが終わりの日に人を征服し完全にする働きを受け継ぐことなどできるのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

9.神が地上にやって来るたびに、神は自身の名前、性別、姿、そして働きを変えるだろう。神は自身の働きを繰り返すことはなく、常に新しく決して古いままでいない。神が以前やって来た時、イエスと呼ばれた。神が今度再び来る時、依然としてイエスと呼ばれることがあるだろうか。以前イエスが来た時は男性であった。今回も男性だろうか。恵みの時代にやって来た時、イエスの働きは十字架に釘づけにされることだった。神が再びやって来た時、依然として人類を罪から贖われるだろうか。神はやはり十字架につけられるだろうか。それは神の働きの繰り返しではないだろうか。神は常に新しく決して古いままではいられないということをあなたは知らないのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

10.神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。もしあなたが神の働きは常に同じだというなら、神は自身の六千年経営計画を終えることはできるだろうか。あなたは、神は永久に不変であることだけ知っているが、神は常に新しく決して古くはないことをあなたは知っているだろうか。もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を今日にもたらすことができただろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜだろうか。神の働きは常に前進している。だから神の性質が人間に次第に現わされている。そして現わされているのは神の本来の性質である。初めに、神の性質は人には隠されていて、神は決して自身の性質を人に公に現わしたことはなく、人は神について認識がなかった。だから神は自身の性質を徐々に人に現わすために、自身の働きを用いた。しかし、これは神の性質がそれぞれの時代に変化するという意味ではない。神の心が常に変わるので、神の性質が絶えず変わるということではない。むしろ、神の働きが異なった時代で実行されるため、神の本来の性質の全てが徐々に人に現わされ、人は神を知ることができるのである。しかし、これは神がもともと特定の性質は持っておらず、時代と共に変わっていったという証明などではない――そのような考え方は馬鹿げている。神は時代の移り変わりに応じて、人に自身の本来の、特定の性質、そして神であるものを現わしている。一つの時代の働きで神の全体の性質を表現することはできない。そして「神は常に新しく決して古いままではない」という言葉は神の働きに関してであり、「神は不変なり」という言葉は神が本来持っているもの、そして神の存在に関してである。とにかく、あなたは六千年の働きを一点で定義することはできないし、単なる静的な言葉で描くこともできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するような単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはおられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても自身の働きをするし、それは神の働きがいかに前進しているかという象徴である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

11.神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威光は決して変わることはない。神の本質、神が持っているものと神であるものは決して変わることはない。神の働きは常に前進しており、常に深くなる。神は常に新しく決して古いままではいられないからだ。それぞれの時代に、神は新しい名前を名乗り、それぞれの時代に神は新しい働きをし、全ての時代に神は被造物に神の新しい心と新しい性質を見させる。もし人々が新しい時代に、神の新しい性質の表れを見ないなら、彼らは永遠に神を十字架に釘付けにするのではないだろうか。そうすることで神を定義しないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

12.神はそれぞれの新しい時代で、自身の働きを重複しない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日の働きをし、終わりの日に自身の全ての性質を現わす。終わりの日は別の時代で、イエスがあなたがたは災害を被り、地震、飢饉、疫病などにさらされなければならないと言った時代である。それは新しい時代、そしてもはや古い恵みの時代ではないことを示す。もし人々が言うように、神が永久に不変で、神の性質は常に憐れみ深く、いつくしみ深く、人間を自身のように愛し、全ての人に救いを提供し、決して人を憎むことがない者なら、神は果たして自身の働きを完成することができるだろうか。イエスが来た時、イエスは十字架につけられ、祭壇に自身を捧げることによって全ての罪人のために自身が犠牲となった。イエスはすでに贖いの働きを完成し、すでに恵みの時代を終わらせていた。それなら終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何だろうか。同じことをするのはイエスの働きを否定することではないだろうか。もし神がこの段階に来て、十字架の働きをせず、いつくしみ深く憐れみ深いままなら、神は時代を終わらせることができるだろうか。いつくしみ深く憐れみ深い神はその時代を終わらせることができるだろうか。時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、全ての人々を公に裁き、そして神を心から愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

13.最後の日はすでに来ていた。全ての物は種類によって区分され、それらの性質に従って種類分けされるだろう。これは神が人の最後と終着点を明かす時である。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないだろう。刑罰と裁きを通して初めて、全ての物の終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれるとき初めて本当の姿を示す。悪は悪に戻り、善は善に戻り、人は種類によって区分されるだろう。刑罰と裁き通して、全ての物の最後が明かされ、悪人たちは罰せられ、善人たちは報酬を受けるだろう。そして、全ての人たちは神の支配の下で従属することになるだろう。全ての働きは義なる刑罰と裁きが行われることを要求する。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、主に刑罰と裁きである神の義なる性質が終わりの日に明らかにされ、それが人を完全に変えて全き者とする。この神の性質のみが悪を暴露し、よって全ての不義なる人々を厳しく罰することができる。よって、この様な性質は時代の意義を持ち、神の性質の顕示と表示はそれぞれの新しい時代の働きのためである。神は自身の性質を気まぐれに意味もなく示すのではない。もし、人の終わりが終わりの日に明らかにされるとき、神は依然として人に無尽蔵の憐れみと愛を与えるなら、もし神が依然として人を愛しており、人を義なる裁きにさらさず、人に寛容、忍耐、赦しを示すのなら、もし人がどんなに深刻な罪を犯しても、神が義なる裁きをせず依然として人を赦すなら、一体神の経営の全てに終わりはあるだろうか。このような性質はいつ人類を正しい終着点に導くことができるだろうか。例えば、いつもいつくしみ深く、優しい、柔和な裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、誰であっても、いつくしみ深く寛容である。それなら彼はいつ正しい判決にたどり着くことができるのだろうか。終わりの日には、義なる裁きのみが人を分類し、新しい領域に連れて来ることができる。この様に、時代全体に神の裁きと刑罰の義なる性質を通して終わりがもたらされる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

14.神の経営の全てを通して行われる神の働きは明白である。恵みの時代は恵みの時代で、終わりの日は終わりの日である。それぞれの時代に神はその時代を現わす働きをするため、時代間には明確な違いがある。終わりの日の働きが成されるためには、その時代を終わらせる燃焼、裁き、刑罰、怒り、破壊がなければならない。終わりの日は最後の時代を言及する。最後の時代に、神は時代を終わらせないだろうか。そして刑罰と裁きを通してのみ、時代は終わりを迎えることができる。イエスの目的は人が引き続き存在し、生き、そしてより良い存在となることだった。イエスは人を罪から救い、人が絶え間ない悪行をやめ、ハデスと地獄の中で生きることをやめるようにし、人をハデスと地獄から救い出して、人が生き続けることができるようにした。今や終わりの日は来ている。イエスは人を絶滅させ、人を完全に滅ぼすだろう。つまり、イエスは人の不従順さを逆転させるという意味である。そのように、かつての神の憐れみ深くいつくしみ深い性質は時代を終わらせることはできず、神の六千年経営計画を完成することも不可能だろう。全ての時代は神の性質の特別な表われを特徴とし、全ての時代は神によって成されるべき働きを含んでいる。だから、それぞれの時代で神自身によってなされる働きは神の真の性質の表現を含んでおり、神の名前と働きは時代とともに変わり、それらは全て新しい。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

15.律法の時代に、人類を導く働きはヤーウェの名によって成された。そして第一段階の働きは地上で実行された。この段階の働きは神殿と祭壇を建てることで、イスラエルの人たちを導き、彼らの間で働くために律法を用いることだった。イエスラエルの人々を導くことによって、神は地上で神の働きの基礎を築いた。この基礎から、神は自身の働きをイスラエルを越えて拡張した。すなわち、神はイスラエルから始まった自身の働きを外に向けて拡張した。それにより、後の世代が、次第にヤーウェが神であること、ヤーウェが天と地と全ての物を創造し、全ての被造物を造ったことを知るようになった。神はイエスラエルの人々を通して自身の働きを広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地で、地上において神の最も初期の働きは、イスラエル全土でなされた。それが律法の時代の働きだった。恵みの時代の働きで、イエスが人を救った神であった。イエスが持っていたものまたイエス自身は、恵み、愛、憐れみ、自制、忍耐、謙遜、配慮、そして寛容であり、イエスが行った働きの多くは人の贖いだった。そして神の性質に関して言えば、それは憐れみと愛によるものであった。そしてイエスは憐れみ深くいつくしみ深かかったので、十字架に釘づけにされなければならなかった。そうすることで神は、自身の全てを犠牲にするほど、人類を自身のように愛したことを示した。…恵みの時代には、神の名はイエスであり、それは神が人類を救う神であり、憐れみ深く、いつくしみ深い神という意味である。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いはひとりひとりに伴っていた。もし人が神の名を受け入れ、神の存在を受け入れるなら、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、おびただしい数の非常に大きな恵みを受け、救いを受け取ることができる。イエスの十字架を通して、イエスにつき従う全ての人たちは救いを受け入れ、罪が赦された。恵みの時代には、神の名はイエスであった。すなわち、恵みの時代の働きは主にイエスの名の下で成された。 恵みの時代には、神はイエスと呼ばれた。イエスは旧約聖書を越えて新しい働きをし、イエスの働きは十字架で終わり、それがイエスの働きの全てだった。よって、律法の時代では、ヤーウェが神の名であり、恵みの時代では、イエスの名が神を表した。終わりの日には、神の名は全能なる神――全能なる者で、その力で人を導き、人を征服し、人を神のものとし、最終的には時代を終わらせる。どの時代でも、神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

16.もしどの段階においても神の働きが常に同じで、神がいつも同じ名前で呼ばれるなら、人はどのように神を知るだろうか。神はヤーウェと呼ばれなければならない。そしてヤーウェと呼ばれる神以外に神はいない。あるいは神はイエスとだけ呼ばれ、神がイエス以外の他の名で呼ばれることはない。イエス以外では、ヤーウェは神ではなく、全能神も神ではない。人は神が全能であると信じているが、神は人といる神である。神は人といるから、神はイエスと呼ばれなければならない。こうすることは教義に従い、神をある範囲に束縛することである。だから、神がそれぞれの時代にする働き、神が呼ばれる名前、神が持つ似姿、今日までの神の働きのそれぞれの段階などは、ひとつの規律に従うことはないし、いかなる束縛にさらされることもない。神はヤーウェであるが、イエスでもあり、メシヤ、全能神でもある。神の働きは徐々に変わることができ、神の名にあった変化がある。どの一つの名も神を完全に現すことはできず、神が呼ばれる全ての名が神を現わすことができ、神がそれぞれの時代に行った働きが神の性質を現わしている。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

17.終わりの日が訪れる時、あなたが見上げる神が依然としてイエスであり、その者が白い雲に乗ってやって来て、依然としてイエスの姿を持っており、神が話す言葉はまだイエスの言葉で、次のように言われたとしよう。「あなたがたの隣人をあなたがた自身のように愛すべきであり、断食して祈るべきであり、自分のいのちを大事にするように敵をも愛し、他の人に寛容であり、忍耐強く、謙遜すべきである。そうして初めて、あなたがたはわたしの弟子となる。」もしあなたがたがこれら全てをするなら、あなたがたはわたしの国に入るだろう。恵みの時代にはこのように語ったのではないだろうか。あなたがたはこれらの言葉を聞いてどう感じるだろうか。これはまだイエスの働きだと思わないだろうか。それは神の働きの重複ではないだろうか。それは人を満足させるだろうか。あなたがたは神の働きは今のまま留まり、これ以上進歩しないと感じているかもしれない。神にはそのような偉大な力があるだけで、新しい働きはなく、神は限界に達した。2000年前は恵みの時代であり、2000年後、神は依然として恵みの時代の道を説いており、依然として人々に悔い改めさせている。人々は「神様、あなただけがそのような偉大な力をお持ちです。私は神様がとても知恵のあるお方であることを信じていました。でもあなたは寛容と忍耐しか知らず、あなたは敵を愛す方法しか知っておられず、他には何もありません。」と言うかもしれない。人の心の中では、神は永遠に恵みの時代の神のままで、人は常に神はいつくしみ深く憐れみ深いと信じるだろう。あなたは神の働きは常に同じ古い場所で足踏みしているだけと思っているのだろうか。神の働きのこの段階では、神は十字架につけられることはなく、あなたが見るもの触る物全てはあなたが想像し聞いてきたことと全く異なるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

18.「神は私たちと共にいる」というイエスの名は神の性質の全てを現わすことができるだろうか。それは神をはっきりと表現することができるだろうか。もし人が神はイエスとだけ呼ばれ、神は自身の性質を変えることができないので、他の名前を持たないだろうと言うなら、そのような言葉は神への冒涜である。あなたがたは、「神は共にいる」というイエスの名が神の全てを現わすことができると信じているのだろうか。神は多くの名前で呼ばれるが、その中に、神が持っている全てを要約する名前はひとつとしてなく、神を完全に現すことができるものはひとつもない。神は多くの名前を持っているが、これらの多くの名は神の性質を全て明確に表現することはできない。というのは神の性質はあまりにも豊かで、人の認識をはるかに越えているからである。たった一つの言葉あるいは名前では神の全てを現わすにはあまりに不足している。では神は一つの決まった名前を持つことができるだろうか。神はあまりにも偉大で聖であるのに、なぜあなたは神がそれぞれの新しい時代に名前を変えることを許さないのだろうか。それだから、自ら自身の働きを行うそれぞれの時代に、神が行う働きを要約する、その時代に合った名前を用いるのである。神はその時代において神の性質を現わすために、その時代の意味を反映する特有の名前を用いる。神は自身の性質を表現するために人間の言葉を用いる…神がヤーウェ、イエス、メシヤと呼ばれない日がやって来るだろう――神はただ創造主と呼ばれる。その時、神が地上で呼ばれた全ての名前は終わりを迎える。というのは神の地上での働きは終わり、その後神は名前を持たなくなるからである。全ての物が創造主の支配下に入るときに、何故神を非常に適切だけれど不完全な名前で呼ぶだろうか。あなたは今も神の名を求めているのだろうか。未だに神はヤーウェとしか呼ばれないと敢えて言うだろうか。未だに神はイエスとしか呼ばれないと敢えて言うだろうか。あなたは神を冒涜する罪を負うことができるだろうか。神は本来どんな名前も持たなかったということを知るべきである。神にはする働きがあり、人類を経営しなければならなかったので、神は一つ、二つ、あるいは多くの名前を持っただけだった。どんな名で呼ばれるにしても、神自身によって自由に選ばれないだろうか。神は呼び名を決めるのにあなた被造物を必要とするだろうか。神が呼ばれる名前は人が理解できる、人の言葉によるものであるが、この名前は人によって要約されることはない。あなたはただ天には神がおり、神と呼ばれ、偉大な力を持った神自身であり、あまりにも知恵があり、あまりにも崇められ、あまりにも素晴らしく、あまりにも神秘的で、あまりにも権威があり、そしてあなたはそれ以上何も言うことはない。それが、あなたが知っていることの全てである。このように、イエスの名だけで神自身を現わすことはできるだろうか。終わりの日が来ると、神の働きは依然として自身によって成されるが、時代が異なるので、神の名は変えられなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

19.イエスが自身の働きをするために来た時、それは聖霊の指示によるものだった。イエスは聖霊が望むことを行い、それは旧約聖書の律法の時代によってでも、ヤーウェの働きによってでもなかった。イエスが来て行った働きはヤーウェの律法やヤーウェの戒めによるものではなかったけれども、それらの元は同じだった。イエスが行った働きはイエスの名を現わし、恵みの時代を代表した。ヤーウェによって成された働きはヤーウェを現わし、律法の時代を代表した。それらの働きは二つの異なった時代の一つの霊の働きであった。イエスが行った働きは恵みの時代を代表することができるだけで、ヤーウェが成した働きは旧約聖書の律法の時代を代表することができるだけだった。ヤーウェはイスラエルとエジプトの民とイスラエル以外の全ての国々を導いただけだった。新約聖書の恵みの時代のイエスの働きは、神がその時代を指導したように、イエスの名による神の働きであった。もしあなたが、イエスの働きはヤーウェの働きに基づいていて、何も新しい働きはせず、イエスが行ったことは全てヤーウェの言葉によるものであり、ヤーウェの働きとイザヤの預言によっていると言うなら、イエスは人となった神ではない。もしイエスがこのように自身の働きをしたなら、イエスは律法の時代の使徒かあるいは働き手であったのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

20.もしそれがあなたの言う通りなら、イエスは新しい時代を開くことも、他の働きをすることもできなかっただろう。同じように、聖霊は主にヤーウェを通して自身の働きをしなければならず、ヤーウェを通してでなければ、聖霊はどんな新しい働きもできなかっただろう。人がイエスの働きをこのように見ることは間違っている。もし人が、イエスの働きがヤーウェの言葉とイザヤの預言によって成されたと信じるなら、イエスは受肉した神であっただろうか、それとも預言者だったのだろうか。この見方によれば、恵みの時代はなく、イエスは神が受肉した者ではないということである。というのはイエスが行った働きは恵みの時代を表すことができず、旧約聖書の律法の時代を表すことができるだけだからだ。イエスが新しい働きをするために来て、新しい時代を開始し、そしてイスラエルで以前行った働きを打ち砕き、そしてイスラエルでヤーウェによって成された働きによって自身の働きを行ったことはなく、神の古い規律には従わず、そしていかなる規律にも従わず、イエスがすべき新しい働きをした時しか新しい時代はあり得ない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

21.神自身が時代を始めるために来て、そして時代を終えるために来る。人は時代を始めたり、時代を終えたりする働きをすることはできない。もしイエスがヤーウェの働きの終局をもたらせなかったなら、イエスはただの人であり、神を表していなかったということを証明する。確かにイエスはやって来てヤーウェの働きを終え、自身の働きを始めることによってヤーウェの働きから新しい働きへと続いたので、これが新しい時代で、イエスは神自身であったことが証明される。彼らは2つのはっきり異なった段階の働きをした。一つの段階は神殿でされ、もう一つは神殿の外でされた。一つの段階は律法に従って人の人生を生きることで、もう一つは罪のためのいけにえを捧げることであった。これら二つの段階の働きは間違いなく異なっていた。これは新しい時代と古い時代の分かれ目である。そして二つの時代が存在すると言うことに間違いはない。それらの働きの場所は異なっていて、それらの働きの内容も異なっていて、それらの働きの目的も異なっていた。そのように、それらは二つの時代に区分することができる。新約聖書と旧約聖書で、すなわち、新しい時代と古い時代…。それらは二つの違った名前で呼ばれたけれども、両者の段階の働きは一つの霊によってなされ、第二の働きは第一の働きの続きであった。名前が違い、働きの内容も違っていたように、時代も違った。ヤーウェが来た時は、それはヤーウェの時代で、イエスが来た時は、それはイエスの時代だった。それだから、神がやって来る時はいつも、神は一つの名で呼ばれる。神は一つの時代を代表し、新しい道を開き、それぞれの新しい道を歩き、神は新しい名前を持ち、そしてそれは、神は常に新しく、決して古くはないということと、神の働きは常に前進していることを示すのである。歴史は常に前進しており、神の働きは常に前進している。神の六千年経営計画が終わりに達するためには、前進し続けなければならない。毎日、神は新しい働きをしなければならない。毎年、神は新しい働きをしなければならない。神は新しい道を開き、新しい時代を始め、新しく偉大な働きを始め、そして新しい名前と新しい働きをもたらさなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

22.もし、人が想像するように、イエスは終わりの時代に依然としてイエスと呼ばれ、そして依然として白い雲に乗ってイエスの姿で人の間に降りて来るなら、それはイエスの働きの反復ではないだろうか。聖霊は古い物にしがみついているだろうか。人が信じるものは全て概念であって、人が認めるものは全て文字通りの意味により、また人の想像力によっている。それは聖霊の働きの原則とは合致せず、神の意図に沿っていない。神はそうはしないだろう。神はそれほど知恵がなくも愚かでもなく、神の働きはあなたが想像するほど簡単ではない。人によって成され、想像された全てのことによると、イエスは雲に乗ってやって来て、あなたがたの間に降りて来るだろう。あなたがたはイエスを見上げ、雲に乗ったイエスは、自身がイエスであることを告げる。あなたがたはイエスの手にある釘の跡を見て、その者がイエスであることが分かるだろう。そして、イエスは再びあなたがたを救い、あなたがたの偉大なる神となるだろう。イエスはあなたがたを救い、あなたがたに新しい名前を授け、一人一人に白い石を与えるだろう。その後、あなたがたは天の国に入ることを許され、パラダイスに受け入れられるだろう。そのような信仰は人の考え方ではないか。神は人の考え方によって働くのか、あるいは、神は人の考え方とは逆に働くのか。人の考え方は全てサタンから来ているのではないか。全ての人間はサタンによって堕落させられたのではないか。もし神が人の概念によって自身の働きをしたのなら、神はサタンになるのではないだろうか。神は被造物と同じということではないだろうか。被造物はサタンによって酷く堕落させられて人はサタンの化身になったので、もし神がサタンの持つものに沿って働くなら、神はサタンと仲間ということではないだろうか。人はどのように神の働きを推測できるだろうか。そして、神は人の考え方によっては働かず、あなたが想像するようにも働かない。神自身が神は雲に乗ってやって来ると言われたのだという人たちがいる。神自身がそう言ったのは本当であるが、神の奥義は人間には分からないということをあなたは知っているだろうか。神の言葉は人間には説明できないということをあなたは知っているだろうか。あなたは聖霊によって示され、光を与えられたということは確かだろうか。聖霊はあなたに直接示したのだろうか。これらは聖霊の指示であるかそれともあなた自身の考え方だろうか。その人は言った。「これは神ご自身によって言われた」と。しかしわたしたちは神の言葉を測るために、自分たちの考え方や想いを用いることはできない。イザヤの言葉に関して、あなたは自信満々にイザヤの言葉を説明することができるか。あなたは敢えて彼の言葉を説明しようとするだろうか。あなたはイザヤの言葉を敢えて説明しようとしないのに、何故イエスの言葉を敢えて説明しようとするのか。イエスかイザヤか、どちらがより崇められているのか。答えが「イエス」であるのに、なぜあなたはイエスの語った言葉を説明するのか。神は自身の働きを前もってあなたに告げているだろうか。被造物の誰も、天の使者たちさえも、人の子でさえも、知らないのに、あなたはいかに知ることができるのか。人はあまりにも欠けているところがが多い。あなたにとって今最も重要なのは、3段階の働きを知ることである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

23.ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら3段階は神の経営の全幅を覆うもので、そして一つの霊による全ての働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初で最後であり、時代を始める者で、また時代を終わらすことができる。違った時代、違った場所における3段階の働きは確かに一つの霊によって実行される。これら3段階を切り離す者たちは全て神に反抗している。今、あなたは第1段階から今日に至るまでの全ての働きは一人の神の働きで、一人の霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より